逢う刻
逢う刻
電話が鳴りはじめるのは、いつも空の色が名前を失う頃だった。
昼でもなく夜でもない、藍とも紫ともつかぬ光が、六畳の部屋を水のように満たしていく。その光の底で、黒い旧式の電話機が、まるで長いこと息をこらえていた小さな生きもののように、ふいに身をふるわせて鳴りだすのだ。
わたしは、その音を待っている。
母が遺したこのアパートに移り住んで、もう三月になる。
築六十年に近いという木造の建物は、駅からずいぶん歩いた、川べりの古い町のはずれに立っていた。まわりの家々はとうに建て替わり、コンビニもチェーンの珈琲店もできたのに、この一棟だけが、時の流れから取り残されたように、傾いだ庇の影を落として立ちつづけている。
二階のいちばん奥の部屋。それが、母が最後の十年を暮らした場所だった。
わたしは母のことを、よく知らなかった。いや、正しく言えば、知ろうとしなかった。二十歳を過ぎたあたりから、わたしたちは少しずつ言葉を交わさなくなり、やがて年に一度、電話で短く近況を伝えあうだけの間柄になっていた。その電話も、たいていはわたしのほうが早々に切りあげた。忙しいから、と。用があるから、と。
父が早くに逝ってから、母はずっと、ひとりで生きてきた。わたしを女手ひとつで育てあげ、大学まで出し、そして、わたしが都会に出ていくのを、笑って見送った。淋しくないの、と一度だけ訊いたことがある。母は、ふふ、と笑って、あなたが遠くで、あなたの生きたいように生きてくれるのが、いちばん嬉しいのよ、と言った。その言葉を、わたしは、そのまま真に受けた。真に受けることで、罪悪感から目をそらしていたのかもしれなかった。
若い頃のわたしは、母のなかに、自分の未来の姿を見てしまうのが、こわかったのだと思う。つつましく、静かに、ひとりで年老いていく姿を。だから、わたしは、母から遠ざかった。母のようにはなるまい、と。都会で、仕事に生き、人にまじわり、めまぐるしく日々を過ごした。そうしているあいだは、母のことを、考えずにすんだ。母がどんな夕暮れを、あの川べりの部屋で、ひとり過ごしているか、想像せずにすんだ。
母が倒れたという報せを受けたとき、わたしは出張先の遠い町にいた。とんぼ返りの列車のなかで、間に合わないかもしれない、という予感が、冷たい水のように胸を満たしていくのを、ただ黙って見ていた。窓の外を、見知らぬ町の灯りが、後ろへ後ろへと流れていった。日が暮れかけていた。空が、藍色に染まりはじめていた。わたしは、その色を、いつまでも忘れないだろうと思った。母が、この世から遠ざかっていく、その刻の色を。
そして、間に合わなかった。
病室に着いたとき、母はもう、白い布の下で眠っていた。看護師が「最後まで、あなたのお名前を呼んでいらっしゃいました」と言った。わたしは、その言葉の前で、なにひとつ言えなかった。呼ばれていたのに、わたしはそこにいなかった。母がわたしを呼ぶ声を、わたしは一度も聞かなかったのだ。
伝えそびれた言葉が、胸の底に、小さな石のように沈んでいた。
ありがとう、と。ごめんなさい、と。
遺品を整理するために、わたしはこの部屋に通いはじめた。
母の暮らしは、驚くほどつつましかった。古い簞笥に、丁寧にたたまれた着物が幾枚か。小さな本棚に、背表紙の褪せた文庫本。台所には、欠けた茶碗と、いつか買ったきりのように新しい急須。壁には、わたしが幼い頃に描いた、下手な似顔絵が一枚、額に入れて飾られていた。
抽斗のひとつをあけると、古い写真が、束になって出てきた。セピア色に褪せた、若い頃の母。父と並んで写った、婚礼の写真。そして、わたしの写真が、驚くほどたくさんあった。生まれたばかりのわたし。七五三の晴れ着のわたし。ランドセルを背負った、小学校の入学式のわたし。成人式の振袖のわたし。どれも、丁寧に、日付を書いた紙にはさんで、しまわれていた。わたしが送った記憶もない写真まで、母は、どこからか手に入れて、大切に持っていた。
そのなかに、一枚、見覚えのない写真があった。夕暮れの、川べりの道。藍色に暮れた空を背に、母が、こちらを向いて、微笑んでいた。誰が撮ったのだろう。母は、ひとりで暮らしていたはずなのに。写真の裏に、母の細い字で、こう書かれていた。「逢魔が時。月光書房のかえりに」と。
わたしは、その一行を、しばらく見つめていた。月光書房。聞いたことのない名だった。けれど、なぜか、胸の奥が、かすかに疼いた。
そして、電話台の上に、あの黒い電話機があった。
ダイヤル式の、いまではもう見かけない旧い型だ。受話器のコードは螺旋を描いて垂れ、本体は艶を失って、けれどきれいに拭き清められていた。母はこの電話で、誰と話していたのだろう。わたしはそんなことを、生前、一度も考えたことがなかった。
電話台のかたわらには、小さな抽斗がついていた。あけると、なかにマッチ箱が一つ、ころりと入っていた。
青いマッチ箱だった。
深い、藍のような青。箱の表には、金色の細い文字で「月光堂」と刷られている。わたしはそれを、なんとはなしに手に取った。ふると、なかで軸木がかさりと乾いた音を立てた。まだ、いくらか残っているらしい。
月光堂。聞いたことのない名だった。この町の、どこかの店だろうか。母がどこで手に入れたものか、わからない。ただ、その青は、暮れかけた窓の外の空の色に、不思議とよく似ていた。
わたしはマッチ箱を、もとの抽斗にもどした。そのときだった。
電話が、鳴った。
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
まさか、と思った。契約はとうに切れているはずだった。母が亡くなってすぐ、わたしは各種の手続きをすませ、この固定電話も解約したはずだった。回線はもう、生きていないはずだった。
それなのに、電話は鳴りつづけていた。
黒い機体をふるわせ、鈴のような、けれどどこか湿った音を、藍色の光のなかに響かせつづけている。窓の外では、日が沈みかけていた。西の空がわずかに朱を残し、その上に、少しずつ夜の色が滲みだしている。ものの輪郭が、光のなかで、やわらかく溶けていくような、そんな刻だった。
わたしは受話器に、手を伸ばした。
指がふれた瞬間、受話器はほのかに温かかった。まるで、たったいままで誰かが握っていたかのように。その温みに、わたしは一瞬、手を引きかけた。けれど、鳴りやまぬ音に押されるように、受話器を耳にあてた。
「……もしもし」
声が、掠れた。
沈黙があった。長い、けれど空虚ではない沈黙。受話器の向こうに、たしかに誰かがいる、という気配だけが、静かに伝わってきた。かすかな、砂の擦れるような雑音の底に。
そして、声がした。
「……もしもし」
わたしの手から、受話器が落ちそうになった。
その声を、わたしは知っていた。世界じゅうのどんな声とも取り違えようのない、その声を。
母の声だった。
「……お母さん」
言葉が、ひとりでにこぼれた。ばかげている、と頭のどこかが言っていた。これは幻だ、疲れているのだ、聞き間違いだ、と。けれど、胸は震えていた。震えながら、その声を、もっと聞きたいと叫んでいた。
「もしもし。ああ、つながった」
母は言った。少し照れたような、けれど嬉しそうな声だった。生きていた頃の、あの声のままだった。
「あなたなの。よかった。もう、かけられないかと思っていたのよ」
「お母さん、どうして……あなたは、その、」
死んだはずでしょう、という言葉を、わたしは呑みこんだ。それを口にしたら、この電話が、切れてしまう気がした。この藍色の刻が、砂のように崩れてしまう気がした。
「わかっているのよ」と母は言った。「わたしは、もう、あなたのいるところにはいないの。だからね、こうして話せるのは、この刻だけ。日が暮れて、けれどまだ夜になりきらない、あいだの刻だけ。ものの境がゆるむ、逢魔が時だけなの」
窓の外を、わたしは見た。
西の空の朱は、もうほとんど消えかけていた。かわりに、藍が、紫が、天のいただきから静かに降りてきて、世界を染めはじめていた。その、藍に暮れゆく空のいちばん高いところに、一つ、蒼い星が昇っていた。
まだ他のどの星も見えないうちに、それだけが、ぽつりと。まるで、この刻の始まりを告げる徴のように。冴えた、青い光を放って。
わたしはなぜか、その星の名を知っている気がした。
ミラ。むかし、母がそう教えてくれたのではなかったか。まだわたしが幼く、母がまだ若かった頃。二人で縁側から空を見あげて、母がその星を指さして、あれはミラという名の星よ、と。逢魔が時にいちばんに昇る、青い星よ、と。
「見えているの」と母が、電話の向こうで言った。まるでわたしの視線を追うように。「ミラが。あの星が昇っているうちだけ、わたしたちは話せるの。星が沈んだら、電話は切れる。そして、もう二度と、かからないのよ」
わたしは、電話台の椅子に、崩れるように腰をおろした。
膝が、震えていた。受話器を握る手に、力がこもった。もう二度と、という言葉が、胸をきつく締めつけていた。だから、話さなければならなかった。この、ほんの数分のうちに。伝えそびれた、すべてを。
けれど、いざとなると、言葉が出てこなかった。あんなに、あんなに胸に沈めていたはずの言葉が、喉の手前でつかえて、動かなくなった。
「あのね」と、口をひらいたわたしを、母がやわらかく遮った。
「そんなに、あわてなくていいのよ。すこしだけ、時間はあるから。ねえ、あなた、ちゃんとご飯を食べているの」
わたしは、笑ってしまった。泣きそうな顔のまま。
「食べてるよ」
「嘘。あなたはいつも、そう言うのよ。忙しいと、すぐに食べるのを忘れるんだから。子どもの頃から、そうだった」
「……覚えてるんだ」
「覚えているに決まっているでしょう。母親なんだから」
母の声は、なつかしかった。まるで、時間が、あの頃に巻きもどったようだった。まだわたしが、この母の子どもであることを、うとましく思っていなかった頃に。母の作る味噌汁の匂いや、洗濯物にしみこんだ日なたの匂いや、そういうものに、なんの疑いも持たずに包まれていた頃に。
「ねえ、あなた」と母が言った。「あなたね、まだ、あの癖があるでしょう。考えごとをするとき、右の眉を、ちょっと寄せる癖。子どもの頃から、そうだった。宿題がわからないとき、いつもそうしていたわ。今も、そうしているのが、見えるようよ」
わたしは、思わず、右の眉に手をやった。ほんとうに、寄せていた。四十を過ぎた今も。母だけが知っている、わたしの癖。母が死んで、もう誰も知る者はいなくなった、と思っていた、そのちいさな癖を、母は、まだ覚えていた。
「お母さん」とわたしは言った。声が、また、震えた。「わたし、あなたのこと、なにも知らなかった。あなたが、なにを好きで、なにを淋しく思っていたか。この部屋で、どんなふうに、日々を過ごしていたか。なにひとつ、知ろうとしなかった。それなのに、あなたは、わたしのことを、こんなに、こんなに、覚えていてくれた」
沈黙が、また、やわらかく降りた。けれど今度の沈黙は、あたたかかった。受話器の向こうの気配が、わたしを、そっと包んでいるようだった。
「お母さん」と、わたしはようやく、言った。「わたし、間に合わなかった。あなたが……あなたが最後に、わたしの名前を呼んでいたって、看護師さんが言ってた。それなのに、わたし、そこにいなかった。ごめんなさい。ずっと、それが」
声が、崩れた。
「ずっと、ごめんなさいって、思ってた。でも、もう言えないと思ってた。もう、二度と」
母は、しばらく黙っていた。
雑音の底で、その息づかいだけが、かすかに聞こえていた。やがて、母は、静かに言った。
「あのね。わたしね、あなたの名前を呼んでいたのは、責めるためじゃないのよ」
「え」
「あなたに、来てほしくて呼んでいたんじゃないの。ただ、あなたの名前を、もう一度、口にしたかっただけ。わたしがこの世でいちばんたくさん呼んだ名前を、最後にもう一度、呼びたかっただけなのよ」
わたしは、言葉を失った。
「あなたを産んだ日のことを、思い出していたの」と母はつづけた。「病院の窓から、ちょうどこんな、藍色の空が見えていた。逢魔が時だった。あなたが生まれたのは。だからね、あなたの名前を呼ぶと、いつでもあの藍色の空が見えるの。あなたが、この世に来てくれた刻の色が」
窓の外の空は、いよいよ深く暮れていた。ミラの星は、なお高く、蒼く、燃えていた。
「わたしはね」と母は言った。「あなたに謝ってほしいことなんて、なにもないのよ。あなたが遠くにいたのは、あなたが一生けんめい、あなたの生を生きていたから。それは、わたしが望んだことだった。母親というのはね、子どもが自分から離れていくのを、喜ぶものなの。淋しいけれど、喜ぶものなの。あなたが、わたしなしでも歩いていけるようになったこと。それが、わたしのいちばんの、誇りだったのよ」
「でも」とわたしは言った。「わたしは、離れすぎた。淋しい思いを、あなたにさせた。あなたが倒れたとき、そばにいてあげられなかった。あなたが、この部屋で、ひとりで最後の日々を過ごしていたことを、想像しようともしなかった。それが、ゆるせないの。自分が」
「あのね」と母は、しずかに言った。「わたしは、ひとりだと思ったことは、いちどもなかったのよ」
「え」
「毎日ね、あなたのことを思っていたから。朝、目がさめると、今ごろあの子は、都会で目をさましたかしら、と思った。夕暮れになると、今ごろあの子は、仕事を終えて、家に帰る途中かしら、と思った。あなたのことを思っているあいだ、わたしは、ひとりじゃなかったのよ。あなたが、いつも、わたしのなかにいたから。だからね、あなたが自分を責める必要は、これっぽっちも、ないの」
わたしは、受話器のなかの、その言葉を、しっかりと、胸に抱きしめた。母は、ひとりではなかった、と言う。けれど、その言葉のやさしさが、かえって、わたしの胸を、深くえぐった。わたしが、母を思わなかった日々にも、母は、わたしを思っていた。その一方通行の愛の深さが、いまさらのように、わたしを打ちのめした。
わたしは、受話器を両手で握りしめて、泣いていた。
声を殺そうとしても、殺しきれなかった。長いあいだ、胸の底に沈めていた石が、少しずつ、溶けて流れだしていくようだった。
「でもね」と、わたしは、しゃくりあげながら言った。「わたしは、ちゃんと言いたかった。あなたに。ありがとうって。ずっと、言えなかった。照れくさくて、意地を張って、忙しいふりをして。電話も、いつもわたしから切ってた。あなたは、まだ話したそうだったのに。わたし、それに気づいていながら、切ってた。何度も。何度も」
「知っているのよ、そんなこと」
母は、笑った。やさしい、こまやかな笑いだった。
「あなたが、いつも早く電話を切るのはね、わたしと話すのが、いやだったからじゃないでしょう。話しはじめると、切れなくなるのが、わかっていたからでしょう。あなたは、そういう子だった。淋しさを、意地の裏に隠す子だった。わたしに、よく似ているのよ」
「わたしもね」と母はつづけた。「あなたに電話をかけようとして、受話器を握ったまま、かけられなかった夜が、いくどもあったの。あなたが忙しいのは、わかっていたから。わたしの声を聞いて、あなたが、しかたなく時間を割いてくれるのが、申しわけなくて。だから、かけずに、受話器をもどした。あなたが、年に一度、思い出したように電話をくれる、その一度を、わたしは、一年かけて待っていたのよ。あなたが早く切ろうとするたびに、ああ、もう終わってしまう、と思いながら、それでも、ひきとめられなかった。ひきとめたら、あなたを困らせると思って」
わたしは、目を閉じた。
母もまた、わたしと同じだったのだ。淋しさを、相手を思いやる気持ちの裏に隠して、言葉を呑みこんでいた。わたしたちは、二人とも、同じ意地を張っていた。同じ淋しさを、抱えていた。それなのに、たった一度も、その淋しさを、互いに打ち明けあうことが、できなかった。この、逢魔が時の、たった数分の奇跡が、訪れるまでは。
わたしは、言葉が出なかった。
母の言うとおりだった。わたしはいつも、電話を切ったあと、切らなければよかった、と思っていた。もう少し話せばよかった、と。けれど次にかけるとき、また同じことをくりかえした。淋しさを、意地で覆い隠しながら。まるで、いつまでも母がそこにいるかのように。いつでもかけなおせるかのように。
そのいつでもが、もう、ないのに。
「お母さん」と、わたしは言った。「ありがとう」
言葉は、いともあっさりと、口からこぼれた。あんなに長いあいだ、言えなかった言葉が。
「わたしを産んでくれて、ありがとう。育ててくれて、ありがとう。あの下手な似顔絵を、額に入れて飾ってくれて、ありがとう。あなたがいなくなってから、わたし、この部屋に来て、初めて知ったことがたくさんある。あなたがどんなに、つつましく、きれいに暮らしていたか。どんなに、わたしのことを」
言葉が、また詰まった。
「どんなに、わたしのことを、思っていてくれたか」
母は、しばらく黙って、それを聞いていた。そして、ふと、思い出したように言った。
「そうそう。電話台の抽斗に、青いマッチ箱があったでしょう」
わたしは、涙を拭いながら、抽斗をあけた。青いマッチ箱が、そこにあった。月光堂、と金の文字。
「あるよ」
「それはね、月光堂という古い店で、むかし買ったものなの。もう、ずいぶん昔。この町に、黄昏の刻にだけ現れる、不思議な古本屋があってね。月光書房、というの。日が暮れると、川べりの路地に、ぽつりと灯りがともって。夜が明けると、消えてしまう。わたしはある夕暮れに、迷いこむようにして、その店に入ったの」
「そこで、一冊の本を買ったのよ」と母は言った。「星の名前が、たくさん書いてある本だった。ミラのことも、その本で知ったの。あなたに教えてあげた、あの星のこと。逢魔が時に、いちばんに昇る青い星のこと」
わたしは、母が幼いわたしにミラを教えてくれた、あの縁側の夕暮れを思い出していた。あれは、母がこの町の、その不思議な古本屋で得た知識だったのか。
「店を出るときにね」と母はつづけた。「主人が、そのマッチ箱をくれたの。月光堂のマッチ。逢魔が時に、この火を灯すと、ものの境がゆるむ、と。会いたい人に、会えるかもしれない、と。半分、冗談のように言っていた。わたしも、そのときは、笑って受け取っただけだった。ずっと、抽斗にしまいこんだままで、忘れていた」
「その本を読んで」と母は、なつかしそうに言った。「わたしは、星のことが、好きになったの。あなたが生まれてから、よく、縁側であなたを抱いて、空を見あげたわ。まだ言葉もわからないあなたに、あれはミラという星よ、あれは織姫よ、と教えたの。あなたは、きょとんとした顔で、わたしの指さすほうを見ていた。覚えてはいないでしょうけれど」
「覚えているよ」とわたしは言った。「縁側の、あの夕暮れ。ぼんやりとだけど、覚えてる。あなたの、着物の匂い。あなたの膝の、温かさ。そして、あなたが指さした、空の星。あれが、ミラだったんだね」
「そう。ミラよ」と母は言った。「逢魔が時に、いちばんに昇る、青い星。ふしぎな星なの。ふくらんだり、しぼんだり、明るくなったり、暗くなったり。まるで、息をしているみたいに。だから、むかしの人は、その星に、驚くべきもの、という意味の名をつけたのよ。ミラ。……あなたが生まれた日にもね、その星が、昇っていたの。病院の窓から、見えたわ。藍色の空に、ぽつりと、青く」
わたしは、窓の外の、蒼い星を見あげた。母が、わたしの生まれた日に見たという、その同じ星を。時をこえて、いま、母とわたしを、つないでいる、その青い光を。
「でも」とわたしは言った。「今、こうして」
「そう。今、こうして、あなたと話している。ねえ、あなた。そのマッチを、一本、灯してごらんなさい」
わたしは、受話器を肩と耳のあいだにはさんで、青いマッチ箱をあけた。震える指で、軸木を一本、取りだした。
側薬に、こすった。
小さな音とともに、ぽっと、火がともった。
その炎は、ふつうのマッチの、赤みを帯びた橙ではなかった。青かった。ミラの星と同じ、冴えた蒼い炎が、ゆらり、と立ちのぼった。藍色に暮れた部屋のなかに、その青い光が、静かに揺れた。
「見えたわ」と母が、電話の向こうで、はっきりと言った。「あなたの灯した火が、こちらにも見えた。ああ。あなたの顔が、その火に照らされて。……大きくなったのね。すっかり、大人の顔になって」
「お母さん」とわたしは言った。「あなたには、わたしが見えるの」
「見えるのよ。この火のあいだだけ」と母は言った。「ああ、目もとが、少し、疲れているわね。ちゃんと眠っているの。仕事のことで、無理をしていないでしょうね。それに……ずいぶん、痩せたわね。ちゃんと、食べなさい。あなたが小さい頃、好きだった、あのおじやを、覚えている。卵をおとして、葱をちらして。風邪をひくと、いつも作ってあげたでしょう。あれを、たまには、自分で作ってごらんなさい。作り方は、あなたも、見て覚えているはずよ」
「覚えてる」とわたしは、涙ぐみながら言った。「あなたのおじや。あれを食べると、いつも、治った。熱も、咳も。あなたのおじやには、薬みたいな力があった」
「薬じゃないのよ」と母は、やわらかく笑った。「あれはね、ただ、母親が作ったというだけのこと。それだけで、子どもの熱は、下がるものなの。ふしぎでしょう。でも、ほんとうなのよ」
わたしは、青い炎を見つめていた。
炎は、燃えているのに、指を近づけても熱くなかった。ただ、しずかな青い光を、放ちつづけていた。まるで、この刻そのものが、小さく形をとって、わたしの手のなかで燃えているようだった。
「お母さん」とわたしは言った。「わたし、この部屋に、しばらく住むことにしたの」
「知っているわ。うれしいのよ、それが」
「あなたが暮らしていた部屋で、あなたが見ていた空を見て、あなたが飲んでいた急須でお茶を淹れて。そうしていると、少しずつ、あなたのことがわかってくる気がする。生きているあいだに、ちゃんと知ろうとしなかったこと。今になって、ひとつずつ」
「それでいいのよ」と母は言った。「遅すぎることなんて、なにもないの。人は、いなくなってからも、少しずつ、深く知りあえるものなのよ。あなたがこの部屋で、わたしのことを思ってくれるかぎり、わたしは、ほんとうには、いなくならない」
「あのね、お母さん」とわたしは言った。「わたし、この部屋で、あなたの写真を見つけたの。夕暮れの、川べりで撮った、あなたの写真。裏に、月光書房のかえりに、って書いてあった。あれ、誰が撮ったの」
電話の向こうで、母が、小さく、笑った気配がした。
「あれはね」と母は言った。「月光書房の、あの店の主人が、撮ってくれたのよ。ある夕暮れ、店を出るとき、あんまり空がきれいだったから。あなたに、いつか見せたかった。この町の、この空を。だから、写真に撮ったの。いつか、あなたが、この部屋に来ることがあったら、見つけてくれるように、と。抽斗のいちばん上に、しまっておいたのよ」
わたしは、写真のことを思った。母は、自分が死んだあとのことまで、考えていたのだ。わたしが、この部屋に来て、その写真を見つける日のことを。そして、いま、母の望んだとおり、わたしは、その写真を見つけ、そして、この電話で、母と話している。まるで、すべてが、はじめから、母の手のなかにあったかのように。
窓の外を、わたしはまた見た。
藍は、いよいよ濃く、夜の色に近づいていた。ミラの星は、なお昇っていたけれど、その光が、心なしか、さっきより低くなった気がした。天の頂きから、少しずつ、西の地平のほうへ。
刻が、過ぎていく。
わたしは、あわてた。まだ、言いたいことがあった。まだ、聞きたいことが、たくさんあった。
「お母さん、待って。まだ、切らないで」
「切らないわ。まだ、ミラは沈んでいない」と母は、やさしく言った。「でも、そう長くはないの。だからね、あなた。よく聞いてちょうだい。わたしが、あなたに言っておきたいこと」
「うん」
「あなたは、これから、たくさんの夕暮れを生きていくでしょう。逢魔が時を、何千と、何万と。そのたびに、空が藍色になって、ミラが昇るのを見るでしょう。そのとき、わたしのことを、思い出してほしいの。悲しむためじゃなくてね。ただ、ああ、母がこの空の色が好きだった、と。ああ、母がこの刻に、わたしを産んだのだ、と。そう、思い出してくれれば、それでいいの」
わたしは、うなずいた。声にならなかったから、うなずいた。受話器の向こうに、それが伝わることを祈りながら。
「それからね」と母はつづけた。「あなたも、いつか、淋しさを意地で隠さなくていい人に、出会うといいわね。あなたが電話を、早く切らなくてすむ人に。話しはじめたら、切れなくなってしまう人に。わたしは、あなたのお父さんが、そういう人だった。あなたには、そういう人が、きっと現れる。母は、それを、いちばん願っているのよ」
窓の外で、ミラの星が、また少し、低くなった。
「お母さん」とわたしは言った。「ひとつだけ、お願いがあるの」
「なあに」
「あの唄を、歌ってくれない。わたしが子どもの頃、あなたが毎晩、歌ってくれた唄。あの……眠れ、眠れ、って始まる唄。もう一度、聞きたいの」
電話の向こうで、母が、小さく息をのむ気配がした。
そして、しずかに、歌いはじめた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
その旋律を、わたしは、四十年ぶりに聞いた。けれど、体の芯が、それを覚えていた。母の膝の温み。夜のとばりの匂い。障子ごしの、月の光。すべてが、その唄とともに、胸のなかによみがえってきた。
眠れ、眠れ、月が山を越えるまで。
母の声は、少ししわがれて、けれど、あの頃と同じやさしさで、藍色の部屋を満たしていった。わたしは、青い炎を見つめながら、目を閉じて、その唄を聞いた。子どもに還ったように。まだ、母の腕のなかにいた、あの頃に還ったように。
眠れ、眠れ、朝が来て、また出会うまで。
唄が、終わった。
しずかな余韻が、受話器のなかに、しばらく漂った。
わたしは、目を閉じたまま、動けずにいた。その唄が、わたしのなかの、いちばん深いところに触れていた。忘れていたと思っていた、すべての夜が、その旋律とともに、よみがえってきた。熱を出した夜、母がおでこに置いてくれた、冷たい手ぬぐいの感触。こわい夢を見て泣いた夜、母が背中をさすりながら歌ってくれた、この唄。運動会の前の晩、緊張で眠れないわたしの隣で、母が、根気よく、何度も何度も、繰りかえし歌ってくれた、この唄。
わたしは、その唄に、育てられたのだった。この、たった一節の、短い子守唄に。星が海をわたるまで、と歌う、この唄に。母は、わたしが眠るまで、何千回、何万回、この唄を歌ったことだろう。そのすべてを、わたしは、あたりまえのように、受け取っていた。ありがとうも言わずに。眠りのなかへ、なんの疑いもなく、落ちていきながら。
「ありがとう」とわたしは言った。「お母さん。ありがとう。もう、思い残すことは、なにもない」
「わたしもよ」と母は言った。その声は、涙で少し湿っていた。「あなたと、こうして話せて。ありがとう、と、あなたが言ってくれて。母はね、もう、なにもいらないの。あなたが、しあわせに生きてくれれば、それで」
窓の外の、ミラの星が、西の地平に、いよいよ近づいていた。
蒼い光が、少しずつ、藍のなかに溶けはじめていた。
「お母さん」とわたしは言った。「星が、沈む」
「ええ」と母は言った。「わかっているわ」
わたしは、受話器を、ぎゅっと握りしめた。この温みを、この声を、この刻を、少しでも長く、手放したくなかった。けれど、刻は、指のあいだをこぼれ落ちる砂のように、止まらなかった。
「ねえ、あなた」と母は言った。「最後にね。ひとつ、覚えていてほしいの」
「うん」
「わたしは、ずっと、あなたのそばにいるのよ。姿は見えなくても。声は聞こえなくても。逢魔が時のたびに、空が藍色になるたびに、ミラが昇るたびに、わたしは、あなたのそばにいる。それを、忘れないでいてね」
「忘れない」とわたしは言った。「絶対に、忘れない」
窓の外で、ミラの星が、地平に、ふれた。
蒼い光が、藍の底に、静かに沈んでいった。
「お母さん――」
受話器のなかで、砂の擦れるような雑音が、ふっと、途切れた。
そして、つう、つう、と、乾いた音が鳴りはじめた。
電話は、切れていた。
わたしは、しばらくのあいだ、受話器を耳にあてたまま、動けずにいた。
つう、つう、という音だけが、鳴りつづけていた。もう、そこには誰もいなかった。母の気配も、あの温みも、すっかり消えていた。ただ、機械の、無機質な音だけが。
やがて、わたしは、そっと受話器を、もとにもどした。
かちり、と、乾いた音がした。
部屋のなかは、もう、夜だった。藍色の光は、いつのまにか、深い群青に変わっていた。窓の外の空には、ミラの星のかわりに、いくつもの星が、瞬きはじめていた。けれど、その青い星だけは、もう、どこにも見あたらなかった。
わたしの手のなかで、青いマッチの炎は、いつのまにか、消えていた。
わたしは、燃えつきた軸木を、そっと、電話台の上に置いた。それから、青いマッチ箱を、手に取った。ふると、なかで、まだいくらか、軸木のかさりと乾いた音がした。
けれど、わたしは、知っていた。
もう、二度と、この火を灯しても、あの電話は鳴らない。母は、言ったのだ。星が沈んだら、もう二度と、かからない、と。これは、一度きりの奇跡だった。逢魔が時の、境のゆるむ、ほんの数分の。
それでも、わたしは、思い残すことは、なにもなかった。
わたしは、青いマッチ箱を、電話台の抽斗に、そっともどした。
それから、窓辺に立って、夜の空を見あげた。
無数の星が、瞬いていた。母は、この空のどこかにいるのだろうか。それとも、もっと遠い、わたしの知らないところに。わからなかった。けれど、それでよかった。母は、言ったのだ。姿が見えなくても、声が聞こえなくても、逢魔が時のたびに、そばにいる、と。
わたしは、窓を、少しあけた。
川べりの、夜の風が、部屋に流れこんできた。その風のなかに、かすかに、あの唄の旋律が、まじっている気がした。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。気のせいかもしれなかった。けれど、わたしは、そう信じることにした。
そして、ふと、思った。
明日も、この部屋にいよう、と。あさっても。その次の日も。母が暮らした、この部屋で。逢魔が時が来るたびに、藍色の空を見あげよう。ミラの星を探そう。そして、もう鳴らない電話のそばで、あの青いマッチ箱を、大切にしまっておこう。それが、母と、わたしを、つなぐ、たった一つの縁として。
季節が、めぐった。
わたしは、いつしか、この川べりの古い町に、根をおろしていた。母の部屋を、少しずつ、自分の暮らしに馴らしながら。欠けた茶碗を使い、あの新しい急須で、毎日、お茶を淹れた。壁の下手な似顔絵は、そのままにしておいた。
逢魔が時が来るたびに、わたしは、窓辺に立った。
藍色に暮れゆく空を見あげ、ミラの星が昇るのを、探した。けれど、あの一度きりの奇跡の日から、電話は、二度と鳴らなかった。母の言葉は、正しかった。あれは、一度だけの、境のゆるむ刻の、贈りものだったのだ。
それでも、わたしは、淋しくなかった。
なぜなら、逢魔が時が来るたびに、わたしは、母を思い出すことができたから。悲しみとしてではなく、あたたかな、静かな記憶として。ああ、母がこの空の色を好きだった、と。ああ、母がこの刻に、わたしを産んだのだ、と。そう思うたびに、母は、たしかに、わたしのそばにいた。
ある夕暮れのことだった。
わたしは、買いものの帰りに、いつもとちがう道を、通ってみた。川べりの、細い路地。ふだんは通らない、暗い、忘れられたような小道だった。
日が、暮れかけていた。空が、藍色に染まりはじめていた。ものの輪郭が、光のなかで、やわらかく溶けていく、あの刻だった。
路地の奥に、ぽつりと、灯りが見えた。
わたしは、足をとめた。そんなところに、店があるとは、知らなかった。近づいてみると、それは、小さな古本屋だった。軒に、古びた木の看板がかかっていた。かすれた文字で、こう書かれていた。
月光書房、と。
わたしの、胸が、鳴った。
母が、話していた、あの店だ。黄昏の刻にだけ現れ、夜が明けると消える、不思議な古本屋。母が、迷いこむようにして入り、星の名前の本を買い、青いマッチ箱をもらった、あの店。
わたしは、その灯りに、ひきよせられるように、店の扉に、手をかけた。
扉をあけると、鈴が、ちりん、と鳴った。
なかは、天井まで、古い本で埋めつくされていた。黄ばんだ紙の匂いが、やわらかく、鼻をくすぐった。奥の帳場に、年老いた主人が、ひとり、坐っていた。銀色の髪の、静かな目をした、老人だった。
「いらっしゃい」と、老人は言った。まるで、ずっと前から、わたしを待っていたかのように。
わたしは、店のなかを、ゆっくりと歩いた。指で、本の背をなぞりながら。どの本も、この世のものとは思えないほど、古く、そして、美しかった。
棚から棚へと歩くうちに、わたしは、ふしぎな感覚に、包まれていった。この店の本は、どれも、時間の匂いがした。誰かに読まれ、誰かに愛され、誰かの手から手へとわたってきた、そのすべての年月が、紙のなかに、しみこんでいるようだった。ある本をひらくと、押し花が一輪、はさまっていた。ある本には、読んだ人の書きこみが、余白いっぱいに残されていた。この店は、本を売っているのではない、とわたしは思った。誰かの生きた時間を、そっと、次の誰かに、手わたしているのだ。
やがて、わたしは、一冊の本の前で、足をとめた。
星の名前が、書かれた本だった。背表紙に、金の文字で、そう記されていた。手に取ると、ずしりと、重かった。ひらくと、古い挿絵とともに、無数の星の名が、記されていた。そして、そのなかに、ミラの名が、あった。
逢魔が時に、いちばんに昇る、青い星。会いたい人への、道しるべ。
「それは」と、帳場の老人が言った。「むかし、ある女(ひと)が、買っていった本と、同じものですよ」
わたしは、顔をあげた。
「その女(ひと)は」と老人は、しずかに微笑んだ。「あなたに、とてもよく似た、目をしていました」
わたしは、その本を、買った。
老人は、本を、古い紙に包んでくれた。そして、包みを、わたしに手わたすとき、そっと、小さなものを、添えた。
青い、マッチ箱だった。
月光堂、と、金の文字。母が、遺したものと、同じマッチ箱。
「これは」とわたしは言った。
「持っていきなさい」と老人は言った。「逢魔が時に、この火を灯すと、ものの境が、ゆるむのです。会いたい人に、会えるかもしれない。……もっとも」と、老人は、いたずらっぽく、目を細めた。「それは、一度きり、ですがね。星が沈めば、もう二度と、かからない。あなたは、もう、それを、知っているはずだ」
わたしは、老人を見つめた。老人は、なにもかも、知っているようだった。
「ありがとうございます」とわたしは、頭をさげた。
店を出ると、空は、もう、深い藍に暮れていた。西の地平の、いちばん高いところに、ぽつりと、蒼い星が、昇っていた。ミラの星だった。冴えた、青い光を、放って。
わたしは、その星を、しばらく見あげていた。
もう一度、母の声を聞くために、この火を灯すこともできる、と思った。この、青いマッチを、擦れば。けれど、わたしは、そうしなかった。
母は、言ったのだ。もう、なにもいらない、と。あなたが、しあわせに生きてくれれば、それで、と。だから、わたしは、この火を、とっておくことにした。ほんとうに、どうしても、会いたくなる日まで。あるいは、永遠に、灯さないまま。それは、わたしが、母の言葉を、胸に抱いて、生きていける、ということの、証(あかし)だった。
その日から、また、季節が、めぐった。
わたしは、月光書房で買った本を、母の本棚に、そっと並べた。母の買った本と、わたしの買った本が、同じ棚に、肩を寄せあうように、並んだ。星の名前の本が、二冊。母と、わたしの。
そして、電話台の抽斗には、青いマッチ箱が、二つ、しまわれた。母のものと、わたしのもの。どちらも、まだ、いくらか軸木が残っていた。けれど、わたしは、それを、灯さなかった。
逢魔が時が来るたびに、わたしは、窓辺に立った。
藍色の空を見あげ、ミラの星が昇るのを、待った。電話は、もう、鳴らなかった。それでも、よかった。なぜなら、わたしは、知っていたから。母が、そばにいることを。姿は見えなくても、声は聞こえなくても、この刻のたびに、たしかに、そばにいることを。
わたしは、母のおじやを、作れるようになった。卵をおとして、葱をちらして。風邪をひいた夜には、それを、自分のために作った。ふしぎなことに、それを食べると、ほんとうに、少し、元気が出た。母の言ったとおりだった。母親が作った、というだけのこと。けれど今は、わたし自身が、その味を、受けついでいた。母から、わたしへ。
わたしは、いつしか、この町の人になった。近所の人と、夕暮れの道で、挨拶を交わすようになった。川べりの、古い喫茶店の主人と、言葉を交わすようになった。母が生きていた頃、この人たちは、母のことを、よく知っていた。あの人は、静かで、やさしい人でしたよ、と、みんなが言った。いつも、あなたのことを、自慢していましたよ、と。都会で、立派に働いている娘がいるんです、と、嬉しそうに話していましたよ、と。わたしは、その言葉を聞くたびに、胸が、あたたかく、そして、少し、痛んだ。
ある夕暮れ、わたしは、古い電話機の前に坐って、ふと、口ずさんでいた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。
母が、わたしに歌ってくれた、あの唄を。いつか、わたしにも、子が生まれることがあれば、その子に、歌ってやろう、と思いながら。母から、わたしへ。わたしから、その子へ。逢魔が時の空の色のように、めぐりめぐって、受けつがれていく、あたたかなものを。
窓の外で、ミラの星が、蒼く、燃えていた。
わたしは、受話器に、そっと手を伸ばした。もう、鳴ることのない、黒い電話機。けれど、その受話器は、なぜか、ほのかに、温かかった。まるで、たったいままで、誰かが、握っていたかのように。
わたしは、その温みを、しばらく、手のひらで包んでいた。
そして、静かに、微笑んだ。
会えないはずの声と、会えた。伝えそびれた言葉を、伝えられた。それは、たった数分の、逢魔が時の奇跡だった。けれど、その数分が、わたしの、これからのすべての夕暮れを、あたたかく染めてくれる。ものの境が溶けるこの刻に、わたしは、母と、もう一度、逢ったのだ。そして、これからも、逢いつづけるのだ。この藍色の空の下で。ミラの星の、青い光の下で。
眠れ、眠れ、朝が来て、また出会うまで。
わたしは、小さく、そう口ずさんだ。窓の外の、暮れゆく空に向かって。
藍が、紫が、群青が、静かに、世界を染めていった。逢う刻の、やさしい色が。