月光書房
酉の刻 ・ 黄昏 ・ 第 三 話

かはたれの汁

化野 狐雨
妖・時代 ・ 約26頁

たそがれというのは、昼が死ぬのでも夜が生まれるのでもなく、そのどちらでもないものがひととき、この世に許される刻(とき)なのだと、わたしはあの秋に知った。

橋のたもとの一膳飯屋「かはたれ」に、その女(ひと)が通いはじめたのは、栗の花の匂いも消えて、木々の葉がふちから錆(さ)びていく時分だった。町はずれ――といっても、江戸の場末というのはどこまでが町でどこからが野原か、はっきりと決まっているものではない。田圃(たんぼ)と町家のあいだを、一本の川がだらしなく蛇行して流れ、その川に、傾いだ板橋が一つ架かっている。橋のこちら側にはまだ人の暮らしの匂いがあって、向こう側には葦(あし)の原と、雑木林と、それから――昔から誰も名を口にしたがらない、あの狐塚がある。

わたしの店は、その橋のたもとにあった。

昼は駕籠舁(かごか)きや車力(しゃりき)の男たちが飯を掻き込んでいくが、日が西へ傾きはじめると、そういう客はぱたりと絶える。日暮れどきに橋を渡ってくる者を、この町の人間はあまり信用しない。それでもわたしは、暖簾(のれん)をしまわずに店を開けていた。夫を亡くしてからこちら、夜のはじまりの、あの藍(あい)の色に沈んでいく時分の店が、わたしはなぜか好きだったのだ。誰もいない店で、竈(かまど)の火だけを見つめて、味噌汁の実の煮える音を聞いている――その時分にだけ、死んだ人がふらりと戻ってきそうな気がした。

女がはじめて暖簾を分けたのも、ちょうどそんな刻限だった。

「――いいかい。まだ、やっているかい」

低い、しめった声だった。振り向くと、藍鼠(あいねず)の小袖(こそで)に地味な帯を締めた、二十七、八ばかりの女が、敷居のところに立っていた。背は高からず低からず、顔だちは取り立てて美しいというのでもないのに、目だけが、妙にひとを惹(ひ)きつけた。黒目がちの、濡れたような目で、その奥に、たそがれの空をそのまま映したような、藍とも紫ともつかない翳(かげ)りがあった。

「へえ、やっておりますよ。どうぞ」

女は、いちばん奥の、竈に近い床几(しょうぎ)に腰を下ろした。窓のない、暗がりに沈んだ席だった。

「何にしましょう」

「――温かい汁と、麦飯を、少し」

わたしは膳を運んだ。女は箸をとると、まるで長いこと物を食べていなかった者のように、ひとくちひとくち、ていねいに味わって食べた。そのくせ、汁の実の豆腐ばかりを残す。魚は口をつけない。あとで思えば、あのときからおかしなところは、いくつもあったのだ。けれど、たそがれの店では、たいていのことがぼんやりと霞(かす)んでしまう。人の顔も、心の底も、この世の理(ことわり)も。

食べ終えると、女は銭を置いて、静かに立った。

「――ごちそうさま。うまかった」

そう言って笑ったとき、店の隅の暗がりが、ふっと明るんだような気がした。

「またおいでなさい」と、わたしは言った。ほんとうに、また来てほしいと思ったのだ。

女は、来た。

一

女は、日が西の山の端(は)にかかるころ、決まって橋を渡ってやってきた。

不思議なことに、それより早い刻限に来たことは、一度もなかった。真昼に来ることもなければ、とっぷり暮れてから来ることもない。いつも、空が藍を溶かしはじめて、けれどまだ夜にはなりきらない、あの短いあわいの刻に、ふらりと暖簾を分けるのだった。

「お安さんは、いつも、この時分ですねえ」

女は「お安」と名乗っていた。わたしが名を尋ねると、少し困ったような顔をして、それから、「――安、とでも呼んでおくれ」と言った。まことの名でないことは、なんとなく察しがついた。けれど、この町はずれの店に来る客に、まことの名を名乗る者などそういない。わたしはそれ以上、詮索(せんさく)しなかった。

「昼間は、目がまわるようで、いけない」お安さんは、汁を啜(すす)りながら言った。「わたしには、この時分がいちばん、楽なのさ。ものの形が、やわらかくなるだろう。角が、溶けていく。あの時分だけは、息がしやすい」

「わかる気がします」わたしは竈の火を掻(か)きながら言った。「わたしも、この時分が好きなんですよ。死んだ亭主が、戻ってきそうな気がして」

お安さんは、箸をとめて、じっとわたしを見た。それから、ふと目を伏せた。

「――戻ってこないものは、戻ってこないよ」

低い声だった。けれど、その声には、なにか、遠いものを見てきた者の、静かな重みがあった。

わたしたちは、少しずつ言葉を交わすようになった。お安さんは、自分のことをほとんど語らなかった。どこに住んでいるのか、何を生業(なりわい)にしているのか、身寄りはあるのか――そういうことを、わたしはとうとう最後まで知らなかった。ただ、話をしていると、この人はずいぶん永いこと生きてきたのだ、という気がした。二十七、八の女の顔をしているくせに、言うことのはしばしに、百年も二百年も昔のことを、まるで昨日のことのように語る癖があった。

わたしのほうは、問われるまま、なんでも話した。話す相手が、久しくいなかったのだ。夫は流行り病であっけなく逝(い)って、子もなく、親きょうだいもとうに散り散りで、この橋のたもとの店に、たったひとりで暮らしていた。日暮れになると、その、ひとりきりの静けさが、いちばん身に沁みた。だからわたしは、お安さんに、つまらぬことまで、ぽろぽろとこぼした。竈の火の加減のこと、味噌の塩梅(あんばい)のこと、川に群れる白鷺(しらさぎ)のこと、亡くなった夫が、こんなふうに味噌汁を啜る音を立てて笑わせたこと――。

お安さんは、そのどれもを、じっと、聞いてくれた。相槌(あいづち)を打つでもなく、慰めるでもなく、ただ、あの藍色の目で、わたしの話の、いちばん奥のところまで、覗きこむように、聞いていた。人にこんなふうに話を聞いてもらったのは、いつぶりだろう、と、わたしは思った。夫が生きていたころも、こんなふうではなかった。夫は、わたしの話を、話の半ばで折って、自分の話にすり替えるのが常だったから。

「――おまえさんは」あるとき、お安さんが、ぽつりと言った。「ずいぶん、さびしい人だねえ」

わたしは、はっとした。誰にも、言われたことのない言葉だった。自分でも、気づいていなかった。けれど、そう言われて、はじめて、わたしは、自分がどれほどさびしかったか、というのを、思い知った。竈の火の前で、ひとり、汁の煮える音を聞いている、あのたそがれの静けさ――それは、好きなのではなかった。ただ、さびしさに、慣れていただけだったのだ。

「――お安さんこそ」わたしは、涙をこらえながら、言い返した。「ずいぶん、さびしい目を、しておいでですよ」

お安さんは、少し驚いたように、わたしを見た。それから、ふっと、目を伏せて、笑った。

「――そうかもしれないねえ」と、低い声で言った。「わたしは、たぶん、この世でいちばん、さびしい生きものさ」

そのときは、その言葉の意味が、わからなかった。ただ、さびしい者どうしが、たそがれの店で、こうして向かいあっている――それが、わたしには、なんだか、この上もなく、あたたかいことのように思われた。

「昔はねえ、この川も、もっと澄んでいたものさ。橋も、もっと立派なのが架かっていた。渡し守がいて、夜になると、川面(かわも)に灯籠(とうろう)を流して――」

「お安さん、それは、いつの話です」

「――さあ。いつだったか」

そう言って、お安さんは、藍色に暮れていく窓の外へ、遠い目を向けるのだった。

一度、こんなことがあった。夕立が来て、川が濁って荒れた晩のことだ。店には、お安さんのほか、誰もいなかった。雨の音を聞きながら、わたしが、亡くなった夫の話を、また、こぼしていると、お安さんが、ふと、こう言った。

「――人というのは、いいものだねえ」と。「たった三十年か、四十年か、五十年か。そのくらいしか、生きられない。それなのに、その短いあいだに、あんなに、たくさんのものを、抱えて生きる。誰かを好いたり、憎んだり、泣いたり、笑ったり、なくしたものを、いつまでも、忘れられなかったり。――わたしなどには、とても、真似(まね)のできない生きかたさ」

「なぜです」わたしは尋ねた。「お安さんだって、人と、同じでしょうに」

お安さんは、雨のしずくが窓を伝うのを、じっと見ていた。

「――わたしはね」と、静かに言った。「あんまり、永く生きすぎたのさ。永く生きると、な。だんだん、悲しむことも、喜ぶことも、億劫(おっくう)になってくる。誰かを好いても、その人は、じきに死んでしまう。何十年か経てば、みんな、いなくなる。わたしだけが、残る。だから、いつしか、誰も好かなくなる。何も、抱えなくなる。――そのほうが、楽だからね」

そう言うお安さんの横顔が、雨明かりのなかで、たまらなく、寂しげだった。

「けれど」と、お安さんは、ふいに、わたしのほうを向いた。その藍色の目が、じっと、わたしを見た。「近ごろ、また、抱えるようになった。おまえさんの店に来るようになってから、な。おかしなものさ。何百年も、抱えないでいられたものが、ふとしたことで、また、抱えたくなる。――困ったことだよ」

そのとき、わたしは、この言葉の意味を、ちゃんと汲(く)みとれなかった。ただ、胸の奥が、とくりと鳴った。この人は、いま、わたしのことを、抱えようとしているのだ――そんな、あたたかくて、けれど、どこか、こわいような予感が、たそがれの雨の音のなかで、そっと、芽ざした。

その目を見ていると、わたしは、なぜだか胸の奥が、しんと冷たくなった。この人は、わたしなどには手の届かない、どこか遠いところから来て、そうしてまた、遠いところへ帰っていくのだ――そういう予感が、たそがれの薄闇のなかで、はっきりと形をなした。

けれど、わたしはこの人が、好きだった。

たそがれの店で、この人と過ごすひとときは、日に日に、わたしのなかで、かけがえのないものになっていった。日中、駕籠舁きたちに飯を出しているあいだも、わたしは、心のどこかで、日暮れを待っていた。西の空が藍を溶かしはじめると、胸が、そわそわと騒いだ。暖簾を分けて、あの、藍鼠の小袖の姿が現れる――その一瞬のために、わたしは、一日を過ごしているようなものだった。

思えば、それは、恋に似ていた。人と人の恋とは、少しちがう。もっと、静かで、もっと、切ないもの。夜のはじまりの、あの藍の色のように、美しくて、けれど、いまにも闇に沈んでいってしまいそうな――そんな、たそがれの、恋だった。

二

その秋、町では、妙な噂が立った。

橋の向こうの狐塚のあたりに、夕暮れどき、女の影が立つのだという。それを見た者は、決まって熱を出して寝込む。畑仕事の帰りにその影とすれ違った百姓が、三日三晩うなされて、しまいに「狐に化かされた」と言って寝ついたのだと、青物を売りに来る婆(ばば)さまが、声をひそめて言った。

「あの塚はね、古い狐の塚さ。何百年も昔からいる、年経(としふ)た狐が棲(す)んでいるんだよ。逢魔(おうま)が時(どき)になると、人に化けて、橋を渡ってくるって話さ。おまえさんも、気をおつけよ。橋のたもとの店なんて、いちばん危ないんだから」

婆さまは、竈のふちに腰かけて、声をひそめて、こんな話もした。

「わたしのおっかさんの、そのまたおっかさんの時分にはね。あの狐に化かされて、川に落ちて死んだ男が、いたそうだよ。逢魔が時に、橋のたもとで、きれいな女に呼びとめられてね。ついていったら、いつのまにか、葦の原の、ぬかるみのなかさ。気がついたら、川のなかで、溺(おぼ)れかけていたんだと。――それでもね、その男は、死ぬ間際に、こう言ったそうだよ。『あの女に、もう一度、会いたい』ってね。化かされたのに、恨むどころか、また会いたいと。それが、狐の、いちばん、こわいところさ」

わたしは、その話を、笑って聞いていた。けれど、婆さまが帰ってから、竈の火を見つめていると、その話が、妙に、胸に残った。化かされて、命を落として、それでもなお、また会いたいと願う――。それは、こわい話のはずなのに、なぜだか、この上もなく、切ない話のように、わたしには思われた。

わたしは、笑って聞き流していた。けれど、婆さまが帰ったあと、竈の火を見つめていると、ふと、お安さんのことが頭をよぎった。

いつも、たそがれどきにだけ現れる女。
橋を渡ってくる女。
魚に箸をつけず、豆腐だけを残す女。
そして、百年も昔のことを、昨日のように語る女。

まさか――と、わたしは思った。まさか、そんなことが。

けれど、いちど芽ざした疑いは、竈の煤(すす)のように、じわりと胸の底に沈んでいった。

その晩も、お安さんは、日の暮れかたに、暖簾を分けてやってきた。

「今日は、冷えるねえ」

そう言って、お安さんは、いつもの奥の床几に腰を下ろした。わたしは膳を運びながら、それとなく、この人の手もとを見た。すると――右手に、片方だけ、白い木綿(もめん)の手袋を嵌めている。左手は素手なのに、右だけ、手袋。

「お安さん」わたしは、思わず尋ねた。「その手袋は、どうなさったんです。片方だけ」

お安さんは、はっとしたように、右手を袖の陰に隠した。それから、少し笑って、

「――ああ、これかい。手に、みっともない痕(あと)があってね。人に見せられたものじゃないのさ」

そう言うと、話をそらすように、汁を啜った。

わたしは、それ以上、聞かなかった。けれど、あの一瞬、袖の陰に隠した右手の、指の形が――なんだか、人の手にしては、少しばかり、細く長く、爪の先が尖(とが)っていたような気がして、それが妙に、目の裏に焼きついて離れなかった。

その晩、お安さんは、いつもより長く、店にいた。

外は、とっぷりと暮れかかっていた。いつもなら、逢魔が時が過ぎるころには、そそくさと帰り支度をするお安さんが、その晩にかぎって、なかなか腰を上げない。竈の火を、じっと見つめて、なにか、思いつめたような顔をしていた。

「――お安さん」わたしは、思いきって、尋ねた。「あんた、なにか、隠しごとを、しておいでですね」

お安さんは、びくりとして、わたしを見た。それから、目を伏せた。

「――誰にでも、隠しごとの、ひとつやふたつは、あるものさ」

「そうですね」わたしは、うなずいた。「わたしにも、あります」

「――ほう」お安さんは、少し、笑った。「聞かせておくれ」

「わたしはね」わたしは、竈の火を掻きながら、言った。「じつは、日暮れが、こわかったんです。夫が死んでから、ずっと。日が暮れると、この世に、たったひとりきりに、なったような気がして。けれど、お安さんが、来てくださるようになってから――日暮れが、待ち遠しく、なったんです。いまでは、たそがれが、いちばん、好きな時分になりました。あんたのおかげで」

お安さんは、長いあいだ、黙っていた。

やがて、掠れた声で、言った。

「――わたしも、同じさ」と。「わたしにとっても、たそがれは、いちばん、こわい時分だった。けれど、いまは、いちばん、いとおしい時分だよ。――おまえさんの、おかげで」

そう言って、お安さんは、立ち上がった。手袋をした右手で、そっと、暖簾に手をかけた。

「――もう、行かなくちゃ。夜が来る前に」

そのとき、わたしは、なぜだか、この人を、行かせたくない、と、強く思った。けれど、引きとめる術(すべ)を、わたしは知らなかった。お安さんは、暖簾を分けて、外の、藍色の闇のなかへ、出ていった。その背が、橋のほうへ、遠ざかっていくのを、わたしは、戸口に立って、いつまでも、見送っていた。

その夜、店を閉めてから、わたしは川端(かわばた)に出て、橋のたもとに立った。

日はとうに沈み、西の空にだけ、まだ残照(ざんしょう)の紫が薄く残っていた。川面は、藍を流したように暗く、葦の原が、風にさやさやと鳴っていた。

そのとき、ふと、空を見上げて――わたしは、息をのんだ。

暮れなずむ藍色の空の、いちばん高いところに、ひとすじ、蒼(あお)い光が、尾を引いて昇っていた。

彗星(ほうきぼし)だった。

淡い、けれど鋭い、青みがかった光。夜のいちばん星よりも早く、まるでこの逢魔が時の徴(しるし)のように、たった一つ、藍の天(そら)に懸かっていた。町の年寄りは、あれを「ミラ彗星」と呼ぶ。ミラ――「不思議なもの」という、南蛮(なんばん)の言葉だと聞いたことがある。何十年に一度、たそがれの空に現れて、また闇の奥へ消えていくのだと。

その蒼い光を見ていると、わたしは、なぜだか胸が締めつけられた。あの光は、この世のものであって、この世のものではない。境(さかい)の光だ。昼と夜の境、生と死の境、人とそうでないものの境――そのあわいに、ぽつりと灯る、迷い子(ご)のような光だった。

ふと、水面(みなも)に目を落とすと、暗い川面に、その蒼い星が、ちらちらと映っていた。

そして――そのすぐ隣に。

橋の上に立つ、女の影が、映っていた。

わたしは、はっとして、橋を見上げた。けれど、橋の上には、誰もいない。ただ、風に葦が鳴っているばかりだ。もういちど、水面を見た。すると、水鏡(みずかがみ)のなかには、たしかに、女の影が映っている。けれど、その影は――人の形をしていなかった。

四つ足の、獣(けもの)の影だった。

すらりと長い尾を、宵闇に垂らした、狐の影が。

わたしは、声も出せずに、その場に立ちすくんだ。水面の狐は、ゆらりと顔を上げ、こちらを――いや、水鏡のこちら側にいる、わたしのほうを、じっと見た。その目が、たそがれの藍の色をしていた。

お安さんの、あの目と、同じ色を。

三

翌日の夕暮れ、お安さんは、来なかった。

その次の日も、来なかった。

わたしは、竈の火の前に座って、暮れていく窓を見ながら、お安さんを待った。汁を温め直しては冷まし、また温め直した。麦飯を炊いては、誰も食べないので、握り飯にして自分で食べた。

一日、また一日と、たそがれが過ぎるたびに、わたしの胸には、あの、水面に映った狐の影が、よみがえった。まさか、あれが、お安さんなのか。あの、たそがれの藍の色をした目の狐が。もし、そうだとすれば――お安さんは、婆さまの言う、あの、年経た狐なのか。人に化けて、橋を渡ってくるという、あの。

けれど、わたしの胸には、こわいという気持ちは、なぜか、湧かなかった。ただ、心配だった。あの晩、水面越しに、じっとこちらを見ていた狐の目が――どこか、悲しげで、途方に暮れているように見えた、あの目が、頭から、離れなかった。

もし、正体を、わたしに見られてしまったと、お安さんが気づいたのなら。それで、もう、来られなくなってしまったのなら。――わたしは、いても立ってもいられなかった。人であろうと、獣であろうと、そんなことは、どうでもよかった。ただ、もう一度、あの人に会って、こう言いたかった。「かまいません」と。「あんたが、あんたなら、それで、いいんです」と。

三日目の夕暮れ、とうとうわたしは、暖簾を店の前に出したまま、橋のたもとに立った。

日が、西の山に沈もうとしていた。

空は、あの日と同じ、藍と紫の入り混じった色に暮れていた。そして――西の空の高いところに、また、あの蒼い彗星が、尾を引いて懸かっていた。ミラ彗星。逢魔が時の、迷い子の星。

わたしは、橋を渡った。

生まれてこのかた、日暮れどきに、この橋を渡って向こう岸へ行ったことは、一度もなかった。町の者は、みな、日が暮れる前に橋のこちら側へ戻る。向こう岸は、人の来るところではない。葦の原と、雑木林と、そして――狐塚の、静かな闇があるばかりだ。

けれど、わたしは、渡った。

葦の原を分けて進むと、雑木の茂みの奥に、こんもりと盛り上がった、古い塚があった。苔(こけ)むした小さな祠(ほこら)が一つ、傾いで立っている。そのまわりに、彼岸花(ひがんばな)が、血のように赤く咲いていた。

そして、その祠のかたわらに――お安さんが、座っていた。

膝を抱えて、うずくまるように。藍鼠の小袖の背が、ずいぶん、瘦(や)せて見えた。

「――お安さん」

わたしが声をかけると、お安さんは、びくりと肩を震わせて、こちらを振り向いた。その顔を見て、わたしは、思わず息をのんだ。

顔の半分が、ひどく青ざめて――そして、こめかみのあたりから、頰にかけて、うっすらと、金色(こんじき)の毛が、透けて見えていた。まるで、化粧が剝(は)げるように、人の皮膚の下から、獣の毛並みが、滲(にじ)み出ていたのだ。

「――来ちゃ、いけないよ」

お安さんは、掠(かす)れた声で言った。片手で、頰を隠しながら。

「来ちゃ、いけない。おまえさん、来ちゃ、いけないんだ。もう、行っておくれ。早く、橋の向こうへ戻っておくれ」

「お安さん」わたしは、一歩、近づいた。「あんた、いったい――」

「わかっているんだろう」お安さんは、うつむいたまま、言った。「もう、わかっているんだろう。わたしが、何者なのか」

風が、葦を鳴らして吹き抜けた。彼岸花が、ゆらりと揺れた。

「わたしはね」お安さんは、ゆっくりと顔を上げた。青ざめた顔に、金色の毛が透けて、けれど――その目だけは、やはり、あの、たそがれの藍の色をしていた。「この塚に、もう、何百年も棲んでいる、名もない獣さ。おまえさんたちが、狐と呼ぶものの、たぐいだよ」

わたしは、逃げなかった。

なぜだか、こわくはなかった。あんなに恐ろしい噂を聞いていたのに、目の前で、人が獣に変わろうとしているのを見ているのに、わたしの胸にあったのは、ただ、悲しみだけだった。

「――どうして」わたしは、しゃがみこんで、お安さんの、隣に座った。「どうして、あの店に、来てくださったんです」

お安さんは、長いあいだ、黙っていた。

やがて、ぽつりと、言った。

「――逢魔が時にはね」と。「わたしらのようなものは、いっとき、人の姿を借りることができるのさ。昼でも夜でもない、あのあわいの刻にだけ。ものの形が溶けて、人と、そうでないものの境が、薄れる刻に。だから、わたしは、あの時分にだけ、人になって、橋を渡っていたんだ」

「なぜ、人に」

「――さびしかったのさ」

お安さんは、そう言って、かすかに笑った。その笑いかたが、あんまり静かで、あんまり優しくて、わたしは、胸が張り裂けそうになった。

「はじめはね」お安さんは、遠い目をして、語りはじめた。「ただ、人の暮らしを、覗いてみたいだけだったんだ。何百年も、この塚で、ひとりで、じっとしていると、な。町のほうから、灯りが見える。人の声が、風にのって、聞こえてくる。日が暮れると、あちこちの家から、飯を炊く煙が立ちのぼって、味噌の匂いが、川を渡ってくる。――それが、うらやましくて、ね。あの、あたたかい灯りの下では、いったい、どんな暮らしが、あるのだろう、と。それが、知りたくて、たまらなかった」

「それで、人に化けて」

「そうさ。逢魔が時が来ると、いそいで、人の姿を借りて、橋を渡った。はじめは、ただ、町を歩くだけだった。人の声を聞き、人の暮らしの匂いを嗅(か)いで、また、暗くなる前に、塚へ帰った。それだけで、よかったんだ。それだけで、何日か、さびしさが、まぎれたんだよ」

お安さんは、彼岸花の一輪を、そっと手にとった。

「けれど、あるとき――橋のたもとに、灯りのついた店を、見つけてね。暖簾を分けてみたら、竈の火の前に、ひとりの女が、座っていた。さびしそうな、けれど、あたたかい目をした女が。その女が、わたしに、温かい汁を、出してくれた。『またおいでなさい』と、言ってくれた。――わたしは、生まれてはじめて、人に、そう言われたんだよ。何百年も生きてきて、はじめて、な」

わたしは、あの、最初の晩のことを、思い出した。店の隅の暗がりが、ふっと明るんだような、あの一瞬を。

「それから、わたしは、おまえさんの店に、通うようになった。ただ、町を歩くだけでは、もう、足りなくなった。おまえさんと、言葉を交わしたかった。おまえさんの、あの、さびしそうな目が、汁を啜るあいだに、少しずつ、和(やわ)らいでいくのを、見ていたかった。――そうしているうちに、な。おかしなことに、わたしのほうの、さびしさまで、和らいでいったんだよ」

「何百年も、この塚に、ひとりで棲んでいると、な。だんだん、人の暮らしが、恋しくなってくる。竈の火の、あの匂い。誰かと、言葉を交わすということ。温かい汁を、啜るということ。――そういう、あたりまえのことが、な。わたしには、いっときの、借りものでしか、なかったんだよ」

「借りもの」

「そうさ。逢魔が時が過ぎれば、わたしは、また、この獣に戻る。人でいられるのは、あのあわいの、ほんのひとときだけ。だからわたしは、日が暮れかかると、いそいで人になって、橋を渡って、おまえさんの店へ行った。あの、竈の火の前で、おまえさんと汁を啜って、言葉を交わす――そのひとときが、わたしには、何百年ぶりかの、ぬくもりだったのさ」

わたしは、何も言えなかった。ただ、隣に座っている、この、人でありながら人でない者の、瘦せた背を見ていた。

「けれど」お安さんは、うつむいた。「近ごろ、そのひとときが、だんだん、辛(つら)くなってきてね。おまえさんと話していると、な。もっと、人でいたくなる。もっと、そばにいたくなる。――そうして、逢魔が時が過ぎて、獣に戻るたびに、なんだか、身を切られるように、辛くなった。だから、わたしは、来るのを、やめたんだ。もう、これ以上、心を通わせたら――わたしも、おまえさんも、辛くなるばかりだと、思ったから」

彼岸花が、ゆれた。

西の空の、蒼い彗星が、少しずつ、闇の奥へ、傾いていくのが見えた。

「――ねえ、お安さん」わたしは、言った。「わたしは、人でも、獣でも、かまいません。あんたが、あんたなら、それで」

お安さんは、はっとしたように、わたしを見た。その藍色の目に、みるみる、涙が盛り上がった。

「――ばかなことを、お言いでないよ」お安さんは、声を震わせた。「わたしは、獣だよ。人とは、住む世界が、違うんだ。おまえさんは、日の当たるところで、生きるべき人だ。わたしのような、たそがれの獣に、関わっちゃ、いけない」

「けれど」

「聞いておくれ」お安さんは、わたしの手を、そっと、握った。右手だった。手袋をしていない、素手の右手。その手は――もう、人の手ではなかった。細く、長く、爪の先が尖った、けれど、あたたかい、獣の手だった。「わたしはね。この何百年で、はじめて、こんなに、人が恋しくなった。おまえさんが、恋しくなった。――だからこそ、行かなきゃ、いけないんだよ」

「なぜです」わたしは、その手を、握りかえした。「恋しいなら、そばに、いればいいじゃありませんか。わたしは、あんたと、いっしょにいたい。人でも、獣でも、かまわない。あんたのそばに、いたいんです」

お安さんは、悲しげに、首を振った。

「――おまえさん。よくお聞き」と、諭(さと)すように言った。「わたしは、獣だ。永く生きる、獣だ。おまえさんは、人だ。三十年か、四十年か、そのくらいで、逝ってしまう、人だ。もし、わたしが、おまえさんのそばにいたら――どうなると思う。おまえさんは、じきに、年をとる。髪が白くなり、腰が曲がり、やがて、逝く。そうして、わたしだけが、残るんだ。この、若い姿のまま、何百年も、な。おまえさんのいない、この塚で、また、ひとりきりで」

わたしは、言葉を、失った。

「わたしは、それが、こわいんだよ」お安さんの声が、震えた。「もう、誰も好かないと、決めていたのはね。それが、こわかったからさ。好いた者を、なくすのが。なくして、また、ひとりに戻るのが。――それを、また、繰りかえすのかと思うと、わたしは」

お安さんは、そこで、言葉を切って、うつむいた。金色の毛が透けた頰を、ひとすじ、涙が、伝った。

「――だから、いまのうちに、行くんだよ。まだ、これだけの傷で、済むうちに。これ以上、深く、おまえさんを好いてしまう前に。――これでも、精いっぱいの、わたしの、優しさなんだ。わかっておくれ」

わたしは、その涙を見て、もう、何も、言えなくなった。

この人は、わたしを守ろうとしているのではない。この人は、自分を守ろうとしているのでもない。この人は、ただ――「なくす」ということの、あの底なしの淋(さび)しさを、もう二度と、味わいたくないのだ。何百年もかけて、ようやく凍らせた心を、また、溶かしてしまうのが、こわいのだ。そうして、また、ひとりきりで、何百年も、この塚で、生きていくことに、耐えられそうにないのだ。

わたしは、この人の、その、途方もない孤独を思って、胸が、張り裂けそうになった。人の一生の淋しさなど、この人の、永劫(えいごう)の淋しさに比べれば、何ほどのものでもないのだ。

四

そのとき、西の空で、蒼い彗星が、ふっと、ひときわ明るくまたたいた。

まるで、なにかの合図のように。

お安さんは、はっとして、空を見上げた。そして、悲しげに、微笑んだ。

「――刻限だ」と、お安さんは言った。「逢魔が時が、終わる。もう、じきに、夜が来る。夜になれば、わたしは、人の姿を、保てない。すっかり、獣に、戻ってしまう。――だから、その前に、行かなくちゃ」

「お安さん――」

「おまえさん」お安さんは、わたしの手を、両手で、そっと包んだ。手袋をした左手と、素手の右手で。「これまで、ありがとう。あの、竈の火の前の、ひとときを。あんなに、あたたかいものを、わたしは、生まれてはじめて、知ったよ。何百年も生きてきて、はじめて、な」

そう言うと、お安さんは、そっと、立ち上がった。

その姿が、もう、少しずつ、薄れはじめていた。藍鼠の小袖のあわいから、金色の毛並みが、透けて滲(にじ)み、輪郭が、宵闇のなかに、ゆらりと、溶けていく。人の形が、ほどけていく。

「――待って」わたしは、思わず、その袖に、すがった。「待って、お安さん。行かないで。もう一度、明日の、たそがれに、店に来てください。もう一度だけ。お願いだから」

お安さんは、悲しげに、首を振った。

「――もう、来ないよ。来ちゃ、いけないんだ。これ以上、おまえさんと心を通わせたら、わたしは、獣に戻れなくなる。人でいたくて、たまらなくなる。そうして、いつか、ほんとうに、身を滅ぼしてしまう。――わたしらのようなものは、たそがれのあわいに、ちらりと人と触れて、そうして、また闇に帰る。それが、定めなんだよ」

お安さんの姿は、もう、ほとんど、獣のかたちになりかけていた。

けれど、その、細く尖った手が、そっと、わたしの頰に触れた。あたたかかった。獣の手のはずなのに、それは、この世でいちばん、優しい手だった。

「――おまえさん」と、お安さんは、掠れた声で、言った。「達者で、お暮らし。日の当たるところで。――そして、たまに、思い出しておくれ。たそがれどきに、この橋を渡ってきた、名もない獣のことを。おまえさんと汁を啜った、あの、いっときのことを。それだけで、わたしは、この先、何百年でも、この塚で、生きていけるよ」

そう言うと、お安さんは――狐は、身をひるがえした。

金色の毛並みが、宵闇のなかで、ひとすじ、蒼く光った。それは、空の彗星の色と、同じ色だった。

そして、狐は、彼岸花の原を、音もなく駆けていった。長い尾を、闇に垂らして。あっという間に、雑木の茂みの奥へ、消えていった。

わたしは、その場に、座りこんだ。

気がつくと、あたりは、すっかり、夜になっていた。逢魔が時は、終わっていた。ものの形は、もう溶けてはいなかった。塚は、ただの、古い塚だった。彼岸花は、ただの、赤い花だった。あの蒼い彗星も、もう、藍の空のいちばん低いところに、かすかに、尾の先だけを残して、いまにも闇に沈もうとしていた。

わたしの手のなかに――片方だけの、白い木綿の手袋が、残されていた。

お安さんが、右手に嵌めていた、あの手袋だった。いつのまに、わたしの手に、握らせていったのだろう。まだ、ほのかに、あたたかかった。獣の手の、ぬくもりが、そこに、残っていた。

五

それから、お安さんは、二度と、店に来なかった。

わたしは、あきらめきれずに、幾晩も、たそがれどきに、橋のたもとに立った。日が暮れかかると、いそいで暖簾を出して、竈の火を熾(おこ)し、汁を温めて、待った。けれど、暖簾を分けて入ってくるのは、駕籠舁きや、車力の男たちばかりで――あの、藍鼠の小袖の女は、二度と、姿を見せなかった。

秋が深まり、川端の葦が枯れ、彼岸花も散った。橋の向こうの噂も、いつしか、聞かなくなった。あの年経た狐は、もう、人に化けるのを、やめてしまったのだ。逢魔が時に、橋を渡ってくることを、やめてしまったのだ。――わたしと、これ以上、心を通わせないために。

わたしは、あの手袋を、簞笥(たんす)の奥に、大切にしまった。ときどき、取り出しては、頰に当てた。もう、ぬくもりは、とうに消えていた。けれど、それを頰に当てると、あの、たそがれの店の、竈の火の匂いや、汁の煮える音や、お安さんの、あの、藍色の目が、ありありと、よみがえるのだった。

ときおり、わたしは、店を早じまいして、橋を渡り、あの狐塚まで、足を運んだ。彼岸花の散ったあとの、枯れた塚のかたわらに、そっと、膳を置いた。温かい汁と、麦飯を、少し。お安さんが、いつも、店で食べていた、あのとおりに。豆腐だけは、残されるとわかっていたから、はじめから、汁に入れなかった。

「――お安さん」わたしは、傾いだ祠に向かって、話しかけた。「今日も、いい日和(ひより)でしたよ。川に、白鷺が、来ていました。あんたが、好きだと言っていた、あの白鷺が」

返事は、なかった。

けれど、翌朝、膳を下げにいくと、汁も、麦飯も、きれいに、なくなっていた。野の獣が食べたのかもしれない。風に、こぼれたのかもしれない。けれど、わたしは、そうは思わなかった。あの人が――あの、名もない獣が、夜の闇にまぎれて、そっと、食べにきてくれたのだと、そう信じた。そう信じることだけが、わたしの、たったひとつの、よすがだった。

冬になり、雪が塚を白く覆うと、さすがに、膳を運ぶのは、やめた。けれど、たそがれどきに橋のたもとに立って、西の空を見上げる、その癖だけは、やめられなかった。

冬が来て、雪が降り、また春が来て、夏が過ぎた。

わたしは、あいかわらず、橋のたもとで、店を開けていた。夫を亡くしたときと同じように、また、ひとりで。けれど、以前とは、少しちがっていた。日が西へ傾いて、空が藍を溶かしはじめる、あの逢魔が時になると、わたしは、いつも、店の暖簾を、しまわなかった。

いつか、また。

いつか、また、あの人が――あの、名もない獣が、さびしさに、たまらなくなって、ふらりと、橋を渡ってきてくれるかもしれない。そのとき、店が閉まっていたら、いけないから。竈の火が、消えていたら、いけないから。

だから、わたしは、待つ。

たそがれの、あの、藍と紫の入り混じった、境の刻に。ものの形が溶けて、人と、そうでないものの境が、薄れる、あのあわいの刻に。竈の火を熾して、汁を温めて、暖簾を分けて入ってくる者を、待つ。

あれから、幾年が過ぎたろう。

わたしも、ずいぶん、年をとった。髪に白いものが増え、腰も、少し曲がってきた。けれど、たそがれどきに橋のたもとに立って、西の空を見上げる、その癖だけは、変わらなかった。

そして、あるたそがれ――。

日が、西の山に沈もうとしていた。空は、あの日と同じ、藍と紫の入り混じった色に、静かに暮れていた。わたしが、いつものように、店の前の川端に立って、暮れなずむ空を見上げると――。

西の空の、いちばん高いところに、また、あの、蒼い光が、尾を引いて、昇っていた。

ミラ彗星。

何十年に一度、たそがれの空に現れて、また闇の奥へ消えていく、あの、逢魔が時の、迷い子の星。ずいぶん永いこと、姿を見せなかったあの星が、また、藍の天に、たった一つ、懸かっていた。

わたしは、その蒼い光を、じっと見つめた。

そして――ふと、水面(みなも)に目を落とした。

暗い川面に、その蒼い星が、ちらちらと、映っていた。

そのすぐ隣に――橋の上に立つ、女の影が、映っていた。

わたしは、はっとして、橋を見上げた。

橋の上に、女が、立っていた。

藍鼠の小袖に、地味な帯を締めた、二十七、八ばかりの女。背は高からず低からず、顔だちは取り立てて美しいというのでもないのに、目だけが、妙にひとを惹きつける。黒目がちの、濡れたような目で、その奥に、たそがれの空をそのまま映したような、藍とも紫ともつかない翳りがある。

――お安さん。

わたしは、声にならない声で、そう呼んだ。

女は、こちらを見て、少し困ったように、それから、静かに、笑った。あの、竈の隅の暗がりを、ふっと明るませた、あの笑いかたで。

「――いいかい」と、女は言った。低い、しめった声だった。「まだ、やっているかい」

わたしの目から、涙が、あふれた。

「――へえ」と、わたしは、やっとのことで、言った。「やっておりますよ。ずっと、待っておりました。どうぞ」

女は、橋を渡って、こちらへ来た。ゆっくりと、一歩ずつ。その右手が――片方だけ、手袋を、していなかった。素手のままの、右手だった。

女は、店の前まで来ると、ふと、足をとめた。素手の右手を、そっと、胸のあたりに当てた。まるで、そこに、なくしたものを、探すように。

わたしには、わかった。あの人は、片方の手袋を、探しているのだ。わたしに、握らせていった、あの、白い木綿の手袋を。

「――お安さん」わたしは、涙を拭って、言った。「あんたの手袋、わたしが、預かっておりますよ。ずっと、大切に。いま、お返ししますね」

女は、驚いたように、目を見ひらいた。それから、その目に、また、あの藍色の翳りが、ゆらりと、揺れた。

「――返さなくても、いいんだよ」と、女は、静かに言った。「あれは、おまえさんに、あげたものさ。わたしのかわりに、そばに、置いておいておくれ、と思って。――けれど、そうか。ずっと、持っていて、くれたのかい」

「ええ」わたしは、うなずいた。「毎晩、頰に当てて、あんたのことを、思っておりました」

女は、くしゃりと、顔をゆがめた。泣くのを、こらえるように。何百年も凍らせてきた心が、いま、また、溶けていく――そんな顔だった。

わたしは、簞笥の奥にしまっておいた、あの、片方だけの手袋のことを、思った。あれを、いま、この人に、返そう。片方だけになっていた手袋を、もう片方に、揃えよう。そうすれば――そうすれば、この人は、もう、たそがれの、あわいのひとときだけの、借りものの姿ではなくなるかもしれない。

そんなことは、ありえないと、わかっていた。逢魔が時は、いつか終わる。夜が来れば、この人は、また、獣に戻る。それが、定めだ。

けれど――。

それでも、いい、と、わたしは思った。

たそがれの、あわいの刻に、ちらりと触れる、そのひとときだけでも。竈の火の前で、汁を啜り、言葉を交わす、その、いっときだけでも。それだけで、わたしは、この先、どれほどの夜でも、生きていける。あの人が、何百年でも、この塚で生きていけると言ったように。

わたしは、暖簾を、大きく、分けた。

竈の火が、あかあかと燃えていた。汁が、ことことと、煮えていた。

そして、たそがれの空には、蒼い彗星が、たった一つ、逢魔が時の徴のように、いつまでも、いつまでも、懸かっていた。昼と夜の境に、生と死の境に、人と、そうでないものの境に――迷い子のように、けれど、たしかに、たった一つの光として。

夜は、まだ、来ない。

わたしたちの逢魔が時は、まだ、終わらない。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

← 『逢魔が時の物語』目次へ