六人目を数える
一
夕方の五時を過ぎると、村の空はいちど水に溶いた墨のような色になる。西の山の稜線だけが、まだ火を落としきれぬ竈のように橙に燃えていて、そこから東へ向かって、空は橙、桃、藤、藍と、まるで誰かがゆっくりと絵筆を運んでいくように色を移していく。その移り変わりのいちばん深いところ、藍と紫の境目のあたりに、私は毎日、しばらくのあいだ立ち止まる。
そこが、ものの輪郭のいちばん溶けやすい刻(とき)だからだ。
村の年寄りたちはこの刻を、逢魔が時と呼んだ。おうまがとき、とも、たそがれ、とも言った。たそがれは「誰(た)そ彼(かれ)」――向こうから来る人の顔が、暮れの薄明かりに紛れて、あれは誰だろう、あの人は誰だろうと問わねばならぬほど、見分けがつかなくなる刻のことだと、祖母は私が幼いころに教えてくれた。
「この刻はな、こっちの道と、あっちの道が、いちばん近くなるんよ」
あっちの道、というのが何を指すのか、幼い私にはわからなかった。ただ祖母の声の、ふだんより一段低い、囁くようなその調子が、私の背筋を冷たく撫でていったことだけは、今もよく覚えている。
私はいま、その祖母がかつて子守をした同じ場所に立っている。村外れの、小さな児童公園である。公園といっても、都会の子が思い描くような整った遊具のあるところではない。錆の浮いた鉄棒がひとつ、色の褪せた滑り台がひとつ、それに砂場と、大きな椋(むく)の木が一本あるきりだ。椋の木は村の鎮守の縁に生えていて、その根方には、いつのころからか誰が置いたともわからぬ、苔むした石の地蔵が三体並んでいる。
私はこの村で生まれ、いちど町に出て、そして戻ってきた。戻ってきて、いまは村の子どもたちを夕方まで預かる仕事をしている。仕事、というと大げさだが、要するに、親たちが畑や勤めから帰るまでのあいだ、公園で遊ぶ子どもらを見ているだけのことだ。誰に頼まれたわけでもない。ただ、私が戻ってきたころには、村にはもう子どもの数がめっきり減っていて、その少ない子どもらが夕暮れの公園で遊んでいるのを見ると、なぜだか私はそこを離れられなくなった。
祖母がそうしていたように。
その日も、私は椋の木の下のベンチに腰かけて、子どもらを見ていた。
六月の終わりの、蒸し暑い一日だった。昼のうちは油蝉がやかましく鳴いていたのに、日が傾くと、蝉はふつりと鳴きやんで、代わりに蜩(ひぐらし)が、山の方から、カナカナカナと、糸を引くように鳴きはじめた。蜩の声は不思議なもので、聞いていると、なぜか胸のどこかが少し痛くなる。楽しいことが終わってしまう予感のような、そういう痛みだ。
子どもは、その日は五人いた。
いちばん年かさが、達也(たつや)。小学四年で、痩せて背が高く、いつも棒きれを剣のように振り回している。その妹の、さと。まだ幼稚園の年長で、兄のあとを金魚の糞のようについて回る。それから、隣の集落から自転車で来る双子の、まことと、まさる。この二人は顔がそっくりで、私でもときどき見分けがつかない。そして、いちばん小さい、みつ。三つになったばかりで、まだ言葉もあやしい。母親が近所の縫製工場に勤めているので、上の子らに混じって、砂場でひとり、砂を掬(すく)っては落とし、掬っては落とししている。
五人。私はその日、そう数えていた。
達也とまこととまさるは、椋の木の周りを、鬼ごっこだか陣取りだか、名前のわからぬ遊びで駆け回っている。さとは滑り台の上に座って、だんだんと暮れていく空を、口を半分開けて見上げている。みつは砂場だ。
私は数えた。一、二、三、四、五。
うん、五人だ。
日はさらに傾いた。山の稜線の火が、消し炭のように暗くなっていく。空の藍が、地面のほうまで降りてきて、椋の木の葉叢(はむら)が、一枚一枚の輪郭を失って、ただ大きな黒い塊になっていく。子どもらの顔も、だんだんと、のっぺりと、影絵のようになっていく。
こういう刻に、私はいつも、少し不安になる。
不安、というのとは違うのかもしれない。うまく言えない。ただ、この、昼が夜に呑まれていく、ちょうど境目のところで、私はいつも、世界がほんの少しだけ、ずれるような気がするのだ。まるで、いま自分の座っているベンチが、いつのまにか、少しだけ違う場所に運ばれているような。子どもらの声が、少しだけ、遠くから聞こえるような。
祖母は言っていた。この刻に外にいる子は、早う家に入れよ、と。魔がさすでな、と。
「魔がさす、って、なあに」
私が問うと、祖母は答えなかった。ただ、私の手をぎゅっと握って、家のほうへ引いていった。祖母の手は、ひどく冷たかった。夏の夕方だったのに。
蜩の声が、いっそう深くなった。
私はふと、また子どもらを数えた。癖のようなものだ。この刻になると、私はいつも、無意識に、子どもの数を数えてしまう。祖母もそうしていた。夕暮れの公園で、子どもらを見ながら、唇だけを小さく動かして、一、二、三、と。
一、二、三、四、五。
そして、六。
私は、数えるのをやめた。
いま、私は、六まで数えた。
指が、六本目のところで止まっている。私は、自分の唇が、たしかに「六」と動いたのを感じた。
胸の奥が、すっと冷たくなった。夏の夕暮れなのに、冷たい水を一滴、背骨のいちばん上のところに落とされたような、そういう冷たさだった。
私はもう一度、ゆっくりと数えた。
椋の木の周りを駆けているのが、達也、まこと、まさる。三人。滑り台の上に、さと。四人。砂場に、みつ。五人。
五人だ。
さっきのは、数え間違いだ。私は自分に言い聞かせた。日が暮れて、暗くなって、子どもらの影が地面に長く伸びて、その影を一人分、数えてしまったのだ。そういうことだ。そういうことに、決まっている。
けれど、私の目は、公園のあちこちを、ひとりでに探しはじめていた。もう一人。もう一人、どこかにいるのではないか。私が数え間違えたのではなく、たしかに、そこに、六人目がいるのではないか。
椋の木の、あの黒い葉叢の陰。滑り台の裏の、暗がり。砂場の向こうの、地蔵の並ぶあたり。
私の視線が、地蔵のあたりで、止まった。
そこに、子どもが、いた。
二
いや、いた、というのは正しくないかもしれない。
私が見たのは、地蔵の三体の、いちばん端のところ、苔むした石の像のすぐ横に、小さな影が、うずくまるように、しゃがんでいる、その輪郭だった。
背丈は、みつと同じくらい。三つか四つか。着ているものの色は、暮れの薄明かりのなかでは判じがたかったが、なんとなく、白っぽい、古い着物のような、そういうもののように見えた。この村では、もう長いこと、子どもに着物など着せる家はない。みな、町で買ってきた、蛍光色のジャンパーだの、キャラクターの描かれたシャツだのを着ている。
その子は、こちらに背を向けて、地蔵のほうを向いて、しゃがんでいた。
なにをしているのだろう。私はそう思った。そう思ったきり、私は、動けなかった。声も、出せなかった。
不思議なことに、私は、恐ろしいとは、思わなかった。
そのかわりに、私の胸には、なぜか、たとえようもない、悲しさのようなものが、じわりと滲んだ。その子の、小さな、丸い背中を見ていると、胸の奥のほうが、きゅうっと、締めつけられた。
なぜ悲しいのか、わからなかった。ただ、その背中が、あんまり小さくて、あんまり静かで、そして、あんまり――ひとりぼっちに、見えたからかもしれない。
蜩が、鳴いている。
達也たちの駆ける足音が、遠くのほうで、聞こえている。
私は、その子を、見つめていた。
どれくらい、そうしていただろう。
みつが、砂場から、ふらりと立ち上がった。
三つのみつは、まだ足元がおぼつかない。ぺたぺたと、砂に足を取られながら、みつは、地蔵のほうへ、歩いていった。
私は、はっとした。
みつが、あの子のほうへ、行こうとしている。
「みつ」
私は、やっと声を出した。けれど、その声は、自分でも驚くほど、掠(かす)れて、小さかった。まるで、水の底から呼んでいるような、そういう声だった。
みつは、振り返らなかった。ぺたぺたと、砂を踏んで、地蔵のほうへ、歩いていく。
あの子――しゃがんでいた白い影は、みつが近づいてくるのに気づいたのか、ゆっくりと、こちらを、いや、みつのほうを、振り向いた。
その顔は、見えなかった。暮れの藍が、その子の顔のあたりに、ちょうど溜まっていて、目も、鼻も、口も、なにもかもが、藍色の靄(もや)の向こうに沈んでいた。
けれど、私は、その子が、笑ったような、気がした。
うれしそうに。
まるで、ずっと、ずっと、誰かが来てくれるのを、待っていたかのように。
「みつ!」
私は、ベンチから立ち上がった。立ち上がって、みつのほうへ、走った。走ろうとした。
けれど、足が、うまく動かなかった。まるで、水のなかを走っているように、あるいは、夢のなかで走っているように、私の足は、思うように前に出なかった。地面が、遠い。みつが、遠い。あの、白い子が、遠い。
その、私が、もがくようにして数歩を進めるあいだに、みつは、あの子の、すぐ前まで、行ってしまった。
みつが、小さな手を、伸ばした。
あの子も、手を、伸ばした。
二つの、小さな手が――みつの、ぷっくりとした手と、あの子の、白い、細い手が、暮れの藍のなかで、触れ合おうとした、その、瞬間。
蜩が、鳴きやんだ。
ふつり、と。まるで、糸を鋏(はさみ)で切ったように。
村じゅうの、いや、世界じゅうの、あらゆる音が、その一瞬、消えた。
達也たちの足音も。風の音も。遠くの、車の音も。なにもかも。
しん、と。
その、恐ろしいほどの静けさのなかで、私は、聞いた。
三
歌が、聞こえた。
誰が歌っているのか、わからなかった。どこから聞こえてくるのか、わからなかった。ただ、それは、女の声だった。低く、優しく、けれど、どこか、この世のものではないような、遠い遠い、水の底から響いてくるような、そういう声だった。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
ひとつ、ふたつ、みつ、よつ、
数えるうちに、日が暮れる。
いつつ、むつ、と数えたら、
おいで、こちらへ、手をおひき。
ななつ、やっつ、ここのつ、とお、
とおまで数えりゃ、夜になる。
私は、その歌を、知っていた。
祖母が、歌っていた。私が、みつと同じくらいの年のころ、夕暮れの公園で、あるいは、寝床のなかで、祖母が、私の頭を撫でながら、この歌を、歌っていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
けれど、私は、この歌の、あとの半分を、いま初めて、思い出した。
いつつ、むつ、と数えたら、おいで、こちらへ、手をおひき。
この歌は――子守唄だと、私はずっと思っていた。子を寝かしつけるための、優しい歌だと。
けれど、違った。
これは、数え唄だった。
そして、この歌は――誘っているのだ。
いつつ、むつ、と数えたら、おいで、こちらへ。手を、おひき。
とおまで数えりゃ、夜になる。
私は、悟った。
いま、みつと、あの白い子とが、手を触れ合おうとしている。その手が、触れてしまえば――みつは、あちらの道へ、連れていかれてしまう。
とおまで数えりゃ、夜になる。
夜になれば、境は、閉じる。昼と夜の、こちらとあちらの、その細い細い境目が、閉じてしまえば――みつは、もう、戻ってこない。
神隠し。
村の年寄りたちが、声をひそめて語った、あの言葉が、私の頭のなかで、鐘のように鳴った。
私が幼いころ、村には、消えた子の話が、いくつもあった。夕暮れに遊びに出たきり、帰ってこなかった子。祭りの晩に、人混みのなかで、ふっと消えてしまった子。神社の裏山に登って、そのまま、山に呑まれてしまった子。
みな、逢魔が時の話だった。
祖母は、それを、恐ろしい話としてではなく、どこか、哀しい話として、語っていた。
「あの子らはな」と、祖母は言った。「連れていかれたんやない。呼ばれたんよ。あっちに、ひとりぼっちの子がおってな。さみしゅうて、さみしゅうて、こっちの子を、呼ぶんよ。いっしょに遊ぼう、いっしょにおろう、てな」
「呼ばれた子は、どうなるの」
「戻ってこん子も、おる。けどな」と、祖母は、私の手を握った。「呼んだ子を、哀れんでやれば、境は、そう易々とは、閉じん。呼んだ子も、もとは、こっちの子やったんやからな。さみしいだけなんよ。誰かに、気づいてほしいだけなんよ」
私は、そのとき、祖母の言葉の意味を、よくわからなかった。
けれど、いま、わかった。
哀れんでやれば。気づいてやれば。
私は、走るのを、やめた。
走っても、間に合わない。私の足は、この刻には、まるで水のなかにあるように、動かない。
私は、代わりに、声を、張り上げた。
歌った。
祖母が、歌ってくれた、あの歌を。けれど、私は、あとの半分ではなく、初めの半分を、歌った。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
私の声は、掠れて、震えていた。けれど、私は、歌った。あの、白い子に、届くように。あの、藍色の靄の向こうの、顔の見えない、小さな子に、届くように。
四
歌いながら、私は、その子のことを、思った。
あの子は、いったい、誰なのだろう。
いつの、子なのだろう。
白い、古い着物。この村で、もう長いこと、見なくなった、あの装(よそお)い。それは、いったい、何十年、何百年、前の――。
私の脳裏に、ふと、ひとつの記憶が、蘇った。
私が、まだ町に出る前、子どものころ、祖母に連れられて、村の墓地の、いちばん奥の、あまり人の行かないところへ、お参りに行ったことがあった。そこには、名前も刻まれていない、小さな、丸い石が、いくつも、並んでいた。
「これは、なあに」と、私は問うた。
「水子(みずこ)さんよ」と、祖母は言った。「生まれる前に、あるいは、生まれてすぐに、あっちへ帰ってしまった、小(ちい)さい子らよ。名前も、もらえんかった子ら。この世を、ろくに、見ることもできんかった子ら」
祖母は、その丸い石の、ひとつひとつに、手を合わせた。
「この子らはな」と、祖母は言った。「さみしいんよ。名前も、ないからな。誰にも、呼んでもらえんからな。せめて、逢魔が時にでも、ちょっと、こっちを覗(のぞ)いて、遊んでる子らを、見たいんよ。うらやましいんよ。そして、さみしいんよ」
そのとき、祖母が、その丸い石の、いちばん端のひとつの上に、なにかを、置いたのを、私は、覚えている。
それは、片方だけの、手袋だった。
小さな、赤い、子どもの手袋。片方だけ。
「これは」と、私は問うた。
「あの子のよ」と、祖母は、それだけ言った。あの子、が誰なのか、祖母は、教えてくれなかった。ただ、その、片方だけの赤い手袋を、丸い石の上に、そっと置いて、しばらく、目を、閉じていた。
私は、歌いながら、その、片方だけの赤い手袋のことを、思い出していた。
そうだ。あの子は――名前を、もらえなかった子。誰にも、呼んでもらえなかった子。この世を、ろくに、見ることもできなかった子。
だから、さみしいのだ。
だから、こちらを、覗いているのだ。
だから、みつの手を、取ろうとしているのだ。いっしょに、遊びたくて。いっしょに、いたくて。ひとりぼっちが、いやで。
私の胸の、あの、たとえようもない悲しさの正体が、ようやく、わかった。
あれは、あの子の、悲しさだったのだ。あの子の、さみしさが、逢魔が時の、溶けた境を越えて、私の胸に、滲みてきたのだ。
私は、歌をやめて、その子に、呼びかけた。
「――おいで」
私は、言った。
みつのほうへではなく、あの、白い子のほうへ、私は、両手を、差し伸べた。
「おいで。こっちへ、おいで」
私の声に、あの子が、みつのほうへ伸ばしていた手を、止めた。
藍色の靄の向こうの、見えない顔が、ゆっくりと、私のほうへ、向いた。
私は、もう一度、言った。
「みつじゃ、なくて――こっちへ、おいで。あんたに、話が、あるんよ」
私は、ベンチの、そばまで、いつのまにか、戻っていた。足が、動くように、なっていた。
私は、ベンチに、腰を、下ろした。そして、あの子のほうを、見て、静かに、言った。
「こっちへ、おいで。ここに、座り。話を、しよう。あんた、ずっと、ひとりぼっちで、おったんやろ。さみしかったんやろ。誰も、あんたのこと、見てくれんかったんやろ」
私の目から、なぜか、涙が、こぼれた。
自分でも、驚くほど、大粒の涙が、頬を、伝った。
「ごめんな」と、私は、言った。「ずっと、気づいてやれんで、ごめんな。ずっと、ひとりに、しといて、ごめんな」
五
みつが、ふと、我に返ったように、手を、下ろした。
あの子との、あいだの、繋がりのようなものが、その瞬間、ふつりと、切れた。
みつは、きょとんとした顔で、あたりを、見回した。それから、地蔵のほうを、いちど見て、けれど、もう、そこには、なにも、見えなかったのだろう、みつは、くるりと、向きを変えて、ぺたぺたと、砂場のほうへ、戻っていった。
砂場に戻ると、みつは、また、何事もなかったように、砂を、掬っては、落とし、掬っては、落とし、はじめた。
あの子は、地蔵の横に、しゃがんだまま、私のほうを、見ていた。
私は、ベンチに座って、その子に、話しかけつづけた。
「あんた、いくつになるん」と、私は問うた。もちろん、答えは、返ってこなかった。「三つか。四つか。みつと、おんなじくらいやね」
「ここは、あんたの、遊んどった、公園なんやろ。ずっと、昔に。あんたも、ここで、遊びたかったんやろ。滑り台も、砂場も、鉄棒も。けど、あんたは――」
私は、言葉を、切った。
「あんたは、生まれる前に、あっちへ、帰ってしまったんやね。名前も、もらえんで。誰にも、呼んでもらえんで」
あの子は、じっと、私を、見ていた。
暮れの藍が、いよいよ深くなって、あたりは、もう、ほとんど、夜だった。空の西の、山の稜線の、あの火は、もう、すっかり、消えていた。そして、東の空には――。
私は、ふと、空を、見上げた。
そこに、星が、ひとつ、昇っていた。
暮れゆく藍色の空の、まだ夜になりきらぬ、その深い群青の底に、蒼い、澄んだ星が、ひとつ、いちばんに、昇っていた。
それは、ふつうの星とは、少し、違っていた。ふつうの星が、点であるのに対して、その星は、ほんの少し、尾を引いていた。細い、蒼白い、絹糸のような尾を。
彗星だった。
私は、その名を、知っていた。子どものころ、祖母が、教えてくれた。
「あれはな、ミラ彗星いうんよ」と、祖母は、言った。「不思議な星でな。ふだんは、見えん。けど、何十年に、いちど、ふっと、あらわれる。ちょうど、逢魔が時に、いちばんに、昇るんよ。だから、村の者は、あれを、逢魔が時の、徴(しるし)いうんよ。あの星が、昇る晩は、境が、いつもより、うんと、薄うなる、いうてな」
いま、その、ミラ彗星が、昇っていた。
蒼い、澄んだ光が、暮れの藍の空から、公園に、降りてきた。その光は、椋の木の、黒い葉叢を、うっすらと、青く、縁取った。滑り台を、砂場を、地蔵を、青く、照らした。
そして、その光は、あの、白い子の上にも、降りてきた。
彗星の、蒼い光に照らされて、あの子の姿が、初めて、はっきりと、見えた。
六
それは、三つか、四つの、女の子だった。
古い、白い着物を着て、髪を、おかっぱに、切りそろえていた。その顔は――丸くて、色が白くて、そして、この上なく、あどけなかった。目は、大きくて、黒くて、けれど、その目のなかには、なにか、深い、深い、さみしさが、湛(たた)えられていた。
その子は、私を、見ていた。
そして、その子の、片方の手には――手袋が、はめられていた。
赤い、子どもの、手袋。片方だけ。
私は、それを見て、息を、呑んだ。
あの、墓地の、丸い石の上に、祖母が置いた、あの、片方だけの、赤い手袋。あれと、同じ、いや、あれ、そのものが、いま、この子の、片方の手に、はめられていた。
もう片方の手は、素手だった。小さな、白い、素手が、彗星の蒼い光に、青白く、光っていた。
私は、悟った。
祖母が、あの手袋を、墓地の石の上に、置いたのは――この子の、手袋だったのだ。
片方だけしか、なかったのは――もう片方を、この子が、こちらに、持ってきていたからだ。ずっと、ずっと、片方だけの手袋を、はめて、この子は、この公園を、彷徨(さまよ)っていたのだ。もう片方を、探すように。あるいは、もう片方を、手渡す相手を、探すように。
さみしゅうて、さみしゅうて。
私は、ベンチから、立ち上がった。
ゆっくりと、その子のほうへ、歩いていった。今度は、足は、水のなかにはなかった。すんなりと、前に、出た。
私は、地蔵の前まで、行って、その子の前に、しゃがんだ。目線を、その子と、同じ、高さにした。
その子は、逃げなかった。ただ、じっと、私を、見上げていた。大きな、黒い目で。
「あんた」と、私は、言った。「ずっと、ここに、おったんやね。ずっと、ひとりで。ずっと、誰かを、待っとったんやね」
その子は、答えなかった。けれど、その目が、ほんの少し、潤んだ、ように、見えた。
「その、手袋」と、私は、その子の、片方の手を、見て、言った。「片方だけ、やね。もう片方は、どうしたん」
その子は、ゆっくりと、その、赤い手袋の、はめられた手を、私のほうへ、差し出した。
まるで――これを、あげる、というように。
いや、違う。
まるで――これを、あなたに、渡したかった、というように。
私は、悟った。
祖母が、墓地の石の上に、置いた、もう片方の、赤い手袋。あれは、こちらの世に、留められた、片割れ。そして、この子が、はめている、この、赤い手袋は、あちらの世へ、持っていかれた、片割れ。
二つで、ひとつ。
けれど、それは、長い、長いあいだ、離れ離れに、なっていた。
こちらと、あちらに。
そして、この子は、ずっと、その、もう片方を、探していたのだ。片割れを。自分の、片割れを。
だから、逢魔が時に、境が薄くなるたびに、この子は、こちらを、覗きにきた。もう片方の、手袋を、探して。あるいは――もう片方の、手袋を、はめてくれる、誰かを、探して。
自分の、手を、握ってくれる、誰かを。
七
私は、その子の、差し出された手を、そっと、両手で、包んだ。
冷たかった。氷のように、冷たかった。夏の夕暮れなのに。かつて、祖母の手が、そうであったように。
けれど、私は、離さなかった。その、小さな、冷たい手を、私は、両手で、しっかりと、包んで、温めるように、握った。
「あんた」と、私は、言った。「名前は、あるん」
その子は、首を、横に、振った。
そうだ。この子には、名前が、ない。生まれる前に、あっちへ帰ってしまった子。名前も、もらえなかった子。誰にも、呼んでもらえなかった子。
だから、さみしいのだ。名前がないから。呼んでもらえないから。
私は、しばらく、考えた。
そして、言った。
「ほな、うちが、つけたる」
私は、その子の、大きな黒い目を、見つめて、言った。
「あんたの、名前。うちが、つけたる。ええか」
その子の目が、まっすぐに、私を、見た。
私は、空を、見上げた。
ミラ彗星が、蒼く、澄んで、暮れの藍の空に、輝いていた。細い、絹糸のような尾を、引いて。
私は、その、蒼い星の名を、思い浮かべた。そして、この、村で、いちばん美しい、夕暮れの、色のことを、思い浮かべた。空が、橙から、桃から、藤から、藍へと、移っていく、あの、境目の、いちばん深い、紫のことを。
「あんたの、名前は」と、私は、言った。「――むらさき、にしよう」
紫。
暮れの、境目の、いちばん深い、色。昼と、夜の、あわいの、色。こちらと、あちらの、境の、色。
「むらさき。ええ名前やろ。夕暮れの、いちばん、きれいな、色やで。あんたに、ぴったりや」
私は、その子の――紫の、手を、握ったまま、言った。
「むらさき。うちの、声、聞こえるか。むらさき」
私は、その子の名を、呼んだ。
初めて、その子は、名を、呼ばれた。
生まれてから――いや、生まれる前に、あっちへ帰ってから、初めて、その子は、名を、呼んでもらえた。
紫の、目から、涙が、こぼれた。
大粒の、涙が、あどけない、白い頬を、伝って、彗星の、蒼い光に、きらきらと、光りながら、落ちた。
けれど、その顔は、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
うれしそうに。この上なく、うれしそうに。
まるで、ずっと、ずっと、待っていた、なにかが、ようやく、叶ったかのように。
私も、泣いた。紫の、冷たい手を、握ったまま、私も、泣いた。
蜩が、また、鳴きはじめた。カナカナカナ、と。山の方から、糸を引くように。
世界に、音が、戻ってきた。達也たちの、駆ける足音。さとの、笑い声。みつの、砂を掬う、さらさらという音。風の音。遠くの、車の音。
なにもかもが、もとに、戻った。
境が、閉じようと、していた。
八
「むらさき」と、私は、言った。「もう、さみしくは、ないやろ」
紫は、頷いた。こくり、と。
「あんたには、名前が、できた。うちが、あんたのこと、呼んだる。逢魔が時に、この公園に、来たら、うちは、いつでも、あんたのこと、数えたる。一、二、三、四、五――そして、六。六人目は、あんたや。むらさきや。もう、忘れへん。もう、ひとりぼっちには、せえへん」
紫は、また、頷いた。
そして、握られていた手を、そっと、抜いて――その、片方の手にはめていた、赤い手袋を、脱いだ。
小さな、赤い手袋。
それを、紫は、私のほうへ、差し出した。
「これを、うちに、くれるん」と、私は、問うた。
紫は、頷いた。
私は、その、小さな、赤い手袋を、受け取った。冷たかった。けれど、握っているうちに、だんだんと、私の掌(てのひら)の熱で、温かく、なっていった。
「ありがとう」と、私は、言った。「大事に、するわ。あんたの、片割れも、うちが、探して、いっしょに、しといたる。二つで、ひとつに、してやる。もう、離れ離れには、せえへん」
紫は、にっこりと、笑った。
そして、立ち上がった。
彗星の、蒼い光のなかで、紫の姿が、だんだんと、薄く、透きとおって、いった。まるで、朝の霧が、日の光に、溶けていくように。あるいは、水に落とした墨が、ゆっくりと、広がって、消えていくように。
「むらさき」と、私は、呼んだ。「また、おいで。逢魔が時に。うちは、ここに、おるから。いつでも、おるから」
紫は、頷いた。透きとおった、その顔で、最後に、いちど、私に、頷いて、そして――消えた。
蒼い光のなかに。暮れの藍のなかに。こちらと、あちらの、境の、あわいのなかに。
紫は、消えた。
けれど、私の掌には、まだ、温かい、小さな、赤い手袋が、あった。
私は、しばらく、地蔵の前に、しゃがんだまま、動けなかった。
空を、見上げた。
ミラ彗星は、まだ、そこに、あった。蒼く、澄んで、暮れの藍の空に、輝いていた。けれど、その光は、もう、あの、不穏な、境を薄くするような光では、なかった。ただ、静かに、優しく、私を、見下ろしているようだった。
まるで、紫が、あの星に、なって、私を、見ているような。
そんな、気が、した。
蜩が、鳴いている。カナカナカナ、と。
子どもらは、まだ、遊んでいた。達也が、まことが、まさるが、椋の木の周りを、駆け回っていた。さとは、滑り台の上で、笑っていた。みつは、砂場で、砂を、掬っていた。
私は、立ち上がって、子どもらのほうへ、歩いていった。
「さあ、みんな」と、私は、言った。「もう、暗いで。帰ろう。おうちに、帰ろう」
九
その日から、私は、夕暮れの公園で子どもらを数えるとき、いつも、六まで、数えるようになった。
一、二、三、四、五。そして、六。
六人目は、紫だ。
見えなくても、いても、いなくても、私は、六まで、数える。あんたを、忘れへんように。あんたを、ひとりぼっちに、せえへんように。
私は、あの、片方だけの、赤い手袋を、家に、持ち帰って、簞笥(たんす)の、いちばん上の抽斗(ひきだし)に、しまった。
そして、次の休みの日に、村の、いちばん奥の、墓地に、行った。
あまり人の行かない、いちばん奥の、名前も刻まれていない、丸い石の、並んでいるところ。
そこに、祖母が、かつて、置いた、もう片方の、赤い手袋が、あるはずだった。
けれど、そこには、なかった。
長い、長い、年月のあいだに、雨に、風に、飛ばされてしまったのか。あるいは、朽ちて、土に、還ってしまったのか。もう、そこには、片割れの、赤い手袋は、なかった。
私は、少し、途方に、暮れた。
二つで、ひとつに、してやると、私は、紫に、約束したのに。
けれど、私は、思い直した。
片割れは、もう、この世には、ない。けれど、それでいい、のかもしれない。
なぜなら――もう片方は、あちらに、あったのだ。紫が、はめていた、あの、赤い手袋。それを、紫は、私に、くれた。
そして、いま、その、あちらの片割れが、こちらの、私の、簞笥のなかに、ある。
二つの片割れは、もう、離れ離れでは、なかった。
こちらの片割れは、土に還って、この、墓地の、丸い石の下の、紫のところへ、還った。あちらの片割れは、私のところへ、来た。
つまり――二つの手袋は、それぞれ、境を、越えて、入れ替わったのだ。こちらの片割れは、あちらへ。あちらの片割れは、こちらへ。
二つで、ひとつ。けれど、それは、こちらと、あちらとに、分かれて、ひとつ。
私と、紫とが、こちらと、あちらとに、分かれて、けれど、繋がっているように。
私は、その、丸い、名もなき石の、いちばん端のひとつに、手を、合わせた。祖母が、そうしたように。
「むらさき」と、私は、囁いた。「あんたの、片割れは、うちが、預かっとるで。あんたの、もう片方は、あんたのところに、ちゃんと、還ったで。二つで、ひとつやで。もう、さみしゅうない、やろ」
風が、吹いた。
墓地の、木々が、さらさらと、鳴った。
まるで、紫が、返事を、したように。
十
それから、幾度も、逢魔が時が、めぐった。
私は、いまも、夕暮れの公園で、子どもらを、見ている。
達也は、もう、中学に上がって、公園には、来なくなった。さとが、いまは、いちばん年かさだ。双子の、まことと、まさるは、相変わらず、顔がそっくりで、私でも、ときどき、見分けが、つかない。みつは、もう、五つになって、言葉も、達者に、なった。
そして、村には、また、新しい、小さな子が、生まれて、公園に、加わった。
私は、いつも、六まで、数える。
一、二、三、四、五――そして、六。
六人目は、紫だ。
紫は、あれから、いちども、姿を、見せていない。
けれど、私は、知っている。紫が、いつも、そこに、いることを。
逢魔が時、暮れの藍が、地面まで降りてきて、ものの輪郭が、溶けはじめる、あの刻。子どもらの顔が、影絵のように、のっぺりと、なる、あの刻。私が、六まで、数える、あの刻。
そのとき、私は、いつも、地蔵の、いちばん端の、あたりに、ふと、視線を、やる。
そこに、なにも、見えは、しない。
けれど、私は、感じる。そこに、紫が、いることを。しゃがんで、あるいは、立って、子どもらの、遊ぶのを、見ていることを。もう、さみしくは、なさそうな、顔で。
そして、私が、六まで、数えると――紫は、笑うのだ。
見えなくても、私には、わかる。
ずっと、ずっと、待っていた、なにかが、叶った、あの、うれしそうな、顔で。
名前を、呼んでもらえた、あの、うれしそうな、顔で。
村の、年寄りたちは、いまも、逢魔が時を、恐れる。
早う、家に、入れよ。魔がさすでな。
子どもらを、夕暮れの外から、家のなかへ、引いていく。
けれど、私は、恐れない。
なぜなら、逢魔が時は、恐ろしい刻では、ない。それは、こちらと、あちらとが、いちばん、近くなる刻。この世と、あの世との、境が、いちばん、薄くなる刻。
そして、その、薄い境の、向こうには、名前も、もらえずに、誰にも、呼んでもらえずに、ひとりぼっちで、さみしがっている、小さな、小さな子らが、いるのだ。
その子らは、こちらを、覗いている。うらやましそうに。さみしそうに。誰か、気づいて、くれないかと。誰か、名前を、呼んで、くれないかと。誰か、手を、握って、くれないかと。
祖母は、言っていた。
「呼んだ子を、哀れんでやれば、境は、そう易々とは、閉じん」
いま、私は、その言葉の、本当の意味が、わかる。
哀れんでやれば。気づいてやれば。名前を、呼んでやれば。手を、握ってやれば。
そうすれば、あちらの、さみしい子は、こちらの、子を、連れていったり、しない。
ただ、いっしょに、いるだけで、いいのだ。ただ、気づいて、もらえれば、いいのだ。ただ、呼んで、もらえれば、いいのだ。
さみしいだけ、なのだから。
私は、いつか、この村を、去る日が、来るだろう。年老いて、この、夕暮れの公園に、立てなく、なる日が。
けれど、そのときは、誰かに、伝えていこうと、思う。
祖母が、私に、伝えたように。
逢魔が時に、子どもらを、数えたら、一人、多いことが、ある。増えた、その一人を、恐れては、いけない。追い払っては、いけない。
その子に、名前を、つけて、やりなさい。手を、握って、やりなさい。そして、いつも、いつも、その子のことも、数に、入れて、やりなさい。
一、二、三、四、五――そして、六。
六人目は、あちらの、さみしい子。名もなき子。
その子のことを、忘れないでいる、かぎり、境は、決して、恐ろしいものには、ならない。
今日も、日が、傾いた。
西の山の、稜線が、竈のように、橙に、燃えて、そして、消し炭のように、暗く、なっていく。空が、橙から、桃から、藤から、藍へと、色を、移していく。その、いちばん深い、紫のあたりで、私は、いつものように、立ち止まる。
蜩が、鳴いている。カナカナカナ、と。
子どもらが、遊んでいる。だんだんと、影絵のように、なっていく。
私は、数える。
一、二、三、四、五。
そして、東の空を、見上げる。
暮れゆく藍の空に、蒼い星が、逢魔が時の徴のように、いちばんに、昇っている。細い、絹糸のような尾を、引いて。ミラ彗星が。
その、蒼い光が、地蔵の、いちばん端のあたりを、そっと、照らす。
私は、微笑んで、六人目を、数える。
――六。
十一
その、六人目のことを、私は、ときおり、ひとり、思い返すことがある。
紫の、あの、あどけない、白い顔。大きな、黒い、目。そして、その目のなかに、湛えられていた、深い、深い、さみしさ。
あの子は、いったい、いつの世の、子だったのだろう。
私は、村の、古い記録を、調べてみたことがある。村の寺の、過去帳を、住職に、頼んで、見せてもらった。名もなき、水子の、記録は、そのなかにも、ほとんど、残っていなかった。名がないのだから、当然だ。名のない者は、記録にも、残らない。歴史にも、残らない。ただ、消えていく。誰の記憶にも、留められずに。
けれど、と、私は、思う。
それでも、あの子は、いた。
たしかに、いた。
この世に、生まれる、その、寸前まで、あの子は、いた。この村の、どこかの、家の、母親の、胎(たい)のなかに、あの子は、いた。生まれてきたら、きっと、この公園で、滑り台に、乗ったり、砂場で、遊んだり、したはずの、あの子が。
けれど、あの子は、境を、越えられなかった。あちらから、こちらへ、渡ってくる、その、最後の、一歩を、踏み出せずに、あちらへ、還ってしまった。
だから、あの子は、いつも、こちらを、覗いていた。
自分が、渡れなかった、こちらの世を。自分が、遊べなかった、この公園を。
私は、あの、赤い手袋を、いまも、簞笥の、いちばん上の抽斗に、しまっている。
ときおり、それを、取り出して、掌に、載せる。
小さな、赤い、片方だけの、手袋。
冷たかった、あの手袋は、いまでは、私の、掌の熱を、いつも、覚えていて、取り出すたびに、ほんのりと、温かい。
まるで、そこに、まだ、小さな手が、はめられて、いるように。
まるで、紫が、いまも、私の、そばに、いるように。
村の、若い母親たちは、私のことを、少し、変わり者だと、思っているようだ。
夕暮れの公園で、いつも、ひとり、子どもらを、数えている、風変わりな、年寄り。ときおり、地蔵のほうを、見て、微笑んでいる、不思議な、年寄り。
けれど、それでいい。
私は、知っている。私の、この、数え唄のような、六までの、数え方が、この村の、逢魔が時を、恐ろしいものではなく、優しいものに、しているのだということを。
なぜなら、この村では、逢魔が時に、子どもが、消えることは、もう、ない。
かつて、あんなに、多かった、神隠しの話は、もう、聞かない。
なぜなら――あちらの、さみしい子らは、もう、こちらの子を、連れていく、必要が、ないからだ。
彼らは、気づいて、もらっている。数えて、もらっている。呼んで、もらっている。
私が、六まで、数えるたびに。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
ひとつ、ふたつ、みつ、よつ、
数えるうちに、日が暮れる。
私は、いまでは、この歌を、恐れずに、歌える。
いつつ、むつ、と数えたら、
おいで、こちらへ、手をおひき。
この、あとの半分は――もう、誘いの唄では、ない。
私が、歌うと、それは、こちらへ、おいで、という、呼びかけに、なる。あちらの、さみしい子らへの、優しい、招きに、なる。おいで、こちらへ、いっしょに、いよう、と。
手を、おひき。私の、手を。ひとりぼっちには、せえへんから。
ななつ、やっつ、ここのつ、とお、
とおまで数えりゃ、夜になる。
夜になれば、境は、閉じる。
けれど、それでいい。
なぜなら、明日も、また、逢魔が時が、来るから。明日も、また、私は、六まで、数えるから。明日も、また、私は、あちらの子らを、忘れないから。
日が、暮れる。
蜩が、鳴いている。
子どもらが、影絵のように、なっていく。
私は、ベンチに、腰かけて、東の空の、蒼い星を、見上げる。
ミラ彗星。逢魔が時の、徴。暮れゆく藍の空に、いちばんに、昇る、蒼い星。
その、細い、絹糸のような尾が、地蔵の、いちばん端の、あたりを、そっと、照らしている。
そこに、なにも、見えは、しない。
けれど、私は、知っている。
そこに、紫が、いる。
しゃがんで、子どもらの、遊ぶのを、見ている。もう、さみしくは、ない、顔で。名前を、呼んでもらえた、うれしそうな、顔で。片方の手には、なにも、はめずに――なぜなら、その、赤い手袋の、片割れは、いま、私の、簞笥のなかに、あって、そして、もう片方は、あの子と、いっしょに、あちらに、あるのだから。
二つで、ひとつ。
こちらと、あちらとに、分かれて、けれど、ひとつ。
私は、微笑んで、最後の、ひとつを、数える。
一、二、三、四、五――そして、六。
暮れの藍が、いよいよ深くなって、蒼い星が、いっそう、澄んで、輝く。逢魔が時が、静かに、更けていく。この刻に、私が、こうして、六まで、数えているかぎり、この村の、どの子も――こちらの子も、あちらの子も――もう、けっして、ひとりぼっちには、ならないのだと、私は、信じている。