たそがれの門番
昼の国と夜の国のさかいには、たそがれ色の門がひとつ立っている。その門を、いつからか、ひとりの老いた門番が守っていた。
門は、朝には見えない。夜にも見えない。ただ、昼が終わり、夜がまだ始まらぬ、あのわずかな刻――ものの影が長くのび、色が藍と紫に溶け、人の顔とそうでないものの顔とが見わけられなくなる、あの逢魔が時にだけ、それはそこに立つ。石でできているようにも、水でできているようにも見えた。触れれば冷たく、けれど手のひらには、暮れかけた陽のぬくもりが残る。そういう門であった。
門番は、その門よりも古いのか、新しいのか、だれも知らなかった。門番自身も、覚えていなかった。ただ、気がついたときには門のそばに立っていて、たそがれが来るたびに門を開き、渡る者を見送り、たそがれが去れば門を閉じて、また次の黄昏を待っていた。それが、いつからのことか、彼にもわからなかった。
彼の背は、門と同じほどにまがっていた。手は節くれだち、指はながく、爪は、たそがれの空と同じ、薄い藍色をおびていた。着ているものは、昼の色でもなく、夜の色でもない、ちょうどそのあいだの、灰と紫のまじった、色のない衣であった。髪は白く、けれど、その白さも、たそがれの光のなかでは、藍にも、紫にも見えた。この刻には、すべてのものが、そうなのだ。何色でもあり、何色でもない。人でもあり、人でもない。それが、逢魔が時という刻の、まことのすがたであった。
門番の目だけは、いつも、澄んでいた。灰色の、けれど底に、暮れかけた陽の金を沈めた、ふしぎな色の目であった。その目で、彼は、のぼってくる者を、くだっていく者を、じっと見た。何を見ていたのか。おそらく、その者たちの、影を見ていた。この刻には、影こそが、その者の、まことのすがたを、語るのだから。
門番の一日
門番の一日は、たそがれとともに始まる。
昼の国から、日を暮らし終えた者たちがやってくる。彼らは荷を背負い、あるいは手ぶらで、あるいは連れ立って、あるいはひとりきりで、藍色に沈んでいく道をのぼってくる。門番は、そのひとりひとりに、静かに問うた。
「渡るか」
問われた者は、たいていうなずく。そうして門番は門を開け、彼らを夜の国へと通した。門の向こうは、はじめのうちは薄紫の靄がかかっているばかりで、その先に何があるのか、こちら側からは見えなかった。渡った者たちは、靄のなかへ入り、ひとり、またひとりと、輪郭を失っていった。溶けるように、というのではない。むしろ、ようやくあるべきかたちに戻っていく、というふうに、彼らは向こうへ消えていった。
夜の国からも、ときおり、帰る者がやってくる。夜を過ごし終えた者たちが、紫の靄をくぐって、こちら側へ戻ってくるのだ。彼らはたいてい、渡っていったときよりも、いくらか軽くなっていた。荷を置いてきたのか、何かを忘れてきたのか、それとも、忘れていた何かを思い出したのか、門番にはわからない。ただ、帰る者の顔には、渡る者の顔とはちがう、ある種の澄んだ諦めのようなものが浮かんでいて、門番はそれを、いつも少しだけ、羨ましく思うのだった。
「帰るか」
門番はそう問うた。帰る者はうなずき、昼の国の道をくだって、まだかすかに残る残照のなかへ入っていった。
渡る者には、いろいろな者があった。
ある黄昏には、白い髪の老いた女が、のぼってきた。女は、片方だけの、古い革の手袋を、大切そうに握りしめていた。もう片方は、どこかに、置き忘れてきたのだ、と女は言った。夜の国へ渡れば、置き忘れた片方が、待っているような気がする、と。門番は、何も言わずに、門を開けた。女は、その手袋を胸に抱いて、薄紫の靄のなかへ、入っていった。門番は、その女が、向こう側で、もう片方の手袋に、めぐりあえたかどうかを、知らなかった。ただ、渡るとき、女の背が、少しだけ、まっすぐになったのを、覚えていた。
ある黄昏には、まだ若い男が、のぼってきた。男は、渡ることを、少しも恐れていなかった。むしろ、待ちきれぬというふうに、足早に、道をのぼってきた。門番が「渡るか」と問うより先に、男は、うなずいて、門をくぐった。門番は、その足の速さを、いつまでも、忘れなかった。あんなにも渡ることを望む者を、彼は、それまで見たことがなかったから。あの男は、こちら側に、よほど、つらいものを、残してきたのだろうか。それとも、向こう側に、よほど、恋いこがれるものが、あったのだろうか。門番には、わからなかった。わからぬまま、彼は、男を、渡らせた。それが、掟だったから。
ある黄昏には、恋人どうしと見える、ふたりが、のぼってきた。手を、かたく、握りあって。けれど、門をくぐれるのは、ひとりだけであった。渡る者と、まだ渡らぬ者と。ふたりは、門のこちら側で、ながいこと、抱きあっていた。たそがれが、終わりかけるまで。それから、ひとりが、門をくぐり、ひとりが、昼の国の道を、くだっていった。くだっていくほうの者の、背を見送りながら、門番は、初めて、胸が、痛むのを感じた。けれど、その痛みが、何であるのか、彼には、わからなかった。掟は、痛みを、教えてはくれなかったから。
門番は、渡す者にも、帰す者にも、決して名を問わなかった。名は、この門のこちら側とあちら側とで、意味を変えてしまうものだったから。昼の国で呼ばれていた名は、夜の国では通じない。夜の国で得た名は、昼の国では音を持たない。だから門番は、ただ「渡る者」「帰る者」とだけ、心のなかで呼んでいた。それで十分だったし、それ以上を知ることは、門番の掟に反した。
けれど、名を問わずとも、その者たちのすがたは、門番の胸に、しずかに、降りつもっていった。雪のように。あるいは、たそがれのたびに散る、名も知らぬ花びらのように。何千、何万という、渡る者、帰る者のすがたが、彼の胸の底に、積もり、積もって、いつしか、ひとつの、しずかな野のように、なっていた。彼は、そのひとりひとりを、思い出すことはできなかった。けれど、その野の、しずけさだけは、いつも、彼のなかに、あった。それが、門番という者の、まことの重さだったのかもしれない。
掟は、ひとつきりだった。
――さかいを、守れ。
昼の者は昼へ、夜の者は夜へ。渡るべき者は渡らせ、帰るべき者は帰らせよ。渡ってはならぬ者は通すな。とどまってはならぬ者は、とどめるな。門は、開くために閉じ、閉じるために開く。門番は、そのためだけに、ここに立つ。
門番は、その掟を、疑ったことがなかった。掟は、門よりも古く、門番よりも古く、たそがれよりも古い、と彼は感じていた。掟に従っているかぎり、彼の心は、たそがれの空のように、静かで、澄んでいた。
掟に従うことは、彼にとって、息をすることと、同じであった。考えることでも、選ぶことでもなかった。ただ、そうするより、ほかにない、というだけのことだった。門が開けば、渡る者を渡らせる。門が閉じれば、待つ。それだけのことを、彼は、覚えているかぎり、ずっと、くりかえしてきた。そのくりかえしのなかに、彼は、いた。くりかえしそのものが、彼であった。だから、掟を疑うことは、彼にとって、自分が自分であることを、疑うことに、ひとしかった。そんなことは、考えられもしなかった。
けれど、と、あとになって、門番は思うのだ。あのころの自分は、ほんとうに、静かで、澄んでいたのだろうか。それとも、ただ、何も、感じないようにしていただけ、なのだろうか。空を見あげぬように、渡る者の心を見ぬように、名を問わぬように、痛みを、痛みと知らぬように――ただ、目を、閉じていただけ、なのではないだろうか。掟という、うつくしい名の、まぶたを、おろして。
境の書
門番のかたわらには、一冊の書があった。
いつ、どこから来たものか、これも門番は覚えていない。ただ、気づいたときには、門のそばの石の上に、その書は置かれていた。藍色の表紙で、背には金の箔で、何かの店の名がしるされていた。目を凝らすと、それは「月光書房」と読めた。門番は、その店を見たことがなかった。けれど、たそがれのたびに、遠い路地の奥に、ちらりと灯りがともるのを、幾度か目の端にとらえたことがあった。その灯りが消えるころ、いつも、この書の頁が、ひとりでに一枚、めくれているのだった。
書の名は、『境の書』といった。
そこには、さかいのことばかりが書かれていた。昼と夜のさかい。生きているものと、そうでないものとのさかい。覚えていることと、忘れることのさかい。此岸と彼岸。開くことと、閉じること。近づくことと、遠ざかること。門番は、渡る者のいない、ひまなたそがれには、その書をひらいて読んだ。読むたびに、書の頁は増えているようにも、減っているようにも思われた。同じ頁を、二度と開くことはできなかった。
あるとき、書にはこう書かれていた。
――さかいとは、へだてるためにあるのではない。さかいとは、二つのものが、たがいに、それがそれであることを、知るためにある。
またあるとき、書にはこう書かれていた。
――門を守る者よ。おまえの掟は、いつか、おまえを試すだろう。掟が正しいかどうかを試すのではない。おまえが、掟の意味を知っているかどうかを試すのだ。
門番は、その一行を読んだとき、しばらく手をとめた。掟の意味――そんなものを、彼は考えたことがなかった。掟は、意味を持つものではなく、ただ従うものだと思っていた。意味を問うことは、掟を疑うことに、あまりに近く思われた。だから彼は、そっと書を閉じ、その頁のことは、忘れることにした。
けれど、忘れたはずのその一行は、どこか、彼の胸の底に、小さな棘のように、残った。
その棘は、たそがれのたびに、ふと、疼いた。渡る者を渡らせるとき。帰る者を通すとき。門を開けるとき。閉じるとき。ふとした拍子に、それは、疼いた。掟の意味を、おまえは知っているか――と。門番は、そのたびに、目をそらした。境の書を、しばらく、ひらかなくなった。石の上に置かれたまま、藍色の表紙は、たそがれの光を、しずかに吸って、じっと、彼を、待っているようであった。
けれど、あるたそがれ、ひまにまかせて、彼は、また、書をひらいてしまった。まるで、何かに、みちびかれるように。ひとりでにめくれた頁には、こう書かれていた。
――ふたつの国は、もとは、ひとつであった。ひとつの、大きな刻であった。そこには、昼もなく、夜もなく、渡ることも、帰ることも、なかった。ただ、たそがれだけが、あった。すべてが、藍と紫にとけあった、ひとつの、たそがれだけが。
門番は、その頁を、二度、読んだ。ひとつの、たそがれ。昼もなく、夜もない。渡ることも、帰ることもない。そんな刻が、あったのだろうか。もし、あったのだとしたら――と、彼は思った。もし、あったのだとしたら、なぜ、それは、ふたつに、わかれてしまったのだろう。なぜ、さかいが、生まれ、門が、立ち、おれのような門番が、置かれることに、なったのだろう。
書は、そこまでしか、語らなかった。頁をめくると、その先は、また、ちがう、さかいのことばであった。門番は、しばらく、そのひとつの、たそがれのことを、考えた。けれど、考えれば考えるほど、それは、遠く、はかなく、思い出せぬ、なつかしさのように、彼の指のあいだを、すりぬけていった。彼は、ふと、その、思い出せぬなつかしさこそが、あの棘の、まことのすがたなのかもしれない、と思った。
蒼い星
その黄昏は、いつもとちがっていた。
昼の国に日が沈みかけ、空が藍と紫に染まりはじめたとき、門番はふと、門の真上を見あげた。そこに、蒼い光が、ひとつ、ともっていた。
星であった。けれど、ただの星ではなかった。それは、暮れゆく藍色の空に、いちばんに昇る星であり、逢魔が時の徴のように、細くながい尾をひいて、門の真上にだけ、じっと懸かっていた。蒼く、冴えて、けれどどこか、悲しげな光であった。門番は、その星を、ずっと昔にも見たことがあるような気がした。けれど、いつのことか、思い出せなかった。
――ミラ彗星。
門番の口から、ひとりでに、そのことばがこぼれた。だれに教わったのでもない。ただ、その星の名を、彼はもとから知っているような気がした。そして、その星が門の真上に懸かる黄昏には、何か、ふつうでないことが起こる。そういう予感が、藍色の空とともに、彼の胸に、静かにひろがっていった。
門番は、境の書をひらいた。ひとりでにめくれた頁には、こう書かれていた。
――蒼き星の懸かる黄昏には、渡ってはならぬ者が、門を訪れるだろう。そのとき、おまえは初めて、迷うだろう。
門番は、書を閉じた。胸のなかで、小さな棘が、ひとつ、疼いた。
渡りたがらぬ者
やがて、昼の国の道を、ひとりの者がのぼってきた。
小さな影であった。門番は、目を凝らした。それは、幼い者であった。まだ、この世に生まれ落ちて、いくらも経っていないような、小さな、小さな者。昼の国の残照を背に受けて、その者は、道の途中で、立ちどまっていた。
門番は、いつものように、問おうとした。
「渡る――」
けれど、そのことばは、途中で止まった。
その幼い者は、門を見ていなかった。夜の国のほうを、見ていなかった。その者は、うしろを、昼の国のほうを、ふりかえって、見ていた。まだ明るい、けれどもう暮れかけている、昼の国のほうを。そして、その小さな肩は、ふるえていた。渡るためにのぼってきたのではない。渡りたくなくて、けれどのぼらねばならなくて、それでのぼってきたのだ、ということが、門番には、わかった。
門番は、掟を思い出した。渡るべき者は、渡らせよ。
この者は――と、門番は思った。この者は、渡るべき者なのだろうか。それとも、渡ってはならぬ者なのだろうか。
門の真上で、蒼い星が、じっと光っていた。
門番は、しばらく、その場を、動けなかった。
これまで、渡る者は、みな、門を見て、のぼってきた。夜の国を、見て。けれど、この幼い者だけは、うしろを、昼の国を、見ていた。渡るためではなく、渡らぬために、のぼってきた者。そんな者を、門番は、覚えているかぎり、一度も、見たことがなかった。いや――と、彼は思い返した。あの、恋人どうしの、くだっていったほうの者。あの者もまた、渡らぬために、のぼってきた者では、なかったか。けれど、あの者は、渡らずに、帰った。渡る者と、渡らぬ者とが、はじめから、わかれていた。それが、掟の、うつくしいところであった。
だが、この幼い者は、ちがった。この者は、渡らねばならぬのに、渡りたくない、と言っている。渡るべき者でありながら、渡ることを、こばんでいる。掟の、どちらの側にも、おさまらぬ者。境の書の言う、渡ってはならぬ者とは、あるいは、この者のことなのだろうか。それとも、渡りたがらぬ者とは。門番には、わからなかった。ただ、蒼い星が、門の真上で、じっと、彼を見おろしているのだけが、たしかであった。
門番は、その幼い者に、近づいた。ゆっくりと、その者を驚かせぬように。そして、腰をかがめ、その小さな顔を、のぞきこんだ。逢魔が時の薄闇のなかで、その者の顔は、はっきりとは見えなかった。人の子のようにも見えたし、そうでないものの子のようにも見えた。この刻には、その二つは、見わけがつかない。ただ、その大きな瞳のなかに、藍色の空と、蒼い星とが、うつっていた。
その瞳を、のぞきこんだとき、門番の胸のなかで、あの、しずかな野が、かすかに、ざわめいた。何千、何万という、渡っていった者たちの、降りつもったすがた。その野の、いちばん奥に、なにか、遠い、遠い、光のようなものが、ともった気がした。この者の瞳が、その光を、呼びさましたのだ。門番は、それが何であるのか、わからなかった。けれど、その光は、あたたかく、そして、かなしかった。
「渡りたくないのか」
門番は、初めて、掟にないことばを、口にした。
幼い者は、うなずいた。それから、小さな声で、言った。
「まだ、いたい。もうすこし、あかるいほうに、いたい」
門番は、ことばを失った。
これまで、渡る者は、みなうなずいてきた。帰る者も、みなうなずいてきた。渡りたくない、と言った者は、ひとりもいなかった。いや――と、門番は思い返した。いなかったのではない。いたのかもしれない。ただ、門番が、問わなかっただけなのだ。名を問わぬように、心を問わぬように、彼は、渡る者の胸のうちを、決して見ようとしなかった。掟は、それを求めなかったから。むしろ、それを見ぬことこそが、掟であったから。
けれど、いま、彼は見てしまった。この幼い者の、あかるいほうにいたい、という、その小さな願いを。
迷い
門番は、まよった。
生まれて初めて――と言っていいのかどうか、彼にはわからなかったが――とにかく、覚えているかぎりで初めて、門番は、掟と、そうでない何かとのあいだで、まよった。
掟は言う。渡るべき者は、渡らせよ。この幼い者は、昼の国から、たそがれの道をのぼってきた。ならば、この者は、渡るべき者なのだ。夜の国が、この者を、待っている。渡らせねばならぬ。とどめてはならぬ。それが、さかいを守るということだ。
けれど、胸の底の棘が、疼いた。掟の意味を、おまえは知っているか、と、境の書の一行が、こだました。
門番は、蒼い星を見あげた。星は、答えなかった。ただ、冷たく、うつくしく、光っていた。
彼は、幼い者に、たずねた。
「なぜ、渡らねばならぬと思う」
幼い者は、首をかしげた。それから、言った。
「みんなが、そういうから。うしろから、こえがする。そろそろ、いくじかんだ、って。だから、きた。でも、いきたくない」
「あかるいほうに、何がある」と、門番は、たずねた。「何が、そんなに、名残おしい」
幼い者は、しばらく、考えた。それから、藍色の空を、見あげて、言った。
「わからない。でも、あったかいの。あかるいほうは。かあさんの、てのひらみたいに。よるは、しらないの。しらないから、こわいの」
門番は、その、たどたどしいことばに、胸を突かれた。知らないから、こわい。ただ、それだけのことであった。夜の国が、恐ろしいのではない。ただ、知らないから、恐ろしいのだ。あかるいほうが、恋しいのではない。ただ、それが、知っている場所だから、はなれがたいのだ。門番は、これまで、渡る者たちの、その、いちばん素朴な、いちばん深い、こわさを、見ようとしてこなかった。掟が、それを、見なくてよい、と言っていたから。けれど、この幼い者は、それを、隠すすべを、まだ、知らなかった。だから、そのまま、口にした。いきたくない、と。こわい、と。
門番は、うしろをふりかえった。昼の国の道の、はるか下のほうに、いくつかの影が、立っていた。門番の目には、その影が、何であるのか、見わけられなかった。人のようにも、そうでないもののようにも見えた。この刻には、すべての影が、そうなのだ。ただ、その影たちは、幼い者を、じっと見あげていた。哀しげに、けれど、何かを促すように。
門番は、悟った。この幼い者は、渡らねばならぬ者なのだ。あの影たちが――昼の国の何かが、この者を、送り出したのだ。もう、あかるいほうには、この者の居場所は、ないのだ。だから、この者は、たそがれの道をのぼってきた。渡りたくない、と泣きながら。
掟は、正しい。渡らせねばならぬ。
けれど――と、門番は、幼い者の、ふるえる小さな肩を見て、思った。けれど、いま、この者を、無理に渡らせて、それが、さかいを守るということなのか。この者の、もうすこし、あかるいほうにいたい、という願いを、踏みにじって、掟だけを守って、それで、おれは、何を守ったことになるのか。
門番は、生まれて初めて、掟を、疑った。いや、疑ったのではない。掟の、意味を、問うたのだ。
境の書、ふたたび
門番は、境の書を、ひらいた。
すがるように、答えを求めて。けれど、書は、答えを与えてはくれなかった。ひとりでにめくれた頁には、ただ、こう書かれていた。
――門を守る者よ。おまえは、いま、迷っている。よい。迷うことは、掟を破ることではない。迷わぬ者こそ、掟の意味を知らぬ者だ。
門番は、頁をめくった。けれど、その先の頁は、白かった。まっさらで、何も書かれていなかった。まるで、そこから先は、おまえが書け、とでもいうように。
門番は、書を閉じた。
そして、蒼い星を見あげ、それから、幼い者を見た。彼は、決めた。
決めた、というより、心が、ひとりでに、そちらへ傾いた、と言ったほうが、近いかもしれない。彼は、腰をかがめ、幼い者の、小さな手を、そっと取った。門番の手は、たそがれの門と同じで、触れれば冷たく、けれど手のひらには、暮れかけた陽のぬくもりが残っていた。幼い者は、その手のぬくもりに、少しだけ、泣きやんだ。
「いいか」と、門番は、静かに言った。「おまえは、渡らねばならぬ。それは、変わらぬ。あの影たちが、おまえを送り出した。もう、あかるいほうに、おまえの場所は、ない。それは、まことだ。おれには、それを変えることは、できぬ」
幼い者の瞳が、また、うるんだ。
「けれど」と、門番は続けた。「渡るのを、急ぐことは、ない。たそがれは、ながい。いや――」
門番は、蒼い星を、もう一度、見あげた。
「いや、たそがれは、みじかい。すぐに、夜が来る。だが、そのみじかいあいだだけは、おまえは、まだ、こちら側にいていい。門は、開いている。だが、渡らずに、門のこちら側で、たそがれを、見ていてもいい。おれと、いっしょに」
たそがれの門で
こうして、門番と、幼い者は、たそがれの門のかたわらに、並んで座った。
門番は、掟を破ったのではなかった。門を、閉ざしたのでもなかった。門は、開いたままだった。渡るべき者を、渡らせぬ、というのではなかった。ただ、渡る、その瞬間を、たそがれのあいだだけ、少しだけ、待つ、というだけのことだった。門番は、それが、掟に反することなのかどうか、わからなかった。けれど、境の書は、それを咎めなかった。白い頁は、白いままだった。
道の下のほうでは、あの影たちが、まだ、立っていた。けれど、影たちは、のぼってはこなかった。急かしもしなかった。ただ、じっと、幼い者を、見あげていた。門番は、その影たちが、じつは、この幼い者を、いちばん、いとおしんでいる者たちなのだ、ということに、気づいた。だからこそ、影たちは、この者を、送り出したのだ。あかるいほうに、もう、居場所がないと知って。だからこそ、影たちは、無理には、急かさなかった。この者に、たそがれの、みじかいひとときを、あたえるために。門番は、影たちのほうへ、そっと、うなずいた。影たちも、うなずいたように、見えた。この刻には、影と、こころとが、見わけられない。だから、その、うなずきが、まことのものか、門番の願いが見せたものか、彼には、わからなかった。けれど、それで、よかった。
幼い者は、門番の膝のそばで、暮れゆく空を、見あげていた。藍色が、少しずつ、深くなっていく。紫が、濃くなっていく。残照が、地の果てで、金と朱の細い帯になって、消えかけている。門の真上の蒼い星は、いよいよ冴えて、その尾を、ながく、ひいていた。
「きれいだね」と、幼い者は言った。
「ああ」と、門番は答えた。「きれいだ」
門番は、こんなにも長く、たそがれの空を、見あげたことがなかった。渡る者を送り、帰る者を通し、掟を守ることに、彼はいつも忙しかった。空を見あげるひまなど、なかった。いや――ひまがなかったのではない。彼は、空を、見あげようとしなかったのだ。見あげてしまえば、この刻の、うつくしさに、心を奪われてしまうから。心を奪われてしまえば、掟を、守れなくなるかもしれないから。だから彼は、たそがれのうつくしさから、いつも、目をそらしてきた。
けれど、いま、彼は、幼い者と並んで、たそがれを、見あげている。
「ねえ」と、幼い者が言った。「うたを、しってる?」
「うた?」
「かあさんが、うたってくれた。ねむるときに。もう、おぼえてないけど、すこしだけ」
そう言って、幼い者は、小さな声で、口ずさんだ。たどたどしく、途切れがちに、けれど、たしかに。
――ねむれ、ねむれ、ほしが、うみを、わたるまで。
門番は、その旋律を、聞いた。聞いたことのある旋律だった。いや、聞いたことがある、というより、彼自身の、どこか、遠い、思い出せないほど遠い記憶の底で、だれかが、彼に、うたってくれた旋律だった。門番の目に、うっすらと、涙のようなものが、にじんだ。彼は、自分にも、かつて、こちら側の、あかるいほうにいた頃が、あったのかもしれない、と、初めて、思った。
――そうだ。おれにも、かつて、母が、あったのかもしれない。てのひらの、あたたかさが、あったのかもしれない。あかるいほうを、名残おしんだ、あの日が。おれもまた、かつて、この幼い者のように、たそがれの道を、のぼってきた者だったのではないか。渡りたくない、と泣きながら。そして、渡り、渡ったさきで、なぜか、門のそばに、立つことになった。渡る者を、見送る者に、なった。掟を、守る者に。
胸の底の、しずかな野の、いちばん奥の光が、いよいよ、あかるくなった。門番は、その光のなかに、ぼんやりと、ひとつの、たそがれを、見た。昼もなく、夜もない、ひとつの、たそがれ。すべてが、藍と紫に、とけあった刻。境の書の言う、あの、もとの刻。それは、もしかしたら、母のてのひらの、あたたかさと、同じものだったのかもしれない。わかれる前の。さかいの、生まれる前の。門番は、そのなつかしさに、しばらく、目を、閉じた。幼い者の、たどたどしいうたが、その閉じたまぶたの裏を、藍色に、染めていった。
火をともす
空が、いよいよ暗くなってきた。藍が、闇に、変わりはじめた。
門番は、ふところから、小さなものを取り出した。藍色の、三日月を刻んだ、マッチ箱であった。これも、いつからか、彼のふところにあった。境の書と同じく、月光書房から来たものなのかもしれない、と、彼は思っていた。彼は、そのマッチ箱から、一本のマッチを取り出し、擦った。
小さな火が、ともった。
その火は、たそがれの闇のなかで、あたたかく、ゆれた。マッチの、小さな炎であったが、それは、暮れゆく藍の空よりも、消えかけた残照よりも、門の真上の蒼い星よりも、あたたかく、ちかしい光であった。星の光は、遠く、冷たく、うつくしい。けれど、この火は、近く、あたたかく、はかない。まもなく、消える。だからこそ、いとおしい。門番は、そう思った。永(なが)らえるものよりも、消えゆくものにこそ、ぬくもりは、宿るのだと。
幼い者は、その火を、じっと見つめた。火は、幼い者の、小さな顔を、照らした。逢魔が時の薄闇で、見わけのつかなかったその顔が、火のあかりのなかで、ようやく、はっきりと見えた。それは、まぎれもなく、人の子の顔であった。あどけなく、けれど、もう、この世に別れを告げねばならぬことを、どこかで知っている、そういう、けなげな顔であった。
そして、その火のあかりは、幼い者の顔だけでなく、門番自身の顔をも、照らしていた。もし、そのとき、だれかが、そばで見ていたなら、気づいたであろう。逢魔が時の薄闇のなかでは、色のない、人か人でないか見わけのつかなかった門番の顔もまた、その小さな火のあかりのなかでは、まぎれもなく、ひとりの、老いた、けれど、やさしい、人の顔に、見えたことを。火は、そういうものであった。この刻の、溶けた輪郭を、つかのま、もとに、もどす。おまえは、たしかに、そこにいる、と、教える。それが、月光書房から来た、青いマッチの、火の、まことのちからであった。
「あったかい」と、幼い者は言った。
「ああ」と、門番は言った。「これが、こちら側の、あかるさだ。おまえが、いたかった、あかるさだ」
幼い者は、その火を、両手で、包むようにした。もちろん、火は、包めない。けれど、その手のひらに、火のぬくもりだけは、残った。門番の手と同じように。
「これを、もっていっていいか」と、幼い者は、たずねた。
門番は、しばらく、考えた。それから、言った。
「火は、もっていけぬ。夜の国では、この火は、消える。だが――」
門番は、マッチ箱を、幼い者の、小さな手に、握らせた。
「この箱を、もっていけ。火が消えても、この箱があれば、いつでも、思い出せる。こちら側に、あかるさが、あったことを。おまえが、ここで、たそがれを、見たことを。そして、おれと、いっしょに、いたことを」
幼い者は、その藍色の箱を、両手で、しっかりと、握りしめた。そして、その箱を、じっと見つめてから、門番に、たずねた。
「もんばんも、さびしくない?」
門番は、その問いに、はっとした。渡る者が、門番の、さびしさを、案じたことなど、一度も、なかった。みな、自分のことで、精いっぱいであった。それが、あたりまえであった。渡る者は、渡ることに、帰る者は、帰ることに、心をとられ、門のかたわらに立つ、この、色のない老人のことなど、目にも、とめなかった。それが、門番という者の、さだめであった。だれからも、案じられぬ者。ただ、そこに、立っている者。
けれど、この幼い者は、たずねた。もんばんも、さびしくない、と。
門番は、しばらく、答えられなかった。それから、しゃがれた声で、言った。
「さびしいさ。おれは、渡る者を、みな、見送る。見送るだけで、決して、渡らぬ。ここに、立ちつづける。だれもが、通りすぎていく。だれも、とどまらぬ。それは、さびしいことだ。だが――」
門番は、火のあかりに照らされた、幼い者の顔を、見た。
「だが、おまえが、いま、そう、たずねてくれた。それだけで、おれの、ながい、ながい門番ぐらしが、少しだけ、報われたような気がする。ありがとう。おまえは、渡る前に、おれに、いちばん、あたたかいものを、くれた」
幼い者は、その意味が、よくは、わからぬようであった。けれど、門番が、うれしそうに見えたので、幼い者も、少しだけ、笑った。逢魔が時の火のなかで、その笑顔は、まぎれもなく、あかるいほうの、笑顔であった。
渡る
やがて、火が、燃えつきた。
最後の火が、ふっと、消えたとき、たそがれも、また、終わろうとしていた。空は、もう、ほとんど夜であった。門の向こうの、薄紫の靄が、いよいよ濃くなり、その奥から、静かな、やさしい闇が、こちらへ、手をのべているようであった。門の真上の蒼い星だけが、まだ、冴え冴えと、光っていた。逢魔が時の、最後の徴として。
「もう、いくじかんだね」と、幼い者は、言った。
もう、その声は、ふるえていなかった。門番と並んで、たそがれを見て、うたをうたい、火のぬくもりを知った、その小さな者は、渡ることを、もう、恐れていなかった。あかるいほうに、たしかに、いた。そのことを、胸に、抱いて、だから、もう、いける、というふうであった。
「ああ」と、門番は言った。「いく時間だ」
門番は、立ちあがった。そして、幼い者の、小さな手を取って、門のところまで、みちびいた。門は、開いていた。ずっと、開いていた。門番は、それを、閉ざしはしなかった。ただ、渡る、その瞬間を、たそがれのあいだだけ、待った。それだけのことだった。
「渡るか」と、門番は、いつものように、問うた。
けれど、そのことばには、いつもとちがう、あたたかいものが、こもっていた。
幼い者は、うなずいた。それから、藍色のマッチ箱を、胸に抱いて、言った。
「わたる。でも、さびしくないよ。あったかいの、もってるから」
そして、幼い者は、門を、くぐった。薄紫の靄のなかへ、入っていった。その小さな輪郭が、少しずつ、溶けていった。溶ける、というのではなく、ようやく、あるべきかたちに戻っていく、というふうに。門番は、その姿が、見えなくなるまで、見送った。最後に、靄のなかで、蒼い星の光を映した、小さな瞳が、ふりかえって、門番に、ほほえんだ。それから、その者は、夜の国の、やさしい闇に、抱かれて、見えなくなった。
門番は、しばらく、その場に、立ちつくしていた。
さかいを守るということ
たそがれが、終わった。
空は、すっかり夜になった。門の真上の蒼い星も、もう、ふつうの星々のなかに、まぎれてしまった。門は、閉じかけていた。たそがれが去れば、門は消え、また、次の黄昏まで、そこには、何もなくなる。
門番は、境の書を、ひらいた。
白かったはずの頁に、いつのまにか、文字が、しるされていた。だれが書いたのか。門番自身の手か。それとも、月光書房の、見えぬ主の手か。それはわからなかった。ただ、そこには、こう書かれていた。
――さかいを守るとは、へだてることではない。渡さぬことでも、とどめることでもない。渡らねばならぬ者を、渡らせぬわけには、いかぬ。それが、さかいだ。けれど、渡る、その一瞬に、どれだけの、やさしさを、そえられるか。それが、門を守る者の、まことの掟なのだ。
門番は、その一行を、二度、読んだ。それから、静かに、書を閉じた。
彼は、掟を、破らなかった。渡るべき者を、渡らせた。さかいを、守った。けれど、彼は、初めて、その掟の、意味を、知った。さかいは、へだてるためにあるのではない。さかいは、二つのものが、たがいに、それがそれであることを、知るためにある。そして、その、さかいの一瞬に、火をともし、うたをうたい、手を握ることが、できる。それが、門番の、まことのつとめだったのだ。
彼は、これまで、どれほど多くの者を、見送ってきたことか。渡る者を、ただ、渡らせて。帰る者を、ただ、通して。名も問わず、心も問わず、掟だけを守って。そのひとりひとりに、もし、火をともしてやれていたら。もし、うたをうたってやれていたら。もし、その小さな手を、握ってやれていたら。門番は、初めて、悔いた。けれど、その悔いは、苦いものではなかった。むしろ、それは、彼の、乾いた心に、たそがれの雨のように、しみこんで、彼を、少しだけ、やわらかくした。
彼は、胸の底の、しずかな野を、思った。あの、何千、何万という、降りつもったすがた。あの片方だけの手袋を握った女。足早に渡っていった若い男。門のこちら側で、ながく抱きあった、恋人どうし。あのひとりひとりに、彼は、いま、ようやく、心のなかで、火を、ともした。おそかったかもしれない。もう、渡ってしまった者たちだ。もう、届かぬかもしれない。けれど、届かずとも、ともす。それが、供養というものだ、と、門番は思った。門番の、まことの、つとめだ。渡っていった者たちの、たそがれを、いまさらながら、照らすこと。彼らが、こわいと、言えなかった、その、こわさを、いまさらながら、抱きとめること。
そうして、心のなかで、ひとつひとつ、火をともしていくうちに、あの、しずかな野は、いつしか、無数の、小さな灯りに、みちていた。まるで、たそがれの野に、ほうぼうから、蛍が、ともっていくように。門番は、その、灯りの野を、しばらく、ながめていた。それは、これまで、彼が守ってきた、さかいの、まことのすがた、なのかもしれなかった。へだてる、つめたい線ではなく。ひとつひとつの、あたたかい火の、あつまり。渡っていった者たちの、名残の、ともしびの、あつまり。
これから、渡る者が来たら――と、門番は思った。これから、帰る者が来たら、おれは、火をともそう。うたを、うたおう。手を、握ろう。たそがれの、みじかい、けれど、うつくしいひとときを、そのひとりひとりと、分かちあおう。それが、さかいを、守るということだ。それが、この門の、まことの意味だ。
次の黄昏
門は、消えた。
夜のあいだ、門番は、どこにいるのか、だれも知らない。門番自身も、覚えていない。ただ、次の昼が終わり、また、たそがれが来るとき、彼は、また、門のそばに、立っている。それが、いつからのことか、彼にはわからない。けれど、いまは、ひとつ、たしかなことがあった。
彼のふところには、もう、あの藍色のマッチ箱は、なかった。幼い者に、渡してしまったから。けれど、翌日のたそがれ、彼が、ふと、ふところに手をやると、そこには、新しい、藍色のマッチ箱が、また、ひとつ、入っていた。三日月を刻んだ、月光書房から来たにちがいない、あのマッチ箱が。
門番は、それを見て、静かに、ほほえんだ。
彼には、わかった。これから、渡る者が来るたびに、帰る者が来るたびに、彼は、この火を、ともすだろう。火が消えれば、また、新しいマッチ箱が、ふところに、あらわれるだろう。それが、いつまで続くのか、彼には、わからない。けれど、続くかぎり、彼は、この火を、ともし続けよう。渡る者の、たそがれを、照らすために。
その夕べ、彼が、ふと、門の真上を見あげると、もう、蒼い星は、そこにはなかった。ミラ彗星は、あの黄昏に、一度だけ、門の真上に懸かって、それきり、姿を消していた。けれど門番は、知っていた。その星は、消えたのではない。ただ、次の、迷いのときまで、どこか遠い空の隅で、待っているのだ。門を守る者が、また、掟と情のあいだで、まよう、その日まで。
門番は、思った。あの幼い者は、いまごろ、夜の国で、どうしているだろう。あの藍色のマッチ箱を、胸に抱いて、あかるいほうを、思い出しているだろうか。それとも、もう、夜の国の、やさしい闇に、なじんで、こちら側のことなど、忘れてしまっただろうか。門番には、わからなかった。渡った者のことは、門番には、決して、わからない。それが、さかいというものだ。けれど、それでも、よかった。忘れられても、よかった。門番は、あの子が、こわいと言えたこと、うたをうたえたこと、火のぬくもりを知れたこと、それだけで、十分だと、思った。渡る一瞬に、そえられた、わずかな、やさしさ。それが、たしかに、あの子とともに、向こう側へ、渡っていった。それで、よいのだ。
道の下のほうから、影が、ひとつ、のぼってきた。
まだ、ちいさな影であった。あるいは、大きな影であったかもしれない。この刻には、影の大きさも、さだかではない。門番には、それが、渡る者なのか、帰る者なのか、渡りたがらぬ者なのか、まだ、わからなかった。けれど、もう、わからぬことを、彼は、恐れなかった。わからぬまま、迎えればよい。わからぬまま、火をともせばよい。そのひとりひとりの、たそがれを、ともに、見ればよい。それが、掟だ。ながいながい年月をへて、彼が、ようやく、たどりついた、まことの掟であった。
門番は、腰をかがめ、ふところから、藍色のマッチ箱を、取り出した。そして、静かに、問うた。
「渡るか。それとも、しばし、ここで、たそがれを、見ていくか」
昼と夜のさかいに立つ、たそがれ色の門のかたわらで、老いた門番の手のなかに、小さな火が、ひとつ、ともった。それは、どちらの国のものでもない、ただ、さかいの、逢魔が時にだけ灯る、あたたかな、うつくしい火であった。