灯りを配る者
はじめに、闇があった。
それは今日の私たちが思う闇とはちがう。私たちの夜には、遠くの窓明かりが、街灯が、天井の小さな豆球がある。目を凝らせばかならず、どこかに一点の橙が滲んでいる。けれど、これから語る国の闇は、そういう闇ではなかった。日が落ちれば、それはただ、すべてが等しく消える闇だった。手のひらを目の前にかざしても、手のひらがあることを、指で触れてたしかめるほかなかった。
この国を、人々は名でよばなかった。名をよぶには、たがいの顔が見えねばならぬ。夜になれば顔は消え、声だけが残った。だから人々は、昼のあいだにだけ名を交わし、日が沈めば名を忘れた。名を忘れた者どうしは、もはや家族というより、同じ暗がりに息をひそめる、たくさんの温もりのかたまりだった。
昼は、まだよかった。太陽という、大いなる一つの灯りが、空の高みにかかっていたから。人々は、その光のもとで、田を耕し、機を織り、水を汲み、子をあやした。たがいの顔を見て、笑い、あるいは諍い、また笑った。けれど太陽は、この国の人々の思うようにはならなかった。太陽は、彼らのものではなかった。夕暮れがくれば、太陽は西の山のむこうへ沈み、その、たったひとつの灯りを、惜しげもなく、彼らの手のとどかぬところへ、持ち去っていった。
そうして夜がくると、人々は、それぞれの家の、それぞれの闇のなかへ、しずかに退いていった。食べるものは、日のあるうちに、手さぐりの要らぬ場所へ、あらかじめ置いておいた。寝床の位置は、生まれたときから、からだが覚えていた。彼らは、闇のなかで生き、闇のなかで眠り、闇のなかで、しばしば死んだ。だれかが夜のあいだに息をひきとっても、それを知るのは、朝になって、その者の顔に、また日がさしてからであった。
夜のあいだ、人々は、闇にむかって、声だけを交わした。母は、闇のむこうの子に、眠りなさい、と言った。子は、闇のむこうの母に、こわい、と言った。夫婦は、闇のなかで、明日の相談をした。声は、あたたかかった。声には、たしかに、心がこもっていた。けれど、声には、顔がなかった。いま、闇のむこうのその者が、笑っているのか、泣いているのか、目を伏せているのか、それは、けっして、分からなかった。人々は、たがいの心を、声のふるえだけで、推しはかるほかなかった。
そういう国に、宵闇の底を、一軒また一軒とめぐって歩く者があった。
一
その者に名はなかった。あるいは、あらゆる名がその者のものであったのかもしれない。人々はのちにその者を、さまざまな名でよぶことになる。宵の使い、と。火配りの人、と。あるいはただ、あのひと、と。けれどこの物語の初めにおいて、その者はただ、暗い野をゆく足音であり、闇のなかを進む息づかいであった。
その者は、肩から古い布の袋をさげていた。袋のなかには、青いマッチの箱が幾百と入っていた。箱の腹には、消えかけた金の字で、月光堂、と刷ってあった。どこで手に入れたものか、その者自身も知らなかった。ただ、目が覚めたとき、傍らにその袋があった。袋のなかに手を入れると、箱の角の、ざらりとした側薬の面が指に触れた。そして、その触れた指のさきに、なぜだか、火のともし方の記憶があった。教わったおぼえはない。けれどその者は、火を知っていた。
火を知る者は、その国にただひとりであった。
はじめの晩、その者は、いちばん近い家の戸を叩いた。
戸のむこうで、息をのむ気配があった。この国では、日が沈んでからの物音は、恐怖であった。何ものが訪れるのか、闇のなかでは見えぬ。人々は、夜の訪問者を、闇そのものの子だと思っていた。
「どなた」
戸のむこうの声は、ふるえていた。
「灯りを持ってきた者だ」
その者は言った。灯り、ということばを、その国の人々ははじめて聞いた。何のことか分からぬまま、けれど、その声のあたたかさに、戸のむこうの者は、かんぬきをはずした。
二
家のなかは、外と同じ闇であった。土間に立った家の者――それは年老いた女であった――は、訪ねてきた者の顔を見ることができなかった。訪ねてきた者もまた、老女の顔を見なかった。ふたりは、たがいの息づかいと、床のきしみと、闇のなかの気配だけで、たがいがそこにいることを知った。
「灯りとは、なんですか」
老女は問うた。
「見ていなさい」
その者は、袋から青い箱をひとつ取り出した。ふたを押しあけ、なかから、細い木の軸を一本つまみ出した。軸のさきには、朱色の小さな頭がついていた。その者は、箱の腹の、ざらりとした面に、その頭をあてた。そして、すべらせた。
しゅっ、と音がした。
その国で、はじめて、火がともった瞬間である。
老女は、悲鳴をあげた。悲鳴ではあったが、それは恐怖の悲鳴ではなかった。生まれてから一度も見たことのないものを見た、その、たましいの底から突きあげてくる何かの声であった。老女の目の前に、ちいさな、けれどまぎれもない、橙の光があった。光は、軸を伝ってちろちろと燃え、その者の指の、節くれだった輪郭を、闇のなかに浮かびあがらせた。
「これが」老女は、かすれた声で言った。「これが、灯り」
「これが、灯りだ」
その者はうなずいた。うなずいた、その動きさえも、老女には見えた。光があるということは、そういうことであった。動きが見える。かたちが見える。そこに、たしかに、だれかがいると分かる。
老女は、火のほうへ、そろそろと手をのばした。ちいさな焔は、老女の指のさきを、飴色に染めた。老女の手は、しわだらけで、爪はまるく、指の節は、長年の水仕事で、太くふくらんでいた。老女は、自分の手を、はじめて、見た。生まれてから七十年、その手で、いくたびとなく物に触れ、いくたびとなく人に触れてきた、その手を、はじめて、見た。
「わたしの、手」老女は、つぶやいた。「こんな、手だったのですか」
火は、じきに軸を焼きつくして、その者の指のさきで消えた。ふたたび、闇が落ちた。
けれど、老女はもう、さっきまでの老女ではなかった。ほんの一瞬でも、光を見た目は、光を覚えている。
「もう一度」老女は言った。「もう一度、見せてください」
「これを、あなたに」
その者は、青い箱を、老女の手にのせた。老女の手が、闇のなかで、その者の手をさぐりあて、箱を受けとった。
「ともし方を、教えよう」
三
その晩、その者は、老女の家に、ひとつの灯りを残した。
家の中央に、油を張った皿があった。皿の縁に、より糸を編んだ芯をかけた。その者が、青い箱のマッチを擦り、その火を芯に移すと、芯はじじ、と音をたてて油を吸い、やがて、しずかに、たしかな橙の焔をあげた。
はじめて、その家に、ひとつの灯りがともった。
飴色の光が、家のなかを満たした。土間があった。上がり框があった。壁に、干した草の束がさがっていた。奥には、藁を敷いた寝床があった。すべてが、そこに、ずっとそこにあったものが、はじめて、見えるものとしてそこにあった。
老女は、泣いた。
「わたしの家は」老女は言った。「こんな家だったのですね」
七十年、この家に住んでいた。けれど、その家のかたちを、目で見たのは、その晩が、はじめてであった。老女は、ふるえる手で、壁に触れた。草の束に触れた。寝床の藁に触れた。触れて、たしかめて、そして、光のなかで、もう一度、それを見た。触れることと、見ること。老女は、そのふたつがようやくひとつになったことに、泣いた。
その者は、戸口に立って、それを見ていた。
そして、しずかに、家を出た。
四
外の闇へ出ると、空を見あげた。
その国の空には、月がなかった。星も、ほとんどなかった。あるにはあったのだろうが、それらは遠く、弱く、地上の闇を照らすには、あまりにもかそけき光であった。人々は、空を見あげる習慣をもたなかった。見あげても、そこには、地上と同じ闇があるばかりだったから。
けれど、その晩――ちょうど、はじめての灯りが、ひとつの家にともった、その晩――空の一隅に、ひとつ、青白い光が昇った。
それは星であった。けれど、ただの星ではなかった。尾をひいていた。青みを帯びた、つめたく澄んだ光が、宵闇の底から、ゆっくりと、地上の灯りと競うように昇っていった。
その者は、それを、長いこと見あげていた。それは、地上のどの焔ともちがう、つめたい火であった。橙ではなく、飴色でもなく、青白い、澄んだ光。ゆれもせず、またたきもせず、ただ、しずかに、宵闇の底から、昇っていった。地上の灯りが、油を吸い、風にゆれ、やがて消えてゆくのにひきかえ、その青い星は、いつまでも、消えなかった。まるで、油も、芯も、要らぬかのように。まるで、それじたいが、火のみなもとであるかのように。
――お前も、火配りか。
その者は、心のなかで、その青い星に問うた。
星は答えなかった。ただ、青白く、しずかに燃えていた。それは、地上のどの灯りよりも早く、あるいは、あらゆる灯りよりも古くから、この闇の空に、たったひとつでともりつづけてきた灯りであった。いちばん最初に、空にともった火。地上に灯りを知る者がひとりもいなかったころから、それはひとり、宵闇のなかで燃えていた。
その者は、袋のなかの、青いマッチの箱と、その青い星とが、どこかで、ひとつのものであるような気がした。
――お前は、空をめぐり。私は、地をめぐる。
その者は、ふたたび歩きはじめた。次の家の、次の闇へ。
五
夜ごと、その者は、家々をめぐった。
一軒に灯りをともすと、その灯りは、隣の家の者の目にとまった。今まで、闇にとざされて見えなかった隣家の窓に、ぼんやりと、橙のにじみが浮かぶ。人々は、はじめ、それを恐れた。闇のなかに、見たことのない色が生まれることを。けれど、恐れよりも、あこがれのほうが、つよかった。
「あの、あかいものは、なんだ」
人々は、たがいに問うた。
「灯りだ、というのだ」
「灯りとは」
「見ればわかる。あそこに、行ってみればわかる」
こうして、灯りをともした家には、隣の者が、その隣の者が、闇のなかを手さぐりで訪ねてきた。訪ねてきた者は、戸口で、飴色の光を見た。そして、その光のなかにある、家の者の顔を見た。
顔を見る、ということ。
それは、この国の人々にとって、日暮れのあとには、絶えて久しく失われていたことであった。夜になれば、たがいの顔は消えた。声だけが、闇のなかを行き交った。声はあたたかかったが、声には、顔がなかった。だれの声かは分かっても、その顔が、いま、笑っているのか、泣いているのか、目を伏せているのか、それは、闇のなかでは、けっして分からなかった。
灯りは、顔を返した。
はじめて、母は、夜のなかで、子の顔を見た。子は、夜のなかで、母の顔を見た。父は、妻の、白髪のまじりはじめた鬢を見た。妻は、夫の、目じりの深い皺を見た。人々は、夜になっても消えないたがいの顔を、飴色の光のなかで、あらためて見つめあった。
そして、団欒が生まれた。
六
団欒とは、ひとつの灯りを囲んで、人が寄りあうことである。
灯りがなかったころ、人々は、日が沈めば、めいめいの闇のなかへ、ちりぢりに退いていった。話すこともあったが、それは、闇にむかって声を投げることであった。だれもが、闇にひとりで、対していた。
灯りがともると、人々は、その一点の橙のまわりに、寄りあった。光は、ひとつの円をつくった。円のなかに、いくつもの顔があった。顔と顔とが、光を分けあった。ひとつの灯りが、いくつもの顔を、ひとつの円のなかに集めた。
夜が、あたたかくなった。
母は、光のもとで、繕いものをした。針に糸を通すのに、もう、闇のなかを手さぐりする必要はなかった。父は、光のもとで、明日の畑の相談をした。子どもらは、光のまわりで、あそんだ。壁に手をかざして、その影が、いろいろなかたちになるのを見て、笑った。犬の影を、鳥の影を、鬼の影を、壁に躍らせて、笑った。
影、ということもまた、この国の人々は、はじめて知った。光があってはじめて、影は生まれる。灯りは、光とともに、影をもたらした。けれど、はじめのうち、その影は、ただ、たのしいものであった。壁で躍る、犬や鳥や鬼の、たわいのない影であった。
けれど、ある晩、ひとりの子が、ふと、手をとめて、壁を見つめた。壁には、その子自身の影が、大きく、黒く、うつっていた。ちいさな子の、何倍もある、黒い影。焔がゆれると、その影も、ゆらりと、ゆれた。
「かあさん」子は、こわばった声で言った。「あそこに、だれか、いる」
母は、笑って、子をだきよせた。あれは、お前だよ、と。お前の影だよ、と。光があると、生まれるものだよ、と。子は、母の腕のなかで、なおも、壁の黒い影を、見つめていた。灯りは、あたたかな橙を、部屋にひろげた。けれど、その同じ灯りが、壁に、こんなにも黒い影を、生んでいた。あかるくすればするほど、影は、濃くなった。子は、そのことを、幼いながらに、感じとっていた。光と、影とは、いつも、いっしょに生まれるのだと。
その者は、それらの家の、それらの団欒を、戸口の闇から、見ていた。
見て、そして、次の家へと、去っていった。
灯りは、ひとから、ひとへ、うつっていった。
はじめは、その者が、青いマッチを擦って、火をわけた。けれど、やがて、灯りをともした家の者が、自分の火を、隣の家へ、わけるようになった。皿の油に燃える焔から、細い木ぎれに火をうつし、その木ぎれを、両手でかばいながら、闇の道を、隣の家まで、はこんでゆく。風にゆれる、ちいさな焔をかばって、そろそろと歩くその姿は、それじたいが、ひとつの祈りのようであった。
火をわけても、もとの火は、減らなかった。これが、灯りの、ふしぎなところであった。ひとつの焔から、いくつもの焔が生まれても、もとの焔は、少しも小さくならなかった。人々は、そのことに、目をみはった。ものは、わければ減る。米も、布も、田も、わければ、めいめいの分は、小さくなる。けれど、灯りだけは、ちがった。灯りは、わければわけるほど、この国の夜を、あかるくした。
「これは」と、ある者が言った。「わけても減らぬ、はじめての、たからものだ」
こうして、灯りは、野火が枯れ野をわたるように、この国じゅうに、ひろがっていった。ただし、野火とはちがって、それは、家々を焼くのではなく、家々を、あたためた。夜ごと、あたらしい窓に、橙のにじみが生まれた。夜の野は、少しずつ、少しずつ、闇のなかに、あたたかな点を、増やしていった。
けれど、その、ひろがってゆく灯りの、いちばんはじめの一点をともした者は、あいかわらず、灯りのそとの、闇のなかにいた。
七
その者が、めぐってゆく先には、いつも、闇があった。
灯りをともした家には、団欒があった。けれど、その団欒のなかへ、その者が、加わることはなかった。その者は、灯りを配る者であった。灯りを配る者は、みずからは、灯りのそとにいた。橙の円のなかへは、入らなかった。円のそとの闇に立って、円のなかのあたたかさを、見送るのが、その者のつとめであった。
ある晩、灯りをともしたばかりの家の、幼い子が、戸口の闇にむかって、言った。
「おじさんも、こっちへおいでよ。あかるいよ。あったかいよ」
その者は、しばらく、答えなかった。
「私は」やがて、その者は言った。「行かねばならぬところが、まだ、たくさんある」
「どこへ」
「まだ、灯りを知らぬ家へ」
「みんなにあげたら、どうするの。ぜんぶの家に、あげたら」
その者は、また、しばらく黙った。
「そのときは」その者は、ほほえんだ。ほほえんだ、その顔を、けれど、闇のなかにいる子には、見えなかった。「そのときは、私も、どこかの、灯りのそばに、すわろう」
子は、それきり、家のなかの、あかるい円のほうへ、駆けもどっていった。
その者は、闇のなかを、また、歩きだした。
八
灯りは、団欒を生んだ。けれど、それは、灯りの、ひとつの面にすぎなかった。
灯りには、もうひとつの面があった。
ある家に、ひとり暮らしの者がいた。子は遠くへ行き、連れあいは、とうに死んでいた。灯りのなかったころ、その者は、闇のなかで、ひとりであった。けれど、闇のなかのひとりは、それほど、こたえなかった。なぜなら、闇のなかでは、だれもが、ひとりであったから。隣の家も、そのまた隣の家も、みな、それぞれの闇のなかに、ひとりでうずくまっていた。ひとりであることは、みなに等しく分けられた、この国の、当たり前のかたちであった。
けれど、灯りがともると、それが、変わった。
その者の家にも、その者は、ひとつの灯りをともした。飴色の光が、家のなかを満たした。そして、その光のなかで、その者は、はじめて、見た。
自分のまわりに、だれもいないことを。
灯りは、円をつくる。円のなかに、顔を集める。けれど、その者の円のなかには、その者の顔が、ひとつ、あるきりであった。光は、その者の顔を照らした。そして、その顔のとなりの、だれもいない空席を、はっきりと、照らし出した。
闇のなかでは、その空席は、見えなかった。闇は、すべてを、等しく隠した。ひとりも、大勢も、闇のなかでは、同じであった。
けれど、光は、隠さなかった。光は、そこにあるものを、そこにないものを、すべて、見えるものにした。そして、そこにないもの――かつてそこにいて、いまはいないもの――を、いちばん、あかるく、照らし出した。
灯りのなかったころ、その者は、夜になると、寝床に横たわり、闇にむかって、死んだ連れあいの名を、よぶことがあった。返事は、なかった。けれど、闇のなかでは、その者は、こう思うこともできた。もしかしたら、連れあいは、この闇のどこかに、まだ、いるのかもしれない、と。見えないだけで、すぐそこに、いるのかもしれない、と。闇は、そういう、あるかなきかの望みを、その者に、ゆるしていた。
けれど、灯りは、それを、ゆるさなかった。
灯りは、寝床のとなりの、藁の上を、はっきりと照らした。そこには、だれも、いなかった。連れあいの寝ていた、へこんだ藁の跡さえ、もう、なかった。あるのは、ただ、からっぽの、藁であった。その者は、灯りのなかで、それを見た。見て、そして、知った。連れあいは、もう、この闇のどこにも、いないのだと。見えないだけではない。ほんとうに、いないのだと。
その者は、灯りのそばで、泣いた。
団欒のなかで泣く涙とは、ちがう涙であった。
九
その者――灯りを配って歩く者は、それを、知っていた。
灯りが、団欒だけをもたらすのではないことを。灯りが、あたたかさとともに、翳りをもたらすことを。ひとつの灯りは、それを囲む顔を照らすと同時に、その灯りのそばに、だれもいないという事実をも、照らし出すことを。
その者は、ひとり暮らしの者の家の、戸口の闇に、長いこと立っていた。
なかから、すすり泣きが聞こえた。
その者は、迷った。灯りを、配ってよかったのか。この者は、灯りを知らなければ、闇のなかで、みなと同じ、当たり前のひとりで、いられたのではないか。灯りは、この者に、団欒のかわりに、孤独の、はっきりとしたかたちを、与えてしまったのではないか。
その者は、袋のなかの、青いマッチの箱を、にぎりしめた。
そして、戸を、叩いた。
「どなた」
すすり泣きのあとの、しめった声が、なかからした。
「灯りを配る者だ」
「ああ」その者は言った。「あなたが。あなたのおかげで、わたしは、見てしまいました」
「何を」
「この家に、わたしが、ひとりだということを」
灯りを配る者は、戸をあけて、なかへ入った。飴色の光のなかに、老いた者が、ひとり、うずくまっていた。灯りを配る者は、その光のなかへ、はじめて、みずから、足を踏み入れた。
そして、その者のとなりの、だれもいなかった空席に、しずかに、腰をおろした。
十
「見えるということは」灯りを配る者は言った。「たしかに、つらいことだ」
「はい」
「闇は、やさしかった。闇は、すべてを、隠してくれた。あなたのさびしさも、隠してくれた。だれもが、闇のなかで、ひとりだった。だから、あなたのひとりは、ことさら、ひとりではなかった」
「はい」老いた者は、うなずいた。「灯りは、わたしのひとりを、わたしに、見せました」
灯りを配る者は、しばらく、焔を見つめた。橙の焔は、油を吸って、しずかに、ゆれていた。ゆれるたびに、壁に映る影も、ゆれた。ふたつの影が、壁にあった。老いた者の影と、灯りを配る者の影と。
「けれど」灯りを配る者は言った。「いま、この光のなかに、ふたつの影がある」
老いた者は、壁を見た。たしかに、そこに、ふたつの影があった。
「闇のなかでは、影は、なかった。影がないということは、たしかに、さびしさも、見えなかった。けれど、影がないということは、だれかが、あなたのとなりに来ても、その影が、あなたの影と、ならぶこともなかった、ということだ」
老いた者は、壁のふたつの影を、じっと見た。
「灯りは」灯りを配る者は言った。「あなたのひとりを、照らし出した。それは、まことだ。けれど、灯りは、また、こうして、だれかが、あなたのとなりに来たとき、そのふたりを、ひとつの光のなかに、集めることもできる。闇は、さびしさを隠したが、闇は、寄りそうことも、隠した。闇のなかでは、だれかがとなりに来ても、その顔が、見えなかった。灯りは、それを、見せてくれる」
老いた者は、灯りを配る者の顔を、光のなかで、見た。
はじめて、日が沈んでから、だれかの顔を、見た。
十一
その晩、灯りを配る者は、その家に、とどまった。
つとめを、いっとき、忘れたのではない。灯りを配る者は、知っていた。灯りを配るということは、灯りをともす手を教えることだけではない。灯りがもたらす、あの、翳りの深さをも、ともに引き受けることなのだと。灯りは、団欒を生む。けれど、灯りは、孤独をも、照らし出す。その両方を、配る者は、配って歩くのだと。
だから、その晩、灯りを配る者は、ひとりの者のとなりに、すわった。ふたつの影を、壁にならべた。そして、ふたりは、ひとつの灯りを囲んで、朝まで、しずかに、話した。何を話したかは、伝わっていない。ただ、朝が来て、灯りを配る者が、その家を出るとき、老いた者の顔から、すすり泣きの翳りは、消えていた。
「これから、わたしは」老いた者は言った。「戸を、あけておきます。この灯りを、外からも、見えるように」
「なぜ」
「わたしのように、ひとりの者が、闇のなかを、通るかもしれない。そのとき、わたしの窓の灯りを見て、ああ、あそこに、灯りがある、と思ってくれるように。よかったら、寄っておいで、と。この光を、分けよう、と」
灯りを配る者は、ほほえんだ。
「それが」その者は言った。「灯りの、いちばん大きなつとめだ」
窓の灯り、というものが、こうして、この国に生まれた。
それからのち、灯りを配る者は、その道すがら、ふしぎな光景を、いくども目にするようになった。
夜の野を、ひとり、あるいてゆく者があると、その者は、もう、まっすぐ闇のなかへ消えてはいかなかった。遠くの丘に、遠くの谷あいに、ぽつりと、橙の窓明かりが見えると、その者は、足をとめ、しばし、その灯りを、見つめた。そして、その灯りにむかって、あるいていった。灯りは、道であった。灯りは、しるべであった。ひとりで闇をゆく者にとって、遠くの窓明かりは、ここにも、だれかがいる、という、しずかな、たしかな、たよりであった。
灯りを配る者は、それを見て、思った。
――灯りは、たがいの顔を照らすだけではない。灯りは、遠くの、まだ見ぬだれかにも、とどく。あの、ひとりで闇をゆく者は、窓明かりの家の者の顔を、知らぬ。名も、知らぬ。けれど、その灯りが、あそこにともっている、というだけで、その者は、ひとりではなくなる。
灯りは、近くの者を、円のなかに集める。そして、灯りは、遠くの者にも、闇のむこうから、手をさしのべる。ここにいるよ、と。あなたも、おいで、と。あるいは、ただ、ここに、灯りがあるよ、と。それだけで、闇をゆく者の足は、軽くなった。
灯りを配る者は、そういう夜を、いくつも、見送った。遠くの窓明かりにむかって、ひとりの者が、あるいてゆく。その、ちいさな後ろすがたを、闇のなかから、見送った。そして、見送るたびに、その者の胸のうちには、名づけようのない、あたたかさと、さびしさとが、ないまぜになって、こみあげた。あたたかさは、灯りが、だれかのしるべになっていることへの。さびしさは、そのしるべにむかってゆく者のなかに、自分だけは、けっして、加われないことへの。
灯りを配る者には、あるいてゆく先の、窓明かりが、なかった。
十二
やがて、灯りを配る者の袋のなかの、青いマッチの箱は、日ごとに、減っていった。
一軒、また一軒。灯りを知る家が、増えていった。夜の野を、遠くから見わたせば、そこかしこに、橙のにじみが、ぽつり、ぽつりと、浮かぶようになった。それは、地上に生まれた、小さな星々のようであった。
灯りを配る者は、その野を、あるいた。あるきながら、空を見あげた。空には、あの、青い星が、あいかわらず、青白く、つめたく、燃えていた。地上の、あたたかな橙の星々と、空の、つめたい青の星と。ふたつの灯りが、宵闇のなかで、たがいを見つめていた。
――お前は、ひとりだな。
灯りを配る者は、空の青い星に、心のなかで言った。
――お前は、空に、たったひとつで、燃えている。となりに、ならぶ影もなく。囲む顔もなく。
青い星は、答えなかった。ただ、つめたく、しずかに、燃えていた。
――けれど、と、灯りを配る者は思った。――お前がいたから、私は、火のともし方を、知っていたのかもしれない。いちばん最初に、空にともった、お前という火を見て、地上の者も、火というものが、この世にありうるのだと、心のどこかで、知っていたのかもしれない。
灯りを配る者は、袋のなかから、最後の一箱を、取り出した。
青い箱であった。腹には、消えかけた金の字で、月光堂、と、刷ってあった。
十三
最後の家は、いちばん遠い、いちばん高い、丘のうえにあった。
そこには、幼い子と、その母がいた。母は、病んでいた。もう、長くはなかった。子は、まだ、灯りを知らなかった。この丘のうえまで、灯りは、まだ、届いていなかった。
灯りを配る者は、戸を叩いた。
「どなた」
子の声であった。母の声は、もう、戸口まで届くほどの力を、もっていなかった。
「灯りを配る者だ」
子は、戸をあけた。闇のなかで、灯りを配る者と、子とは、たがいの顔を、見なかった。
「灯りとは、なんですか」灯りを知らぬ子は、問うた。
灯りを配る者は、なかへ入った。奥の寝床に、母が、横たわっていた。灯りを配る者は、部屋の中央に、油を張った皿を置いた。芯をかけた。そして、袋から、最後の青い箱を取り出し、最後のマッチを、擦った。
しゅっ、と、音がした。
橙の焔が、芯にうつり、しずかに、たちのぼった。
丘のうえの家に、はじめて、灯りがともった。
十四
子は、悲鳴をあげた。あの、はじめて灯りを見た者が、みなあげる、たましいの声であった。子は、光のなかで、はじめて、母の顔を見た。日が沈んでから、母の顔を見るのは、その子にとって、はじめてであった。
「かあさん」子は言った。「かあさんの、顔」
母は、光のなかで、ほほえんだ。やせて、青ざめた顔であった。けれど、まぎれもなく、母の顔であった。子は、その顔を、光のなかで、見つめた。見つめて、そして、その顔を、目に、焼きつけた。
灯りを配る者は、知っていた。この母は、じきに、逝く。そのとき、この家に、また、闇のような、ひとつの空席が生まれる。灯りは、その空席を、あかるく、照らし出すだろう。この子は、灯りのそばで、母のいない空席を見て、泣くだろう。
けれど、と、灯りを配る者は思った。
この子は、母の顔を、見た。灯りがなければ、この夜、母の顔は、闇に消えていた。声だけが、残った。けれど、灯りがあったから、この子は、母の顔を、いま、この目で、見た。そして、この顔を、この子は、生涯、忘れないだろう。
母のいない、これからの、いくつもの夜。子は、灯りをともすたびに、その光のなかに、母の顔を、思い出すだろう。空席は、さびしいだろう。けれど、その空席のうえに、灯りは、いつも、母の顔を、照らし出すだろう。
灯りは、失われたものを、照らし出す。それは、つらいことだ。
けれど、灯りは、失われたものを、忘れさせないでいてくれる。
それは、あるいは、灯りの、いちばん、やさしいところであった。
十五
その晩、灯りを配る者は、丘のうえの家に、とどまった。
母のかたわらに、子がいた。子のかたわらに、灯りを配る者がいた。三つの影が、壁にならんだ。ひとつの灯りが、三つの顔を、ひとつの円のなかに、集めていた。
母は、しずかに、子守唄を、うたった。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
かすれた、けれど、やさしい声であった。子は、母のうたにあわせて、まぶたを、とじていった。灯りを配る者は、その、ちいさな、あたたかな円のなかに、じっと、すわっていた。
うたが終わるころ、母は、灯りを配る者のほうを、見た。
「あなたは」母は、かすかな声で言った。「ずっと、ひとりで、めぐってきたのですね。この、暗い国を。だれの団欒にも、加わらず。灯りのそとの、闇に立って」
灯りを配る者は、答えなかった。
「あなたこそ」母は言った。「いちばん、灯りを、必要としているひとだったのかもしれません」
灯りを配る者は、焔を見つめた。ゆれる橙の焔を。
「私は」その者は、ようやく、言った。「灯りを、配る者だ。配る者は、みずからの灯りを、もたない。それが、つとめだ」
「いいえ」母は、ほほえんだ。「今夜は、ちがいます。今夜は、あなたも、この灯りの、なかにいます。この光は、あなたの顔も、照らしています。ごらんなさい。壁に、あなたの影も、ならんでいます」
灯りを配る者は、壁を見た。
たしかに、そこに、その者の影が、あった。母の影と、子の影と、ならんで。
はじめて、その者の影が、だれかの影と、ならんでいた。
十六
夜が明けるまえに、母は、逝った。
灯りは、まだ、ともっていた。橙の焔は、油を吸って、しずかに、ゆれていた。焔は、逝った母の顔を、照らしていた。安らかな、顔であった。そのかたわらで、子は、眠っていた。灯りを配る者は、母の顔を、長いこと、見つめていた。
やがて、子が、目を覚ました。
子は、母の顔を、見た。灯りの光のなかで。そして、母が、もう、いないことを、知った。
子は、泣いた。灯りのそばで、泣いた。母のいない、空席のうえの光を見て、泣いた。
灯りを配る者は、子のかたわらに、すわっていた。子が泣きやむまで、ずっと、すわっていた。
「灯りを」やがて、子は、涙のあとの声で、言った。「消したほうが、いいのでしょうか。母さんが、いないのに、この光は、母さんのいない場所を、照らしてばかりで」
灯りを配る者は、首を、ふった。
「消してはいけない」
「なぜ」
「この光が、あるかぎり」灯りを配る者は言った。「お前は、母さんの顔を、思い出せる。灯りを消せば、闇が、母さんの顔を、消してしまう。灯りは、つらい。母さんのいない場所を、照らすから。けれど、灯りは、母さんの顔を、忘れさせない。お前が、灯りをともすたびに、この光のなかに、母さんの顔は、よみがえる」
子は、灯りを、見つめた。ゆれる、橙の焔を。
「それに」灯りを配る者は、つづけた。「この灯りを、窓のそとから、見える場所に置きなさい。夜、この丘を、通る者があれば、その者は、お前の窓の灯りを、見るだろう。ああ、あそこに、灯りがある、と。ひとりではない、と。お前の灯りは、闇をゆく、だれかの、しるべになる。母さんの残した、この光が」
子は、うなずいた。そして、灯りを、窓のそばへ、うつした。
橙の光が、丘のうえの窓から、闇の野へ、こぼれた。
十七
灯りを配る者は、丘を、おりていった。
袋は、もう、からであった。青いマッチの箱は、ひとつも、残っていなかった。この国の、すべての家に、灯りが、ともった。もう、灯りを知らぬ家は、ひとつも、なかった。
つとめは、終わった。
灯りを配る者は、夜の野に、立った。空を、見あげた。空には、あの、青い星が、青白く、燃えていた。地上には、そこかしこに、橙の窓明かりが、ぽつり、ぽつりと、ともっていた。地上の、たくさんの、あたたかな星々。空の、たったひとつの、つめたい青の星。
灯りを配る者は、はじめて、自分に、行くべき家が、ないことに、気がついた。
すべての家に、灯りを配った。けれど、その者自身の家は、どこにも、なかった。その者は、灯りを配る者であった。灯りのそとの、闇に立って、あたたかな円を、見送るのが、そのつとめであった。いまや、つとめは終わり、その者は、闇の野に、たったひとり、立っていた。
――お前と、私は、似ている。
灯りを配る者は、空の青い星に、言った。
――お前も、ひとり。私も、ひとり。灯りを、もたらしながら、みずからは、灯りの、そとにいる。
そのとき、丘のうえから、幼い、けれど、たしかな声が、闇の野を、わたってきた。
「おじさん」
灯りを配る者は、ふりかえった。丘のうえの窓に、橙の灯りが、ともっていた。その窓のそばに、あの子が、立っていた。
「おじさんも、こっちへおいでよ。あかるいよ。あったかいよ。母さんの、灯りだよ」
十八
灯りを配る者は、しばらく、動かなかった。
そのことばを、その者は、以前にも、聞いたことがあった。灯りをともしたばかりの家の、幼い子が、戸口の闇にむかって、言ったことば。おじさんも、こっちへおいでよ。あかるいよ。あったかいよ。
あのとき、その者は、答えた。私は、行かねばならぬところが、まだ、たくさんある、と。まだ、灯りを知らぬ家が、たくさんある、と。
けれど、いまは、もう、どこにも、灯りを知らぬ家は、なかった。
灯りを配る者は、袋を、地に、おろした。からになった、古い布の袋を。そして、丘のうえの、橙の灯りにむかって、あるきだした。
一歩、また一歩。
灯りを配る者の足もとに、影が、生まれた。丘のうえの、窓の灯りが、その者を、照らしていた。はじめて、その者自身の影が、地に、のびていた。灯りのそとの、闇に立つ者ではなく、灯りに照らされる者として。
その者は、あるいた。橙の光にむかって。
うしろで、空の青い星が、青白く、燃えていた。あいかわらず、たったひとりで。けれど、灯りを配る者は、もう、ふりかえらなかった。空の星は、空の星のつとめを。地の灯りは、地の灯りのしあわせを。
丘をのぼりきると、窓のそばに、あの子が、立っていた。子は、灯りを配る者の顔を、はじめて、光のなかで、見た。
「おじさんの、顔」子は言った。「はじめて、見た」
灯りを配る者は、ほほえんだ。そのほほえみを、いま、子は、見ることが、できた。
「私も」その者は言った。「お前の顔を、はじめて、光のなかで、見た」
十九
家のなかに、灯りが、ともっていた。
母のいない、その家に。けれど、その光のなかに、いま、ふたつの影が、あった。子の影と、灯りを配る者の影と。壁に、ならんで。
「ここに、いてもいいか」灯りを配る者は、問うた。
子は、うなずいた。
「灯りを配る者は」その者は言った。「灯りを、配りおえた。もう、配るものは、なにも、ない。だから、これからは、灯りを、まもる者に、なろう。この、母さんの残した灯りを。消えぬように。窓のそとから、いつも、だれかに、見えるように」
子は、ふたたび、うなずいた。
その夜から、丘のうえの窓には、いつも、灯りが、ともっていた。
夜の野を、通る者があれば、その者は、丘のうえの、橙の窓明かりを、見た。ああ、あそこに、灯りがある、と。ひとりでは、ない、と。その灯りを、しるべに、闇の野を、あるいていった。
そして、その者たちの、それぞれの家にも、灯りは、ともっていた。夜の野は、もう、すっかりの闇では、なかった。そこかしこに、橙の窓明かりが、ともっていた。あたたかな、地上の星々が。
二十
いまも、その国の子どもらは、こんなふうに、聞かされるという。
むかし、この国は、夜になれば、すっかりの闇であった、と。人々は、たがいの顔を、見なかった。灯りというものを、だれも、知らなかった。
そこへ、ひとりの者が、あらわれた。青いマッチの箱を、袋いっぱいに、さげて。その者は、一軒また一軒、家々をめぐり、灯りのともし方を、教えて、あるいた。
灯りは、団欒を、もたらした。人々は、ひとつの光を囲んで、寄りあった。夜のなかで、たがいの顔を、見た。夜は、あたたかく、なった。
けれど、灯りは、翳りも、もたらした。ひとつの光は、その光のそばの、だれもいない空席をも、照らし出した。灯りは、失われたものを、照らした。それは、つらいことであった。
けれど、灯りは、失われたものを、忘れさせない。そして、灯りは、闇をゆく、だれかのしるべに、なる。ひとつの窓の灯りが、ひとりの者の、さびしさを、なぐさめる。
だから、いまも、その国の人々は、夜、灯りを消さない。窓のそとから、見えるように、灯りを、ともしておく。それは、団欒のためであり、また、闇をゆく、だれかのための、しるべである。
そして、空を見あげれば、いまも、宵闇の底から、あの青い星が、地上の灯りと競うように、昇ってくるという。いちばん最初に、空にともった、あの灯りが。地上に、まだ、ひとつの灯りもなかったころから、たったひとりで、燃えつづけてきた、あの、つめたく、青白い、火が。
灯りを配った者は、いまも、あの丘のうえに、いるという。母の残した灯りを、まもりながら。夜ごと、窓の灯りを、ともしながら。もう、闇のそとに立つ者ではなく、灯りのなかにいる者として。
はじめに、闇があった。けれど、その闇のなかを、青いマッチの箱をさげて、ひとりの者が、あるいた。そして、いま、この国の夜は、いくつもの灯りに、みたされている。ひとつの灯りが、団欒を生み、ひとつの灯りが、孤独を照らし、そして、ひとつの灯りが、闇をゆく、だれかの、しるべとなる。
夜が来るたび、灯りをともしなさい。そして、その灯りを、消さずにおきなさい。あなたのためにも、まだ、闇のなかをあるいている、だれかのためにも。