日を送る渚
世界のどこかに、日を沈める者がいる。
だれもその顔を見たことがない。名を知る者もない。ただ、夕がくるたびに、西の果ての海のほとりで、ひとりの者が仕事をしている――そのことだけを、古い言い伝えが伝えている。
その者は、朝には眠っている。昼のあいだも眠っている。人の暮らす刻には、けっして姿を見せない。陽が中天を越え、影がゆっくりと東へ伸びはじめるころ、はじめて目をさます。そうして西へ、西へと歩いてゆく。歩いてゆくというより、一日の傾きにしたがって、坂を下るように運ばれてゆく。行きつく先は、いつでも同じ場所だった。世界のいちばん西の、海と空とが縫い目もなく溶けあう、あの渚である。
渚には、櫂が一挺、砂に立ててあった。
そのそばに、小さな舟がひとつ、舳先を海へ向けて待っている。舟は木でできているようにも、貝殻でできているようにも、あるいは凪いだ水そのものが固まってできているようにも見えた。見るたびに、材が変わる。けれどかたちだけは、いつも変わらなかった。ちょうど、大きな両手をあわせて水を掬うときの、あのくぼみのかたち。
渚には、ほかに、なにもない。家もない。木も、草も、鳥の声もない。ただ、西へひらいた海と、東へつづく砂と、そのあいだに引かれた、水ぎわの、ひとすじの線があるばかり。世界のあらゆる縁がそうであるように、そこは、うつくしくて、さびしい場所だった。うつくしさとさびしさとは、もともと、ひとつのものの、表と裏なのかもしれなかった。夕がそうであるように。
日を沈める者は、毎夕、その舟に陽を乗せる。
一
陽は、思うよりずっと軽い。
はじめてそれに触れる者は、みなおどろく。あれほど遠くから世界を灼き、大地を割り、海を煮えたたせもする光の塊が、両手に抱けばまるで、眠りかけた小鳥ほどの重さしかないのだ。ただ、あたたかい。掌のなかで脈を打つように、ゆっくりと明滅する。そのあたたかさは、抱いている者の胸へじかに伝わってきて、ときどき、手ばなすのが惜しくなる。
けれど、手ばなさなければならない。それが役目だからだ。
日を沈める者は、夕ごとに西の渚へ立ち、東からころがり落ちてくる陽を、両手で受けとめる。受けとめて、あの舟に横たえる。それから櫂をとり、渚を蹴って、海へ漕ぎ出す。空と海の境まで漕いでゆき、そこで、そっと舟を傾ける。陽は、名残を惜しむように渚のほうを一度だけ振りかえり、それから、水のなかへすべり落ちてゆく。
沈むとき、海は焦げるように朱く染まる。それから金に、金から藍に、藍から、やがて何もかもを溶かす濃い紺へと移ろってゆく。その移ろいが、世界に夜を渡すのだ。日を沈める者が舟を傾けたその瞬間から、東の空のほうへ、目に見えない大きな帳が、ゆっくりと引かれてゆく。人々は帰り支度をはじめる。鳥は塒へ、獣は巣へ、子どもは母の呼ぶ声のほうへ。すべての帰るものが、いっせいに帰りはじめる。
夜は、日を沈める者の贈りものだった。
けれど、当の本人は、それを贈りものと思ったことがない。ただの仕事だと思っていた。来る日も来る日も、飽きるほど繰りかえしてきた、同じひとつの所作。陽を受け、舟に乗せ、海へ運び、傾ける。それだけのことを、いったい何万回、いや、何億回、繰りかえしてきたのか、もう覚えていない。数えるのをやめて、ずいぶんになる。
はじめのころは、美しいと思った。
沈む陽が海を染めるあの色を、飽かず眺めた。掌のなかの陽のあたたかさを、いとおしいとさえ思った。けれど、いとおしいものを毎日毎日手ばなしつづけるということは、いつしか、心にひとつの膜を張らせる。惜しむまいと、思わぬようにしていた。惜しめば、手が鈍る。手が鈍れば、夜が遅れる。夜が遅れれば、帰るべきものたちが、帰り道を見失う。だから、心を平らに、水面のように平らにして、ただ舟を傾ける――それが、この役目を長くつづける、たったひとつのこつだった。
けれど、平らにした水面の下には、底があった。ふだんは見えぬその底に、日を沈める者は、手ばなしてきたものの数を、そっと沈めていた。何億という夕の色。何億というあたたかさ。何億という、名残を惜しむような、陽のふりむき。それらは、消えたわけではない。ただ、心の底に、沈んでいた。ときおり、風のない夕には、その底が、かすかに、明るむことがあった。すると、日を沈める者は、あわてて、水面を平らにしなおした。底を見てはならない。底を見れば、手ばなせなくなる。
日を沈める者は、いつからか、自分にはもう心などないのだと思うようになっていた。心があると認めてしまえば、この役目は、とても続けられそうになかったからだ。心とは、惜しむ器のことだ。器がなければ、なにを注いでも、こぼれてゆくだけ。こぼれてゆくにまかせて、日を沈める者は、幾億の夕を、渡ってきた。
二
その夕も、いつもと同じはずだった。
陽は西へかたむき、雲は下から順に、うすい紅を刷きはじめていた。日を沈める者は渚へ下り、櫂のそばに立って、東から陽がころがり落ちてくるのを待った。掌をひらいて、待った。
陽はやってきた。いつものように軽く、いつものようにあたたかく、掌のくぼみへ、ことりと落ちてきた。
そのときだった。
「――待って」
声がした。
日を沈める者は、その声を、はじめのうち、波の音とききまちがえた。西の渚に、声がすることはない。人はここへ来ない。来られない。ここは世界の縁であり、道はここで尽きている。それでも声は、たしかにもう一度、こう言った。
「お願い。今日だけ。今日だけ、日を沈めないで」
振りかえると、渚のはずれに、ひとりの人影が立っていた。
それは、ひどく小さな人影だった。年のころも、男か女かも、遠目にはわからなかった。ただ、その者が、片手にひとつの手袋を握りしめているのが見えた。片方だけの、小さな手袋。もう片方は、どこかへいってしまったらしかった。握りしめる指の白さだけが、暮れかけの光のなかで、やけにはっきりと見えた。
その者の影が、渚の砂のうえに、ながく、ながく、東へ伸びていた。夕の影は、いつでも、そのものの丈の何倍にも伸びる。伸びた影は、まるで、その者の心が地に落として引いた線のように、東の、来た道のほうへと、まっすぐに伸びていた。心が向いている方角へ、影は伸びる。この者の心は、東の、だれかのもとに、置いてきてあるのだと、日を沈める者は、その影を見て、思った。
日を沈める者は、口をきかなかった。もう長いこと、だれとも口をきいていない。言葉というものを、忘れかけていた。舌のうえで、言葉は、砂のように乾いていた。
「あの人が、まだ帰ってこないの」と、その人影は言った。「もうすぐ帰ると言ったのに。日が沈むまでには帰るって、約束したのに、まだ、帰ってこないの。日が沈んでしまったら――夜がきてしまったら、あの人は、道が見えなくなってしまう。帰ってこられなくなってしまう。だから、お願い。今日だけ。今日だけでいいから、日を、そこに、留めておいて」
渚に、波がひとつ、寄せてはかえした。
日を沈める者は、掌のなかの陽を見おろした。陽は、掌のくぼみで、いつものように、あたたかく脈打っていた。もう、ずいぶん傾いている。あと少しで、舟に乗せなければならない刻だった。
「それは、できない」
言葉は、しゃがれて、砂を噛むような音になった。それでも、たしかに言葉だった。
「わたしの役目は、日を沈めることだ。夜を、渡すことだ。今日だけ日を留めれば、東のすべての帰るものたちが、帰り道を失う。鳥も、獣も、子どもも。ひとりのために日を留めれば、無数のだれかが、夜を待ちわびて凍える。それは、できない」
「じゃあ、あの人は」と、人影は言った。声が、震えていた。「あの人は、どうなるの。帰ってこられなかったら。約束が、果たされなかったら」
日を沈める者は、答えなかった。答えを、持っていなかったからだ。
三
日を沈める者には、ひとつ、隠していることがあった。
渚の、櫂のたもとの、砂を少し掘ったところに、一冊の本が埋めてある。
それは、ずいぶんまえに、ある夜に手に入れた本だった。ある夜――といっても、日を沈める者にとって、夜はいつも仕事のあとの、疲れきった時刻でしかない。けれどその夜だけは、すこしちがった。西の渚から東へ、いつもとちがう道を帰ろうとして、道に迷った。迷った先の、暗い路地のいちばん奥に、見たこともない灯りがともっていた。
木の看板には、ただ「月光書房」とだけ、あった。
戸を押すと、古い紙の匂いがした。棚は、天井まで、びっしりと本で埋まっていた。奥に、店番らしい人影がひとつあったが、顔はよく見えなかった。日を沈める者は、なぜ自分がその店に入ったのか、いまでもわからない。ただ、疲れていた。あまりに長く、同じことを繰りかえしてきて、心の膜が、その夜はいつになく重かった。
棚の本は、みな、時刻の名で分かれていた。夜明け前の棚、明け方の棚、朝の棚、真昼の棚、黄昏の棚、真夜中の棚。ひとつひとつの刻に、それぞれの物語が、静かに眠っていた。日を沈める者は、そのなかを、あてもなく歩いた。おのれの属する刻が、どこにあるのかを、さがすように。夕は、昼と夜のあわいにある。どちらのものでもなく、どちらでもある、うつろいの刻。日を沈める者の仕事とは、つまり、そのあわいを、毎日、世界に手わたすことだった。
棚のひとつに、「夕(ゆう)の書」という背表紙の、うすい一冊があった。
手にとると、店番の影が、低い声で言った。「それは、貸すことしかできません。売ることはできない。いつか、返しにきてください。返す刻は、あなたが決めればいい」
日を沈める者は、その本を借りた。代わりに何を置いたのか、もう覚えていない。片方の手袋だったような気もするし、掌のなかの陽のあたたかさを、ひとかけら置いてきたような気もする。
朝になると、店はもう、どこにもなかった。
「夕の書」には、夕にまつわることが、こまごまと記されていた。夕とは何か。日の沈みとは何か。夜とは、別れとは、送るとは、何か。日を沈める者は、その本を、渚の砂に埋めて隠した。人の目に触れさせてはならない気がした。けれど、心が重い夕には、ときどき掘りかえして、ひとり、頁をめくった。
その本の、いちばん終わりに近い頁に、こう書いてあった。
――日を留めることは、できる。ただし、一度きり。留めたその代償に、留めた者は、二度と沈む陽を見ることができなくなる。
日を沈める者は、その一文を、幾度も読んだ。読んで、埋めた。そのようなことは、けっして起こらない。日を留めたいなどと願う者が、この世界の縁まで来ることは、ありえない。だから、その頁は、ただの言い伝えなのだと、そう思って、忘れることにしていた。
けれど、いま。
渚のはずれに、日を留めてくれと願う者が、たしかに立っている。
四
「あなたは」と、日を沈める者は、しゃがれた声で問うた。「どこから来た」
「東から」と、人影は答えた。「ずっと東の、丘のうえの家から。あの人と、ふたりで暮らしていた。あの人は、朝、山の向こうへ出かけていった。用事をすませたら、日が沈むまでには帰ると言って。わたしは、家で待っていた。でも、待っていても、待っていても、帰ってこない。日はどんどん傾いて、影がどんどん伸びて――怖くなって、わたしは西へ走りだした。日を追いかけて。日を沈める者に、頼んでみようと思って。そうしたら、道が、ここまで伸びていた」
「道は、ここで尽きている」と、日を沈める者は言った。「人は、ここへは来られない」
「来られたわ」と、人影は言った。「あなたに会いたいと、それだけを思って走ったら、来られた」
日を沈める者は、黙った。掌のなかで、陽が、いっそう深く傾いた。もう、ほんとうに、あとがない刻だった。あと数える息のうちに、舟に乗せなければ、夕の色そのものが崩れてしまう。
日を沈める者は、その人影のことを、ふしぎと、よく知っている気がした。
――待つ者。
そうだ。この者は、待つ者だ。世界には、いつでも、待つ者がいる。日が沈むのを、だれかの帰りを、ひとつの約束が果たされるのを、じっと待っている者が。日を沈める者は、渚から東を眺めるたびに、その無数の待つ者たちの気配を、遠く感じていた。夜を渡すというのは、つまり、その待つ者たちのもとへ、待たれていた者たちを帰してやることでもあった。夜は、帰り道の色なのだ。藍色の、帰り道。
けれど、この者の待つ者だけは、まだ、帰り道に立っていない。
「あなたの待つ人は」と、日を沈める者は言った。「いま、どこにいる」
「わからない」と、人影は言った。「山の向こう。だけど、きっと、いま、帰り道を急いでいる。日を見て、急いでいる。日が高いうちは、道が見える。だけど、沈んでしまったら――」
その者は、握りしめた片方の手袋を、胸に押しあてた。
「わたしたちは、いつも、いっしょだった」と、その者は、うつむいたまま、つづけた。「朝、いっしょに目をさまして、夜、いっしょに眠った。あの人の手が冷たい日には、わたしが手袋を編んだ。ふたつで一組の手袋を。片方をあの人に、片方をわたしに――そう編むつもりだった。でも、編みあがったのは、片方だけ。もう片方は、まだ、糸のまま。だから、あの人が帰ってきたら、残りを編もうと、そう思っていたの。あの人の手のかたちを、もう一度たしかめて、それにあわせて、編もうと。だから、帰ってきてもらわないと、困るの。この片方が、ずっと、片方のままになってしまう。片方だけの手袋なんて、なんの役にも、立たないでしょう」
日を沈める者は、その片方の手袋を、じっと見た。片方だけの手袋。それは、待つということの、かたちそのものだった。対になるはずのものを待って、それだけで、じっと、そこにある。役に立たぬまま、けれど、捨てられぬまま。
「この手袋は、あの人のものなの。片方だけ、家に残っていた。もう片方は、あの人が持っていった。ふたつそろえば、あの人が帰ってきたということ。だから、わたしはこれを持って、待っている。この片方が、もう片方に、会えるまで」
五
日を沈める者は、渚の砂を、少し掘った。
「夕の書」が、出てきた。うすく、湿って、砂にまみれた一冊。ひらくと、いちばん終わりに近い頁が、ひとりでにひらいた。
――日を留めることは、できる。ただし、一度きり。留めたその代償に、留めた者は、二度と沈む陽を見ることができなくなる。
日を沈める者は、その一文を、待つ者に読ませようとして、やめた。読ませて、どうなる。この者は、それでも留めてくれと言うだろう。待つ者とは、そういうものだ。自分の払う代償のことなど、待っているあいだは、考えもしない。
日を沈める者が、代わりに読んだのは、その頁の、さらに下に、小さく書かれたひとつづきの言葉だった。それまで、幾度読んでも目に入らなかった言葉が、その夕にかぎって、はっきりと浮かびあがっていた。
――されど、送ることと、留めることは、おなじひとつの手のなかにある。掌をひらけば送り、掌を閉じれば留める。どちらも、愛だ。ただ、留めた愛は、そこで止まる。送った愛だけが、めぐって、また戻ってくる。
日を沈める者は、本を閉じた。
長いこと、この役目をつづけてきて、はじめて、自分の掌をまじまじと見た。掌のなかで、陽が、脈打っていた。あたたかく。惜しいほどに、あたたかく。
この掌をひらけば、陽は舟へ落ち、海へ運ばれ、沈む。夜が渡る。東のすべての帰るものが、帰り道の色を得る。この者の待つ人も、そのなかにいる。藍色の帰り道を、手袋の片方を握りしめて、急いでいる。
この掌を閉じれば、陽は、ここに留まる。今日だけ、日は沈まない。この者の待つ人は、いつまでも明るい道を歩ける。けれど――東のすべての帰るものが、いつまでも夜を待ちつづける。塒に入れぬ鳥が、羽をやすめられずに墜ちる。母のもとへ帰れぬ子が、いつまでも野に立ちつくす。そして、この者の待つ人もまた、いつまでたっても、渚の色を――帰り着いたという安堵の色を、知ることがない。
留めるとは、その者を、道の途中に、永遠に立たせておくことだった。
日を沈める者は、掌のなかの陽を、もう一度、見おろした。
――もし、留めたなら。
留めれば、この夕は、永遠につづく。空は、いつまでも、この、朱と金のあわいのままだろう。うつくしい刻だ。夕の、いちばんうつくしい刻。それが、二度と暮れない。人は、いつまでも、夕のなかにいる。別れなくてよい。手ばなさなくてよい。だれも、いなくならない。
けれど、と、日を沈める者は思った。だれもいなくならないということは、だれも、帰ってこないということでもある。帰りとは、一度、送りだしたものが、めぐって、戻ってくることだ。送りださなければ、戻りもない。留めた夕のなかでは、待つ者は、永遠に、待つ者のままだ。待たれる者は、永遠に、帰らぬ者のままだ。ふたつの手袋は、永遠に、対にならない。
留めるとは、うつくしい別れの一歩手前で、時を凍らせることだった。凍った時のなかでは、涙も乾かないかわりに、抱擁も、訪れない。
日を沈める者は、待つ者のほうを、見た。
六
「あなたの待つ人は」と、日を沈める者は言った。「日が沈むのを、怖れてなどいない」
待つ者は、けげんそうに、顔をあげた。
「日が沈むから、帰るのだ」と、日を沈める者は言った。「夕の色を見て、ああ、帰ろうと思う。影が伸びるから、足を速める。空が藍に染まるから、灯りの点る窓を、恋しく思う。もし、日が永遠に沈まなければ、あなたの待つ人は、いつまでも山の向こうにいるだろう。帰る刻が、こないからだ。日が沈むから、人は帰るのだよ」
待つ者は、握りしめた手袋を、見おろした。
「夜は」と、日を沈める者はつづけた。「別れの色ではない。帰りの色だ。わたしは、長いこと、それを、日を手ばなす痛みだとばかり思ってきた。惜しいものを、毎日毎日、海へ落とす痛みだと。けれど、ちがった。夜を渡すとは、すべての帰るものを、帰してやることだった。わたしは、痛みを渡していたのではない。帰り道を、渡していたのだ」
渚に、波が、寄せてはかえした。
雲は、もう、下から順に、朱く燃えていた。空のいちばん高いところは、まだ金色に照っていたが、その端は、うっすらと藍を刷きはじめている。夕の、いちばん美しい刻だった。
「わたしは、日を沈める」と、日を沈める者は言った。「今日も、沈める。それが、あなたの待つ人を、帰すことになる。信じて、待ちなさい。夜がきても、道は消えない。夜こそが、道になる。あなたの家の窓に、灯りをともしておきなさい。その灯りが、あなたの待つ人にとって、いちばん明るい星になる」
待つ者は、しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくりと、うなずいた。
「窓に、灯りを」と、その者はつぶやいた。「そうね。わたしは、灯りをつけるのを、忘れていた。日が沈むのを、留めることばかり考えて――窓のことを、忘れていた」
その者は、胸に押しあてていた片方の手袋を、そっと、ふところにしまった。
「ありがとう」と、その者は言った。「わたしは、帰るわ。西へ走ってきたけれど、帰るのは、東だもの。あの人と、おなじ方角へ」
その者は、渚に伸びた自分の影を、ちらと見た。影は、あいかわらず、東へ、ながく伸びていた。けれど、いまは、それが、うつむいた線には見えなかった。まるで、はやく行こうと、東へ、その者を引いてゆく、一本の綱のように見えた。
「あなたは」と、去りかけて、その者は、ふりかえった。「あなたは、だれを、待っているの」
日を沈める者は、その問いに、こたえられなかった。
だれかを待つ、ということを、この者は、したことがなかった。ただ、送りつづけてきた。毎夕、いとおしいものを、海へ送りつづけてきた。送ることばかりで、待つということを、忘れていた。あるいは、はじめから、知らなかった。
「わからない」と、日を沈める者は、しゃがれた声で言った。「わたしは、送る者だ。待つ者では、ない」
「そう」と、その者は、しずかに言った。「でも、送る人がいるから、待つ人がいるのよ。あなたが日を送るから、朝、日はまた、のぼってくる。あなたは、いちばん大きな、待つ人なのかもしれない。世界じゅうの朝を、毎晩、待っている人」
そう言いのこして、その者は、東へ、帰っていった。
日を沈める者は、その言葉を、長いこと、渚に立ったまま、噛みしめていた。
――世界じゅうの朝を、毎晩、待っている人。
そんなふうに、考えたことは、なかった。手ばなすことばかりを、見ていた。手ばなしたものが、めぐって、また戻ってくる――その、戻ってくるほうを、いちどでも、待ちのぞんだことが、あっただろうか。
七
待つ者が去ったあと、日を沈める者は、櫂をとった。
掌のなかの陽は、待たされて、いっそう深く傾いていた。けれど、いつもより、あたたかい気がした。あるいは、それは、久しぶりに口をきいたせいかもしれなかった。久しぶりに、自分の役目の意味を、思いだしたせいかもしれなかった。
日を沈める者は、陽を、あの舟に横たえた。
舟は、その夕は、凪いだ水そのものが固まってできているように見えた。陽を乗せると、舟のふちが、うちがわから、ほのかに光った。日を沈める者は、渚を蹴って、舟を海へ押しだした。それから、櫂をとって、漕いだ。空と海の境まで、ゆっくりと。
境まで来ると、いつものように、舟を傾けた。
陽は、名残を惜しむように、東のほうを、一度だけ振りかえった。日を沈める者には、その一瞬、陽が、あの待つ者の待つ人の顔を、遠く照らしているのが見えた気がした。山の稜線を越えて、丘を下り、灯りのともった窓へと、急ぐひとつの影を。片方の手袋を、ふところに握りしめて、もう片方の手袋の待つ家へと、帰ってゆくひとつの影を。
陽は、水のなかへ、すべり落ちた。
海が、焦げるように朱く染まった。それから金に、金から藍に、藍から、やがて何もかもを溶かす濃い紺へと移ろっていった。日を沈める者は、その移ろいを、久しぶりに、まばたきもせずに、最後まで見とどけた。心の膜が、その夕は、なぜか、ずいぶん薄くなっていた。惜しいものを手ばなす痛みは、たしかにそこにあった。けれど、その痛みの底に、いままで気づかなかった、ひとすじの、あたたかいものが流れていた。
送るとは、惜しむことだ。惜しんで、なお、手をひらくことだ。
日を沈める者は、はじめて、そう思った。
そして、もうひとつ、思った。送ることは、待つことのはじまりでもあるのだと。手ばなしたその瞬間から、めぐって戻ってくるものを、待つ心が、生まれる。手ばなさなければ、待つこともない。待つことは、送ることの、影のようなもの――送るという行いが、地に落として引く、ながい、東向きの影なのだった。
海のうえは、しんと、静かだった。舟のふちの光は、もう、消えていた。陽を海へ送りだしたのだから、あたりまえのことだ。けれど、その暗さは、以前の暗さとは、どこか、ちがっていた。以前は、ただ、うつろな暗さだった。いまは、その暗さの向こうに、たしかに、朝が――めぐって戻ってくるものが、あるのだと、思えた。暗さは、待つ心の器だった。器が満ちるのを、待てばよいのだった。
八
海が、すっかり藍に沈んだころ。
日を沈める者は、まだ、舟のうえに座っていた。いつもなら、日を沈めればすぐに渚へもどり、次の夕まで眠るのだが、その夕は、もう少し、海のうえにいたかった。
空の、いちばん西の低いところに、まだ、うすい茜が残っていた。日の、最後の名残。その茜が、しずかに、藍へと呑まれてゆく。
そのとき。
その茜の、消えかけたところに、ぽつりと、ひとつの光がともった。
宵の一番星――かと、日を沈める者は思った。けれど、それは、いつもの星ではなかった。ふつうの星が金や白で瞬くのに、その光だけは、蒼かった。冴えざえとした、深い蒼。しかもその蒼い光は、ただ点っているだけではなく、うしろへ、ながく、ひとすじの尾を引いていた。
彗星だった。
日を沈める者は、その星の名を、知っていた。「夕の書」に、ただ一行だけ、記されていた。
――日の沈んだあと、いちばんに空へ昇るのは、ミラ彗星。世界を一度だけ、蒼く横切る星。
日を沈める者は、その蒼い星を、じっと見あげた。
ふしぎなことに、その星を見ていると、東のほうで、たったいま、ひとつの窓に灯りがともったのが、わかる気がした。丘のうえの、小さな家の窓。そこへ、山の向こうから帰ってきた者が、いままさに、戸をあける。待っていた者が、ふところから片方の手袋をとりだす。帰ってきた者が、もう片方の手袋を、ふところからとりだす。ふたつの手袋が、卓のうえで、ならぶ。対に、なる。
日を沈める者には、それが、はっきりと見えた気がした。海のうえから、ずっと東の、丘のうえの、灯りのともった窓のなかまで。
ふたつの手袋が、対になる。それは、たったそれだけの、ちいさなことだった。世界のかたすみの、ひとつの卓のうえの、ちいさな出来事。けれど、日を沈める者には、それが、この夕、自分が海へ送りだしたもののすべてが、たしかに、だれかのもとへ、帰り着いた、という、しるしのように思えた。毎夕、海へ落としてきた、あの無数の陽の、ひとつひとつが、こうして、東の、無数の窓のなかへ、帰り着いていたのだ。ただ、日を沈める者が、それを、見ようとしなかっただけだった。手ばなすほうばかりを見て、帰り着くほうを、見ようとしなかった。
蒼い彗星は、その窓の真上を、ゆっくりと、横切っていった。まるで、送りだされたものたちの、いちばん最後のひとつが、いま、天をわたって、帰路につくかのように。
九
その夜、日を沈める者は、渚へもどらなかった。
かわりに、舟を、月光書房のあった路地のほうへ、漕いだ。海のうえを、彗星の蒼い光をたよりに。ふしぎと、道はそこへ通じていた。願えば、道は通じるのだと、待つ者が言っていた。日を沈める者は、その言葉を、信じてみることにした。
路地のいちばん奥に、灯りがともっていた。
木の看板に、ただ「月光書房」とだけ、あった。
日を沈める者は、戸を押した。古い紙の匂いがした。奥に、店番の影が、あの夜とおなじように、ひとつ、あった。
日を沈める者は、ふところから、砂にまみれた「夕の書」をとりだして、卓のうえに置いた。
「返しにきた」と、言った。
店番の影は、その本を、そっと手にとった。それから、低い声で言った。
「返す刻は、あなたが決めればいいと、申しました。ずいぶん、長くお借りでしたね」
「読み終えたのだ」と、日を沈める者は言った。「いちばん終わりの頁を、今日、はじめて、ほんとうに読んだ。留めることと、送ること。おなじひとつの手のなかにあるということを」
店番の影は、うなずいたようだった。
「代わりに、これを」と、店番の影は言って、卓のうえに、小さなものを置いた。
三日月を刻んだ、藍色のマッチ箱だった。
「渚は、暗いでしょう」と、店番の影は言った。「これからは、日を沈めたあと、渚に灯りをともすといい。あなた自身のための、ひとつの灯りを。あなたも、帰るものの、ひとりなのですから」
日を沈める者は、そのマッチ箱を、じっと見た。
――あなたも、帰るものの、ひとりなのですから。
そんなことを、言われたのは、はじめてだった。長いこと、自分は、ただ夜を渡す者であって、帰る先を持たぬ者だと思っていた。渚は、仕事場であって、帰る家ではないと。けれど、店番の影の言葉をきいて、日を沈める者は、ふと、思った。渚もまた、ひとつの、帰る場所なのかもしれない、と。毎夕、そこへもどり、陽を送り、そして、夜のあいだ、そこで眠る。それは、ひとつの、帰路ではなかったか。
「ひとつ、うかがってもよいか」と、日を沈める者は言った。「この本には、日を留めることができると、書いてあった。留めれば、二度と沈む陽を見られなくなる、とも。あれは、ほんとうのことか」
「ほんとうです」と、店番の影は言った。「けれど、あなたは、留めなかった。だから、あなたは、今日もまた、沈む陽を見られる。明日も、あさっても。留めるとは、うつくしい一瞬を、永遠にすることのように見えて、そのじつ、うつくしさそのものを、失うことなのです。うつくしさは、うつろうから、うつくしい。夕が、うつくしいのは、それが、暮れてゆくからでしょう。暮れぬ夕は、もう、夕では、ありません。ただの、止まった空です」
日を沈める者は、うなずいた。掌のなかに、まだ、あの、あたたかさの名残があるような気がした。惜しんで、なお、ひらいた掌の。
「送ってよかったのだ」と、日を沈める者は、つぶやいた。
「送ってよかったのです」と、店番の影は、しずかにこたえた。「留めた愛は、そこで止まる。送った愛だけが、めぐって、また戻ってくる。あなたは、幾億の夕を、そうして、めぐらせてきた。あなたの手が、世界の朝を、つないできたのです」
日を沈める者は、藍色のマッチ箱を、ふところにしまった。
十
朝になると、店は、どこにもなかった。
日を沈める者は、渚へ帰った。海のうえを、あけがたの、うすい光をたよりに。彗星は、もう、溶けるように薄れて、空のどこにも見あたらなかった。ただ、その名残のような、ほのかな蒼が、東の空の縁に、しばらく残っていた。
渚に着くと、日を沈める者は、櫂のたもとに座って、眠った。次の夕まで。
夕がくると、また、目をさました。西へ、西へと運ばれて、渚へ下りた。掌をひらいて、東から陽がころがり落ちてくるのを、待った。
陽は、やってきた。いつものように軽く、いつものように、あたたかく。
日を沈める者は、その陽を、舟に乗せて、海へ運んだ。空と海の境で、舟を傾けた。陽は、東のほうを、一度だけ振りかえって、水のなかへ、すべり落ちた。海が、朱に、金に、藍に、紺に、染まっていった。
その夕から、日を沈める者は、心の膜を、張らなくなった。
惜しいものを手ばなす痛みを、痛みのまま、受けとることにした。惜しんで、なお、手をひらく。それが、送るということだと、知ったからだ。惜しまずに送ることは、たやすい。けれど、それはもう、送るのではなく、捨てるのだ。惜しんで、なお、ひらく手だけが、めぐって、また戻ってくるものを、迎えることができる。
そして、日を沈めたあと。
日を沈める者は、藍色のマッチ箱をとりだして、渚に、ひとつの灯りをともすようになった。
小さな、たよりない灯り。海の広さにくらべれば、蛍ひとつほどの光。けれど、その灯りは、たしかに、渚を照らした。日を沈める者の足もとを、櫂を、埋めた「夕の書」の跡を――そして、日を沈める者自身の、影を。
長いこと、影のことなど、忘れていた。日を沈める仕事は、影を消す仕事でもあったからだ。夜が来れば、すべての影は、闇に溶ける。けれど、マッチの灯りは、闇のなかに、ひとつだけ、影を、返してくれた。
日を沈める者は、その影を見て、思った。
――ああ、わたしにも、影があった。
そして、その影もまた、東へ、ながく伸びていた。あの待つ者の影とおなじように。マッチの灯りは西の海のがわに置かれていたから、影は、自然と、東の砂のうえへ、伸びるのだった。日を沈める者は、その影を、しばらく、見つめた。おのれの心が、地に落として引いた線。それが、東を向いていた。世界じゅうの帰るものたちが向かう方角へ、日を沈める者の影もまた、伸びていた。
――わたしも、東を、向いていたのか。
送る者は、いつも、西を向いていると思っていた。海へ、日を落とすのだから。けれど、灯りをともしてみれば、影は、東を向く。送ることの底には、いつも、帰りへの、待ちがあった。日を沈める者は、幾億の夕のあいだ、西を向いて日を送りながら、その影で、東を――めぐって戻ってくる朝を、待ちつづけていたのだった。ただ、そのことに、気づいていなかっただけだ。
十一
それから、幾夕もの夕が、過ぎた。
日を沈める者は、あいかわらず、毎夕、陽を受け、舟に乗せ、海へ運び、傾けた。夜を渡した。すべての帰るものを、帰り道の色のなかへ、送りだした。
ときおり、渚のはずれに、人影が立つことがあった。
みな、待つ者たちだった。だれかの帰りを、ひとつの約束を、日の沈むのを、待っている者たち。あるとき、道を失って、世界の縁まで、迷いこんできた者たち。かれらは、みな、おなじことを願った。今日だけ、日を沈めないで、と。
日を沈める者は、そのたびに、おなじことを、しずかに語った。
夜は、別れの色ではなく、帰りの色だということを。日が沈むから、人は帰るのだということを。窓に、灯りをともして、待ちなさいということを。その灯りが、待つ人にとって、いちばん明るい星になるということを。
待つ者たちは、みな、はじめは泣いた。それから、うなずいて、東へ帰っていった。西へ走ってきたけれど、帰るのは東だ、と、あの最初の者が言ったとおりに。
なかには、なかなか、うなずけぬ者もいた。日を留めてくれと、泣いてすがる者もいた。そういう者に、日を沈める者は、けっして、声を荒らげなかった。ただ、渚のはずれに、その者とならんで腰をおろし、いっしょに、夕の暮れてゆくのを、見た。朱が、金に。金が、藍に。藍が、紺に。そのうつろいを、ひとつずつ、見せた。うつろってゆくことのうつくしさを、言葉ではなく、ただ、となりで、見せた。
すると、たいていの者は、最後の色が沈むころには、しずかになった。そして、こう言うのだった。「うつくしいのね、暮れてゆくのは」と。日を沈める者は、そのたびに、うなずいた。うつくしいのだ、と。留めれば、この、うつくしさそのものが、失われるのだ、と。人は、暮れてゆくものを見て、はじめて、帰りたくなる。灯りのともる窓を、恋しく思う。暮れることは、帰ることの、はじまりなのだ、と。
日を沈める者は、かれらの後ろ姿を、いつも、渚から見送った。
見送るというのも、ひとつの、送ることだった。掌をひらいて、陽を送るのと、おなじように。惜しんで、なお、手をひらいて、行かせてやる。行かせてやれば、めぐって、いつか、また、だれかが戻ってくる。世界は、そういうふうに、まわっていた。夕がくるたびに、だれかが帰り、だれかが送り、だれかが待つ。その繰りかえしのなかに、日を沈める者は、いつのまにか、自分の場所を、見いだしていた。
ただの仕事だと、思っていた。飽きるほど繰りかえしてきた、同じひとつの所作だと。
けれど、いまは、ちがった。
それは、世界じゅうの帰路を、毎夕、ひとすじにつなぐ、大切な仕事だった。日を沈める者の傾ける舟の、そのひと傾きから、藍色の帰り道が、東へ東へと、伸びてゆくのだ。無数の窓の、無数の灯りのほうへ。無数の、対になろうとする、手袋のほうへ。
十二
そうして、また、ひとつの夕が、暮れようとしていた。
雲は、下から順に、朱く燃え、空のいちばん高いところは、まだ金色に照っていた。その端が、うっすらと、藍を刷きはじめている。夕の、いちばん美しい刻。
日を沈める者は、陽を舟に乗せ、海の、空との境まで、漕いでいった。
そこで、いつものように、舟を傾けようとして――ふと、手を止めた。
掌のなかの陽が、その夕は、いつになく、あたたかかったからだ。まるで、なにか、言いたいことがあるように。名残を惜しむように。
日を沈める者は、その陽を、しばらく、両手で抱いていた。
――惜しいか、と、心のなかで問うた。
惜しかった。いつでも、惜しかった。何億回、手ばなしても、惜しさは、少しも減らなかった。むしろ、心の膜を張らなくなってから、惜しさは、いっそう、深くなった。けれど、その惜しさは、もう、痛みだけのものではなかった。惜しさの底に、ひとすじの、あたたかいものが、流れていた。惜しむということは、いとおしむということだ。いとおしむということは、愛するということだ。日を沈める者は、毎夕、世界でいちばん愛するものを、みずからの手で、海へ送っていた。そして、送るからこそ、それは、翌朝、東からまた、めぐって戻ってくるのだった。
日を沈める者は、掌を、そっと、ひらいた。
ひらく、その一瞬。掌のくぼみと、陽とのあいだに、糸のように細い、金色の光が、いくすじも、引き伸ばされた。名残の糸。手ばなすまいとする心と、手ばなさねばならぬ手との、あいだに張られた、いちばん細い糸。日を沈める者は、その糸が切れる音を、幾億の夕のあいだ、きいてきた。きこえるはずのない、その音を。
けれど、その夕、日を沈める者には、それが、切れる音ではなく、つながる音のように、きこえた。掌からはなれた陽が、東の、無数の窓の灯りへと、つながってゆく音。手ばなすことは、切ることではなく、つなぐことだった。惜しみながらひらいた掌からだけ、その糸は、東へ、東へと、伸びてゆくのだった。
陽は、東のほうを、一度だけ振りかえって、水のなかへ、すべり落ちていった。
海が、朱に染まった。金に、藍に、紺に。世界に、藍色の帰り道が、東へ東へと、しずかに伸びてゆく。すべての帰るものが、いっせいに、帰りはじめる。鳥は塒へ、獣は巣へ、子どもは母の呼ぶ声のほうへ。そして、日を沈める者もまた、櫂をとって、自分の渚へと、帰ってゆく。
渚に着くと、日を沈める者は、藍色のマッチ箱をとりだした。
三日月の刻まれた、その箱から、一本のマッチをすった。
ちいさな炎が、ぽっと、点った。日を沈める者は、その火を、櫂のたもとの、ちいさな灯明にうつした。ちいさな、たよりない灯り。けれど、たしかに、渚を照らす、ひとつの灯り。
海の、いちばん西の低いところに、まだ、うすい茜が残っていた。日の、最後の名残。その茜が、しずかに、藍へと呑まれてゆく。
そして、その茜の、消えかけたところに、ぽつりと、蒼い光が、ともった。
ミラ彗星。日の沈んだあと、いちばんに空へ昇る星。世界を、一度だけ、蒼く横切る星。日を沈める者は、渚の灯りのかたわらで、その蒼い光を、静かに見あげた。彗星は、ながい尾を引いて、東の、無数の灯りのともる方角へと、ゆっくりと渡っていった。まるで、それもまた、ひとつの帰路であるかのように。
どこか遠くで、だれかが、子守唄を口ずさんでいた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。
日を沈める者は、渚に座って、その唄を、ききながら、思った。
日を沈めることは、別れではなかった。それは、いちばん深い、送りだしだった。惜しんで、なお、手をひらき、いとおしいものを、めぐる道へと、返してやること。留めれば、そこで、すべてが止まる。送れば、めぐって、また、朝がくる。
明日も、陽は、東からのぼるだろう。そして、夕がくれば、また、この掌のなかへ、ころがり落ちてくるだろう。いつものように軽く、いつものように、あたたかく。日を沈める者は、それを、また、送りだすだろう。惜しみながら、いとおしみながら、手をひらいて。
渚の灯りが、ゆれた。
蒼い星が、東へ、消えていった。
日を沈めるとは、世界じゅうの帰り道に、いちばん最初の灯りをともすことだった――そのことに、この者は、幾億の夕を経て、ようやく、気づいたのだった。