戸を叩く音
一
戸を叩く音は、たいてい火の音より遅れてやってくる。
その宵、宗七は囲炉裏の炭を掻いていた。橙の火が灰のなかで小さく息をして、天井の梁を飴色に染めていた。掻き棒の先に炭の欠片がこぼれ、そのたびに火の粉がひとつ、ふたつと立ちのぼっては、暗い天井裏へ吸われて消えた。外はもう墨を流したような闇で、山あいの村には灯りがぽつり、ぽつりと点いている。窓の障子を透かして見れば、麓の家々の明かりが谷の底に沈んで、まるで暗い水のなかに沈んだ提灯のようだった。
宗七は独りだった。妻を亡くして七年、子は町へ出たきり便りも絶えて久しい。宵という刻は、独り者にはことのほか長い。日が暮れて、家に灯をともし、飯を炊いて、それを独りで食う。誰と交わす言葉もなく、ただ火の爆ぜる音だけが相手だった。汁椀を置く音、箸を置く音、そういう小さな音が、がらんとした家のなかにやけに大きく響く。それがかえって、独りであることを思い知らせた。
だからこそ、宗七は灯りを大切にした。行灯の油を切らさぬよう、炭を絶やさぬよう。灯りがあれば、この一軒家も少しはあたたかく見えた。灯りは、団欒の名残のようなものだった。かつては妻がいて、子がいて、この囲炉裏を囲んでいた。妻が飯をよそい、子がそれを頬ばり、宗七はそれを眺めていた。火のはぜる音のあいだに、笑い声があった。その火の記憶が、今も橙の色のなかに揺れている気がした。灯りを見つめていると、宗七はときおり、失われた声が聞こえるような気がした。けれど耳を澄ませば、そこにあるのは火の音だけだった。
その夜、宗七は青いマッチ箱を手にしていた。町の月光堂で買い求めたものだ。藍を溶かしたような深い青の箱に、金の細字で「月光堂」とある。市の日に、峠を越えて町へ下り、油と塩と、それからこのマッチを買った。他の店にも安いマッチはあったが、宗七はどうしてもこの青い箱でなければならなかった。擦れば橙の火が生まれ、その火が油に移り、行灯に飴色の灯がともる。宗七はこのマッチが好きだった。青い箱から橙の炎が生まれる、その一瞬の色の移ろいが、なぜか胸に沁みた。青は冷たく、宵闇の色に似ていて、橙はあたたかく、団欒の色に似ていた。冷たいものから、あたたかいものが生まれる。それが宗七には、なにかの喩えのように思われた。
火が育ち、灯りが部屋を満たしたとき、戸を叩く音がした。
こんこん、と。二度。
宗七は手をとめた。空耳かと思った。この刻に、この山家を訪れる者などいようはずがない。麓の村からでも一里はある。道は細く、闇は深い。よほどの用でなければ、人は夜の山道を登らない。まして、この宵に。
こんこん、とまた音がした。今度ははっきりと。控えめだが、たしかに人の手の音だった。木の戸を、遠慮がちに叩く音。
「どなたかね」
宗七は問うた。声はしわがれて、宵の静けさに吸われていった。返事はしばらくなかった。宗七は掻き棒を置いて、じっと戸のほうを見た。行灯の灯りが、戸口の木目を飴色に照らしている。その向こうに、闇があった。
「――夜分に、申し訳ありません」
戸の向こうから、細い声が返ってきた。若い女の声のようでもあり、老いた者の声のようでもあった。どこか遠くから届くような、輪郭のさだかでない声だった。風のなかで聞く声のように、実体の乏しい声だった。
「道に迷いまして。灯りが、見えたものですから」
宗七は腰を上げた。膝が軋んだ。行灯の灯を手に取り、土間へ下りて、心張り棒を外す。冷えた土間の土が、足の裏に沁みた。戸を引くと、宵闇がどっと流れ込んできた。冷えた夜気が、灯りの温もりを一瞬さらっていく。行灯の炎が大きく揺れて、あやうく消えかけた。
戸口に、ひとりの女が立っていた。
二
年のころは、宗七にはわからなかった。若いようにも、ずいぶん年を経ているようにも見えた。灰色の被布をまとい、その裾は夜露に濡れていた。裾の先から、しずくが一滴、土間の敷居に落ちた。顔は行灯の灯を受けて、ほのかに橙に染まっている。けれど、その目だけは灯りを吸わず、宵闇そのものの色をしていた。灯りを向けても、その目のなかには光が映らなかった。まるで、ふたつの小さな穴のように、そこだけが夜だった。
「お困りかね」
「ええ。峠を越えるつもりが、日が暮れてしまって。あかりの見えるほうへ、ほうへと歩いてまいりました」
女はそう言って、麓のほうを振り返った。谷の底に、家々の灯りが沈んでいる。橙の灯りが、闇のなかに点々と。
「ずいぶんと、灯りの多い村ですこと」
「日が暮れれば、どの家も灯をともす。宵はそういう刻だ」
「――ええ。そういう刻ですね」
女の声には、なにか懐かしむような響きがあった。宗七はふと、この人はどこか遠くから来たのだろうと思った。灯りを、めずらしがるように見ている。まるで、久しく灯りというものを見ていなかった者のように。
「よければ、火にあたっていかれるといい。峠はこの闇では越えられん。夜が明けてからのほうがよかろう」
「よろしいのですか」
「独り者の家だ。かまわん」
女は深く頭を下げて、敷居をまたいだ。その足取りは音もなく、まるで灯りに引き寄せられる影のようだった。被布の裾が揺れても、衣ずれの音ひとつしなかった。
宗七は女を囲炉裏端へ通した。炭を足し、鉄瓶をかける。橙の火がまた大きくなって、女の顔を照らした。灯りのなかで見ると、女はやはり不思議な顔をしていた。美しいとも醜いともつかず、若いとも老いたともつかない。ただ、目だけが深く、宵闇を写したように昏かった。頬の輪郭は、灯りが揺れるたびに、ゆらゆらと形を変えるようにも見えた。
「あたたかいこと」
女は火に手をかざした。その手には、片方だけ手袋をはめていた。右手には毛糸の手袋、左手は素手だった。素手のほうは、青白く、血の気がなかった。まるで、長いこと冷たいところにいた者の手のようだった。
「片方だけかね、その手袋は」
宗七が問うと、女はおのれの手を見つめて、寂しそうに微笑んだ。
「ええ。もう片方は、どこかで落としてまいりました。ずっと昔に」
「片方だけでは、あたたかくもなかろう」
「ええ。でも、捨てられないのです。片方だけでも、あったことの証ですから」
宗七はその言葉の意味をはかりかねた。けれど、深くは問わなかった。宵の客に、あまり多くを問うのは無粋だと思った。
鉄瓶が鳴りはじめた。宗七は茶を淹れた。粗末な茶だったが、女は両の手で椀を包むようにして、ゆっくりと飲んだ。手袋をはめた右手も、素手の左手も、その椀の温もりを惜しむように包んでいた。その様子は、まるで長いあいだ、あたたかいものに触れていなかった者のようだった。
「うまいかね」
「ええ。とても」
「粗茶だがね」
「あたたかいものは、みな、ごちそうです」
火が爆ぜた。橙の火の粉が、ふわりと立ちのぼって、消えた。宗七はその火の粉のゆくえを、しばらく目で追っていた。
二の二
宗七は、有り合わせのものを女にすすめた。炊いた粟飯と、漬けた菜と、それだけの粗末なものだった。けれど女は、それを押しいただくようにして食べた。ひとくち、ひとくち、味わうように。宗七は独り、それを見ていた。誰かが自分の炊いたものを食べる。そのさまを見るのは、七年ぶりのことだった。妻が死んでからというもの、宗七は誰にも飯を出したことがなかった。
「独りで、暮らしておいでですか」
女が問うた。
「ああ。妻を亡くして、七年になる。子は町へ出た。もう、便りもない」
「寂しいこと」
「なに、慣れた」
宗七は、囲炉裏の灰を、掻き棒でならした。灰のなかから、また橙の熾火がのぞいた。
「妻がいたころは、この囲炉裏も、にぎやかだった。妻が飯を炊き、子が薪をくべ、わしは山の話をした。その頃は、宵が短かった。灯りをともせば、すぐに眠くなり、子守唄を歌えば、子は寝入り、妻とふたり、火のそばで、とりとめのない話をした。宵など、あっという間だった。だが、独りになってからは――」
宗七は、言葉を切った。火が、ぱちりと爆ぜた。
「独りになってからは、宵が、途方もなく長い。日が暮れて、飯を炊いて、それを食う。あとは、ただ、火を見ておるだけだ。話す相手もない。灯りをともしても、その灯りが、かえって独りを際立たせる。灯りがあかるいほど、独りが暗く見える。おかしなものだな」
女は、静かにうなずいた。その宵闇の目が、火のほうを向いた。
「灯りは、独りには、酷なものです。あかるさは、そこに人がいないことを、照らしてしまいますから。けれど――」
女は、宗七を見た。
「けれど、それでも、灯りをともすのですね。あなたは」
「ああ。ともす。妻の言いつけだからな。それに――」
宗七は、火を見つめた。
「それに、灯りを消せば、なにもかも、終わってしまう気がするのだ。灯りがあるかぎり、まだ、なにかが、続いておるような。そんな気がしてな」
女は、なにも言わなかった。ただ、その言葉を、深く受けとめるように、目を閉じた。灯りが、女の伏せた睫毛を、橙に照らした。
宗七はそう言ったが、それが嘘であることは、自分でもわかっていた。慣れるということはなかった。宵になるたびに、独りであることが、あらたに胸に迫った。灯りをともすたびに、その灯りの向こうに誰もいないことを、あらたに思い知った。慣れるどころか、年を経るごとに、寂しさは深くなるようだった。
「あなたは、灯りを絶やさぬのですね」
女は、行灯のほうを見て言った。飴色の灯りが、静かにゆらめいていた。
「妻が、そう言っておった。灯りを絶やせば、闇が入ってくる、とな。宵の灯りは、絶やしてはならん、と」
「よい教えです」
女は微笑んだ。
「灯りは、闇を隔てるもの。灯りは、人を招くもの。そして、灯りは――失われたものを、憶えているものです」
宗七は、その言葉を聞きとがめた。憶えているもの、という言葉が、なぜか胸に引っかかった。けれど、女はそれ以上、なにも言わなかった。ただ、火を見つめていた。その宵闇の目のなかに、橙の火が、映らずに揺れていた。
三
夜が更けていった。
宗七と女は、囲炉裏を挟んで、とりとめのない話をした。峠の向こうの町のこと、昔この村にあった祭りのこと、雪の深い冬のこと。女はよく聞き、ときおり相槌を打った。その声は静かで、火のように穏やかだった。
不思議なことに、宗七は女と話していると、胸のなかの凝りがほどけていくようだった。七年、誰とも交わさなかった言葉が、するすると口をついて出た。妻のこと、子のこと、独りで過ごす宵の長さのこと。話すつもりのなかったことまで、灯りに引き出されるように語っていた。
宗七は、妻のことを語った。妻は雪の朝に死んだこと。最後まで、宗七の手を握っていたこと。灯りを絶やさぬように、と言い遺したこと。宗七は、子のことも語った。子が幼かったころ、この囲炉裏端で子守唄を聞かせたこと。子が大きくなり、町へ出ていったこと。はじめは便りもあったが、やがて絶えたこと。宗七は、それを恨んではいなかった。ただ、寂しかった。
「あなたは、寂しいのですね」
女がふと言った。責めるでも憐れむでもなく、ただ火のあたたかさを確かめるような、静かな声だった。
「寂しい、か」
宗七は火を見つめた。橙の炎が、灰のなかで揺れている。
「そうかもしれん。宵になると、ことに寂しい。日が暮れて、灯をともす。灯りがあれば、あたたかく見える。だが、それはただの見せかけだ。灯りの向こうに、人がいなければな」
「灯りは、人を招くものです」
女は言った。
「灯りをともせば、闇のなかから、人がやってくる。あなたの灯りが、わたしを招いたように」
宗七は女を見た。灯りに照らされた女の顔は、やはり若いとも老いたともつかなかった。けれど、その目のなかに、宗七はふと、見覚えのあるようなものを感じた。どこかで、この目を見たことがある。そんな気がした。けれど、それがどこであったか、思い出せなかった。
「あんたは、いったい――」
問いかけて、宗七は口をつぐんだ。問うてはならぬ気がした。この宵の、この灯りのもとでは、問うてはならぬことがある。そう思った。問えば、この宵の穏やかさが、崩れてしまう気がした。
女は答えなかった。ただ、火に手をかざしたまま、遠くを見るような目をしていた。片方だけの手袋をはめた右手が、火の橙を受けて、あたたかそうに見えた。
「子守唄を、ご存じですか」
女がふいに言った。
「子守唄」
「ええ。この村に、伝わる子守唄です」
宗七はうなずいた。
「知っておる。妻がよく歌っていた。子を寝かしつけるときにな」
「歌っていただけますか」
宗七は面食らった。もう何年も、歌など歌っていなかった。声も出るまい。けれど、女のまなざしがあまりに切なげで、宗七はためらいながらも、口を開いた。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、
灯りが夜を守るまで。
かすれた声だった。節も怪しかった。けれど、歌っているうちに、宗七の胸に古いものがよみがえってきた。妻の声、子の寝顔、囲炉裏の火、行灯の飴色の灯り。あの頃、この家には団欒があった。灯りは、ただの見せかけではなかった。灯りの向こうに、たしかに人がいた。妻は子を膝に抱き、この唄を歌った。宗七はそれを、囲炉裏の向こうから眺めていた。橙の火が、三人の顔を照らしていた。あれは、この世でいちばんあたたかい光景だった。
歌い終えると、女は目を閉じていた。頬に、灯りが橙に映えて、そこに一筋、光るものがあった。
「懐かしい」
女は言った。
「その唄を、わたしも、昔、聞きました」
「どこで」
「――遠い、遠いところで。灯りのともる、あたたかい家で」
女はそう言って、また目を開けた。その宵闇の目に、火の橙が、はじめて、かすかに映った気がした。
「唄というのは、ふしぎなものですね」
女は、火に手をかざしながら言った。
「言葉は忘れても、節は忘れぬ。景色は消えても、唄は残る。わたしは、多くを忘れました。いろいろなことを。けれど、その唄だけは、覚えていました。星が海をわたるまで、灯りが夜を守るまで――そう歌う、その節だけは」
「妻も、そう言っておった」
宗七は言った。
「唄は、いちばん深いところに、残るものだ、と。だから、子には、よい唄を聞かせねばならん、と。妻は、それを、母親から受け継いだ。母親は、そのまた母親から。そうやって、唄は、灯りのように、代々、受け継がれてきた。消えぬように、絶えぬように」
「灯りのように」
女は、その言葉を、くり返した。
「ええ。まことに、灯りのように。唄も、灯りも、受け継ぐもの。絶やしてはならぬもの。ひとつの灯りから、次の灯りへ。ひとつの声から、次の声へ。そうやって、あたたかいものは、闇のなかを、渡ってゆくのですね。星が、海をわたるように」
火が、静かに燃えていた。宗七は、その火のなかに、いくつもの宵を見た。妻が唄った宵。妻の母が唄った宵。そのまた母が唄った宵。橙の火のなかに、いくつもの、失われた宵が、重なって見えた。
四
夜半を過ぎたころ、女はぽつり、ぽつりと、自分のことを語りはじめた。
「わたしは、ずっと歩いてまいりました。灯りから灯りへ。あかりの見えるほうへ、ほうへと」
火が静かに燃えていた。炭がひとつ、崩れて、橙の光をこぼした。
「昔、わたしにも、家がありました。灯りがあり、人がありました。宵になれば灯をともし、囲炉裏を囲んで、笑いあいました。子守唄を歌い、子を寝かしつけました。それはあたたかい、あたたかい宵でした。窓には橙の灯りがともり、外から見れば、しあわせそのもののような家でした」
「その家は、どうなった」
「ある冬に、火が消えました」
女は言った。声は静かだったが、その静けさのなかに、深い悲しみがあった。
「灯りが消えて、人がいなくなりました。わたしひとりが、残されました。それからずっと、わたしは灯りを探して歩いています。あたたかい灯りを。人のいる灯りを。宵になると、家々に灯りがともります。わたしはその灯りを、外から眺めて歩きます。けれど、その灯りは、わたしのものではありません。わたしには、もう、帰る灯りがないのです」
宗七は、女の右手の手袋を見た。片方だけの、毛糸の手袋。
「その手袋も、その頃のものかね」
「ええ。子が、編んでくれたものです。まだ幼い手で、不格好に。片方を編んだところで――」
女は言葉を切った。そして、寂しそうに微笑んだ。
「片方を編んだところで、もう、続きは編めなくなりました。だから、片方だけ。でも、これがあれば、あの子があったことを、忘れずにいられます。あの子の、小さな手のぬくもりを」
宗七の胸に、痛みが走った。この女の悲しみが、まるで自分のもののように感じられた。宗七もまた、失った者を数えて生きてきた。妻を、子を。この家に残された灯りは、失われたもののかたちを、今も夜ごとに照らしている。
宗七は、囲炉裏端の暗がりに目をやった。かつて、そこには妻が座っていた。飯をよそい、子をあやし、この唄を歌った。今は、ただの暗がりだった。灯りの届かぬ、囲炉裏端の隅。宗七は、その暗がりに、幾度、妻の面影を求めたことか。灯りをともし、その灯りの向こうの暗がりに、いるはずのない人を、探したことか。
「わしも、片方だけの手袋のようなものを、持っておる」
宗七は言った。
「妻が縫った、綿入れがある。もう、着る者もないのに、捨てられん。子が使った、木の椀がある。もう、使う者もないのに、しまってある。片方だけの、証だ。あった、ということの。失われた、ということの。あんたの手袋と、同じだ」
女は、うなずいた。
「そういうものを、人は、捨てられぬのですね。役には立たぬ。むしろ、見るたびに、胸が痛む。それでも、捨てられぬ。なぜなら、それが、失われたものと、この世をつなぐ、ただひとつの糸だからです。その糸を断てば、失われたものは、ほんとうに、消えてしまう。だから、人は、片方だけの手袋を、握りしめるのです」
火が、ぱちりと爆ぜた。橙の光が、ふたりの手もとを照らした。女の手袋と、宗七の節くれだった手を。
「あんたと、わしは、似ておるな」
宗七は言った。
「二人とも、失った者を数えて生きておる。灯りをともして、その向こうにいたはずの人を、探しておる」
女はうなずいた。灯りのなかで、その顔が、少し安らいだように見えた。
「ですから、あなたの灯りが、わたしを招いたのでしょう。同じ寂しさを持つ者は、灯りを通じて、互いを見つけるのです。闇のなかに、灯りがひとつともれば、寂しい者どうしが、そこに寄ってまいります」
火が爆ぜた。橙の火の粉が舞った。鉄瓶が、ことこと鳴っていた。宗七はその音を、久しく忘れていた音のように聞いた。誰かがそばにいる宵の、鉄瓶の鳴る音。
宗七は、もう一度、青いマッチ箱を手に取った。行灯の油が尽きかけて、灯りが弱っていた。芯の先で、炎が心細く揺れていた。マッチを一本擦る。しゅっ、という音とともに、青い箱から、橙の炎が生まれた。その一瞬の色の移ろいを、女はじっと見つめていた。宗七は、その炎を、行灯の芯に移す。新しい油を注ぐ。灯りが、また飴色にふくらんだ。部屋のなかが、あかるくなった。
「あなたは、灯りを絶やさぬのですね」
女が、また言った。
「宵の灯りは、絶やしてはならん。妻がそう言っておった。灯りを絶やせば、闇が入ってくる、とな」
「そのとおりです」
女は微笑んだ。
「灯りは、闇を隔てる。灯りは、人を招く。灯りは、失われたものを、憶えている。あなたの妻は、よいことを言い遺されました」
五
夜のいちばん深い刻、女はふと、宗七の名を呼んだ。
「宗七さん」
宗七は驚いた。名を教えた覚えはなかった。
「わしの名を、なぜ知っておる」
女は答えなかった。ただ、じっと宗七を見つめた。その宵闇の目のなかに、宗七はまた、見覚えのあるものを感じた。今度は、はっきりと。
それは、妻のまなざしに似ていた。いや、妻だけではない。母のまなざしにも、子のまなざしにも。宗七が失った、すべての者のまなざしに、どこか似ていた。灯りのなかで、その顔が、揺れるたびに、いろいろな顔に見えた。あるときは妻の顔に、あるときは母の顔に、あるときは幼かった子の顔に。
「あんたは――」
宗七の声が震えた。
「あんたは、いったい、何者だ」
女は静かに言った。
「わたしは、灯りが招く者です」
「灯り、が」
「ええ。宵になると、人は灯をともします。その灯りは、生きている者のためのもの。けれど、灯りは、もう一方の岸をも照らします。失われた者たちの岸を。灯りは、両の岸に橋を架けるのです。ほんのひととき、宵のあいだだけ。夜が明ければ、橋は消えます。けれど、宵のあいだは――灯りがともっているあいだは、わたしのような者が、その橋を渡ってまいります」
宗七は、女の言葉を、少しずつ呑みこんでいった。恐れは、不思議となかった。ただ、深いなつかしさが、胸に満ちた。この女は、この世のものではない。そうとわかっても、宗七は恐れなかった。むしろ、その正体を知って、胸が安らいだ。ずっと、こういう客を待っていたような気がした。
「では、あんたは――」
「わたしは、あなたが失った者たちの、名残です。あなたが灯りをともし、その向こうにいた人を思うとき、わたしはやってまいります。灯りが招くのです。あなたの寂しさが、わたしを呼ぶのです」
「では、あんたは、妻か。子か。母か」
女は首を横に振った。そして、優しく微笑んだ。
「わたしは、そのすべてであり、そのいずれでもありません。わたしは、あなたが灯りのなかに見る、失われたものの面影です。宵の灯りが、そういうものを、招くのです。あなたが灯りを見つめて、失った人を思う。その思いが、かたちを持ったもの。それが、わたしです」
宗七の目に、涙が滲んだ。灯りが、その涙を橙に染めた。頬を伝う涙が、火の色に光った。
「わしは、ずっと、寂しかった」
宗七は言った。
「宵になると、灯をともす。だが、その灯りの向こうに、誰もいない。ただ、火の音だけが相手だ。わしは、ずっと、誰かと言葉を交わしたかった。この灯りのもとで。ひとことでいい。誰かと、この宵を、分かちあいたかった」
「ですから、わたしがまいりました」
女は言った。
「ひと晩だけ。宵の灯りが、それを許すあいだだけ。あなたと言葉を交わすために。あなたの寂しさを、あたためるために。わたしもまた、あたたかい灯りが恋しかったのです。宵の灯りを、内から眺めることが。囲炉裏を囲んで、誰かと語らうことが。わたしたちは、互いに、同じものを求めていたのです」
囲炉裏の火が、ふたりの顔を照らしていた。橙に、あたたかく。窓の外には、宵闇が満ちていた。けれど、その闇も、もう寂しくはなかった。灯りがあり、その灯りの向こうに、たしかに人が――いや、人のかたちをした、失われたものの面影が、あった。
宗七は、ふと、問うた。
「あんたは、どれほどのあいだ、歩いてきたのだ。灯りから灯りへ、と言ったな。それは、いつからのことだ」
女は、しばらく黙っていた。それから、静かに答えた。
「わたしにも、わかりません。ずいぶんと、長いあいだ。宵が、いくつも、過ぎました。数えきれぬほど。わたしは、そのあいだ、たくさんの灯りを見ました。あかるい灯り、寂しい灯り、消えかけた灯り。団欒の灯りもあれば、独りの灯りもありました。けれど――」
女は、宗七を見た。
「けれど、あなたのように、わたしを招く灯りは、めったにありませんでした。たいていの灯りは、生きている者だけのもの。あたたかく、閉じています。そこに、失われたものの入る隙は、ありません。ところが、独りで、なお灯りを絶やさぬ者の灯り――それだけは、ちがうのです。その灯りには、隙がある。寂しさという、隙が。その隙から、わたしのような者が、入ってまいるのです」
「では、わしの寂しさが、あんたを招いたのか」
「ええ。あなたの寂しさが。そして、あなたの、灯りを絶やさぬ心が。そのふたつが、そろわねば、わたしは来られません。寂しいだけでは足りぬ。灯りを絶やさぬだけでも足りぬ。寂しく、なお、灯りを絶やさぬ者――その者のもとにだけ、わたしは、まいるのです」
宗七は、うなずいた。妻の言い遺した言葉が、また、胸によみがえった。灯りを絶やせば、闇が入ってくる。だが、灯りを絶やさねば――失われたものが、帰ってくる。妻は、それを知っていたのだろうか。だから、あんな言葉を、遺したのだろうか。
火が、あたたかく燃えていた。宗七は、もう、寂しくなかった。
六
夜明けが近づいていた。
障子の向こうが、わずかに白みはじめていた。宵の刻は、もう終わろうとしていた。囲炉裏の火も、いつしか、弱っていた。橙の色が、灰のなかで、細くなっていた。
女は立ち上がった。被布の裾が、音もなく揺れた。
「もう、まいります」
「――行くのか」
「ええ。宵が明ければ、わたしはこの岸にはいられません。灯りが招くのは、宵のあいだだけ。夜が明ければ、橋は消えます。わたしは、また、灯りを探して歩かねばなりません。あかりの見えるほうへ、ほうへと」
宗七は、女を引きとめたかった。行かないでくれ、と言いたかった。けれど、それがかなわぬことは、わかっていた。灯りが招いた客は、灯りとともに去っていく。それが宵の理だった。無理に引きとめれば、この宵の穏やかさも、崩れてしまう。宗七は、それを知っていた。
女は戸口へ向かった。宗七は行灯を手に、その後を追った。膝が軋んだ。灯りの炎が、宗七の歩みにつれて、揺れた。
戸を開けると、宵闇はもう薄れて、東の空がほのかに藍に染まっていた。冷えた朝の気が、家のなかへ流れ込んできた。
「宗七さん」
女は振り返った。
「灯りを、絶やさないでください。宵になれば、灯をともしてください。灯りがあれば、わたしは、また、まいれます。あなたの寂しさが、わたしを招くのです。灯りの向こうに、わたしはいます。いつも、います」
「――ああ」
宗七はうなずいた。声が詰まった。
「灯りを、絶やさぬ。宵になれば、灯をともす。あんたが、また、来られるように。いつでも、この戸を叩いてくれ。わしは、待っておる」
女は微笑んだ。それは、この宵で、いちばん美しい微笑みだった。灯りよりもあたたかい、失われたものたちの微笑みだった。宗七は、その微笑みを、生涯忘れないだろうと思った。
女は敷居をまたいだ。そして、宵闇の残る庭へ、静かに歩み出た。その足取りは、やはり音もなく、まるで灯りに送られる影のようだった。露に濡れた庭の草を踏んでも、草はしなわなかった。
女の姿が、庭の隅の闇に、溶けていった。まるで、はじめから、そこにいなかったかのように。
宗七は、しばらく戸口に立ちつくしていた。行灯の灯りが、宗七の足もとを橙に照らしていた。
ふと、足もとに、何かが落ちているのに気づいた。
拾い上げると、それは、片方だけの手袋だった。子どもが編んだような、不格好な毛糸の手袋。女が、右手にはめていた、あの手袋だった。宗七は、それを胸に抱いた。まだ、女の手のぬくもりが、かすかに残っているようだった。いや、それは、火のぬくもりだったのかもしれない。あるいは、宗七自身の、手のぬくもりだったのかもしれない。それでも、宗七は、そのぬくもりを、たしかに感じた。
七
宗七は、空を見上げた。
宵闇はもう薄れて、東の空が藍から白へと移ろっていた。けれど、まだ夜の名残の空に、ひとつ、蒼い星が昇っていた。
それは、家々の灯りと競うように、宵闇の底に光っていた。麓の村の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていくなか、その蒼い星だけが、消えずに輝いていた。橙の家々の灯りのなかで、その星だけが、青白い光を放っていた。地の灯りは橙、天の灯りは蒼。ふたつの灯りが、明けゆく空の下で、しばし競っていた。
ミラ彗星だ、と宗七は思った。
いつか、町の物知りが言っていた。宵の空に、家々の灯りと競うように昇る蒼い星。何十年に一度、めぐってくる星。その星が昇る宵には、この世とあの世の隔てが、ほんの少し薄くなるのだ、と。だから、その星が昇る宵には、ふしぎなことが起こる。ふだんは見えぬものが、見える。ふだんは会えぬ者に、会える。物知りは、そう言って笑った。宗七は、そのときは、ただの言い伝えだと思って、聞き流していた。
けれど、今なら、わかる。
宗七は、その蒼い星を、じっと見つめた。
女が言った言葉が、胸によみがえった。灯りは、両の岸に橋を架ける。ほんのひととき、宵のあいだだけ。失われた者たちの岸を、灯りは照らす。
あの蒼い星も、きっと、そういう星なのだろうと宗七は思った。宵の灯りと競うように昇り、両の岸を照らす星。生きている者と、失われた者と、その両方を見おろす星。あの女は、あの星が招いたのかもしれない。あるいは、宗七の灯りが、あの星に応えて、女を招いたのかもしれない。
星は、やがて、白みゆく空に溶けて、見えなくなった。地の灯りも、すべて消えた。谷の底に、朝の靄が、白く満ちた。
夜が明けた。
宗七は、片方だけの手袋を胸に抱いたまま、家のなかへ戻った。囲炉裏の火は、まだ消えずに、橙にわずかに燃えていた。行灯の灯りも、飴色に灯っていた。宗七は、その灯りを、消さなかった。日が昇っても、灯りを絶やさなかった。
八
それから、宗七の宵は、変わった。
日が暮れると、宗七は灯をともした。行灯に飴色の灯りをともし、囲炉裏に橙の火を焚いた。そして、片方だけの手袋を、囲炉裏端に置いた。まるで、そこに客がいるかのように。手袋の置かれた場所を、宗七はいつも空けておいた。誰かの席のように。
宗七は、独りではなくなった。いや、姿かたちで言えば、あいかわらず独りだった。訪れる者はなく、交わす言葉もなかった。けれど、宗七の宵には、もう、あの寂しさはなかった。灯りの向こうに、宗七は、いつも女を感じていた。失われたものたちの面影を。
宗七は、宵になると、子守唄を歌った。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、
灯りが夜を守るまで。
かすれた声で、宗七は歌った。歌いながら、灯りを見つめた。橙の火のなかに、飴色の灯りのなかに、宗七は、失ったものたちの顔を見た。妻の顔、子の顔、母の顔。そして、あの宵の女の顔を。歌うたびに、その顔が、灯りのなかで、ほのかに微笑むような気がした。
灯りは、招くものだった。灯りは、失われたものを、憶えているものだった。宗七は、妻の言い遺した言葉の意味を、ようやく、深く知った。灯りを絶やせば、闇が入ってくる。それは、ただ暗くなる、ということではなかった。灯りを絶やせば、失われたものたちが、帰る場所を失う、ということだった。灯りは、この世と、失われたものたちの岸とを、つなぐ橋だった。だから、絶やしてはならなかった。
宗七は、月光堂の青いマッチ箱を、いつも手もとに置いた。灯りが弱れば、マッチを擦った。青い箱から、橙の炎が生まれた。その炎を、行灯の芯に移した。灯りが、また飴色にふくらんだ。市の日には、峠を越えて町へ下り、油と、それからそのマッチを買い足した。宗七は、灯りを絶やさぬためなら、どんな労も惜しまなかった。
宗七は、灯りを絶やさなかった。
宵の灯りが、また、あの客を招くように。宗七の寂しさが、あの女を呼ぶように。灯りの向こうに、いつも、あの面影があるように。
何年か経った、ある宵のことだった。
宗七はもう、ずいぶんと老いていた。腰は曲がり、目もかすんできた。囲炉裏端で灯りを見つめながら、宗七はうとうとと舟を漕いでいた。膝には、片方だけの手袋があった。宗七は、いつしか、それをいつも膝に置くようになっていた。
こんこん、と戸を叩く音がした。二度。
宗七は目を覚ました。心が、静かに躍った。この音を、宗七は何年も待っていた。灯りを絶やさず、この音を待っていた。
「――どなたかね」
宗七は問うた。声はいっそうしわがれて、宵の静けさに吸われていった。
「夜分に、申し訳ありません」
戸の向こうから、細い声が返ってきた。あの声だった。忘れもしない、あの宵の声だった。
「道に迷いまして。灯りが、見えたものですから」
宗七は微笑んだ。腰を上げ、行灯の灯を手に取り、土間へ下りた。膝はもう、ほとんど動かなかった。それでも、宗七は戸口へ向かった。灯りを絶やさずにいた、その灯りが招いた客を、迎えるために。一歩、また一歩と、宗七は戸口へ歩いた。
戸を開けると、宵闇がどっと流れ込んできた。
戸口に、あの女が立っていた。灰色の被布をまとい、その裾は夜露に濡れていた。顔は行灯の灯を受けて、ほのかに橙に染まっていた。ただ、その目だけは、あいかわらず宵闇の色をしていた。あの宵と、少しも変わっていなかった。
「また、まいりました」
女は微笑んだ。
「灯りが、招いてくれましたから。あなたが、灯りを絶やさずにいてくださいましたから」
宗七は、片方だけの手袋を、女に差し出した。
「これを、返さねばと思っておった。ずっと。この年月、これを、あんたの席に置いて、待っておった」
女は首を横に振った。
「それは、あなたに。あなたが、灯りを絶やさなかった、その証です。あなたが、寂しさのなかでも、灯りをともしつづけた、その証です。どうか、それを、持っていてください。あなたのものです」
宗七の目に、涙が滲んだ。灯りが、その涙を橙に染めた。
「入ってくれ」
宗七は言った。
「火にあたっていってくれ。今宵は、長い宵になりそうだ」
女は深く頭を下げて、敷居をまたいだ。その足取りは、やはり音もなかった。
その宵、宗七の一軒家には、灯りがともっていた。橙の火が囲炉裏に燃え、飴色の灯りが行灯にゆらめいていた。窓の障子を透かして見れば、その灯りは、麓の村の灯りのひとつとして、宵闇のなかに沈んでいた。ほかの家々の灯りと同じように、あたたかく、しずかに。谷の底に、橙の灯りが点々と。そのひとつが、宗七の家の灯りだった。
その灯りの向こうに、ふたつの影があった。囲炉裏を挟んで、語りあうふたつの影が。もう、独りではない、ふたつの影が。
宵の灯りは、いつまでも消えなかった。
そして、その宵を最後に、宗七の家の灯りは、ともらなくなった。
麓の村の者が、幾日か灯りの見えぬのを訝しんで、山を登ってきた。宗七は、囲炉裏端で、静かに息絶えていた。その顔は、安らかだった。まるで、長いあいだ待っていた者に、ようやく会えた者の顔だった。
宗七の膝には、片方だけの手袋があった。子どもが編んだような、不格好な毛糸の手袋。村の者は、それが何であるか、知らなかった。ただ、宗七がそれを大切そうに抱いているので、そのまま、宗七とともに葬った。
そして、村の者たちは、こう噂した。
宗七が息絶えたその宵、宗七の家には、たしかに灯りがともっていた、と。すでに息絶えていたはずの宗七の家に、飴色の灯りがともり、その灯りの向こうに、ふたつの影が見えた、と。ひとつは宗七の影、もうひとつは、灰色の被布をまとった、女の影だった、と。
そして、その宵の空には、蒼い星が昇っていた。家々の灯りと競うように、宵闇の底に、ひとつ、蒼く。
九
――ここで、この話には、もうひとつの結びがある。
その村に、月光書房という古い書肆があった。町から山を越えた、麓の村のはずれに、その書店はあった。宵になると、書店の窓に、飴色の灯りがともった。店主は年老いた女で、その店には、めったに客が来なかった。けれど、店主は毎晩、灯りを絶やさなかった。
ある宵、その書店に、ひとりの旅人が立ち寄った。峠を越える途中で、日が暮れて、灯りを頼りに迷い込んだのだった。旅人もまた、宵の灯りに招かれた者だった。旅人は、書棚のあいだで、一冊の古い本を見つけた。手ずから綴じられた、写本のような本だった。表紙には、なにも書かれていなかった。
その本には、この村に伝わる、ふしぎな話が記されていた。宵の灯りが招く、来訪の話。独り者の家を訪れる、灰色の被布の女の話。片方だけの手袋を残していく、女の話。子守唄の話。そして、宵の空に昇る、蒼い星の話。宗七という老人の話も、そこにはあった。灯りを絶やさず、宵の客を待ちつづけた、独り者の老人の話が。
旅人は、その本を読みふけった。書店の飴色の灯りが、頁を橙に照らしていた。読み進めるうちに、旅人の目にも、涙が滲んだ。旅人にもまた、失った者があった。旅人もまた、独りの宵を、灯りとともに過ごす者だった。
読み終えて、旅人は店主に問うた。
「これは、まことの話でしょうか」
店主は、灯りのなかで微笑んだ。その目は、どこか宵闇の色をしていた。
「さあ。まことかどうかは、わたしにはわかりません。ただ――」
店主は、窓の外を見た。宵闇のなかに、家々の灯りが沈んでいた。そして、その灯りと競うように、ひとつ、蒼い星が昇っていた。
「ただ、灯りを絶やさぬ者のもとには、いつか、客がまいります。宵の灯りは、そういうものを招くのです。失われたものの、面影を。それだけは、まことです。灯りを絶やさぬかぎり、あなたが失った者もまた、いつか、あなたの戸を叩くでしょう」
旅人は、店主の言葉を、胸に刻んだ。
その本を買い求めて、旅人は書店を後にした。宵闇の峠を、灯りを頼りに越えていった。旅人の懐には、その本があった。そして、旅人もまた、いつか、独りの宵に灯りをともすとき、その本の話を思い出すのだろう。灯りが招く、ふしぎな来訪を。そして、灯りを絶やさず、宵の客を待つのだろう。
宗七の一軒家の話は、そうして、月光書房の一冊の本のなかに残された。
灯りを絶やさぬ者のもとに、宵の客はまた訪れる。それは、旧い友のようでもあり、道に迷った者のようでもあり、あるいは、失われたもの、そのものの面影でもある。
宵になれば、人は灯をともす。その灯りは、団欒のためのもの。家族が囲炉裏を囲み、笑いあうための灯り。けれど、独り者の灯りは、もうひとつの岸をも照らす。失われた者たちの岸を。灯りは、両の岸に橋を架ける。ほんのひととき、宵のあいだだけ。
だから、宵の灯りを、絶やしてはならない。
灯りの向こうに、いつも、誰かがいる。
それが、生きている者であれ、失われた者であれ。灯りは、その面影を、あたたかく照らしている。橙に、飴色に、揺れる炎に。青いマッチ箱から生まれた、その火のなかに。
宵の灯りは、招くものだ。宵の灯りは、あたためるものだ。宵の灯りは、失われたものを、いつまでも憶えている。
そして、その灯りが消えるころ、宵の空には、蒼い星が昇る。家々の灯りと競うように、宵闇の底に、ひとつ、蒼く。
その星が昇るあいだ、この世とあの世の隔ては、ほんの少し、薄くなる。
灯りを絶やさぬ者よ。宵の戸を叩く音に、耳を澄ませよ。それは、あなたの寂しさが招いた、ふしぎな来訪かもしれぬ。
戸を叩く音は、たいてい火の音より遅れてやってくる。けれど、火を絶やさずにいれば、いつか、その音は、必ず、やってくる。二度、こんこん、と。灯りの向こうから、あなたを訪ねて。