提灯の川
提灯の川
宵の口に、通りの端から端へ、提灯の火が一斉に入る。まるで誰かが暗がりに指をひたして、点、点、点、と橙の玉を置いていくように。その最初のひとつがともる瞬間を、螢は毎年、どうしても見のがしてしまう。父の手を引いて坂をのぼりきったころには、もう提灯はぜんぶ灯っていて、路地はすっかり火の川になっている。
「またおくれた」と螢は言う。「今年こそ、いちばん最初のを見たかったのに」
「来年は、日が暮れる前に来ような」と父は言う。毎年おなじことを言って、毎年おなじようにおくれる。それでも螢は父の手を強く握りなおす。おくれたことより、いま、この火の川のなかへ足を踏み入れることのほうが、ずっと大きな喜びだったから。
宵宮――祭りの前の夜。本祭りの神輿や太鼓が出るのは翌日で、この夜はまだ、祭りが眠りに就く前の、まどろみのような時間だった。だからこそ、この夜のにぎわいには、どこかやわらかな翳りがある。翌日の華やかさを待つあいだの、ひそやかな幸福。螢はこの宵宮のほうが、本祭りよりも好きだった。本祭りは音が大きすぎて、灯りが多すぎて、螢の小さな胸には少し痛いくらいなのだ。宵宮の灯りは、ちょうどいい。橙で、ぬるくて、手をかざせば頬まであたたかくなりそうな灯り。
坂の下から見あげると、提灯の連なりは本当に川のように見えた。両側の軒に吊るされた提灯が、風にわずかに揺れて、火の面がゆらゆらとうねる。橙の光は路上に落ちて、石畳をぬめらせ、そこを歩く人々の背や肩や、下駄の鼻緒までを飴色に染める。飴色――そう、この夜のすべてが飴色だった。屋台のうしろで湯気を立てる鍋も、林檎飴の赤も、綿菓子のうすももいろも、ひとたびこの提灯の下をくぐれば、みんな少しずつ飴色をまとう。
提灯には、一つひとつに文字が書いてあった。奉納、と墨で入ったものもあれば、酒屋や豆腐屋の屋号が入ったものもある。宵宮の前になると、町内の人が総出で、古い提灯の紙を張りかえ、骨をあらためて、こうして軒に吊るすのだと、いつか父が話してくれた。そのひとつひとつの紙のむこうで、蝋燭が――近ごろは豆電球のところも多いけれど、この町の提灯は今でも本物の蝋燭だった――ちいさな炎を、こまかく震わせていた。風が吹くと、火の面がいっせいにたわむ。すると火の川は、ざわり、と身をよじるように波打った。生きている、と螢は思う。この灯りの川は、生きている。
灯りだけではなかった。宵の空気には、いくつもの匂いが層になって漂っていた。醤油の焦げる匂い、油の匂い、綿菓子のあまい匂い、そのしたに、雨のあとの土の匂い。夕方まで降っていた通り雨が、石畳を濡らして、火の川の橙をいっそう深く映しこんでいる。人々の話し声、下駄の音、どこかの屋台からもれてくる祭り囃子の、ゆるやかな笛の音。それらすべてが、提灯の橙のなかに溶けあって、宵宮という、一年に一度きりの、まどろみのような時間を編みあげていた。
「螢、はぐれるなよ」
父はそう言いながら、螢の手を離さない。離さないのに言う。その矛盾が、螢にはうれしかった。父の手はいつも少しかさついていて、指の節が太くて、握ると自分の手がすっぽりと包まれてしまう。その手のなかで、螢は安心して、けれど胸だけは高鳴らせて、火の川の入り口に立っていた。
最初に螢を捉えたのは、綿菓子だった。
いや、正しく言えば、その屋台の灯りだった。綿菓子の屋台には、まるい傘のかたちをした電灯が吊るされていて、その光が、屋台じゅうにぶらさがった、できあいの綿菓子の袋を、うちがわから照らしていた。うすももいろの雲が、袋のなかで、ぼうっと光っている。ひとつ、ふたつ、みっつ――螢は数えきれないほどの光る雲が、風にゆれるのを、ぽかんと口をあけて見あげた。まるで、宵の空から、桃いろの月がいくつも降りてきて、糸で吊るされているようだった。
屋台の男が、銀色の釜のなかへ砂糖をひとさじ落とす。すると釜の縁から、うすももいろの霞が、糸になって噴きだしてくる。男は割り箸をくるくると回し、その霞をたぐりよせていく。霞は箸のまわりで、みるみる大きくなって、やがて頭ひとつぶんもある雲のかたまりになった。釜のなかで、砂糖が焦げるあまい匂いが立ちのぼる。螢は、その白い霞が、電灯の光を吸って、ふわふわと桃いろに染まっていくのを、まばたきもせずに見つめていた。無から、灯りのような雲が生まれる。それは、螢にとって、ちょっとした魔法だった。
「ひとつ、くださいな」と父が言う。
螢の手に渡された綿菓子は、袋のなかで、まるで生きているように光っていた。提灯の橙が透けて、うすももいろの雲の内側に、小さなともし火が閉じこめられているように見える。螢はそっと指でひとかけらをつまんで、口にいれた。舌のうえで、雲はあっけなく消えた。あんなに大きかったのに。あんなに光っていたのに。口のなかにはただ、甘さだけが、ほのかに残った。
「消えちゃった」と螢はつぶやく。
「消えるからいいんだ」と父は笑う。「ずっと消えないものだったら、こんなにおいしくないさ」
螢はその言葉の意味を、半分もわからなかった。けれど、なぜだろう、胸の奥にそっと仕舞っておきたい気がした。消えるからいい。父はときどき、こういう言葉を言う。祭りの夜だけ、少しだけ、遠くを見るような目をして。
母のことを、螢はぼんやりとしか覚えていない。覚えているのは、灯りのことばかりだ。行灯のそばで縫いものをしていた母の、うつむいた横顔。その頬を、行灯の火が飴色に照らしていた。母の手もとで、針が光っては消え、光っては消えしていた。あれはたしか、螢のための、片方の手袋を編んでいたのではなかったか。編みかけの、赤い毛糸。片方だけの手袋。――そこまで思いだすと、いつも記憶はぷつりと切れる。母は、螢が四つの冬に、灯りを消すように、いなくなった。
いなくなった、というのは、正しくないのかもしれない。父は一度も、母が「死んだ」とは言わなかった。「遠くへいった」と言い、「星が海をわたるように、いつか帰ってくる」と言った。四つの螢には、そのちがいがわからなかった。ただ、あの冬から、家の行灯のそばに、母の座る場所だけがぽっかりと空いて、そこにはもう誰も座らなくなった。編みかけの赤い手袋は、しばらくのあいだ、行灯のそばの籠に入れられたままだった。片方だけの、指先のまだ編みおわっていない手袋。螢はときどき、それをそっと手にとって、頬にあてた。毛糸は、母の指の匂いがした――ような気がした。けれど、ある日、その手袋は籠から消えていた。父が仕舞ったのか、捨てたのか、螢にはわからない。訊くこともできなかった。訊けば、父の遠くを見る目が、もっと遠くなってしまう気がしたから。
だから父は、祭りの夜になると遠くを見る。螢にはそれがわかっていた。わかっていて、けれど何も言わずに、父の手を握りなおすのだった。父の手が、螢の手を握りかえしてくれる。それだけで、遠くへいった目が、また、螢のとなりへ帰ってくる。祭りの灯りは、父を遠くへ連れていき、そして螢の手が、父をまた連れもどす。宵宮の夜は、いつも、そのくりかえしだった。
「金魚すくい、してみるか」
父がそう言ったとき、螢の胸はまた高鳴った。金魚すくいの屋台は、火の川のなかでもとりわけ美しい一画だった。浅い水槽が青いビニールで縁どられ、そのなかを、赤や緋や、白まじりの金魚が、数えきれないほど泳いでいる。屋台の上には裸電球がひとつ吊るされていて、その光が水面に落ちて、金魚の背をぬらぬらと光らせていた。裸電球の光は、提灯の橙とは少しちがう。もっと白くて、水のなかまでまっすぐに届く光だ。その光のなかで、金魚たちは灯りそのもののように泳いでいた。
屋台のまわりには、螢とおなじくらいの子どもが、何人もしゃがみこんでいた。みんな、真剣な顔で、水面をのぞきこんでいる。裸電球の白い光が、その小さな顔を、ひとつずつ照らしていた。頬を紅潮させた子、舌を出して集中している子、すくえずにべそをかいている子。子どもたちの顔は、みんな、金魚とおなじように、灯りのなかで輝いていた。父は、螢のうしろに立って、その光景を、目を細めて見ていた。子どもたちを見る父の目は、遠くを見る目ではなかった。近くの、いちばん近くの、螢のことだけを見る目だった。
螢は父から紙の破れやすい枠――ぽいというのだと父が教えてくれた――を受けとって、水槽のふちにしゃがみこんだ。
「そうっとだ。水にいれる前から、金魚を追いかけるな。金魚が落ちついたところを、下からすくうんだ」
父の声はやさしかった。螢はぽいを水に沈めた。紙が水を吸って、たちまち重たくなる。一匹の緋色の金魚が、螢のぽいのすぐ上を、ゆらりと横切った。いま、と思って持ちあげると、紙はもうやぶれていて、金魚は水のなかへするりと逃げた。
「やぶれちゃった」
「もう一枚、あるさ」
二枚目もやぶれた。三枚目で、螢はやっと一匹をすくった。白まじりの、小さな金魚。手のひらほどの浅い水を張った袋のなかで、その金魚はしばらく身をこわばらせていたが、やがて、ゆっくりと尾をふりはじめた。袋ごしに裸電球の光を受けて、金魚の鱗が、ちらちらと銀色にまたたく。
「生きてる」と螢は言った。あたりまえのことなのに、そう言わずにいられなかった。手のなかで、袋のなかで、この小さな灯りが、たしかに生きて、動いている。それは綿菓子のように消えてしまうものではなかった。持って帰れる灯り。螢はその袋を、両手で、こわれものみたいに抱えた。
屋台の男は、螢のすくった一匹に、おまけだと言ってもう二匹を袋にいれてくれた。「宵宮のご祝儀だ」と男は笑った。その顔もまた、裸電球の光で、下から白く照らされていた。歯の欠けた、人のよさそうな顔だった。
「大事にしてやんな」と男は言った。「金魚ってのはな、暗いところじゃ、色が褪せるんだ。だから、いつも、灯りのそばに置いといてやれ。灯りのそばにいれば、こいつら、いつまでも綺麗な緋色でいてくれる」
螢は、その言葉を、胸に刻んだ。灯りのそばに置いておけば、色が褪せない。金魚も、たぶん、そのほかのものも。螢は袋のなかの三匹をのぞきこんだ。緋色のと、赤白まじりのと、白いのと。三匹はそれぞれに、裸電球の光を受けて、ちらちらと、灯りそのもののように輝いていた。この子たちを、家の行灯のそばに置いてやろう、と螢は思った。そうすれば、この宵宮の夜の灯りが、いつまでも、家のなかで泳ぎつづけてくれる。
金魚の袋を抱えて立ちあがったとき、螢はふと、足もとに何かが落ちているのに気づいた。
しゃがんで拾いあげると、それは手袋だった。子どものものらしい、小さな、赤い毛糸の手袋。片方だけ。編み目のところどころがほつれていて、指先が少しすりきれている。持ち主が、よほど大事にしていたのだろう。それとも、よほど無造作に落としていったのだろうか。螢にはわからなかった。
わからなかったのに、胸の奥がきゅうと痛んだ。赤い、片方だけの手袋。――母の手もとにあった、あの編みかけの手袋を、螢は思いだした。あれも赤かった。あれも、片方だけだった。まさか、と思う。そんなはずはない。あれはもう、とうの昔に消えてしまったもののはずだ。それなのに、いま、螢の手のなかに、赤い片方の手袋がある。
「どうした、螢」
父がのぞきこむ。螢は手袋を差しだした。父はそれを受けとって、しばらくじっと見つめていた。提灯の橙が、父の横顔を飴色に染めた。父の目もとが、ほんの少し、なにかをこらえるように動いたのを、螢は見た。
「だれかの落としものだな」と父はやがて言った。「迷子の手袋だ」
「かえしてあげたい」
「そうだな。でも、持ち主はどこにいるかわからないだろう」
父は少し考えて、それから螢に手袋を返した。「持っておいで。いちばん灯りの明るいところに、置いておこう。そうすれば、探しにきた子が、見つけやすいだろう」
いちばん灯りの明るいところ。螢はうなずいた。片方だけの手袋を、金魚の袋のそばに、そっと抱えなおした。金魚が袋のなかで身をよじり、水がちゃぷりと鳴った。
歩きながら、螢は、その手袋のことばかりを考えていた。この手袋を落とした子は、いま、どこにいるのだろう。片方だけになった手袋を、どこかで探しているのだろうか。それとも、もう、なくしたことにも気づかずに、綿菓子でも食べているのだろうか。夏の夜に、毛糸の手袋。どうして、こんな暑い夜に、冬の手袋を持ち歩いていたのだろう。螢には、その子の気持ちが、なんとなくわかるような気がした。きっと、その子にとって、この赤い手袋は、ただの手袋ではなかったのだ。たぶん、誰かが編んでくれた、大事な、大事な手袋。だから、夏の夜にも、手ばなせなかった。螢が、母の編みかけの手袋を、頬にあてずにいられなかったように。
「お父さん」と螢は言った。「この手袋の子、きっと、泣いてるね」
父は、しばらく黙っていた。それから、「そうかもしれないな」と言った。「でも、螢。灯りのそばに置いておけば、だいじょうぶだ。灯りは、なくしたものを、ちゃんと照らしてくれる。だから、探す人が、見つけられる」
螢は、その言葉を信じることにした。父の言うことは、いつも、少しむずかしくて、けれど、いつも、どこか正しかった。
火の川は、奥へ進むほど、灯りが濃くなった。
射的の屋台では、電灯の光が景品の棚を煌々と照らしていた。ブリキの玩具、飴の箱、ちいさなガラスの動物。棚は何段にもわかれていて、下の段の大きな景品ほど、コルクの弾では倒れないようにできている。螢は父にせがんで、五発の弾をもらった。
射的の屋台の電灯は、ほかの屋台のよりも、いっそう明るかった。景品を、少しでもよく見せるためだろう。棚には、赤いセロファンが貼られていて、電灯の光が、そこを通って、棚全体を、あたたかな赤みのある光で満たしていた。ブリキの玩具は、その光を受けて、てらてらと光った。飴の箱は、宝石のように輝いた。そして、いちばん上の段の、小さなガラスの動物たちは、光を透かして、内側から発光しているように見えた。
コルクの銃はずしりと重く、螢の両手には少し大きすぎた。父がうしろから螢の手をささえてくれる。父の手のなかで、螢は狙いをさだめた。いちばん下の、大きなブリキの汽車――ではなく、いちばん上の、小さなガラスの兎を。ガラスの兎は、電灯の光を受けて、白く、つめたく、けれどやわらかく光っていた。あれがほしい、と螢は思った。理由はなかった。ただ、あの兎が、灯りのなかでいちばんきれいに見えたから。ちいさくて、白くて、灯りを透かすもの。それは、どこか、螢の胸のなかにある、母の面影に、似ていた。
一発目、はずれ。二発目、かすった。三発目で、ガラスの兎はぐらりと揺れて、けれど倒れなかった。四発目、はずれ。最後の五発目。螢は息をとめた。父の手が、螢の手を、ほんの少し右へ動かした。引き金を引く。コルクの弾が飛んで、ガラスの兎の胸に、こつん、と当たった。兎は棚のうしろへ、ことりと倒れた。
「やった」
屋台の女将が、ガラスの兎を棚からとって、螢の手のひらにのせてくれた。ひやりとつめたい兎は、手のなかで、電灯の光を透かして、いよいよ白く光った。螢はそれを、金魚の袋と、赤い手袋のそばに、そっと抱えいれた。金魚と、手袋と、ガラスの兎。螢の両腕は、もう小さな灯りでいっぱいだった。
「もう、抱えきれないな」と父が笑う。
「だいじょうぶ。ぜんぶ、持って帰る」
父は何も言わずに、螢の頭に手をのせた。その手は、あいかわらずかさついていて、あたたかかった。
射的の屋台を離れて少しいくと、火の川の流れが、ふいに、ゆるやかになる場所があった。屋台と屋台のあいだに、ぽっかりと隙間があいていて、そこだけ、人のながれが淀んでいる。淀みのなかに、老婆がひとり、ちいさな床几に腰かけていた。
老婆のまえには、水を張った桶があって、そのなかに、色とりどりの風船が浮かんでいた。水風船だった。桶の底に据えられた小さな豆電球が、水を下から照らしていて、風船たちは、水のなかで、ぼうっと発光しているように見えた。赤、青、黄、緑。どの風船も、うちがわに灯りをともしているようだった。
「ヨーヨー釣り、してくかい」と老婆はしわがれた声で言った。
螢は、もう両手がふさがっていた。金魚と、ガラスの兎と、青いマッチ箱――いや、マッチ箱はまだもらっていない――で、いっぱいだった。それでも、その光る風船たちから、目が離せなかった。
「もう、手がいっぱいだから」と螢は、名残おしそうに言った。
老婆は、螢の抱えた灯りたちを見て、それから、ふっと笑った。皺の一本一本が、豆電球の光で、飴色に照らされた。
「そうかい。灯りを、たくさん持ってるねえ」と老婆は言った。「なら、いいさ。灯りは、多すぎても困る。ひとつでも、少なすぎることはないけどねえ」
螢は、その言葉の意味を、うまく飲みこめなかった。けれど、老婆の顔が、なぜか、やさしかった。ひとつでも、少なすぎることはない。灯りは、たったひとつでも、暗がりをちゃんと照らす。だから、少なすぎるということはない。――そういう意味だろうか。螢は、抱えた金魚の袋を、少し握りなおした。ひとつの灯り。たったひとつでも。
「ばあちゃん、ありがとう」と螢は言った。なぜ礼を言ったのか、自分でもわからなかった。ただ、そう言わずにいられなかった。
老婆は、こくりとうなずいて、また、水のなかの光る風船に目を落とした。螢と父は、その淀みを離れ、ふたたび火の川の流れに乗った。ふりかえると、老婆の桶の豆電球だけが、賑やかな屋台の灯りのなかで、ちいさく、けれどたしかに、光っていた。孤独な灯り、と螢は思った。けれど、さびしくはない灯り。ひとつでも、少なすぎることはない灯り。
火の川のいちばん奥に、その屋台はあった。
ほかの屋台とはちがって、そこには派手な電灯も裸電球もなかった。ただ、行灯がひとつ、灯っているだけだった。飴色の紙を張った行灯の内側で、火がゆらゆらと揺れて、まわりの薄闇をやわらかく照らしている。屋台の台のうえには、本が並んでいた。古い本、あたらしい本、表紙のとれかけた本、金の箔がわずかに残った本。夜店で本を売る店など、螢は見たことがなかった。
「月光書房」と、行灯のわきの木札に書いてあった。
「本屋さんが、お祭りに?」と螢は不思議に思って言った。
「ああ」と父は、なぜか少しなつかしそうな声を出した。「この店は、宵の刻にだけ、火の川のいちばん奥に出るんだ。昔からそうだ。お父さんが子どものころにも、ここにあった」
近づくと、本の背表紙が、行灯の光のなかに、ひとつずつ浮かびあがってきた。古い紙と、革と、糊の匂いがした。それは、火の川のどの匂いともちがう、しずかな匂いだった。醤油や油の焦げる匂いのなかを歩いてきた螢の鼻に、その紙の匂いは、ふしぎとなつかしかった。本のなかには、絵本もあった。表紙に、月をわたる舟の絵が描かれた、青い表紙の絵本。螢は、その絵に、しばらく見入った。
屋台の奥に、店主らしい老人がひとり座っていた。行灯の飴色の光が、老人の白い髪と、皺のふかい手もとを照らしている。老人は膝のうえに、開いた本を伏せて置いていた。読んでいたのだろう。この賑やかな火の川の、いちばん奥の、行灯ひとつの灯りのなかで、たったひとり、本を読んでいたのだ。老人は螢のほうを見て、ゆっくりと微笑んだ。
「いい灯りを、たくさん抱えているね」と老人は言った。金魚と、ガラスの兎と、赤い手袋を抱えた螢を見て、そう言ったのだった。
螢はこくりとうなずいた。それから、抱えていた赤い手袋のことを思いだした。
「あの、これ」と螢は手袋を差しだした。「落としものなんです。持ち主を、探してるんです。いちばん灯りの明るいところに置いておけば、見つけてもらえるって、お父さんが」
老人は手袋を受けとって、行灯の光にかざした。赤い毛糸が、飴色の光を吸って、いよいよあたたかな色に見えた。
「これはずいぶん、大事にされていた手袋だね」と老人は言った。「見てごらん、この指先。すりきれるまで、いくどもいくども、はめられた手袋だ。落とした子は、きっと泣いているだろう」
螢の胸が、また痛んだ。すりきれるまで。いくども、いくども。――母は、螢のための手袋を、編みおえることができなかった。片方だけの、赤い手袋。もし編みおわっていたら、螢はそれを、指先がすりきれるまで、はめただろうか。いくども、いくども。
「あの」と螢は、思いきって言った。「その手袋、母が、編んでたのに似てるんです。むかし。片方だけの、赤い手袋」
老人は螢をじっと見た。行灯の火が、老人の目のなかで、ちいさく揺れた。
「そうかい」と老人は静かに言った。「それなら、この手袋は、きっと、いちばんいい場所にたどりついたのかもしれないね」
老人は手袋を、行灯のすぐそばの、本の山のうえに置いた。飴色の光が、赤い手袋を、まっすぐに照らした。それはたしかに、火の川のなかでいちばん灯りの明るい場所だった。ここに置いておけば、探しにきた子が――あるいは、探しにきた誰かが――きっと見つけるだろう。螢はそう思って、少しだけ、胸の痛みがやわらぐのを感じた。
「ぼうやは」と老人は、螢の顔を見て言った。「お母さんの手袋を、覚えているのかい」
螢は、うなずいた。「あんまり、覚えてないんです。でも、赤い毛糸だったことは、覚えてます。片方だけ、編みかけで」
「片方だけ」と老人は、しずかにくりかえした。「片方だけの手袋というのはね、ぼうや、さびしいものだと、みんな思っている。でも、わたしは、そうは思わないんだ」
老人は、行灯のそばの赤い手袋に、皺のふかい手をそえた。
「片方だけの手袋は、もう片方を、待っているんだよ。あるいは、その手袋をはめる、ちいさな手を、待っている。待つということは、さびしいことじゃない。待つあいだ、その手袋は、ずっと、誰かのことを思っていられる。思う相手がいるかぎり、ひとりぼっちじゃないんだ。灯りとおなじだよ。灯りは、暗がりのなかに、たったひとつで灯っている。でも、その灯りが照らすものがあるかぎり、その灯りは、ひとりぼっちじゃない」
螢は、その言葉を、じっと聞いていた。よくわからないところもあった。けれど、胸のどこかが、あたたかくなるのを感じた。母の編みかけの手袋も、いまごろ、どこかで、誰かを待っているのだろうか。片方だけで。けれど、ひとりぼっちではなく。螢のことを、思いながら。
「ぼうやに、ひとつ、さしあげよう」
老人はそう言って、本の山のなかから、小さな青い箱をとりだした。マッチ箱だった。青い紙が張られていて、その表に、白い三日月が刷ってある。
「月光堂のマッチだ」と老人は言った。「灯りをともす箱だよ。宵の刻には、火が要る。提灯も、行灯も、蝋燭も、みんなこのマッチから灯る。ぼうやも、いつか、自分の灯りをともす日が来る。そのときのために、持っておおき」
螢は青いマッチ箱を受けとった。手のひらのなかで、それは思いのほか軽かった。けれどそのなかには、たしかに、火が眠っていた。まだともされていない、たくさんの小さな火が。螢はそれを、金魚と、ガラスの兎のそばに、そっと仕舞った。
「このお店は」と螢は、ふと訊いた。「宵の刻にしか、出ないの?」
「ああ」と老人はうなずいた。「昼の光のなかでは、本は、あんまり読まれないものでね。本というのは、灯りのそばで読むものだ。行灯の火や、蝋燭の火や、窓からもれる灯りのそばで。だから、わたしの店は、宵の刻に、灯りがともるころに、そっと出てくる。人が、家に帰って、灯りをともして、そのそばで、ひとつの物語を読む。――そういう夜のために、この店はあるんだよ」
螢は、その言葉を、なんだか、とても綺麗なことのように思った。灯りのそばで、物語を読む。宵の刻、家々に灯りがともるころ、どこかの家では、誰かが、行灯のそばで、本をひらいているのだ。ひとりぼっちの灯りのなかで。けれど、本をひらけば、そこには、いくつもの物語がある。いくつもの、見知らぬ人の、灯りがある。だから、灯りのそばで本を読む人は、ひとりぼっちではないのだ。
「ありがとう」と螢は言った。
父が、老人に軽く頭をさげた。老人も頭をさげかえした。ふたりのあいだに、螢にはわからない、なにかしずかなやりとりがあったような気がした。行灯の火が、ふたりの顔を、おなじ飴色に照らしていた。
「そろそろ、いくか」と父が言った。「灯りが、もう、いっぱいだからな」
螢はうなずいて、月光書房に背をむけた。火の川を、こんどは奥から入り口へむかって、歩きはじめる。抱えた金魚の袋が、歩くたびにちゃぷちゃぷと鳴った。ガラスの兎が、提灯の光を透かして、白くまたたいた。青いマッチ箱が、胸のあたりで、ほのかにあたたかかった。
火の川の途中で、父がふと立ちどまった。
「螢、空を見てごらん」
螢は顔をあげた。提灯の連なりのむこう、軒と軒とのあいだの、ほそい宵闇の帯のなかに、ひとつ、蒼い星が昇っていた。
ほかの星とはちがう星だった。まわりの星が金色にまたたくなかで、その星だけが、蒼く、澄んで、しずかに光っていた。まるで、地上の火の川に張りあうように――家々の灯りと、提灯の橙と、綿菓子のうすももいろと、裸電球の白と、行灯の飴色と、そのすべての暖かい灯りに、たったひとりで対峙するように、その蒼い星は、宵闇の高みに昇っていた。
「あれはね」と父は言った。「ミラという星だ。ずうっと遠くから、何十年に一度、こうして宵の空に昇ってくる。お父さんが子どものころにも、いちど見た。おまえのお母さんと、この火の川を歩いたときにも、あの星が出ていた」
螢は蒼い星を見あげたまま、じっとしていた。父が母と、この火の川を歩いた夜。そのときにも、あの星は昇っていた。地上の暖かい灯りと、天上の蒼い灯りと。あたたかいものと、つめたく澄んだものと。それは対になって、宵の空と地とにわかれて、しずかに光っていた。
「お母さんも、あの星を、見たの?」と螢は訊いた。
「ああ、見たよ」と父は言った。「お母さんはね、あの星を見て、こう言ったんだ。――あの星は、いちばん遠くにいて、いちばんさびしそうに光ってる。だから、いちばん綺麗なんだ、って」
いちばん遠くにいて、いちばんさびしそうで、だから、いちばん綺麗。螢は、母の言ったというその言葉を、蒼い星を見あげながら、胸のなかでくりかえした。地上の火の川は、あんなに賑やかで、あんなに暖かい。けれど、あの蒼い星は、たったひとつで、宵闇のいちばん高いところに昇って、しずかに光っている。賑やかな灯りにはない綺麗さが、その孤独な星には、たしかにあった。母は、そのことを知っていたのだ。
「お母さんは」と螢は、思いきって訊いた。「いまも、あの星を、見てるかな」
父は、少し黙った。それから、螢の手を、ぎゅっと握った。「見てるさ」と父は言った。「きっと、どこか遠くで、おなじ星を見てる。あの星が、お母さんと螢を、おなじ夜のなかで、つないでくれてるんだ」
螢は、蒼い星を見あげたまま、うなずいた。目のふちが、少し熱くなった。けれど、涙はこぼれなかった。かわりに、胸の奥に、あたたかな飴色の火が、ぽっと灯ったような気がした。
「きれい」と螢はつぶやいた。
「ああ、きれいだ」と父も言った。その声は、いつもの父の声よりも、少しだけ低かった。螢は父の手を、いつもより強く握った。父の手のなかで、螢の手は、あたたかかった。天上の蒼い星がどんなに澄んでいても、螢の手をあたためてくれるのは、この地上の、かさついた、あたたかな手だった。
蒼い星は、しばらくすると、また提灯の連なりのむこうへ隠れた。橙の火の川が、ふたたび螢の視界をいっぱいに満たした。けれど螢は、あの蒼い星のことを、きっと忘れないだろうと思った。消えるものと、消えないもの。あたたかいものと、澄んだもの。宵の空には、その両方が、たしかにあった。
坂の下まで来ると、火の川はもう、うしろに遠ざかっていた。
ふりかえると、提灯の橙が、坂のうえで、ぼうっとひとつのかたまりになって光っていた。あんなに近くで見ていたときは、一つひとつの提灯がちゃんと見えていたのに、離れると、ぜんぶがまじりあって、ただ、あたたかな橙の靄になった。その靄のなかに、綿菓子の屋台も、金魚すくいも、射的も、月光書房も、みんな溶けこんでいた。
螢は、抱えた灯りたちを、あらためて見た。金魚は、袋のなかで、しずかに尾をふっていた。ガラスの兎は、坂の下の街灯の光を、白く透かしていた。青いマッチ箱は、胸のあたりに、あたたかく収まっていた。赤い片方の手袋だけが、螢の腕のなかにはなかった。それは、火の川のいちばん奥、月光書房の行灯のそばに、置いてきた。いちばん灯りの明るい場所に。
坂の下には、街灯がひとつ、青白い光を落としていた。火の川の橙とはちがう、蛍光の、つめたい光。近ごろの街灯は、みんなこの青白い光だ、と父が言っていた。橙の提灯の火のあとで見ると、その青白さは、いっそうつめたく、よそよそしく感じられた。けれど、螢は、その光を、きらいではなかった。青白い街灯は、火の川へむかう人の足もとを照らし、火の川から帰る人の背を照らす。宵の町の、あちこちに立って、たったひとりで、青白く光っている。それもまた、ひとつの灯りだった。橙の団欒からこぼれた、孤独な灯り。けれど、その孤独な灯りがあるからこそ、人は、暗い夜道を、家まで帰りつくことができるのだ。
「手袋、見つけてもらえるかな」と螢は言った。
「見つけてもらえるさ」と父は言った。「あんなに明るいところに置いてきたんだ。探しにきた子が、きっと見つける」
螢はうなずいた。それから、ふと思った。もしかしたら、あの手袋の持ち主は、もう、探しにこないのかもしれない。母が、螢のための手袋を編みおえられなかったように。片方だけを残して、消えてしまったように。それでも、あの手袋は、いちばん明るい灯りのそばで、飴色に照らされて、いつまでも待っているだろう。誰かが探しにくる日を。あるいは、誰も探しにこなくても、ただ、あたたかく照らされたまま。
それは、悲しいことなのだろうか。螢にはわからなかった。けれど、なぜか、悲しいことだとは思えなかった。灯りのそばにあるものは、たとえ片方だけでも、たとえ誰にも迎えにこられなくても、ひとりぼっちではないような気がした。灯りが、そばにいてくれる。それだけで、じゅうぶんなような気がした。
家に帰ると、父はまず、玄関の行灯に火をいれた。
螢は、老人にもらった青いマッチ箱を思いだして、「わたしが、ともしていい?」と言った。父はうなずいて、螢に行灯の火皿をゆずった。
螢は青いマッチ箱をあけた。なかには、赤い頭のマッチが、ぎっしりと並んでいた。眠っている、たくさんの小さな火。螢はその一本を、そっとつまみだした。箱の横で、しゅっ、とすった。
一瞬、なにも起きなかった。それから、マッチの先に、ぽっと、小さな火がともった。橙の、ちいさな、ふるえるような火。螢は息をとめて、その火をこぼさないように、そっと、行灯の芯にちかづけた。指先が、ほんのりとあたたかい。この小さな火は、風がひとつ吹けば、すぐに消えてしまいそうだった。螢は、手のひらで、そっと風をよけながら、火を運んだ。芯が火を吸って、行灯のなかに、あたたかな飴色の灯りが、ぼうっとひろがった。マッチの火は、役目をおえて、螢の指のあいだで、ふっと消えた。けれど、その火は、消えたのではなかった。行灯のなかに、うつって、生きつづけていた。火は、消えるのではなく、うつるのだ、と螢は思った。マッチから行灯へ、行灯から螢の胸へ。そうやって、火は、いつまでも、うつりつづけていく。
「ともった」と螢は言った。
「ああ、ともったな」と父は言った。
行灯の飴色の光が、螢と父の顔を、おなじ色に照らした。それは、火の川で見たどの灯りとも似ていて、けれど、どれともちがった。これは、螢が、自分の手でともした灯りだった。母が行灯のそばで縫いものをしていた、あの夜とおなじ飴色の光。螢は、その光のなかに、うっすらと、母の横顔が浮かぶような気がした。うつむいて、針を動かして、赤い毛糸を編んでいた母の。
金魚の袋を、螢は行灯のそばの、水を張った鉢にうつした。三匹の金魚が、鉢のなかで、ゆっくりと泳ぎはじめた。行灯の光を受けて、金魚の鱗が、飴色にちらちらと光る。ガラスの兎は、行灯のわきに置いた。飴色の光を透かして、白い兎が、ほのかにあたたまったように見えた。青いマッチ箱は、行灯のそばの、いちばん手のとどきやすい場所に置いた。いつでも、灯りをともせるように。
その夜、螢はなかなか眠れなかった。
蒲団のなかで目をつむると、まぶたのうらに、火の川がよみがえった。提灯の橙、綿菓子のうすももいろ、裸電球の白、行灯の飴色。そして、それらのすべてのうえに昇っていた、蒼い星。あたたかいものと、澄んだもの。消えるものと、消えないもの。
「螢、まだ起きてるのか」と、襖のむこうから父の声がした。
「ねむれない」と螢は言った。「たのしすぎて、ねむれない」
父は襖をあけて、螢の枕もとに座った。行灯の火を、父は消さずにいてくれた。飴色の光が、蒲団のうえに、やわらかく落ちている。
「うたを、うたってやろうか」と父は言った。
螢はうなずいた。父のうたは、へたくそだった。母のように、きれいな声では、うたえなかった。それでも螢は、父のうたが好きだった。父の声は、へたくそなぶんだけ、あたたかかった。上手なうたは、聞いているうちに、どこか遠くへ飛んでいってしまう。けれど、父のへたくそなうたは、いつも、螢のすぐそばに、とどまっていてくれた。行灯の飴色の光のように。かさついた、あたたかな手のように。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」
父は、低い声で、ゆっくりとうたった。それは、母がうたってくれた子守唄だった。螢はほとんど覚えていないのに、その節だけは、体のどこかに沁みこんでいた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。あの蒼い星も、いまごろ、どこかの海をわたっているのだろうか。何十年もかけて、宵の空を、しずかに。
うたを聞きながら、螢は、まぶたのおもみに身をゆだねた。行灯の火が、部屋のなかで、ゆらゆらと揺れている。その火の影が、天井のうえで、ゆっくりと踊っていた。螢は、その影を、母の影のように思った。母が、行灯のそばで、針を動かしている影。光っては消え、光っては消えする、針の影。眠れ、眠れ。母のうたが、父のうたと重なって、螢の耳の奥で、ひとつの子守唄になった。ふたつの声が、ひとつになって、宵の海を、しずかにわたっていった。
「星が、海をわたるって、どういうこと?」と螢は、うとうとしながら訊いた。
「さあ、どういうことだろうな」と父は言った。「お父さんにも、よくわからない。でも、たぶん、こういうことだ。――どんなに遠くへいっても、どんなに時間がかかっても、星は、いつか、ちゃんと帰ってくる。ミラの星が、何十年に一度、宵の空に帰ってくるみたいに。おまえのお母さんが編んでいた手袋みたいに、片方だけになっても、いちばん明るい灯りのそばで、ずっと待っていれば、いつか」
父の声は、そこで少し途切れた。螢は、目をあけずに、父の手をさがした。父の手が、螢の手を、そっと握った。かさついた、あたたかな手。
「眠れ、眠れ」と父は、もういちど、うたった。「星が、海をわたるまで」
眠りにおちる寸前、螢は、うすくあいたまぶたのむこうに、行灯の飴色の火を見た。
その火のそばに、金魚が泳いでいた。ガラスの兎が光っていた。青いマッチ箱が、灯りをともす日を待っていた。そして、螢の思いのなかでは、赤い片方の手袋が、火の川のいちばん奥の、月光書房の行灯のそばで、いまも飴色に照らされて、誰かを待っていた。
宵の灯りは、ふしぎだ、と螢は思った。あんなに賑やかで、あんなに暖かいのに、その灯りのひとつひとつには、どこか、ひとりぼっちのさびしさが、ひそんでいる。提灯の橙も、行灯の飴色も、蒼い星の光も。灯りは、暗がりのなかに、たったひとりで、灯っている。灯っていながら、たがいに照らしあって、火の川になる。ひとりの灯りが、たくさん集まって、あんなに暖かな川になる。
螢は、自分もその川のひとつの灯りなのだと、うとうとしながら思った。父も、母も、月光書房の老人も、落としものの手袋の持ち主も、みんな、それぞれのひとりぼっちの灯りで、そうして、この宵の夜のなかで、たがいに照らしあっているのだった。
まぶたが、とじる。行灯の飴色の火が、ふっと、遠くなる。父の子守唄が、耳の奥で、ゆっくりと海をわたっていく。
宵宮の夜は、灯りのなかで、しずかに更けていった。そして螢は、火の川の夢を見た。提灯の橙の川を、片方だけの赤い手袋を抱えて、蒼い星の下を、いつまでも、いつまでも歩いていく夢を。そのとなりには、かさついたあたたかな手が、いつもあった。消えない灯りのように、そこにあった。
朝が来れば、宵宮は終わり、本祭りがはじまる。太鼓が鳴り、神輿が出て、火の川は昼の光のなかに溶けて消えるだろう。けれど、螢はもう知っていた。灯りは、消えるからこそ、あたたかいのだ。綿菓子のように、口のなかで消えてしまうからこそ、甘いのだ。そして、消えたあとにも、胸の奥にひとつ、ちいさな飴色の火が、ずっと灯りつづけるのだ。――螢の胸のなかで、その火は、いまも、しずかに揺れていた。
眠りの底で、螢は、ひとつのことを、たしかに知った。この宵宮の夜は、いつか、消えてしまう。綿菓子のように、口のなかで溶けてしまう。螢が大きくなれば、火の川は、ただの、ありふれた夜店になってしまうだろう。提灯の橙も、金魚の緋色も、いつか、色褪せてしまうかもしれない。灯りのそばを離れれば、色は褪せる。金魚売りの男が、そう言っていた。
けれど、螢の胸のなかには、もう、消えない火が灯っていた。父の手でささえられて撃った、あのガラスの兎の白さ。月光書房の老人の、片方の手袋についての言葉。蒼い星を見あげたときの、父の握った手の強さ。自分の手でともした、行灯の飴色の光。それらは、もう、螢のなかで、ひとつの火になっていた。灯りのそばを離れても、色褪せない火。なぜなら、その火のそばには、いつも、思う相手がいるから。母がいて、父がいて、片方だけの手袋を待つ、見知らぬ子がいる。思う相手がいるかぎり、火は、ひとりぼっちにはならない。だから、消えない。
宵の刻、家々に灯りがともるころ、火の川はまた、どこかの坂のうえで、点、点、点、と、灯りはじめるのだろう。そしてきっと、誰かの子どもが、親の手を引いて、その川のなかへ、胸を高鳴らせて足を踏みいれるのだろう。おくれても、いい。いちばん最初の灯りを見のがしても、いい。火の川は、そこにいるかぎり、いつでも、あたたかく、待っていてくれるのだから。そして、その火の川のいちばん奥では、行灯ひとつの月光書房が、片方だけの赤い手袋を、飴色に照らしながら、いつまでも、いつまでも、誰かを待っているのだから。