月光書房
酉の刻 ・ 黄昏 ・ 第 四 話

継ぎの唄

額田 藍生
幻想 ・ 約25頁

閉館を告げる鈴が鳴ってからも、私はその一枚の前を離れられずにいた。

その坂を、私はほんとうは、のぼるつもりなどなかった。

その日の私は、勤め先からの帰りだった。ながく勤めた会社を、その週かぎりで辞めることになっていた。辞めるというより、辞めさせられる、というのが正しかった。人員を減らすのだ、と部長は言いにくそうに言い、私は、わかりました、とだけこたえた。妻はなく、子もない。親も、育ての親も、もういない。誰にも、迷惑はかからない。ただ、これから何を頼りに日々を過ごせばよいのか、私にはわからなかった。四十をいくつか過ぎて、ふいに、糸の切れた凧のように、私は宙に放り出されていた。

だから私は、まっすぐ帰る気になれず、いつもの駅で降りずに、ひとつ手前で降りた。降りたことのない駅だった。そして、あてもなく、坂を、のぼった。夕暮れの、藍いろに沈みかけた、知らない坂を。

坂の途中に、その画廊はあった。

貸し画廊「時雨堂」は、坂の途中の古い洋館を改装した、ちいさな三部屋きりの場所だった。ふだんは月がわりで貸し出され、若い画家の水彩や、素人の写真や、写経のような書が掛かる。けれどその週にかかっていたのは、どこの誰とも知れぬ「旧蔵品」と札の付いた、由来の曖昧な古い油絵ばかりだった。企画の名は「たそがれ蒐集(しゅうしゅう)」。案内の紙には、一日のうちで最も光の傾く刻に描かれた絵ばかりを集めた、とあった。

なぜ入ったのかは、いまでもわからない。硝子戸のむこうに、ぼんやりと灯りがともっているのが見えた。その灯りが、なぜか、私を呼んでいるように思えた。押すと、戸は、思いのほかかるく、ひらいた。乾いた蝶番の、ちいさな軋みとともに。

なかは、しんとしていた。手前の間には、風景ばかりの油絵が幾枚か掛かっていた。夕暮れの海。日の暮れた麦畑。黄昏の街路。どれも、光の傾いた刻を描いていた。私はそれらを、ひとつずつ、見て回った。急ぐ理由も、帰りを待つ者もない身には、時間だけが、有り余っていた。

真ん中の間には、卓上の静物画が並んでいた。そして、いちばん奥の間に、その肖像画はあった。

女がひとり、椅子に浅く腰かけている。歳のころは二十をいくつか越えたばかりだろうか。灰がかった藍の衣に、白い襟。膝の上で手を組んでいる。背後には窓が描かれ、その窓の外に、暮れなずむ空がひろがっていた。空は上から順に、まだ昼の名残をとどめた薄あかね、そのしたに菫(すみれ)いろ、いちばん低いところに、深い藍。ちょうど、いまこの奥の間に射しこんでいる光と、同じ色だった。

その空の、菫と藍の境のあたりに、蒼い星がひとつ描かれていた。

尾を引いていた。ほそく、しずかに、右下へ流れる蒼い尾。彗星だ、と私は思った。絵のなかに彗星を描きこむのは、そう珍しいことではないのかもしれない。けれどその一点だけが、乾いた古い絵具の肌のなかで、いまも濡れているように見えた。

私はしばらく、女の顔ではなく、その星を見ていた。

やがて視線をおろすと、女と目が合った。

肖像画の人物と目が合う、というのは、絵をながめる者なら誰しも経験のあることだ。正面を向いて描かれた瞳は、どの角度から見ても見返してくるように出来ている。それは筆の技であって、怪異ではない。私はそう知っていたし、これまで幾度も、美術館の暗い一室で、名も知れぬ貴婦人や司教や商人の視線に見送られてきた。

けれどそのときの目は、そういう目ではなかった。

なんと言えばいいだろう。ふつう、絵のなかの視線は、こちらを見ているようでいて、その実、どこも見ていない。永遠に一点を見つめたまま凍りついた、ガラスの目だ。だがその女の目は、たしかに私を見た。私が奥の間に入ってきたときから、私がその一枚の前に立ちどまるまで、目で追っていた――そんな気がした。気がした、と書くよりほかにない。証拠はない。ただ、私の背筋を、坂をのぼってきたときとは別の種類の汗が伝った。

奥の間には、私のほかに誰もいなかった。

受付にいた若い女性は、閉館の鈴を鳴らしてから、表の看板をしまいに出ていったきりだった。硝子戸のむこう、坂道はもうずいぶん暗い。館内の照明はといえば、経費を惜しんでのことか、この奥の間には天井のちいさな一灯しかなく、それも点いてはいなかった。絵を照らしているのは、西の高窓から斜めに射しこむ、暮れがたの光だけだった。

藍いろの斜光。

床に落ちた光の帯のなかを、埃が、ゆっくりと回りながら昇っていくのが見えた。油絵具の、古い、饐(す)えたような、けれど嫌ではない匂いが、部屋にたちこめていた。何十年も同じ場所で乾きつづけてきた絵具の匂い。埃の匂い。時間の匂い、と私は胸のうちで名づけた。

女がまた、私を見た。

こんどは、たしかだった。

瞳のなかの、光を落とした一点――画家が「命の点」と呼ぶ、あのちいさな白いハイライト――が、わずかに位置を変えたのだ。ほんの、髪の毛一本ぶんほど。西からの光がそのぶん傾いたのだ、と私は自分に言い聞かせようとした。けれどそれは、私を見つけた者の目の動きに、あまりにも似ていた。

「――何か、御用でしょうか」

私は、絵に向かって、ばかげたことに、そう声をかけていた。声は、思ったよりも部屋にひくく響いた。

女は答えなかった。当たり前だ。

けれど女の唇が、ほんのわずかにひらいた。ひらいた、というより、絵具の乾いた皺が、光の加減でそう見えただけかもしれない。そのわずかなひらきから、声にならない何かが、こぼれ出そうにしていた。訴えるような、乞うような、けれどそれを言葉にする術(すべ)をもたぬ者の――そういう口もとだった。

私はもう一歩、絵に近づいた。

近づいてはじめて、私はその絵の細部に気づいた。

女の膝の上で組まれた手。その左手に、手袋が嵌められていた。灰いろの、やわらかそうな革の手袋。ところが右手には、手袋がなかった。素手だった。爪のさきまで、丁寧に描かれた白い右手。

片方だけの手袋。

奇妙な絵だ、と思った。肖像画で片手だけ手袋を嵌めるという趣向は、ないではない。けれど組んだ両手の、左だけに手袋、右は素手――それは意匠というより、まるで、たったいま片方をどこかへ落としてきた者の手のようだった。あるいは、これから片方を、誰かに手わたそうとしている者の手。

女の視線は、私を見ていた。それから、ゆっくりと――

いや。絵は動かない。私はそう知っている。

けれど女の視線は、私からそれて、自分の右手のほうへ、そして絵のむこう、窓の外の空のほうへと、順にたどっていくように思われた。まるで私に、そこを見ろ、と告げるように。

私は窓の――絵のなかの窓の、外を見た。

蒼い彗星が、尾を引いていた。

そして。

私はそのとき、はじめて奥の間の、ほんとうの西の高窓を振りかえった。館の、現実の窓を。

硝子のむこう、坂のうえの空に、同じ蒼い星が、ひとつ、昇りかけていた。

暮れなずむ藍の空に、逢魔が時のしるしのように、いちばんに昇る、蒼い星。

尾を引いていた。ほそく、右下へ。絵のなかのそれと、寸分たがわぬ角度で。

私は息をのんだ。絵のなかの空と、窓の外の空とが、まるで一枚の硝子の裏表のように、ぴたりと重なっていた。どちらが写しで、どちらが現(うつつ)か、その境が、藍の光のなかで、ゆっくりと溶けていくのがわかった。

昼と夜の入れかわる、この刻。ものの輪郭がにじみ、人か、人でないものか、見わけのつかなくなる刻。逢魔が時。おうまがとき。祖母がよく、この刻には子どもを外に出すな、と言っていた。魔に逢う刻だから、と。魔とは何か、と訊けば、祖母は困ったように笑って、なんでもない、この世とあの世の、戸のあいだにいるものたちさ、と言ったきり、それきり教えてはくれなかった。

戸のあいだ。

私はいま、その戸のあいだに、立っているのかもしれなかった。

女が、私を見ていた。

こんどは、疑いようがなかった。絵具の女の目に、光が宿っていた。ガラスの目ではなかった。生きている者の目だった。困惑と、乞いと、そして、長いこと待っていた者の――安堵に似た、かすかな色。

「……あなたは」

私が言いかけたとき、女の唇が、ついに、ひらいた。

そして、部屋のどこからともなく、ひとすじの声が――いや、声ではない。旋律だ。子守唄のような、ひくい、たどたどしい旋律が、埃の匂いのなかを、藍の光にのって、流れはじめた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

はじめ、私はそれを、自分が口ずさんでいるのだと思った。

けれど私の口は閉じていた。旋律は、私の外から来ていた。絵のほうから。あるいは、絵のむこう、藍の空のむこうから。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

その一節だけが、繰りかえされた。歌詞のつづきを、女は知らぬようだった。あるいは、忘れてしまったのか。同じ一節を、なんども、なんども、たどたどしく。まるで、その先を思い出そうとして、思い出せずにいる者のように。

私はその子守唄を、知っていた。

どこで聞いたのだろう。祖母だろうか。母だろうか。あるいは、もっと前――言葉をおぼえるより前の、まだ揺りかごのなかにいたころに、誰かが。旋律をたどると、胸の底の、いちばん古い場所が、しずかに疼いた。

「その歌を」と、私は言った。「知っています」

すると。

女の目から、絵具の頬を、ひとすじ、光がつたった。

涙だった。乾いた絵具の上を、藍の光を弾きながら、ゆっくりと。

奥の間の空気が、変わった。

匂いが濃くなった。油絵具の匂いに、別の匂いがまじった。よく手入れされた木の匂い。冷たい石の匂い。そして、ほのかに、蜜蝋(みつろう)の――蝋燭の匂い。

いつのまにか、部屋の照明は、天井の一灯ではなくなっていた。壁のあちこちに、燭台があった。古い、真鍮の燭台。そこに立てられた蝋燭が、いくつも、ちいさな炎をゆらしていた。私はその灯を点した覚えがない。けれど、それらは点いていた。炎の一本いっぽんが、藍の斜光のなかで、蜜いろに、しずかにゆれていた。

そして私は気づいた。

私の立っている場所は、もう、貸し画廊の奥の間ではなかった。

床は、寄せ木ではなく、磨きこまれた石だった。壁には、あの肖像画のほかにも、幾枚もの絵が掛かっていた。窓は、アルミの高窓ではなく、細い鉛の桟(さん)で区切られた、古い硝子窓だった。その硝子のむこうに、暮れなずむ藍の空と、蒼い彗星。

私は、絵のなかに描かれた、あの部屋のなかに立っていた。

いや。ちがう。

絵のなかに入ったのではない。絵のほうが、こちらへ、しみ出してきたのだ。逢魔が時のあいだだけ、絵と現の境が薄れ、絵のなかの部屋が、現の部屋に、静かに滲み、重なり、ひとつになったのだ。

そして、あの椅子に。

女が、腰かけていた。絵ではなく。

浅く腰かけ、膝の上で手を組み、私を見あげていた。灰がかった藍の衣。白い襟。左手には手袋。右手は素手。彼女は、たしかに、そこにいた。呼吸をしていた。胸が、ゆっくりと、上下していた。

「――ようやく」と、女は言った。

声は、思いのほか若かった。けれど、疲れていた。長いあいだ、同じ一節をたどりつづけてきた者の、かすれた声だった。

「ようやく、その歌を知っているひとが、来てくださった」

私は、何を言えばいいのか、わからなかった。

女は、私に椅子をすすめた。部屋の隅に、対になったもう一脚の椅子があった。私はそこに、おそるおそる、腰をおろした。石の床を、蝋燭の炎が、蜜いろにちらちらと照らしていた。

「怖がらないで」と、女は言った。「わたしは、あなたに何もできない。この刻のあいだだけ、こうして、話ができるだけ。星が沈めば、わたしはまた、絵にもどる。あなたは、あなたの時間に、もどる」

「あなたは」私はやっと、声を出した。「絵の……人ですか」

女は、ちいさく笑った。悲しい笑いだった。

「絵に描かれた者、と言うほうが、正しいのかもしれません。わたしは、この絵が描かれた日の、夕方に、この椅子に腰かけていた者。それから、ずっと。日が暮れるたび、この刻が来るたびに、目をさます。けれど、口がきけるのは、ほんのわずか。歌を知るひとが、前に立ってくれたときだけ」

「歌を、知る人」

「あの子守唄を。母が、わたしに歌ってくれた歌を。わたしが、あの子に歌ってやるはずだった歌を」

女の目が、また、うるんだ。

「わたしには、赤ん坊がいたのです」と、女は言った。

蝋燭の炎が、いっせいに、風もないのに、ゆれた。

「絵が描かれたのは、産み月の、ひと月ほど前でした」と、女は語りはじめた。声は低く、たどたどしく、けれど、堰を切ったように、とめどなかった。何十年、いや、何百年ぶんの言葉が、一気にこぼれ出しているようだった。

「夫が、絵師を呼んだのです。腕のよい、けれど変わった絵師でした。その絵師は、昼の光では描かない、と言いました。人のいちばん真実の顔は、昼と夜の境目にあらわれる、と。だから毎日、この刻になると、絵師はやってきて、わずかのあいだだけ筆をとり、日が暮れると帰っていきました。ひと月かかって、この絵は仕上がりました」

女は、窓の外の彗星を見た。

「あの星は、そのころ、毎晩のように昇っていました。絵師は、あれを描きたい、と言いました。あなたの子が生まれるころには、星は空を渡りきって、もう見えなくなっているだろう。だから絵のなかに、留めておきましょう、と。あなたと、あなたのお腹の子と、この星と、三つとも」

三つとも。

私は、女の膝を見た。組まれた両手。その手袋の、ないほうの右手が、ほんのわずか、腹のあたりへ動いた。もう、そこに膨らみはなかったけれど。

「それで」と、私はためらいながら訊いた。「赤ん坊は――」

女は、こたえなかった。しばらく、蝋燭を見ていた。

「絵が仕上がった、三日のちでした」と、やがて女は言った。「わたしは、産気づきました。長い、夜でした。星は、もう空の低いところまで来ていました。渡りきる前に、と、わたしは思いました。あの子が生まれるのを、星が見届けてくれるように、と。産婆が、灯りを絶やさぬように、と言いました。夫は、階下で、待っていました」

女の声が、だんだん、ちいさくなった。

「あの子は、うぶ声をあげました。たしかに、あげたのです。わたしは、それを聞きました。それから、あの子を、この腕に抱いて、あの歌を歌おうとしました。母が、わたしに歌ってくれた、あの歌を。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と」

女は、そこで、いちど、深く、息を吸った。

「その歌には」と、女は言った。「いわれが、あるのです。わたしの母は、こう言っていました。この歌は、ある古い書物から、写しとったものだ、と。母が娘のころ、彗星の見える夜にだけ、路地の奥に現れるという、ふしぎな古書店があった。木の看板に、ただ『月光書房』とだけ記された店。朝になれば、消えている。母は、あるとき、その店に、迷いこんだのだそうです。そして、一冊の、うすい歌集を、借りうけた。そこに、この子守唄が、載っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。母は、その歌を、わたしに歌ってくれ、わたしは、それを、あの子に、歌ってやるはずでした。書物から、母へ、母から、わたしへ、わたしから、あの子へ。星が、代々の空を、わたっていくように」

「けれど、その歌は」と、私はつぶやいた。「あなたのところで、途切れた」

「途切れました」と、女は、うなずいた。「星が、海を、わたりきる、その前に」

女は、そこで、口をつぐんだ。

「けれど」と、女はやっと、つづけた。「わたしは、その先を、歌えなかった。歌の途中で、わたしの目のまえが、暗くなったのです。産後の、血の道の患いだ、とあとで聞きました。わたしは、あの歌の、途中で、逝きました。星が、海を、渡りきる前に」

蝋燭の炎が、ひとつ、ふっと、消えた。

「あの子は」と、女は言った。「生きのびました。夫が、乳母を雇って、育てました。わたしは、それを、この絵のなかから、見ていました。この絵は、あの子の育つ屋敷の、いちばん奥の間に、掛けられていましたから。あの子が、はいはいをおぼえ、歩きはじめ、言葉をおぼえ――ときおり、この奥の間に迷いこんできては、わたしの絵を見あげるのを、わたしは、この刻になるたびに、見ていました」

「あの子は」と、女は、遠くを見る目で、つづけた。「よく、この奥の間に、忍びこんでは、叱られていました。奥の間は、亡くなった母の――つまり、わたしの絵のある、大切な部屋だから、入ってはいけない、と言われていたのでしょう。それでも、あの子は、入ってきました。何度も。この絵の前に立って、ちいさな首を、かしげて、わたしを、見あげるのです。まるで、どこかで会ったことのある人の顔を、思い出そうとするように。わたしは、その、ちいさなつむじを、抱きしめてやりたかった。けれど、腕は、絵具のなかで、凍りついたまま。ただ、見ていることしか」

女の、素手の右手が、宙で、何かを撫でるように、ゆっくりと、動いた。

「あの子は、あるとき、この絵に向かって、たずねたのです。『あなたは、だれ』と。わたしは、こたえたかった。『あなたの、母です』と。けれど、声は、出ませんでした。あの刻ではなかった。彗星の、昇る刻では。あの子は、しばらく、返事を待って、それから、さびしそうに、部屋を、出ていきました。わたしは、あの、去っていく、ちいさな背中を、何度、見送ったか、知れません」

「話しかけられたのですか」と、私は訊いた。「一度も」

「歌を、知りませんでしたから」と、女は言った。「あの子は、あの子守唄を、知らなかった。乳母は、べつの歌を歌いました。だから、あの子が前に立っても、わたしは、絵のまま、見ていることしか、できなかった。あの子は、わたしを、母だと知らずに、育ちました。それは、いいのです。それで、いいのです。ただ――」

女の、素手の右手が、ひらいて、また、握られた。

「ただ、わたしは、あの歌を、最後まで、歌ってやりたかった。途中で、絶えてしまったあの歌を。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――その、つづきを」

「つづきを、あなたは、おぼえていないのですか」

女は、ゆっくりと、首をふった。

「おぼえて、いたはずなのです。母が、毎晩、歌ってくれた。何百回、聞いたか、知れない。けれど、逝くときに、途中で切れてしまった。だから、わたしのなかで、あの歌は、途中で、途切れたまま、凍りついてしまった。星が海をわたるまで――そのさきが、思い出せない。何百年、ここで、たどりつづけても」

女は、両手を、膝のうえで、握りしめた。手袋の左手と、素手の右手を。

「はじめのうちは」と、女は言った。「あの子の育つのを、見ているだけで、しあわせでした。あの子が、大きくなり、屋敷を出て、どこかへ、去っていっても、わたしは、この絵のなかで、待ちました。日が暮れるたびに、目をさまし、この部屋に、誰か、来はしないかと、待ちました。屋敷が、火に、包まれた夜も、待ちました。炎が、壁を、なめても、この絵だけは、ふしぎと、焼けなかった。焼けるわけには、いかなかったのです。まだ、あの歌の、つづきを、聞いていなかったのだから」

「火事のあとは」と、私は訊いた。

「人の手から、人の手へ、わたされました」と、女は言った。「道具屋の、暗い蔵のなかで、幾年も、埃をかぶって、眠りました。それでも、日が暮れれば、目をさましました。そして、また、待ちました。ときおり、絵を、買いにくる人が、わたしの前に、立ちました。わたしは、その人ごとに、耳を、すませました。この人が、あの歌を、知っているだろうか、と。けれど、誰も、知りませんでした。誰も、あの、途切れた一節を、継いでは、くれませんでした。わたしは、そのたびに、絵に、もどりました。何十年も、何百年も、そうして」

女は、私を、まっすぐに、見た。

「そして、今日」と、女は言った。「あなたが、あの坂を、のぼってきた」

私は、椅子から、立ちあがった。

胸の底の、いちばん古い場所が、また、しずかに疼いていた。あの旋律を、私は知っていた。そして――そのつづきも、知っている気がした。

私は、幼いころ、たしかに、これを聞いた。誰かの膝のうえで。誰かの、あたたかな胸に、耳をあてて。その誰かは、この歌を、最後まで、歌ってくれた。途中で、途切れたりは、しなかった。

私は、目をとじた。

胸の底の、いちばん古い場所へ、手さぐりで、降りていった。言葉になる前の、記憶の底へ。まだ、目もはっきりと見えぬころ。あたたかな、やわらかな、乳と、蜜蝋の匂いのする、暗がりのなかへ。そこに、たしかに、声が、あった。旋律が、あった。誰かが、私を胸に抱いて、途切れることなく、最後まで、歌ってくれた、その、声が。

私は、その声を、なぞった。

そして、歌った。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

女が、はっと、顔をあげた。

「渡りきったら、朝が来る」と、私はつづけた。旋律は、胸の底から、ひとりでに、ほどけるように、あふれてきた。「朝が来たら、また会える。眠れ、眠れ、わたしの子。星が、海を、わたるまで」

そして、最後の一節を、私は歌った。

「わたるまで――わたるまで――わたしは、ここに、いるからね」

女は、両手で、顔を、おおった。

手袋の左手と、素手の右手で。肩が、ふるえていた。声を、殺していた。けれど、その泣き声は、殺しきれずに、蝋燭の炎を、いくつも、ゆらした。

長い、長い、あいだ。

やがて、女は、顔をあげた。頬は、濡れていた。けれど、その目は――さっきまでの、乞うような、待つような色は、消えていた。かわりに、ふかい、しずかな、安堵があった。

「それです」と、女は言った。「それが、つづきです。ああ。そうでした。星が、海を、わたるまで、わたしは、ここに、いる。それを、あの子に、歌ってやりたかった。ありがとう。あなたは、あの歌を、最後まで、届けてくださった」

「私は」と、私は言いかけて、ふいに、あることに、思いあたった。

私は、この歌を、誰から、聞いたのだろう。

祖母から。そう思っていた。けれど、祖母は、私が物心つく前に、亡くなっている。私が、祖母の膝のうえで、歌を聞いた記憶など、あるはずがない。では、母か。母は、歌のうまい人ではなかった。子守唄を歌ってくれた記憶は、ない。

では、この歌を、最後まで、私に届けてくれたのは、誰だったのか。

「あなたの、お名前は」と、私は、女に訊いた。

女は、ちいさく、微笑んだ。答えるかわりに、彼女は、素手の右手を、私のほうへ、さしのべた。

「これを」と、女は言った。「もらってください」

女の手には、手袋があった。

さっきまで、左手に嵌めていた、灰いろの、片方だけの手袋。いつのまに脱いだのか、それを、彼女は、私の手のうえに、そっと、のせた。

革は、あたたかかった。人肌の、ぬくもりがあった。

「対の、もう片方を」と、女は言った。「わたしは、あの子に、わたしそこねました。産着といっしょに、揃いの、ちいさな手袋を、縫っていたのです。あの子の、生まれてくる手のために。けれど、片方しか、縫いあがらなかった。もう片方を縫う前に、わたしは、逝きましたから。だから、あの子の手には、いつも、片方の手袋しか、なかった」

「片方の手袋」

「もう片方は、わたしが、握って、逝きました。ずっと、握っていました。この絵のなかでも。あなたに、渡すために。長い、長い、あいだ」

私は、手のなかの手袋を、見た。

それは、大人の手のものだった。けれど、女が、あの子のために縫った、というのなら――赤ん坊のための、ちいさな手袋のはずではないか。私は、混乱した。

女は、私の混乱を、見てとったようだった。そして、しずかに、言った。

「あの子は、育ちました。あなたが、いま、見ている、その手の、大きさに」

私は、手袋を握った、自分の右手を、見た。指の節の、ふとさ。手の甲の、静脈のうき方。四十年余りを生きてきた、私の、右手。それが、いつ、この手袋の主とめぐりあうために、この日、この坂を、のぼってきたのか。私は、めまいのような、けれど、どこかなつかしい、感覚に、包まれた。

「わたしは」と、女は、しずかに言った。「あなたが、いつか、来てくれることを、信じていました。信じる、というより、待つよりほかに、できることが、なかったのです。歌を、知るひとが。あの、途切れた歌の、つづきを、知るひとが。それは、たったひとり。母から、わたしから、伝わるはずだった、ただひとりの――」

女は、そこで、言葉を、切った。

言わなかった。けれど、言わなかったその言葉が、藍の光のなかに、たしかに、聞こえた。

蝋燭の炎が、ひとつ、また、ひとつと、消えていった。

窓の外の彗星が、藍の空の、いちばん低いところまで、沈もうとしていた。逢魔が時が、終わろうとしていた。境界の戸が、閉じようとしていた。

「時間です」と、女は言った。「星が、沈みます。海を、わたりきります。わたしは、絵に、もどります」

「待ってください」と、私は言った。「まだ――まだ、訊きたいことが」

「訊かなくても」と、女は、微笑んだ。「あなたは、もう、知っている。胸の底の、いちばん古い場所で。あなたが、あの歌を、最後まで、知っていたのは、なぜか。誰が、あなたに、その歌を、届けたのか」

私の目から、なぜか、涙が、あふれた。

理由も、わからぬままに。ただ、胸の底の、いちばん古い場所が、あたたかく、ほどけていった。まるで、ずっと、片方だけだった何かが、ようやく、対の、もう片方と、めぐりあったように。

「あなたは」と、私は、ふるえる声で、言った。「あなたは、私の――」

「眠れ、眠れ」と、女は、私の言葉を、やさしく、さえぎった。そして、歌った。こんどは、たどたどしくなく。よどみなく。最後まで。「星が、海を、わたるまで。わたるまで、わたしは、ここに、いるからね」

歌いおえると、女は、椅子に、深く、腰をおろした。膝のうえで、手を、組んだ。左手には――もう、手袋は、なかった。両手とも、素手だった。片方は、いま、私の手のなかにあるのだから。

女は、私を、見つめた。

そして、その目に、しずかに、絵具の膜が、もどっていった。

気がつくと、私は、貸し画廊「時雨堂」の、奥の間に、立っていた。

石の床は、寄せ木にもどっていた。鉛の桟の窓は、アルミの高窓にもどっていた。蝋燭の燭台は、どこにもなかった。天井の、ちいさな一灯だけが、いつのまにか、点いていた。

壁には、あの肖像画が、掛かっていた。

女が、椅子に、浅く腰かけている。灰がかった藍の衣。白い襟。膝のうえで、手を、組んでいる。けれど――両手とも、素手だった。左手にあったはずの、片方の手袋が、絵のなかから、消えていた。

そして、私の右手には、あった。

灰いろの、片方だけの、革の手袋。あたたかさは、もう、失せていた。けれど、それは、たしかに、私の手のなかに、あった。夢ではなかった。

私は、絵の女の顔を、見あげた。

その目は、もう、私を、見てはいなかった。永遠に、窓の外の、藍の空の、蒼い星の、沈んだあとの、名残を見つめる、しずかな、ガラスの目に、もどっていた。けれど、その口もとには――さっきまでは、なかった、かすかな、微笑みが、浮かんでいるように、見えた。乞うのでもなく、待つのでもない。すべてを、届けおえた者の、やすらかな。

私は、その絵に、ふかく、頭を、さげた。

帰りぎわ、私は、あることに、気づいた。

肖像画は、壁から、少し、傾いて掛かっていた。額縁の、右下の隅が、壁から、わずかに、浮いている。私は、それを、直そうとして、額に、手を、かけた。

そのとき、額の、裏がわに、何かが、挟まっているのが、見えた。

ちいさな、箱だった。

私は、それを、そっと、引きぬいた。手のひらに、のるほどの、ちいさな箱。藍いろの、紙の箱。表に、三日月が、ひとつ、刻まれていた。

マッチ箱だった。

「月光堂」と、ちいさな字で、印してあった。

ふってみると、なかで、乾いた音が、した。マッチが、まだ、いくらか、残っているらしかった。私は、なぜ、そんなものが、この絵の額の裏に、挟まれていたのか、わからなかった。けれど、なぜだろう、それを、もとの場所にもどす気には、なれなかった。私は、それを、手袋といっしょに、上着の、内かくしに、しまった。

受付の女性が、もどってきた。

「あら」と、彼女は、私を見て、少し、おどろいたようだった。「まだ、いらしたんですね。てっきり、お帰りになったものと」

「すみません」と、私は言った。「奥の絵に、見入ってしまって。あの、旧蔵品の」

「旧蔵品」と、彼女は、けげんそうに、くりかえした。「奥の間の絵、ですか」

「ええ。女の人の、肖像画です。窓の外に、彗星の描かれた」

受付の女性は、ふしぎそうに、私を見た。そして、奥の間のほうへ、目をやった。

「あの奥の間は」と、彼女は言った。「今回の企画では、使っておりません。空室です。何も、掛かっておりませんが」

私は、奥の間を、振りかえった。

天井の、ちいさな一灯の下、壁は、がらんと、白かった。何も、掛かっていなかった。肖像画は、なかった。椅子も、なかった。ただ、西の高窓から、暮れがたの、藍いろの、斜めの光だけが、床に、ほそく、帯を、引いていた。その光のなかを、埃が、ゆっくりと、回りながら、昇っていた。

油絵具の、古い、饐えたような匂いだけが、たしかに、残っていた。

私は、上着の、内かくしに、手を、あてた。手袋の、革の感触が、あった。マッチ箱の、角ばった感触が、あった。夢ではなかった。夢では、なかった。

坂を、くだった。

空を、見あげた。藍いろの空の、いちばん低いところに、蒼い星が、尾を引きながら、いままさに、沈もうとしていた。星が、海を、わたりきろうとしていた。逢魔が時が、終わろうとしていた。

私は、その星に向かって、胸のうちで、あの歌の、つづきを、歌った。

わたるまで――わたるまで、わたしは、ここに、いるからね。

その夜、私は、片方だけの手袋を、机のうえに、置いた。

そのかたわらに、藍いろのマッチ箱を、置いた。三日月の、刻まれた箱を。

そして、一本、マッチを、擦った。

ちいさな炎が、灯った。青みがかった、しずかな炎だった。その火が、机のうえの、片方だけの手袋を、照らした。灰いろの革が、蜜いろに、あたたかく、ふちどられた。

箱の側面には、ちいさな三日月とともに、消えかけた文字で、こう記されていた。「月光堂」――と。祖母の母が、遠い昔、彗星の夜に迷いこんだという、あの書店と、同じ名の。あるいは、この火の一本いっぽんが、代々、途切れた歌を、継ぐべき者を、待ちながら、そっと灯されてきたのかもしれなかった。絵のうしろの、暗がりで。誰にも、見られることなく。

私は、その火を見つめながら、思い出そうとした。

私を産んだ人のことを。私は、その人の顔を、知らない。写真も、ない。母――私を育ててくれた人は、じつの母ではなかった。私は、それを、ずっと前から、知っていた。乳母に育てられた、と、聞かされていた。私を産んだ人は、私が生まれた、その夜に、亡くなった、と。

その人の名は、誰も、教えてくれなかった。

けれど、いま、私は、知っている。あの、藍の衣の、白い襟の、女の顔を。膝のうえで、手を組んだ、その手の、片方だけの手袋を。窓の外の、蒼い彗星を。

そして、あの歌を。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

マッチの火が、指もとまで、燃えて、消えた。

部屋が、暗くなった。窓の外は、もう、すっかり、夜だった。彗星は、沈んで、見えなかった。海を、わたりきったのだ。

私は、暗がりのなかで、いろいろなことを、思い出した。

育ての母は、やさしい人だった。じつの子ではないと知りながら、私を、じつの子と、すこしも変わらず、育ててくれた。けれど、その母には、ふしぎな癖があった。日の暮れる刻になると、きまって、手を止めて、窓の外を、じっと、見るのだ。何を見ているのか、と幼い私が訊くと、母は、いつも、こうこたえた。「あんたのほんとうのおかあさんが、いまごろ、あんたを、見てるかもしれないねえ」と。

私は、その言葉を、子ども心に、こわいと思った。見ている、とは、どういうことか。どこから。けれど、いまなら、わかる。母は、知っていたのかもしれない。あの絵のことを。日の暮れる刻に、絵のなかから、こちらを見ている、若い女のことを。育ての母は、それを、こわがらせるためでなく、私に、伝えようとしていたのだ。あんたは、ひとりではない、と。あんたを、ずっと、見ている人が、いるのだ、と。

母は、あの子守唄は、歌わなかった。知らなかったのだから。けれど――と、私は、暗がりのなかで、はっと、思いあたった。

私が、あの歌を、最後まで知っていたのは。言葉をおぼえるより前に、誰かが、私を胸に抱いて、途切れることなく歌ってくれた、あの声は。

それは、逢魔が時の、絵のなかから、こぼれ出た声だったのではないか。私が、まだ、赤ん坊で、あの奥の間の、絵の下の揺りかごに寝かされていた、ほんの短いあいだ。乳母がまだ来る前の、生まれてすぐの、幾日か。あの女は――私を産んだ、あの人は――絵のなかから、逢魔が時のたびに、身を乗り出して、途切れた歌の、思い出せる限りを、私に、歌ってくれていたのではないか。だから、私の胸の底には、その旋律が、言葉になる前の場所に、しずかに、刻まれていたのではないか。

途切れたところまでを、母は、くりかえし、私に。そして、その先を――思い出せなかったその先を、今日、私が、母に、返した。

星が、海を、わたるまで。わたるまで、わたしは、ここに、いるからね。

歌は、こうして、絵から、赤子へ、赤子から、いまの私へ、そして、私から、絵の母へと、ひとめぐりして、ようやく、最後まで、つながった。

私は、暗がりのなかで、片方だけの手袋を、手に、とった。

そして、それを、自分の、右手に、嵌めてみた。

ぴたりと、合った。まるで、私の手の、大きさに、合わせて、縫われたかのように。何百年もの、あいだ、握られつづけて、待っていた、片方の。ようやく、対の、もう片方に――私の手に、めぐりあった、片方の。

私は、手袋を嵌めた右手を、胸に、あてた。

胸の底の、いちばん古い場所が、しずかに、あたたかかった。もう、疼いては、いなかった。ずっと、途中で途切れていた歌が、ようやく、最後まで、歌いおえられて、しずかに、眠りに、ついたように。

窓の外を、見た。

星の、沈んだあとの、藍の空に、ほのかな、名残の光が、まだ、溶けのこっていた。私は、その名残に向かって、もう一度だけ、口のなかで、つぶやいた。

おやすみなさい、と。

そして、はじめて――生まれてはじめて、私は、その人を、こう、呼んだ。

おかあさん、と。

翌朝、私は、もう一度、坂をのぼった。

貸し画廊「時雨堂」の、あった場所を、たしかめるために。けれど、坂の途中に、洋館は、なかった。あったのは、古い、蔦のからんだ、空き地だけだった。看板も、硝子戸も、奥の間も、どこにも、なかった。

近所の、花屋の老婆に、訊いた。

「時雨堂」なら、と、老婆は言った。ずっと昔に、火事で、焼けてしまったよ、と。もう、五十年も、六十年も、前の話さ、と。あそこには、昔、絵ばかり集めた、屋敷が、あってねえ。産で亡くなった、若い奥さまの、肖像画が、いちばん奥の間に、掛かっていた、という話だ。その絵だけは、火事のあとも、焼けずに、残った、というよ。けれど、それも、いつのまにか、どこかへ、行ってしまってねえ。

老婆は、そう言って、藍のような、遠い目を、した。

「あの絵はねえ」と、老婆は言った。「日の暮れる刻になると、絵のなかの女が、こちらを、見るんだ、と言われていたよ。何かを、訴えるように、ね。歌を、知っているひとを、待っている、と。その歌を、歌ってやれるひとが、いつか、来るのを」

老婆は、しわだらけの手を、藍いろの空にかざすようにして、遠い昔を、たぐりよせた。

「あの奥さまはねえ、産で亡くなる前に、生まれた赤ん坊を、どこか遠くの家に、里子に、出したのだそうだよ。屋敷には、あとつぎの、ごたごたが、あってねえ。赤ん坊の身を案じて、乳母が、こっそり、逃がしたとも聞く。だから、あの子が、どこで、どう育ったか、知る者は、もう、いない。もし、生きていれば、あんたくらいの、歳かねえ」

老婆は、そう言って、私の顔を、まじまじと、見た。ふしぎな目つきだった。まるで、何十年も昔に、この奥の間で、絵を見あげていた、ちいさな子の面影を、私のなかに、さがすように。

私は、内かくしの、片方の手袋に、そっと、手を、あてた。

「その人は」と、私は言った。「来たと、思います」

老婆は、ふしぎそうに、私を見た。それから、何も言わず、ただ、ちいさく、うなずいた。まるで、ずっと昔から、そのことを、知っていた、というように。

私は、坂を、くだった。

朝の光が、坂道を、まっすぐに、照らしていた。もう、藍いろの、斜めの光では、なかった。ものの輪郭は、くっきりと、していた。人は人、絵は絵、この世はこの世。境界の戸は、閉じていた。逢魔が時は、去っていた。

けれど、私の、右手には、片方の手袋が、あった。上着の、内かくしには、三日月の、マッチ箱が、あった。そして、胸の底には、最後まで歌いおえた、あの子守唄が、しずかに、眠っていた。

それらは、逢魔が時が去っても、消えなかった。

日の暮れる刻が来るたびに、私は、あの絵を、思い出すだろう。藍の衣の、白い襟の、女を。片方だけの手袋を。窓の外の、蒼い彗星を。そして、椅子に、深く腰かけて、両手を、素手のまま、膝に組み、やすらかに、微笑んでいた、その、顔を。

境界の戸が、いつ、ひらくかは、誰にも、わからない。けれど、その戸が、ひらいたとき、そのむこうから、誰かが、あなたを、見ているかもしれない。何かを、訴えるように。長いこと、待っていた者の、目で。

そのときは、どうか、耳を、すませてほしい。

その人が、たどたどしく、口ずさむ、途切れた歌の、つづきを。あなたは、もしかしたら、それを、知っているかもしれないのだから。胸の底の、いちばん古い場所で。あなたが、まだ、言葉を、おぼえるより前に、誰かが、あなたに、届けてくれた、その歌の、つづきを。

星が、海を、わたるまで。

わたしは、ここに、いるからね。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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