月光書房
酉の刻 ・ 黄昏 ・ 第 七 話

各駅停車の逢魔が時

行方 藍二郎
時間幻想 ・ 約26頁

各駅停車というものは、いつも、少しだけ余分に時間をくれる。

急ぐ人はみな快速に乗ってしまうから、この時刻の各駅停車には、急がない人ばかりが残る。急がないというより、行き先をもう決めてしまって、あとはただ運ばれていくだけの人たち。わたしもそのひとりだった。仕事を終え、鞄を膝に置き、窓の外が藍に沈んでいくのを、ただ見ている。

夕方の五時をまわると、この路線の空は、みるみる色を変える。始発の駅を出るときにはまだ橙(だいだい)がかっていた雲が、三つ目の駅を過ぎるあたりで紫に染まり、川を渡る鉄橋のうえでは、もう藍だ。深い藍。ものの輪郭が、少しずつ溶けていく色。ホームの標識も、線路脇の看板も、遠くのビルの窓も、みな同じ色のなかに沈んで、どれがどれだか分からなくなる。

黄昏。逢魔(おうま)が時、という古い言い方を、祖母がよくしていた。

――この時刻はね、と祖母は言った。昼の者と夜の者が、すれちがう時刻なんだよ。だからね、道で人に会っても、それが人かどうか、よく確かめてから声をおかけ。

子供のころは、ただ怖い話だと思って聞いていた。いまは、こう思う。祖母は、境界というものの話をしていたのだ。何かと何かが入れ替わる、その継ぎ目の話を。

その日、わたしは疲れていた。

とりたてて大きな失敗があったわけではない。ただ、朝から晩まで、こまごまとした用件を片づけつづけて、気づけば窓の外が暮れていた、というだけの一日。四十をいくつか過ぎて、こういう日ばかりが続くようになった。何かをしているようで、何もしていない。前に進んでいるようで、同じところをまわっている。そういう日々の手ざわりが、指の腹に残る砂のように、いつのまにか溜まっていた。

朝、家を出るときには、まだ空が白んだばかりで、その白い光を、きれいだと思う心が、少しは残っていた。けれど、駅までの道を急ぎ、満員の電車に押しこまれ、会社の机につくころには、その光のことなど、すっかり忘れてしまっている。昼になれば昼食を、夕方になれば残りの仕事を、夜になれば帰りの電車を――そうやって、一日を、目の前のことだけで埋めていく。空を見あげることも、立ちどまることも、いつのまにか、しなくなっていた。

若いころは、こんなふうではなかった、と思う。若いころのわたしは、もっと、いろんなものを、よく見ていた。雨あがりの舗道にできた水たまりに、空がうつっているのを見て、しばらく立ちどまったりした。夕暮れの雲が、刻一刻と色を変えていくのを、時間を忘れて眺めたりした。そういうものを見ると、胸の奥が、かすかに疼(うず)いた。この美しさを、なんとか、かたちにして残したい、と。その疼きが、絵を描くという行為に、わたしを向かわせていた。

けれど、いつからか、その疼きを、感じなくなった。

美しいものを見ても、ただ、美しいなと思うだけで、それをかたちにしたいとは、もう思わなくなった。忙しいから、と思っていた。時間がないから、と。けれど、ほんとうは、そうではなかったのかもしれない。ほんとうは、あの疼きそのものを、どこかに、置き忘れてきてしまったのかもしれない。そのことに、わたしは、うすうす気づいていて、けれど、気づかないふりをしていた。気づいてしまえば、何かを、しなくてはならなくなるから。

車内はすいていた。ボックス席の向かいには誰もいない。通路をはさんだ席にも、いちばん端に若い女がひとり、うつむいて携帯電話の光を顔に受けているきりだ。ロングシートの側には、老人がひとり。眠っているのか、目を閉じて、背もたれに頭をあずけている。それだけ。

わたしは窓に額を近づけて、外を見た。

田んぼが広がっていた。水を張ったばかりの、初夏の田んぼ。その一枚一枚に、暮れかけた空がうつっている。地上の空と、水のなかの空。二つの藍が、あぜ道をさかいにして、上下にならんでいる。どちらが本物の空なのか、しばらく見ていると分からなくなる。

若いころのわたしなら、この景色を、描きたいと思ったろう。水にうつる空を、どう描けばいいか。絵の具の、どの藍と、どの藍を混ぜれば、この、暮れていく空の色になるか。そんなことを、しぜんと、考えたろう。けれど、いまのわたしは、ただ、ぼんやりと、それを見ているだけだった。美しいな、とも、もう思わなかった。ただ、疲れた目に、その藍が、しみるだけだった。

遠くの山の稜線が、藍のなかに、黒く沈んでいく。その上の空だけが、まだ、かすかに、明るさを残していた。橙でもなく、紫でもなく、その二つが溶けあった、なんとも言いようのない色。子供のころ、その色に、名前をつけようとして、つけられなかったことを、ふと思い出した。あの色を、絵の具で、出せたことは、ついに、一度もなかった。

そのときだった。

空の、いちばん高いところに、ぽつりと、蒼い光がともった。

一番星、と言うには色がちがった。もっと冴えた、もっと硬い、青の光。それが、暮れゆく藍の空のただなかに、ひとすじの尾を引いて、静かにかかっていた。まるで、いま暮れていくこの時刻に、しるしをつけるかのように。

ミラ彗星だ、と誰かが言ったのを、いつか聞いた気がした。何十年に一度、空をよぎるという星。逢魔が時にいちばんに昇る、その蒼い星を見た者は――そのあとを、祖母は言わなかった。あるいは、わたしが忘れてしまったのか。

わたしは、その星から目を離せずにいた。

電車が、ひとつ駅に停まった。

無人駅だった。ホームには灯りがひとつきりで、その青白い光のなかに、虫が舞っているのが見えた。誰も乗ってこない。誰も降りない。そう思っていた。

けれど、ドアが閉まる間ぎわ、ひとつの影が、するりと乗りこんできた。

老人だった。

痩せた、背の高い老人。くたびれた灰色のコートを着て、片手にステッキを持っている。帽子を目深にかぶっていて、顔はよく見えない。老人はゆっくりと車内を見わたし、それから――どういうわけか、がらがらに空いた車内で、わざわざわたしの向かいに腰をおろした。

わたしは少しだけ身を硬くした。

こんなに席が空いているのに、と思わないでもなかったが、老人にはそれぞれの流儀があるものだ。あるいは、進行方向を向いて座りたかったのかもしれない。わたしはまた窓のほうへ目をやって、外の藍を見ることにした。

電車が動きだす。

車輪の音が、ことこと、ことこと、と規則正しく響く。その音にまじって、ふと、低い声が聞こえた。

「――ミラだ」

わたしは老人を見た。

老人は、わたしと同じように、窓の外の蒼い星を見あげていた。帽子の下から、しわの深い横顔がのぞいている。その目が、遠くを見るように、細められていた。

「ミラ彗星ですね」わたしは、なぜか答えていた。「珍しいものが見えました」

「珍しい」老人は、ゆっくりとうなずいた。「ああ、珍しい。この時刻に、この星が見えるのは、めったにないことだ。よほど――」

老人は、そこで言葉を切った。

「よほど?」

「よほど、逢魔が時が、深いということだよ」

その言い方に、わたしは祖母のことを思い出した。同じことを言う人が、まだいるのだ。わたしは少し、この老人に親しみをおぼえた。

「わたしの祖母も、そんなふうに言っていました。この時刻は、昼の者と夜の者がすれちがう時刻だと」

「いいおばあさんだ」老人は微笑んだ。「よく分かっていらっしゃる。すれちがうのは、昼と夜だけじゃあない。この時刻はね、いろんなものが、すれちがうんだよ」

その微笑みかたに、わたしは、なぜか、胸をつかれた。どこかで見たことのある微笑みだった。けれど、どこで見たのかは、思い出せなかった。祖母の微笑みにも、似ている気がした。父の微笑みにも、似ている気がした。あるいは、もっと、身近な誰かの――そこまで考えて、わたしは、その考えを、ふと、手ばなした。疲れているのだ、と思った。逢魔が時のせいだ、と。

「いろんなもの」

「たとえば」老人は、ステッキの柄をなでながら言った。「――遠くの自分と、近くの自分とか、ね」

わたしは、その言葉の意味を、うまくつかめなかった。

窓の外を、また田んぼが流れていく。空の藍は、いよいよ深くなって、蒼い星だけが、いっそう冴えていた。

老人は、それきりしばらく黙っていた。

わたしも、なんと返していいか分からず、黙っていた。けれど、その沈黙は、不思議と気づまりではなかった。むしろ、古い知りあいと、久しぶりに同じ部屋にいるような、そういう静けさだった。

やがて、老人が、ぽつりと言った。

「あなたは、仕事の帰りかね」

「ええ」

「疲れた顔をしている」

わたしは、思わず苦笑した。「そんなに、顔に出ていますか」

「出ているとも」老人は、わたしの顔を、まじまじと見た。「そういう疲れ方を、わたしはよく知っている。何か大きなことがあったわけじゃない。ただ、小さなことが、少しずつ、積もっている。そういう疲れ方だ」

その通りだった。あまりに正確に言いあてられて、わたしは少し、うろたえた。

「よく、お分かりになりますね」

「わかるとも」老人は、また窓のほうへ目をやった。「よく、わかる」

電車が、次の駅に停まった。ここは、ちいさな町の駅だった。ホームに、帰宅する人たちの姿が、いくつか見えた。ランドセルを背負った子供。買い物袋をさげた女。制服姿の学生。みな、藍のなかに、ぼんやりと溶けかけている。

「あなたは」老人が、また口をひらいた。「――昔、絵を描いていたことは、ないかね」

わたしは、はっとした。

「どうして、それを」

「なんとなく、そう思っただけだよ」老人は、とぼけたように言った。「あなたの手を見ていて、そう思った。あなたの手は、ものを描く手だ」

わたしは、自分の手を見た。膝のうえに置いた、右の手。もう長いこと、絵筆など握っていない手。

「――子供のころ、絵を描くのが好きでした」わたしは、なぜか正直に言っていた。「絵描きになりたいと、本気で思っていた時期もありました。でも、いつのまにか、描かなくなって。仕事をはじめて、忙しくなって。それきりです」

なぜ、この見知らぬ老人に、こんな話をしているのだろう、と自分でも不思議だった。ふだんのわたしなら、絵のことなど、誰にも話さない。もう、心のいちばん奥に、しまいこんでしまったことだから。妻にさえ、あまり話したことがない。それを、いま、電車で隣りあわせただけの老人に、するすると話している。逢魔が時のせいだろうか。それとも、この老人の、なにか、人の心の口をひらかせるような、そういう気配のせいだろうか。

「うちには、まだ、そのころの絵の具箱が、あるんです」わたしは、つづけた。「何度か捨てようとして、捨てられずにいて。押し入れの奥に、二十年、しまいこんだままです。もう、絵の具も、乾いてしまっているでしょう。使えるかどうかも、分かりません。それでも、なぜか、捨てられなくて」

「捨てられないものだよ」老人は、うなずいた。「そういうものは、ね」

「それきり、か」

「ええ。もう、二十年は、絵筆を握っていません」

老人は、うなずいた。何かを、じっと考えているようだった。

「惜しいことだ」やがて、老人は言った。「あなたには、才能があったろうに」

「才能なんて、あったかどうか」

「あったとも」老人は、きっぱりと言った。「わたしは、それを知っている」

その言い方に、わたしはまた、引っかかりをおぼえた。

わたしは、知っている。老人は、さっきから、何度もそう言う。まるで、わたしのことを、ずっと前から知っているかのように。

わたしは、老人の顔を、あらためて見た。

帽子の下の、その顔を。

深いしわ。落ちくぼんだ目。薄くなった白い髪。そのどれもが、老いた人のものだった。けれど――

その目もとに、見おぼえがあった。

眉の、少し困ったような下がりぐあい。左の目じりの、ちいさなほくろ。笑うときに、右の口の端だけが、わずかに上がる、その癖。

わたしは、毎朝、洗面所の鏡で、その顔を見ている。

心臓が、ひとつ、大きく鳴った。

「あなたは――」わたしは、声がかすれた。「あなたは、いったい」

老人は、わたしの目を、まっすぐに見かえした。そして、静かに、微笑んだ。

その微笑みかたを、わたしは知っていた。あまりにも、よく知っていた。それは、鏡のなかの自分が、たまにふと見せる微笑みと、寸分ちがわなかった。

「気づいたかね」老人は言った。

わたしは、何も言えなかった。ただ、老人の顔を見ていた。見れば見るほど、それは、わたしの顔だった。三十年か、四十年か、そのくらい先の、わたしの顔。しわが刻まれ、髪が白くなり、けれど、たしかに、わたしの顔。

「そんな」わたしは、ようやく声を出した。「そんな、ばかな」

「ばかなことだとも」老人は、おかしそうに笑った。「わたしも、そう思うよ。けれどね――逢魔が時というのは、そういう時刻なんだ。遠くの自分と、近くの自分が、すれちがう。ふつうは、すれちがっても、たがいに気づかない。けれど、今日は――」

老人は、窓の外の蒼い星を、指さした。

「今日は、あの星が出ている。だから、すれちがうだけじゃあ、すまなかった。こうして、同じ電車に乗りあわせて、向かいあって座ることになった。何十年に一度の、めぐりあわせだよ」

わたしは、窓の外を見た。ミラ彗星は、まだそこにあった。暮れきった藍の空に、たった一つ、蒼く冴えて。

夢を見ているのだろうか、と思った。仕事の疲れで、うたた寝をしているのだろうか。けれど、頬に感じる窓ガラスの冷たさも、鼻をつく車内の、あの古い電車特有のにおいも、あまりにもたしかだった。これは、夢ではない。

「信じられません」わたしは言った。

「信じなくてもいい」老人は、おだやかに言った。「ただ、聞いてくれればいい。わたしは、あなたに、伝えにきたことがある。たった一つ、伝えにきたことが」

電車は、藍の田んぼのなかを、走りつづけていた。

ことこと、ことこと、と車輪が鳴る。その音だけが、二人のあいだの沈黙を埋めていた。通路の向こうの若い女は、いつのまにか降りたのか、それとも眠ってしまったのか、もう見えなかった。ロングシートの老人も、いない。車内には、わたしと、この老人だけが残されているようだった。まるで、この一両だけが、藍の海のなかを、どこか遠いところへ運ばれていくかのように。

「わたしは」老人は、ゆっくりと語りはじめた。「あなたの、行く先だ。あなたが、これから歩いていく道の、いちばん奥にいる者だよ。わたしは、あなたが忘れてしまったことも、あなたがこれから悔やむことも、みな、知っている」

「これから、悔やむこと」

「そうだ」

わたしは、こわごわ、たずねた。「わたしは――何か、大きなまちがいを、するのですか。あなたは、それを止めにきたのですか」

老人は、首を横にふった。

「いや。そうじゃあない」

「では」

「あなたは、大きなまちがいなど、しないよ」老人は言った。「あなたは、これからも、まじめに働く。人にやさしくする。大きな過ちも犯さず、人を深く傷つけることもなく、そこそこに、まっとうに生きていく。誰に責められることもない、いい一生だ」

「それの、どこがいけないのです」

「いけなくはない」老人は、少しさびしそうに笑った。「いけなくは、ないんだよ。ただね――」

老人は、窓の外へ目をやった。蒼い星のほうへ。

「ただ、あなたは、これから四十年、ずっと、心の隅に、ちいさな棘(とげ)を残したまま生きることになる。それは、痛いというほどの棘じゃあない。忘れているときのほうが、ずっと多い。けれど、こういう時刻に――こういう、暮れていく時刻に、ふと、その棘が、ちくりと痛む。あのとき、ああしていれば。あのとき、あれを続けていれば。そういう、ちいさな棘だ」

わたしは、黙って聞いていた。

「わたしは、その棘を、七十年、持ちつづけた」老人は言った。「あなたのおかげで、というべきかな。あなたが、絵を描くのをやめたから。あなたが、忙しさを言いわけにして、いちばん好きだったものを、そっと手ばなしてしまったから」

胸の奥が、しんと冷たくなった。

「けれどね」と、わたしは、ようやく言葉をさがして言った。「棘だなんて、そんな。誰にでも、あるのではないですか。やりたかったのに、やれなかったこと。なりたかったのに、なれなかったもの。そういうものを、一つや二つ、抱えて生きていくのが、大人というものでしょう。それを、いちいち、棘だと言っていたら――」

「その通りだ」老人は、さえぎらずに、うなずいた。「その通りなんだよ。誰にでも、あるんだ。やれなかったこと、なれなかったもの。そういうものを抱えて生きていく。それが、大人だ。わたしも、そう思って、七十年、生きてきた。だからね、これは、絵の話じゃあないんだ」

「絵の、話ではない?」

「絵は、たとえだよ」老人は言った。「わたしが伝えにきたのは、絵の話じゃあない。もっと、ちいさな、けれど、もっと大事なことなんだ。それを、あなたに、ちゃんと分かるように話すには――もう少し、時間がかかる。あの星が、消えてしまう前に、話せるといいのだが」

老人は、窓の外の、蒼い星を、また見あげた。星は、まだ、そこにあった。けれど、その尾は、来たときよりも、ほんの少し、短くなっているように見えた。

「わたしは、絵を、描くべきだったのですか」

わたしは、たずねた。老人は、少し考えてから、答えた。

「それは、ちがう」

「ちがう?」

「わたしが伝えにきたのは、そういうことじゃあないんだよ」老人は、ステッキの柄を、ゆっくりとなでた。「絵を描け、絵描きになれ、そんなことを言いにきたのなら、わたしはただの、うるさい年寄りだ。人生は、そんなに単純じゃあない。あなたが仕事を選んだことも、家庭を持ったことも、それはそれで、まちがいじゃあなかった。あなたは、いい人生を送るんだ。それは、ほんとうだ」

「では、いったい」

老人は、そこで、しばらく黙った。

窓の外を、川が流れていくのが見えた。暮れきった川面(かわも)に、蒼い星が、ゆらゆらと映っていた。天の星と、水の星。二つのミラ彗星が、藍のなかで、静かにゆれていた。

「わたしが、伝えにきたのは」老人は、ようやく口をひらいた。「――こういうことだ」

老人は、わたしの目を、まっすぐに見た。

「あのね。あなたが、いちばん好きだったものを――それが絵であれ、なんであれ――手ばなすときは、どうか、ちゃんと、さよならを言っておやり。忙しさにまぎれて、なしくずしに、いつのまにか、ではなく。ちゃんと、向きあって、これでお別れだと、心を決めてから、手ばなしなさい」

わたしは、その言葉の意味を、はかりかねた。

「なしくずしに手ばなすと、どうなるのです」

「棘が残る」老人は言った。「ちゃんとさよならを言わなかったものは、いつまでも、心の隅で、あなたを待つんだよ。もう二度と会えないと知らないまま、ずっと、待ちつづける。それが、棘になる。あの、暮れどきに、ちくりと痛む、あの棘に」

老人は、ステッキの柄を、ゆっくりと、なでた。

「絵だけの話じゃあない、と言ったろう」老人はつづけた。「たとえば、人もそうだ。若いころ、仲のよかった友だち。いつのまにか、会わなくなって、それきりになった友だち。喧嘩をしたわけでもない。仲たがいをしたわけでもない。ただ、住むところが遠くなって、忙しくなって、なんとなく、連絡を、しなくなった。そういう友だちが、あなたにも、いるだろう」

わたしは、うなずいた。何人かの顔が、浮かんだ。もう、名前も、うろおぼえの顔が。

「あの人たちにも、あなたは、さよならを言っていない」老人は言った。「別れたつもりも、ないんだ。ただ、なしくずしに、会わなくなっただけ。だから、心のどこかで、あの人たちは、まだ、あなたの友だちのままなんだよ。いつか、また会えると、思っている。けれど、そのいつかは、たいてい、こない。そうして、ある日、その人が、もう亡くなったと知る。会いにいくことも、さよならを言うことも、もう、できない。――そのとき、はじめて、あなたは知るんだ。ああ、あのとき、なしくずしに手ばなしてしまったのだ、と。ちゃんと、さよならを、言っておけばよかった、と」

車内が、しんと、静まりかえっていた。車輪の音だけが、ことこと、ことこと、と、変わらずに響いていた。

「わたしはね」老人は、しずかに言った。「そういう、さよならを言いそびれたものを、たくさん、抱えて、ここまで来た。絵も、その一つ。友も、その一つ。若いころに好きだった、あの人も、その一つ。みんな、ちゃんと、さよならを言わなかった。だから、みんな、いまも、わたしの心の隅で、わたしを待っている。それが、この歳になると――こたえるんだよ」

窓の外が、いっそう暗くなった。もう、田んぼも川も見えない。ただ、蒼い星だけが、藍のなかに、ぽつりと浮かんでいた。

老人は、しばらく、遠くを見るような目をしていた。まるで、七十年ぶんの記憶を、その目の奥で、ゆっくりとたぐりよせているかのように。

「わたしはね、これから、あなたが歩く道を、みんな、知っている」老人は言った。「あなたは、来年、いまの仕事で、ひとつ、いい仕事をする。それが認められて、少しだけ、忙しくなる。忙しさは、悪いことばかりじゃあない。人にたよられるのは、うれしいものだ。あなたは、それが、まんざらでもない。だから、絵のことは、いよいよ、後まわしになる」

わたしは、黙って聞いていた。自分の未来を、こんなふうに、他人の口から――いや、自分自身の口から聞くのは、奇妙な心地だった。

「そのうち、あなたは、いい人と出会う」老人は、やわらかく笑った。「そうして、家庭を持つ。子供も、生まれる。あなたは、いい親になろうと、けんめいに働く。子供の寝顔を見ながら、この子のために、と思う。その気持ちに、嘘はない。あなたは、幸福だ。ほんとうに、幸福なんだよ。ただ――そのあいだじゅう、絵の道具は、押し入れの奥で、埃をかぶったまま、じっと、あなたを待ちつづけている。あなたが、いつか、また蓋をひらいてくれる日を。けれど、その日は、なかなか、こない」

「こないまま――終わるのですか」

「終わるんだよ」老人は、静かに言った。「子供が育ち、家を出て、あなたと連れあいの、二人きりになる。仕事も、退()いた。時間は、たっぷりある。もう、忙しいという言いわけは、できない。それでも、あなたは、あの箱を、ひらかなかった。ひらこうとするたびに、なぜか、こわくなった。二十年、三十年、描いていない自分が、もう、なにも描けないことを、たしかめてしまうのが、こわかったんだ。だから、ひらかない。ひらかないまま、あの箱は、あなたより先に、朽ちていった」

わたしは、思わず、目をふせた。その光景が、まるで、自分の記憶であるかのように、まざまざと浮かんだからだ。埃をかぶった、朽ちていく絵の具箱。ひらかれることのないまま、待ちつづけて、待ちくたびれて、やがて、あきらめていく箱。

「わたしはね」老人は、しみじみと言った。「七十年、絵を描かなかったことを、悔やんではいないんだよ。ほんとうだ。描かない人生にも、たくさんのいいことがあった。あなたには、これから会う人たちがいる。あなたを必要とする人たちが。それを、絵と引きかえにしたことを、わたしは悔やんではいない」

「では、何を」

「ただ、あのとき――あなたと同じ、今日のような、暮れどきだった。わたしは、絵の道具を、押し入れの奥に、しまいこんだ。もう描くまいと、はっきり心を決めたわけでもなく、ただ、置き場所がないからと、なんとなく、しまいこんだ。あのとき、わたしは、絵に、さよならを言わなかった。それだけが、七十年、悔やまれてならないんだよ」

わたしは、その老人の――未来のわたしの、しわの寄った手を見た。

その手は、ステッキの柄を、そっと握っていた。もう絵筆を握ることのない手。けれど、その指のかたちは、たしかに、絵を描いていたころのわたしの手と、同じかたちをしていた。

「では」わたしは、たずねた。「わたしは、これから、どうすればいいのです」

「どうもしなくていい」老人は言った。「絵を描きつづけろとは、言わない。やめてもいい。やめることは、まちがいじゃあない。ただ――やめるなら、ちゃんと、さよならを言いなさい。今夜、家に帰ったら、押し入れの奥から、絵の道具を出してごらん。まだ、あるはずだ。あなたは、捨てられずにいる」

わたしは、うなずいた。たしかに、まだ、ある。何度か捨てようとして、捨てられずにいる、古い絵の具箱が。

「それを、出して、ひらいてごらん。乾ききった絵の具を、指でなでてごらん。そして、思い出しなさい。いちばん夢中で描いていたころの、あの時間を。それから、もし、それでも、もう描かないと思うなら――そのときは、道具に向かって、ちゃんと、ありがとう、と言いなさい。さよならを言いなさい。それだけで、いいんだよ」

「それだけで」

「それだけで、棘は残らない」老人は、やさしく微笑んだ。「あなたは、心おきなく、次の道を歩いていける。もう、暮れどきに、痛むこともない」

電車が、速度を落としはじめた。

次の駅が、近づいていた。ホームの灯りが、藍のなかに、ぼんやりと、にじんで見えた。

「わたしは、ここで降りる」老人は言った。

「待ってください」わたしは、思わず、身をのりだした。「まだ、聞きたいことが」

「もう、時間だよ」老人は、帽子のつばに、そっと手をやった。「逢魔が時は、じきに終わる。夜になれば、わたしたちは、もう、すれちがえない。今日という日は、二度とこない。あの星も、じきに、消える」

わたしは、窓の外を見た。蒼い星は、まだそこにあったが、その尾は、さっきよりも、少し薄くなっているようだった。

電車が、駅に停まった。

老人は、ゆっくりと立ちあがった。ステッキをつき、コートの襟をかきあわせ、ドアのほうへ、一歩、踏みだした。それから、思い出したように、立ちどまった。

「そうだ」老人は、コートのポケットに手を入れた。「これを、返しておかなくてはね」

老人が、ポケットから取りだしたのは――片方だけの、手袋だった。

古い、焦げ茶色の、革の手袋。左手のもの。指のところが、少しすり切れて、てのひらのあたりに、絵の具のしみのような、うすい染みがついている。

わたしは、それを見て、息をのんだ。

見おぼえがあった。ずっと昔、まだ絵を描いていたころ、わたしが使っていた手袋。冬の、冷えたアトリエで、右手だけ手袋をはずして、絵筆を握った。左手には、この手袋をはめたまま。そうして、何時間でも、描きつづけた。

ある日、その片方を、なくした。どこでなくしたのか、いくら探しても見つからず、対になる右手のほうだけが、いつまでも、抽斗(ひきだし)の奥に残っていた。片方だけの手袋。もう対になることのない、片われ。それを見るたびに、なくした左手のことを、ちくりと、思い出した。

「これを――」わたしは、かすれた声で言った。「これを、あなたが、持っていたのですか」

「ずっと、預かっていたよ」老人は、その手袋を、わたしのほうへ、さしだした。「七十年、ずっと、ね。これは、あなたに返さなくてはならない。あなたが、なくしたと思っていたものは、なくなっていたんじゃあない。ただ、遠くの、わたしのところに、あったんだよ」

わたしは、ふるえる手で、それを受けとった。

革の、しっとりとした手ざわり。うっすらと残る、絵の具のにおい。まちがいなかった。それは、あの、なくした片方の手袋だった。何十年ぶりに、対がそろう。抽斗の奥の右手と、この左手が、また、ひとつになる。

その手袋のことを、わたしは、はっきりと、覚えていた。美術学校の受験に、いちど失敗して、それでも、あきらめきれずに、独りで描きつづけていた冬のことだ。暖房もろくにない、安アパートの一室。指がかじかんで、絵筆が、うまく握れなかった。それで、左手にだけ、この手袋をはめた。右手は、素手のまま。冷たさに、指先が赤くなっても、それでも、描きたくて、描きたくて、描いていた。あのころのわたしは、まだ、あの疼きを、たしかに、胸に抱いていた。この美しさを、なんとか、かたちにしたい、という、あの疼きを。

その手袋の片方を、ある日、なくした。たしか、絵の道具を持って、写生に出かけた帰りだった。電車のなかで、うたた寝をして、目がさめたら、片方だけ、なくなっていた。膝から、すべり落ちたのだろう。いくら探しても、見つからなかった。座席の下も、駅の遺失物係も。ついに、出てこなかった。

いま、思えば――と、わたしは、手のなかの手袋を見ながら、思った。あれは、この老人が――未来のわたしが、拾ったのだ。あのうたた寝のあいだに、すべり落ちた片方を、七十年先のわたしが、拾って、ずっと、預かっていた。そうして、この逢魔が時に、返しにきた。時間の海を、こえて。

「これで」老人は、静かに言った。「そろったろう」

わたしは、その手袋を、両手で、そっと握りしめた。目の奥が、熱くなった。

「あなたは」わたしは、たずねた。「――しあわせに、なれましたか」

老人は、しばらく、わたしを見ていた。それから、深く、うなずいた。

「なったよ」老人は言った。「たくさんの、いいことがあった。あなたが、これから出会うものは、みな、いいものだ。安心して、歩いておいで。ただ――」

老人は、片方だけの手袋を握るわたしの手を、そっと見た。

「――ただ、さよならは、ちゃんと言うんだよ。それだけ、忘れずにね」

ドアがひらいた。

老人は、ホームへ、一歩、足を踏みだした。藍色の光のなかへ。その灰色のコートの背中が、暮れきった駅の、青白い灯りに、溶けていくのが見えた。

「あの」わたしは、思わず、その背中に、呼びかけた。「ありがとう、ございました」

老人は、ふりむかなかった。ただ、片手を、軽く、あげてみせた。ステッキを持った手を。それは、さよなら、というより、また会おう、と言っているような、そんな、あげ方だった。

そして、そのとき――ドアの閉まる、その間ぎわに、わたしは、たしかに、聞いた。老人が、ひくく、口ずさむのを。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。

祖母が、いつも歌っていた、あの子守唄だった。わたしが、まだ、ちいさかったころ、祖母の膝のうえで、まどろみながら聞いた、あの唄。老人は、それを、まるで、自分自身に言い聞かせるように、そっと、口ずさんでいた。眠れ、眠れ、と。まるで、ながい旅の、ようやくの終わりに、みずからを、なだめるように。

――そういえば。

わたしは、そのとき、ふと思った。祖母は、こんな子守唄を、歌っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。あの唄の、星が海をわたる、という一節を、子供のころは、ただの言葉のあやだと思っていた。けれど、いま、わかった。星は、ほんとうに、海をわたるのだ。天の海を。時間の海を。遠くの岸から、近くの岸へ。

ドアが、閉まった。

電車が、動きだした。ことこと、ことこと、と車輪が鳴る。わたしは、窓ガラスに顔を寄せて、ホームを見た。老人の姿を、探した。けれど、もう、どこにもいなかった。灰色のコートも、ステッキも、帽子も。ただ、無人のホームに、青白い灯りが、ひとつ、ともっているきりだった。

わたしは、手のなかの、片方だけの手袋を、見た。

たしかに、そこにあった。夢ではなかった。焦げ茶色の、すり切れた、絵の具のしみのついた、あの手袋。わたしが、何十年も前になくしたはずの、左手の手袋。それが、いま、わたしの手のなかにあった。

窓の外を見あげると、ミラ彗星は、もう、ずいぶん薄くなっていた。藍の空が、じきに、夜の黒に、変わろうとしていた。逢魔が時が、終わろうとしていた。蒼い星の尾は、溶けるように、少しずつ、空に吸われていった。そして、電車が次の鉄橋にさしかかるころ、その星は、もう、どこにも見えなくなっていた。

その夜、わたしは、家に帰った。

いつものように、鞄を置き、上着を脱ぎ、手を洗った。けれど、その夜だけは、いつもとちがった。わたしは、寝室の押し入れを、あけた。奥のほう。ずっと、あけていなかった、いちばん奥。

そこに、あった。

古い、絵の具箱。木でできた、蓋のこわれかけた、絵の具箱。二十年、あけていなかった。埃をかぶって、蝶番(ちょうつがい)が、すこし錆びていた。わたしは、それを、そっと、取りだした。

蓋を、ひらいた。

なかには、乾ききった絵の具のチューブが、ならんでいた。ふたが固まって、もうひらかないものもあった。使いかけの、絵筆。パレット。すり切れた、消しゴム。そのどれもが、あのころのままだった。時間が、この箱のなかだけ、止まっていたかのように。

わたしは、乾いた絵の具を、指で、そっと、なでた。

そして、思い出した。

いちばん夢中で描いていたころの、あの時間を。冬の、冷えたアトリエ。窓から差しこむ、夕方の光。右手には絵筆、左手には手袋。時間を忘れて、ただ、描いていた。何かになろうとしてではなく、ただ、描くことが、楽しかったころ。世界が、まだ、いくらでも描けるもので、あふれていたころ。

わたしは、しばらく、その箱を、見ていた。

それから、抽斗をあけて、あの、片方だけの右手の手袋を、取りだした。電車で受けとった、左手の手袋と、ならべてみた。焦げ茶色の、革の手袋が、二つ。ようやく、対に、なった。何十年ぶりに、片われどうしが、また、出会った。

わたしは、その二つの手袋を、絵の具箱のうえに、そっと、置いた。

そして――もう一度、描いてみようか、と思った。

やめる、とは、決めなかった。続ける、とも、決めなかった。ただ、この道具に、まだ、さよならは言うまい、と思った。もう少し、もう少しだけ、ひらいたままにしておこう、と。棚のいちばん奥ではなく、机のうえに。ときどき、手にとれるところに。

それで、いいのだ、と思った。

さよならを言うのは、まだ先でいい。いつか、ほんとうに手ばなすときがきたら、そのときは、ちゃんと向きあって、ありがとう、と言おう。けれど、それは、いまではない。今夜ではない。今夜は、ただ、この箱を、ひらいたままにしておく。それだけで、よかった。

わたしは、窓の外を見た。もう、すっかり夜だった。蒼い星は、とうに、消えていた。逢魔が時は、終わっていた。けれど、あの時刻に交わした言葉は、たしかに、わたしのなかに、残っていた。手のなかの手袋が、たしかに、そこにあるように。

寝室の窓を、細くあけると、初夏の、しめった夜気が、流れこんできた。どこか遠くで、電車の走る音が、かすかに、聞こえた。ことこと、ことこと、と。あの各駅停車は、まだ、藍の海のなかを、走っているのだろうか。そして、その一両に、いまも、疲れた顔をした誰かが乗って、向かいの席の老人と、言葉を交わしているのだろうか。遠くの自分と、近くの自分とが。逢魔が時の、あの、境界の刻に。

わたしは、そっと、口ずさんでみた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。祖母の唄を。老人の唄を。いつか、わたしが、あの老人になったとき、また、口ずさむことになるだろう、あの唄を。

あの日から、何年かが過ぎた。

わたしは、あいかわらず、まじめに働いている。人にやさしくしようと、つとめている。老人の言ったとおり、たくさんの、いいことがあった。老人の言ったとおり、大きな過ちも犯さず、そこそこに、まっとうに、生きている。

絵は――ときどき、描いている。

うまくはない。二十年のブランクは、そう簡単には埋まらない。展覧会に出すわけでもなく、誰に見せるわけでもない。ただ、暮れどきに、机のうえの絵の具箱をひらいて、少しだけ、絵筆を動かす。それだけだ。けれど、その、少しだけの時間が、わたしの一日の、いちばん静かな時間になった。

描くもののほとんどは、空だった。暮れていく、藍の空。あの日、電車の窓から見た、あの空。二つの藍が、上下にならんだ、水にうつる空。あの色を、なんとか、かたちにしたくて、わたしは、何枚も、何枚も、描いた。子供のころ、ついに出せなかった、あの、橙とも紫ともつかない色を。うまくは、出せない。けれど、出そうとしている、その時間だけは、胸の奥の、あの古い疼きが、かすかに、よみがえるのだった。あの、置き忘れてきたはずの疼きが。

あの老人のことも、いちど、描いてみようとした。けれど、それは、うまく描けなかった。しわの深い、白髪の、あの顔を、いざ描こうとすると、どうしても、いまの自分の顔と、区別がつかなくなってしまうのだ。当然だった。あれは、わたしの顔なのだから。遠い先の、けれど、たしかに、わたしの顔なのだから。だから、わたしは、その絵を、途中で、やめた。いつか、ほんとうに、あの顔になったとき、そのとき、描けばいい、と思った。

友だちにも、何人か、連絡をとった。もう、うろおぼえになっていた顔の、あの人たちに。ずいぶん迷ったすえに、思いきって、手紙を書いた。返事が来た人もいれば、来なかった人もいる。一人は、もう、この世にいなかった。それを知ったとき、わたしは、老人の言葉を思い出して、しばらく、動けなかった。けれど――間にあった人も、いた。何十年ぶりかに会って、酒を酌みかわして、笑った。それだけで、心のなかの棘が、一つ、そっと、抜けていくのが分かった。

そして、不思議なことに、あの、暮れどきの棘は――もう、痛まない。

机のうえには、いつも、あの二つの手袋が、置いてある。焦げ茶色の、すり切れた、対の手袋。対がそろった手袋は、もう、なくしたものを思い出させはしない。ただ、遠くのわたしが、近くのわたしに、たしかに何かを手わたした、その証(あかし)として、そこにある。

わたしは、まだ、あの老人には、ならないだろう。あんなふうに、しわの深い、白髪の老人には。けれど、いつか、なる。かならず、なる。そして、そのとき――

いつか、わたしも、あの各駅停車に乗るのだろう。

暮れゆく藍の空に、蒼い星がかかる、逢魔が時に。そして、わたしの向かいに、ひとりの、疲れた顔をした男が、座っているのだろう。四十をいくつか過ぎた、まだ何も気づいていない、遠い日のわたしが。

そのとき、わたしは、コートのポケットから、片方だけの手袋を取りだして、こう言うのだ。

これを、返しておかなくてはね、と。

そして、ちゃんと、伝えるのだ。たった一つの、あのことを。さよならは、なしくずしにではなく、ちゃんと、向きあって、言うものだと。

各駅停車というものは、いつも、少しだけ余分に時間をくれる。

急ぐ人は、みな、快速に乗ってしまう。けれど、急がない者には、その余分な時間のなかで、思いがけないものと、すれちがう機会がある。遠くの自分と。近くの自分と。失くしたはずの、片方の手袋と。

暮れどきの、あの、藍のなかで。

もし、あなたが、疲れた顔をして各駅停車に乗っているなら――そして、窓の外に、蒼い星がひとすじ、かかっているのを見たなら――どうか、向かいの席に、気をつけてごらんなさい。

そこに、あなたを待っている者が、いるかもしれない。片方だけの手袋を、そっと、握りしめて。あなたに、たった一つのことを、伝えるために。逢魔が時が、終わってしまう前に。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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