渡り初め
渡り初め
橋というものは、渡りきってしまえば、ただの通り道にすぎない。けれど半ばで足を止めれば、それはこの世でいちばん心もとない場所になる。前にも進めず、後ろにも戻れず、ただ川の上に取り残される。水は絶えず流れ、足の下でだけ、世界がわずかに揺れている。
その日、わたしが橋の半ばで立ち止まったのは、空があまりに深く色づいていたからだった。
午後五時を少し過ぎたころだったと思う。仕事の帰りだった。いや、正しくは、仕事をやめた帰りだった。三十年勤めた場所に辞表を出し、机の引き出しを片づけ、誰にともなく頭を下げて外へ出た。すると、街がまるごと藍色に沈んでいくところだった。
西の空の低いあたりには、まだ夕焼けの残りがあった。橙とも紅ともつかぬ色が、ちりめんのように雲を染めている。けれどその上には、もう夜のほうが下りてきていた。藍が、紫が、深いところではほとんど墨に近い青が、天頂から静かに滲み降りてくる。昼と夜のあいだに、はっきりした境目はなかった。ただ、色と色とが、水と水のように、音もなく混じり合っていた。
逢魔が時、と祖母がよく言っていた。
――この時分にはね、外を歩いてはいけないよ。ものの影がやわらかくなって、人か、人でないものか、見分けがつかなくなるから。悪いものに逢う刻だから、逢魔が時。
子どものころは、その言葉が怖かった。夕暮れになると、わたしは決まって家の中に駆け込んだ。障子の向こうがだんだん青くなっていくのを、畳の上から見ていた。祖母は台所で、小さな声で歌をうたっていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――そんな歌だった。
その祖母も、もういない。父も母も、いない。仕事も、たった今、手放してきた。
思えば、この歳になるまで、わたしはずいぶん多くのものを、手のなかから取りこぼしてきた。取りこぼしたというより、指をひらいて、こぼれるにまかせてきた、というほうが正しいかもしれない。しっかりと握れば、あるいは掌に残ったかもしれないものを、わたしは、握らなかった。握ることが、こわかったのだ。握ってしまえば、それを失くしたときの痛みが、素手のときの何倍にもなる。だから、はじめから、握らない。そうすれば、失っても、痛まない。そういう生き方を、いつのまにか、選びとっていた。
けれど、そうやって守ってきた掌のなかには、いまや、何も残っていなかった。痛みもかわりに、なつかしさもなかった。ただ、からっぽの、静かな掌が、ふたつ、あるばかりだった。
橋の欄干に手をかけて、わたしは川を見おろした。この街を東西に分ける、大きな川だ。橋はその上に、ゆるやかな弧を描いて架かっている。石造りの、古い橋だった。街ができたときからここにあると言われていて、欄干の石は、無数の手に撫でられて、角が丸くなっていた。
水は、藍色を映していた。空の色をそのまま溶かし込んだような、深い、静かな藍だ。ときおり、街の灯りがぽつりと落ちて、金色にちらつく。けれどそれもすぐに流れて、消える。
対岸の家並みは、もう輪郭を失いかけていた。屋根と屋根とのあいだ、窓と窓とのあいだの隙間が、青い霧のようなものに埋められて、家々はひとつづきの、大きな影のかたまりになっていた。そのどこかに、ぽつ、ぽつと、灯りがともりはじめる。人の暮らしの灯りだ。誰かが帰ってきて、誰かが待っていて、湯気の立つものが食卓に並ぶ、そういう灯りだ。
わたしには、それがない。
妻とは、十年前に別れた。子どもはなかった。ひとりの部屋に帰り、ひとりで湯を沸かし、ひとりで食べる。それが悪いとは思わない。慣れてしまえば、静かで、悪くない暮らしだ。ただ、こういう時分に橋の上に立つと、対岸の灯りが、少しだけまぶしい。
妻のことを、思い出す。名を、真澄(ますみ)といった。悪い女ではなかった。むしろ、よくできた人だった。別れの原因は、これといって、なかった。喧嘩をしたわけでも、裏切りがあったわけでもない。ただ、いつのまにか、二人のあいだの水位が、少しずつ、下がっていったのだ。話すことが、減っていった。食卓の沈黙が、長くなっていった。ある夜、真澄が、静かに言った。「あなたは、いつも、半分だけ、どこか遠いところにいる」と。「わたしは、あなたの、こちら側の半分としか、暮らしていない。残りの半分は、いつも、別のところを、見ている」と。
わたしには、その言葉に、返す言葉が、なかった。図星だったからだ。わたしはいつも、どこかしら、ここではないどこかを、見ていた。選ばなかった道の、そのゆくえを。真澄と暮らしながら、心のどこかで、選ばなかったもうひとつの暮らしを、思っていた。それは、真澄に対する、いちばん深い裏切りだったのかもしれない。手をあげての裏切りより、ずっと、罪の重い。
真澄は、出ていった。荷物は、少なかった。玄関で、彼女は、一度だけ、振り返った。何か言いかけて、けれど、言わずに、ドアを閉めた。あのとき、彼女が言いかけて、言わなかった言葉を、わたしは、いまも、知らない。わたしのほうも、引き止める言葉を、言わなかった。二人とも、言わなかった。言わない者どうしが、そうして、静かに、別れた。
こういう時分に橋の上に立つと、そんなことばかりを、思い出す。
ふと、空を見あげた。
天頂の藍が、いつのまにか、いっそう濃くなっていた。そして、その深いところに――西の残照からいちばん遠い、いちばん暗いあたりに――ひとつ、蒼い星が出ていた。
まだ宵の口だというのに、ずいぶんと早い出方だった。ふつう、星というのは、空が十分に暗くなってから、ためらいがちにひとつ、またひとつと現れるものだ。けれどその星は、まるでこの逢魔が時を待っていたかのように、藍の底からするりと昇ってきていた。
蒼い、と思った。ほかの星のように白く冴えるのではなく、青い、氷のような光だった。じっと見ていると、その青は、ほんのわずかに揺らいでいるようにも見えた。またたきではない。もっとゆっくりとした、息づかいのような揺らぎだった。
――あれは彗星だよ。
いつだったか、誰かがそう言ったのを思い出した。ずいぶん昔のことだ。まだ子どもだったころ、この街の年寄りが、夕暮れの空を指さして言った。ミラ彗星、というのだと。長い年月をかけて、この空にひとめぐりしてくる。逢魔が時にいちばんに昇るときは、それが徴なのだと。何の徴かは、教えてくれなかった。ただ、この星が出る宵には、いつもとちがうことが起こる、とだけ。
わたしはその蒼い光を、しばらくのあいだ見つめていた。星は、藍の空にひとつだけ、まるでそこに穴があいたように、静かに光っていた。見ていると、胸の奥のほうが、しんと冷えて、けれど、その冷たさは、なぜか、心地よかった。あたたかいものより、その冷たさのほうが、いまのわたしには、しっくりと馴染んだ。
――いつもとちがうことが、起こる。
年寄りの言葉が、ふいに、耳もとで蘇った。この星が出る宵には、いつもとちがうことが起こる、と。わたしは、あたりを見まわした。橋の上は、静かだった。川は、いつものように、流れていた。街の灯りは、いつものように、ともりはじめていた。何も、いつもとちがっては、いなかった。ただ、空気だけが、どこか、いつもより濃いように、感じられた。水のなかにいるような。息をすると、その藍色の空気が、肺の奥まで、静かに満ちてくるような。
そのとき。
橋の向こうから、ひとつの人影が歩いてくるのに気づいた。
はじめは、ただの通行人だと思った。逢魔が時とはいえ、まったく人の通らない橋ではない。仕事帰りの者、買い物帰りの者、この時分にも、橋を渡る人はいる。
けれど、その人影には、どこか妙なところがあった。
歩き方が、ゆっくりしていた。急ぐでもなく、散歩でもなく、まるで――こちらへ来ることそのものが目的であるかのような、そういう歩き方だった。足音が、聞こえなかった。石橋の上を歩けば、ふつう、かつ、かつと硬い音がするものだ。けれどその人影は、音もなく、藍色の空気のなかを、こちらへ近づいてくる。
橋の上には、もう、わたしとその人影のほかに、誰もいなかった。
距離が縮まるにつれて、相手の姿が、少しずつはっきりしてきた。男だった。中年の、わたしと同じくらいの年恰好の男。背丈も、わたしと同じくらい。少し猫背なところまで、似ている。着ているものは――薄いコートだった。わたしのコートに、よく似た色の。
胸のあたりが、ざわりとした。
似すぎている、と思った。
さらに近づく。相手の顔が、藍色の薄明のなかに、浮かびあがってくる。
わたしは、足を止めた。というより、足が動かなくなった。
それは、わたしの顔だった。
同じ額のかたち。同じ目もと。左の眉のはしにある、子どものころ転んでこしらえた古い傷まで、同じだった。鏡を見ているのだと言われれば、そう信じただろう。けれど、鏡ではなかった。鏡のなかの像は、こちらが右手を上げれば左手を上げる。けれどそのもうひとりのわたしは、鏡像ではなかった。わたしが右足を前に出しかけたとき、彼も、同じ右足を前に出した。向かい合う二人が、まったく同じ側の足を出す。それは鏡ではありえないことだった。
わたしたちは、橋の半ばで、向かい合った。
彼はわたしを見ていた。わたしも彼を見ていた。藍色の光のなかで、二つの同じ顔が、静かに見つめ合っていた。
不思議なことに、怖くはなかった。祖母が言った「悪いもの」というのとは、どこかちがっていた。彼の目には、悪意も敵意もなかった。ただ――なんと言えばいいだろう――深い、静かな、なつかしさのようなものが、そこにあった。まるで、長いあいだ会っていなかった、けれど決して忘れたことのない誰かに、ようやく再会したかのような。
「――こんばんは」
先に口を開いたのは、彼のほうだった。
その声も、わたしの声だった。録音した自分の声を聞かされたときのような、あの、耳の内側と外側からずれて聞こえる感じ。彼の声は、まさにそれだった。
「……こんばんは」
わたしも、答えた。ほかに、何を言えばいいのか、わからなかった。
彼は、かすかに微笑んだ。その微笑み方も、わたしのものだった。わたしが鏡の前で、たまに――そう、たまにしか――浮かべる、あの控えめな微笑み。
「驚かせてしまったね」と、彼は言った。「けれど、こういうことは、たまに起こる。この刻には」
「こういう、こと」
「逢魔が時さ」と、彼は空を見あげた。つられて、わたしも見あげた。蒼い彗星が、さっきよりも少し高いところで、青く光っていた。「昼と夜のあいだ。こちら側とあちら側の、境目が薄くなる刻だ。あの星が昇る宵には、とりわけ薄くなる。そういうときにだけ、渡れる橋があるんだよ。ふだんは、渡れない橋がね」
わたしには、彼が何を言っているのか、半分もわからなかった。けれど、不思議と、頭の芯のほうでは、わかっている気もした。境目、という言葉が、胸のどこかに、すとんと落ちた。
「あなたは」と、わたしは訊いた。「わたし、なのですか」
「そうとも言えるし」と彼は言った。「そうでないとも言える」
彼は欄干に手をかけて、川を見おろした。その手つきまで、わたしと同じだった。左手を先に、それから右手を添える。わたしがいつもそうするように。
「わたしは、きみだ」と、彼は静かに言った。「ただし、きみが選ばなかったほうの、きみだ」
川面の藍が、ゆっくりと流れていた。
「たとえば」と彼はつづけた。「人は、生きているあいだに、いくつもの分かれ道を通る。右へ行くか、左へ行くか。留まるか、去るか。言うか、言わないか。そのたびに、道は二つに分かれる。きみはその一方を選び、歩いていく。すると、選ばれなかったもう一方の道は――どうなると思う?」
「消える、のでしょう」と、わたしは答えた。「選ばなかったのだから、なかったことになる」
「いや」と彼は首を振った。「消えはしない。ただ、見えなくなるだけだ。選ばれなかった道も、ちゃんとそこにある。そして、その道の上を、もうひとりのきみが、歩いていく。きみが右へ行けば、もうひとりのきみは左へ行く。きみが留まれば、もうひとりのきみは去る。そうやって、いくつもの、きみが生まれる。無数のきみが、それぞれの道を、それぞれに歩いていく」
彼は、わたしのほうを向いた。
「わたしは、そのうちのひとりだ。あるひとつの分かれ道で、きみとちがう方を選んだ、きみだ」
わたしは、彼の顔を見つめた。同じ顔なのに、よく見ると、どこか、ちがっていた。
わたしの顔よりも、彼の顔のほうが、少しやわらかかった。目もとのしわの寄り方が。口もとの力の抜け方が。同じ材料でできているのに、ちがう風雨にさらされてきた、そういう顔だった。
「どの、分かれ道ですか」と、わたしは訊いた。
彼は、しばらく黙っていた。川の流れる音だけが、聞こえていた。
「憶えているかい」と、やがて彼は言った。「二十六の年の、春のことを」
胸の奥が、ちくりとした。
「あの春、きみは――わたしたちは――ひとつの選択をした。ある人に、あることを、言うか言わないか。橋の上で、その人を待っていた。ちょうど、こんな時分だった。逢魔が時の、橋の上だ」
わたしは、憶えていた。忘れられるはずが、なかった。
二十六の春。わたしには、想い人がいた。
同じ職場の女(ひと)だった。名を、宵子(よいこ)といった。夕暮れのように静かで、けれど、その静けさの奥に、いつも小さな灯りがともっているような、そういう人だった。わたしは彼女に惹かれていた。彼女も、わたしを憎からず思ってくれている――そんな気がしていた。けれど、確かめる勇気が、なかった。
彼女は、遠い街へ転勤することになっていた。発つ前の日、わたしは彼女を、この橋に呼び出した。夕方の、ちょうどこんな時分だった。伝えたい言葉が、胸のなかにあった。行かないでほしい、と。あるいは、いっしょに来てほしい、と。その、どちらでもいい、とにかく、この胸のうちを――。
彼女は、来た。橋の半ばで、わたしを待っていた。藍色の空を背にして、彼女は立っていた。片手に、白い手袋をはめていた。もう片方の手は、素手だった。片方だけの手袋。転勤の荷造りのさなかに、片方をどこかへ紛れさせてしまったのだと、あとで笑って言っていた。その、片方だけの白い手袋が、暮れなずむ光のなかで、やけに白く、やけにはかなく、見えたのを憶えている。
その手袋のことを、わたしは、いまでも、ときおり、夢に見る。夢のなかで、その白い片方は、いつも、風に揺れている。彼女がそれをはめた手を、そっと、こちらへ差しのべる。わたしは、その手を、取ろうとする。けれど、いつも、指先が、触れるか触れないかのところで、目が覚める。掌のなかには、何も、残っていない。ただ、白い手袋の、あの、木綿のにおいだけが、鼻の奥に、かすかに、残っている。それも、目覚めとともに、消えていく。
彼女は、うつくしい人ではなかったかもしれない。少なくとも、人が振り返るような、そういううつくしさではなかった。けれど、彼女がそこに立っているだけで、まわりの空気が、少し、澄むような気がした。声も、静かだった。よく笑ったが、大きな声では、笑わなかった。何かをこらえるように、口もとに手を当てて、肩をふるわせるように、笑った。そういう、こまやかな人だった。わたしは、そのこまやかさに、惹かれていた。彼女のそばにいると、自分の、がさつな、大ざっぱなところが、少しずつ、ととのっていくような気がした。
けれど、わたしは、それを、言えなかった。
わたしは、口を開こうとした。
けれど、言えなかった。
彼女の目のなかに、遠い街への希望のようなものを、見てしまったからだ。新しい暮らし、新しい仕事、新しい景色。彼女はそれを、楽しみにしていた。わたしの言葉は、その希望に、重石をつけることになる。わたしは、それが怖かった。彼女を引き止めて、いつか彼女に恨まれることが。あるいは――もっと正直に言えば――断られて、この静かな関係すら、壊してしまうことが。
だから、わたしは、言わなかった。
「元気で」とだけ、言った。「向こうでも、体に気をつけて」
彼女は、少し、待つような顔をした。それから、微笑んで、「あなたも」と言った。素手のほうの手を、小さく振って。片方だけ手袋をはめた手は、コートのポケットに入れたまま。
そうして彼女は、橋を渡っていった。振り返らずに。藍色の向こうへ。
わたしは、彼女の後ろ姿が、対岸の影に溶けて見えなくなるまで、橋の上に立っていた。あのときも、空には、蒼い星がひとつ、出ていた気がする。
それきり、二度と、会わなかった。
「わたしは」と、もうひとりのわたしは言った。「あのとき、言ったんだ」
わたしは、息を止めた。
「橋の上で。同じ、逢魔が時に。同じ、片方だけの手袋をはめた彼女に。わたしは――言った。行かないでくれ、と。いや、それはちがうな。行くなら、わたしも連れていってくれ、と。そう、言ったんだ」
川の水が、藍色を、絶えず運んでいた。
「彼女は、驚いた顔をした。それから、泣いた。そして――笑った。うれしそうに、泣きながら、笑った。『待ってた』と、彼女は言った。『あなたがそう言ってくれるのを、ずっと待ってた』と」
わたしの喉の奥が、熱くなった。
「わたしたちは、いっしょに、遠い街へ行った」と、彼は静かにつづけた。「向こうで所帯をもった。慣れない土地で、ずいぶん苦労もした。喧嘩もした。貧しい時期もあった。彼女が病んで、幾晩も眠れずに看病した年もあった。それでも――」
彼は、言葉を切った。そして、微笑んだ。今度は、わたしにはできない微笑みだった。長い年月をかけて、誰かとともに刻んできた者だけができる、そういう微笑みだった。
「それでも、わたしは、しあわせだった」
彼は、遠くを見る目をした。その目のなかに、わたしには見えない、幾十年もの歳月が、映っているようだった。
「向こうの街には」と、彼は、静かにつづけた。「川があってね。この街の川より、ずっと小さな、細い川だった。その川にも、橋が架かっていた。木の、古い橋だ。わたしたちは、よく、その橋を、二人で渡った。買い物の帰りに。散歩に。喧嘩をして、気まずいまま、無言で。年をとってからは、彼女の手をひいて、ゆっくりと。橋の半ばで、よく、立ちどまった。川を見おろして、他愛のないことを、話した。今日の夕餉のこと。近所のうわさ。若いころの、思い出。橋の半ばというのは、不思議な場所だね。前にも進めず、後ろにも戻れない、その心もとない場所でこそ、人は、いちばん、正直になれる」
彼は、微笑んだ。
「彼女はね、その橋の上で、よく、あの歌をうたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――知っているだろう。わたしたちの、祖母の歌だ。子どもはできなかったから、寝かしつける相手は、いなかった。それなのに、彼女は、うたった。誰にともなく。ただ、うたいたいから、うたう、というふうに。わたしは、それを、隣で、聞いていた。あの歌を聞くたびに、わたしは、自分が、たしかに、しあわせなのだと、思ったよ」
わたしは、その光景を、まぶたの裏に、思い描いた。細い川。木の橋。橋の半ばで、寄り添って立つ、二人の老人。うたわれる子守唄。そのどれもが、わたしのものではなかった。わたしが、選ばなかった、もうひとつの人生の、風景だった。
「うらやましい、か」と、彼は、こちらを見て、言った。まるで、わたしの心を、読んだように。
わたしは、うなずくことも、できなかった。
わたしは、何も言えなかった。
橋の下を、川が流れていた。空は、いよいよ暗さを増していた。西の残照は、もう、ほとんど消えかけていた。藍が、紫が、天のすみずみまでを支配し、あの蒼い彗星だけが、その底で青く、青く、光っていた。
「見せてあげよう」と、彼は言った。
彼が、片手を、そっと持ちあげた。
その手には、手袋がはめられていた。
白い、木綿の手袋だった。片方だけの。もう片方の手は、素手だった。
わたしは、それを見つめた。見覚えのある手袋だった。見覚えがあるどころではない。それは――あの日、宵子がはめていた、あの、片方だけの白い手袋の、対のもうひとつのほうだった。彼女が紛れさせたと言っていた、失くしたはずの、その片方。
「これは」と、彼は言った。「彼女の手袋の、もう片方だ。あの春、彼女は片方を失くしたと言っていただろう。じつは、失くしたんじゃない。彼女は、片方をわたしに――いや、あちらの世界のわたしに、渡したんだ。旅立ちのしるしに。二人でひとつ、というしるしに。だから、こちらとあちらに、片方ずつある。きみの世界には、彼女のはめていた片方が、どこかにあるはずだ。そして、わたしのこの手には、その対の、もう片方がある」
彼は、白い手袋をはめた手を、藍色の光にかざした。手袋は、その光のなかで、やはり白く、けれど、あの日のようにはかなくは見えなかった。長く使い込まれて、やわらかく、あたたかそうに見えた。誰かの手が、そこに幾度も通ってきたように。
「わたしは、これを、ずっと持っている」と、彼は言った。「四十年、持っている。もう、彼女はいないけれど――去年、逝ったよ、静かに、わたしの手を握って――それでも、これがある。片方だけの手袋が。彼女とわたしが、たしかに、ひとつの道を、いっしょに歩いたという、しるしが」
わたしは、自分の両手を見た。
素手だった。何もはめていない、ただの、老いはじめた両手だった。この手は、誰の手も、長くは握らなかった。妻の手すら、いつのまにか、離れていった。この手には、しるしが、なかった。
「なぜ」と、わたしは、ようやく、声をしぼり出した。「なぜ、それを、わたしに見せるのですか」
責めているのではなかった。ただ、痛かった。胸が、痛かった。選ばなかった道を、こんなにも鮮やかに見せられて、その道の上に立っているもうひとりの自分が、こんなにも安らかな顔をしていて――それが、痛かった。
彼は、手袋をはめた手を、そっとおろした。
「責めるためじゃない」と、彼はやさしく言った。「うらやませるためでも、後悔させるためでもない。逢魔が時のすれちがいは、そういうものじゃないんだ」
「では、なんのために」
彼は、しばらく、川を見ていた。それから、わたしのほうを向いた。
「教えるためだよ」と、彼は言った。「きみが、まだ、橋の上にいる、ということを」
わたしには、その言葉の意味が、すぐには、わからなかった。
「わたしは」と彼はつづけた。「もう、渡りきってしまった。わたしの橋は、とうに渡り終えた。良いことも、悪いことも、しあわせも、悲しみも、ぜんぶ通り過ぎて、いまは、こうして、渡り終えた側から、来し方を眺めているだけだ。わたしにできることは、もう、ない。選び直すことも、やり直すことも、できない。橋は、一度きりしか、渡れないからね」
彼は、まっすぐに、わたしを見た。
「けれど、きみは、ちがう。きみは、まだ、橋の半ばにいる。まだ、渡りきっていない。まだ――選べる」
風が、川面を渡ってきた。藍色の風だった。冷たくはなかった。むしろ、どこか、なつかしいにおいがした。子どものころ、夕暮れの縁側で嗅いだような、あのにおい。祖母の台所の、湯気のにおい。
「きみは、今日、仕事をやめてきただろう」と、彼は言った。わたしは、驚いた。「三十年勤めた場所を、手放してきた。心細いだろうね。この先どうなるのか、わからないだろうね。もう遅い、もう終わった、と、思っているだろう。この橋の上で、対岸の灯りを見あげながら、あそこには自分の居場所はない、と、思っているだろう」
わたしは、うなずくことも、できなかった。
「けれど」と、彼は言った。「終わってなんか、いないよ」
わたしは、彼の顔を見た。同じ顔なのに、その言葉を、わたしは、自分では、決して言えなかっただろう、と思った。終わっていない、という言葉を。わたしはいつも、心のどこかで、もう終わった、もう遅い、と、つぶやいてきた。何かをはじめる前から、それが終わったあとのことを、考えてきた。だから、いつも、はじめられなかった。彼だけが――選ばなかったほうのわたしだけが――終わっていない、と、言えるのだった。
「どうして」と、わたしは訊いた。「どうして、あなたは、そう言えるのですか。あなたも、たくさんのものを、失くしたはずだ。宵子さんを、去年、亡くしたと、言った。子どもも、できなかったと。苦労もした、貧しい時期もあった、と。それでも、あなたは、終わっていない、と言う。わたしには、それが、わからない」
彼は、しばらく、黙っていた。それから、静かに言った。
「失くしたものの数なら」と、彼は言った。「たぶん、わたしのほうが、多いよ。きみは、握らなかったから、失くさなかった。わたしは、握ったから、失くした。宵子を握って、その手が、去年、わたしの手のなかで、冷たくなっていくのを、感じた。あんな痛みは、握らなかったきみには、わからないだろう。握れば、いつか、必ず、失う。それが、握るということの、代償だ」
彼は、川を見おろした。
「けれど、わたしは、後悔していない。ひとつも。なぜなら、失くしたものは、たしかに、一度は、わたしの掌のなかに、あったからだ。あたたかかった。重かった。生きていた。その、たしかにあった、という手触りだけは、失くしても、消えない。それは、掌のかたちになって、残る。きみの掌は、からっぽだ。けれど、わたしの掌には、握ったものの、かたちが、残っている。それが、しるしだ。生きた、というしるしだ。だから、わたしは、終わっていない、と言えるんだよ。しるしを、抱えて、まだ、歩いていけるからね」
「あの春の橋は」と、彼は言った。「もう、渡り終えた。あそこで言わなかった言葉は、もう、取り返せない。それは、ほんとうだ。宵子は、こちらの世界のきみのところへは、二度と戻ってこない。それは、変えられない」
彼の声は、静かだった。責めるでも、慰めるでもなく、ただ、事実を、静かに置いていくような声だった。
「けれど、橋は、あの一本だけじゃない」
彼は、足もとの石橋を、指さした。
「いま、きみが立っている、この橋だ。きみは、今日も、橋の上にいる。仕事という橋を、ひとつ、渡り終えた。そして、次の橋の、たもとに立っている。この先には、まだ、いくつもの分かれ道がある。まだ、言える言葉がある。まだ、握れる手がある。まだ、失くさずにすむ片方の手袋が、きっと、どこかにある」
わたしは、蒼い彗星を、見あげた。
星は、いよいよ高く、いよいよ青く、藍の空に光っていた。逢魔が時の徴。何の徴かは、あの年寄りは、教えてくれなかった。けれど、いまなら、少し、わかる気がした。それは、境目のしるしだった。渡り終えた側と、これから渡る側の。過ぎた道と、これからの道の。その境目に、この蒼い星は、ひとつだけ、静かに昇る。
「わたしは」と、彼は言った。「きみに、あの日の言葉を思い出させるために来たんじゃない。あの日の言葉を、この先、二度と、言い残さないように――そう伝えるために、来たんだ」
彼は、白い手袋をはめた手を、もう一度、持ちあげた。
そして、その手袋を、ゆっくりと、はずしはじめた。
「これを」と、彼は言った。「きみに、渡そうと思ったんだ。この、片方の手袋を。あちらの世界のしるしを、きみに」
けれど、その手が、途中で、止まった。
彼は、手袋を、はずさなかった。
「――いや」と、彼は、小さく、首を振った。「やめておこう。これは、わたしのものだ。わたしと、わたしの宵子の。きみには、きみの手袋がある。きみが、これから、誰かと分け合う、きみだけの片方が、きっと、ある。だから、これは、渡さない。渡すべきじゃない」
彼は、手袋を、はめ直した。そして、その手で、自分の胸を、そっと押さえた。しるしを、しまいこむように。
「ひとつだけ」と、彼は言った。「憶えておいてほしい」
わたしは、彼の目を、見た。
「言わなかった言葉は、消えはしない。ただ、渡れなかった橋の向こうに、残るだけだ。そして、そこには、もうひとりのきみが、その言葉を言ったきみが、ちゃんと、生きている。だから――きみが、こちらの世界で、次の言葉を、言い残さずにすんだなら」
彼は、微笑んだ。
「そのとき、あちらのわたしも、少し、救われるんだ。橋は、つながっているからね。すべての橋は、この逢魔が時に、一本の橋に、なるんだよ」
そのときだった。
対岸のほうから、歌が、聞こえてきた。
かすかな、女の声だった。子守唄だった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
わたしは、はっとした。祖母の歌っていた、あの歌だった。藍色の空気を渡って、その歌は、細く、けれど、たしかに、こちらへ流れてきた。どこかの家の、開いた窓から。誰かが、子どもを寝かしつけているのだろう。逢魔が時の、静かな時分に。
眠れ、眠れ、月が山をこえるまで――
歌を聞きながら、わたしは、ふいに、泣きそうになった。理由は、わからなかった。ただ、その歌が、あまりに、なつかしくて。あまりに、やさしくて。
歌のほうへ、目をやった。ほんの、一瞬だった。
いや、目をやる前に、わたしは、もうひとつ、訊きたいことがあった。訊かなければ、ならないことが。
「あなたは」と、わたしは、歌を聞きながら、言った。「幸せだったと言った。けれど――もし。もし、あの春、あなたも、わたしのように、言わなかったとしたら。宵子さんに、何も言わずに、見送っていたとしたら。あなたは、いま、どうなっていたと、思いますか」
彼は、微笑んだ。けれど、その微笑みには、はじめて、かすかな、影が差した。
「たぶん」と、彼は、静かに言った。「きみに、なっていただろうね」
わたしは、息を、のんだ。
「わたしときみは」と、彼はつづけた。「同じ材料でできている。ちがうのは、あの春の、たった一言だけだ。言ったか、言わなかったか。それだけの分かれ道で、わたしは、こちらへ来て、きみは、そちらへ行った。だから、責められないんだよ。わたしは、きみを。きみのなかには、言わなかったわたしが、いる。わたしのなかには、言ったきみが、いる。わたしたちは、たがいの、影なんだ。片方だけでは、けっして、完(まっと)うできない。光があれば、影がある。言えたわたしがいれば、言えなかったきみが、いる。どちらも、ほんとうの、わたしたちなんだ」
歌が、ひときわ、澄んで、聞こえた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
「行きなさい」と、彼は言った。「橋を、渡りなさい。灯りのほうへ。そして――こんどは、言いなさい。言い残さずに。それが、きみにできる、いちばんの、供養だ。わたしへの。そして、宵子への。橋の向こうで、待っている、すべての人への」
歌のほうへ、目をやった。ほんの、一瞬だった。
視線を、戻したとき。
橋の半ばには、もう、誰もいなかった。
もうひとりのわたしは、消えていた。ただ、彼の立っていたあたりの空気だけが、まだ、かすかに、ゆらいでいた。水面に石を落としたあとの、その波紋が、消えていくときのように。
わたしは、しばらく、そこに立ちつくしていた。
風が、川面を渡っていく。藍色の風。空は、もう、すっかり暮れていた。西の残照は、跡形もなく消えて、天は、深い、静かな夜の藍に、満たされていた。そして、その底には、あの蒼い彗星が、まだ、青く、光っていた。ただ、いくらか、遠ざかったように見えた。もう、逢魔が時は、終わりかけていた。
わたしは、自分の両手を、見おろした。
素手のままだった。何も、はめていない。けれど――さっきまでとは、少し、ちがう手のように、思えた。
橋を、渡ろう、と思った。
対岸へ。灯りのともる、あちら側へ。あそこには自分の居場所はない、と、さっきは思った。けれど、いまは、そうは思わなかった。灯りは、待っているのだ。誰かが帰ってくるのを。まだ、ともされていない灯りも、きっと、ある。わたしがともす番の、灯りが。
わたしは、歩きだした。
石橋の上を、一歩、一歩。かつ、かつと、硬い足音がした。今度は、たしかに、聞こえた。生きている者の、足音だった。
橋の半ばを過ぎ、後半にさしかかったとき、ふと、足もとに、白いものが、目に入った。
立ち止まって、拾いあげた。
それは、手袋だった。
片方だけの、白い、木綿の手袋。長く使い込まれて、やわらかく、あたたかそうな。
わたしは、それを、両手で、そっと包んだ。
いつから、そこに落ちていたのか、わからなかった。もうひとりのわたしが、消えぎわに、置いていったのか。それとも――もっとずっと昔から、この橋のどこかに、ずっと、あったのか。あの春の日から、ずっと。
わからなかった。けれど、それは、たしかに、そこにあった。片方だけの、手袋が。もう片方は――どこかに、あるのだろう。この世界の、どこかに。まだ、見ぬ、誰かの手の、上に。
わたしは、その手袋を、コートの、胸の内ポケットに、しまった。しるしを、しまうように。
そして、また、歩きだした。
橋を渡りきると、そこは、もう、夜だった。
家々の窓に、灯りがともっていた。どこかで、まだ、あの子守唄が、かすかに、聞こえていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。路地の角には、小さな店の灯りが、ひとつ、ぽつりと、ともっていた。
古い、古書店だった。
そんな店が、この道にあったかどうか、わたしは、思い出せなかった。何十年もこの街に住んでいるのに、こんな店を、見た憶えがなかった。けれど、店は、たしかに、そこにあった。ガラス戸の向こうに、うずたかく積まれた本の背が見えて、店の奥には、あたたかな、蜜のような色の灯りが、ともっていた。
軒に、小さな木の看板がかかっていた。墨で、こう書かれていた。
――月光書房。
わたしは、ガラス戸に、手をかけた。
なぜ、そうしたのか、わからない。ただ、その灯りに、引き寄せられた。逢魔が時の橋を渡ってきた者を、待っていてくれる灯りのように、思えたのだ。
戸は、かすかな鈴の音とともに、開いた。
店のなかは、しんと静まりかえっていた。
古い紙と、墨と、それから、かすかに、線香のようなにおいがした。本が、天井まで、積みあげられていた。壁も、床も、本、本、本。そのあいだを縫うように、細い通路が、奥へと、つづいていた。
背表紙の題を、ためつすがめつ、眺めながら、わたしは、奥へと進んだ。妙な本ばかりだった。『渡られなかった橋の記録』。『言われなかった言葉についての考察』。『失くした片方の目録・上巻』。どれも、聞いたことのない書名だった。著者の名も、知らぬものばかりだった。手にとってみようとして、けれど、なぜか、指が、ためらった。その本を開けば、そこに、自分の名が、書かれている気がしたのだ。わたしが、言わなかった言葉のことが。わたしが、渡らなかった橋のことが。わたしが、失くした、片方のことが。
一冊だけ、抜きとってみた。表紙には、何も書かれていなかった。開くと――白紙だった。一枚も、文字がなかった。ただ、まっさらな紙が、束ねられているばかりだった。わたしは、それを、そっと、もとの場所に、戻した。まだ、書かれていない本なのだ、と思った。これから、書かれる本なのだ、と。誰が書くのかは、わからなかった。けれど、その白紙が、なぜか、こわくは、なかった。むしろ、そこには、まだ、何でも書ける、という、かすかな救いのようなものが、あった。
奥の帳場に、店主がいた。
年老いた、小柄な女(ひと)だった。白髪を、うしろで、ひとつに束ねていた。膝の上で、何か、小さなものを、繕っていた。
わたしが入ってきても、店主は、顔をあげなかった。ただ、手もとの繕いものに、目を落としたまま、静かに、言った。
「いらっしゃい。橋を、渡ってこられたね」
わたしは、驚いて、立ちどまった。
「ええ」と、答えた。「橋を、渡ってきました」
「逢魔が時に、橋を渡ると」と、店主は、繕いものの手を止めずに言った。「ときどき、こういう店に、たどり着くのですよ。この店はね、黄昏に現れて、夜明けには、消える。逢魔が時にこそ、いちばん、現れやすい。あなたのような方を、待っているのです」
わたしは、店主の手もとを、見た。
繕っているのは――手袋だった。
白い、木綿の、片方だけの手袋。
わたしは、思わず、胸の内ポケットに、手を当てた。そこには、さっき拾った、片方の手袋が、たしかに、あった。
「それは」と、わたしは、かすれた声で、訊いた。「その手袋は」
店主は、はじめて、顔をあげた。
しわの深い、けれど、おだやかな顔だった。その目もとが、どこか、祖母に、似ている気がした。
「片方だけの手袋というものは」と、店主は、静かに言った。「不思議なものでね。この世には、片方だけの手袋が、たくさん、落ちているのですよ。道ばたに。橋の上に。列車の座席に。どこかで、片方を失くした人が、たくさん、いるということです」
店主は、繕い終えた手袋を、そっと、膝の上に置いた。
「けれど、失くした片方は、消えたわけではないのです。ただ、どこかで、対の、もう片方を、待っている。いつか、めぐりあうのを、待っている。何十年も、ときには、一生をかけて。それでも、待っている」
わたしは、内ポケットから、あの手袋を、取り出した。
そして、店主の膝の上の手袋と、並べて、見た。
同じ手袋だった。白い、木綿の、同じ大きさ、同じ縫い目の。ただ、片方は、右手のもの。もう片方は、左手のもの。ちょうど、対に、なっていた。
わたしの手が、震えた。
「これは」と、わたしは言った。「あの人の、手袋です。宵子の。あの春、彼女が、失くしたと言っていた、その片方――ではないのですか」
店主は、答えなかった。ただ、やさしく、微笑んだ。祖母のような、微笑みで。
わたしは、店主の顔を、見つめた。祖母に似ている、と、さっき思った。けれど、いま、よく見ると、祖母だけではなかった。母にも、似ていた。真澄にも、どこか、似ていた。宵子にも。わたしが、これまでの人生で、そばにいてくれた、あるいは、そばにいてほしかった、すべての女(ひと)の面影が、その一枚の、しわの深い顔のなかに、かわるがわる、浮かんでは、消えるようだった。
「あなたは」と、わたしは、訊いた。「どなた、なのですか」
店主は、繕いものの針を、置いた。
「わたしはね」と、店主は、静かに言った。「この店の、番人ですよ。それだけの者です。ただ――強いて言うなら、わたしは、あなたが、失くしてきたものたちの、預かり手、でしょうかね。人が、橋の上で、こぼしていったもの。言えずに、飲みこんだ言葉。渡せずに、握りしめた手袋の片方。取り返せなかった、あの一瞬。そういうものを、わたしは、この店で、預かっているのですよ。捨てられずに、けれど、持ってもいられなくて、人が、置いていったものたちを」
店主は、店のなかの、うずたかい本の山を、見まわした。
「この本たちも」と、店主は言った。「みんな、そうです。誰かが、書けなかった本。言えなかった言葉が、書かれるはずだった本。この店は、そういうものの、たまり場なのですよ。だから、黄昏にしか、現れない。人が、いちばん、悔いに満ちる刻に。過ぎた一日を、ふりかえって、ああすればよかった、こう言えばよかったと、胸を、しめつけられる刻に」
店主は、わたしを、見た。その目は、とてもやさしかった。
「持っておいきなさい」と、店主は言った。「両方とも」
店主は、繕った片方を、わたしの手のなかの片方に、そっと、重ねた。
二つの手袋が、わたしの手のなかで、ひとつに、なった。片方だけだったものが、対に、なった。左と、右が。あちらと、こちらが。渡り終えた橋と、これから渡る橋が。
「あなたが」と、店主は言った。「これから、渡っていく橋の、どこかで。この手袋の、持ち主に、めぐりあうかもしれない。あるいは、あなた自身が、この手袋を、誰かに、渡す番が、くるかもしれない。片方を、誰かに渡して、二人でひとつの、しるしにする。そういう日が、くるかもしれない」
店主は、わたしの手を、そっと、両手で、包んだ。あたたかい手だった。
「まだ、終わっては、いませんよ」と、店主は言った。「橋は、まだ、つづいています。あなたの、橋は」
わたしの目から、涙が、こぼれた。
止められなかった。ただ、静かに、頬を、つたっていった。
どのくらい、そうしていたのか、わからない。
気がつくと、わたしは、路地に、立っていた。
古書店は、なかった。
さっきまで、たしかに、そこにあったはずの店が。あたたかな灯りも、うずたかい本の山も、老いた店主も、跡形もなく、消えていた。ただ、古い、しもたやの、板塀が、あるばかりだった。軒に、看板もなかった。
けれど、わたしの手のなかには。
片方ずつの、二つの手袋が、たしかに、あった。対に、なった、白い手袋が。
わたしは、それを、そっと、両手で包んで、胸に、押し当てた。
空を、見あげた。
夜が、来ていた。深い、藍色の夜。逢魔が時は、もう、終わっていた。境目は、閉じていた。あの蒼い彗星も、いつのまにか、見えなくなっていた。ただ、ふつうの星が、いくつか、ためらいがちに、瞬きはじめていた。
けれど、藍の底の、ずっと遠くに、ほんの、かすかに――蒼い光の、名残のようなものが、まだ、あるような、気がした。次の逢魔が時まで、そこで、静かに、待っているような。
わたしは、歩きだした。
家々の灯りの、あいだを。子守唄の、名残の聞こえる、道を。手のなかに、対の手袋を、抱いて。
もう、終わった、とは、思わなかった。
三十年の仕事を、手放してきた。あの春の言葉を、言い残してきた。妻の手を、離してきた。たくさんのものを、渡り終えた橋の向こうに、置いてきた。
けれど、まだ、橋は、つづいている。
この先に、まだ、いくつもの分かれ道がある。まだ、言える言葉がある。まだ、握れる手がある。まだ、失くさずにすむ、片方の手袋が、きっと、ある。
もうひとりのわたしは、こう言った。すべての橋は、逢魔が時に、一本の橋になる、と。ならば、こちらの橋を、わたしが、たしかに、渡りきったなら――あちらのわたしも、少し、救われるのだろう。言えなかった言葉を、言ったわたしと。言えたのに言わなかった、わたしとが。この逢魔が時の一本の橋の上で、たしかに、すれちがい、そして、たがいを、赦したのだ。
わたしは、歩いた。
夜のなかを。次の黄昏へ向かって。
橋というものは、渡りきってしまえば、ただの通り道にすぎない。けれど、半ばで誰かとすれちがったなら、それは、この世でいちばん、深い場所になる。前にも進めず、後ろにも戻れぬその一瞬に、人は、選ばなかったすべての自分と、静かに、めぐりあうのだから。