月光書房
酉の刻 ・ 黄昏 ・ 第 八 話

五時十七分の顔

二階堂 深雪
現代・幻想 ・ 約28頁

五時十七分

昼のあいだ、わたしはよくできた人間だった。

朝の九時に会社のガラス扉をくぐるとき、わたしはひとつの顔をつくる。角のとれた、明るすぎず暗すぎない、誰の記憶にも長く残らない顔。眉をやわらかく、口角をほんの少しだけ上げて、瞬きの間隔を人並みにそろえる。声は半音低くする。相槌は三種類を用意しておいて、相手の話の速度に合わせて選び分ける。そうしていれば、わたしは「感じのいい人」でいられた。誰にも気づかれずに、正午をこえ、午後をこえ、退勤の時刻までを渡りきることができた。

そういう顔を、十四年つづけてきた。

営業第二課の主任という肩書きは、その顔がつくったものだ。取引先の担当者はわたしを「話しやすい」と言い、後輩は「相談しやすい」と言い、上司は「安心して任せられる」と言った。彼らが見ていたのは、わたしが毎朝ガラス扉の前でこしらえる、あの顔だった。誰も、その奥にあるものを見たことはなかった。見せなかったのだから、当然だ。

顔をつくるのに、慣れというものはなかった。十四年つづけても、それは、毎朝あたらしくこしらえなければならない仕事だった。電車を降りて、会社の入っているビルの前まで来ると、わたしは一度、足を止める。ショーウィンドウの硝子に、うっすらと映る自分を見る。そこにいるのは、まだ、素のわたしだ。眉間に、うっすらと皺の寄った、少し険しい顔。それを、指先で、こういうふうに、と、心のなかで整えていく。眉をひらいて、口角を上げて、目のあたりの力を抜く。三十秒もあれば、顔は、できあがる。そうして、ガラス扉を押す。

同僚たちは、わたしのことを、穏やかな人間だと思っていた。実際、わたしは、めったに怒らなかった。理不尽な要求をされても、無茶なスケジュールを押しつけられても、わたしは、感じのいい顔で、うなずいた。「わかりました」「大丈夫です」「なんとかします」――その三つの言葉で、たいていのことは、乗りきれた。乗りきれないぶんは、夜、ひとりになってから、胸の奥のどこかに、しまいこんだ。しまう場所は、もう、いっぱいだった。それでも、まだ、しまいつづけていた。ほかに、どうすればいいのか、知らなかったから。

けれど、一日のうちに一度だけ、その顔がうまく保てなくなる時刻がある。

夕方の五時をまわり、六時に近づいていく、あの短い時間。ビルの西側の窓が金色に灼けて、やがて藍に沈んでいく、境目の時間。世界の輪郭がふやけて、輪郭と輪郭のあいだの区別があいまいになる、あの時間。わたしはその時刻を、子どもの頃からひそかに恐れていた。

祖母は、それを逢魔が時と呼んでいた。

「逢魔が時にはね、道で誰かに会っても、ちゃんと顔をたしかめてから返事をするんだよ」と、祖母はよく言った。「昼のうちは人だったものが、その時間だけは、ちがうものに変わっていることがあるからね。人か、そうでないものか、見わけがつかなくなる。だからその刻は、鏡を見るのもおよし」

わたしは幼いころ、その言い伝えを、迷信として笑っていた。逢魔が時に、道で誰かに会ったところで、それが人でないものだったことなど、一度もなかった。すれちがうのは、買い物袋を提げた近所のおばさんや、塾に急ぐ子どもや、疲れた顔のサラリーマンばかりだった。誰も、ちがうものになど、変わっていなかった。

笑えなくなったのは、自分の顔が、その時刻にだけ勝手にほどけていくのに気づいてからだ。

はじめて、それをはっきりと自覚したのは、二十代のなかばだった。残業の帰り、電車の窓に映った自分の顔を、ふと見た。夕方の、六時に近い時刻だった。窓のむこうは、藍色に暮れかけていて、車内の灯りが、わたしの顔を、硝子の上にくっきりと浮かびあがらせていた。そこに映っていたのは、わたしの知らない顔だった。いや、知らないのではない。忘れていた顔だった。子どものころ、大人に笑われて、しまいこんだ、あの顔。疲れて、怯えて、けれど、どこか、剝きだしの、正直な顔。それが、逢魔が時の窓に、ぬっと、あらわれていた。わたしは、あわてて目をそらした。となりの乗客が、わたしの顔を見ていないか、たしかめた。それ以来、わたしは、逢魔が時を、恐れるようになった。その時刻にだけ、しまったはずの顔が、勝手に、蓋をこじあけて、外へ出てこようとするのだった。

その日、わたしは残業を切り上げて、五時すぎにオフィスを出た。

めずらしいことだった。ふだんのわたしは、逢魔が時をやりすごすために、わざと仕事を長引かせる。人の少なくなった夕方のオフィスで、蛍光灯の白い光の下に自分を留めておけば、外の空の変化を見ずにすむ。窓のブラインドを下ろし、机の上のことだけを見つめて、六時半をすぎるのを待つ。そのころには空はすっかり夜になっていて、夜のわたしはもう、崩れる心配がなかった。

けれどその日は、母から電話があった。父の具合がよくないという。実家は電車で一時間半の距離にあって、いますぐどうという話ではないけれど、顔を見せてやってほしいと母は言った。「あの人、あなたには弱いところを見せないから」と。わたしは受話器の向こうの母に「わかった」と答えながら、自分の声が、いつもの半音低い声のままであることに気づいていた。母にさえ、わたしは昼の顔で話していた。

だから、その日は早く出た。

課の若い者が、まだ何人か、残っていた。わたしが立ちあがって鞄を手にすると、後輩のひとりが「主任、お先ですか。めずらしいですね」と、明るく言った。わたしは、いつもの顔で、いつもの声で、「うん、ちょっと実家にね」と答えた。半音低い声。角のとれた声。その声を出しながら、わたしは、心のどこかで、時計を気にしていた。五時十分。まずい時刻だった。逢魔が時が、もう、そこまで来ている。オフィスの西向きの窓が、金色に灼けはじめていた。ブラインドを下ろすひまはなかった。わたしは、目をそらして、足早に、出口へ向かった。

エレベーターのなかの、鏡張りの壁が、こわかった。わたしは、床の一点を見つめて、階数の表示だけを、目の端で追った。一階に着いて、扉がひらくまでの、そのわずかなあいだ。鏡のなかで、わたしの顔が、ほんの少し、ゆらいだ気がした。けれど、たしかめなかった。祖母の言葉が、耳の奥で鳴った。逢魔が時には、鏡を見るのもおよし。

ガラス扉を押して外に出た瞬間、わたしは西の空を見てしまった。

ビルとビルの谷間に、細長く切りとられた空があった。上のほうはもう藍色に沈みかけていて、下のほうに、燃えつきかけた残照の帯が、赤とも紫ともつかない色で横たわっていた。その境目のところで、色がゆっくりと溶けあっていた。境目というのは、どこからどこまでが藍で、どこからが残照なのか、指でさし示すことができない。溶けあうというのは、そういうことだ。

わたしはその空を見て、頬のあたりが、ゆるむのを感じた。

朝からずっと保ってきた顔の、糸のようなものが、ぷつりと切れる感覚。口角を上げていた筋肉が、ふっと力を失う。眉のあたりがほどけて、目のまわりの、いつもつくっている「感じのよさ」が、剝がれ落ちていく。

まずい、と思った。

わたしは足を速めて、駅のほうへ歩きだした。人の流れに紛れれば、誰もわたしの顔をまじまじと見たりはしない。逢魔が時の顔を、誰にも見られずにやりすごせる。夜になれば、また別の顔が――昼の顔とはちがう、けれどそれもまた、ひとつの顔が――戻ってくる。それまでの、ほんの一時間ばかり。うつむいて、早足で、人混みに溶けてしまえばいい。

そう思って、駅前の交差点にさしかかったときだった。

信号が赤で、人の壁ができていた。わたしはその壁のいちばん後ろに立って、うつむいた。アスファルトに、ネオンの色が滲んでいた。居酒屋の赤提灯、ドラッグストアの緑、パチンコ屋の紫。それらの色が、雨あがりでもないのに濡れて見える路面に、にじんで重なっていた。そして、そのネオンの色の上に、空の残照の色が、うっすらとかぶさっていた。人工の光と、天然の光が、そこで混ざりあっていた。逢魔が時というのは、たぶん、こういう時間のことなのだ。人のつくった光と、世界のしまいかけの光とが、路面の上で見わけがつかなくなる時間。

信号が青に変わって、人の壁が崩れた。

わたしも歩きだそうとして――ふと、隣に立っていた人と、目が合った。

古書店

それは、老いた女の人だった。

いや、老いていたのかどうか、いま思い返しても、はっきりとは言えない。逢魔が時の光のなかでは、年齢というものもまた、輪郭を失う。白髪だったようにも思うし、ただ光をそう見せていただけのようにも思う。背は低く、けれど背筋はまっすぐで、藍色の、ずいぶん着古した外套をまとっていた。

その人は、わたしと目が合うと、少しも慌てず、少しも避けず、まっすぐにわたしの顔を見た。

わたしは、とっさに顔をつくろうとした。昼の顔を。角のとれた、感じのいい顔を。けれどその時刻、その顔はもう、わたしの手の届かないところにあった。逢魔が時のわたしの顔は――たぶん、剝きだしだった。十四年間、誰にも見せなかったほうの顔。疲れた、そして、どこか鋭く、どこか怯えた、本当の顔。

その人は、その顔を、じっと見た。

わたしは息をのんだ。祖母の言葉が耳の奥で鳴った。逢魔が時には、顔をたしかめてから返事をしなさい。人か、そうでないものか。――けれど、たしかめられているのは、わたしのほうだった。

「よい顔をしていますね」と、その人は言った。

わたしは、聞きまちがえたのかと思った。よい顔。この、剝きだしの、みっともない顔を。

「あの」と、わたしは言いかけた。声が、半音低くならなかった。夜の声でもなかった。ただの、素の声だった。「わたしのことを、ご存じですか」

「いいえ」と、その人は微笑んだ。「けれど、いまのあなたのお顔は、存じあげている気がします。ずいぶん長く、しまっておかれたお顔ですね」

信号は、とうに青だった。人の波は、わたしたち二人を残して、向こう岸へ渡っていった。わたしと、その老いた人だけが、交差点のこちら側に、取り残されたように立っていた。ネオンの色が、二人の足もとで、ゆっくりと混ざりあっていた。

「よろしければ」と、その人は言った。「少し、お茶でもいかがです。すぐそこに、店がありますから」

わたしは、断るべきだった。父の具合がよくないと、母は言っていた。駅へ急ぐべきだった。それに、逢魔が時に見知らぬ人について行くなど、祖母が生きていたら、こっぴどく叱ったにちがいない。

けれど、わたしは、うなずいていた。

その人が「よい顔」と呼んだ、その一言が、十四年ぶんの何かを、わたしのなかで、ほどいてしまっていた。

その人が案内したのは、路地の奥だった。

大通りから一本入っただけで、ネオンの音が遠のいた。細い、石畳のような舗装の道。両側に古びた建物が寄りかかるように並んでいて、その谷間の、いちばん奥に、一軒の店があった。

木の看板が、軒先に下がっていた。墨で、こう書かれていた。

「月光書房」

古書店だった。硝子戸のむこうに、天井まである本棚が見えた。灯りは、電気ではなかった。硝子のかさをかぶった、小さなランプのようなものが、ところどころに置かれていて、その橙色の光が、本の背表紙を、やわらかく照らしていた。

「ここは」と、わたしは言った。「前からあったんですか。この路地は、ときどき通るのに」

「さあ」と、その人は硝子戸に手をかけた。「あるときは、あるのでしょう。ないときは、ないのでしょう。この店は、黄昏に現れて、夜明けには消えると、そういうことになっていますから」

戸が開くと、鈴の音がした。乾いた、澄んだ音だった。

店のなかは、外から見たよりも、ずっと広かった。本棚が、迷路のように連なっていて、奥がどこまでつづいているのか、見とおせなかった。紙の匂いがした。古い紙の、乾いて、少し甘い匂い。それに混じって、かすかに、線香のような、あるいは、遠い草原のような匂いがした。

「どうぞ、奥へ」

その人は、本棚のあいだを縫って、奥へと進んでいった。わたしは、その藍色の外套の背中を追った。

奥まったところに、小さな空間があった。丸い木のテーブルと、二脚の椅子。テーブルの上には、すでに、二つの茶碗が置かれていた。まるで、わたしが来ることを、知っていたかのように。

二つの顔

「お座りなさい」と、その人は言った。

わたしは椅子に腰をおろした。テーブルをはさんで、その人が向かいに座った。ランプの光が、その人の顔を、下から照らしていた。やはり、年齢はわからなかった。皺があるようにも、ないようにも見えた。目だけが、はっきりと、深かった。

「お茶を、いれましょう」

その人は、どこからか、鉄瓶を持ってきた。湯の注がれる音がした。茶碗のなかで、湯気が立ちのぼって、ランプの光をくぐって、天井のほうへ、ゆっくりとほどけていった。

「あなたは」と、その人は、茶碗をわたしのほうへ押しながら言った。「顔を、二つ、お持ちですね」

わたしは、茶碗に伸ばしかけた手を、止めた。

「昼の顔と、夜の顔」と、その人はつづけた。責めるふうでもなく、驚くふうでもなく、天気の話でもするように。「昼のあいだは、たいそうよくできた顔をなさっている。角がとれて、誰にでも好かれる、けれど、どこにも本当のあなたのいない顔。そして夜には、また別の顔になる。昼よりは、いくらか本当に近いけれど、それでもまだ、鎧のような顔。――そうではありませんか」

わたしは、答えられなかった。

図星だったからだ。夜のわたしは、たしかに昼のわたしとはちがった。夜のわたしは、もう少し尖っていて、もう少し正直だった。けれど、その人の言うとおり、それもまた、ひとつの顔だった。もっと奥に、傷つきやすい、剝きだしの何かがあって、それを守るために、夜のわたしはあの尖った顔をつくっていた。

「では」と、わたしは、ようやく声を出した。「いまの、この顔は」

「逢魔が時の顔です」と、その人は言った。「昼の顔が剝がれて、夜の顔がまだ戻ってこない、その境目にだけ、あらわれる顔。あなたが、いちばん隠してきたお顔。――さきほど、交差点でお見かけしたのが、その顔でした」

わたしは、茶碗の湯気の向こうに、その人の目を見た。

「みっともない、顔でしょう」と、わたしは言った。自分でも意外なほど、率直な声が出た。「疲れて、怯えて、尖って。人前に出せた顔じゃない。だから隠してきたんです。この顔を見せたら、みんな離れていく。そう思って」

「なぜ、そう思うのです」

「――子どものころに」と、わたしは言った。言うつもりのなかったことが、口をついて出た。逢魔が時のせいだったのか、この店の匂いのせいだったのか、それとも、その人の目のせいだったのか。「泣いていたことがあって。本当に、悲しくて。そうしたら、大人が、笑ったんです。そんな顔をするな、って。みっともない、って。だから、しまったんです。その顔を。二度と、出さないように」

ランプの炎が、揺れた。

「それ以来」と、わたしはつづけた。もう止まらなかった。「わたしは、顔をつくることを覚えました。悲しくても、悲しくない顔を。怒っていても、穏やかな顔を。怖くても、平気な顔を。そうしていれば、誰にも笑われない。誰にも、離れていかれない。――でも」

「でも」と、その人は、静かにくり返した。

「逢魔が時になると、その顔が、剝がれるんです」と、わたしは言った。「一日に一度、この時間だけ、どうしても、保てなくなる。だから、この時間が、怖かった。人に、この顔を見られるのが、怖かった」

その人は、しばらく、何も言わなかった。

湯気が、二人のあいだで、静かに立ちのぼっていた。

どこか遠くで、歌のようなものが、聞こえた気がした。店の奥からか、それとも、路地のむこうからか。ごく低い、女の声のような、けれど、はっきりとは聞きとれない、旋律だけの歌。眠れ、眠れ、と、そんなふうに、聞こえた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――子守唄だった。祖母が、幼いわたしを寝かしつけるときに、うたってくれた歌だった。もう何十年も、思い出したこともなかった歌が、その古書店の奥の、湯気のむこうから、かすかに、流れてきた。わたしは、耳を澄ませた。けれど、聞きとろうとすると、それは、紙の匂いのなかに、ほどけて、消えてしまった。空耳だったのかもしれない。あるいは、あの店では、時間や記憶も、逢魔が時のように、輪郭を失うのかもしれなかった。

「お茶を、召しあがりなさい」と、やがてその人は言った。「冷めないうちに」

わたしは、茶碗を手にとった。あたたかかった。ひと口すすると、香ばしい、けれどどこか懐かしい味がした。祖母の家の、縁側の匂いを思い出す味だった。

「わたしはね」と、その人は、自分の茶碗を両手で包みながら言った。「たくさんの人の、顔を見てきました。この店に来る人は、たいてい、逢魔が時に来ます。昼の顔が剝がれて、けれど夜の顔がまだ戻らない、その境目に。そういう人たちは、みんな、あなたと同じ顔をしています」

「同じ、顔」

「隠してきた顔です」と、その人は言った。「その顔を、みっともないと思っている顔です。けれど、わたしには、そうは見えません」

その人は、鉄瓶を、そっと、脇に置いた。

「あなたは、いくつのころから、顔をつくるようになりましたか」と、その人はたずねた。

わたしは、考えた。「たぶん、七つか、八つのころだと思います」と、わたしは答えた。「はっきりとは、覚えていません。でも、そのころから、鏡の前で、笑う練習をした覚えがあります。うまく笑えないと、いけないと思って。子どもなのに、笑う練習をしていたんです」

「それは」と、その人は言った。「ずいぶん、早くから、おひとりで、がんばってこられたのですね」

その一言が、なぜだか、胸に刺さった。がんばってきた。誰にも、そう言われたことはなかった。わたし自身、そう思ったことも、なかった。顔をつくるのは、あたりまえのことで、努力でも、我慢でもなく、ただ、そうするものだと思ってきた。息をするように。歩くように。けれど、その人は、それを「がんばり」と呼んだ。八つの子どもが、鏡の前で、たったひとり、笑う練習をする。それは、たしかに、がんばりだったのかもしれない。ずっと、認めてこなかった、がんばりだった。

わたしは、顔を上げた。

「あなたがいま、なさっている顔は」と、その人は、まっすぐにわたしを見た。「疲れて、怯えて、尖っている。たしかに、そうです。けれど、それは、あなたが十四年間、たったひとりで、自分を守りつづけてきた顔です。誰にも助けを求めず、誰にも本当のことを言わず、たったひとりで、昼の顔をつくりつづけ、夜の顔をつくりつづけ、その重さに耐えてきた顔です。――わたしには、それが、みっともないとは、どうしても思えません」

わたしの、目のふちが、熱くなった。

「あなたが子どものころに泣いていたのを笑った、その大人は」と、その人はつづけた。「たぶん、その人自身が、泣くことを許されなかったのでしょう。自分が我慢してきたものを、子どもが素直に外へ出しているのを見て、それが、まぶしくて、悔しくて、だから笑ったのです。その笑いは、あなたのことではなく、その人自身のことでした。あなたのその顔が、悪いのではなかった」

わたしは、茶碗を、テーブルに置いた。手が、少し震えていた。

「わたしは」と、わたしは言った。声が、掠れた。「わたしは、ずっと、この顔が、いけないものだと思って生きてきました。この顔をしまっておくことが、大人になることだと思っていました。そうやって、うまくやってきたつもりでした。でも」

「でも」

「でも、しんどかった」と、わたしは言った。とうとう、その一言を言った。十四年間、誰にも言わなかった一言を。「ずっと、しんどかったんです。昼の顔をつくるのも、夜の顔をつくるのも。ひとりでいるときですら、鏡を見るのが怖くて、逢魔が時が来るのが怖くて。――本当は、ただ、この顔のままで、いたかった」

言ってしまってから、わたしは、うつむいた。

こんなことを、見知らぬ人に。しかも、逢魔が時に、消えるかもしれない店で。けれど、その人は、笑わなかった。そんな顔をするな、とも、みっともない、とも、言わなかった。

その人は、ただ、静かに、うなずいた。

蒼い星

「少し、外へ出ましょうか」と、その人は言った。

わたしたちは、椅子を立った。本棚の迷路を抜けて、鈴の鳴る硝子戸を開けて、路地に出た。

外は、もう、すっかり暗くなりかけていた。

わたしは、逢魔が時が終わりかけているのを、肌で感じた。空の残照は、細い帯だけになっていて、その上に、藍色が、深く、重く、垂れこめていた。あと少しで、夜になる。あと少しで、逢魔が時のこの顔は消えて、夜の顔が戻ってくる。いつもなら、それを待ちわびていた。けれど、その日は、ちがった。

わたしは、この顔のままで、もう少しだけ、いたかった。

「ごらんなさい」と、その人が、空を指さした。

わたしは、その指の先を見上げた。

ビルとビルの谷間の、細長い空の、いちばん深く沈んだ藍のところに、ひとつの星が、昇りかけていた。

蒼い星だった。ほかのどの光ともちがう、澄んだ、冷たい、けれどどこか懐かしい蒼。ネオンの色でも、残照の色でもない。それは、この地上のどんな光にも属さない、遠い、遠いところからの光だった。

「あれは」と、わたしは言った。

「ミラ彗星です」と、その人は言った。「黄昏の、いちばんはじめに昇る星。逢魔が時の徴です。あの星が昇ると、昼と夜の境が、いちばん薄くなる。人が、いちばん、本当の顔になれる時刻です」

わたしは、その蒼い光を、見つめた。

ビルの谷間の、狭い空に、その星はひとつだけ、ぽつんと昇っていた。まわりには、まだ、ほかの星は見えなかった。ネオンの明るさに負けず、残照の名残にも紛れず、その蒼い星だけが、はっきりと、そこにあった。まるで、暮れゆく空が、逢魔が時のあいだだけ、その一点に、本当の色を宿しているかのように。

「あの星も」と、その人は言った。「昼のあいだは、見えません。夜が更ければ、ほかのたくさんの星に紛れて、目立たなくなります。あの星がいちばん美しく見えるのは、この、逢魔が時だけです。境目の、この短いあいだだけ」

わたしは、その言葉の意味を、考えた。

ふと、片方の手が、冷たいのに気づいた。見ると、わたしは、右手にだけ、手袋をしていた。左手は、素手だった。いつ、片方をなくしたのか、覚えがなかった。会社を出るときには、両手にあった気がする。それとも、はじめから、片方だけだったのか。逢魔が時の記憶は、あてにならない。わたしは、その片方だけの手袋を見つめた。二つで一組のはずのものが、片方だけになって、そのぶん、素手のほうが、外の空気に、じかに触れている。守られていた手と、剝きだしの手。まるで、わたしの、二つの顔のようだと思った。片方はいつも覆われていて、片方は、逢魔が時にだけ、外気にさらされる。

「あなたのその顔も」と、その人は、わたしのほうを見た。「あの星と、同じです。昼には見えない。夜には紛れてしまう。けれど、この逢魔が時にだけ、いちばん、あなたらしく、あらわれる。――それは、隠すべきものでしょうか。それとも」

その人は、そこで、言葉を切った。

わたしは、星を見上げたまま、答えを探した。

隠すべきもの。十四年間、わたしはそう信じてきた。けれど、いま、ビルの谷間に昇るその蒼い星を見ていると、ちがう答えが、胸の底から、ゆっくりと浮かんできた。

「わたしは」と、わたしは言った。星から目を離さずに。「この顔を、誰かに、受けとめてほしかったんだと思います。ずっと」

「ええ」と、その人は言った。

「昼の顔でも、夜の顔でもなく」と、わたしはつづけた。「この、剝きだしの、逢魔が時の顔を。みっともないと笑わずに、そうかと、ただうなずいて、受けとめてくれる、誰かを」

「ええ」

「でも、いなかった」と、わたしは言った。「だから、しまうしかなかった。でも――」

わたしは、その人のほうを向いた。

「いま、あなたが」と、わたしは言った。声が、震えた。けれど、今度は、悪い震えではなかった。「あなたが、受けとめてくれた。この顔を。昼の顔も、夜の顔も、そして、この顔も。全部」

その人は、微笑んだ。

「わたしが受けとめたのではありません」と、その人は言った。「あなたが、見せてくれたのです。あなたが、この顔を、隠さずにいてくれた。それだけのことです。受けとめるも受けとめないも、まず、見せてくれなければ、はじまりません」

わたしは、その言葉を、胸に刻んだ。

まず、見せてくれなければ、はじまらない。――そのとおりだった。わたしは、十四年間、いや、七つか八つのころからずっと、この顔を、誰にも見せてこなかった。見せなければ、笑われることもない。かわりに、受けとめられることも、なかった。わたしは、笑われないために、受けとめられる機会まで、みずから、捨ててきたのだ。安全な檻のなかで、たったひとり、身を守りながら。その檻は、たしかに、わたしを守った。けれど、同時に、わたしを、ひとりぼっちにした。

「あなたはこれから」と、その人はつづけた。「たくさんの人に会うでしょう。そのなかには、あなたのこの顔を笑う人も、いるかもしれません。けれど、受けとめてくれる人も、きっと、います。あなたが、隠さずにいてくれさえすれば。――昼の顔をやめる必要はありません。夜の顔も、あってよいのです。ただ、この顔もまた、あなたなのだと、あなた自身が、忘れずにいてくれれば」

青いマッチ

風が、路地を吹き抜けた。

その人の藍色の外套の裾が、ふわりと揺れた。ランプの――いつのまにか、店の硝子戸のむこうの灯りが、少しずつ、暗くなっているように見えた。

「夜が、来ますね」と、その人は言った。「逢魔が時が、終わります」

わたしは、空を見た。残照の帯は、もう、ほとんど消えていた。藍色が、黒に近づいていた。蒼い星――ミラ彗星は、まだ、そこに昇っていたけれど、そのまわりに、ぽつり、ぽつりと、ほかの星が、ともりはじめていた。夜が、近づいていた。

「あなたは、これから、実家へ行かれるのでしょう」と、その人は言った。

わたしは、驚いた。父のことを、話した覚えはなかった。

「お父さまのところへ」と、その人は言った。まるで、わたしの心を読んだかのように。「顔を見せてやってください。昼の顔でも、夜の顔でもなく。――できることなら、この顔で。あなたのお父さまも、たぶん、いちどでいいから、あなたの本当の顔が見たいと、思っておられます。弱いところを見せられない、というのは、あなただけのことではありませんから」

わたしは、母の言葉を思い出した。あの人、あなたには弱いところを見せないから。――父もまた、顔を、つくっていたのだ。わたしと同じように。ひとりで。

「行きます」と、わたしは言った。「いま、行きます」

「ええ」と、その人は言った。「では、これを」

その人は、外套のポケットに手を入れて、何かを取りだした。

小さな、箱だった。わたしの手のひらに、その人はそれを載せた。

青いマッチ箱だった。

深い、藍色の――いや、逢魔が時のあの空の色の、青。箱の表には、白い墨のような色で、小さく、こう記されていた。「月光堂」と。

「暗い道を、行かれるでしょう」と、その人は言った。「灯りが、必要になったら、それをお使いなさい。逢魔が時のあいだしか、火はつきません。けれど、逢魔が時のあいだだけは、たしかに、灯ります。――あなたのその顔と、同じですね」

わたしは、その青いマッチ箱を、ポケットにしまった。ずしりと、けれどあたたかい、重さがあった。手のひらのなかで、それは、まるで小さな生きもののように、かすかに、体温のようなものを持っている気がした。

箱を、もう一度、灯りにかざしてみた。青の地に、月光堂、の三文字。そのわきに、小さく、月のかたちの紋が、白く抜かれていた。三日月のような、けれど、それよりも、もっと細い、爪のような月。逢魔が時の空に、いちばんに昇る、あの蒼い星の――光の削りかすのような、細い月。わたしは、その紋を、指先で、そっと、なぞった。

「ありがとうございます」と、わたしは言った。「あなたに、お会いできて」

「いいえ」と、その人は言った。「お会いしたのは、あなた自身とです。わたしは、ただ、そこにいただけ。逢魔が時に、あなたが、あなた自身と、出会っただけのことです」

その人は、微笑んで、硝子戸に手をかけた。

「もう、お行きなさい」と、その人は言った。「夜が来ます。夜のあなたも、また、よい顔です。けれど、どうか、忘れないで。この顔も、あなたなのだと」

鈴が鳴って、その人は、店のなかへ入っていった。

硝子戸が閉まると、店の灯りは、すっと、消えた。

夜へ

わたしは、路地に、ひとり残された。

もう一度、月光書房の看板を見上げようとして――そこに、看板は、なかった。

古びた建物の、しんとした壁があるだけだった。硝子戸も、木の看板も、店の灯りも、消えていた。まるで、はじめから、何もなかったかのように。ただ、路地のいちばん奥の、壁の低いところに、小さな鈴が、ひとつ、掛かっていた。風もないのに、その鈴が、ちりん、と、一度だけ鳴った。

わたしは、ポケットに手を入れた。

青いマッチ箱は、たしかに、そこにあった。指先に、その硬い角の感触があった。夢では、なかった。

わたしは、大通りへ引き返した。

ネオンが、さっきよりも、はっきりと、明るく光っていた。逢魔が時は、終わっていた。空は、もう、夜だった。ミラ彗星の蒼い光は、いまはたくさんの星のなかに紛れて、どこにあるのか、見わけがつかなくなっていた。けれど、わたしは知っていた。あの星は、そこにある。見えなくなっても、そこにある。この顔と、同じように。

駅へ向かって歩きながら、わたしは、自分の顔に、手をあてた。

夜の顔が、戻ってきていた。いつもの、少し尖った、夜のわたしの顔。けれど、その奥に、さっきまでの、逢魔が時の顔が、たしかに、まだ残っている気がした。消えたのではなく、しまわれたのでもなく、ただ、そこにいる。夜の顔の下で、静かに、息をしている。

電車のなかで、わたしは、窓に映る自分の顔を見た。

以前なら、目をそらしていた。逢魔が時でなくとも、鏡や窓に映る自分の顔を、まともに見るのが、怖かった。どの顔が本当の顔なのか、わからなくなるのが怖かった。けれど、その夜は、わたしは、窓の自分を、じっと見た。

そこに映っていたのは、夜の顔だった。少し尖った、いつもの顔。けれど、その顔を見ても、もう、怖くなかった。これも、わたしだ。昼の顔も、わたしだ。そして、あの逢魔が時の、剝きだしの顔も、わたしだ。どれかひとつが本当で、あとが嘘、というのではない。全部が、わたしなのだ。ただ、時刻によって、あらわれる顔が、ちがうだけ。ミラ彗星が、昼には見えず、夜には紛れ、逢魔が時にだけ、いちばん美しくあらわれるのと、同じように。

窓の外を、街の灯りが、流れていった。

実家の最寄り駅に着いたのは、七時をまわったころだった。

駅前は、静かだった。都心のネオンとはちがう、ぽつぽつとした街灯の明かり。わたしは、記憶をたどって、実家への道を歩いた。子どものころに歩いた道。祖母と手をつないで歩いた道。逢魔が時には顔をたしかめてから返事をしなさいと、祖母に教わった、その道。

途中、街灯の切れた、暗い区間があった。

わたしは、ポケットに手を入れた。青いマッチ箱が、あった。逢魔が時のあいだしか、火はつきません――その人は、そう言っていた。逢魔が時は、もう、終わっている。火は、つかないはずだった。

それでも、わたしは、箱を取りだした。

一本、抜いた。箱の側面で、擦った。

火は――ともった。

小さな、けれど、たしかな、橙色の炎が、わたしの指先で、揺れた。逢魔が時は終わったのに。夜は、とうに来ているのに。それでも、その火は、ともった。

わたしは、しばらく、その炎を見つめた。

そして、気がついた。逢魔が時というのは、時刻のことだけではないのだ、と。それは、境目のことだ。昼と夜の境目。人と、人でないものの境目。つくった顔と、本当の顔の境目。そういう境目が、心のなかにあるかぎり、逢魔が時は、いつでも、どこにでも、あらわれる。この、夜の暗い道でさえ。わたしが、本当の顔を、忘れずにいるかぎり。

炎は、風に揺れながらも、消えなかった。

わたしは、その火を頼りに、暗い区間を歩いた。数歩ぶんの、小さな明かり。けれど、それで、じゅうぶんだった。暗がりを抜けると、また街灯があった。わたしは、マッチの火を、そっと、吹き消した。細い煙が、藍色の夜のなかへ、ほどけていった。青いマッチ箱を、ポケットに戻した。まだ、たくさんのマッチが、残っていた。

父の顔

実家の玄関の、すりガラスに、明かりがともっていた。

わたしは、しばらく、その明かりを見ていた。

チャイムを押す前に、わたしは、自分の顔に、そっと、触れた。

昼の顔を、つくろうとしている自分がいた。父の前では、しっかりした息子の顔を。心配をかけない、頼れる顔を。長年、そうしてきた。父もまた、わたしの前では、弱さを見せない父の顔を、つくってきた。二人で、たがいに、顔をつくりあってきた。それが、親子というものだと、思っていた。

けれど、その夜は、わたしは、その顔を、つくらなかった。

つくれなかった、のではない。つくらないことを、選んだ。

チャイムを押した。

しばらくして、母が出てきた。「まあ、来てくれたの」と、母は言った。わたしの顔を見て、母は、少し、驚いたようだった。「あなた、なんだか――」と、母は言いかけて、やめた。「いえ、いいの。上がって。お父さん、奥にいるから」

わたしは、靴を脱いで、上がった。

奥の部屋に、父がいた。布団の上に、半身を起こして。テレビもつけずに、ただ、窓の外の暗がりを、見ていた。わたしが入っていくと、父は、こちらを向いた。

「来たのか」と、父は言った。いつもの、父の顔で。しっかりした、弱さを見せない、父の顔で。「わざわざ、来ることはなかったのに。たいしたことはないんだ」

わたしは、父の枕もとに、座った。

そして、いつものように「そうか、たいしたことなくてよかった」と、しっかりした息子の顔で、答える――かわりに。

わたしは、言った。

「心配したよ」と。

素の声で。逢魔が時の、あの顔の、名残りの声で。「母さんから電話をもらって、ずっと、心配してた。父さんに、もしものことがあったらって。――怖かった」

父の顔が、動いた。

いつもの、父の顔が、ほんの少し、ゆらいだ。目のあたりが、ゆるんだ。わたしが交差点で、あの人に見せた顔と、同じように。父の、つくった顔が、ほどけて、その奥から、別の顔が、あらわれかけていた。

「――そうか」と、父は言った。声が、掠れていた。「心配、させたか」

「うん」と、わたしは言った。

父は、窓の外の暗がりを、また見た。それから、ぽつりと、言った。

「わたしもな」と、父は言った。「じつは、少し、怖かったんだ。ひとりで、あの病院の検査室で、待っているときな。おまえや、母さんには、言えなかったが」

わたしは、父の、その横顔を見た。

いつもの、しっかりした父の顔は、そこには、なかった。かわりに、あったのは、疲れて、怯えて、けれど、正直な、剝きだしの顔だった。わたしが、十四年間、隠してきた顔と、同じ種類の顔。父もまた、その顔を、隠して生きてきたのだ。わたしに、それを、見せることなく。

「父さん」と、わたしは言った。

わたしは、父の、その顔を、じっと見た。あの人が、交差点で、わたしの顔を見たように。みっともないとも、そんな顔をするなとも、思わずに。ただ、そうか、と、うなずきながら。

「見せてくれて、ありがとう」と、わたしは言った。「その顔」

父は、けげんそうに、わたしを見た。それから、ふっと、笑った。今度は、つくった笑いでは、なかった。目のふちに、光るものがあった。

「変な子だな、おまえは」と、父は言った。「昔から」

「うん」と、わたしは言った。「変な子だよ。ずっと」

窓の外は、深い、藍色の夜だった。

その夜、わたしは、実家に泊まった。

父と、遅くまで、話した。とりとめのない話だった。子どものころの話。祖母の話。逢魔が時の言い伝えの話。父は、祖母から、同じ言い伝えを聞いて育ったと言った。「逢魔が時には、顔をたしかめてから返事をしろ、とな」と、父は言った。「ばあさんは、あれをよく言っていた。人か、そうでないものか、見わけがつかなくなる時刻だから、と」

「でも、父さん」と、わたしは言った。「あれは、たぶん、こういう意味だったんじゃないかな」

「どういう」

「逢魔が時に会う相手の顔を、たしかめろ、っていうことじゃなくて」と、わたしは言った。「逢魔が時には、自分の顔が、剝きだしになる。だから、その顔を、ちゃんと、たしかめておけ、っていう。――自分の、本当の顔を」

父は、しばらく、考えていた。

「そうかもしれんな」と、やがて、父は言った。「ばあさんは、そういうことを、言いたかったのかもしれん。人の顔じゃなくて、自分の顔を、たしかめろ、と」

わたしは、うなずいた。

「なあ」と、しばらくして、父が言った。「おまえ、今日は、なんだか、いつもとちがうな」

「そうかな」と、わたしは言った。

「うん」と、父は言った。「なんというか――昔の、おまえに、戻ったみたいだ。ちいさいころの。よく、泣いたり、笑ったり、怒ったりしていた、あのころの、おまえに」

わたしは、驚いて、父を見た。父は、天井を見上げていた。

「いつからか、おまえは、なんでも、うまくやるようになった」と、父は、ぽつり、ぽつりと言った。「聞きわけがよくなって、手のかからない子になって。親としては、楽だった。楽だったが、な。――どこかで、さびしくもあった。この子は、もう、わたしらの前で、泣かなくなったな、と。何を考えているのか、わからなくなったな、と。おまえが、いい子になればなるほど、遠く感じたよ」

わたしは、言葉を、失った。

父は、気づいていたのだ。わたしが、顔をつくりはじめたことに。いい子の顔の奥に、何かをしまいこんだことに。ずっと、気づいていて、けれど、何も言えずに、ただ、さびしく思っていた。そして、父もまた、父の顔を、つくって、わたしに向きあっていた。たがいに、顔をつくりあって、そのぶんだけ、遠ざかっていた。二人とも、それを、さびしいと思いながら。

「ごめん」と、わたしは言った。

「なにを謝る」と、父は言った。「謝ることじゃない。おまえは、おまえなりに、生きてきた。それだけのことだ。――ただ、な。たまには、今日みたいな顔を、見せてくれ。年寄りの、頼みだ」

「うん」と、わたしは言った。「見せるよ。今度から」

窓の外で、夜の風が、木の枝を、揺らしていた。

逢魔が時の顔

翌朝、わたしは、始発に近い電車で、街へ戻った。

車窓の外が、だんだんと、白んでいった。夜が明けていく時刻。逢魔が時とは、反対の境目。夜と昼の、あわいの時刻。わたしは、その、明けていく空を、見ていた。

ふと、思い出して、ポケットの青いマッチ箱を、取りだした。

昨夜、あの人は、言っていた。この店は、黄昏に現れて、夜明けには消える、と。月光書房は、もう、あの路地には、ないのだろう。硝子戸も、木の看板も、鈴の音も。あの人も。

わたしは、マッチを一本、抜いてみた。

窓のほうを向いて、そっと、擦ってみた。夜明けの、この時刻に。逢魔が時でも、真夜中でもない、この、明けていく時刻に。

火は――ともらなかった。

何度、擦っても、ともらなかった。逢魔が時のあいだしか、火はつきません。あの人の言葉は、本当だった。夜明けには、この火も、消える。月光書房が消えるように。

わたしは、少し、さびしくなった。

けれど、それでいいのだ、とも、思った。逢魔が時の顔は、逢魔が時にだけ、あらわれる。それが、いちばん、美しい。無理に、昼のあいだじゅう、その顔でいる必要はない。夜のあいだじゅう、その顔でいる必要もない。ただ、その時刻が来たときに、隠さずに、あらわれさせてやればいい。しまいこまずに。笑わずに。そうか、と、うなずいて。

マッチを、箱に戻した。

わたしは、これから、また、昼の顔で、会社のガラス扉をくぐるだろう。角のとれた、感じのいい顔で。そして、夜には、少し尖った、夜の顔になるだろう。それは、たぶん、これまでと、変わらない。

けれど、ひとつだけ、変わったことがあった。

わたしは、もう、逢魔が時を、恐れなくなっていた。

夕方の五時をまわり、六時に近づく、あの境目の時刻。昼の顔が剝がれて、夜の顔がまだ戻らない、あの短い時間。世界の輪郭がふやけて、わたしの顔も、ほどけていく、あの時刻。――それは、わたしが、いちばん、わたしになれる時刻だった。ビルの谷間に、蒼い星が、ひとつだけ、昇る時刻。隠してきた顔が、静かに、息をつく時刻。

電車が、街に近づいていった。

ホームに降りると、朝の光が、まぶしかった。人々が、それぞれの昼の顔をつくって、改札へと流れていった。わたしも、その流れに、加わった。ポケットのなかで、青いマッチ箱が、ことりと、鳴った。逢魔が時の火を、たしかに、そこに、しまっている。夕方になれば、また、それは灯る。わたしのその顔と、同じように。

その日の夕方、五時をまわったころ、わたしは、また、あの西の空を、見上げるだろう。ビルとビルの谷間の、細長い空を。藍と、残照の、溶けあうところを。そして、そこに、蒼い星が昇るのを、待つだろう。恐れずに。むしろ、ひそかに、待ちわびながら。

昼のあいだ、わたしはよくできた人間でいる。夜のあいだ、わたしは少し尖った人間でいる。けれど、あの境目の、逢魔が時にだけ、わたしは、ただの、わたしになる。――そして、いまのわたしは、その顔を、もう、しまわない。

境目の刻に、蒼い星が昇るたび、わたしは、いちばん本当の顔で、その光を見上げる。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

← 『逢魔が時の物語』目次へ