月光書房
申の刻 ・ 夕方 ・ 第 十一 話

暖簾の重さ

暮田 三郎
商店・別れ ・ 約26頁

一

暖簾というものは、掛けたときよりも、おろすときのほうが重い。

三代目の長吉が、そのことを本当の意味で知ったのは、七十三年生きてきて、まさにその最後の一日のことだった。朝、いつものように濃紺の暖簾を店先の竿に通して掛けたときには、なんの重みも感じなかった。指の腹が布のこわばりを覚えているだけの、慣れきった所作だった。ところが夕暮れ、これをおろすのだと思って見上げると、たった二枚の木綿が、まるで湿った雪をたっぷりと吸い込んだかのように、ずしりと重たく垂れて見えた。

「豆冨 かねまつ」と白く染め抜かれたその暖簾は、明治のなかごろから、この横丁の入口で風にゆれてきた。祖父の代、父の代、そして長吉の代。三代、百年ちかく。

けれど、今日でおしまいだった。

長吉は店の奥の、火を落としたばかりの釜の前に立って、窓から差しこむ夕陽を見ていた。西日というものは、朝の光とはまるで違う。朝の光がまだ乾いて張りつめているのにくらべて、夕方の光は、蜜を溶いたように濃くて、どこか湿り気を帯びている。その金色の帯が、白い壁に、水を張った桶に、そして長いあいだ豆を挽いてきた石臼のふちに、斜めに落ちていた。

板の間には、大豆をふやかす匂いと、にがりの匂いと、湯気にふやけた木の匂いが、幾層にも染みついていた。この匂いは、たぶん壁を剥がしても、柱を削っても、消えはしないだろう。長吉は子どものころ、この匂いのなかで眠り、この匂いのなかで叱られ、この匂いのなかで父を見送った。匂いというものは記憶よりも古い。頭で覚えているよりずっと前から、鼻が覚えている。

「おやじさん、もう水切りは済んだかい」

暖簾のむこうから、聞き慣れた声がした。振り向かなくても誰だかわかる。横丁の突きあたりで一人暮らしをしている、佐野の婆さんだった。もう九十に手が届くというのに、腰も曲がらず、毎朝この店に木綿豆腐を一丁買いに来る。

「おう、佐野さん。今日はもう店じまいだよ」

長吉は、板場から声を返した。

「知ってるよ。知ってるから来たのさ」

佐野の婆さんは、暖簾を片手でよけて、ゆっくりと敷居をまたいだ。夕陽が、婆さんの白髪を透かして、うっすらと橙色に染めた。手には、いつもの小さな鍋を提げている。もう五十年も、この鍋で豆腐を持ち帰っている。

「最後の一丁を、この鍋に入れてほしくてね」

長吉はうなずいた。何も言わずに、水槽のなかから、いちばん形のいい木綿を一丁、両手ですくいあげた。豆腐というのは、生きもののように頼りない。少し力をこめすぎれば、指のかたちに崩れてしまう。だから、掌をやわらかく開いて、水の重みごと持ちあげるのだ。この掌のかたちを、長吉は父から教わった。父は祖父から教わった。

水を切って、佐野の婆さんの鍋にそっとおさめる。豆腐は、ぷるりと身をふるわせて、鍋のなかに落ちついた。

「いくらだい」

「いらないよ、佐野さん。今日は」

婆さんは、しばらく長吉の顔を見ていた。それから、皺だらけの手で、帯のあいだから小銭入れを取りだして、いつもと同じ額の硬貨を、帳場のふちにそっと置いた。

「五十年、いつもきちんと払ってきたんだ。最後だけ払わないなんて、そんな締まりのないことはできないよ」

長吉は、何も言えなくなって、ただ頭をさげた。

佐野の婆さんは、鍋を大事そうに胸にかかえて、敷居のところで一度だけ振り返った。

「長いあいだ、ありがとうよ」

その声は、うわずってもいなかったし、湿ってもいなかった。ただ、まっすぐだった。まっすぐすぎて、かえって長吉の胸のどこかを、するどく突いた。

婆さんの丸い背中が、夕陽のなかを、横丁の奥へと遠ざかっていく。影がずいぶん長い。あの影が、婆さんの歩いてきた九十年ぶんの道のように、地面に伸びていた。

長吉は、暖簾のむこうにその姿が見えなくなるまで、じっと立って見送っていた。

二

かねまつ豆冨店は、間口が二間ほどの、ちいさな店だった。

戦争のときも、この横丁は焼けなかった。すぐ隣の町内までは火が回ったのに、なぜかこの一角だけが、奇跡のように残った。だから店の柱には、明治の傷も、大正の傷も、昭和の傷も、そのまま刻まれている。長吉は毎朝、火をおこす前に、その柱を掌でひとなでするのが習わしだった。木は生きているから、掌の温度を覚える。百年撫でられてきた柱は、その部分だけ、飴色にてらてらと光っていた。

豆腐屋の一日は、まだ夜も明けぬうちから始まる。長吉は、四十年ものあいだ、午前三時に起きてきた。冬の朝など、外はまだ星が出ていて、井戸の水は、指を切るように冷たい。その水で、前の晩からふやかしておいた大豆を、ざるにあげて、洗う。それから、石臼で挽く。挽いた呉を、大きな釜で炊く。湯気が、まだ暗い板場に、もうもうと立ちのぼる。その湯気のなかで、長吉は、木綿の布袋で呉をしぼり、豆乳をとり、にがりを打つ。にがりを打つ、あの一瞬の呼吸だけは、どうしても、言葉では伝えられぬものだった。豆乳の温度、にがりの量、かきまぜる手の速さ。ほんの少し違うだけで、豆腐は、かたくなりすぎたり、うまく固まらなかったりする。指が、鼻が、目が、そして、長年の勘だけが、その一瞬を、知っている。

夜明けとともに、最初の豆腐が、水槽に浮かぶ。まっしろな、生まれたての豆腐が、朝の光のなかで、ぷるぷると、ふるえている。それを見るのが、長吉は、四十年、いちども飽きなかった。豆腐というものは、毎朝、あたらしく生まれる。昨日の豆腐は、もう、ない。今日の豆腐が、また、生まれる。その、くり返しのなかに、長吉は、生きてきた。

長吉には、息子が一人いた。名を、慎一という。

慎一は、この店を継がなかった。継がなかったというより、長吉が継がせなかった、というほうが正しいのかもしれない。

慎一が中学を出るころ、長吉は毎晩、板場でひとり考えた。スーパーマーケットの棚には、機械で固めた、水っぽいけれど安い豆腐が並ぶようになっていた。人々は、わざわざ横丁の奥まで、鍋を提げて豆腐を買いに来なくなりつつあった。むかしは、この横丁だけで豆腐屋が三軒あった。それが二軒になり、一軒になり、いまはこのかねまつだけが、細々と残っている。

——この商売で、こいつを食わせていけるだろうか。

長吉は、答えを出せなかった。出せないまま、ある夜、慎一に言った。

「おまえは、好きな道に行け。豆腐屋なんぞ、継がなくていい」

慎一は、そのとき何も言わなかった。ただ、少しだけ、寂しそうな顔をしたようにも思う。あれから四十年ちかくが経つ。あのときの慎一の顔を、長吉はいまでもふと思い出すことがある。あれは、ほっとした顔だったのか、それとも、傷ついた顔だったのか。長吉には、いまだにわからない。

慎一は東京へ出て、大きな会社に入り、いまは家庭を持って、遠い町で暮らしている。孫が二人いる。上の孫は、もう大学生だ。

盆と正月には帰ってくる。帰ってくると、慎一はきまって板場に立って、豆をふやかす桶を覗きこんだり、石臼をなでたりする。そのたびに長吉は、なんとも言えぬ気持ちになった。この子は、この店を継ぎたかったのではないか。あのとき、おれが「継ぐな」と言ったばかりに、この子の道を、おれが決めてしまったのではないか。

けれど、それを口にすることは、ついぞなかった。父と息子というものは、いちばん大事なことほど、言えずにしまう。

夕方の四時をすこし回ったころ、横丁のあちこちから、人が集まりはじめた。

みな、この店の常連たちだった。豆腐を買いに来るというより、最後の一日を、見に来たのだった。

豆腐屋というのは、この横丁のなかでも、いちばん朝の早い商売だった。だから長吉は、横丁のだれよりも早く、この町の夜明けを見てきた。まだだれも起きていない、青い薄闇のなかで、一人、竈に火をおこす。その火の色を、長吉は、四十年ぶん、見てきた。青いマッチをすって、乾いた薪に火を移す、あの、しゅっという音と、ぽっと灯る、ちいさなあかり。それが、長吉の一日の、始まりの合図だった。

夕方になると、こんどは、横丁の一日の、終いの気配が、店先に、集まってくる。仕事を終えた人たちが、それぞれの家へ帰る前に、ふらりと、豆腐を買いに寄る。「奥さんに、湯豆腐でも、と言われてね」と、照れくさそうに笑う勤め人。「これから、うちで一杯やるんだ」と、油揚げを買っていく職人。夕暮れの、あの、金色の光のなかで、みなが、それぞれの、あたたかい家へと、帰っていく。その帰り道の、ほんのひとときを、長吉の店は、預かってきた。豆腐一丁の、そのわずかな時間を。

魚屋の勝つぁんが、前掛けのまま顔を出した。

「長さん、ほんとに今日で終いなのかい」

「ああ、終いだよ」

「さびしくなるなあ。おれんとこも、あと何年もつかわからねえけどよ」

勝つぁんは、そう言って、鼻の頭をこすった。この横丁の商店は、どこも同じような境遇だった。店主はみな年をとり、跡を継ぐ者はなく、シャッターをおろした店が、一軒、また一軒と増えていく。むかしは夕方になると、買い物客でごったがえした横丁も、いまは静かなものだった。

「長さんの油揚げはよ、ほんとにうまかった。あれで一杯やるのが、おれの楽しみだったんだ」

「そう言ってもらえると、揚げてきた甲斐があるよ」

長吉は、店の奥の揚げ鍋に目をやった。もう火は落としてあるが、菜種油の匂いだけが、まだかすかに残っている。油揚げというのは、豆腐屋の腕がいちばん出るものだった。うすく切った豆腐を、二度揚げにする。一度目は低い温度でじっくりと、二度目は高い温度で一気に。そうすると、外はぱりっと、なかはふっくらと、うすい皮のような、ふくらんだ揚げになる。この火加減ばかりは、機械には出せない。長吉の指と、鼻と、目だけが知っている加減だった。

その火加減も、今日で終いだ。

三

夕陽が、だいぶ傾いてきた。

店先の敷石が、朱色に染まっている。空を見あげると、西のほうから、茜色がゆっくりと広がりはじめていた。まだ蒼さを残した東の空と、燃えるような西の空とのあいだで、雲がうす紫に染まって、たなびいている。

長吉は、帳場に座って、古い帳面をめくっていた。祖父の代からの、掛け売りの帳面だった。もういまは使わないが、捨てられずにとってある。墨で書かれた名前のなかには、とうに亡くなった人の名も、多くまじっている。〇〇屋、××さん。長吉が子どものころ、店の前を通っていた人たちだ。みな、どこかへ帰っていった。

帳場の隅に、ちいさな青いマッチ箱が置いてあった。

それは、長吉が若いころ、一度だけ訪れた不思議な古書店でもらったものだった。月光堂、という名の店の、青いマッチ。あの店のことは、いまでもよく思い出せない。夜、豆の仕入れの帰りに道に迷って、ふらりと入った古い書店だった。朝になってもう一度探してみたら、そんな店はどこにもなかった。狐につままれたような話だが、このマッチだけが、たしかに手もとに残っている。

深い藍色の箱に、金色でちいさく三日月が刷ってある。長吉は、火をつけるとき、いつもこのマッチを使った。もう何十年も。それなのに、なかのマッチは、一本も減っていない。使えば減るはずなのに、いつのまにか、また満ちている。長吉はもう、そのことを不思議とも思わなくなっていた。世の中には、理屈のとおらぬものが、いくつかあってもいい。

その青いマッチ箱を、長吉は掌にのせて、しばらく眺めていた。

このマッチで、いままで何度、竈の火をおこしてきただろう。何度、揚げ鍋の火を、線香の火を、盆の迎え火を、灯してきただろう。父の葬式のときも、母の葬式のときも、このマッチで蝋燭に火をつけた。

火をつける、ということは、始まりの所作だ。けれど今日は、火をおこす日ではない。火を落とす日だ。

「じいちゃん」

暖簾のむこうから、明るい声がした。

長吉は顔をあげた。孫の、詩織だった。慎一の下の子で、まだ高校生だ。制服のまま、鞄を提げて立っている。夕陽が、詩織の頬を、桃色に染めていた。

「学校の帰りに寄ったの。今日で最後だって、パパから聞いて」

「おう、来たか」

長吉の顔が、自然にほころんだ。この孫娘は、なぜか幼いころから、この店が好きだった。夏休みになると、東京から一人で帰ってきて、板場のすみに座って、長吉が豆腐をつくるのを、飽きもせず眺めていた。

「じいちゃんの豆腐、もう食べられなくなるんだね」

「そうだなあ」

「さびしいな」

詩織は、そう言って、店のなかを見まわした。石臼、水槽、揚げ鍋、木の桶。ひとつひとつを、目に焼きつけるように見ていく。

「ねえ、じいちゃん。あたし、ずっと思ってたことがあるんだけど」

「なんだい」

詩織は、少しためらってから、言った。

「あたしが継いだら、だめかな。この店」

長吉は、一瞬、言葉を失った。

夕陽が、二人のあいだに、金色の帯をわたしていた。板場の湯気は、もうとっくに消えている。それなのに、長吉の目のなかが、なぜか湯気で曇ったように、にじんだ。

「詩織」

「あたし、本気だよ。大学とか行かないで、じいちゃんに教わりたい。豆腐のつくりかた」

長吉は、掌のなかの青いマッチ箱を、ぎゅっと握った。

継げ、と言いたかった。喉もとまで、その言葉が出かかった。けれど、四十年前、慎一に「継ぐな」と言ったときの、あの子の顔が、まぶたに浮かんだ。あのとき、おれは息子の道を、勝手に決めてしまった。同じことを、この孫娘にしてはならない。継げと言うのも、継ぐなと言うのも、どちらも、この子の道を、おれが決めてしまうことになる。

「詩織」

長吉は、ゆっくりと言った。

「その気持ちだけで、じいちゃんは、もう充分だよ」

「でも」

「豆腐屋ってのはな、朝が早い。おまえが思ってるより、ずっとつらい商売だ。腰も痛める。手も荒れる。それでも、ろくに儲からねえ。時代ってものが、そういうふうになっちまった」

「わかってるよ、そんなこと」

「わかってねえよ」

長吉は、めずらしく、少し強い声を出した。詩織が、びくりとした。長吉は、すぐに声をやわらげた。

「わかってねえから、そう言えるんだ。それでいいんだよ、詩織。わかってねえまま、まっすぐでいてくれ」

詩織は、しばらく黙っていた。それから、うつむいて、小さくうなずいた。その目のふちが、夕陽のせいだけではなく、赤くなっていた。

長吉は、水槽から絹ごし豆腐をひとすくい、小鉢にのせて、詩織のまえに置いた。

「食べていけ。じいちゃんの、最後の絹だ」

詩織は、箸を持って、そっと一口、口に運んだ。

そして、こらえきれなくなったように、ぽろぽろと涙をこぼしながら、それでも「おいしい」と言った。何度も、「おいしい、おいしい」と言いながら、泣いた。

長吉は、その様子を、ただやさしく見ていた。この味を、この子は一生、覚えているだろう。舌が覚えたものは、頭が忘れても、消えはしない。それでいい。継がなくていい。ただ、覚えていてくれれば、それでいい。

四

日が、いよいよ西に沈もうとしていた。

空は、いちめんの茜色に燃えていた。横丁の屋根屋根が、その火のような光を浴びて、黒いくっきりとした影絵になっている。電線に、鴉が三羽、とまっていた。やがて、一羽が、鳴きながら飛びたった。ねぐらへ帰るのだ。残った二羽も、間をおいて、あとを追った。夕方の空を、黒い点になって、山のほうへ消えていく。

長吉は、店の前に出て、その空を見あげていた。

——鳥も、帰るか。

みな、それぞれの帰る場所へ、帰っていく。人も、鳥も、光さえも。夕方というのは、そういう刻だ。一日じゅう広げていたものを、そっとたたんで、もとの場所へおさめていく刻。

詩織は、もう帰った。「また来るね、じいちゃん」と言って、夕陽のなかを、駅のほうへ走っていった。あの子の背中も、影が長かった。

佐野の婆さんの豆腐は、いまごろ、あの小さな鍋のなかで、湯にあたためられているだろうか。九十年生きた人の、静かな夕餉の湯気を、長吉はふと思った。

魚屋の勝つぁんも、ほかの常連たちも、みな帰った。「達者でな、長さん」「あんたも」と言葉を交わして、それぞれの店の、それぞれの家の灯りのなかへ。

横丁は、しんと静まっていた。

長吉は、店にもどって、最後の片づけをはじめた。

水槽の水を抜く。栓を抜くと、ごぼごぼと音をたてて、水が排水口に吸いこまれていく。百年、この水槽には、いつも水が張られていた。空になった水槽を見るのは、長吉自身、初めてのことだった。子どものころからずっと、ここには豆腐が浮かんでいた。それが、いま、からっぽになった。底の木肌が、ぬれて黒く光っている。

石臼を、乾いた布で拭く。この石臼は、祖父が若いころ、遠い山から牛車で運んできたものだと聞いた。何万回、何十万回、豆を挽いてきただろう。挽き目の溝は、すっかりすり減って、なめらかになっている。長吉は、その溝を、指でそっとなぞった。祖父の指も、父の指も、ここをなぞったにちがいない。

揚げ鍋を洗い、逆さにして立てかける。菜種油の匂いが、最後にふわりと立った。

桶を、ひとつひとつ、伏せていく。

そうして、板場が、すっかり片づいた。

からっぽになった店のなかに、長吉は一人、立っていた。夕陽は、もうほとんど沈んで、店のなかは、藍色の薄闇に沈みはじめていた。ただ、西の窓のあたりだけが、まだ茜色の名残をとどめて、ほのかに明るい。

長吉は、その光のなかに、いくつもの影を見た気がした。

石臼を挽く、若い日の祖父の背中。揚げ鍋の前で、じっと油の音を聞いている、父の横顔。豆をふやかす桶を覗きこむ、幼い慎一。板場のすみに座って、豆腐ができるのを待っている、幼い詩織。そして——豆腐を鍋に入れてもらって、丸い背中で帰っていく、佐野の婆さん。

みな、この店にいた人たちだ。この店を、通っていった人たちだ。

長吉は、掌を、そっと開いた。掌のなかには、豆腐をすくうときの、あのやわらかいかたちが、まだ残っている。この掌のかたちを、次に伝える者は、もういない。長吉の掌で、このかたちは、終わる。

けれど、と長吉は思った。掌のかたちは終わっても、味は残る。佐野の婆さんの舌に、勝つぁんの舌に、詩織の舌に。この店の味は、あの人たちが生きているかぎり、生きつづける。人は、食べたものでできている。だとすれば、おれの豆腐は、あの人たちのなかに、まだ生きているのだ。

そう思うと、不思議と、寂しさが、やわらいだ。

五

そのとき、暖簾のむこうに、人の気配がした。

「おやじさん」

聞き覚えのある、けれど、しばらく聞いていない声だった。

長吉が振り向くと、暖簾を片手でよけて、一人の男が立っていた。仕立てのいい背広を着た、五十がらみの男だった。手には、旅行鞄を提げている。

慎一だった。

「慎一……おまえ、なんで」

「今日で終いだって、詩織から連絡があってな。会社を早引けして、飛んできた」

慎一は、そう言って、店のなかを見まわした。からっぽになった水槽を見て、伏せられた桶を見て、それから、飴色に光る柱を見た。

「変わってないな。この匂いも」

慎一は、大きく息を吸いこんだ。大豆の匂い、にがりの匂い、湯気にふやけた木の匂い。四十年前、この匂いのなかで育った、その匂いを。

「変わったよ。もう、火は落としちまった」

「そうか」

慎一は、板場にあがってきた。旅行鞄を置いて、背広の上着を脱ぐと、それを桶のふちにかけた。そして、腕をまくった。

「おやじ。油揚げの油、まだ残ってるか」

長吉は、目を見ひらいた。

「なにを言ってるんだ、おまえ」

「一度でいいんだ。おやじの油揚げの揚げかたを、この目で、ちゃんと見ておきたい。おれは、一度も、教わらなかったから」

慎一の声は、静かだった。けれど、その静けさのなかに、四十年ぶんの、何かがこもっていた。

長吉は、しばらく、息子の顔を見ていた。夕闇のなかで、慎一の顔は、若いころの自分に、よく似ていた。いや、若いころの父にも、似ていた。三代の顔が、そこに重なって見えた。

「……火をおこすか」

長吉は、そう言って、帳場のほうへ歩いた。

そして、あの青いマッチ箱を、手に取った。深い藍色に、金色の三日月。何十年も、一本も減らずに、いつも満ちている、月光堂のマッチ。

「慎一。竈に、火をおこせ」

長吉は、マッチ箱を、息子に手わたした。

慎一は、それを両手で受け取った。子どものころ、この店で、火をおこすことだけは、決してさせてもらえなかった。危ないから、と。だからこれは、慎一にとって、初めての火だった。

慎一は、青い箱をすべらせて、マッチを一本取りだした。細い軸木の先を、箱の横腹にあてて、しゅっとこすった。

ぽっ、と、ちいさな火が灯った。

その火は、藍色に沈んだ店のなかで、驚くほど明るく、あたたかく見えた。オレンジ色の光が、慎一の顔を、下から照らしている。慎一は、その火を、そっと竈の焚き口に近づけた。乾いた薪に、火がうつり、ぱちぱちと音をたてて、燃えあがった。

火がおきると、店のなかに、いのちがもどったようだった。

六

長吉は、揚げ鍋に油を注いだ。

「見てろよ、慎一。油揚げってのはな、火加減が九割だ」

長吉は、四十年ぶんの父の顔になって、息子に語りかけた。

「まず、うすく切った豆腐の、水をよく切る。水が残ってると、油がはねて、うまく揚がらねえ。それから、低い温度に、そっと落とす。あわてちゃいけねえ。じっくり、じっくり、なかまで火をとおすんだ」

うすく切った豆腐が、低温の油のなかで、ゆっくりと泡をたてはじめる。しゅわしゅわと、こまかい泡が、豆腐のまわりに立って、豆腐が、少しずつ、ふくらんでいく。

「そら、ふくらんできた。ここで、あわてて温度をあげると、外だけ焦げて、なかが生になる。がまんだ。がまん」

慎一は、身を乗りだして、じっと油のなかを見つめていた。その真剣な横顔を、長吉は、目のはしで見ていた。ああ、この子は、こういう顔をするんだな、と思った。四十年、離れて暮らしていた息子の、知らなかった顔だった。

「よし、今だ。ここで、温度をあげる」

長吉は、薪をくべ足した。油の温度が、ぐっとあがる。低温でじっくりふくらませた豆腐が、こんどは高温で、一気に、ぱりっと締まっていく。表面が、きつね色に色づいて、こうばしい匂いが、店じゅうに立ちのぼった。

「揚がった」

長吉は、揚げ網で、油揚げをすくいあげた。うすい皮のようにふくらんだ、黄金色の油揚げが、四枚。油を切って、まな板の上に並べる。

まだ、じゅうじゅうと、油の音をさせている。

長吉は、その一枚を、包丁で半分に切った。切り口から、ほわりと湯気が立った。なかは、まっしろで、ふっくらとしている。理想の揚げだった。

「食え」

長吉は、その半分を、慎一にわたした。慎一は、熱いのを、ふうふう吹きながら、口に運んだ。

かむと、外はぱりっと、なかはじゅわりと、豆の甘みが、口いっぱいに広がる。

慎一は、目をつむって、ゆっくりとかんでいた。

そして、目を開けると、こう言った。

「……これだ。おれが、子どものころ食べてた、これだ」

その声が、少し、震えていた。

「おやじ。おれ、ずっと、この味を、食いたかった」

長吉は、何も言えなかった。ただ、火の粉のはじける音と、油の音だけが、店のなかに響いていた。

「おやじ」

慎一が、油揚げを食べおえて、言った。

「継がなくて、すまなかった」

長吉は、首を振った。

「あやまるのは、こっちだ。おれが、継ぐなと言った。おまえの道を、おれが決めちまった」

「いや」

慎一は、まっすぐに、父を見た。

「おれは、あのとき、おやじが『継ぐな』と言ってくれて、ほっとしたんだ。おれには、豆腐屋をやる根性が、なかった。朝も早いし、儲からねえ。おれは、逃げたんだ。おやじのせいじゃない。おれが、逃げたんだよ」

長吉は、息子の顔を見た。

「そうか」

「でもな、逃げたことを、おれは、ずっと後悔してた。盆と正月に帰ってくるたびに、この店を見て、この匂いをかいで、ああ、おれは大事なものを捨てたんだな、って思ってた」

「慎一……」

「だからな、おやじ。今日、火をおこせて、油揚げの揚げかたを見られて、おれは、よかった。ほんとに、よかった」

長吉は、しばらく黙っていた。

四十年、言えずにしまってきたことが、いま、二人のあいだで、ほどけていく。父と息子というのは、こういうものかもしれない、と長吉は思った。いちばん大事なことは、いちばん最後に、言葉になる。それでいい。遅くても、言えたのなら、それでいい。

「慎一」

「なんだ」

「詩織が、継ぎたいと言ったよ。この店を」

慎一は、驚いたように、目を見ひらいた。

「あいつが……そうか。あいつは、むかしから、ここが好きだったからな」

「おれは、継げとも、継ぐなとも、言わなかった。おまえのときの、あやまちを、くり返したくなかったからな」

慎一は、しばらく考えていた。それから、静かに言った。

「それでいい、おやじ。あいつが、自分で決めればいい。おれたちが決めることじゃない」

二人は、うなずきあった。

火は、まだ、燃えていた。けれど、それも、じきに消える。長吉は、それを、消えるにまかせた。

七

外に出ると、日は、すっかり沈んでいた。

けれど、西の空には、まだ茜色の名残が、帯のように残っていた。その茜色が、だんだんと、朱に、そして藍に、上のほうから染まっていく。夕方から夜へと、空が、静かに移ろっていく、その境目の時刻だった。

長吉と慎一は、店の前に、並んで立っていた。

そして、その空に——

長吉は、ふと、見あげて、息をのんだ。

まだ明るさを残した茜の空、その低いところに、ひとつ、青い星が、光っていた。

宵の一番星のように、明るく、けれど、ふつうの星とは、どこか違っていた。その星は、蒼く澄んだ光を放ちながら、うしろに、ほのかな尾を引いていた。淡い、うす青い、絹のような尾だった。

「おやじ、あれは……」

慎一も、その星を見つけて、声をあげた。

「彗星だ」

長吉は、つぶやいた。

いつだったか、新聞で読んだことがあった。何十年に一度、あるいは何百年に一度、夕方の空に、蒼い尾を引いて現れる星があるのだと。ミラ、という名の彗星だと。

その星が、いま、この店の暖簾の上に、かかっていた。

茜色に暮れゆく空に、蒼く澄んだ光を放って、まるで、この店の最後の一日を、見送りに来たかのように。

長吉は、その星を、しばらく見あげていた。

星というのは、遠い。あの光は、何百年も、何千年も前に、あの星を出た光だという。いま、こうして見ている光は、はるかな昔の光なのだ。だとすれば、あの光のなかには、祖父が見た空も、父が見た空も、まじっているのかもしれない。時をこえて、めぐりめぐって、また、この横丁の上に、帰ってきた光。

「きれいだな」と、慎一が言った。

「ああ」と、長吉は言った。

蒼い彗星は、茜の空に、しずかに尾を引いていた。それは、去りゆくもののようでもあり、また、いつか帰ってくるもののようでもあった。何百年か経てば、あの星は、また、この空に帰ってくる。そのとき、この横丁は、どうなっているだろう。この店の匂いを、覚えている者は、もう、いないだろう。それでも、あの星は、また、帰ってくる。

去るものがあり、帰るものがある。夕方とは、そういう刻だ。

八

「さて」

長吉は、そう言って、暖簾のほうへ、手を伸ばした。

いよいよ、暖簾をおろすときだった。

「豆冨 かねまつ」と、白く染め抜かれた、濃紺の暖簾。三代、百年、この横丁の入口で、風にゆれてきた暖簾。長吉が朝、掛けたときには、なんの重みも感じなかったそれが、いま、たまらなく重たく見えた。

長吉は、竿に手をかけた。

そして、ゆっくりと、暖簾を、竿から抜いた。

たった二枚の木綿が、掌のなかに落ちてきた。ずしり、と、重かった。それは、木綿の重さではなかった。百年ぶんの、朝と夕暮れの重さだった。そこに掛かってきた、無数の日々の重さだった。この暖簾をくぐって出入りした、無数の人たちの重さだった。祖父の重さ、父の重さ、佐野の婆さんの重さ、勝つぁんの重さ、詩織の重さ、そして——慎一の重さ。

長吉は、その暖簾を、胸に抱いた。

大豆の匂いが、にがりの匂いが、湯気の匂いが、油の匂いが、その二枚の木綿に、ぜんぶ、染みこんでいた。長吉は、その匂いを、深く、深く、吸いこんだ。

「おやじ」

慎一が、そっと、父の肩に、手を置いた。

長吉は、うなずいた。目のふちが、熱かった。けれど、涙は、こぼれなかった。かわりに、掌のなかの暖簾を、ぎゅっと、抱きしめた。

畳んだ暖簾を、長吉は、店のなかへ、持って入った。

そして、あの、飴色に光る柱のそばに、そっと、置いた。

「ここに、いろよ」

長吉は、暖簾に、そう語りかけた。

「おまえは、この店の、いちばん外側にいた。いつも、風のなかで、雨のなかで、日の光のなかで、いちばん先に、みんなを迎えてた。ご苦労だったな。もう、ゆっくり、休め」

暖簾は、柱のそばで、静かに、たたまれていた。

外は、もう、藍色の闇だった。横丁のあちこちに、家々の灯りが、ぽつ、ぽつ、とともりはじめている。夕餉のしたくの匂いが、どこからか、流れてくる。魚を焼く匂い、味噌汁の匂い。みな、それぞれの家で、それぞれの夕餉を、囲むのだろう。

長吉は、店の電気を、消した。

ぱちん、という音とともに、店のなかが、闇に沈んだ。ただ、西の窓から、藍色の空の、最後のあかりが、かすかに差しこんでいるだけだった。

その薄闇のなかで、飴色の柱だけが、ほのかに、光っているように見えた。百年、撫でられてきた、その柱だけが。

九

長吉と慎一は、店の外に出て、戸を、閉めた。

がらり、と、木戸が、音をたてて閉まった。

長吉は、鍵をかけた。この鍵をかけるのは、いつもと同じ所作だった。毎晩、店じまいのときに、かけてきた鍵だ。けれど、今日の鍵は、明日、開けることのない鍵だった。

かちり、と、鍵がかかった。

その音は、いつもより、ずっと、大きく響いたように思えた。

長吉は、閉じた木戸を、しばらく、見つめていた。それから、掌を、そっと、木戸にあてた。木は、まだ、日の光の、かすかなぬくもりを、残していた。

「ありがとうな」

長吉は、店に、そう言った。

二人は、横丁を、歩きだした。

夜の横丁は、静かだった。閉まった店のシャッターが、両側にならんでいる。かつて、にぎわった横丁。いまは、そのおもかげも、うすれている。けれど、それでいいのだ、と長吉は思った。すべてのものには、はじまりがあり、終わりがある。にぎわいにも、しずけさにも、それぞれの、時がある。

空を見あげると、あの蒼い彗星が、まだ、藍色の空に、尾を引いていた。

さっきよりも、少し、位置を変えていた。星も、めぐっている。ゆっくりと、けれど、たしかに、空を、わたっている。

長吉は、ふと、幼いころに、母がうたってくれた、子守唄を、思い出した。

——眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そんな、うたい出しの、子守唄だった。星が、海をわたる。空の海を、星が、ゆっくりと、わたっていく。眠れ、眠れ、その星が、むこう岸に着くまで。

長吉は、小さな声で、その子守唄を、口ずさんだ。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」

四十年前、まだ幼かった慎一を、この横丁で、おんぶして、あやしたことがあった。あのときも、こうして、この子守唄を、うたったのだった。母から、長吉へ。長吉から、慎一へ。うたは、こうして、代々、わたされていく。掌のかたちは、途絶えても。暖簾は、おろされても。うただけは、消えずに、わたされていく。

慎一も、その子守唄を、覚えていた。父の声にあわせて、小さく、口ずさんだ。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」

二人の声が、夜の横丁に、静かに、溶けていった。

十

横丁の出口まで来て、長吉は、一度だけ、振り返った。

闇に沈んだ、店のほうを。

もう、暖簾は、掛かっていない。灯りも、ともっていない。ただ、木戸が、静かに、閉ざされているだけだった。

けれど、長吉には、見えた気がした。

あの店の前に、いままで、この暖簾をくぐっていった、無数の人たちの姿が。祖父が、父が、母が、佐野の婆さんが、勝つぁんが、詩織が、そして、幼い日の慎一と、幼い日の自分が。みな、笑って、暖簾をくぐって、この店に入ってきて、豆腐を買って、そして、それぞれの家へ、帰っていく。

夕方の光のなかを、みな、それぞれの、帰る場所へ。

長吉は、その、まぼろしのような人たちに、心のなかで、頭をさげた。

長いあいだ、ありがとうよ、と。佐野の婆さんが、長吉にかけてくれた、あの、まっすぐな言葉を、こんどは、長吉が、みんなに、返した。

「おやじ、帰ろう」

慎一が、言った。

「今夜は、うちに泊まっていくよ。詩織も呼んで、みんなで、飯を食おう。おやじの油揚げ、まだ、残ってるだろう」

「ああ」と、長吉は言った。「残ってる。四枚のうち、二枚、まだな」

「じゃあ、それで一杯やろう。おやじの油揚げで」

長吉は、笑った。ひさしぶりに、心から、笑った気がした。

店を畳むのは、寂しい。それは、たしかに、寂しい。けれど、こうして、息子と並んで、夜道を帰る。この夜が、あるのなら。この帰り道が、あるのなら。

寂しさも、悪くない、と長吉は思った。

寂しさというのは、たいせつなものが、たしかにそこに、あったという、証なのだから。寂しくないということは、はじめから、何もなかったということだ。これだけ寂しいということは、それだけ、たいせつなものが、あったということだ。

だから、この寂しさを、長吉は、大事に、抱いていこうと思った。あの、暖簾の重みのように。

十一

二人は、駅のほうへ、歩いていった。

空には、あの蒼い彗星が、まだ、光っていた。

夕方は、もう、すっかり、夜になっていた。けれど、その夜の底に、まだ、夕方のなごりの、ほのかな明るさが、沈んでいた。夕方というのは、一日のうちで、いちばん、うつくしく、いちばん、せつない刻だ。去りゆく光と、寄せてくる闇とが、まじりあう、その境目の刻。

長吉は、掌を、開いてみた。

そこには、もう、豆腐をすくうときの、あのやわらかいかたちは、なかった。ただ、暖簾を抱いたときの、あの重みの、なごりだけが、かすかに、残っていた。

けれど、長吉は、思った。

この掌は、からっぽに、なったわけではない。この掌には、いま、息子の肩をたたいた、ぬくもりが、ある。この掌は、あす、孫娘の頭を、なでるだろう。この掌は、まだ、たくさんのものを、抱いていける。

暖簾をおろすことは、終わりではない。それは、次の掌に、何かをわたすための、ひとつの所作なのだ。掌のかたちを、味を、うたを、次の誰かに、わたしていく。そうして、いのちは、めぐっていく。あの、蒼い彗星が、何百年かかけて、また、この空に、帰ってくるように。

去るものは、帰るもの。

暖簾を、おろす手は、いつか、また、暖簾を、掛ける手に、なるのかもしれない。この店ではないかもしれない。この暖簾ではないかもしれない。けれど、どこかで、いつか、誰かの掌が、また、あたらしい暖簾を、掛けるのだろう。

長吉は、そう信じることにした。

横丁を出て、大通りに出ると、そこは、まだ、灯りにあふれていた。

車が走り、人が行きかい、店々のあかりが、まぶしく光っている。そこには、夕暮れの、あの、しずかな、もののあわれは、なかった。ただ、あわただしい、夜の街の、にぎわいだけが、あった。

けれど、長吉は、うしろを振り返って、もう一度、あの空を、見あげた。

大通りのビルのあいまに、それでも、あの蒼い彗星は、見えた。ちいさく、けれど、たしかに、蒼い尾を引いて、藍色の空に、光っていた。

——また、来いよ。

長吉は、その星に、心のなかで、語りかけた。

——何百年か、経ったら、また、この空に、帰ってこいよ。そのとき、この横丁が、どうなっているかは、わからねえ。この店の匂いを、覚えている者は、もう、いねえだろう。それでも、おまえは、帰ってこいよ。そして、そのとき、この横丁で、あたらしい暖簾を、掛けている、誰かの姿を、また、見おろしてやってくれ。

蒼い彗星は、こたえるように、ひときわ、明るく、光った、ような気がした。

「おやじ、どうした」

先を歩いていた慎一が、振り返って、言った。

「なんでもねえ」

長吉は、そう言って、また、歩きだした。

「星を、見てただけだ」

十二

その夜、長吉は、慎一の家で、久しぶりに、家族と、食卓を囲んだ。

詩織が、いた。慎一の妻が、いた。上の孫も、大学から帰ってきて、いた。そして、あの、最後の油揚げが、皿に、二枚、のっていた。

長吉は、その油揚げを、みんなに、少しずつ、分けた。

「これがな、じいちゃんの、最後の油揚げだ。よく、味わって、食えよ」

詩織が、一口食べて、また、涙ぐんだ。

「おいしい……じいちゃん、やっぱり、あたし……」

「詩織」

長吉は、やさしく、さえぎった。

「その味を、覚えておけ。それで、いいんだ。おまえが、いつか、この味を、思い出すことがあったら、そのとき、また、考えればいい。継ぐか、継がないか、じゃない。この味を、どう、生かすか、だ。豆腐屋にならなくても、この味を、心にもって、生きていくことは、できる」

詩織は、うなずいた。涙を、ぬぐって、しっかりと、うなずいた。

慎一が、酒を、注いでくれた。長吉は、それを、ゆっくりと、のんだ。あたたかい酒が、からだに、しみわたった。

窓の外には、まだ、あの蒼い彗星が、光っていた。

夜がふけて、みんなが、眠りについたあと、長吉は、一人、縁側に出て、その星を、見あげていた。

掌のなかには、あの、月光堂の、青いマッチ箱が、あった。慎一に、火をおこさせたあと、長吉が、また、しまっておいたものだった。

深い藍色に、金色の三日月。

長吉は、その箱を、そっと、開けてみた。

なかには、あいかわらず、マッチが、いっぱいに、満ちていた。一本も、減っていない。何十年、使いつづけても、いつも、満ちている、ふしぎなマッチ。

長吉は、思った。

このマッチは、火を、おこすためのものだ。何度、使っても、減らない。それは、火というものが、けっして、絶えないことを、あらわしているのかもしれない。ひとつの火が、消えても、また、あたらしい火が、灯る。ひとつの店が、閉じても、また、どこかで、あたらしい店が、暖簾を、掛ける。ひとつの世代が、去っても、また、あたらしい世代が、生まれてくる。

火は、絶えない。いのちは、絶えない。うたは、絶えない。

長吉は、そのマッチ箱を、詩織に、わたそうと思った。継ぐ、継がないに、かかわらず。この火を、次の掌に、わたすために。

そして、長吉は、もう一度、あの蒼い星を、見あげて、小さく、口ずさんだ。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」

蒼い彗星は、夜空の海を、ゆっくりと、わたっていた。むこう岸まで、まだ、遠い。けれど、いつか、かならず、わたりきる。何百年か、かかっても。そして、また、めぐって、この空に、帰ってくる。

暖簾をおろした夕暮れは、終わった。けれど、その夕暮れの光は、長吉の掌のなかに、あの暖簾の重みとして、いつまでも、残っていた。掛けるときよりも、おろすときのほうが、重い、あの、木綿の、重み。それは、寂しさの重みではなく、たいせつなものを、たしかに、抱いていた、という、その、証の重みだった。

長吉は、マッチ箱を、そっと、握った。

明日から、朝は、来る。けれど、その朝、火をおこすことは、もう、ない。それでも、長吉は、この掌に、この火を、この味を、このうたを、たしかに、抱いていく。そして、いつか、次の、あたらしい掌に、それを、わたす日まで、大事に、あたためていこうと、思った。

夜空の海を、蒼い星が、わたっていく。

眠れ、眠れ。星が、海を、わたるまで。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄

十二をつなぐ符牒について →

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