月光書房
酉の刻 ・ 黄昏 ・ 第 九 話

むこうの町

境 亙
ファンタジー・異界 ・ 約26頁

渡り

橋の名を、わたしはずっと知らずにいた。

生まれ育った町の外れ、川がゆるく曲がって淀むあたりに、その古い木の橋は架かっていた。欄干は洗われて灰色になり、ところどころ黒く朽ちて、踏板を渡ると足の裏に、木のやわらかな息づかいのようなものが伝わってきた。子どものころ、母に手を引かれてこの橋を渡り、川向こうの祖母の家へ通った。祖母が亡くなってからは、渡ることもなくなった。橋の向こうには、もう何もなかったから。

橋は、古い地図にも載っていなかった。役場に届けを出したこともないような、いつのまにか誰かが架け、いつのまにか町の暮らしに溶けこんだ、そういう橋だった。町の年寄りに訊いても、いつからあるのか、誰が架けたのか、知る者はいなかった。ただ、みな、口をそろえて、こう言った。あの橋は、暮れの刻には、渡らぬがいい、と。理由を問うても、はっきりとは答えなかった。ただ、渡らぬがいい、と、それだけを、まるで昔からの言い伝えのように、くりかえすのだった。

わたしは、その言い伝えを、半ば忘れ、半ば、胸の隅にしまったまま、大人になった。町の役所に勤め、来る日も来る日も、判子を押し、書類を綴じ、同じ窓口で、同じ顔の見えない人々の用を、聞いた。妻はなく、子もなかった。若いころに、一度だけ、所帯を持ちかけた相手がいたが、その話も、いつのまにか、川の水のように、指のあいだをすり抜けていった。気がつけば、わたしは、ひとりだった。

それでも、勤め先からの帰り道、遠回りになるのを承知で、わたしはときおりその橋のたもとまで足を運んだ。理由は自分でもわからなかった。ただ、川面に映る夕焼けを見ていると、胸の奥の、名づけようのない場所が、ゆっくりと満たされていくのだった。まるで、渇いた地面に、水が沁みていくように。何かを、待っているような、何かを、探しているような、そんな心持ちで、わたしは、暮れなずむ川を、いつまでも、眺めていた。

あの日も、そうだった。

秋の暮れ、勤めを終えたわたしは、いつものように川沿いの道を歩いていた。一日じゅう、窓口で人の相手をして、疲れていた。誰も、わたしの名を、呼ばなかった。番号で、あるいは、係の者、として、わたしは呼ばれた。わたしという人間が、そこにいてもいなくても、世界は、何も変わらないような気がした。そんな日の、帰り道だった。

空はまだ明るさの余韻を残しながら、西のはてから少しずつ藍に沈みはじめていた。昼と夜のあいだの、あの淡い時刻。ものの輪郭がにじみ、影が長く伸びて、人の顔もどこか見知らぬもののように見えてくる、逢魔が時。すれちがう人の顔も、見なれた家並みも、その刻には、どこか、この世のものではないような、遠い、あわいものに見えた。

橋のたもとに立って、わたしは川面を眺めた。水は残照を吸って、金と紫の入りまじった色に光っていた。風はなく、あたりは奇妙に静かで、遠くの町のざわめきさえ、水の底に沈んでしまったかのようだった。鴉の声も、犬の声も、しなかった。ただ、水の面だけが、生きもののように、ゆっくりと、いろを変えていった。

ふと、渡ってみようと思った。

なぜそう思ったのか、今でもわからない。祖母の家はとうになく、川向こうには荒れた畑と、朽ちかけた農具小屋のほかには何もないはずだった。それでも足は、ひとりでに踏板を踏んでいた。あの、渡らぬがいい、という言い伝えが、頭の隅を、かすめた。けれど、その日は、なぜか、その言葉が、むしろ、わたしを、橋のほうへと、誘っているように思えた。一歩、また一歩。木は、わたしの重みを受けて、低くきしんだ。きしむ音は、まるで、ずっと待っていたよ、とでも言うような、低い、やわらかな響きだった。

橋のなかほどまで来たとき、あたりの空気が、ふいに変わった。

それは、寒さではなかった。むしろ、あたたかいものが、頬を撫でていくような感覚だった。しかし、そのあたたかさには、どこか懐かしい、そして、どこか恐ろしいものが混じっていた。まるで、遠い昔に嗅いだきりの、忘れていた匂いを、不意に思い出したときのような。線香の匂いにも似て、雨あがりの土の匂いにも似て、けれど、そのどちらでもない、名づけようのない匂いが、藍色の空気のなかに、ほのかに、ただよっていた。

川の音が、変わっていた。

さっきまで、水はほとんど動いていなかったはずだ。それが今は、さらさらと、絶え間なく流れる音がしていた。それも、水の音というよりは、無数の小さな声が、いっせいにささやいているような、奇妙な響きだった。耳をすませると、その声のなかに、ときおり、言葉のようなものが、まじって聞こえる気がした。けれど、それが何を言っているのかは、どうしても、聞きとれなかった。まるで、水の底から、大勢の人が、いっせいに、こちらへ向かって、何かを呼びかけているような。

わたしは足を止めた。

背すじを、つめたいものが、走った。けれど、こわい、というのとは、少しちがった。ふしぎと、心のどこかは、しずかに、澄んでいた。逢魔が時の、この境の刻に、わたしは、いま、ほんとうの境の上に、立っているのだ――そんな確信のようなものが、理屈をこえて、胸に生まれていた。

橋の向こう側が、藍色の靄に包まれて、よく見えなかった。渡ってきたはずの、こちら側を振り返ると、そちらもまた、同じ靄に沈んでいた。橋だけが、灰色の踏板だけが、両側の暗がりのあいだに、細く長く浮かんでいた。

引き返そうか、と思った。しかし、そう思ったとき、向こう側の靄のなかに、ぽつりと、あかりが灯った。

小さな、あたたかい、橙色のあかり。それは、家の窓のあかりのように見えた。

わたしは、そのあかりに、ひきよせられるように歩き出した。逢魔が時の靄のなかを、一歩ずつ。橋を渡りきると、足の裏に、乾いた土の感触が戻ってきた。

そこは、荒れた畑ではなかった。

小さな町だった。

石畳の細い道が、川に沿ってゆるやかに続いていた。道の両側には、木造の低い家々が肩を寄せ合うように並び、その一軒一軒の窓に、あの橙色のあかりが灯っていた。軒先には古びた提灯が下がり、暮れかけた藍の空の下で、ほのかに揺れていた。石畳は、雨に濡れたように、しっとりと黒く光り、そのうえに、提灯のあかりが、金の斑をなして、揺れていた。

どこからか、豆腐屋の、らっぱの音のようなものが、遠く聞こえた。かと思うと、それも、すぐに、藍色の空気のなかに、溶けて消えた。誰かが、遠くで、洗いものをする水の音。子どもの、笑い声。そういう、暮らしのざわめきが、うっすらと、町のあちこちから、立ちのぼっていた。けれど、そのどれもが、ほんの少し、遠かった。まるで、薄い紗の幕を、一枚へだてて、聞いているような。

わたしは、立ち尽くした。

こんな町は、知らなかった。川向こうには、こんな町はなかったはずだ。荒れた畑と、農具小屋のほかには、何も。

けれど、と、わたしは思った。この町は、どこかで見たことがある。

道の曲がりぐあい。家々の並びかた。川面に映る提灯のあかり。そのすべてが、初めて見るはずなのに、なぜか、胸の奥をきりきりと締めつけるほど、懐かしかった。まるで、ずっと昔に住んでいた町を、忘れていた夢のなかで、もう一度歩いているような。

わたしの生まれ育った町に、よく似ていた。よく似ていて、しかし、少しずつ、違っていた。

生まれた町には、あんな古い井戸はなかった。あんなふうに、道の真ん中に、大きな柿の木が立ってはいなかった。けれど、あの角の煙草屋も、あの格子戸の並びも、どこかで見たことがあるようで、見たことのない、奇妙な既視感が、わたしをそこに縛りつけていた。

いや――と、わたしは思いなおした。これは、いまの町ではない。むかしの町だ。わたしが、子どものころに歩いた、あのころの町だ。あの井戸は、そういえば、わたしが小学校に上がるまえに、埋められた。あの柿の木は、道の拡張のときに、伐られた。この町には、それらが、まだ、ある。まるで、失われたものだけを、そっと集めて、こしらえた町のようだった。時が、この町では、どこかで、ふいに、堰きとめられているのだ。

そう気づくと、懐かしさは、いっそう深くなり、そして、そのぶんだけ、胸の奥に、しずかな恐れが、忍びこんできた。ここは、過ぎ去ったものたちの、たまり場なのだ。流れていったはずのものが、流れつく先なのだ。

空を見上げた。

西の空は、もう深い藍に沈み、そのいちばん高いところに、蒼い星がひとつ、灯っていた。

それは、いままで見たどんな星とも違っていた。青白く、澄んで、しかし、ほんのわずかに尾を引いているように見えた。まるで、暮れゆく空に、誰かが、逢魔が時の徴を刻んだかのように。

ミラ彗星だ、と、なぜかそう思った。名を聞いたおぼえもないのに、その名が、するりと胸に浮かんだ。

わたしは、その星から目を離せなかった。それは、こわいほどうつくしかった。そして、その青いひかりを見ているうちに、わたしのなかの何かが、静かにほどけていくのを感じた。

「――お客さん」

声がした。

振り返ると、道の脇に、いつのまにか一軒の店があった。

さっきまで、そこには何もなかったはずだった。荒れた壁と、閉じた戸のある、ただの空き家だったはずだ。それが今は、格子戸が細く開いて、なかから淡い、青みがかったあかりが漏れていた。

戸口の上に、古びた木の看板が掛かっていた。墨で、「月光書房」と記されていた。

戸のわきに、老人が立っていた。

痩せて、背が高く、灰色の着物を着ていた。年のころはわからなかった。皺深い顔に、しかし、目だけが、驚くほど澄んでいた。その目は、藍色の空を映して、蒼く光っているようにも見えた。

「暮れかけの刻に、この橋を渡っていらっしゃる方は、めずらしい」と、老人は言った。「たいていの人は、渡りかけて、引き返してしまいますからな」

「ここは……どこですか」と、わたしは訊いた。

老人は、答えなかった。かわりに、細く開いた戸を、さらに開いた。「まあ、お入りなさい。橙のあかりのなかを歩きどおしで、お疲れでしょう。うちには、いい本と、それから、あたたかい茶がありますよ」

わたしは、迷った。

引き返すなら、今だ、と、頭のどこかで、冷たい声がした。この橋を、この星の下を、渡って戻れば、いつもの町に、いつもの暮らしに、帰れるはずだ。けれど、なぜか足は、その青いあかりのほうへ、動いていた。

わたしは、店のなかに入った。

なかは、思ったよりも広かった。

天井まで届く書棚が、幾重にも連なり、その隙間を縫うように、狭い通路が奥へ奥へと続いていた。書棚には、古い本が、びっしりと詰まっていた。革の背表紙、布の背表紙、和綴じの、糸のほつれた本。どの本も、長い年月を経て、飴色に、あるいは灰色に変じていた。紙と、埃と、かすかな黴の匂いが、あたりに満ちていた。それは、いやな匂いではなかった。むしろ、ずっと嗅いでいたいような、時そのものの匂いだった。

奥のほうに、帳場らしきものが見えた。その上に、青いマッチ箱が、ひとつ、置かれていた。ふしぎと、それだけが、目についた。ちいさな、藍色の紙箱で、側面に、白抜きで、月のかたちが、刷ってあった。何本か、燃えさしの軸木が、そのわきに、ころがっていた。誰かが、たったいま、あかりを灯したばかり、とでもいうように。

店のなかには、青いあかりが満ちていた。それは、どこから来るのか、わからなかった。ランプはなく、蝋燭もなかった。ただ、本そのものが、かすかに青く発光しているようにも見えた。まるで、無数の本のなかに閉じこめられた言葉が、闇のなかで、ひそかに、息づいているかのように。

「お好きに、ご覧なさい」と、老人は言い、奥のほうへ消えていった。

わたしは、書棚のあいだを、ゆっくりと歩いた。

背表紙の題を、目で追った。知っている本は、ひとつもなかった。それでいて、どの題も、なぜか懐かしかった。『川底の子守唄』。『消えた提灯』。『渡らずの橋』。『黄昏の郵便屋』。まるで、まだ書かれていない本、あるいは、とうに忘れられてしまった本ばかりが、ここに集められているかのようだった。

一冊の本の背に、指がふれた。

抜き出してみると、それは、和綴じの、薄い本だった。表紙には、何も書かれていなかった。開くと、なかには、手書きの文字が、細く、ていねいに綴られていた。

それは、子守唄だった。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

その一行を、目でなぞったとき、わたしのなかで、何かが、ぱちりと弾けた。

母の声が、聞こえた気がした。

ずっと昔、まだわたしが幼かったころ、母は、寝つけないわたしのために、その歌を歌ってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母の声は、低く、やわらかく、まるで、川の水がゆっくりと流れていくようだった。

わたしは、その歌を、忘れていた。母が亡くなってから、一度も、思い出したことがなかった。それが今、この青いあかりのなかで、この一行を目にした瞬間に、あの声が、あの夜のぬくもりが、いっせいに戻ってきた。

胸が、痛いほど熱くなった。

わたしは、その本を、そっと閉じた。閉じてからも、しばらく、手が離せなかった。

「その本が、気になりますか」

老人の声だった。いつのまにか、すぐ後ろに立っていた。手に、湯気の立つ茶碗を持っていた。

「この歌を……知っています」と、わたしは言った。声が、震えていた。「母が、歌ってくれました。子どものころに」

老人は、うなずいた。「そうでしょう。この店の本は、みな、そういう本ばかりです。読む人が、いつか、どこかで、たしかに知っていたもの。忘れてしまったもの。この刻に、この橋を渡ってくる方には、そういう本が、よく見えるのです」

わたしは、茶碗を受け取った。あたたかかった。ひとくち飲むと、それは、覚えのある味だった。祖母の家の、あの茶の味だった。

「あの」と、わたしは訊いた。「ここは、いったい、どこなんですか。この町は……わたしの町に、よく似ている。でも、違う」

老人は、窓のほうを見た。格子の向こうに、藍色の空と、あの蒼い星が見えた。

「境の向こう、とでも申しましょうか」と、老人は静かに言った。「昼と夜のあいだ。此岸と彼岸のあいだ。逢魔が時にだけ、あの橋の向こうに、この町が現れるのです。よく似た、けれど、少しだけ違う町が。ここには、あなたの町にいたはずの人が、ときおり、住んでおります」

「いたはずの、人?」

「もう、いなくなった人が」と、老人は言った。

わたしは、茶碗を持ったまま、動けなくなった。

いなくなった人。その言葉が、胸の奥に、ゆっくりと沈んでいった。

「では」と、わたしは、かすれた声で言った。「では、この町には……母も、いるのですか。祖母も」

老人は、答えなかった。ただ、格子戸のほうを、目で示した。

「暮れの刻は、まだ、しばらく続きます。行って、お会いになるといい。ただし」と、老人は、わたしの目を、まっすぐに見た。その蒼い目に、わたしは吸い込まれそうになった。「ひとつだけ、おぼえておおきなさい。あの星が――あの蒼い星が、空にあるうちは、まだ、橋を渡って戻れます。星が沈み、空が夜になりきってしまえば、橋は消える。そうなれば、あなたは、もう、こちらの人になる」

わたしは、ごくりと唾を飲んだ。

「星を、道しるべに」と、老人は言った。「あの星が、あなたを、帰してくれます。忘れなさるな」

わたしは、うなずいた。うなずきながら、しかし、胸のなかでは、別の声がしていた。帰らなくても、いいのではないか、と。母に会えるなら。祖母に会えるなら。この、あたたかな橙のあかりのなかで、もう一度、あの声を聞けるなら。

わたしは、その本を、書棚に戻した。戻そうとして、ためらった。

「持っていきなさい」と、老人は言った。「その本は、あなたのものです。もともと」

わたしは、本を、胸に抱いた。そして、店を出た。

外は、いっそう藍が深くなっていた。

提灯のあかりが、その藍のなかで、いよいよあたたかく灯っていた。石畳の道を、わたしは歩いた。どこへ向かえばいいのか、わからなかった。けれど、足は、ひとりでに、川沿いの道を、上流のほうへと進んでいった。

歩きながら、わたしは、あたりの家々を見た。

窓のなかに、人影が見えた。ちゃぶ台を囲む家族。針仕事をする女。将棋を指す老人たち。みな、生きているように、あたたかそうに、そこにいた。けれど、その顔を、はっきりと見ることはできなかった。藍色の靄が、どの顔にも、薄くかかっているようだった。

ひとりの子どもが、道の脇で、しゃがんでいた。地面に、石で、何か絵を描いていた。わたしが通りかかると、子どもは、顔を上げた。その顔にも、やはり、薄く靄がかかっていて、目鼻立ちは、さだかでなかった。けれど、その子は、わたしを見て、にこりと笑い、それから、小さな声で、言った。

「おかえりなさい」

わたしは、立ち止まった。胸が、つまった。おかえりなさい。その言葉を、わたしは、どれほど、久しく、聞いていなかっただろう。返す言葉が、のどにつかえて、出てこなかった。ただいま、と、そう言えばいいのだと、あとになって、気づいた。けれど、そのときは、何も言えず、わたしは、ただ、うなずいて、また、歩き出した。子どもの視線が、いつまでも、背中に、あたたかく、注がれているのを、感じた。

一軒の家の前を通りかかったとき、格子戸の奥から、線香の匂いと、鈴の音が、流れてきた。誰かが、仏壇に、手を合わせているのだった。低い、女の声が、お経のようなものを、となえていた。その声は、どこか、祖母の声に、似ていた。わたしは、足を止めて、その戸を、じっと、見た。開けてみようか、とも思った。けれど、開けなかった。まだ、母に、会っていなかったから。まず、母に、会わなければ、と、そう思った。なぜ、そう思ったのかは、わからない。ただ、この町では、順序というものが、あるような気がした。会うべき者に、会うべき順に、会わなければ、道を、見失ってしまうような。

わたしは、上流へ、上流へと歩いた。

やがて、見おぼえのある角に出た。

そこには、生まれ育った町にはなかったはずの、小さな石橋があった。けれど、その橋を渡った先の、小道の曲がりぐあいだけは、たしかに、おぼえがあった。祖母の家へ続く道の、あの曲がりかたに、よく似ていた。

わたしは、その道を、たどった。

胸が、早鐘のように打っていた。

道の突き当たりに、一軒の家があった。

低い、木造の、古い家。庭には、柿の木が立っていた。生まれた町の祖母の家にも、柿の木があった。けれど、それはとうに枯れて、伐られてしまったはずだった。この家の柿の木は、青々と葉を茂らせ、まだ青い実を、いくつもつけていた。

窓に、あかりが灯っていた。

わたしは、そのあかりを、じっと見つめた。

戸に、手をかけた。

冷たい木の感触が、指に伝わった。開けようか、どうしようか。もし、この戸を開けたら、なかに、母がいたら。祖母がいたら。わたしは、どうすればいいのだろう。会って、何を話せばいいのだろう。会ってしまえば、もう、戻れなくなるのではないか。

戸の向こうから、声が聞こえた。

低く、やわらかい、歌う声だった。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

母の声だった。

わたしは、戸を、開けた。

土間の奥に、小さな囲炉裏があった。

その火のそばに、女が座っていた。背を、こちらに向けていた。針仕事をしているようだった。手もとに、白い布を広げ、その布に、何かを縫いつけていた。

女は、歌っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

わたしは、戸口に立ったまま、動けなかった。

「……母さん」と、わたしは言った。

女の手が、止まった。

ゆっくりと、こちらを振り向いた。

母だった。わたしが、最後に見た母よりも、少し若かった。まだ、病に痩せる前の、健やかだったころの母。その顔に、藍色の靄は、かかっていなかった。はっきりと、見えた。母は、わたしを見て、ふしぎそうに、それから、やさしく、微笑んだ。

「おや」と、母は言った。「よく、いらっしゃいました。寒かったでしょう。さあ、こちらへ、火のそばへ」

わたしは、母の顔を、まじまじと見た。母は、わたしを、わたしだと、わかっていないようだった。ただ、旅の途中で立ち寄った、見知らぬ客を、迎えるように、微笑んでいた。

胸が、締めつけられた。

けれど、わたしは、土間を上がり、母のそばに、座った。囲炉裏の火が、ぱちぱちと爆ぜていた。あたたかかった。母の横顔を、間近に見ると、涙が、こみあげてきた。

「何を、縫っているのですか」と、わたしは、震える声で訊いた。

母は、手もとの布を、わたしに見せた。それは、片方だけの、小さな手袋だった。子どもの、手袋だった。毛糸で編まれた、赤い手袋。ほつれた指先を、母は、ていねいに、繕っていた。

「これはね」と、母は言った。「昔、うちの子が、片方だけ、なくしてしまったのですよ。橋の上で、落としたのだと言って、泣いて帰ってきましてね。片方だけ残ったのを、捨てるのも忍びなくて、こうして、ときどき、繕っているのです。いつか、なくした片方が、戻ってくるような気がして」

わたしは、その手袋を、見つめた。

おぼえがあった。

あれは、まだ、わたしが六つか、七つのころだった。

冬の、寒い日だった。母に手袋を編んでもらって、うれしくて、わたしは、それをはめて、あの橋を渡った。祖母の家へ行くのだと、ひとりで。橋の上で、川面に映る夕日を見ようとして、欄干から身を乗り出した。そのとき、片方の手袋が、するりと脱げて、川に、落ちた。

わたしは、泣いた。母に編んでもらった、大切な手袋だったから。

家に帰って、母に、なくしたと告げた。母は、叱らなかった。ただ、残った片方を、そっと、簞笥の奥にしまった。

そのことを、わたしは、すっかり忘れていた。

けれど、母は――この、境の向こうの母は、それを、まだ繕っていた。いつか、なくした片方が戻ってくると信じて。

わたしは、涙を、こらえきれなかった。

「母さん」と、わたしは言った。「その、なくした片方は……たぶん、もう、戻ってきません。川に、流されてしまったから」

母は、手を止めて、わたしを見た。それから、静かに、微笑んだ。

「そうかもしれませんね」と、母は言った。「でも、繕っておけば、いつか、その子が、大きくなって、帰ってきたときに、渡してやれるでしょう。片方だけでも。ああ、あのとき、なくした手袋だと、思い出してくれるかもしれない。それだけで、いいのです」

わたしは、何も言えなかった。

囲炉裏の火が、母の顔を、あかく照らしていた。窓の外は、いよいよ藍が深く、夜の色に近づいていた。ふと、わたしは、あの星のことを思い出した。あの蒼い星が、沈んでしまえば、橋は消える。わたしは、こちらの人になる。

窓の外を、見た。

格子窓の向こう、藍色の空の高いところに、まだ、あの蒼い星が、灯っていた。

けれど、それは、さっきよりも、低くなっていた。少しずつ、西の山の端へと、沈もうとしていた。

時が、迫っていた。

わたしは、母のほうを、見た。母は、また、うつむいて、手袋を繕いはじめていた。歌を、口ずさみながら。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

わたしは、思った。

このまま、ここにいたい、と。

もう、帰らなくてもいいのではないか。向こうの町で、わたしを待っている人など、いない。ひとり暮らしの、狭い部屋。毎朝、同じ道を通い、毎晩、同じ道を帰る。誰も、わたしの名を呼ばない。誰も、わたしのために、歌を歌ってはくれない。冷えた飯を、ひとりで食い、冷えた床に、ひとりで臥す。そういう日々が、向こうには、待っている。それが、あと、何十年、つづくのだろう。

けれど、ここには、母がいる。祖母も、きっと、この町の、どこかにいる。ここに残れば、わたしは、もう一度、あのあたたかな日々を、生きられるのではないか。片方だけの手袋を、いつか、母に、渡せるのではないか。囲炉裏のそばで、母の歌を聞きながら、年をとっていく。そういう、しずかな、みたされた日々を。それの、どこが、いけないというのだろう。

誘惑は、あまく、つよかった。それは、疲れた者にさしのべられる、やわらかな手のようだった。抗うには、あまりに、疲れすぎていた。わたしは、長いあいだ、たったひとりで、この、名もない暮らしを、渡ってきた。ここらで、荷を、おろしても、いいのではないか。誰にも、とがめられまい。誰にも、惜しまれまい。向こうの町の窓口に、わたしがいなくなっても、明日には、別の誰かが、同じ判子を、押すだろう。それだけのことだ。

わたしは、立ち上がりかけた。

そのとき、母が、ふと、顔を上げた。

「もう、行かれるのですか」と、母は言った。「日が、暮れますね。暗くなる前に、橋を、お渡りなさい。あの橋は、暗くなると、渡れなくなりますから」

わたしは、はっとした。

「母さんは」と、わたしは訊いた。「母さんは、この町から、出られないのですか」

母は、やさしく微笑んだ。けれど、その微笑みの奥に、かすかな、しずかな、かなしみのようなものが、宿っていた。

「わたしは、もう、ここの者ですからね」と、母は言った。「でも、あなたは、まだ、向こうの人でしょう。向こうには、あなたの、これからの日々が、待っています。ここに残っては、いけません。ここは、終わってしまった人の、町ですから」

わたしは、母の顔を、見つめた。

母は、知っていた。わたしが、誰であるかを。旅の客のふりをして、迎え入れながら、母は、ずっと、知っていたのだ。わたしが、あの、片方の手袋をなくした、その子であることを。

「母さん」と、わたしは言った。もう、涙を、こらえなかった。

母は、繕っていた手袋を、そっと、わたしの手に、握らせた。

「これを、持って、おいきなさい」と、母は言った。「片方だけの手袋を。あなたが、なくした、その片方の、残ったほうを。持っていって、ときどき、思い出してくださいな。ここに、あなたを待っている者が、いたことを。それから――」

母は、言葉を切り、わたしの手を、両手で包んだ。あたたかかった。子どものころ、そのままの、あたたかさだった。その手のひらの、やわらかさ、かさついた指先の感触、そのすべてが、忘れていたはずなのに、ふれた瞬間に、身の内から、あふれ出した。わたしは、子どもにかえって、その手に、すがりつきたくなった。行かないで、と。置いていかないで、と。けれど、置いていかれるのは、わたしのほうだった。いや――置いていくのが、わたしのほうなのだった。

「それから、忘れずに、生きなさい。あなたの、これからの日々を。わたしたちのぶんまで。星が、海をわたるまで。ずっと、ずっと」

わたしは、手袋を、握りしめた。

そして、立ち上がった。

戸口で、振り返ると、母は、また、囲炉裏のそばに座り、こちらに背を向けて、歌を、口ずさんでいた。まるで、はじめから、そこに、ひとりでいたかのように。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。その声は、低く、やわらかく、川の水が流れていくように、いつまでも、続いていた。

わたしは、戸を、閉めた。

外は、もう、ほとんど夜だった。

藍は、いよいよ深く、家々の提灯のあかりだけが、その闇のなかで、点々と灯っていた。わたしは、来た道を、急いだ。川沿いの道を、下流へ、下流へと。あの星が、沈んでしまう前に。橋が、消えてしまう前に。

途中、あの、線香の匂いのする家の前を、また、通りかかった。

戸が、開いていた。

なかから、あの、祖母に似た声が、わたしを、呼びとめた。

「そんなに、急いで、どこへ」

わたしは、思わず、足を止めた。戸口の奥、うすぐらい土間の向こうに、小柄な、老いた女の影が、見えた。ちんまりと、背をまるめて、こちらを、見ていた。その顔は、やはり、藍色の靄に、かすんでいた。けれど、その声は、まぎれもなく、祖母のものだった。あの、やさしく、少ししわがれた、祖母の声。

「ばあちゃん」と、わたしは、口走った。

女の影は、こくり、と、うなずいたように見えた。

「よう、来たなあ」と、祖母は言った。「まあ、上がっていき。あんこを、炊いたところやで。おまえの、好きな。ぼたもちに、しよか」

わたしの、足が、その戸口のほうへ、一歩、動いた。

あんこ。ぼたもち。子どものころ、祖母の家に行くと、祖母は、いつも、それを、こしらえてくれた。ふっくらと、炊いた小豆を、あたたかい餅に、たっぷりと、まぶして。わたしは、それが、なによりの、ごちそうだった。祖母の、しわだらけの手が、ぼたもちを、まるめる。その手の、あたたかさ。台所の、あまい湯気。すべてが、いっせいに、よみがえった。

もう、一歩、足が、動いた。

そのとき、窓の外の、あの星のことを、思い出した。

わたしは、はっと、われにかえって、空を、あおいだ。格子窓の、ほんの一片ののぞく空に、蒼い星が、ぎりぎり、山の端に、しがみついていた。もう、時が、ない。

「ばあちゃん」と、わたしは、声を、しぼり出した。「ごめん。いま、行かれへんのや。橋が――橋が、消えてまう。また、来る。きっと、また、来るから」

祖母の影は、しばらく、じっと、動かなかった。それから、ゆっくりと、うなずいた。

「そうか」と、祖母は、しずかに、言った。かなしむふうでも、とがめるふうでもなかった。ただ、ふかい、なぎのような声で、こう、つづけた。「ほな、気ぃつけて、お帰り。星が、沈まんうちに。――ええか、うしろを、見たらあかんで。渡りきるまで、けっして、うしろを、見たらあかん」

わたしは、うなずいた。そして、戸口に、背を向けた。あんこの、あまい匂いが、いつまでも、鼻の奥に、残っていた。その匂いを、ふりきるように、わたしは、走り出した。

空を見上げると、蒼い星は、もう、西の山の端に、半ばかかっていた。

わたしは、走った。石畳を蹴り、提灯のあかりの下を、駆け抜けた。息が、切れた。胸が、痛んだ。それでも、走った。片方の手袋を、握りしめて。

月光書房の前を、通り過ぎた。

格子戸のわきに、あの老人が、立っていた。わたしが駆け抜けるのを見て、老人は、静かに、うなずいた。まるで、こうなることを、はじめから知っていたかのように。

「星を、道しるべに」と、老人の声が、背中に聞こえた。「お帰りなさい。そして、もう、この刻には、渡っていらっしゃいますな。渡れるのは、一度きり。二度めは、帰れません」

わたしは、うなずくかわりに、走りつづけた。

やがて、橋のたもとに、たどりついた。

橋は、藍色の靄のなかに、細く、長く、浮かんでいた。

灰色の踏板が、両側の暗がりのあいだを、頼りなく、渡っていた。向こう側は、見えなかった。ただ、深い闇が、口を開けているだけだった。

わたしは、空を、見上げた。

蒼い星は、もう、山の端に、わずかに、頭を残すだけになっていた。あと、少しで、沈む。

わたしは、橋に、足をかけた。

木は、わたしの重みを受けて、低く、きしんだ。一歩、また一歩。踏板は、冷たく、湿っていた。橋のなかほどまで来たとき、ふいに、うしろから、あの歌が、聞こえた気がした。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

わたしは、足を止めそうになった。振り返りたくなった。もう一度、あの橙のあかりの町を、母のいる町を、見たくなった。

けれど、振り返れば、戻れなくなる。そんな気が、した。

わたしは、まっすぐに、前を見て、歩いた。歌声を、背中で聞きながら。片方の手袋を、胸に抱いて。

空の星が、山の端に、消えかけていた。

わたしは、走った。橋の踏板を、蹴った。木が、きしみ、悲鳴のような音を立てた。向こう側の闇が、迫ってきた。星の、最後のひかりが、消えようとしていた。

そして――

わたしは、橋を、渡りきった。

足の裏に、乾いた、見なれた土の感触が、戻ってきた。

わたしは、荒い息をつきながら、振り返った。

うしろには、橋が、あった。灰色の、朽ちかけた、いつもの木の橋。その向こうには、藍色の靄も、橙のあかりの町も、なかった。ただ、荒れた畑と、朽ちかけた農具小屋の、黒い影が、暮れなずむ空の下に、うずくまっているだけだった。

空を、見上げた。

西の空の、いちばん高いところに、蒼い星が、まだ、かすかに、灯っていた。それは、ゆっくりと、藍のなかに、溶けていった。やがて、その最後のひかりも、消えて、あたりは、すっかり、夜になった。

わたしは、しばらく、そこに、立ち尽くしていた。

手のなかには、片方だけの、小さな、赤い手袋が、あった。毛糸で編まれた、子どもの手袋。指先の、ほつれたところを、ていねいに繕った跡が、あった。それは、たしかに、そこにあった。夢では、なかった。

わたしは、その手袋を、胸に、抱きしめた。

それから、わたしは、その橋を、二度と、暮れの刻には、渡らなかった。

いや、渡ろうとしても、渡れなかった、というべきかもしれない。

何度か、逢魔が時に、橋のたもとまで、行ってみた。けれど、橋の向こうは、いつも、荒れた畑と、農具小屋の影が、あるだけだった。藍色の靄も、橙のあかりの町も、二度と、現れなかった。月光書房の看板も、あの蒼い星も。

老人の言葉は、ほんとうだった。渡れるのは、一度きり。二度めは、帰れない。あるいは、二度めは、橋そのものが、現れないのだ。

けれど、わたしは、それでよかった、と思っている。

あれから、わたしの暮らしは、少しずつ、変わった。

以前のわたしは、ただ、日々をやり過ごしていた。毎朝、同じ道を通い、毎晩、同じ道を帰り、誰にも名を呼ばれず、誰のためにも生きていなかった。生きているというより、時が過ぎていくのを、ただ、眺めているようだった。

けれど、あの町を、あの母の顔を、あの言葉を、思い出すたびに、わたしは、生きなければ、と思うようになった。

忘れずに、生きなさい。あなたの、これからの日々を。わたしたちのぶんまで。

その言葉が、胸の底に、あの片方の手袋とともに、しまわれていた。

わたしは、勤めの帰りに、道端の花を、見るようになった。空の色が、日ごとに変わっていくのを、感じるようになった。ときおり、隣の家の子どもに、声をかけるようになった。子守唄を、口ずさむように、なった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母が、わたしに歌ってくれた、あの歌を。

窓口の仕事も、少しだけ、変わった。番号で呼ばれる人々の、その顔を、わたしは、見るようになった。ひとりひとりに、暮らしがあり、待つ者がおり、あるいは、待つ者を、失った者もいるのだと、思うようになった。以前は、ただの書類だったものが、その裏に、それぞれの、生きた人の、日々を、宿しているのだと。判子を押しながら、わたしは、ときおり、その人の、しあわせを、心のなかで、祈るようになった。誰にも、告げなかったが。

母は、もう、いない。祖母も、いない。けれど、あの境の向こうの町で、母は、今も、囲炉裏のそばで、歌っているのだろう。片方の手袋を、繕いながら。祖母は、あんこを炊いて、ぼたもちを、まるめているのだろう。そう思うと、わたしは、ひとりではない、という気がした。あの町は、たしかに、ある。橋を、渡れなくとも、あの町は、暮れの藍のなかに、たしかに、ともり続けている。それを、知っているというだけで、この世の暮らしの、寒さは、いくらか、やわらいだ。

ある年の、暮れのことだった。

わたしは、簞笥の奥から、あの片方の手袋を、取り出した。子どものころに、母に編んでもらった、赤い手袋。橋の上で、片方をなくし、残った片方を、境の向こうの母から、受け取った、その手袋。

わたしは、それを、手に取り、しばらく、見つめた。

それから、わたしは、思い立って、毛糸を、買いに行った。赤い、毛糸を。

不器用な手で、わたしは、編みはじめた。母が、そうしてくれたように。なくした、もう片方の手袋を、自分で、編もうと思ったのだ。片方だけの手袋を、両方に、してやろうと。

編み針を、動かしながら、わたしは、あの町を、思った。あの橋を、あの星を、あの老人を、あの、月光書房の、青いあかりを。

そして、母の、あの言葉を、思った。

いつか、なくした片方が、戻ってくるような気がして。

母は、待っていた。ずっと、待っていた。わたしが、帰ってくるのを。片方の手袋を、渡すために。そして、わたしは、帰った。片方だけ、受け取って。

今度は、わたしが、両方を、揃える番だった。

手袋は、いびつな、不格好なものに、なった。

片方は、母が編んだ、きれいな手袋。もう片方は、わたしが編んだ、ゆがんだ手袋。並べると、そのちがいが、はっきりと、わかった。それでも、わたしは、それを、そっと、簞笥の奥に、しまった。二つ、揃えて。

そのとき、ふしぎなことに、胸のなかの、あの、名づけようのない場所が、ゆっくりと、満たされていくのを、感じた。橋のたもとで、川面に映る夕焼けを見ていたときと、同じ、あの感覚だった。

わたしは、悟った。

わたしが、あの橋のたもとに、ときおり、足を運んでいたのは、母を、探していたからだったのだ。忘れていた、あのぬくもりを、あの歌を、あの、片方の手袋を、探していたからだったのだ。

そして、今、わたしは、それを、見つけた。

もう、橋のたもとに、行くことは、なくなった。

歳月が、流れた。

わたしも、年を、とった。

近ごろは、あの町のことを、夢に見ることが、ある。藍色の靄の向こうの、橙のあかりの町。囲炉裏のそばで、歌う母。青いあかりの、月光書房。そして、暮れゆく空に、逢魔が時の徴のように昇る、あの蒼い星。

夢のなかで、わたしは、また、あの橋を、渡っている。

けれど、もう、こわくは、ない。

いつか、わたしも、あの境を、渡るのだろう。一度きりの、二度めの渡りを。星が、沈み、空が、夜になりきったあとの、あの橋を。そのときは、きっと、帰ってこないのだろう。けれど、それでいい、と思う。

向こうには、母が、いる。囲炉裏のそばで、歌いながら、待っている。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そのとき、わたしは、両方の手袋を、持っていくつもりだ。母が編んだ、きれいな片方と、わたしが編んだ、ゆがんだ片方を。そして、母に、言うのだ。ほら、揃いましたよ、と。なくした片方も、こうして、戻ってきましたよ、と。

母は、きっと、あの、やさしい顔で、微笑むだろう。

橋の名を、わたしは、今も、知らない。

けれど、もう、知らなくてもいい、という気がしている。

名など、なくても、あの橋は、たしかに、そこに、架かっている。此岸と彼岸のあいだに。昼と夜のあいだに。逢魔が時にだけ、その向こうに、懐かしい町を、映しながら。

暮れの刻に、川沿いの道を歩くと、わたしは、今でも、足を止めて、その橋を、見る。

そして、空を、見上げる。

藍に沈む空の、いちばん高いところに、蒼い星が、昇るのを、待つ。逢魔が時の徴のように、いちばんに灯る、あの、青いひかりを。

星は、道しるべだ。渡っていくための。そして、帰ってくるための。境を越えることは、逃げることではなかった。あの町にとどまることが、やすらぎでは、なかった。ほんとうのやすらぎは、帰ってきて、なお、生きることのなかに、あった。母は、それを、知っていた。だから、わたしを、帰したのだ。片方の手袋を、道しるべのように、持たせて。

いま、わたしにわかるのは、ただ、ひとつのことだ。帰る場所のある者だけが、まことに、渡っていける、ということ。そして、渡っていった者だけが、まことに、帰ってこられる、ということ。橋は、そのために、暮れの刻に、架かるのだ。行くためではなく、帰るために。忘れるためではなく、忘れずにいるために。

わたしは、その星が、いつか、わたしを、迎えに来る日を、待っている。こわがることなく、静かに、あの、片方の手袋を編んだ日のような、満たされた心で。そのときは、うしろを、ふりかえっても、いいのだろう。渡りきった先に、母の歌が、待っているのだから。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。ずっと、ずっと。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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