月光書房
丑の刻 ・ 丑三つ時 ・ 第 一 話

木の鳴く家

常世 幽
怪談 ・ 約25頁

一

その家を借りると決めたのは、雨の匂いのする午後だった。

不動産屋の男は、鍵を渡すとき、なぜか手のひらを上に向けたまましばらく動かなかった。まるでそこに、もう一つ、目に見えない鍵を載せようとするように。私が受け取ると、男はようやく手を引っこめて、では、と早口に言い、逃げるように玄関を出ていった。安いのには安いだけの理由がある、とは思っていたが、雨戸の建てつけが悪いとか、床が傾いているとか、その程度のことだろうと私は高をくくっていた。

いや、正直に言えば、男は一つ、妙なことを口にした。契約の書類に判を押したあと、帰りぎわに、玄関先で靴を履きながら、こちらを見ずに、こう言ったのだ。──夜中に、なにか物音がしましても、どうか、気になさらぬように。古い家ですから。木が、よく鳴くのです。木が、鳴くのです、と。私はそのとき、鳴る、ではなく、鳴く、と男が言ったのを、聞きとがめた。だが、聞き返す間もなく、男は、それこそ木の葉が風に散るように、去ってしまった。あとには、雨に濡れた畦道と、私と、その古い家だけが、残された。

築六十年を超える平屋である。町のはずれ、田の畦道をいくつも折れた先に、その家はぽつんと建っていた。まわりには家らしい家もなく、ただ黒々とした杉の林が背後に控えていて、風が渡るたびに、遠い海のような音を立てた。門らしい門もなく、傾いた木戸を押して入ると、飛び石が、雑草に埋もれるようにして、玄関まで続いていた。誰かが長く住んでいたはずなのに、家全体が、まるで長いあいだ息を止めていたような、そんな、しんとした佇まいだった。

最初の夜は、なにごともなかった。

引越しの荷を解くのに疲れて、私は敷いたばかりの布団に倒れこみ、泥のように眠った。ひとりで暮らすには広すぎる家だと思いながら、それでも、静けさは悪くなかった。都会のアパートで、隣の物音に神経を削られる暮らしにくらべれば、この静寂は薬のようだった。私は妻を亡くして三年になる。あの部屋には、彼女の気配が染みこみすぎていた。台所に立てば、彼女が味噌汁をよそう後ろ姿が見え、窓辺に目をやれば、彼女が繕いものをする横顔が浮かぶ。夜、ふと目を覚ますと、隣に、彼女の寝息を探してしまう。そのたびに、そこに誰もいないことを、あらためて思い知る。三年が経っても、その、思い知る痛みは、少しも薄れなかった。だから、まったく縁もゆかりもないこの土地へ、逃げるようにやってきたのだ。誰の気配もない、まっさらな家で、なにもかもを、忘れてしまいたかった。

異変に気づいたのは、三日目の夜だった。

目が覚めたのは、みしり、という音のせいだった。

柱が鳴ったのだと、はじめは思った。古い木の家は、昼と夜の寒暖の差で、身をよじるように鳴る。木が息をしているのだ、と亡くなった祖母が言っていた。だから私は、また木が息をしたのだと、寝返りを打って目を閉じた。

みしり。

みしり、みしり。

それは、柱の鳴る音ではなかった。規則正しかった。あるものが、廊下を歩いているとしか思えない、その、間合いだった。

私は目を開けた。天井の木目が、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。枕もとの時計を見ると、針は一時半を少しまわったところだった。丑三つ時、という言葉が、なぜか頭をよぎった。草木も眠るという、あの刻だ。

足音は、廊下のいちばん奥から、こちらへ向かってくる。

みしり、みしり、みしり。

私は身を固くして、息を殺した。誰かが忍びこんだのだ、と最初は考えた。こんな辺鄙な家に、盗人が。だが、それにしては足音が堂々としすぎていた。忍び足では、なかった。むしろ、この家の勝手を知りつくした者が、毎晩そうしているように、ゆっくりと、当たり前に、歩いている。すり足のような、板を撫でるような、そんな、やわらかな足音だった。荒々しさは、微塵もない。それがかえって、私の背筋を、冷たくした。

足音とともに、部屋の温度が、少しずつ、下がっていくのがわかった。夏の夜だというのに、布団の中の私の足先が、じんじんと、冷えてくる。冷気が、廊下のほうから、床を這うようにして、忍び寄ってくるのだ。私は、その冷たさに、歯の根が合わなくなるのを、必死でこらえた。

足音は、私の寝ている部屋の襖の前まで来て――止まった。

闇の中で、私は襖を見つめた。二センチほど開いたその隙間の向こうに、黒い、人のかたちをした濃い闇がある、ような気がした。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。目が暗さに慣れて、ありもしないものを見ているのだ。だが、その、人のかたちをした闇は、じっと、そこに、立っていた。私を見おろすように。いや、私を、見ているのでは、なかった。もっと、遠くを――私を通り越して、その向こうにある、何かを、探すように。襖の隙間から、細い、細い冷気が、糸のように、部屋に、流れこんできた。

どれほどそうしていただろう。

やがて足音は、来たときと同じように、みしり、みしり、と廊下を戻っていった。そうして、奥の座敷のあたりで、ふつりと消えた。

私は朝まで、一睡もできなかった。

翌朝、私は廊下という廊下を、隅から隅まで調べてまわった。

どこかに隙間があって、風が抜けて音を立てるのだろう。あるいは、鼠か、いたちの類が天井裏に棲みついているのかもしれない。そう思って、雨戸を一枚ずつ繰り、朝の光を家じゅうに入れた。

光の中で見る家は、ただの古い、くたびれた家だった。畳は日に灼けて赤茶け、障子は所どころ破れ、柱には子供の背丈を刻んだような、細かい傷がいくつも残っていた。かつてここには、家族が住んでいたのだ。その、あたたかい暮らしの痕跡が、あちこちに染みついている。それを見ていると、ゆうべの恐怖が、少し、遠のいた。

だが、床下を覗いても、天井裏に梯子をかけて頭を突っこんでも、鼠の巣も、いたちの通り道も、見つからなかった。天井裏は、埃が厚く積もっているばかりで、何かが這いまわった跡は、どこにもなかった。埃は、何十年も、誰にも乱されずに、静かに降り積もっていた。私が頭を突っこんだそのときが、この闇に、はじめて外の光が差した瞬間だった、というように。

廊下の板を、一枚一枚、踏んでみた。たしかに、ところどころ、みしり、と鳴る板はある。だが、それは、私が体重をかけたときにだけ、鳴るのだった。ひとりでに、しかも、あんなに規則正しく、鳴るはずが、なかった。誰かが、その板を、順ぐりに、踏んでいかなければ。奥から、この部屋の前へ。そうして、また、奥へ。

私は奥の座敷まで行った。足音が消えた、あの部屋だ。

六畳ほどの座敷で、床の間には何もなく、ただ、壁の一部が、他よりも色が違っていた。そこにかつて、何か――簞笥か、仏壇のようなものが――長く置かれていたのだろう。畳にも、四角い、へこんだ痕が残っていた。

その、へこみのそばに。

片方だけの、手袋が落ちていた。

女ものの、白い、木綿の手袋だった。ずいぶん古びて、指のあたりが黄ばんでいる。私は妙な気持ちで、それを拾い上げた。引越しのとき、こんなものを持ちこんだ覚えはない。前の住人の忘れ物だろうか。だが、それにしては、なぜここに、こんなにきちんと、揃えて置かれたように――片方だけ。

もう片方は、どこにあるのだろう。

その考えが浮かんだとき、うなじのあたりが、すうっと冷たくなった。私は手袋を、もとのところへ、そっと戻した。なぜだか、持って出てはいけないような気がしたのだ。

二

それから、足音は毎夜、続いた。

きまって一時半をまわるころ、廊下の奥から、みしり、みしり、と歩いてくる。私の部屋の前で止まり、しばらくして、また戻ってゆく。私はもう、それが盗人でも、鼠でもないことを、認めざるを得なかった。

人は、慣れる。おそろしいことだが、私は次第に、その足音に慣れていった。最初の数夜は、金縛りのように動けなかったのが、やがて、足音が来ると、ああ、来た、と思うようになった。そうして、じっと、それが去るのを待つ。まるで、毎晩訪ねてくる客を、迎えるように。

一度だけ、勇気を出して、足音が止まったとき、襖を開けてみたことがある。

廊下には、誰もいなかった。ただ、雨戸の隙間から、細く、蒼い光が差しこんでいた。月にしては、色が冷たすぎた。私は縁側まで出て、雨戸の隙間から、外を覗いた。

空に、星があった。

いや、星というには、少し尾を引いていた。彗星だった。深い、底の抜けたような闇の中に、それは一つだけ、蒼く、冴えざえと懸かっていた。夏の終わりに見えるという、ミラという名の彗星だ、と後で知った。数百日をかけて明るくなり、また闇に沈んでゆく、気まぐれな星だという。その蒼い光は、まるで、この世とあの世の境を、そっと照らしだそうとするかのようだった。

私は、その光の下で、ふと思った。

あの足音は、何かを――誰かを、探しているのではないか。

毎晩、廊下を歩いては、私の部屋の前で止まる。それは、そこに、探しているものがいるかどうかを、確かめているのではないか。そうして、いないと知って、また、戻ってゆく。

私は、片方だけの手袋を思い出した。

翌日、私は町へ出て、この家のことを尋ねてまわった。

町といっても、小さな、寂れた町だった。バスは一日に数本しか来ず、商店街と呼ぶには短すぎる通りに、店がぽつぽつと並んでいる。私が、あの家のことを尋ねると、たいていの者は、言葉を濁した。ああ、あの家ね、と言ったきり、目を伏せて、話を変えてしまう。若い店員などは、あの家のことを、まるで知らなかった。町の者にとって、あの家は、触れてはならぬもの、忘れてしまいたいもの、そういう類の、何か、だったらしい。

役場に近い、古い雑貨屋の老婆が、話を聞くと、しばらく黙りこんだ。店の奥の、うす暗い畳の間に、私を上げてくれた。線香の匂いのする、古い家だった。老婆は、皺の刻まれた手で、ゆっくりと、湯呑みに茶を注いだ。その手が、少し、震えていた。それから、湯呑みの茶を、一口すすって、こう言った。

「あの家に、越しなすったか」

声に、憐れむような響きがあった。まるで、私が、これから背負うことになる何かを、あらかじめ、悼むような。私が、夜な夜な足音がすること、片方だけの手袋のことを話すと、老婆はますます黙りこんで、湯呑みを、じっと見つめた。茶の面に、天井の灯りが、ゆらゆらと映っていた。やがて、老婆は、ぽつり、ぽつりと、まるで、長いあいだ胸の底に沈めていたものを、一つずつ、すくい上げるようにして、語りはじめた。

あの家には、昔、若い夫婦が住んでいたのだという。もう、四十年も、五十年も前のことだ。

夫は町の材木屋に勤め、妻は、家で機を織っていた。子には恵まれず、ふたりきりの、静かな暮らしだった。だが、ふたりは仲がよかった。町でも評判の、仲のよい夫婦だったという。夕暮れどきになると、妻は畦道まで出て、夫の帰りを、待った。夫の姿が、田の向こうに見えると、妻は、子供のように手を振った。夫もまた、手を振り返した。そういう二人だった。とりわけ妻は、夫を大事にした。

冬になると、妻は夫のために、手袋を編んだ。夫は手が悴むと、うまく鑿がふるえない。木を刻む仕事だから、指先の感覚が、命だった。だから妻は、毎年、冬の来る前に、夫のために新しい手袋を編んだ。囲炉裏のそばで、夜なべをして、一目一目、心をこめて。編みあがると、それを、玄関の柱にかけておいた。夫が朝、仕事に出るとき、忘れずに持ってゆけるように。そうして、こう言うのだ。──今日は冷えるから、忘れんと、持っていきなされ。

「あんときの手袋はなあ」と老婆は言った。「白い、木綿のでのう。奥さんが、自分の手袋も、おそろいで、こしらえたそうな。二つ並べて編んで、片方は旦那さんに、片方は自分に。手ぇつないで歩くとき、おそろいがええ、って、笑うとった。若い夫婦じゃったからのう」

私の背筋を、冷たいものが伝った。

ある冬の朝のことだった。

その朝は、この冬いちばんの冷えこみだった。杉の林に、霜が白く降りて、田も、畦道も、真っ白に凍てついていた。夫は、いつものように仕事に出た。妻は玄関まで見送って、行ってらっしゃい、と言った。いつものように。何も知らずに。だが、その日、材木屋で、事故があった。積んであった丸太が、何かの拍子に崩れ、夫は、その下敷きになって、あっけなく死んだ。冷たい、凍てついた朝の、あっけない死だった。妻に、別れの言葉を、告げる間もなく。

報せを受けた妻は、家を飛びだそうとして――ふと、玄関の柱を見た。

柱には、片方だけ、手袋がかかっていた。

夫は、その朝、手袋を片方しか、持っていかなかったのだ。もう片方が、柱にかかったまま、残されていた。妻は、それを握りしめて、泣きくずれたという。

「あの人は、片っぽの手袋を、あんなに冷たい手で、仕事してたんかと思うと」と、妻は、後になって、老婆に言ったそうだ。「わたしは、もう、いてもたっても、いられんのです」

それから、妻は、変わってしまった。

夫の亡骸を弔ったあとも、妻は、家を離れなかった。町の者が、実家へ帰るように勧めても、首を振るばかりだった。年ごろの女が、ひとりであの家に暮らすのを、案じる者もあった。だが、妻は、頑として、動かなかった。妻は、こう言ったという。

「あの人が、帰ってきなさるかもしれん。手袋を、忘れていきなすったから。取りに、帰ってきなさるかもしれん」

はじめのうち、町の者は、それを、悲しみのあまりの、たわごとだと思った。時が経てば、あきらめもつこう、と。だが、妻は、あきらめなかった。一年が過ぎ、二年が過ぎても、妻は、待ちつづけた。夫の位牌に、毎朝、あたたかい飯を供え、夫の着物を、季節ごとに、虫干しした。そうして、夜になると──。

妻は、毎晩、夜が更けると、家じゅうを、歩いてまわった。廊下を、奥から玄関へ、玄関から奥へ。すり足で、板を撫でるように、ゆっくりと。夫が帰ってくるのを、待って。手袋の片方を、胸に、握りしめて。もう片方は、いつでも夫に渡せるように、奥の座敷に、きちんと揃えて、置いておいた。玄関の戸を、細く開けておくこともあった。冬の、凍える夜でも。夫が、いつ帰ってきてもいいように。冷たい風が、廊下を吹き抜けても、妻は、戸を閉めなかった。

「見に行くとな」と老婆は言った。「奥さんは、廊下に立って、じっと、玄関のほうを、見とるんじゃ。声をかけても、聞こえん。あの人が、帰ってきなさる、って、そればっかり。あたしゃ、こわくて、こわくて。けど、それ以上に、悲しくてな。かわいそうで、かわいそうで、あたしゃ、なんも、言えんかった」

そうして、何年かが過ぎた。何年も、何年も。妻の髪は、白くなり、背は、曲がっていった。それでも、妻は、待ちつづけた。

ある年の、いちばん寒い夜。妻は、廊下で、倒れているのを見つかった。凍てつくような、丑三つ時のことだった。手には、片方の手袋を、しっかりと握りしめていた。氷のように冷たくなった手で、それでも、放すまいと、握りしめて。もう帰らぬ夫を、あんなに長く、待ちつづけて。息を引きとるその瞬間まで、妻の目は、玄関のほうを、向いていたという。

「ちょうどな」と老婆は、遠くを見る目をして言った。「あの晩も、空に、あの蒼い星が、出とったそうな。何十年に一ぺんの、あの、尾を引いた星がな」

私は、言葉を失っていた。

あの足音は。毎晩、廊下を渡り、私の部屋の前で止まる、あの足音は。

夫を、待っている、妻の足音だったのだ。

三

家に帰ると、私は、奥の座敷へ行った。

片方だけの手袋は、畳のへこみのそばに、ゆうべと同じように、揃えて置かれていた。私は、それを見つめた。この手袋を、あの人は、握りしめて死んだのだ。そうして、いまも、待っている。四十年も、五十年も、この家で。

私は、はじめて、その足音が、こわくなくなった。

いや、こわくないと言えば、嘘になる。だが、そのこわさの底に、いつのまにか、ひどく切ないものが、沈んでいた。あの人は、私を、おびやかそうとしていたのではない。ただ、待っていたのだ。誰かが――夫が、帰ってくるのを。廊下を歩き、部屋の前で止まるのは、そこに、探し人がいるかどうかを、確かめていたのだ。

私は、妻のことを思った。

三年前に亡くした、私の妻のことを。彼女もまた、最期まで、私を待っていた。長い、病だった。はじめは、治ると、誰もが思っていた。だが、少しずつ、少しずつ、彼女は、痩せていった。病室のベッドで、白い天井を見つめて、彼女は、いつも、私の来るのを、待っていた。仕事が忙しいのを、彼女は知っていたから、無理に来てくれとは、言わなかった。ただ、私が病室に入ると、その顔が、ぱっと、明るくなった。子供のように。あの、畦道で夫を待った妻のように。

最後の夜、彼女は、痩せ細った手で、私の手を握って、言った。もう少し、もう少しそばにいて、と。だが、私は、明日も朝が早いから、と言って、その手を、そっと、ほどいた。彼女は、寂しそうに、笑った。それが、最後だった。翌朝、病院から電話があったとき、私は、まだ、家にいた。間に合わなかった。彼女は、ひとりで、逝った。私を、待ちながら。

私は、仕事にかまけて、その手を、幾晩、握ってやれなかっただろう。もう少し、そばにいて。その言葉を、私は、聞き流してきた。まだ、時間はある、と思っていた。だが、時間は、なかったのだ。

待つ者の思いを、私は、知らなかった。知ろうとも、しなかった。あの家の妻の、五十年の待つ思いと、私の妻の、最後の夜の待つ思いが、闇のなかで、ひとつに、重なった。私は、はじめて、待たれる者の罪の重さを、知った。

その夜、私は、眠らずに、足音を待った。

一時半をまわるころ、廊下の奥から、みしり、と音がした。

みしり、みしり、みしり。

足音は、いつものように、ゆっくりと、こちらへ向かってくる。私は、布団の上に、正座して、待っていた。雨戸の隙間からは、あの蒼い星の光が、細く、床に差しこんでいた。

足音が、私の部屋の襖の前で、止まった。

私は、静かに、襖に向かって、声をかけた。

「ご主人は」と、私は言った。声が、少し、震えた。「ご主人は、もう、お帰りになりませんよ」

襖の向こうの気配が、びくり、と、こわばった、ような気がした。冷気が、すっと、部屋に流れこんできた。私は、かまわず、続けた。

「材木屋で、事故に遭われて。ずっと前に、亡くなられた。あなたも、それは、ご存じでしょう」

沈黙があった。

長い、長い沈黙だった。廊下の闇が、じっと、私の言葉を聞いているようだった。家じゅうが、息を、ひそめていた。柱も、天井も、雨戸も、みな、私の次の言葉を、待っているようだった。私は、こわさよりも、哀しさで、胸がふさがれていた。この人に、これを言うのは、どれほど、むごいことか。五十年、待ちつづけた、その希望を、私は、いま、断ち切ろうとしている。あなたの待つ人は、もう、来ない、と。それは、この人にとって、二度目の、夫の死に、ほかならなかった。

だが、言わなければならない、と思った。誰かが、言ってやらなければ。四十年も、五十年も、この人は、来ない者を、待ちつづけているのだ。待つことは、たしかに、愛だ。だが、来ない者を待ちつづけることは、いつしか、その人を、この世でも、あの世でもない、宙ぶらりんの闇に、縛りつけてしまう。この人を、その闇から、解いてやれるのは、いま、私しか、いないのだ。あの雑貨屋の老婆も、言えなかった。町の誰も、言えなかった。だが、私は、言う。妻に、そばにいてやれなかった、その償いのように。

「でも」と、私は言った。「あなたが、待っていらしたことは、きっと、ご主人に、伝わっています」

冷気が、ふ、と、やわらいだ。

私は、立ち上がって、奥の座敷へ行った。片方だけの手袋を、両手で、そっと、すくい上げるように取った。それを持って、襖の前へ戻った。

「ご主人の手袋は」と、私は言った。「もう片方は、どこにあるんです」

答えは、なかった。だが、私は、なぜか、わかった気がした。妻が握りしめて死んだ、その片方は、きっと、妻とともに、葬られたのだ。この、座敷に残された片方だけが、いまも、この家に、残されている。夫に渡すはずだった、片方が。

私は、襖を、開けた。

廊下には、誰もいなかった。

ただ、雨戸の隙間から差しこむ蒼い光の中に、埃が、しずかに、舞っていた。その光の帯の、いちばん濃いところに、私は、手袋を、置いた。廊下の、冷たい板の上に。夫に、いつでも渡せるように、と、あの人がそうしていたように。きちんと、揃えて。

「これを」と、私は、闇に向かって、言った。「持って、行ってあげてください。ご主人のところへ。あなたが、行けば、渡せます。もう、待たなくて、いいんです」

そのときだった。

廊下の奥に、白い、もやのようなものが、立った。

人のかたちを、していた。うつむいた、女の姿だった。着物の裾が、闇に溶けて、はっきりとは見えない。だが、その手が――片方の手が、何かを求めるように、こちらへ、さしのべられていた。もう片方の手は、胸のあたりで、何か大切なものを、握りしめているように、見えた。

私は、動かなかった。息も、しなかった。

女は、ゆっくりと、廊下の板の上の手袋の、そばまで来た。すり足で。板を撫でるように。あの、毎夜の足音のままに。そうして、しゃがみこむような気配があった。私には、その顔は見えなかった。だが、その背に、四十年、五十年という、長い、長い歳月が、しんしんと、降り積もっているのが、見えるようだった。雪のように。霜のように。待ちつづけた、その、数えきれぬ夜の重みが。

私は、そのとき、女がすすり泣いているのを、聞いた、ような気がした。声にならない、細い、細い泣き声だった。それは、悲しみの泣き声では、なかった。むしろ、長い、長い旅の果てに、ようやく、探し物にたどりついた者の、安堵の泣き声だった。ああ、ここに、あった。あの人の、手袋が。ここに、あった、と。

女の手が、手袋に、触れた。

――ような、気がした。

次の瞬間、雨戸の隙間の蒼い光が、ふっと、揺れた。まるで、星が、またたいたように。冷気が、するすると、廊下から引いてゆく。凍てついていた家じゅうの空気が、ゆっくりと、ゆるんでいく。まるで、長い冬が、明けるように。そうして、白いもやは、その蒼い光の帯に、溶けるように、消えていった。消えぎわに、女は、こちらを、ほんの少し、振りむいた、ような気がした。その顔は、やはり見えなかった。だが、そこに、微笑みがあったことを、私は、なぜか、確かに、感じた。長い夜の果ての、しずかな、しずかな微笑みを。

あとには、ただ、しんとした闇と、板の上の、片方だけの手袋が、残された。そうして、家じゅうを満たしていた、あの冷たい気配は、もう、どこにも、なかった。この家は、五十年ぶりに、ようやく、ただの家に、戻ったのだった。

四

朝が来て、私は、廊下へ出た。

手袋は、まだ、そこにあった。ゆうべ、私が置いたところに、きちんと、揃えて。私は、それを、拾い上げた。ずいぶん古びて、指のあたりが黄ばんだ、白い、木綿の手袋。あの人が、夫のために編んだ、その、片方。

だが、その手袋を、手のひらに載せたとき、私は、あることに気づいた。

昨夜まで、どこか、しめった、重い感じがしていたその手袋が、今朝は、乾いて、軽かった。まるで、長いあいだそこに宿っていた何かが、ようやく、抜けていったように。ただの、古い手袋に、なっていた。

その夜から、足音は、しなくなった。

私は、その手袋を、どうしたものか、しばらく、迷った。

捨てるには、忍びなかった。かといって、家に置いておくのも、違う気がした。あの人は、もう、この家を、去ったのだ。夫のところへ、行ったのだ。だとすれば、この手袋も、あの人のそばに、あるべきではないか。

私は、町の寺を訪ねた。あの夫婦の墓が、どこにあるかを、あの雑貨屋の老婆に、教えてもらったのだ。

墓は、寺の裏の、日当たりのいい斜面にあった。小さな、古い墓石で、苔が、びっしりと生していた。長いあいだ、訪れる者もなかったのだろう。だが、不思議なことに、墓のまわりの雑草だけは、きれいに、抜かれていた。誰かが、ときおり、この墓を、手入れしているらしかった。あの雑貨屋の老婆かもしれない、と私は思った。

二人の名が、並んで、彫られていた。夫の名と、妻の名。生きているときは、あんなにも引き裂かれた二人が、石の上では、こうして、寄り添って、並んでいる。私は、その前に、しゃがんで、手袋を、供えようとした。

だが、供える前に、私は、墓石のそばに、あるものを見つけた。

片方だけの、手袋が、供えられていたのだ。私の手にあるのと、おそろいの、白い、木綿の。ずいぶん古びてはいたが、たしかに、対の、片方だった。

誰かが、ここに、供えたのだ。いつか、誰かが。あるいは――妻が、埋葬されるとき、その手に握られていた片方を、誰かが、こうして、墓に、供えたのかもしれない。

私は、手の中の片方を、その、墓のそばの片方の、隣に、そっと、置いた。

左と、右。

両手ぶんの手袋が、四十年、五十年の時を経て、ようやく、一つになった。

風が、渡った。

背後の杉の林が、遠い海のような音を立てた。私は、目を閉じて、しばらく、そうしていた。すると、どこからか、うたが、聞こえてきた。ような、気がした。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――。

子守唄だった。だが、それは、子をあやすうたではなかった。もっと、遠くへゆく者を、送るうたのように、聞こえた。低く、やさしく、しずかに。眠れ、眠れ。もう、待たなくていい。星が、海をわたって、あなたを、あの人のところへ、連れてゆくまで。

私は、うたが、聞こえなくなるまで、そこにいた。

家に帰る道すがら、私は、妻のことを、思った。

三年前、私は、妻の手を、握ってやれなかった。もう少し、そばにいて、と言われて、私は、仕事があるから、と病室を出た。それが、最後になった。私は、あの言葉を、いまも、忘れられない。もう少し、そばにいて。

あの家の、妻もまた、そう言いたかったのだろうか。夫に。もう少し、そばにいて。行かないで。だが、夫は、行ってしまった。片方の手袋を、残して。あの朝、妻は、玄関で、夫を見送った。いつものように、行ってらっしゃい、と。そのとき、妻は、知らなかったのだ。それが、今生の別れであることを。もし知っていたら、妻は、夫を、行かせなかっただろう。せめて、もう一度、その手を、握っただろう。だが、別れは、いつも、こうして、なんの前触れもなく、やってくる。だから、あの人は、待ったのだ。来ない者を、待ちつづけたのだ。待つよりほかに、なす術を、知らなかったから。待つことだけが、あの人に残された、たった一つの、夫への、愛の証だったから。

私は、なぜ、この家に、あの人が、憑いていたのか、ようやく、わかった気がした。あの人は、この家を、離れられなかったのだ。ここが、夫と暮らした、たった一つの場所だったから。ここで待っていれば、いつか、夫が、帰ってくる。その、かなわぬ望みだけを、頼りに。そうして、家そのものが、あの人の、待つ思いを、吸いこんで、しみこませて、五十年ものあいだ、静かに、鳴きつづけていたのだ。木が、鳴く、と、あの不動産屋の男は言った。あれは、木が鳴いていたのではない。あの人が、家のなかで、泣いていたのだ。

私は、家に着くと、仏壇に、妻の写真を、飾った。この家に越してから、荷の中にしまいこんだままだった、その写真を。私は、妻の面影から、逃げてきた。この家に、あの人の待つ思いがなければ、私は、いつまでも、逃げつづけていただろう。だが、あの人が、教えてくれた。逃げてはいけない、と。愛した人を、心の奥にしまいこんで、見ないふりをしてはいけない、と。

そうして、私は、写真に向かって、手を、合わせた。

「すまなかった」と、私は言った。「あのとき、そばに、いてやれなくて」

写真の中の妻は、いつものように、少し、はにかんだような顔で、笑っていた。

その夜、私は、久しぶりに、ぐっすりと、眠った。

夢を、見た。

あの家の廊下を、二つの影が、寄り添って、歩いていた。男と、女だった。女は、男の手に、手袋を、はめてやっていた。両手ぶんの、おそろいの、白い手袋を。男は、笑っていた。女も、笑っていた。二つの影は、玄関のほうへ、歩いてゆく。その先に、雨戸の隙間から、蒼い光が、差しこんでいた。あの、彗星の光だ。

二人は、その光の中へ、溶けるように、消えていった。

消えぎわに、女が、こちらを振りむいた、ような気がした。そうして、ほんの少し、頭を、下げた。長いあいだ、この家を、貸してくれて、ありがとう、と言うように。

私は、夢の中で、頷いた。いいえ、と。どうか、お幸せに、と。

五

それから、幾月かが過ぎた。

家には、もう、何の物音もしなかった。ただ、静かな、古い家として、そこにあった。私は、この家が、好きになっていた。あの人が、五十年、待ちつづけた、この家が。愛する者を、待ちつづけた場所というものは、こんなにも、しずかで、こんなにも、やさしいのだと、私は、はじめて、知った。

冬が来た。

この土地の冬は、厳しい。杉の林は、雪の重みで、うなだれ、家じゅうが、しんしんと、冷えた。私は、火鉢を出して、暖をとった。夜、火鉢の炭を見つめていると、ふと、あの人のことを、思い出す。冬になると、夫のために、手袋を編んだ、あの人のことを。

そういえば、と私は思った。

私は、あの日、寺で見た、対になった手袋のことを、思い出していた。片方は、左手。もう片方は、右手。ようやく、一つになった、あの手袋。あれを見たとき、私は、なぜか、ほっとしたのだ。長いあいだ、離ればなれだったものが、ようやく、揃った、と。

ある夜のことだった。

私は、火鉢のそばで、うたた寝をしていた。ふと、目を覚ますと、時計の針は、一時半を、まわっていた。丑三つ時だ。

私は、身を、固くした。まさか、また、あの足音が――と。

だが、聞こえてきたのは、足音では、なかった。

みしり、と、一度だけ、廊下が鳴った。そうして、そのあとに、かすかな、衣ずれのような音が、して。それきり、静かになった。私は、そっと、襖を開けて、廊下を、覗いた。

廊下には、誰もいなかった。

だが、雨戸の隙間から、あの蒼い光が、また、差しこんでいた。彗星が、ふたたび、めぐってきたのだろうか。それとも、私の、見まちがいだろうか。その光の帯の中に、何か、小さな、白いものが、落ちていた。

私は、近づいて、それを、拾い上げた。

手袋だった。片方だけの、白い、木綿の手袋。だが――それは、古びて、黄ばんだ、あの手袋では、なかった。真新しい、編みたての、あたたかな手袋だった。まるで、いま、編みあがったばかりの。

私は、その手袋を、両手で、包んだ。

あたたかかった。ほんの、かすかに。まるで、たったいままで、誰かの手が、そこに、あったように。

私は、それを、誰が、置いていったのか、わからなかった。

いや、本当は、わかっていた。だが、それを、言葉にするのは、こわいような、もったいないような気がして、私は、ただ、その手袋を、胸に、抱いた。

あの人が、置いていったのだ。

あの人は、夫のところへ、行った。もう、待たなくても、よくなった。だから、これは――この、あたたかな片方は、私への、贈り物なのだ。長いあいだ、この家を、貸してくれた、私への。あるいは、こう、言いたかったのかもしれない。あなたも、もう、待たなくて、いい、と。過ぎたことを、悔やまなくて、いい、と。

私は、その手袋を、仏壇の、妻の写真の、そばに、置いた。

片方だけの、あたたかな手袋。

もう片方は、きっと、どこか、遠いところに、ある。この世とあの世の、境の、向こうに。いつか、私が、そちらへ、渡るときに――妻が、待っていてくれる、そのときに、私は、もう片方を、受け取るのだろう。そうして、両手に、はめるのだろう。あの、夢の中の、男のように。

その冬、雪の降る夜には、決まって、廊下が、みしり、と、一度だけ、鳴った。

私は、もう、こわくなかった。それは、足音では、なかった。ただ、古い家が、息をする、その音だった。あるいは、あの人が、ときおり、この家を、懐かしんで、訪ねてくる、その、衣ずれの音だったのかもしれない。

みしり、と、廊下が鳴ると、私は、火鉢のそばで、そっと、目を閉じた。そうして、心のなかで、うたを、口ずさんだ。あの、子守唄を。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

眠れ、眠れ。もう、待たなくて、いい。あなたは、待ちつづけた。誰よりも、長く。だから、もう、眠っていい。星が、海をわたって、あなたを、あの人のところへ、連れていってくれる。片方だけの手袋を、両手に、揃えて。

六

春が来て、私は、庭に、草花を植えた。

あの人が、五十年、待ちつづけた、この家の庭に。夫を、待つあいだ、この庭を、あの人は、どんな思いで、眺めていたのだろう。花の一つも、植える気には、なれなかっただろうか。それとも、いつか帰ってくる夫のために、花を、咲かせていただろうか。

私は、あの人のぶんも、花を、植えた。白い花を、多く。あの、手袋の色の、白い花を。土を掘り、根を埋め、水をやりながら、私は、あの人に、語りかけた。あなたの待った夫は、もう、あなたのそばにいますよ、と。だから、この庭は、もう、待つ庭ではなく、二人が、安らかに眠る、その、しるしの庭ですよ、と。風が、白い花を、やさしく揺らした。それが、あの人の、返事のように、思えた。

そうして、私は、この家で、暮らしつづけた。

もう、足音は、しない。あの人は、行ってしまった。だが、この家には、あの人の、長い、長い、待つ思いが、いまも、しずかに、染みついている。私は、その思いに、包まれて、暮らしている。それは、こわいことでは、なかった。むしろ、あたたかい、ことだった。

あるとき、あの雑貨屋の老婆が、私を訪ねてきた。

もう、ずいぶんと、齢をとった老婆だった。あの夫婦のことを、知る、最後の一人かもしれなかった。老婆は、家に上がると、廊下を、ゆっくりと、歩いてまわった。そうして、奥の座敷まで来ると、しばらく、立ちつくして、それから、ぽつりと、言った。

「静かになんなすったな」

私は、頷いた。そうして、あの夜のことを――足音が、消えた夜のことを、老婆に、話した。片方だけの手袋を、廊下に置いたこと。白いもやが、立ったこと。それが、蒼い光の中へ、溶けていったこと。寺で、対の手袋を、見つけたこと。

老婆は、目を、うるませて、聞いていた。

「そうかい」と、老婆は、言った。「そうかい。やっと、逢えたんかい。あの二人は」

老婆は、袖で、目もとを、押さえた。

「あたしはな」と、老婆は言った。「若いころ、あの奥さんと、仲がよかったんだ。あの人は、やさしい、いい人でな。旦那さんが、亡くなってからも、あたしゃ、ときどき、この家に、来た。奥さんは、いつも、廊下を見て、こう言うんだ。あの人が、帰ってきなさる、片方の手袋を、取りに、帰ってきなさる、ってな。あたしゃ、なんも、言えなかった。旦那さんは、もう、帰らんのに。奥さんに、それを、言えなかった」

老婆の、皺だらけの手が、震えていた。

「あんたが」と、老婆は、私を見て、言った。「言ってくれたんだな。あたしが、言えなかったことを。あの人に。もう、待たなくていいって。ありがとうな。ほんとに、ありがとうな」

老婆が、帰ったあと、私は、縁側に、腰かけて、庭を、眺めた。

白い花が、風に、揺れていた。

私は、思った。人は、なぜ、待つのだろう。来ないと、わかっていても、待つ。帰らないと、知っていても、待つ。それは、愚かなことなのだろうか。いや、と、私は思った。それは、愛する、ということなのだ。愛は、待つことなのだ。相手が、たとえ、二度と、帰らなくても。その人を、思いつづけること。それが、愛なのだ。

あの人は、五十年、愛しつづけた。

私は、三年、妻を、悼みつづけた。だが、私の悼みは、あの人の、待つ思いには、遠く、及ばなかった。私は、悲しみを、逃れようと、この家へ、越してきた。だが、この家で、私は、逃れることの、できない愛を、知った。

その夜、私は、仏壇の前に、座った。

妻の写真の、そばには、あの、あたたかな、片方だけの手袋が、置いてあった。私は、それを、手に、取った。もう、あたたかくは、なかった。ただの、白い、木綿の手袋に、なっていた。だが、私は、それでも、よかった。

「私は」と、私は、写真に向かって、言った。「もう、逃げないよ。ちゃんと、君を、思って、生きていく。君が、待っていてくれるなら、私は、いつか、そこへ、行く。あわてなくても、いい。ゆっくり、生きて、そうして、行くよ」

写真の中の妻は、あいかわらず、はにかんだ顔で、笑っていた。

私は、手袋を、写真のそばに、戻した。片方だけの手袋。もう片方は、いつか、私が、そちらへ渡るときに、受け取るのだ。両手に、揃えて。あの、夢の中の、男のように。妻が、私の手に、手袋を、はめてくれる。おそろいの、白い手袋を。そうして、私たちは、二つの影になって、蒼い光の中へ、溶けていく。

その夜も、雪が、降った。

みしり、と、廊下が、一度だけ、鳴った。

私は、火鉢のそばで、目を閉じた。そうして、心のなかで、うたを、口ずさんだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――。

うたは、しずかに、闇のなかへ、染みていった。雨戸の隙間からは、あの蒼い星の光が、細く、床に、差しこんでいた。この世と、あの世の、境を、そっと、照らすように。

待つ者は、もう、いない。だが、この家は、いまも、しずかに、誰かを、待っている。いつか、渡ってゆく者を。星が、海をわたる、その刻を。

私は、その光の中で、しずかに、眠りに落ちた。片方だけの手袋を、握りしめた、あの人の、長い、長い待つ思いに、そっと、包まれながら。この世のいちばん奥の、丑三つ時の闇の底で、誰かを待つということが、これほどまでに、あたたかいものだと、私は、ようやく、知ったのだった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

← 『丑三つ時の物語』目次へ