月光書房
酉の刻 ・ 黄昏 ・ 第 二 話

黄昏の路地、水無月の火

三隅 亜矢
幻想ミステリ ・ 約26頁

迷い込むというのは、道をまちがえることではない。道のほうが、こちらをまちがえて招き入れるのだ。

その路地に入ったとき、わたしはまだそれを知らなかった。

一

日が沈みかけていた。西の空の底が、熟れすぎた果実のように赤く、そのすぐ上を、藍が押しつぶすように覆いはじめている。その二つの色のさかいめが、いちばん危うくて、いちばん美しい。昼と夜のどちらのものでもない光が、町の屋根の上に、うすい膜を張っていた。

こういう時刻を、わたしはひそかに、好んでもいたし、恐れてもいた。母は生きていたころ、黄昏どきに外に出ようとするわたしを、よく引きとめた。逢魔が時に道を歩くものではない、と。あのころは、ただの迷信だと思っていた。夕方になると子どもが神隠しにあう、という、田舎の言いつたえのようなもの。けれど、いまのわたしは、それを笑えなくなっていた。ものの輪郭がいちばん溶けるこの刻に、なにかが、こちらとあちらのあいだの戸を、そっと開けておくのを、わたしはもう、知っていたから。

わたしは駅の北口から、いつもの角を折れて、いつもの通りを歩いていたはずだった。乾物屋の看板、赤い郵便受け、蔦のからんだ塀。何度も通った道だ。目をつぶってでも歩ける。だからこそ、いつ道が変わったのか、わからなかった。

はじめに気づいたのは、音だった。

いつもの通りには、夕方になれば、それなりの音がある。仕事帰りの人の足音。自転車のベル。どこかの家の、夕餉の支度の物音。テレビの、くぐもった声。ところが、そのどれもが、いつのまにか、聞こえなくなっていた。あるのは、自分の靴音だけ。その靴音さえ、湿った空気にすいこまれて、やけに遠くで鳴っているようだった。

気がつくと、見おぼえのない路地に入りこんでいた。

道幅は、両手をひろげれば壁にとどきそうなほど狭かった。両側から、古い木造の家々が、たがいにひたいを寄せあうように迫っている。二階の物干しから、白いシャツが、風もないのにかすかに揺れていた。軒下には、色の褪せた暖簾。どこかの窓の奥で、湯を沸かす音がする。生活のにおいはあるのに、人の姿がない。まるで、誰かが暮らしているのに、その誰かだけが、たったいま、すっと消えてしまったあとのような。障子には、ぼんやりと橙色の灯りが透けているのに、その灯りの奥に、影ひとつ動かなかった。

足もとの敷石は、雨あがりでもないのに濡れて光り、そこに空の色が、逆さまに映りこんでいた。赤と藍のあわい。踏むたびに、その色がゆらいで、まるで空の底を歩いているようだった。歩けば歩くほど、上と下が、あやふやになる。頭の上にも藍があり、足の下にも藍がある。わたしは、二つの空にはさまれた、うすい一枚の影のようだった。

「――ここは、どこだろう」

声に出してみて、その声が思ったよりも遠くへ吸いこまれていくのに、少しぞっとした。路地は先へゆくほど暗く、いくつも枝分かれして、そのどれもが同じ翳りのなかへ消えていた。迷路だ、とわたしは思った。子どものころ、夢のなかで何度も歩いた、あの迷路に似ている。行けども行けども、同じ角、同じ塀。夢のなかで、わたしはいつも、その迷路の奥に、誰かがいるのを知っていた。会いたい、けれど、こわい。その両方の思いに引かれて、わたしは夢のなかで、いつまでも歩きつづけていた。

けれど、引き返すのは、なぜか惜しかった。

わたしはこの三年間、ずっと誰かを探していた。探しつづけることが、いつのまにか、生きることそのものになっていた。日が暮れるたびに、わたしは町を歩いた。あの人がいそうな駅を、公園を、川辺を、昔よく二人で行った喫茶店の前を。もういないとわかっていても、探さずにはいられなかった。探すのをやめれば、その人が、本当にこの世からいなくなってしまう気がしたから。だから、見なれない路地に入りこんだとき、胸のどこかが、かすかに疼いた。ここなら、あの人がいるかもしれない――そんな、根も葉もない予感が。

姉の、名は、水無月しのぶといった。

二

姉が消えたのは、三年前の、ちょうどこんな黄昏どきだった。

その日、姉は「少し出てくる」と言って、玄関で靴を履いた。片方だけ、うすいクリーム色の手袋をしていた。もう片方は、テーブルの上に置いたままで。わたしはそれを見て、「片っぽ忘れてるよ」と言おうとした。言おうとして、言わなかった。姉はそのとき、こちらに背を向けていて、その背中が、なぜだか、ひどく遠く見えたから。

その手袋は、姉が二十歳の誕生日に、母から贈られたものだった。やわらかな革の、上品なクリーム色。姉はそれを、とても大切にしていた。寒い日でなくても、どこか改まった場所へ出かけるときには、必ずその手袋をしていった。だから、片方を忘れて出ていく姉を見たとき、わたしは、めずらしいこともあるものだ、と思った。いつもきちんとしている姉が、こんなうっかりをするなんて。そのときは、それだけのことだった。それが、三年間、わたしの胸をえぐりつづける棘になるとは、思いもよらずに。

いま思えば、あれは、うっかりではなかったのかもしれない。姉は、わざと、片方を置いていったのかもしれない。もう帰らないつもりだったのなら――片方を、わたしのもとに残していったのは、なにかの、しるしだったのかもしれない。待っていて、という。あるいは、忘れないで、という。けれど、そのときのわたしは、なにも読みとれなかった。ただ、遠く見える姉の背中を、玄関の三和土の冷たさの上から、黙って見ていただけだった。

声をかけそびれた、というのとは、ちがう。

わたしは、そのころ姉と、うまく口をきけずにいた。理由は、小さなことの積み重ねだった。母の病気のこと、これからの家のこと、お金のこと。そういう、口にすればすぐに角が立つことばかりが、二人のあいだに積もっていた。

母が長く患って、その介護は、多くが姉の肩にかかっていた。姉は仕事をつづけながら、病院へ通い、家のことをやりくりした。わたしも手伝ったつもりでいたが、いま思えば、いちばん重いところは、みんな姉が背負っていた。母が亡くなったあと、遺されたのは、古い家と、いくらかの借財と、二人きりの姉妹だった。そのわずかな遺産をめぐってさえ、わたしたちはぎこちなくなった。家を売るべきか、残すべきか。姉は現実的で、わたしは感傷的だった。話しあうたびに、声が尖った。ほんとうは、二人とも、母を喪った悲しみを、どう分けあえばいいのか、わからなかっただけなのに。

わたしは姉に、たくさんの言えないことを抱えていて、そのいちばん底に、たった一つ、どうしても言えない思いがあった。

――ずっと、あなたに、置いていかれるのが、こわかった。

姉はいつも、わたしより先を歩いていた。頭がよくて、きれいで、決断がはやくて。わたしはそのうしろを、必死についていく妹だった。姉が結婚を決めたときも、家を出ると言ったときも、わたしは「おめでとう」と言いながら、心の底では、置いていかれる、と怯えていた。その怯えが、いつしか、意地のようなものに変わっていた。素直になれない。優しくできない。姉が手を差しのべても、わたしはその手を、わざと見ないふりをした。

そんな日々のさなかに、姉は消えた。

出かけたきり、帰ってこなかった。

最初の夜は、そのうち帰ってくるだろうと思っていた。姉はときどき、なにも言わずに、遅くまで一人で歩くことがあったから。けれど、夜が更けても、姉は帰らなかった。翌朝も、そのつぎの日も。三日目に、わたしは警察に届けを出した。

警察は捜索してくれたが、手がかりは何もなかった。姉が最後に映っていたのは、家の近くの、ある商店街の防犯カメラだった。夕方の五時すぎ、姉は一人で、いつもの通りを歩いていた。片手に、クリーム色の手袋。表情は、遠くて、読みとれなかった。そして、その通りを曲がったさきの映像には、もう、姉の姿はなかった。まるで、角を曲がったとたん、この世から、ふっと消えてしまったように。

事件性はないという。争ったような跡も、連れ去られたような痕跡もない。事故の記録もない。ただ、黄昏の町に出て、そのまま黄昏に溶けてしまったように、姉は行方知れずになった。

警察の人は、気の毒そうな顔で、「大人の失踪は、ご本人の意思ということもありますから」と言った。つまり、自分から姿を消したのだろう、と。わたしは、その言葉を、認めたくなかった。姉が、わたしを捨てて、どこかへ行ってしまったなんて。けれど、心のどこかでは、わかっていた。あんなにわたしが冷たくしたのだから、姉がわたしのもとを去りたくなったとしても、それはしかたのないことだと。だから、わたしは誰にも言えなかった。姉が消えたのは、わたしのせいかもしれない、と。

残されたのは、テーブルの上の、片方だけの手袋。

わたしはそれを、三年間、鞄の底に入れて持ち歩いていた。もう片方が、姉の手とともに、どこかにあるはずだと信じて。いつか二つがそろう日を、待つように。待つことが、探すことだった。

三

路地は、いよいよ暗くなっていた。

どこまで歩いても、同じような格子戸と、同じような暖簾がつづく。ときおり、辻に小さな祠があって、そこだけ、消えかけた蝋燭がともっていた。炎は青みを帯びて、風もないのに、ゆらゆらと揺れる。その揺れかたが、生きもののため息のようで、わたしは足をはやめた。

一度、どこかの二階の窓から、女の子が、こちらを見おろしているような気がした。けれど、目をあげると、窓には、色あせた朝顔の絵の描かれた、古いすだれがかかっているだけだった。また一度、路地のさきを、白い猫が横切った。追いかけようと角を曲がると、そこにはもう、なにもいなかった。ただ、濡れた敷石に、藍色の空が映っているだけ。この路地では、目にうつるものが、いちいち、確かでなかった。あるようで、ない。ないようで、ある。逢魔が時とは、こういうものなのだ、とわたしは思った。ものの輪郭が溶けて、たしかなものが、ひとつもなくなる刻。

不思議と、こわくはなかった。むしろ、この曖昧さのなかに、わたしは、奇妙な安らぎをおぼえていた。たしかなものだらけの世界で、わたしは三年間、姉のいない現実を、たしかなものとして、突きつけられつづけてきた。姉はもういない。もう帰らない。それが、あまりに、たしかすぎた。けれど、この路地では、その「たしかさ」さえ、溶けていく。もしかしたら――と、思わせてくれる。もしかしたら、ここでなら、と。

角を、いくつ曲がっただろう。

数えるのをやめたころ、ふと、行く手に人影が見えた。

路地のずっと先、藍の翳りの底に、誰かが立っていた。こちらに背を向けて。細い肩。まっすぐな背すじ。その姿は、なつかしい、というより先に、胸を締めつけた。

――姉さん。

声にはならなかった。喉の奥で、それは凍りついた。そんなはずはない、と理性が言った。三年前に消えた人が、こんなところにいるはずがない。けれど足は、勝手に前へ出ていた。敷石の水を蹴って、わたしはその影に近づいた。

人影は、動かなかった。

近づくにつれ、細部が見えてきた。うすいベージュのコート。肩のあたりで切りそろえた髪。そして――右手に、片方だけの、クリーム色の手袋。

わたしは立ちどまった。

その人が、ゆっくりとふり返った。

姉だった。

三年前と、少しも変わっていなかった。歳をとった様子もなく、やつれてもいない。ただ、その顔は、黄昏の光を吸いこんだように、輪郭がわずかに滲んで見えた。まるで、水彩絵具で描かれた顔が、まだ乾ききっていないような。

「――しのぶ姉さん」

やっと、その名を呼べた。

姉は、驚かなかった。まるで、わたしが来ることを、ずっと知っていたかのように、静かに微笑んだ。

「ずいぶん、大きくなったね」

その声は、記憶のなかの声より、少し遠かった。井戸の底から響いてくるような、水の膜を一枚へだてたような。けれど、まぎれもなく、姉の声だった。

「大きく、って……わたし、もう三十だよ」

「そう。三年、たったのね」

姉は、自分の指を見おろした。手袋をした右手を。それから、手袋のない左手を。左手は、素手だった。細い指が、黄昏のなかで、うっすらと透けて見えるようだった。

わたしは、鞄をきつく握りしめた。そのなかに、もう片方の手袋がある。

「姉さん、あなた……生きて、いるの?」

問うてから、その問いのむごさに、自分でひるんだ。けれど、姉は気を悪くした様子もなく、ただ、悲しそうでもうれしそうでもない顔で、路地のさきを見た。

「わからないの」と、姉は言った。「わたしにも、もう、わからないのよ」

その答えに、わたしはなにも返せなかった。生きているのか、いないのか。ふつうなら、そのどちらかであるはずだった。けれど、いま目のまえにいる姉は、そのどちらでもある、あるいは、そのどちらでもない、そういう存在に見えた。逢魔が時の光が、姉の輪郭を、この世とあの世のあいだに、宙づりにしていた。手をのばせば、触れられそうだった。けれど、触れてしまえば、なにか、取りかえしのつかないことが起きる気がして、わたしは、のばしかけた手を、そっと引いた。

姉は、そんなわたしを見て、少し寂しそうに笑った。わたしが手を引いたことを、姉は、昔のわたしの拒絶と、重ねているのかもしれなかった。そう思うと、胸が痛んだ。ちがう。今度は、ちがうのだ。ただ、こわいのだ。あなたに触れて、あなたが消えてしまうのが。あなたを、もう一度、失うのが。

四

「歩きましょうか」と、姉は言った。「ここは、立ちどまっていると、道に呑まれてしまうから」

わたしたちは、並んで歩きだした。

姉は、わたしより半歩、先を歩いた。昔と同じだった。その半歩が、わたしにはいつも、追いつけない距離だった。けれど今日は、なぜだか、その距離が、ひどく愛おしかった。

「姉さん、あの日、どこへ行ったの」

「あの日?」

「三年前の、黄昏どき。少し出てくる、って、そう言って、出ていったでしょう。片方だけ手袋をして」

姉は、しばらく黙っていた。敷石を踏む二人の足音だけが、狭い路地に、ぽつり、ぽつりと落ちた。

「あのね」と、姉はやがて口をひらいた。「わたし、あの日、決めていたの。もう、帰らないって」

わたしの足が、止まりかけた。

「あなたに、疎まれているんだと思っていた」姉は、前を向いたまま言った。「わたしがそばにいると、あなたが苦しそうにしているのが、わかったの。わたしのせいで、あなたが自分を、小さく感じているのが。だから、いなくなれば、あなたは楽になるだろうと思った。姉なんかいないほうが、あなたはのびのびと生きられるだろうと」

「そんな……」

「母さんが亡くなってから、あなた、わたしと目を合わせなくなったでしょう」姉の声は、責めるでもなく、ただ、事実をなぞるようだった。「話しかけても、返事は短くて。家のことを相談しても、どうでもいい、って顔をして。わたし、あなたに、嫌われたんだと思った。母さんの世話を、わたしがぜんぶ仕切ってしまったから。あなたにも、母さんのそばにいる時間を、もっと分けてあげればよかった。わたしは、なんでも自分でやろうとして、あなたから、大事なものを、取りあげてしまったんじゃないかって」

「ちがうよ」わたしは、思わず言った。「そんなふうに、思ってたんじゃ……」

「ちがう?」

姉は、ふり返らずに問うた。わたしは、答えられなかった。

ちがう、と言いたかった。けれど、あのころのわたしを思い出せば、姉がそう受けとってもしかたのないことを、わたしは確かにしていた。冷たい返事。そらした目。差しのべられた手を、見ないふり。姉はそれを、ずっと、拒絶として受けとっていたのだ。ほんとうは、拒絶ではなく、怯えだったのに。

「わたしね」と姉はつづけた。「あの日、駅まで歩いて、それから、電車に乗るつもりだった。遠くへ行って、名前も変えて、あなたに二度と迷惑をかけないように暮らそうと思っていた。行き先も、決めていたの。海の見える、小さな町。母さんが、若いころ働いていたっていう、あの町。写真でしか見たことがないけれど、いつか行ってみたいと思っていた。あなたのいない場所で、ひとりで、静かに、暮らそうと。それが、あなたへの、せめてもの償いだと思っていた」

「償いなんて……」

「でも――」

姉は、そこで言葉を切った。

路地の先で、道が三つに分かれていた。どれも同じ暗さの、同じ狭さの道。姉は、迷わず真ん中の道を選んだ。わたしは、そのあとをついていった。この人は、この路地を、知りつくしているのだ、と思った。三年ものあいだ、ここを歩きつづけてきたのだから。

「でも、駅への道が、見つからなかったの」姉の声が、少しふるえた。「いつもの道を歩いているはずなのに、いつのまにか、こんな路地に入りこんでいた。いくら歩いても、駅に出ない。町に出ない。ただ、路地が路地をよんで、どこまでも、つづいていくだけ」

わたしは、ぞっとした。それは、いま、わたしの身に起きていることと、まったく同じだった。

「それから、わたし、ずっと、この路地を歩いているの」姉は言った。「日が沈みそうで、沈まない。この黄昏が、ずっと、終わらないの」

五

わたしたちは、小さな辻に出た。

そこには、井戸があった。石を積んだ、古い井戸。釣瓶が、動かない縄にぶらさがっている。姉は、その縁石に、そっと腰をおろした。わたしも、その隣に座った。

見あげると、路地の切れ間から、細い空がのぞいていた。

さっきまで赤かった西の空は、いつのまにか、深い藍に変わっていた。その藍のなかに、ひとつ、蒼い星が見えた。

いや、星ではなかった。それは、尾を引いていた。空の隅から、すっと、ひとすじの光の筋が、暮れゆく藍を横切っている。逢魔が時の徴のように、その夜いちばんに昇る、蒼い光。

「あ」と、わたしは思わず声をあげた。「彗星」

姉も、それを見あげた。

「ミラ彗星ね」と、姉は言った。なつかしそうに。「おぼえてる? 子どものころ、二人で、あれを見たこと」

わたしは、おぼえていた。まだ母が元気だったころ。夏の終わりの、こんな黄昏どきに、姉とふたり、河原の土手に寝ころんで、暮れゆく空を見あげていた。すると、藍のなかを、蒼い星がすっと横切った。姉が「あれはね、一年に一度だけ、海をわたるために昇ってくる星なのよ」と、でたらめを教えてくれた。わたしはそれを、本気で信じた。

「星が、海をわたるの?」と、幼いわたしは訊いた。

「そう」と、姉は言った。「夜になると、空は海になるでしょう。だから、あの星は、この空の海をわたって、朝の岸に着くの。着いたら、そこで、ひと晩ねむるのよ。そして、また次の年に、こっちの岸から、旅をはじめるの」

「星も、ねむるの?」

「ねむるわ。だから、星が海をわたるまで、わたしたちも、ねむらなくちゃ」

そう言って、姉は、わたしを膝枕にして、あの子守唄を歌ってくれた。土手の草のにおいと、姉の膝のあたたかさと、暮れゆく空の藍。あれは、わたしの記憶のなかで、いちばん幸せな時間のひとつだった。姉が、まだ、遠くなかったころ。わたしが、まだ、素直だったころ。

「姉さん、あのとき、歌ってくれたよね」

「歌?」

「子守唄。星が海をわたるまで、って」

姉は、少し驚いた顔をして、それから、微笑んだ。そして、低い声で、口ずさみはじめた。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

その旋律を、わたしは三年ぶりに聞いた。いや、もっと前から、聞いていなかった。姉が消えるずっと前から、わたしたちは、そんなふうに寄りそうことを、やめてしまっていたから。

旋律は、狭い路地に、しずかに満ちた。井戸の底へ、暮れゆく空へ、青い彗星のほうへ。歌が終わると、あたりは、いっそう深い藍に沈んでいた。

「姉さん」と、わたしは言った。「わたし、ずっと、あなたを探してた」

「知ってる」

「三年間、毎日、探してた。町じゅうを歩いて、あなたのいそうな場所を、ぜんぶ回って。……ばかみたいに」

「ばかみたいじゃないわ」

姉は、素手の左手を、そっとわたしの手にかさねた。その手は、驚くほど冷たくて、そして、驚くほど、やわらかかった。

六

「なぜ、探したの」と、姉は訊いた。

「なぜ、って……姉さんだから」

「わたしは、あなたを苦しめていたのに」

「ちがう」

その言葉は、今度は、するりと出た。三年かけて、やっと出た。

「ちがうんだよ、姉さん。わたし、あなたを疎んでなんか、いなかった。ただ、こわかったの」

「こわかった?」

「置いていかれるのが。あなたはいつも、わたしより先を歩いていくから。頭がよくて、きれいで、なんでもできて。わたしはただの、うしろをついていく妹で。あなたが結婚するとき、家を出るとき、わたし、心のなかで、置いていかないで、って叫んでた。でも、それを言うのが、みじめで、こわくて。だから、わざと冷たくした。あなたを突きはなせば、突きはなされる前に、楽になれると思ったの」

言いながら、涙が出た。三年間、ためこんだものが、いちどにあふれた。

「おぼえてる? わたしが、小学校のとき、迷子になったこと」わたしは、しゃくりあげながら言った。「お祭りの夜。人ごみのなかで、姉さんとはぐれて。わたし、泣きながら、姉さんの名前を呼んで、探しまわった。そしたら、姉さんが、走ってきてくれた。わたしを、ぎゅっと抱きしめて、もう離さないって、言ってくれた。わたしね、あのときの姉さんが、ずっと、わたしの姉さんだった。どんなにぎくしゃくしても、心の底では、あの夜の姉さんに、また抱きしめてほしかった。ただ、それが言えなかった。もう大人だから。妹だから。意地っぱりだから」

「あなたが消えたあと、はじめてわかった。わたしが突きはなしたせいで、あなたが、いなくなったんだって。わたしが、あなたを、逢魔が時のこっちがわから、追いだしてしまったんだって。今度は、わたしのほうが、迷子になって、姉さんを探す番になったんだって。三年間、ずっと。あの夜のあなたみたいに、走ってきてくれる人は、もう、いないのに」

姉は、なにも言わずに、わたしの背中に手を回した。あの、お祭りの夜と、同じように。冷たい手だった。けれど、その冷たさの奥に、たしかに、あのときの、あたたかさが、まだ、残っていた。

「ごめんね」と、わたしは言った。「ずっと、言いたかった。ごめんね、姉さん。わたし、ほんとうは、あなたのことが、大好きだったの」

姉の腕に、力がこもった。

「わたしこそ」と、姉はささやいた。「ごめんね。あなたが怯えているのを、拒絶だと思いこんだ。ちゃんと、訊けばよかった。どうしたの、って。なにがこわいの、って。姉なのに、いちばん近くにいたのに、わたし、あなたの本当の声を、聞こうとしなかった」

わたしたちは、しばらく、そうしていた。

暮れきらない空のもとで。動かない釣瓶のかたわらで。二人ぶんの、言えなかった思いが、たそがれのなかで、ゆっくりと、ほどけていった。

七

「もう、いいのよ」と、姉は言った。

わたしが顔をあげると、姉は、井戸のふちから立ちあがっていた。その姿は、さっきよりも、いっそう、輪郭が滲んで見えた。黄昏の光に、少しずつ、溶けはじめているように。

「姉さん」

「わたしね、ずっと、この路地から出られなかった理由が、わかった気がする」姉は、路地のさきを見つめて言った。「わたしは、あなたに、ちゃんと聞いてほしかったの。あなたの、いまの言葉を。ずっと、それを待っていたのよ。だから、日が沈まなかった。この黄昏が、終わらなかった。わたしが、ここで、待っていたから」

わたしは、立ちあがろうとした。けれど、足に力が入らなかった。

「姉さん、待って。いっしょに帰ろう。ね。今度こそ、ちゃんと話すから。もう、突きはなしたりしないから」

姉は、首をふった。悲しく、けれど、おだやかに。

「もう、帰れないの、わたしは」

「どうして」

「わたしはね、あの日、この路地に迷いこんだあと……」姉は、ゆっくりと、言葉を選んだ。「いくら歩いても、出口がなかったの。日が沈みそうで、沈まなくて。おなじ路地が、おなじ路地をよんで。だんだん、こわくなってきた。ここは、ふつうの場所じゃないって、わかってきたから。わたし、走ったの。とにかく、明るいほうへ、明るいほうへって。そうしたら、いつのまにか、水の音がして。気がついたら、駅の裏の、あの川のそばに立っていた。橋の欄干のうえに。どうして、そんなところにいたのか、自分でも、わからない。ただ、川の水が、黄昏を映して、とてもきれいで。その水面が、まるで、こちらへおいで、って、招いているように見えたの」

姉は、そこで、言葉を切った。

「あとのことは、よくおぼえていないの」姉は、静かに言った。「気がついたら、また、この路地を歩いていた。でも、もう、前の路地とは、ちがっていた。もっと、深いところ。もっと、あちらに近いところ。ここへ来る人たちが――そう、ここには、わたしのような人が、ときどき、迷いこんでくるの――その人たちが、教えてくれた。あなたは、もう、戻れないよ、って。あの川で、あなたの体は、見つからなかったけれど、あなたの魂は、こちらに来てしまったんだよ、って。だから、わたしはもう、あちらがわの人間なの。あなたと同じ道は、歩けない」

わたしは、言葉を失った。

川。駅の裏の。三年前、警察が一度だけ、そこを調べたことがあった。けれど、何も見つからなかった。だから、事件性はない、事故の痕跡もない、と。体が見つからなかったのは、姉が、ふつうの死に方をしなかったからなのか。それとも、姉の言うことは、黄昏が見せる、うつつの夢にすぎないのか。わたしには、確かめようがなかった。ただ、姉は、黄昏の路地に迷いこんで、そのまま――そのまま、帰らぬ人に、なってしまったのだ。わたしを、探しに来てくれることも、なく。逆に、わたしのごめんねを、ここで、三年間、待ちながら。

「じゃあ、姉さんは、もう」

「たぶんね」姉は、微笑んだ。「でも、悲しまないで。わたしは、あなたに会えた。三年、待った甲斐が、あった。あなたのごめんねと、大好きを、ちゃんと聞けた。だから、もう、この黄昏に、居つづける理由がないの。日が、沈めるのよ、やっと」

そう言って、姉は、右手の手袋を、はずしはじめた。

八

「これを、あなたに」

姉は、はずした手袋を、わたしの手に握らせた。クリーム色の、片方だけの手袋。三年前、姉がして出ていった、あの手袋だった。

わたしは、鞄をあけた。震える手で、底から、もう片方の手袋をとりだした。三年間、待ちつづけた、その片われを。

二つの手袋が、姉とわたしの手のあいだで、ようやく、そろった。

「そろったね」と、わたしは泣きながら言った。

「そろったわ」と、姉も言った。

けれど、姉はそのあと、その両方の手袋を、わたしの手のなかへ、そっと押しこんだ。

「両方とも、あなたが持っていて」

「え……」

「わたしには、もう、要らないの。手袋は、冷える手のためのものだから。わたしの手は、もう、冷えることがないの」

そして姉は、もう一つ、小さなものを、わたしの手のひらにのせた。

それは、藍色の、小さな箱だった。三日月の意匠が、表に刻まれている。月光堂の、青いマッチ箱だった。

「これは……?」

「わたしがね、この路地で拾ったの」姉は言った。「いつだったか、路地のいちばん奥に、古い書店があらわれた夜があってね。木の看板に、月光書房、と書いてあった。ふしぎな店だった。棚には、見たこともないほど古い本が、ぎっしりと並んでいて、どの本も、どこか、なつかしいにおいがした。開いてみると、そこには、いろんな刻の物語が書いてあったの。夜明けの話も、真昼の話も、真夜中の話も。まるで、一日じゅうの、あらゆる時刻が、その棚に、眠っているみたいだった」

「その店の主人が、わたしにくれたのよ。このマッチを。帰り道を照らすのに、と。あなたには、帰る場所があるはずだ、って、その人は言った。でも、そのときのわたしには、もう帰り道がなかった。帰る場所も。だから、ずっと、使えずに、持っていたの。いつか、これを渡すべき人が、来るだろうと思って。あなたに。あなたには、帰り道が、要るでしょう」

姉は、わたしの手を、両手でつつんだ。マッチ箱ごと。

「暗くなったら、一本、擦りなさい」姉は言った。「そうすれば、道が、見える。この路地は、あなたを迷わせようとするけれど、あの火は、まっすぐな道だけを照らすの。火が消える前に、明るいほうへ歩けば、町に出られる。約束して。ふり返らずに、歩くと」

「姉さん」

「約束して」

わたしは、うなずいた。うなずくしか、なかった。

九

姉は、井戸のふちから離れ、路地の奥へ、一歩、しりぞいた。

その一歩で、姉の姿は、いっそう淡くなった。まるで、黄昏の藍が、姉の輪郭を、内がわから食べはじめているようだった。コートの色が、髪の色が、少しずつ、まわりの翳りと、見わけがつかなくなっていく。

「姉さん、行かないで」

「行くわ」姉は、微笑んだ。もう、透きとおるほど、うすい微笑みだった。「でも、これは、悲しい別れじゃないのよ。わたしは、三年ぶりに、日が沈むのを、見られるの。ずっと、それを待っていた。あなたのおかげで、やっと、夜が来るの」

見あげると、路地の切れ間の空で、あの蒼い彗星が、いよいよ深く、藍に冴えていた。その光のさきで、空の底の赤が、ほとんど消えかけていた。逢魔が時が、終わろうとしていた。境界の刻が、夜のほうへ、傾いていく。

わたしは、その空と、姉とを、交互に見た。空が夜に呑まれるにつれて、姉の姿も、藍にとけていく。まるで、姉の存在が、この黄昏という刻そのものと、ひとつに結ばれているようだった。逢魔が時が終われば、姉も、この世との、最後の細い糸を、断つ。わかっていた。引きとめられないことも。引きとめてはいけないことも。姉は、三年間、ずっと、この終わらない黄昏のなかに、囚われていたのだ。眠ることもできず、進むこともできず。わたしの、たった一言を、待ちながら。その囚われを、いま、わたしが、解いてやれるのなら。

「姉さん」わたしは、涙をぬぐって、できるだけ、笑おうとした。「行っていいよ。もう、眠っていいよ。ずっと、ねむれなかったんでしょう。星が海をわたるまで、って、いつも歌ってくれたのに。姉さん自身が、ずっと、海をわたれずにいたんだね」

「ねえ」と、姉は言った。溶けかけた声で。「最後に、もう一度、あの歌を、いっしょに歌ってくれる?」

わたしは、うなずいた。喉が詰まって、声が出るか、わからなかったけれど。

姉が、口ずさみはじめた。わたしも、それにあわせた。ふたりの声が、暮れゆく路地に、重なった。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。眠れ、眠れ、母の胸で。

歌のあいだじゅう、姉は、わたしを見ていた。溶けていく顔で、けれど、たしかに、笑って。

歌が、終わった。

「ありがとう」と、姉は言った。「大好きよ、わたしも。ずっと、ずっと」

そして、姉の姿は、藍のなかに、溶けた。

風もないのに、路地の暖簾が、ひとつ、揺れた。それきり、そこには、誰もいなかった。ただ、暮れきった空に、蒼い彗星だけが、しずかに尾を引いていた。

十

わたしは、しばらく、動けなかった。

井戸のふちに座ったまま、姉のいた場所を、見つめていた。手のなかには、二つそろった手袋と、青いマッチ箱があった。姉の手の冷たさが、まだ、てのひらに残っていた。

やがて、あたりが、すっかり暗くなった。

赤も、藍も消えて、路地は、ただの夜になった。逢魔が時は、終わった。人か人でないものか、見わけのつかなくなる、あの危うい刻は、去ってしまった。あとに残ったのは、ふつうの夜の闇と、道に迷った、ひとりの妹だった。

わたしは、立ちあがった。

暗くて、道が見えなかった。どちらへ行けば町に出るのか、まるでわからなかった。路地は、あいかわらず、四方へ枝分かれして、そのどれもが、同じ闇に沈んでいた。

わたしは、青いマッチ箱を、握りしめた。

箱をあけると、なかに、マッチが一本だけ、入っていた。たった、一本。姉が、わたしに残した、たった一本の、帰り道。

わたしは、それを擦った。

小さな火が、ともった。青みを帯びた、あたたかい火だった。その火は、風もないのに、ある一方向へ、ゆらいだ。まるで、その先を、指ししめすように。

火の照らすさきに、一本の、まっすぐな道が、うかびあがった。

いくつも枝分かれしていたはずの路地のなかで、その道だけが、まっすぐに、ひとすじ、のびていた。ほかの道は、闇に沈んで見えなかった。ただ、その一本だけが、青い火に照らされて、白く光っていた。

わたしは、歩きだした。

火が消える前に、明るいほうへ。ふり返らずに。姉と、約束したとおりに。

十一

歩きながら、わたしは、ふり返りたい衝動と、たたかっていた。

もう一度、姉の姿を見たかった。溶けてしまう前の、あの淡い微笑みを。けれど、ふり返れば、道を見失う。姉が、命がけで――いや、命のあとがけで――照らしてくれた、この道を。だから、わたしは、前だけを見て、歩いた。

マッチの火は、思ったよりも、長くもった。

一本のマッチが、こんなに長く燃えつづけるはずがない。けれど、その火は、燃えつづけた。まるで、姉の思いが、その炎に宿っているように。わたしが町に出るまで、どうか消えないでくれ、と、誰かが祈っているように。

やがて、路地の先に、ほのかな明るみが見えた。

町の灯りだった。街灯の、オレンジ色の光。車の走る音。人の話し声。ふつうの夜の、ふつうの町。わたしが、三年間、姉を探して歩きつづけた、あの町の、灯り。

わたしは、その明るみへ向かって、走った。

路地を抜けたとたん、青い火は、すっと消えた。

役目を終えた、というように。マッチは、指のあいだで、燃えつきていた。けれど、不思議と、指は、熱くなかった。

わたしは、ふり返った。

もう、約束は、果たしたあとだった。町に出たあとなら、ふり返っても、よかった。

けれど、そこには、路地など、なかった。

わたしが抜けてきたはずの、あの入り組んだ路地は、どこにもなかった。あるのは、乾物屋の看板と、赤い郵便受けと、蔦のからんだ塀。いつもの、見なれた通りだった。わたしが、いつも歩いている、あの道。

黄昏の路地は、逢魔が時とともに、消えてしまっていた。

十二

わたしは、その夜、はじめて、姉のために泣いた。

三年間、探しつづけて、一度も、あきらめて泣くことをしなかった。探すのをやめれば、姉が本当にいなくなってしまう気がして。けれど、その夜、わたしは、姉がもう帰らないことを、受けいれて、泣いた。

それは、絶望の涙ではなかった。

家に帰りついたのは、夜も更けてからだった。玄関の三和土に立つと、三年前、姉がそこで靴を履いた、あの後ろ姿が、まざまざと浮かんだ。片方だけの手袋。遠く見えた背中。あのとき言えなかった「片っぽ忘れてるよ」の一言を、わたしは、いま、口にしてみた。誰もいない玄関に、その声が、しずかに落ちた。返事はなかった。けれど、なぜだか、胸のつかえが、ひとつ、とれた気がした。

わたしは、姉に、会えた。言えなかったことを、言えた。姉の、言えなかったことも、聞けた。二つの手袋は、そろった。二人ぶんの、ごめんねと、大好きが、逢魔が時のなかで、ほどけた。

姉は、やっと、日が沈むのを、見られた。三年ぶりの、夜。三年ぶりの、眠り。

わたしは、姉を、探しつづけることをやめた。かわりに、姉を、思い出すことを、はじめた。

翌朝、わたしは、駅の裏の川へ行った。

三年前、警察が一度だけ調べて、何も見つからなかった、あの川。わたしは、その岸辺に立って、しばらく、流れを見ていた。それから、二つそろった手袋の、片方だけを、川に、そっと流した。もう片方は、いまも、わたしの鞄の底にある。

片方は、あちらへ。片方は、こちらへ。

そうすれば、いつか、二人がまた会うとき、それをそろえられるように。

あれから、季節が、いくつか巡った。

わたしは、あの路地を、二度と見つけられなかった。何度、駅の北口を折れても、いつもの通りは、いつもの通りのままだった。乾物屋の看板、赤い郵便受け、蔦のからんだ塀。道は、もう、わたしをまちがえて招き入れることは、なかった。

けれど、わたしは、それでよかった。

あの路地は、逢魔が時にだけあらわれる、境界の道だ。昼と夜の、生と死の、言えたことと言えなかったことの、そのさかいめに、ぽつりとひらく、細い抜け道。誰もが、一度だけ、そこを通れる。いちばん会いたい人に、いちばん言えなかったことを、言うために。

わたしは、もう、その道を、通り終えた。だから、二度と、あらわれないのだ。

わたしは、あれから、生き方を、少しずつ、変えた。

探すことをやめると、時間が、ふしぎとゆるやかになった。三年間、日が暮れるたびに、追いたてられるように町を歩いていたわたしは、いまでは、黄昏どきに、家の窓辺に座って、ただ、空が藍にそまるのを、ながめている。姉のいない現実は、あいかわらず、たしかで、重い。けれど、そのたしかさに、わたしは、もう、押しつぶされなくなった。姉は、あの路地の奥で、やっと、眠れたのだから。囚われの黄昏から、夜へと、旅立てたのだから。それだけで、わたしの三年間は、報われたのだと思う。

母が生前によく話していた、あの海辺の町へ、いつか行ってみようと思っている。姉が、行こうとして、行けなかった町へ。そこの岸辺に立って、川に流したのとは別の、鞄の底の手袋を、海に流してやろうか。それとも、そのまま持ちかえって、姉のかわりに、その町で、少し暮らしてみようか。まだ、決めていない。けれど、そう考えるだけで、わたしの前には、道が、ひらけている気がする。三年間、行き止まりだった道が。

青いマッチ箱は、いまも、わたしの机の上にある。

なかは、からっぽだ。マッチは、あの夜、たった一本を、使いきった。けれど、わたしは、それを捨てられずにいる。三日月の刻まれた、藍色の小箱。ときおり、それを手にとって、蓋をあける。からっぽの箱の底から、かすかに、燐のにおいがする。姉が、この路地で拾って、わたしに手わたしてくれた、ひとすじの、帰り道のにおい。あの月光書房という店が、いつか、また、路地の奥にあらわれることがあったなら、わたしは、この空になったマッチ箱を返しに行きたい。そして、店の主人に、伝えたい。あなたのくれた一本の火が、迷子だった妹を、ちゃんと、家まで送りとどけてくれました、と。

そして、黄昏どきになると、わたしは、いまでも、西の空を見あげる。

赤と藍の、あわいのなかを。ものの輪郭が溶けて、人か人でないものか、見わけのつかなくなる、あの危うい刻を。もし、その藍の底に、蒼い星が、すっと尾を引いたなら――そのときは、路地のいちばん奥を、のぞいてみたくなる。

もう一度、姉に会えるとは、思わない。

けれど、わたしは知っている。逢魔が時は、失うための刻ではなく、ほどくための刻なのだと。ほどけなかった思いを、暮れゆく光のなかで、そっとほどいて、夜へ、手わたすための。

黄昏は、別れの色ではない。それは、言えなかったことに、もう一度だけ、声をあげさせてくれる、境界の色だ。

だから、日が暮れるのは、こわくない。

わたしは、今日も、西の空を見あげる。姉が、やっと眠れた、あの藍色の夜を、思い出しながら。手のなかで、青いマッチ箱を、そっと、握りしめて。

――迷い込むというのは、道をまちがえることではない。ときに道のほうが、いちばん会いたい人のもとへ、こちらを正しく招き入れるのだ。あの黄昏の路地が、わたしを、そうしてくれたように。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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