月光書房
丑の刻 ・ 丑三つ時 ・ 第 二 話

合わせ鏡の回廊

鏡沼 志摩
幻想怪異 ・ 約27頁

一

その部屋を貸してくれた老女は、鍵を渡すときに、一つだけ約束をさせた。

「丑三つ時にね、あの二枚の鏡を、向かい合わせのまま覗いちゃいけませんよ」

声は錆びた蝶番のようにかすれていて、けれど目だけは妙に濡れて光っていた。私はうなずいた。約束というものは、たいていうなずいた瞬間に忘れるためにある。老女もそれを知っていたのだと思う。だから念を押すでもなく、私の手のひらに真鍮の鍵をのせて、それきり黙って階段を降りていった。木の段が、彼女の重みを一段ずつ数えるように軋んだ。

私が借りたのは、古い下宿の三階、いちばん奥の六畳間だった。妻が死んでから、私は前の住まいにいられなくなっていた。台所の窓辺に、彼女の使っていた湯呑みがまだ伏せてあった。玄関の三和土に、彼女の靴が爪先をこちらに向けて揃えてあった。どれも動かせなかった。動かせば、彼女がもう戻らないことを、私の手で認めてしまう気がした。だから私は、なにも触れないまま、家ごと捨てるように出てきたのだった。

この部屋には、前の住人が残していったという二枚の姿見が、二つの壁に、ちょうど向かい合うかたちで立てかけてあった。片方は西の窓のそば、片方はその正面の、押入れの襖の前。どちらも縁の金がすっかり黒ずんで、ところどころ銀が剥げ、映すものを少しだけ古びた色に沈めた。私はその配置が、なんとなく気に入っていた。誰かがこの部屋で、鏡を見ながら暮らしていた。その気配だけが、独りの私にはちょうどよかった。

夜が更けると、下宿はしんと静まった。誰かが住んでいるはずなのに、物音ひとつしない。壁の向こうも、床の下も、空き家のように黙っていた。ただ、遠くで水の落ちる音だけがした。雨樋か、あるいはどこかの台所の蛇口が、締めきれずに、ひとしずくずつ夜を刻んでいるのだろう。私はその音を数えながら、蒲団の中で目をあけていた。

眠れなかった。妻が死んでから、私はうまく眠れなくなっていた。眠りに落ちる寸前、意識がふっと緩むあの瞬間に、彼女の手が私の手を探ってくる気がするのだ。そうして目をあけると、そこにはなにもない。冷たい闇と、私の右手の指の、行き場のない開きぐあいだけが残る。妻はよく、眠りながら私の手を握った。その握力がだんだん弱くなって、朝には離れているのが常だった。その最後のひと握りを、私はもう二度と受け取ることができない。

枕元の目覚まし時計が、午前一時をまわった。

私は起きあがった。喉が渇いていた。台所へ立とうとして、私はふと、部屋の中の明るさに気づいた。西の窓から、青白い光が差し込んでいた。月ではなかった。月はもう沈んでいるはずだった。

窓辺に寄って、私は空を見あげた。

東の、いちばん深い闇のところに、ひとつの星が懸かっていた。ほかのどの星よりも蒼く、冴えて、けれど瞬くことをせず、じっと地上を見おろしていた。尾を引いているように見えた。淡い、水を刷いたような尾を。彗星だ、とすぐにわかった。新聞でそんな記事を読んだ気がした。何十年かに一度、あるいは幾世紀に一度、この空を訪れるという――ミラ彗星。その名を、私はなぜか声に出してつぶやいていた。

その青い光が、部屋の中まで届いていた。

二

窓に背を向けたとき、私は西の鏡の中に、彗星が映っているのを見た。

鏡は窓を映し、窓の向こうの空を映し、その空の深みに、蒼い星が沈んでいた。鏡の中の彗星は、実際のそれよりもいっそう遠く、いっそう冷たく見えた。ガラスの奥にもうひとつの夜があって、その夜のさらに奥に、あの星が懸かっているようだった。

そして、その西の鏡に映った彗星が、こんどは正面の鏡にも映り込んでいた。

向かい合った二枚の鏡は、たがいをたがいの中に映していた。西の鏡の中に正面の鏡があり、その正面の鏡の中にまた西の鏡があり――そうやって、鏡は鏡を無限に呑みこんでいた。青い星は、その回廊のひとつひとつに、小さくなりながら、けれど消えることなく、点々と灯っていた。奥へ、奥へ。まるで、ずっと向こうまで続く廊下の、いちばん果てに、蒼い明かりが一つだけ点いているように。

老女の言葉が、ふいに耳の底で鳴った。

――丑三つ時にね、あの二枚の鏡を、向かい合わせのまま覗いちゃいけませんよ。

私は時計を見た。針は、一時をとうにまわっていた。二時に近かった。丑三つ時とは、確か午前二時から二時半のあたりを言うのではなかったか。まだ、その刻ではない。私はそう自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、けれど私はもう、二枚の鏡のちょうど真ん中に、身を置いていた。

鏡の回廊が、私を左右から挟んでいた。

覗くつもりはなかった。ただ、彗星の映り込みが美しかった。それだけのはずだった。私は西の鏡のほうへ、少し顔を近づけた。ガラスは冷たかった。近づいただけで、頬にひやりとした気配が触れた。鏡というものが、こんなにも冷たい空気を溜めているとは、それまで知らなかった。

鏡の中に、私がいた。青い光を浴びた、やつれた男が。その男の背後に、正面の鏡が映っていた。正面の鏡の中に、また私の背中があり、その向こうにまた鏡があり――回廊は、私の姿を何十人にも増やしながら、奥へ奥へと続いていた。手前の私は、はっきりしていた。次の私は、少し暗かった。その次は、もっと暗く、輪郭が滲んでいた。そうして、いちばん奥の私は、もう私であるのかどうかもわからないほど、闇に溶けかけていた。

私は、そのいちばん奥を、じっと見た。

見てはいけない、と体のどこかが言っていた。けれど私の目は、吸い寄せられるように、回廊の果てへ果てへと落ちていった。ガラスの奥の、そのまた奥。青い星の点々の、いちばん向こう。そこに――

誰かが、立っていた。

私ではなかった。

背丈が違った。肩の線が違った。それは女の影だった。小柄で、うつむきがちで、両手を前で軽く重ねて、じっとこちらを――いや、こちらではなく、回廊のこちら側の、私のほうを、見ているようだった。

心臓が、一度、大きく打った。

わかってしまった。わかってはいけないのに、わかってしまった。その肩の線を、そのうつむきかたを、その、両手を前で重ねる癖を、私は知っていた。十年、毎朝、玄関で見送られながら見ていた。十年、毎晩、迎えられながら見ていた。

妻だった。

鏡の回廊の、いちばん奥に、死んだ妻が立っていた。

私は動けなかった。声も出なかった。ただ、目だけが、その小さな影に釘づけになっていた。影は動かなかった。青い星の光の中で、ただ静かに、こちらを見ていた。その顔は、遠すぎて見えなかった。表情も、目も、なにも見えなかった。ただ、そこに立っている、という気配だけが、回廊のいちばん奥から、まっすぐに私のところまで届いていた。

どれだけそうしていただろう。

部屋の空気が、いつのまにか、冷えきっていた。息が、白くなるほどではないが、指の先が、かじかんでいた。鏡というものは、こうして向かい合わせに置くと、そのあいだに、この世のものではない冷気を溜めるのだろうか。私は、その冷たさの中で、身じろぎもできずに、ただ、いちばん奥の、小さな影を、見つめつづけた。影は、私が見つめるほどに、はっきりとしていくようだった。まるで、見られることで、そこに在ることを許される者のように。

やがて、私はそっと、鏡から顔を離した。すると、奥の影も、ゆらりと薄れて、闇に紛れた。私は息をついた。冷たい汗が、背中を伝っていた。幻だ、と思った。眠れぬ夜の、疲れきった目が見せた、ただの幻だ。彗星のせいだ。青い光が、闇の中に、ありもしないものを描かせたのだ。

人は、失ったものを、どこにでも見る。雑踏の中に、後ろ姿を。人ごみのざわめきの中に、声を。夜更けの、静まりかえった部屋の中に、衣ずれの音を。私も、この半年、幾度も、妻を見た。台所に立つ、後ろ姿を。玄関で、靴を揃える、しゃがんだ背を。そのたびに、瞬きひとつのあいだに、それは消えた。この鏡の中の影も、きっと、その類のものだ。私は、そう思おうとした。思おうとして、けれど、心のどこかが、そうではない、と、静かに言っていた。あの影には、たしかな、気配があった。ただの残像には、ない、こちらを見返してくる、意思のような、なにかが。

そう思おうとして、けれど私は、もう一度、鏡に顔を近づけていた。

影は、まだそこにいた。私が覗けば、現れた。離せば、消えた。何度やっても、同じだった。回廊のいちばん奥に、妻は、いた。私を待つように、そこに、立っていた。

三

その夜、私は明けがたまで、鏡の前に座っていた。

覗いては、離した。離しては、覗いた。そのたびに、妻は現れ、消えた。私は彼女に呼びかけようとした。名を呼ぼうとした。けれど、声は喉のところで凍りついて、出てこなかった。鏡の中の妻も、私を呼ばなかった。ただ、立っていた。両手を前で重ねて、うつむきがちに、じっと。

空が白みはじめると、彗星は薄れた。鏡の回廊から、青い星が一つずつ消えていった。奥のほうから、順に。そうして最後に、いちばん奥の影も、朝の光の中に溶けていった。私は、しばらくその空っぽの回廊を見つめていた。もう、そこには私しか映っていなかった。何十人もの、やつれた私だけが。

私は蒲団に倒れこんだ。そうして、ひさしぶりに、深く眠った。夢も見なかった。ただ、眠りの底で、誰かの手が、私の右手を、そっと握ったような気がした。

目がさめると、昼を過ぎていた。

私は台所へ立ち、水を飲んだ。窓の外は、なんの変哲もない、灰色の曇り空だった。昨夜のことが、まるで嘘のように思えた。私は自分に言い聞かせた。疲れていたのだ。妻を失って、眠れずにいて、心が弱っていた。だから、ありもしないものを見た。それだけのことだ。今夜はもう、あの鏡を覗くまい。

けれど、日が暮れて、夜が更けて、時計の針が一時をまわるころには、私はもう、二枚の鏡の真ん中に座っていた。

私は、鏡の前に、月光堂の青いマッチ箱を置いた。

なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。ただ、暗いのが不安だった。彗星の青い光だけでは、心もとなかった。私は妻が生前、火を灯すのに使っていた、あの小さなマッチ箱を、荷物の底から探しだしてきた。月光堂、と古い書体で刷られた、藍色の紙の箱。中には、まだ何本かのマッチが残っていた。妻は、蝋燭を灯すのが好きだった。停電の夜も、そうでない夜も、彼女はよくこのマッチを擦って、小さな炎を、部屋のあちこちに灯した。火を見ていると心が静まるのだと、彼女は言っていた。

私はマッチを一本、擦った。

しゅっ、と燐が鳴って、青みがかった炎が立った。私はそれを、鏡の前に置いた燭台の蝋燭に移した。炎は、二枚の鏡に映って、無数になった。回廊のひとつひとつに、小さな灯がともった。彗星の青と、蝋燭の橙と。二つの光が、鏡の奥で、点々と連なった。

そうして私は、また、覗いた。

妻は、いた。

その夜、彼女は、ほんの少し、近づいていた。

四

気のせいだと思いたかった。けれど、そうではなかった。夜ごと、妻は、回廊を、こちらへ近づいてきた。

最初の夜、彼女はいちばん奥にいた。二番目の夜、彼女は一つ手前の鏡の中にいた。三番目の夜、また一つ。彼女は、鏡の廊下を、ゆっくりと、ゆっくりと、私のほうへ歩いてきていた。まるで、長い長い廊下の果てから、一晩にひと部屋分だけ、こちらへ来ることを許されているかのように。

顔が、少しずつ見えるようになってきた。

初めのうちは、ただの影だった。それが、輪郭を持ちはじめた。肩が、首が、そして頬の線が。彼女は、死んだときのままの顔をしていた。病でやつれる前の、まだ健やかだったころの顔だった。私は、その顔を見るのが、うれしくて、こわかった。うれしくて、哀しかった。

私は毎晩、彼女に話しかけた。

「すまなかった」と、私は言った。「あのとき、俺は、そばにいてやれなかった」

妻が死んだのは、私が仕事で家を空けていた、ある冬の朝だった。容態が急に変わったのだ。病院から電話が来たとき、私はまだ隣の県にいた。飛んで帰ったときには、もう間に合わなかった。彼女は、独りで逝った。冷たくなった彼女の手を握って、私は、なぜ手を握ってやれなかったのかと、それだけを悔いた。彼女はいつも、眠るとき、私の手を握った。だから、最期の眠りのときも、きっと、誰かの手を探したはずだった。そこに、私の手は、なかった。

鏡の中の妻は、なにも言わなかった。ただ、私の言葉を聞くように、じっと、こちらを見ていた。その目には、責める色も、悲しむ色もなかった。ただ、静かだった。深い水のように、静かだった。

私は、妻と過ごした日々を、話した。誰にも聞かれぬ、深夜の部屋で、鏡の中の影に向かって、私は、とりとめもなく、話しつづけた。はじめて出会った、雨の日のこと。傘を、一本しか持っていなくて、二人で、肩を濡らしながら、歩いたこと。小さな所帯を、持ったこと。狭い台所で、妻が、鼻唄をうたいながら、味噌汁をつくっていたこと。子ができないと、わかったときの、あの、二人で黙りこんだ、長い夜のこと。それでも、二人でいい、と、妻が、私の手を握って、言ってくれたこと。妻は、いつも、私の手を握った。うれしいときも、哀しいときも。言葉の代わりに、手を握った。その、手の温もりだけが、私たちの、言葉だった。

鏡の中の妻は、その、ひとつひとつを、聞いていた。うなずきもせず、微笑みもせず、ただ、聞いていた。それでも、私は、彼女が、聞いてくれている、と、感じた。この半年、私は、誰にも、妻のことを、話せなかった。話せば、涙が、こぼれた。けれど、この鏡の前でだけは、私は、涙をこぼしながらも、話すことが、できた。聞いてくれる者が、いたから。たとえ、それが、幻であったとしても。

「会いたかった」と、私は言った。「毎日、毎日、会いたかった」

妻の唇が、動いたように見えた。声は聞こえなかった。けれど、その口の形を、私は読んだ。

――わたしも。

私は、下宿を出なくなった。

仕事にも行かなくなった。昼のあいだは眠り、夜になると起きて、鏡の前に座った。食べるものも、ほとんど口にしなくなった。青いマッチは、一本、また一本と減っていった。減るたびに、私は、これがなくなったらどうしようと思った。妻を灯す火が、消えてしまう。そう思うと、こわくてたまらなかった。

鏡の中の妻は、もう、すぐそこまで来ていた。

二枚の鏡の、二つか三つ奥の廊下。そこに、彼女は立っていた。手をのばせば、届きそうなほどの近さだった。私は、実際に、鏡に手をのばした。指が、冷たいガラスに触れた。そのガラスの向こうに、妻がいた。私と同じように、彼女も、手をのばしていた。二人の指が、ガラスを挟んで、重なった。冷たかった。けれど、その冷たさの奥に、かすかに、温もりのようなものがある気がした。

「こっちへ、おいで」と、私は言った。

妻は、首を、ゆっくりと横に振った。

そうして、こんどは、彼女の唇が、はっきりと、動いた。

――あなたが、こっちへ。

五

その夜から、私は、鏡の中へ入ることを、考えるようになった。

言い伝えを、私は思いだしていた。子どものころ、祖母から聞いた話だった。丑三つ時に合わせ鏡を覗くと、鏡の回廊の奥に、この世でない者が見える。そして、その者に呼ばれるまま、回廊を奥へ奥へと歩いていくと――やがて、境を越えて、あちらへ行ける。けれど、一度あちらへ渡った者は、二度と、こちらへは戻れない。

戻れなくてもいい、と私は思った。

妻のいない世界に、なんの未練があるだろう。この世に、私を待つ者はいない。私を握る手はない。私が握る手もない。ならば、あちらへ行こう。鏡の回廊を歩いて、妻のところへ行こう。彼女のそばで、彼女の手を握って、もう二度と離すまい。

私は、そう決めた。

決めてしまうと、心が、妙に静かになった。もう、迷いはなかった。あとは、その刻を待つだけだった。丑三つ時。この世とあの世の境が、いちばん薄れる刻。その刻に、私は、鏡の中へ入る。

けれど、その決意の夜、私は、思いがけないものに出会った。

夜半、私は、水を汲みに、階下へ降りた。もう何日も、まともに食べていなかった。せめて水だけでもと、台所へ向かった。下宿は、いつものように、しんと静まりかえっていた。誰も住んでいないような静けさだった。

その、暗い廊下の突きあたりに、見慣れぬ引き戸があった。

いつも、そこは壁だったはずだった。私は幾度もこの廊下を通ったが、そんな戸を見た覚えはなかった。けれど、いまは、たしかに、そこに戸があった。細く開いていて、その隙間から、あたたかな明かりが、廊下に細く伸びていた。

戸の上に、古びた木の看板が掛かっていた。墨で、こう書いてあった。

――月光書房。

私は、吸い寄せられるように、その戸を開けた。

六

そこは、本屋だった。

小さな、けれど奥行きの深い、古書店だった。天井まで届く書架が、幾列も並んでいて、そのあいだを、細い通路が縫っていた。書架には、びっしりと本が詰まっていた。背表紙の文字は、どれも掠れて、読めなかった。店の奥に、机が一つあって、そこに、古い洋燈が一つ、灯っていた。橙の、あたたかな光だった。鏡の中の、あの冷たい青とは、まるで違う光だった。

机の向こうに、店主らしき人影があった。

顔は、影になっていて、よく見えなかった。ただ、痩せた老人のようだった。その人は、私が入ってきても、驚くふうもなく、ただ、静かに言った。

「お待ちしていました」

私は、なにも言えなかった。

「あなたは、渡ろうとしていますね」と、店主は言った。「鏡の、向こうへ」

どうして、それを知っているのか。私は問おうとして、けれど、問えなかった。この店では、そういうことを問うのは、野暮なのだと、なぜか、わかった。

「渡る前に」と、店主は言った。「一冊、お読みになるといい」

店主は、机の上に、一冊の本を置いた。古い、革表紙の本だった。表紙には、なんの題も、記されていなかった。

「これは」と、私は、ようやく声を出した。「なんの、本ですか」

「あなたの、奥さまの本です」と、店主は言った。

私は、震える手で、その本を開いた。

中には、文字ではなく、絵が――いや、絵でもなかった。それは、記憶だった。頁をめくるごとに、そこに、私の知らない妻の時間が、映しだされた。私のいないところで、妻が生きていた、その時間が。

朝、私を送りだしたあと、妻が、独りで、窓辺で茶を飲んでいる姿。私の帰りを待ちながら、夕餉の支度をしている姿。私が眠ったあと、そっと起きて、私の寝顔を見ている姿。私が知らなかった、妻の、独りの時間。そのどの頁にも、妻は、静かに、微笑んでいた。淋しげでは、なかった。むしろ、満ち足りて、見えた。

そして、いちばん最後の頁。

そこには、妻の、最期の朝が、映っていた。

病室のベッドで、独り、妻は、目をあけていた。窓の外は、雪だった。彼女は、その雪を、じっと見ていた。そうして、かすかに、唇を動かした。私は、その口の形を、読んだ。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

子守唄だった。私たちには、子はなかった。けれど、妻は、その唄を、よく口ずさんだ。いつか生まれるかもしれない子のために、と言って。結局、その子は、生まれなかった。それでも、彼女は、その唄を、忘れなかった。

最期の朝、独りきりの病室で、妻は、自分自身に、その子守唄を、うたっていた。

――眠れ、眠れ。星が、海をわたるまで。

そうして、彼女は、静かに、目を閉じた。その顔に、苦しみは、なかった。恐れも、なかった。ただ、長い一日を終えて、眠りにつく人の、安らかさが、あった。

私は、頁の上に、涙を落とした。

七

「奥さまは」と、店主が、静かに言った。「独りで逝かれたことを、悔いてはおられません」

私は、顔をあげた。

「悔いているのは、あなただけです」と、店主は言った。「奥さまは、もう、渡りきっておられる。安らかな岸に、着いておられる。あなたが、鏡の中に見ておられるのは――」

店主は、そこで、言葉を切った。

「あなたの、悔いです」と、店主は言った。「あなたの、会いたいという思いが、鏡の奥に、奥さまの姿を、描いているのです。あれは、奥さまであって、奥さまではない。あなたの、悲しみが、あなたに見せている、影です」

私は、かぶりを振った。

「違う」と、私は言った。「あれは、妻だ。妻が、俺を、呼んでいる。こっちへおいで、と。俺は、行かなければ。妻のところへ――」

「では」と、店主は、私の言葉を、静かに遮った。「奥さまは、鏡の中で、微笑んでおられますか」

私は、はっとした。

鏡の中の妻は――微笑んでいなかった。近づいてくる妻の顔は、いつも、無表情だった。じっと、こちらを見ているだけだった。この本の中の妻は、あんなにも、静かに微笑んでいるのに。鏡の中の妻は、一度も、微笑まなかった。

「あなたを呼んでいるのは」と、店主は言った。「奥さまではありません。あなた自身の、死にたいという思いです。会いたいという思いの、いちばん底に、あなたは、もう生きていたくない、という思いを、隠しておられる。鏡は、それを、映しているのです」

店主の言葉は、冷たい水のように、私の胸に、しみこんだ。

「鏡の中へ渡れば」と、店主は言った。「あなたは、奥さまに会えるでしょう。けれど、それは、ほんとうの奥さまではない。あなたの悲しみが作った、影です。あなたは、影と、抱きあうことになる。そして、二度と、戻れない。永遠に、その冷たい回廊を、影とともに、さまようことになるのです」

私は、うつむいた。

店主の言葉が、正しいのだ、と、心のどこかが、認めていた。鏡の中の妻は、一度も、微笑まなかった。近づいてくるほどに、その顔は、無表情に、なっていった。ほんとうの妻なら、私を見れば、あの、やわらかな微笑みを、浮かべたはずだった。けれど、鏡の中の彼女は、ただ、じっと、私を、引きこもうとするように、見ているだけだった。あれは、妻の顔をした、私の悲しみだった。私を、冷たい回廊の奥へ、道づれにしようとする、私自身の、いちばん深い、闇だった。

それが、わかっても、なお、私は、行きたかった。たとえ影であっても、妻の顔をした、なにかに、会えるのなら。この、なにもない、ひとりきりの世界に留まるくらいなら、冷たい鏡の回廊を、永遠にさまようほうが、まだ、ましだと、思った。その思いの、あさましさを、私は、恥じた。恥じながら、けれど、手放せなかった。

「では」と、私は、絞りだすように言った。「俺は、どうすればいい。妻は、もういない。この世に、俺を待つ者はいない。俺の手を握る者はいない。それでも、俺は、生きていかなければ、ならないのですか」

店主は、しばらく、黙っていた。

やがて、店主は、机の引き出しから、なにかを取りだして、私の前に、置いた。

それは、手袋だった。片方だけの、女物の、白い手袋。

八

「これは」と、店主は言った。「奥さまが、あなたに、遺されたものです」

私は、それを、手に取った。見覚えがあった。妻の手袋だった。冬になると、彼女がいつもしていた、白い手袋。けれど、片方だけだった。もう片方は、どこにあるのか。

「奥さまは」と、店主は言った。「片方を、あちらへ持っていかれました。そして、片方を、こちらに、遺された。あなたの、手のために」

私は、その手袋を、じっと見つめた。

「奥さまは」と、店主は続けた。「あなたが、独りで、手を握るもののない夜を過ごすことを、案じておられた。だから、これを、遺された。これをはめて、ご自分の左手を、右手で、握っておやりなさい、と」

私は、その手袋を、右手にはめてみた。妻の手の、かたちに、まだ、少しだけ、伸びていた。私は、その右手で、自分の左手を、握った。手袋を通して、自分の手の、温もりが、伝わってきた。

なぜか、その瞬間、私は、妻の握力を、思いだした。

眠るとき、私の手を握った、妻の、あの、だんだんと弱くなっていく握力。朝には、離れている、あの手。それは、握りしめる力ではなかった。ただ、そこにいる、という、しるしだった。あなたが、そばにいる。わたしは、独りではない。それだけの、しるしだった。

妻は、私に、そのしるしを、遺したのだ。

――独りではない、と。

私が、手を握るものがなくても、私の右手が、私の左手を、握ってやれる。妻が、そうしてほしいと、願ったように。妻の温もりは、もう、この世にはない。けれど、私の手の温もりは、まだ、ここにある。それを、握ってやることが、できる。

私は、はじめて、泣いた。声をあげて、泣いた。

店主は、なにも言わなかった。ただ、洋燈の、あたたかな光の中で、静かに、私を、見守っていた。

どれだけ、泣いていただろう。

顔をあげると、店主が、静かに言った。

「もう、お帰りなさい」

「あの、鏡は」と、私は、涙を拭いて、言った。「どうすれば、いいのですか」

「覗くのを、おやめなさい」と、店主は言った。「そして、二枚を、向かい合わせでない場所に、移しておやりなさい。そうすれば、回廊は、閉じます。奥さまの影も、静かに、あちらへ、帰っていかれるでしょう。あなたが、悲しみを、手放したときに」

私は、うなずいた。

「けれど」と、店主は言った。「今夜だけは、もう一度、覗いてもよろしい。今夜が、丑三つ時。境が、いちばん、薄れる刻です。今夜だけ、あなたは、奥さまに、ほんとうの、別れを、告げることができる」

私は、革表紙の本と、白い手袋を、胸に抱いて、店を出た。

振りかえると――そこには、もう、店はなかった。

ただ、暗い廊下の、突きあたりの壁があるだけだった。あの引き戸も、あの明かりも、なかった。私は、しばらく、その壁を見つめていた。そうして、胸に抱いた本と手袋の、たしかな重みを、確かめた。夢では、なかった。

九

部屋に戻ると、時計の針は、二時を、まわろうとしていた。

丑三つ時。

私は、二枚の鏡の、真ん中に座った。鏡の前には、月光堂の青いマッチ箱が、置いてあった。私は、最後の一本を、擦った。しゅっ、と、燐が鳴った。青みがかった炎が、立った。私は、それを、蝋燭に移した。

炎が、二枚の鏡に映って、無数になった。回廊のひとつひとつに、小さな灯が、ともった。

窓の外には、まだ、ミラ彗星が、懸かっていた。いちばん深い闇の、そのまた奥に、蒼く冴えて。この世と、あの世の、境を照らすように。その青い光が、鏡の回廊の、奥へ奥へと、点々と続いていた。橙の蝋燭の火と、蒼い彗星の光と。二つの光が、無限の廊下を、照らしていた。

私は、覗いた。

妻は、すぐそこに、いた。

二枚の鏡の、ひとつ奥の廊下。手をのばせば、届く近さに、彼女は、立っていた。無表情に、じっと、こちらを見ていた。その顔は、たしかに、妻の顔だった。けれど、店主の言葉が、いま、わかった。これは、妻ではない。私の、悲しみが、描いた、妻の影だ。

「聞いてくれ」と、私は、その影に、話しかけた。

「俺は、行かない。そっちへは、行かない」

妻の影が、かすかに、揺れた。

「おまえは」と、私は言った。「もう、渡りきったんだな。安らかな岸に、着いたんだな。独りで逝ったことを、悔いてなんか、いなかったんだな。最期に、あの子守唄を、うたっていたんだな。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と」

私は、涙を、こらえた。

「俺は、ずっと、悔いていた。おまえの手を、握ってやれなかったことを。おまえを、独りで、逝かせたことを。その悔いが、この鏡の中に、おまえを、呼びだしたんだ。ほんとうの、おまえは、もう、ここには、いないのに」

妻の影は、なにも言わなかった。ただ、こちらを、見ていた。

「だから」と、私は言った。「もう、帰ってくれ。安らかな、岸へ。俺は、もう、おまえを、呼ばない。おまえの影を、この冷たい鏡の中に、縛りつけておくのは、やめる。それが、ほんとうに、おまえを、愛するということなんだろう」

私は、右手にはめた、白い手袋を、鏡に、かざした。

「これを、もらった。おまえが、遺してくれた、片方の手袋を。俺は、これで、自分の手を、握る。おまえが、そうしてほしいと、願ったように。もう、独りだなんて、思わない。おまえの温もりは、この手袋の中に、まだ、ある。おまえの子守唄は、俺の胸の中に、まだ、ある。それで、じゅうぶんだ」

私は、鏡に近づけた手袋の指を、そっと、ガラスに、触れさせた。

そのとき――鏡の中の妻が、はじめて、微笑んだ。

無表情だった顔に、ゆっくりと、あたたかな、微笑みが、ひろがった。それは、本の中で見た、あの、満ち足りた微笑みだった。淋しげでは、なかった。安らかな、微笑みだった。

妻は、自分の右手を、あげた。その手にも、白い手袋が、はまっていた。片方だけの手袋の、もう片方が。彼女は、その手を、鏡のガラスに、そっと、重ねた。

二枚の、片方だけの手袋が、ガラスを挟んで、ひとつに、なった。

冷たかったガラスが、その一点だけ、ほんのりと、あたたかくなった気がした。妻の手の、温もりが、伝わってきた気がした。最期に、握ってやれなかった、あの手の、温もりが。

妻の唇が、動いた。声は、聞こえなかった。けれど、私は、その口の形を、読んだ。

――ありがとう。おやすみなさい。

そして、妻は、ゆっくりと、後ずさりはじめた。

ひとつ奥の廊下へ。またひとつ奥へ。彼女は、鏡の回廊を、来たときとは逆に、奥へ奥へと、遠ざかっていった。微笑みを、絶やさぬまま。青い彗星の光の中を、蒼く染まりながら、彼女は、帰っていった。あちらの、岸へ。

いちばん奥まで、たどり着くと、妻は、一度だけ、立ちどまった。そうして、こちらを、振りかえった。遠すぎて、もう、顔は、見えなかった。ただ、その小さな影が、片手を、そっと、あげた。

別れの、しるしだった。

私も、右手を――手袋をはめた右手を、あげた。

妻の影は、青い光の中に、溶けるように、消えた。

十

蝋燭の火が、ふっと、消えた。

最後のマッチで灯した火だった。もう、月光堂の青いマッチ箱は、空だった。私は、その空の箱を、そっと、手に取った。藍色の紙に、月光堂、と、古い書体で刷られた、小さな箱。妻が、あんなに、大切にしていた箱。私は、それを、胸に、抱いた。

窓の外を見ると、ミラ彗星が、薄れはじめていた。

空が、東から、白みはじめていた。夜の、いちばん深いところが、少しずつ、明けていった。彗星は、その白みの中に、だんだんと、溶けていった。蒼い光が、薄れ、消えて、やがて、ただの、朝の空だけが、残った。

鏡の回廊にも、もう、青い光は、なかった。

私は、鏡を覗いた。

そこには、私しか、いなかった。回廊のいちばん奥まで、私は、じっと、見つめた。もう、妻の影は、なかった。ただ、明けがたの、灰色の光の中に、何十人もの、私が、映っているだけだった。けれど、その私は、もう、あの、やつれた男では、なかった。泣きはらした目をした、けれど、どこか、憑き物の落ちたような顔をした、男だった。

私は、立ちあがった。

そうして、まず、正面の鏡を、押入れの襖の前から、動かした。回廊が、閉じるように。二枚の鏡が、二度と、向かい合わないように。私は、その鏡を、部屋の隅に、伏せて、立てかけた。それから、西の鏡も、窓のそばから、少し、ずらした。もう、二枚は、たがいを、映さなかった。回廊は、閉じた。

朝の光が、部屋いっぱいに、差しこんできた。

私は、革表紙の本を、開いてみた。けれど、そこには、もう、なにも、映っていなかった。ただの、白い頁が、続いているだけだった。あの、妻の時間は、あの一夜だけの、贈りものだったのだ。それでも、私は、その本を、大切に、荷物の底に、しまった。妻の、最期の微笑みを、忘れないために。

白い手袋は、右手に、はめたままだった。

私は、その右手で、自分の左手を、握った。手袋を通して、私自身の手の、温もりが、伝わってきた。それは、妻の温もりでは、なかった。私の、温もりだった。けれど、その温もりを、握ってやることを、私に、教えてくれたのは、妻だった。独りではない、と。

昼近く、私は、荷物をまとめて、その下宿を、出た。

階段を降りると、あの老女が、一階の、上がり框に、座っていた。私が降りてくるのを、待っていたように。

「お発ちですか」と、老女は言った。

「はい」と、私は、答えた。「お世話に、なりました」

老女は、私の顔を、じっと、見た。その、濡れて光る目で。そうして、かすかに、微笑んだ。

「覗きなさったね」と、老女は言った。「合わせ鏡を」

私は、うなずいた。隠す気には、ならなかった。

「けれど」と、老女は言った。「あんたは、戻ってきなさった。奥へ、行かずに」

「はい」と、私は言った。

「それが、いちばん、むずかしいのよ」と、老女は、静かに言った。「奥へ行くのは、たやすい。悲しみに、身を任せれば、いい。けれど、戻ってくるのは、むずかしい。もう一度、独りの、この世に、戻ってくるのは。あんたは、それを、なさった」

老女は、そこで、言葉を切った。それから、遠くを見るような目で、こう言った。

「わたしの亭主はね」と、老女は言った。「戻って、こなかったのよ。あの鏡の、奥へ、行ったきり。だから、わたしは、あの鏡を、部屋に、残したままにしてある。いつか、亭主が、戻ってくるかもしれないと、思って。ばかな、話でしょう。もう、五十年も、前のことなのに」

私は、なにも、言えなかった。

「あんたに」と、老女は言った。「約束を、させたのはね。あんたが、うちの亭主みたいに、なるのが、いやだったからよ。あんたの目には、あのころの、亭主と、同じ、色が、あったから」

老女の目に、涙が、光っていた。

私は、右手にはめた、白い手袋を、そっと、老女の、皺だらけの手に、重ねた。老女の手は、冷たかった。けれど、私の手袋の温もりが、その冷たさに、少しずつ、しみていくのが、わかった。

「ご亭主は」と、私は言った。「もう、安らかな、岸に、着いておられます。きっと。あなたを、恨んでなんか、いない。ただ、あなたが、悲しみを、手放すのを、待っておられる。あちらの、岸で」

老女は、涙を、こぼした。声を、あげずに。ただ、静かに。

十一

私は、老女に、一つ、お願いをした。

あの、二枚の鏡を、向かい合わせでない場所に、移してほしい、と。そうすれば、回廊は、閉じる。ご亭主の影も、静かに、あちらへ、帰っていける。あなたが、悲しみを、手放したときに。

老女は、しばらく、黙っていた。それから、こう言った。

「そうね」と、老女は言った。「もう、五十年も、待った。じゅうぶん、待った。あの人を、あの冷たい、鏡の中に、縛りつけておくのは、もう、やめにしましょう。あの人も、きっと、疲れているでしょうから。安らかな岸で、眠りたいでしょうから」

老女は、立ちあがった。その背は、小さく、丸かった。けれど、その足取りは、なぜか、しっかりしていた。

「あんたが」と、老女は言った。「教えてくれたのね。戻ってくることの、意味を。手放すことの、意味を。ありがとう」

私は、頭を、下げた。

玄関を出るとき、老女が、後ろから、声をかけた。

「あの唄をね」と、老女は言った。「あんた、知ってる? 眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、って」

私は、振りかえった。

「妻が」と、私は言った。「よく、うたっていました」

「そう」と、老女は、微笑んだ。「あれはね、この土地では、死んだ人を、送る唄なのよ。星が、海をわたるまで、眠っていなさい、って。星というのは、あの、彗星のこと。何十年かに一度、空をわたる、あの、蒼い星のこと。星が、海をわたって、また、めぐってくるまで、安らかに、お眠りなさい、って。そういう、送りの唄なの」

私は、はっとした。

妻は、知っていたのだろうか。あの子守唄が、送りの唄でも、あることを。最期の朝、独りの病室で、雪を見ながら、彼女が、自分自身に、うたっていた、あの唄。あれは、生まれなかった子への、子守唄であり、同時に、自分自身を、送る、送りの唄でも、あったのだ。彼女は、独りで、自分を、送ったのだ。安らかな、岸へ。

私は、空を、見あげた。

もう、彗星は、見えなかった。朝の空が、ひろがっているだけだった。けれど、私は、知っていた。あの蒼い星は、いま、この世と、あの世の、境の、海を、わたっているのだ。そうして、何十年かのちに、また、めぐってくるのだ。そのときまで、妻は、安らかに、眠っているのだ。

――眠れ、眠れ。星が、海をわたるまで。

私は、心の中で、その唄を、口ずさんだ。妻を、送るために。そうして、いつか、めぐってくる、その日まで、私自身も、この世で、生きていくために。

十二

それから、私は、新しい住まいで、暮らしはじめた。

仕事にも、また、行くようになった。人と、話すようにも、なった。よく、眠れるように、なった。眠りに落ちる寸前、意識が、ふっと緩む、あの瞬間、私は、右手を、そっと、左手に、重ねる。手袋は、もう、はめていない。けれど、その所作だけで、私は、思いだす。独りでは、ない、と。妻が、遺してくれた、そのしるしを。

あの、片方だけの手袋は、いまも、私の、机の引き出しに、しまってある。もう片方は、妻が、あちらへ、持っていった。いつか、私が、あちらへ、渡る日が来たら――それは、この世の、寿命が、尽きたときの、話だ。鏡を、覗いてでは、ない。そのときには、二つの手袋が、また、ひとつに、なるだろう。妻が、両手に、手袋を、はめて、迎えに、来てくれるだろう。そのときまで、私は、この世で、生きる。

あの、月光堂の、青いマッチ箱は、空になったまま、いまも、私の、部屋の、棚に、飾ってある。中身は、もう、ない。けれど、私は、それを、捨てられなかった。妻が、あんなに、大切にしていた、小さな箱。あの箱で、彼女は、いくつもの夜に、火を灯した。その、あたたかな、記憶が、その空の箱の中に、まだ、詰まっている気がして。

あの、下宿の、老女は、どうしているだろう。

あれから、一度、様子を見に、行ってみたことがある。けれど、その下宿は、もう、なかった。更地に、なっていた。近所の人に、聞いてみると、あの老女は、ずいぶん前に、亡くなった、という。独りで、静かに、眠るように、逝った、と。あの、二枚の鏡は、どうなったのか。誰も、知らなかった。

私は、更地の前に、立って、しばらく、空を、見あげた。

昼の、青い空だった。もちろん、彗星は、見えなかった。けれど、私は、思った。あの老女も、いまごろは、あちらの岸で、五十年ぶりに、亭主の手を、握っているだろう、と。あの人も、きっと、あの、片方だけの手袋を、ずっと、持っていたのだろう。そうして、いまは、二つが、ひとつに、なっているのだろう。

私は、心の中で、あの唄を、もう一度、口ずさんだ。

老女のために。老女の亭主のために。そうして、いつか、めぐってくる、その日まで、この世で、生きていく、すべての、遺された者たちのために。

丑三つ時に、合わせ鏡を、覗いてはいけない。

それは、昔から、言い伝えられてきた、戒めだ。鏡の回廊の、いちばん奥に、この世でない、誰かが、見えるから。そうして、その誰かに、呼ばれるまま、奥へ奥へと、歩いていけば、二度と、戻れなくなるから。

けれど、私は、思う。

あの回廊の奥に、私たちが、見るのは、ほんとうは、死者では、ないのだ。私たちの、悲しみだ。手放せずにいる、悔いだ。会いたいという、その思いの、いちばん底に、隠された、もう生きていたくない、という、その、暗い願いだ。鏡は、それを、映す。冷たい、ガラスの奥に、私たちの、いちばん、深い、闇を。

そうして、鏡は、問うている。

――おまえは、奥へ、行くのか。それとも、戻ってくるのか、と。

戻ってくることは、たやすくない。もう一度、独りの、この世に、戻ってくることは。悲しみを、手放すことは。けれど、戻ってこなければ、ならないのだ。まだ、この世に、生きているのならば。まだ、めぐってくる星を、待つべき者が、あるのならば。

私は、あの夜、戻ってきた。妻が、遺してくれた、片方だけの、手袋を、握りしめて。そうして、いまも、この世で、生きている。よく、眠り、よく、目ざめ、右手を、左手に、そっと、重ねながら。

いつか、星が、海をわたって、また、めぐってくる、その日まで。

――眠れ、眠れ。星が、海をわたるまで。

これは、死者を、送る唄だ。そうして、遺された者が、自らを、生かしめる唄でもある。冷たい鏡の奥から、あたたかな岸へと、大切な人を、送りだし、そうして、自分は、この世の、朝の光の中へ、戻ってくるための、唄。私は、いまも、眠る前に、その唄を、そっと、口ずさむ。蒼い星が、いつか、めぐってくる、その夜を、静かに、待ちながら。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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