潮の忘れもの
潮の忘れもの
その浜が名前を持っていたことを、たしかに私は知っていた。けれども黄昏がその名を、波打ち際の砂へ吸わせるように、少しずつ奪っていくのだった。
夕方の五時をまわった頃、私は西の岬から下りて、その渚へ出た。仕事のことも、住んでいる町のことも、なぜここへ来たのかということも、坂を下りるあいだに一段ずつ、記憶の踏み段から足がすべって落ちていくようで、砂の上に立ったときには、私はただ、暮れかけた海を見にきた人、というだけの、ひどく軽い人間になっていた。
軽い、というのは、心もとない、ということでもあった。私は自分がだれであったかを、ここへ来て、少しずつ手放していた。手放していることに気づいていながら、それを止めようとする気が、なぜか起きなかった。たそがれというものには、そういうところがある。しがみついていたものの手を、そっとほどかせてしまう、やわらかな力が。
海は、紫に暮れかけていた。
沖のほうはまだ昼の名残の水いろで、そこから手前へ、藤いろ、菫いろ、と暮れが染みてきて、波打ち際の泡だけが、その紫の裾に置かれた白い縫い目のように、ちらちらと明滅していた。潮騒は、遠いところで大きな生きものが眠りながら息をしているような音を立てていた。吸って、吐いて、吸って、吐いて。その息づかいに合わせて、私の胸も、いつのまにか上下していた。
空を見れば、雲が、暮れの光を吸って、片側だけを橙に、もう片側を鉛いろに染めながら、ゆっくりと東へ流れていた。海鳥が、二羽、三羽、鳴きながら岬のほうへ帰っていく。その声も、暮れてゆく空気のなかでは、どこか水にとけたようにくぐもって聞こえた。すべてのものの輪郭が、ほんの少しずつ、やわらかくなっていた。
昼と夜が、ちょうどこの浜の上で入れかわろうとしていた。
こういう刻を、逢魔が時というのだと、祖母が言っていた。おうまがとき、と祖母は少し声をひそめて言った。ものの輪郭が水にとけたインクのようににじんで、人か、人でないものか、見分けのつかなくなる刻。そういうとき、道で行きあった者に、うっかり名を尋ねてはいけないよ、と。名を尋ねれば、相手も、こちらの名を尋ねかえしてくる。そうして名を渡してしまえば、もう、もとの岸へは戻れなくなる。
――なぜ、いまごろ祖母のことを。
祖母のことなど、もう長いこと思い出しもしなかったのに、この浜へ下りたとたん、祖母の声が、潮の匂いのなかから立ちのぼってきた。声だけではない。祖母の、節くれだった指も。その指が、私の髪をすいてくれたときの感触も。忘れたはずのものが、忘れたと思っていたぶんだけ深く、私のなかに沈んでいたのだと、いまになって気づかされた。
私は自分の掌を見た。右手には、灰いろの毛糸の手袋をはめていた。左手は、素手だった。片方の手袋は、坂の途中で落としたのだったか、それとも、はじめから片方しか持っていなかったのだったか、それすら思い出せなかった。素手の左の指先が、潮の風にさらされて、じんと冷たかった。
その冷たさだけが、いま、私がたしかにここにいることの証しのようだった。
私は、素手の左手を、口もとへ持っていって、はあ、と息を吹きかけた。白い息が、暮れかけた空気のなかに、ほんのいっとき、かたちを持って、それからほどけて消えた。息にもかたちがあるのだと、こういう刻には思い知らされる。かたちを持って、それから消えていく。すべてのものが、そうなのかもしれなかった。
砂の上には、私のもののほかに、足あとはなかった。この浜へ下りてくる者は、めったにいないのだろう。夏には、海水浴の人でにぎわうような浜でもなかった。岩の多い、痩せた渚で、砂のところどころに、黒い海藻や、割れた貝や、白く干からびた蟹の甲羅などが、打ち上げられていた。人が忘れていったもの、海が返してよこしたもの――そういうものばかりが、この波打ち際には、集まってくるようだった。
私は、なかば無意識に、砂の上のものを、ひとつ、拾い上げた。貝殻だった。桜貝の、片方だけの、うすい殻。もう片方は、どこにもなかった。私は、それを、しばらく掌にのせて見ていた。片方だけの貝。片方だけの手袋。この浜には、片方だけのものが、どうしてこんなに多いのだろうと思った。対になるはずのものが、片方だけ、置き去りにされて。私は、その桜貝を、そっと、もとの砂の上へ戻した。戻しながら、これも、だれかの忘れものなのかもしれない、と思った。だとすれば、私が持ち去るわけには、いかなかった。
波打ち際に、人がいた。
はじめ、それを人だとは思わなかった。打ち上げられた海藻の、大きなひとかたまりが、暮れかけた波にゆられているのだと思った。けれど近づくにつれ、それは背をこちらへ向けてうずくまる、ひとりの姿になった。
長い髪が、濡れて、背にはりついていた。髪は、黒いようでもあり、青みを帯びた灰いろのようでもあった。着ているものは――着ているものなのか、それとも身にまとっているのか、私にはうまく言えなかった。うすい、灰白色の布のようなものが、肩から幾重にも垂れて、その裾が波にひたされて、水と布との境目が、どこにあるのか見分けられなかった。
波が引くとき、その布が、ふわりと持ち上がった。
そのときたしかに、私は見た。布の裏に、細かな光の粒がびっしりと並んでいるのを。魚の腹のような、貝の内側のような、虹をひとつぶずつに砕いて撒いたような、そういう光が、暮れの薄明かりを受けて、青く、藤いろに、ちらりとひらめいた。
鱗だ、と思った。
同時に、羽衣だ、とも思った。
そのふたつの言葉が、私のなかで重なって、どちらとも決められないまま、私は足をとめた。潮騒だけが、私とその者とのあいだの、紫の空気を満たしていた。波が寄せ、その者の裾を濡らし、また引いていく。そのたびに、あの光の粒が、明るくなったり、暗くなったりした。まるで、その者が、波の呼吸に合わせて、まばたきをしているようだった。
「――もう、下りてきてしまったの」
その者が、こちらを見ずに言った。
声は、女とも、男とも、どちらともつかなかった。低く、けれど澄んで、貝殻を耳にあてたときに聞こえる、あの海の遠鳴りに似ていた。水を含んだような声だった。ひとことひとことが、口から出るというより、波打ち際からしみ出してくるようだった。
私は、なんと答えていいか分からなかった。だから、いちばん愚かなことを言った。
「あなたは、だれ」
その者が、ゆっくりと、こちらへ首をめぐらせた。
顔は――美しい、と言ってしまえばそれまでだったが、その美しさには、どこか浜辺のものではない冷たさがあった。目のふちが、少し濡れていた。頬の線が、暮れの光を受けて、貝の内側のように青白く光った。そして、その目が、私を見た。とても遠いところから、長いあいだ私を待っていたひとが、ようやく見つけた、というような目だった。その目に見つめられていると、私は自分が、はるか昔にどこかへ置き忘れられて、いまようやく拾い上げられた、小さな貝殻のような気がしてきた。
「名は、尋ねないで」
その者は言った。
「あなたが名を尋ねれば、わたしはあなたに名を尋ねかえす。そうして名を渡してしまえば、あなたは、わたしと一緒に沖へ行かなくてはならなくなる。あなたは、まだ、そちらの岸のひとでしょう」
祖母の言葉が、そっくりそのまま、その者の口から返ってきたようで、私はぞくりとした。けれど、こわい、とは思わなかった。こわさよりも、なつかしさのほうが、ずっと大きかった。まるで、ずっと昔にどこかで別れた者と、この浜で、もう一度めぐりあったような。会いたかった、という気持ちが、だれに向けたものとも分からぬまま、胸の底からせり上がってきた。
「尋ねません」
私は言った。「名は、尋ねません。だから――もう少しだけ、ここにいても」
その者は、少しのあいだ黙っていた。それから、波が引くほどのかすかさで、うなずいた。
「日が、海に入るまで」
その声には、約束の重みと、別れの予感とが、同じだけ込められていた。日が海に入るまで、というのは、たそがれのあいだだけ、ということだった。たそがれが、どれほどみじかいものかを、私はまだ、そのとき知らなかった。
私は、その者から少し離れて、砂の上に腰を下ろした。
濡れた砂が、尻の下でひやりと沈んだ。空は刻一刻と暮れて、菫いろが藍へ、藍がさらに深い群青へと移っていった。西のはずれだけが、まだ残照でうすく橙に燃えていたが、その残り火も、見ているうちに海に吸われて、細く、細くなっていった。
しばらく、私たちはなにも言わなかった。ただ、暮れていく海を、並んで見ていた。波が寄せては返し、寄せては返した。その繰りかえしのなかに、時というものが、ゆっくりと溶けていくようだった。私は、自分がどれほどのあいだ、そこに座っていたのか、もう分からなくなっていた。たそがれのなかでは、時は、砂時計の砂のようには落ちない。潮のように、寄せては返し、返しては寄せる。
「あなたは、なにを見にきたの」
その者が尋ねた。
私は答えようとして、答えを持っていないことに気づいた。
「――分からないのです」私は正直に言った。「坂を下りてくるあいだに、いろんなことを、忘れてしまった。なぜここへ来たのか。どこから来たのか。名前も、たぶん、あともう少しで忘れる。それが、こわいような、いっそ楽なような」
その者は、静かに笑ったようだった。笑うと、その頬の鱗だか羽衣だかの光が、いっそう細かくひらめいた。
「この浜は、忘れものの浜なの」
その者は言った。「みんな、ここへ、なにかを忘れにくる。そうと知らずに来る。潮が、その忘れものを、少しずつ沖へ運んでいく。だから、この浜の砂には、たくさんの名前が埋まっている。忘れられた名前が。波が寄せるたびに、砂のなかで、それがかすかに鳴るの。聞こえるでしょう」
私は耳をすませた。潮騒のなかに、たしかに、なにか――砂粒どうしがすれあうような、こまかな、無数のささやきが、あるようなないような。ざらざらと、しゃらしゃらと。それは名前の音だと言われれば、そう聞こえた。目を閉じると、その音は、いっそう近くなった。たくさんの人が、遠いところで、それぞれのだれかの名を、ひそひそと呼んでいるような。呼ばれても、もう振りむく者のいない、その名を。
「あなたも、忘れにきたのですか」
私は尋ねた。「あなたは――もとは、なんだったのですか」
尋ねてしまってから、これは名を尋ねるのと同じくらい、してはいけないことだったかもしれない、と思った。けれど、その者は怒らなかった。ただ、遠い沖のほうへ目を向けた。その横顔は、暮れていく光のなかで、いよいよ人のものではないように見えた。人のかたちを借りてはいるが、その借りものの下に、もっと大きな、もっと古いものが、透けて見えるようだった。
「わたしは、忘れられたものたちの、集まったもの」
その者は言った。
「昔、この浜には、たくさんの舟が出た。漁の舟が、渡りの舟が。出ていったきり、帰らなかった舟もある。帰らなかった者たちを、岸で待った人たちがいた。待って、待って、待ちくたびれて、その人たちもやがて死んだ。待つ気持ちだけが、行き場をなくして、この波打ち際にたまった。羽衣のように、鱗のように、幾重にも重なって。それが、わたし」
その者は、自分の肩から垂れる布を、そっと手で撫でた。波が引くたびに光る、あの無数の粒を。
「一枚一枚が、だれかの、待つ気持ちなの。この光の粒の、ひとつぶずつが。だれかが、岸に立って、沖を見つめた、その視線のなれの果て。だれかが、帰らぬ舟を思って流した、涙のなれの果て。そういうものが、幾百年ぶんも、この波打ち際に降り積もって、こうして、ひとつのかたちになった。だからわたしには、ほんとうの姿がない。人の待つ気持ちが、人のかたちを恋しがるから、こうして、たそがれのあいだだけ、人に似た姿を借りている。日が海に入れば、待つ気持ちは眠り、わたしはまた、ただの波の記憶に還る。羽衣を脱ぐように。鱗を落とすように」
私は、その言葉の意味を、半分も分からなかった。けれど、胸のいちばん奥のやわらかいところが、その言葉に触れられて、じんと痛んだ。半分も分からないのに、なぜこんなに痛むのだろう、と思った。あるいは、分からないからこそ、痛むのかもしれなかった。分かってしまえば、それは知識になる。分からないままのものだけが、いつまでも、胸のなかで疼きつづける。
「還ってしまうのですか」
「たそがれは、みじかいから」
その者は言って、空を見上げた。
つられて私も、暮れきろうとする空を見上げた。
そのときだった。
海と空の境の、ちょうど水平線の上に、ひとすじの蒼い光が、すっと昇った。
暮れゆく藍のなかに、それはあまりにも澄んで、あまりにも青かった。夕星などではない。もっと鋭く、もっと孤独な、細い尾を引いた蒼い星。逢魔が時の、まさにその徴として、いちばんに、たったひとつ、そこに昇っていた。ほかの星は、まだひとつも出ていなかった。夜のさきがけとして、その青い星だけが、暮れきる前の空に、たったひとり、灯をともしていた。
「彗星だ」私はつぶやいた。
「ミラ」
その者が、その名を口にした。「昔の人は、あれをミラと呼んだ。海をわたる星、と。あの星が昇ると、たそがれがはじまる。あの星が海に沈むと、たそがれが終わる。わたしのいのちは、あの星のぶんだけ」
蒼い星は、水平線のすぐ上で、じっと燃えていた。海の面に、その光が細く映って、暮れた波の上を、青い一本の道のように、こちらの渚まで伸びてきていた。その道は、まるで、あちらの岸と、こちらの岸とを、ひとすじに結ぶ橋のようだった。渡ろうと思えば、渡れそうな。けれど、渡ってしまえば、二度と戻れぬような。
その青い道の上を、その者は、ほんの少しだけ沖のほうへ、身を寄せたようだった。ほんの少し。けれど、その少しが、私には、ひどく遠いことのように思われた。
しばらく、私たちは、その青い星を見ていた。
星の光は、時がたつにつれ、少しずつ、けれど確かに、水平線のほうへ傾いていくようだった。あの光が沈めば、たそがれは終わる、とその者は言った。だとすれば、あの星の高さが、いま私に残された時間の、そのままのかたちなのだった。私は、あの星が、いつまでも沈まないでいてくれることを願った。願いながら、願っても潮の流れを変えられないことを、知ってもいた。
「あなたは、どうして」私は尋ねた。「たそがれのあいだだけ、姿を持つのですか。夜ではなく、朝でもなく、なぜ、この、昼と夜の境の刻に」
その者は、少し考えるように、波の音に耳をあずけた。
「境の刻だから」やがて、その者は言った。「昼は、ものの輪郭が、はっきりしすぎている。だれもが、自分の名を、しっかりと握っている。そういう刻には、わたしのような、名づけえぬものは、姿を持てない。夜もまた、闇がすべての輪郭を消してしまうから、わたしは、闇にまぎれて、かたちを失う。けれど、たそがれは、ちがう。ものの輪郭が、あるようで、ないようで――にじんでいる。そのにじみの、あわいのところにだけ、わたしは、しばし、かたちを結べるの。人でもなく、波でもなく、そのあいだの、うすい膜のようなところに」
「あわい、ですか」
「そう。境目。この浜そのものが、あわいでしょう。海と、陸との。寄せる波と、引く波との。濡れた砂と、乾いた砂との。その境目は、いつも動いていて、どこからが海で、どこからが陸か、だれにも決められない。わたしは、その動く境目の、生まれた子のようなもの。あなたも、いまは、あわいにいる。昼のあなたと、夜のあなたのあわいに。この岸のあなたと、あちらの岸のあなたの、あわいに。だから、わたしの声が、こんなにも近く聞こえるの」
私は、自分の足もとを見た。波が寄せて、私の靴の先を、ひたひたと濡らし、また引いていった。その、濡れた砂と乾いた砂との境の線が、波のたびに、少し前へ、少しうしろへと、動いていた。たしかに、どこからが海で、どこからが陸か、決められなかった。私は、いま、その、決められない場所に、立っているのだった。
「――こわくは、ないのですか」私は尋ねた。「たそがれごとに、かたちを持って、また、それを失って。何百年も、それを繰りかえして。こわくは、ないのですか」
「こわい、というのが、どういうことか、わたしには、よく分からない」その者は言った。「けれど、さびしい、というのは、少し、分かる気がする。かたちを持つと、目が生まれる。目が生まれると、見えるものができる。見えるものができると――こうして、あなたのような人に、会える。そして、日が沈むと、それを、失う。会って、失う。会って、失う。それを、さびしい、というのなら、わたしは、たそがれのたびに、さびしいのかもしれない。けれど、そのさびしさが、いやではないの。さびしさは、会えたことの、しるしだから。だれにも会わなければ、さびしくもならない」
その言葉は、しずかに、私の胸に落ちた。会えたことの、しるし。私は、いま、この者に会えている。だから、日が沈めば、私は、さびしくなる。そのさびしさは、この逢瀬が、たしかにあったことの、たったひとつの証しになるのだった。
「あなたには」私は尋ねた。「待っていた人が、いるのですか」
その者は、青い道を見つめたまま、こたえた。
「わたしは、待つ気持ちそのものだから、だれか一人を待っているのではないの。すべての待つ気持ちが、わたしのなかにある。けれど――」
その者は、少し言いよどんだ。
「いちばん古い記憶がある。この波打ち際で、いちばんはじめに、わたしのもとになった気持ちが。それは、ひとりの女の、待つ気持ちだった。その女は、毎日、この浜に立って、沖を見ていた。夫が、漁に出て、帰らなかったから。何年も、何十年も、その女は待った。年老いて、腰が曲がっても、それでも浜に下りてきた。そして、あるたそがれに、その女は、波打ち際に、ひとつのものを置いて、帰っていった。それきり、二度と、下りてこなかった」
「なにを、置いていったのですか」
「片方の、手袋」
私の胸が、とん、と鳴った。
「毛糸で編んだ、片方だけの手袋。両手ぶんを編んだのに、片方は、海に出た夫の手に、あたたかいようにと、持たせて送り出した。だから、女の手もとには、片方だけが残った。その残った片方を、女は、長いこと、大事に持っていた。けれど、もう自分も長くないと知ったとき、その女は、この浜に、その片方を返しにきた。海の底の、夫の手袋と、対になるようにと。そうすれば、あの世で、また、ふたつの手袋が、対になれるだろうと。その気持ちが――その、返しにきた気持ちが、わたしのいちばん古い、いちばんやわらかい芯なの」
私は、右手の手袋を、見た。
灰いろの、毛糸の、片方だけの手袋を。
「歌を、うたってくれませんか」
私は言った。なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。ただ、いま歌を聞かなければ、二度と聞けなくなる、という予感が、胸をせき立てた。
「歌」
その者は、けげんそうに私を見た。
「忘れてしまう前に」私は言った。「なにか、あなたの声で。あなたのことを、あともう少しだけ、覚えていられるように。日が沈めば、あなたは還ってしまう。私は、この岸に、ひとり残される。せめて、なにか――持って帰れるものを」
その者は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと、うたいはじめた。
眠れ、眠れ、と、その者はうたった。星が海をわたるまで。
それは、私の知っている歌だった。祖母が、まだ小さかった私の枕もとで、うたってくれた歌。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――そのつづきを、私はもう覚えていなかったのに、その者の声を聞いていると、忘れていたはずの言葉が、砂のなかからひとつぶずつ拾い上げられるように、私の口へ戻ってきた。
私は、その者と声を合わせて、うたった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、舟が港にかえるまで。
うたいながら、私は泣いていた。なぜ泣いているのか分からなかった。ただ、この歌をうたってくれた人が、もうこの世にいないということを、この瞬間に、たそがれの浜で、はじめて心の底から分かってしまった、というような泣きかただった。忘れていたことを、思い出すための泣きかただった。涙は、頬をつたって、顎から、砂へ落ちた。砂は、その涙を、たちまち吸った。この浜が吸ってきた無数の涙の、そのいちばん新しいひとしずくとして。
その者は、うたいながら、じっと私を見ていた。その目のふちが、いっそう濡れていた。
歌が、二番へ、三番へと続くにつれ、私は思い出していった。祖母が、この歌をうたうとき、いつも、少し目をつむっていたこと。うたいおわると、決まって、窓の外の――海のある方角の――空を、しばらく見ていたこと。祖母は、この歌を、私にうたっていたのではなかったのかもしれない。海のむこうの、だれかに、うたっていたのかもしれない。私は、その祖母のとなりで、ただ、そのおこぼれの子守唄を、もらって眠っていただけなのかもしれなかった。
けれど、おこぼれでも、よかった。おこぼれの子守唄が、こうして、私のなかに、何十年も生きのこって、いま、このたそがれの浜で、私を、泣かせている。祖母がうたい、その祖母もまた、だれかからもらってうたった歌。この歌は、そうして、幾世代も、女の口から女の口へと、渡されてきたのにちがいなかった。ちょうど、あの片方の手袋のように。ちょうど、待つ気持ちのように。歌もまた、片方だけでは、なりたたない。うたう者と、聞く者と、ふたつがそろって、はじめて、歌になる。いま、私は、うたう者であり、同時に、聞く者だった。私は、私自身に、この歌を、返しているのだった。ずっと昔、祖母から、もらったこの歌を。
その者の声と、私の声とが、波の音のなかで、ときにひとつになり、ときに、少しずれた。ずれたところに、ふしぎな和音が生まれた。人の声と、人ならぬ者の声とが、たそがれのあわいで、こすれあって、たてる、その和音は、この世のどの楽器の音にも似ていなかった。潮騒が、そこに、低い通奏低音のように、ずっと寄りそっていた。私は、この和音を、生涯、忘れないだろうと思った。そして、そう思ったそばから、これもまた、いつか忘れていくのだろうということも、分かっていた。忘れて、それから、また、なにかのはずみに、思い出すのだろう。ちょうど、いまのように。
「あなたは、待たれたことがあるのね」
歌がおわると、その者は言った。「あなたのなかに、だれかがあなたを待った気持ちが、まだ残っている。だから、わたしの声が聞こえるの。待たれた者にしか、待つ気持ちの声は聞こえないから」
私は、右手の手袋を見た。灰いろの、毛糸の、片方だけの手袋。
不意に、思い出した。
これは、祖母が編んでくれた手袋だった。両手ぶんを編んでくれたのに、私は片方をどこかで失くして、それでも捨てられずに、残った片方を、いつも鞄の底に入れていた。いまここへ来る坂の途中で、ふと取り出して、右手にだけはめたのだった。忘れないために。なにを忘れないためだったか――祖母のことを、だ。祖母が、この浜の生まれだったということを。祖母が、生涯にひとりだけ、海に出て帰らなかった人を、待ちつづけたということを。
その、帰らなかった人というのは、私の祖父だった。私は、祖父の顔を知らない。写真の一枚も、残っていなかった。ただ、祖母が、生涯、その人を待ちつづけたということだけを、私は、母から聞いて知っていた。母もまた、父の顔を知らずに育ったのだった。私たちの家系は、海に、男を一人、貸したきり、返してもらえなかった家系だった。そして、その貸したものを、女たちが、代々、待ちつづけてきた家系だった。
私は、その待たれた気持ちの、末に生まれた者だった。
「あの女は」私は言った。震える声で。「あの、いちばん古い記憶の、片方の手袋を返しにきた女は――私の、祖母です」
その者は、驚かなかった。ただ、静かに私を見て、うなずいた。まるで、はじめから、そうと知っていたように。
「だから、あなたが、下りてこられたの」その者は言った。「この浜へは、だれでも下りてこられるわけではないの。待つ気持ちの、その血を引く者だけが、たそがれの刻に、この渚まで、下りてこられる。あなたは、あの女の、待つ気持ちの、生きた続き。だから、わたしは、あなたに会えた。いちばん古い記憶の、その末の枝に、こうして、もう一度、触れることができた」
その者は、手を伸ばして――まだ、そのときは、指のかたちがあった――私の頬に触れかけて、けれど、触れる寸前で、その手を止めた。
「触れては、いけないの」その者は言った。「まだ。日が沈むまでは。触れれば、あなたは、こちらの岸のものになってしまう。それは、いけない。あなたは、生きて、この待つ気持ちを、また次へ、渡していかなくてはならないから」
私は、その、宙で止まった手を見つめた。触れてほしい、と思った。触れて、いっそ、こちらの岸へ連れていってほしい、とさえ、いっとき思った。けれど、その者の目が、それを許さなかった。その目は、私に、生きよ、と言っていた。この岸で、生きて、待て、と。
日が、沈もうとしていた。
西のはずれの、最後の橙の一線が、海に吸われて、ふつりと消えた。あたりは、いよいよ藍に、群青に、暮れていった。水平線の上の蒼い星――ミラだけが、ますます冴えて、青い道を渚まで伸ばしていた。
その者の姿が、変わりはじめていた。
肩から垂れた灰白色の布が、波が引くごとに、ひとひらずつ、ほどけていくのだった。ほどけた布は、光の粒になって、宙に舞い上がり、暮れた空へ吸われていった。羽衣が、風にほどけていくように。あるいは、鱗が、一枚ずつ、水にとけていくように。ひとひら、ほどけるたびに、その者の輪郭が、ひとまわり、うすくなった。
その者の輪郭が、にじみはじめた。逢魔が時の、まさにその境で、人のかたちと、波のかたちとが、どちらともつかなくなっていった。首から下は、もう、波と見分けがつかなかった。ただ、顔だけが、まだ、私のほうを向いていた。
「還るのですね」
私は言った。声がふるえた。
「みじかい逢瀬だった」
その者は言った。ほどけていく布のあいだから、その顔が、まだ、私を見ていた。
「あなたに会えて、うれしかった。待たれた者に、待つ気持ちの歌を聞かせられて。わたしのなかの、いちばん古い記憶――だれかを待って、待って、待ちくたびれた、あの気持ちが、あなたのなかに、ちゃんと生きて、あたたかく続いていることが分かって。もう、これで、思い残すこともない。何百年も、わたしは、この波打ち際で、たそがれごとに人のかたちを借りては、還り、借りては、還りしてきた。けれど、こんなに満ちたりたたそがれは、はじめて」
「行かないで」私は言った。
言ってしまってから、これがどれほど無力な言葉かを知った。潮を止められないように。日の沈むのを止められないように。私には、この者を、ここに留めることはできなかった。留めたい、と、こんなに強く思うのに、その気持ちは、両手ですくった水のように、指のあいだから、こぼれ落ちていくばかりだった。
「留めたい、と思ってくれること」その者は、にじんでいく顔で、ほほえんだ。「それが、待つ気持ちの、はじまりなの。あなたがそう思ってくれたから、わたしは、また、だれかに待たれる。だから、行けるの。留めたいと思われることは、待つ気持ちを、あなたの岸へ、渡すことだから。あなたは、いま、あの女から受けついだ待つ気持ちの上に、あたらしい待つ気持ちを、ひとつ、重ねた。わたしを留めたいという、その気持ちを。それは、これから、あなたのなかで、生きていく。そして、いつか、あなたの子か、孫か、そのまた末の枝の、だれかへと、渡っていく」
その者は、片方の手を、こちらへ伸ばした。
もう、指のかたちは、なかった。それは、波の、白い泡の、ひとつらなりだった。けれど私は、その泡に、自分の左の――素手の、冷たい――手を、そっと重ねた。
冷たくは、なかった。
生あたたかい、潮の温度だった。ずっと昔、まだ言葉も覚えない私を抱いた、だれかの掌の温度だった。祖母の掌の温度だった。あるいは、祖母の、そのまた祖母の。この浜に立って、沖を見つめつづけた、無数の女たちの、掌の温度だった。私は、その温もりのなかに、私の血のはじまりの、いちばん古い泉に、指先だけ、触れているのだった。
「あなたの、その手袋を」
その者が言った。「片方だけの、それを。海に、返してくれる? 対になるはずのものを、片方だけ残して、待ちつづけている――それは、わたしと、おなじものだから。わたしが、連れて還る。もう、片方は、失くさないように。あの女が、あなたの祖母が、そうしたように。海の底で、対になれるように」
私は、右手の手袋をそっと脱いだ。灰いろの毛糸の、祖母の手袋を。手袋の内側には、まだ、私の掌の温もりが残っていた。その温もりごと、私は、それを、波打ち際に、そっと置いた。
波が寄せて、それをくわえて、引いていった。
手袋は、暮れた波の上を、ミラの伸ばした青い道の上を、するすると沖へ運ばれていった。片方だけの、待ちつづけた手袋が。その者と、いっしょに。私は、それが、青い道のいちばん遠いところで、ふっと沈んで見えなくなるまで、見つめていた。まばたきひとつ、しなかった。まばたきをすれば、その一瞬に、それが消えてしまう気がしたから。
日は、沈みきった。
たそがれは、終わろうとしていた。
その者の姿は、もう、ほとんど波と見分けがつかなかった。ただ、暮れきる寸前の、いちばん深い藍の空気のなかに、その者の声だけが、貝殻を耳にあてたときの遠鳴りのように、まだ、私のそばにあった。
「ひとつ、教えてあげる」その声は言った。「あなたが、坂の途中で失くしたと思っていた、もう片方の手袋。あれは、失くしたのではないの。ずっと昔、あなたのおばあさんが、この浜に、返しにきたのよ。待っていた人へ、届くようにと。だから、あなたの手袋は、はじめから、片方だけだった。片方は、もう、この海の底で、待っていた人の手に、渡っている。あなたが、いま、返した片方は――その、対になる、もう片方。あなたのおばあさんの片方と、あなたの片方とが、いま、海の底で、対になったの。祖母と、孫の、待つ気持ちが、ひとつになった。これで、対は、そろった」
私は、暮れた海を見た。
もう、なにも見えなかった。ただ、蒼いミラの星が、水平線のすぐ上で、いままさに、海に沈もうとしていた。青い道が、少しずつ、渚から巻き取られるように、短くなっていった。あちらの岸と、こちらの岸とを結んでいた橋が、いま、あちら側から、静かにたたまれていくのだった。
「さようなら」私は言った。
「さようなら、とは言わない」その声は、もう、ずいぶん遠かった。「たそがれは、みじかいけれど、明日も、あさっても、めぐってくる。日が沈むまえの、あの紫の刻に、この浜へ来れば――わたしは、また、だれかの待つ気持ちのかたちを借りて、ここにいる。人か、人でないものか、見分けのつかない、あの刻に。だから、これは、さようならではなくて。またね、というの。またね」
蒼い星が、海に沈んだ。
たそがれが、終わった。
夜が、渚に下りてきた。
私は、しばらく、暮れきった砂の上に立っていた。
潮騒は、あいかわらず、遠いところで大きな生きものが眠りながら息をする音を立てていた。吸って、吐いて、吸って、吐いて。けれど、その息づかいのなかに、もう、あの砂のささやき――忘れられた名前たちの音は、聞こえなかった。私が、名前を、思い出したからかもしれなかった。
私は、自分の名を思い出していた。祖母の名も、祖母の待った人の名も。坂を下りるあいだに落としてきた記憶が、いつのまにか、ひとつ残らず、私のなかに戻っていた。いや、戻ってきただけではなかった。私は、来たときよりも、たしかに、なにかを多く持っていた。祖母がなぜ、生涯あの子守唄をうたいつづけたのか。母がなぜ、海のある町を離れなかったのか。そして、私自身が、なぜ、なんの用もないのに、この浜へ、たそがれに引き寄せられるように下りてきたのか。その、いちばん奥の理由を、私は、いま、知っていた。
ただひとつ、あの者の名だけが――尋ねなかったあの名だけが、ぽっかりと、砂の窪みのように空いていた。その空白は、ふしぎと、寂しくはなかった。むしろ、そこに、あの者が、ちゃんといるようだった。名を尋ねなかったからこそ、あの者は、私のなかに、名づけえぬまま、いつまでも生きつづけるのだと、そう思った。名は、そのものを、ひとつの言葉に閉じこめてしまう。名づけないことは、閉じこめないことだった。
私は、両手を見た。
両手とも、素手だった。もう、手袋はなかった。片方だけの手袋は、海に還った。けれど、私の右の掌には、まだ、あの毛糸の編み目の、かすかな温もりが残っているようだった。そして左の掌には、あの、生あたたかい潮の温度が。
私は、右手と左手を、そっと合わせた。
対になった。片方だけだったものが、いま、私自身の両手のなかで、ようやく、対になった。海の底で、祖母の手袋と、私の手袋が対になったように。こちらの岸では、私の右手と左手が、対になった。祈るように、私は、合わせたその両手を、額に押しあてた。潮の匂いが、掌から、鼻へ、抜けていった。
坂を登って、町へ帰る道を、私はゆっくりと歩いた。
もうすっかり夜だった。空には、無数の星が出ていた。けれど、あの蒼い星――ミラは、もう、どこにも見えなかった。海に沈んだきり、この夜の空には、昇ってこなかった。あの星は、たそがれの星だった。夜には、けっして姿を見せない。次にあの星を見るには、また、あすのたそがれを、待たなくてはならなかった。待つ、ということを、私は、この浜で、はじめて、恐れではなく、いとおしいものとして、覚えた。
途中、路地のいちばん奥に、ぽつりと、灯りがともっているのが見えた。
こんなところに、店などあっただろうか、と思った。木の看板に、ただ「月光書房」とだけあった。硝子戸のむこうに、古い本が、天井まで積まれているのが見えた。帳場の卓の隅に、三日月を刻んだ、藍いろの小さなマッチ箱が置かれていて、その火が――だれかが、いま、火をともしたばかりの、その火が――一冊の本の背を、あたたかく照らしていた。
私は、硝子戸のそばに、しばらく立っていた。その火の照らす本の背に、なんと題がついているのか、読みとろうとした。けれど、暮れきった路地の薄闇と、硝子の反射とで、それは読めなかった。ただ、その火の色が、あのたそがれの残照に、どこか似ていた。橙と、藤いろの、まじりあった色。昼が夜へ渡っていく、あの一瞬の色を、だれかが、小さなマッチの火のなかに、閉じこめておいたようだった。
私は、その灯りのなかへ、入ろうとして、やめた。
いまはまだ、あの浜のことを、だれかの物語にしてしまいたくなかった。もう少し、私だけのものにしておきたかった。あの、たそがれの、みじかい逢瀬を。物語にしてしまえば、それは、私の手を離れて、だれかのものになる。それは、あの手袋を、海に返すのと、少し似ていた。返すのは、まだ、早い気がした。もう少し、この胸の底で、あたためていたかった。
私は、店に背を向けて、坂を登った。
登りきったところで、一度だけ、ふり返った。
路地の灯りは、もう、消えていた。あるいは、はじめから、なかったのかもしれなかった。ただ、坂の下、暮れきった夜の底のほうで、海が、あいかわらず、大きく息をしていた。吸って、吐いて。まるで、そのなかに、片方だけの手袋を抱いて眠る、だれかがいるように。いや、いまはもう、片方だけではなかった。対になった手袋を抱いて、ようやく、安らかに眠る、だれかがいるように。
私は、いつか、また、あの浜へ下りていくだろう。日の沈むまえの、あの紫の刻に。人か、人でないものか、見分けのつかない、あの逢魔が時に。そして、そのときも、私はきっと、名は尋ねまい。ただ、あの遠鳴りの声で、もう一度あの歌をうたってもらえたら――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――それだけで、私は、この岸で、生きていける気がした。
家に帰りついたのは、夜も更けてからだった。私は、鞄の底を、あらためた。もう、そこに、手袋はなかった。片方だけの手袋は、たしかに、海に還ったのだった。けれど、鞄の底には、砂が、ひとつまみ、たまっていた。あの浜の砂だった。私は、その砂を、掌にのせて、しばらく見つめた。この砂のなかに、いくつの名前が、眠っているのだろうと思った。呼ばれても、もう振りむかない、その名たちが。私は、その砂を、窓辺の小さな硝子の器に、そっとあけた。海のある方角の、窓辺に。祖母が、いつも、海のほうを見ていた、その窓辺に。
その夜、私は、ひさしぶりに、夢をみた。
夢のなかで、私は、まだ、あの浜にいた。たそがれの、紫に暮れる浜に。波打ち際に、ひとりの、腰の曲がった老女が、立っていた。うしろ姿だった。老女は、沖のほうを、じっと見ていた。その手には、片方の手袋が、握られていた。私は、その老女が、だれだか、すぐに分かった。声をかけようとして、けれど、声が出なかった。老女は、ゆっくりと、その手袋を、波打ち際に置いた。そして、ふり返った。
その顔は――祖母の顔であり、同時に、あの、名を名乗らぬ者の顔でもあった。ふたつの顔が、たそがれのあわいで、にじみあって、ひとつになっていた。老女は、私を見て、ほほえんだ。なにか言ったようだったが、それは、潮騒にまぎれて、聞きとれなかった。ただ、その口が、眠れ、眠れ、と動いたようだった。星が、海を、わたるまで。
目がさめると、窓のそとは、まだ、暗かった。夜明けには、間があった。私は、しばらく、天井を見ていた。それから、起きあがって、窓辺の硝子の器を、手にとった。あの浜の砂が、暗がりのなかで、かすかに、青白く光っているように見えた。気のせいだったかもしれない。けれど、私は、その光を、あのミラの星の、いちばん最後のひとかけらのように思った。海に沈んだあの星が、砂のひとつぶに、宿って、私の窓辺まで、ついてきてくれたように。
たそがれは、みじかい。
けれど、みじかいからこそ、日はまた沈み、星はまた昇り、待つ気持ちは、岸から岸へと、いつまでも渡っていくのだった。片方だけの手袋が、もう片方を、海の底で、いつまでも待っているように――そして、いつか、たしかに、対になれるように。