送りの坂
峠の名を、地元の者は「送りの坂」と呼ぶ。
なぜそう呼ぶのかを、わたしは長いあいだ知らなかった。ただ、雨の晩にあの坂を越えるのは気が進まぬと、車庫の古い運転手たちが口をそろえるのを聞いていただけだ。そのわけを、わたしは一夜のうちに、身をもって知ることになった。
いまでは、あの坂の名の由来を、わたしはだれよりもよく知っている。だが、それを人に語ることは、ほとんどない。語れば、笑われるか、こわがられるかのどちらかだからだ。それに――あの一夜のことは、わたしにとって、こわい思い出ではないのだ。むしろ、この長い運転手暮らしのなかで、いちばん胸のあたたかくなる、たったひとつの晩の話なのである。
だから、これは怪談ではないのかもしれない。帰れなかった者が、ようやく帰りついた、その話なのだ。書きとめておかなければ、わたしがこの世を去ったとき、この話もまた、だれにも知られぬまま、あの水の底に沈んでしまうだろう。だから、ここに記しておく。丑三つ時の、雨の峠で、わたしがたしかに見たことを。
一
その晩、雨は宵のうちから降りつづいていた。
秋のはじめの、冷たい雨だった。夕方まではただの霧雨だったものが、日が落ちるにつれて糸を太くし、丑の刻に近づくころには、フロントガラスをたたく音が、車内のラジオを消してしまうほどになっていた。
わたしは客待ちのタクシー運転手で、その日は非番の同僚の代わりに、夜の仕事を引き受けていた。町場を流していれば、終電を逃した客のひとりも拾えるだろう――そのくらいの気持ちで車を出したのだが、雨脚が強すぎた。人はみな早々に軒の下へ引きあげてしまい、駅前のロータリーにも、繁華街の路地にも、傘の花はまばらだった。
運転手をはじめて、もう二十年になる。妻は五年前に病で亡くし、子はなかった。夜の仕事を好んで引き受けるのは、ひとつには家に帰っても待つ者がないからだ。夜更けの町を、灯りをつけたまま流していると、自分が、この世とあの世のあいだを漂う、迷い舟のような気がしてくる。そういう心持ちが、あの晩、わたしを、あの人影の前で車を止めさせたのかもしれない。いまにして思えば、あの女とわたしとは、どこか似た者どうしだったのだ。帰る家のない者と、帰る村のない者と。
車のなかで、わたしはよく、亡くなった妻のことを思う。妻は、生前、山あいの出であった。子守唄を、よくうたう女だった。子はなかったが、それでも妻は、台所に立ちながら、あるいは針を持ちながら、ひとりで、低く、あの節をうたっていた。眠れ、眠れ、と。その唄を、わたしは、あの晩、思いがけぬところで、もういちど聞くことになるのである。
夜半を過ぎるころ、無線が入った。
「山向こうの、湯の川温泉まで一台頼めるか」
配車係の声は眠たげだった。こんな晩に山を越えて客を運ぶのは、たしかに割の合わぬ仕事だ。だがその夜のわたしは、空車のメーターを見るのにも飽きていた。行きますと答え、わたしは車を町のはずれへ向けた。
湯の川温泉は、峠をひとつ越えた谷あいにある。昼間なら三十分の道のりだが、この雨だ。それに、峠道は狭く、曲がりが多い。ヘッドライトの光が届くのは、せいぜい二十メートル先まで。その先は、墨を流したような闇だった。
町の灯りが後ろへ遠ざかると、道はしだいに登りになった。両側から杉の木立が迫り、枝が空を覆って、雨さえまばらになる。かわりに、木の幹をつたって落ちる雫が、ぼたり、ぼたりと屋根を打った。
町を出ると、対向車は一台も来なくなった。行き会う灯りもなければ、追い越していく灯りもない。ただ、わたしの車のヘッドライトだけが、この闇の底を、細く切り開いて進んでいく。ラジオはとうに雑音になり、わたしはそれを消していた。しんとした車内に、エンジンの音と、雨の音と、ワイパーが左右にすべる音だけが、ひたひたと満ちていた。
こういう夜には、時間の感覚が、あやしくなる。いま何時なのか、あとどれくらい走ったのか、そういうことが、ふとわからなくなる。時計を見れば、たしかに針は進んでいる。だが、この闇のなかを走っていると、まるで、同じ場所を、いつまでもぐるぐると回っているような、そんな心持ちになるのだった。丑の刻というのは、そういう刻なのかもしれない。この世の時間が、いちばん薄れて、あの世の時間と、境をなくす刻。
わたしはハンドルを握りなおした。この道を、これまで何度通ったことだろう。それでも夜の峠は、通るたびに知らぬ道のような顔をする。昼のあいだあれほど見なれた景色が、闇のなかでは、まるきり別のものに姿を変えてしまうのだ。
カーブをいくつも曲がるうち、道はいよいよ細くなった。ガードレールの向こうは、見えないが谷になっている。ライトの光の縁に、白い霧が湧きはじめていた。雨と、山の冷えとが混じって、路面から立ちのぼる霧だ。
峠の頂が近い、とわたしは思った。
そのときだった。
霧の向こうに、ぽつりと、人影が立っていた。
はじめは、道ばたの標識か、朽ちた地蔵の類だろうと思った。この峠には、そういうものがいくつもある。曲がりの多い道で命を落とした者を弔う、小さな石仏だ。
だが、近づくにつれて、それが人の姿であることがはっきりしてきた。
道の左手、ガードレールにもたれるようにして、ひとりの人が立っている。傘もささず、この土砂降りのなかを。雨に打たれて、その輪郭は水の膜の向こうにあるようにゆらいでいた。
そして――その人が、片手を挙げた。
車を止めてくれ、という合図だった。
わたしは反射的にブレーキを踏んだ。丑三つ時の峠で、雨に濡れそぼった人影が手を挙げる。ふつうならば、薄気味悪くて通りすぎてしまうところだ。げんに、そう教える運転手も多い。だが、そのときのわたしを止めたのは、理屈ではなかった。
この雨だ。この寒さだ。ここでこの人を置き去りにしたら、それこそ寝ざめが悪い。
ただ、それだけのことだった。
車を寄せて止めると、わたしは後部座席のドアを開けた。自動ドアの開く音が、雨の音のなかに、やけに乾いて響いた。
「どうぞ。こんなところで、どうなさったんです」
わたしが声をかけると、人影はゆっくりと近づき、身をかがめて後部座席にすべりこんだ。
女だった。
年のころは、わからない。うつむいていて、顔がよく見えなかった。髪は雨に濡れて肩に貼りつき、着ているものは――古い、藍染めの着物のように見えた。この季節に、そして、この雨のなかを、着物一枚で。
わたしは、内心、おやと思った。いまどき、着物で夜歩きをする女など、そうそういるものではない。しかも、こんな山の峠を。だが、その違和を、わたしは深く考えなかった。考えれば、こわくなる。考えないほうが、いいこともある。それに、女の身なりは、貧しいながらも、きちんとしていた。どこか、遠い昔の、山里の娘のような、慎ましさがあった。悪い人ではない、と、わたしの勘は告げていた。ただ――ひどく、さみしい人だと。
ドアが閉まると、車内に、しんと冷たい空気が流れこんだ。
暖房を入れているのに、後部座席のあたりだけが、氷室のように冷えていた。バックミラーごしに、女のはく息が白く見えるのではないかと、わたしはふと思った。だが、女は息をしているようには見えなかった。
「……どちらまで」
わたしはたずねた。声が、われながらかすれていた。
女は、うつむいたまま、しばらく答えなかった。雨の音だけが車内を満たした。
やがて、細い、遠くから届くような声で、女は言った。
「久瀬《くせ》の、村まで」
わたしは、思わずバックミラーを見た。
久瀬。
その名を、わたしは知っていた。だが、それは――もう、ない村の名だった。
二
久瀬というのは、この峠のさらに奥、谷を三つも越えた山ふところにあった集落だ。
わたしが子どものころには、まだ人が住んでいた。だが、山の暮らしは年々きびしくなり、若い者は町へ出ていき、老いた者はひとり、またひとりと欠けていった。そしてある年、谷を堰きとめてダムを造る話が持ちあがり、村ごと、水の底に沈むことになった。
もう、三十年も前のことだ。
いまでは久瀬の名は、地図からも消えている。ダム湖の、深い水の下。あそこにかつて村があったことを覚えている者も、この町にはもう、幾人も残っていまい。
その名を、この女は、行き先として告げたのだ。
背すじに、つめたいものが走った。
わたしは、しばらく、声が出なかった。ハンドルを握る手のひらに、じっとりと汗がにじんだ。バックミラーのなかの女は、あいかわらず、うつむいたままだ。その姿は、たしかにそこにあるのに、どこか、水のなかの映像を見ているように、ゆらいで見えた。
いま、この女を降ろして、逃げようか。そういう考えが、一瞬、頭をかすめた。げんに、あの古い運転手たちが忌み嫌う「送りの坂」の話とは、これのことだったのではないか。丑三つ時の峠で、久瀬の名を告げる女――。
だが、わたしは、逃げなかった。
なぜだか、この女を置き去りにすることが、できなかったのだ。
「久瀬は……」
わたしは、言葉を選んだ。
「久瀬は、もう、ないんですよ。ダムの底に沈んで、ずいぶんになる。ご存じ、ないですか」
女は、答えなかった。ただ、うつむいたまま、小さく、こう言った。
「それでも、帰らないと」
その声には、責めるような色も、悲しむような色もなかった。ただ、そうするよりほかにないのだ、という、静かなあきらめだけがあった。
わたしは、なぜか、それ以上たずねることができなかった。
バックミラーのなかの女は、あいかわらず顔を伏せている。膝の上で、両手をきちんと重ねている。その手が――目に入って、わたしは、はっとした。
女は、片方だけ、手袋をはめていた。
右手には、古びた毛糸の手袋。だが、左手は素手のまま、白く、雨に濡れていた。もう片方の手袋は、どこかに落としてきたのか、それとも、はじめから片方しかなかったのか。
なぜだか、その片手だけの手袋が、わたしの胸に、小さな棘のように刺さった。
「……とにかく、ダムのほとりまでは、お連れしましょう」
わたしは、そう言った。久瀬へは行けぬ。だが、久瀬のあった谷、いまはダム湖になっているあの水のほとりまでなら、この峠を越えて、道はつづいている。そこまでお連れして、あとはご事情をうかがおう。そう思ったのだ。
女は、うなずいたようだった。
わたしは車を出した。
峠の頂へ向けて、ゆるやかな登りがつづく。霧はいよいよ濃くなり、ヘッドライトの光は、白い綿のなかに溶けてしまう。わたしは速度を落とし、道の端をたどるようにして、慎重に車を進めた。
車内は、しんと静まりかえっていた。
暖房の風の音と、雨の音。そのふたつのあいだに、女の気配が、たしかにあった。生きた人の気配ではない。何か、もっと冷たく、もっと遠い、水底からたちのぼってくるような気配だった。
わたしは、こわくなかった、と言えば嘘になる。
だが、それ以上に――哀しかった。
この女は、帰ろうとしている。もう、どこにもない村へ。三十年も水の底に沈んだ、故郷へ。その帰れなさが、車内の冷気となって、わたしの首すじを撫でていた。
峠の頂に、車がさしかかったときだった。
不意に、木立が切れた。
登りきったその一点だけ、空がひらけているのだ。そして、ちょうどその瞬間、雨が、ふっと弱まった。
雲が、裂けた。
その裂けめの奥に――蒼い星が、ひとつ、懸かっていた。
尾を長く引いた、青白い光。ミラ彗星だった。
わたしは、思わず車を止めた。何十年ぶりだろう、あの星を見るのは。子どものころ、久瀬の村の空にも、あの星は懸かっていた。夏の終わりの、澄んだ夜だった。
蒼い光は、いちばん深い闇のなかに、冴えざえと澄んでいた。まるで、この世とあの世のあいだに、ひとすじの道を照らすように。峠の頂の、そのひらけた空にだけ、星は懸かっていた。
「……きれい、ですね」
わたしは、思わずつぶやいた。
すると、後部座席の女が、はじめて顔を上げた。
バックミラーのなかで、女の目が、その蒼い星をじっと見ていた。濡れた頬に、彗星の光が、青く映っていた。
女は、ほほえんだ――ような気がした。
そして、口を開いた。
ごく低い、細い声で、女は、うたいはじめた。
「眠れ……眠れ……星が海をわたるまで……」
それは、子守唄だった。
わたしの、しらぬ節ではなかった。それどころか――わたしは、その唄を、知っていた。母が、わたしが幼いころ、寝つかせるためにうたってくれた唄だ。いや、母だけではない。久瀬の村では、どの家の母も、その唄をうたっていた。谷じゅうの子どもが、その旋律のなかで眠りに落ちたのだ。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
女のうたう声は、雨の音にまぎれて、消えそうで、消えなかった。
その唄を聞いているうちに、わたしの胸のなかで、遠い記憶が、ゆっくりとほどけていった。
三
峠を越えると、道は下りになった。
谷を三つ越えて、久瀬のあった場所――いまはダム湖になっている、水のほとりへ。道は、湖岸をなぞるようにつづいている。雨は、まだ降っていた。だが、峠を境に、あの氷のような冷えは、いくらか和らいだような気がした。
女は、あいかわらず、低く子守唄をうたっていた。
うたいながら、ときおり、ぽつり、ぽつりと、身の上を語った。まるで、ひとりごとのように。わたしにきかせるためというよりは、自分自身に言いきかせるように。
女の名は、志乃《しの》といった。
久瀬の村の、山あいの一軒に生まれた娘だった。父は炭を焼き、母は機を織った。谷のいちばん奥の、瘦せた畑と、細い流れのそばの、小さな家だった。冬になれば雪が軒まで積もり、春になれば谷じゅうに山桜が咲いた。ほかにはなにもない、ただ貧しいばかりの村だったが、志乃は、その村を、心から愛していた。
志乃には、幼い弟がひとりあった。年の離れた弟で、志乃は、母のかわりにその子を背負って育てたようなものだった。谷の道を、弟を背負って歩きながら、あの子守唄をうたってやったのだと、志乃は言った。
弟は、体の弱い子だった。生まれつき、胸を病んでいて、季節の変わりめには、よく熱を出した。そういうとき、志乃は、一晩じゅう、弟のそばについていた。冷たい手ぬぐいを額にあて、細い背をさすり、そして、あの唄をうたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。すると、弟は、熱にうかされた顔に、うっすらと安らぎを浮かべて、眠りに落ちていくのだった。
「あの子はね」と、志乃は言った。「星が、好きだったのですよ。夏の夜、わたしが縁側に抱いて出てやると、いつまでも、飽きずに空を見あげていました。姉ちゃん、あの星は、どこへ行くの、と、そう聞くのです。あれは海へ行くのだよ、と、わたしは答えました。星は、夜のあいだに、空という海を、わたっていくのだ、と。あの子は、それを聞くと、安心したように、眠りました」
だから、あの子守唄なのだ、とわたしは思った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。それは、星を見あげて眠る、あの病弱な弟のための、姉の唄だったのだ。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……あの子は、その唄でないと、寝つかなくて」
志乃が十七の年、村に、縁談が持ちあがった。峠の向こうの、町の商家からの話だった。悪い縁ではなかった。むしろ、山の貧しい暮らしから娘を出してやれると、両親は喜んだ。
だが、志乃は、行きたくなかった。
弟のそばを、離れたくなかったのだ。
それでも、山の娘に、わがままの通る道はない。志乃は、嫁いでいった。峠を越え、谷を越え、久瀬をあとにして。
嫁ぐ日の朝は、めずらしく、よく晴れていた。谷に霜のおりた、冷たい朝だった。志乃は、白い花嫁の衣に身をつつみ、村じゅうの者に見送られて、峠への道を登っていった。
幼い弟は、志乃の袖にすがって泣いた。姉ちゃん、行かんといて、と。姉ちゃんが行ったら、だれが唄をうたってくれるの、と。
志乃は、その手を、そっとほどいた。ほどきながら、自分の胸も、引き裂かれるようだった。だが、泣くわけにはいかなかった。花嫁が、嫁ぐ日に泣けば、不吉とされる。志乃は、こみあげるものを、けんめいにこらえた。
そして、餞別にと母が編んでくれた毛糸の手袋の、片方を、弟の手に握らせた。
「これを持っておいで。さみしくなったら、これを見て、姉ちゃんを思いなさい。姉ちゃんも、もう片方を持って、おまえを思うから」
そう言って、志乃は峠を越えた。
片方の手袋を、弟に。もう片方を、自分に。
対になるはずのふたつは、こうして、峠のこちらとあちらに、分かれてしまった。
志乃は、町で暮らした。
嫁ぎ先の商家は、志乃をよく扱ってくれた。子も生まれた。表向きには、なに不自由のない暮らしだった。だが、志乃の胸のうちには、いつも、久瀬の谷があった。あの弟が、あの片方の手袋を握って、姉を思っているのではないか。そう思うと、志乃の心は、いつも山の向こうへ帰っていくのだった。
夜、町の家の縁側に出て、志乃は、よく空を見あげた。町の空は、山里ほど星が見えなかった。だが、それでも、澄んだ晩には、いくつかの星が、瞬いていた。あの星は、いまごろ、久瀬の谷の上にも、懸かっているだろうか。あの子は、あの星を見あげて、姉を思っているだろうか。そう思うと、志乃は、たまらなくなって、ひとり、あの子守唄を口ずさむのだった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。町の家の縁側で、志乃は、いない弟のために、その唄をうたいつづけた。
嫁ぎ先の者は、そんな志乃を、里心のつよい女だと、笑った。もう嫁いだ身なのだから、実家のことなど忘れてしまえと。だが、志乃には、忘れることができなかった。忘れようとすればするほど、あの谷の景色が、あの弟の顔が、まぶたの裏に、くっきりと浮かんでくるのだった。
だが、山と町のあいだには、峠があった。
女の足で越えるには、あまりに遠く、あまりにけわしい峠だった。嫁いだ身では、そうそう里帰りもかなわない。志乃が久瀬へ帰れたのは、嫁いでから、たった二度きりだった。
そして、二度めの里帰りのとき――弟は、もう、いなかった。
流行り病だった。その年、谷じゅうを疫病が襲い、幼い者、老いた者から、順に倒れていった。志乃の弟も、その病で、あっけなく逝ってしまった。志乃が知らせを受けて駆けつけたときには、もう、土のなかだった。
弟の枕もとには、あの片方の手袋が、置かれていたという。
病の床で、弟は、その手袋をずっと握りしめていたそうだ。姉ちゃんが帰ってくる、姉ちゃんが帰ってくる、とうわごとのように言いながら。熱にうかされた口で、あの子守唄を、口ずさんでいたそうだ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。
弟は、最期の夜、母にたずねたという。姉ちゃんは、まだ来んの、と。母は、もうすぐ来る、もうすぐ来るからと、そう言って聞かせた。すると弟は、細い声で、こう言ったそうだ。ほんなら、僕は、それまで、寝て待っとる。姉ちゃんが来て、唄をうたってくれるまで、僕は、眠って待っとるけん――。
そう言って、あの子守唄を、消え入るような声で口ずさみながら、弟は、眠るように、逝ったのだった。姉の帰りを、とうとう待ちきれずに。
志乃が、雪の峠を越えて駆けつけたときには、弟は、もう冷たくなっていた。志乃は、その手袋を抱いて、泣きくずれた。
対になるはずだった、ふたつの手袋。それは、とうとう、ひとつに戻ることはなかった。弟の手のなかで、片方は、冷たくなってしまったのだ。
「わたしが……もっと早く、帰っていれば」
志乃は、うつむいて、そう言った。
「峠さえ、越えられたら。あの子の死にめに、間に合ったかもしれない。せめて、もういちど、あの唄を、うたってやれたかもしれない」
だが、峠は、越えられなかった。
そして、志乃自身も、それからほどなく、病を得て逝った。弟のあとを追うように。まだ、若い身空だった。
四
「わたしはね」と、志乃はうたうのをやめて、言った。
「死んでから、ずっと、この峠にいるのですよ」
車は、湖のほとりを走っていた。雨に煙る水面が、ヘッドライトの光に、ぼんやりと浮かんでは、また闇に沈む。この水の底に、久瀬の村が眠っている。志乃の生まれた家も、弟の墓も、いまはすべて、水の下だ。
「あの子のところへ、帰りたかった。久瀬へ、帰りたかった。けれど、生きているうちに越えられなかった峠を、死んでからも、わたしは越えられなかったのです」
死者には、死者の道がある。だが、志乃には、その道が見えなかった。生前、あれほど帰りたいと願いながら帰れなかった、その心残りが、志乃をこの峠に縛りつけていた。
「久瀬という村はね」と、志乃は言った。「あの世からでも、いちばん帰りやすいのは、生まれ育った家のはずなのですよ。けれど、その家が、村ごと、水の底に沈んでしまった。帰るべき場所が、この世から、消えてしまったのです。だから、わたしは、あの世の道に、入ることができなかった。行き場をなくして、この峠に、留まるほかなかったのです」
わたしは、はっとした。志乃を峠に縛りつけていたのは、心残りだけではなかった。村が水の底に沈んだこと――その、ふるさとの喪失そのものが、志乃の帰り道を、断ってしまっていたのだ。生きている者が村を捨て、ダムに沈めたことが、死んだ者の行き場さえ、奪っていたのである。
「ダムができると聞いたとき」と、志乃はつづけた。「わたしは、あの世で、どんなに嘆いたことか。村が沈めば、あの子の墓も沈む。わたしの帰る家も沈む。そうなれば、わたしは永久に、あの子のもとへ帰れなくなる。けれど、生きている者に、死んだ者の声は届きません。村は、水の底に沈みました。そして、わたしは、この峠に、ひとり取り残されたのです」
だから志乃は、雨の晩ごとに、峠のガードレールのそばに立った。
そして、通りかかる車に、手を挙げた。
「久瀬まで連れていってくれと、頼むのです。けれど――」
けれど、たいていの運転手は、志乃を乗せなかった。丑三つ時の、雨に濡れた女。それを気味悪がって、みな、通りすぎていった。
ごくまれに、乗せてくれる者もあった。だが、久瀬の名を告げると、みな、こわがって、峠の途中で志乃を降ろしてしまうのだった。あるいは、気を失って、そのまま谷へ車ごと落ちかけた者もあった。
そうして志乃は、三十年、この峠にいた。
三十年。それは、生きた人にとっても、長い歳月だ。まして、雨の晩ごとに、たったひとつの望みを胸に、暗い峠に立ちつづける者にとっては、どれほど長い、どれほど心細い歳月であったことか。夏の夜も、冬の夜も。木枯らしの吹く晩も、雪のちらつく晩も。志乃は、ただ、だれかが車を止めて、久瀬まで送りとどけてくれるのを、待ちつづけた。
「もう、あきらめようと思ったことも、幾度もありました」と、志乃は言った。「けれど、あきらめられなかった。だって、あの子が、待っているのですもの。水の底で、あの片方の手袋を握って、姉ちゃんが来る、姉ちゃんが来ると、いまも待っているのですもの。あの子を、あんなさみしい思いで逝かせたのは、わたしです。せめて、いまからでも、そばへ行ってやりたい。あの唄を、もういちど、うたってやりたい。それだけを頼りに、わたしは、この峠に、立ちつづけたのです」
帰れぬまま。片方の手袋を、いまも右手にはめたまま。もう片方は、弟の墓とともに、水の底に沈んでいる。
その、右手だけの手袋を、志乃は、三十年、はずさなかった。それだけが、弟とをつなぐ、たったひとつの糸だったからだ。片方だけの手袋。対になるはずのもう片方は、水の底に。だが、たとえ片方だけでも、それを身につけているかぎり、志乃は、弟とつながっていられた。その細い糸を、志乃は、三十年、手放さなかったのである。
「あなたは、峠を越えてくれた、はじめての人です」
志乃は、そう言って、また、うつむいた。
わたしは、なにも言えなかった。ハンドルを握る手に、力がこもった。
哀しかった。志乃の哀しみが、車内の冷気となって、わたしの胸に、しんしんと沁みてくるのだった。
そして、わたしは、亡くなった妻のことを、思った。妻もまた、山里の出であった。妻もまた、あの子守唄をうたう女であった。もしかしたら、妻の生まれた村も、久瀬とそう遠くない、どこかの谷だったのかもしれない。妻は、生前、あまり実家のことを語らなかった。だが、いま思えば、妻の胸のうちにも、志乃と同じような、帰れぬ谷への思いが、あったのではないか。
わたしは、その妻を、看取ることができた。最期の夜、わたしは、妻の手を握って、そばについていた。妻は、うっすらと目を開けて、わたしに、こう言った。あなた、あの唄を、うたってくださいな、と。わたしは、下手な声で、あの子守唄を、うたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。妻は、それを聞きながら、安らかに、逝った。
だから、わたしには、わかるのだ。だれかに看取られて、あの唄に送られて逝くことの、その安らぎが。そして、それがかなわなかった者の、その心残りが。志乃も、志乃の弟も、その安らぎを、得られなかった。姉は弟を看取れず、弟は姉を待ちきれずに逝った。ふたりとも、あの唄に送られることなく、別れてしまったのだ。
わたしは、心のなかで、決めていた。この人を、なんとしても、送りとどけよう。三十年、帰れなかった谷へ。水の底で待つ、弟のもとへ。それが、いま、この夜、この峠で、わたしにできる、たったひとつのことだ、と。
やがて、車は、湖のいちばん奥にたどりついた。
ダムの、堰堤のたもとだ。ここから先は、道がない。かつては、この谷をさらに登って、久瀬の村へと通じる道があった。だが、その道も、村も、いまは水の底だ。
わたしは、車を止めた。
「志乃さん。久瀬へは……ここから先は、もう、道がありません」
わたしは、バックミラーごしに言った。
「けれど、この水の底に、あなたの村があります。あなたの弟さんの墓も。ここが――ここが、いちばん久瀬に近い場所です」
志乃は、顔を上げて、雨に煙る水面を見た。
その目に、なにが映っていたのか、わたしにはわからない。三十年前の、水に沈む前の久瀬の村を見ていたのかもしれない。谷の道を、弟を背負って歩いた、あの日の景色を。
長いあいだ、志乃は、ただ、水を見ていた。
そのとき、また、雲が裂けた。
湖の上の空に、あの蒼い彗星が、ふたたび姿を現した。峠の頂で見たときよりも、いっそう冴えざえと、青く澄んで。その光は、雨の湖面に映り、水底へと、まっすぐに射しこんでいくように見えた。
まるで、この世とあの世のあいだに、蒼い橋が、架かったように。
志乃は、その光を見て、小さく、息をのんだ。
「……星が」
志乃は、つぶやいた。
「星が、海を、わたっていく」
そして、志乃は、ふたたび、あの子守唄をうたいはじめた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
だが、こんどの唄は、これまでとは、どこか違っていた。
これまでの唄が、帰れぬ心残りの唄だったとすれば、いまの唄は――送りの唄だった。だれかを、あの世へ送りだす唄。あるいは、自分自身を、送りだす唄。
そのときだった。
湖の水面に、ぽつり、と、灯りがともった。
はじめは、蛍かと思った。だが、それは、しだいに数を増していった。ひとつ、ふたつ、みっつ……水の底から、青白い光が、いくつも、いくつも、浮かびあがってくる。
それは、送り火のようだった。あるいは、水底に沈んだ村の、家々の灯りのようだった。
そして、その灯りのなかから――ひとつの、小さな人影が、浮かびあがってきた。
幼い、子どもの姿だった。
その子は、水の上に立って、こちらを見ていた。片手を、挙げていた。その手には――片方の、毛糸の手袋が、はめられていた。志乃のはめているのと、対になる、もう片方の手袋が。
「……あの子」
志乃の声が、震えた。
「あの子だ。姉ちゃん、姉ちゃんと……呼んでいる」
わたしには、その声は聞こえなかった。だが、志乃には、たしかに聞こえていたのだろう。三十年、待ちつづけた、弟の声が。
志乃は、後部座席のドアに、手をかけた。
「乗せてくださって、ありがとう」
志乃は、わたしに、そう言った。はじめて、はっきりと、わたしの目を見て。
その顔は――もう、こわい顔ではなかった。雨に濡れた、若い娘の顔だった。哀しみのなかに、ひとすじの、安らぎがあった。
「あなたは、峠を越えてくれた。それだけで、わたしは、あの子のところへ、帰れます」
ドアが、ひとりでに開いた。
冷たい雨の風が、車内に吹きこんだ。だが、その風は、もう、あの氷のような冷気ではなかった。どこか、あたたかいものが、まじっていた。
志乃は、車を降りた。
そして、水のほとりに立ち、湖の上の、幼い人影に向かって、両手を差しのべた。
片方は、手袋をはめた手。もう片方は、素手のまま。
水の上の子どもも、両手を差しのべた。片方は、手袋をはめた手。もう片方は、素手のまま。
姉の右手と、弟の左手。姉のはめた右手の手袋と、弟のはめた左手の手袋。それは、母がひとつの毛糸から編んだ、対の手袋だった。嫁ぐ日の朝、峠のこちらとあちらに分かたれた、あのふたつだった。
姉が、素手の左手を差しのべる。弟が、素手の右手を差しのべる。ふたりの素手が、蒼い星の光のなかで、そっと、握りあわされた。そして、それぞれの手袋をはめた手が、寄りそって、ならんだ。
ふたつの片手袋が、蒼い星の光のなかで、そっと、対になった。
三十年、峠のこちらとあちらに分かれていたふたつが――いや、三十年どころではない。志乃が嫁いだ日から数えれば、もう、幾十年もの歳月、離ればなれだったふたつが、ようやく、ひとつに戻ったのだ。片方だけでは、ただの喪失でしかなかったものが、もう片方と出会って、ようやく、意味をとりもどしたのだ。
五
わたしは、ただ、それを見ていた。
志乃の姿が、水の上を、滑るように進んでいく。弟の待つ、蒼い灯りのなかへ。姉と弟の姿が、ひとつに寄りそい、やがて、水面の灯りのなかに、溶けていった。
うたが、聞こえた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
こんどは、ふたつの声だった。姉の声と、幼い弟の声。ふたつの声が、雨の音のなかに、しずかに、しずかに、遠ざかっていった。
そして――彗星の光が、すうっと、薄れていった。
水面の灯りも、ひとつ、またひとつと、消えていった。
あとには、ただ、雨に煙る、暗い湖が残った。
わたしは、しばらく、車のなかから動けなかった。
やがて、われに返って、後部座席をふりかえった。
そこには、だれもいなかった。
ただ――座席の上に、片方の、毛糸の手袋が、残されていた。
古びた、色のあせた、右手用の手袋。志乃のはめていた、あの手袋だ。志乃は、それを、置いていったのだ。長いあいだ、片方だけを守りつづけてきた、その手袋を。
わたしは、それを、そっと手に取った。
雨に濡れているはずのそれは、なぜか、あたたかかった。まるで、たったいままで、だれかの手が、そのなかにあったかのように。
わたしは、その手袋を、しばらく、手のひらにのせて見つめていた。古びた、色のあせた毛糸。ところどころ、ほつれている。三十年――いや、それ以上のあいだ、志乃が守りつづけた、たったひとつの形見。そのあたたかさが、わたしの手のひらから、腕へ、胸へと、じんわりと伝わってきた。
なぜ、志乃は、これを置いていったのだろう。わたしは、その意味を、しばらく考えた。そして、思いあたった。志乃には、もう、これが要らなくなったのだ。片方だけの手袋は、失われたもう片方を思うための、よすがだった。だが、いま、志乃は、もう片方と出会った。ふたつは、対に戻った。だから、この片方の手袋は、もう、その役目を終えたのだ。
だが、それを、なぜ、わたしに――。
わたしには、それが、志乃からの、礼のように思えた。あるいは、託されたもののように。峠に留まり、だれかが乗せてくれるのを待つ、この形見を。おまえも、いつか、だれかを送りとどける日がくるかもしれない。そのときのために、これを持っておいで――と、志乃が、そう言っているような気が、したのだった。
わたしは、車を町へ引きかえした。
峠を越えるとき、頂のひらけた空を、もういちど見あげた。だが、そこに、もう彗星はなかった。ただ、雨雲が、低く垂れこめているばかりだった。
町にもどると、雨は、いつのまにか、やんでいた。
わたしは、その日以来、あの片方の手袋を、車のダッシュボードの隅に、置いている。
なぜ、捨てずにいるのか、自分でもわからない。ただ、あれを捨ててしまうのは、志乃を、もういちど、峠にひとりで置き去りにするような気がして、どうしてもできないのだ。
後日談を、ひとつ書いておきたい。
その手袋を手に入れてから、しばらくして――わたしは、妙な古書店に、迷いこんだことがある。
雨あがりの晩、蒼い光が空をよぎった夜だった。あの彗星だ、とわたしは思った。町の路地を流していると、いつもは行き止まりのはずの、いちばん奥の路地に、ぽつりと、灯りがともっていた。
木の看板には、「月光書房」とあった。
わたしは、車を降りて、その店に入った。せまい店だった。天井まで、古い本がぎっしりと積まれていた。奥に、店主らしい老人が、ひとり座っていた。
わたしは、なぜだか、あの晩のことを、その老人に話していた。志乃のことを。久瀬の村のことを。片方の手袋のことを。
老人は、だまって聞いていた。そして、聞きおえると、棚から、一冊の古い本を取りだして、わたしの前に置いた。
「その話なら、ここに、書いてありますよ」
わたしは、その本を開いた。
そこには、たしかに、志乃と、その弟の話が、書かれていた。久瀬の村の話が。峠の、送りの坂の話が。だが、その本の奥付を見て、わたしは、ぞっとした。
その本は――五十年も前に、刷られたものだった。
志乃が死んで、まだ、二十年しか経っていないころに。
わたしが、その晩、志乃を乗せる、三十年も前に。
「この本は……いったい、どういうことです」
わたしは、声を震わせて、たずねた。まだ起きてもいないことが、なぜ、五十年も前の本に書かれているのか。志乃を乗せたのは、たしかに、つい先ごろのことだ。それが、どうして――。
老人は、わたしの問いには、直には答えなかった。ただ、こう言った。
「この店の本はね、時刻の順には、並んでおらんのですよ。ここには、まだ起きていないことも、とうに終わったことも、みな、同じ棚にある。空をわたる、あの星のようにね。あの星も、いつ空にかかるとも知れず、時刻をこえて、めぐってくる。この店も、あの星の見える晩にだけ、路地の奥に、ぽつりと現れる。そういう店なのです」
わたしは、あらためて、店のなかを見まわした。天井までの本の壁。それは、ただの古書店ではなかった。過ぎ去った時と、これから来る時とが、ひとつの棚に、静かに眠っている場所だった。
「この本を、あなたにお貸ししましょう」と、老人は言った。「もっとも、朝になれば、この店は消えます。本を返す先も、なくなりましょう。ですが、それでよいのです。物語というものは、だれかに読まれ、だれかの胸に留まったとき、はじめて、その役目を果たすのですから」
わたしが顔を上げると、老人は、静かにほほえんで、卓の隅を指さした。
そこには、三日月を刻んだ、藍色のマッチ箱が、ひとつ、置かれていた。
「一本、おつけしましょうか」
老人は、そう言って、そのマッチ箱から、一本のマッチを取りだし、火をともした。
小さな炎が、店の闇のなかに、ぽっと、灯った。
その火のなかに――わたしは、一瞬、見た気がした。谷の道を、幼い弟を背負って歩く、若い娘の姿を。その口が、あの子守唄を、うたっているのを。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。
火は、ふっと、消えた。
六
その古書店のことを、わたしは、いまでも、ときおり思いだす。
あくる朝、もういちど訪ねてみようと、あの路地へ行ってみた。だが、路地のいちばん奥は、やはり行き止まりで、店など、どこにもなかった。ただ、じめじめとした土の上に、燃えつきたマッチが、一本、落ちていた。それだけだった。
わたしは、いまも、あの峠を通る。
雨の晩、丑三つ時にあの坂を越えるとき、わたしは、いつも速度をゆるめて、頂のガードレールのそばを、そっとうかがう。
だが、あれ以来、あそこに、人影が立っていたことは、いちどもない。
志乃は、帰ったのだ。三十年、帰れなかった村へ。水の底の、弟のところへ。もう、雨の峠で、車を待つ必要は、ないのだ。
そう思うと、わたしは、なぜだか、ほっとする。そして、少しだけ、さみしくもなる。
わたしは、この話を、若い運転手たちには、あまり話さない。
話しても、たいていは、笑われるか、こわがられるかのどちらかだからだ。峠で幽霊を乗せた、というだけの、ありふれた怪談として。
だが、わたしにとって、あれは、こわい話ではない。
あれは、帰れなかった者が、ようやく帰りついた話だ。分かれてしまった片方どうしが、ひとつに戻った話だ。三十年、峠に縛られていた哀しみが、蒼い星の光に送られて、水の底の故郷へ、還っていった話だ。
送りの坂、と、地元の者はあの峠を呼ぶ。
わたしは、いまなら、その名のわけが、わかる気がする。
あの坂は、この世とあの世のあいだにある坂なのだ。帰れなかった者たちが、雨の晩に立って、だれかが乗せてくれるのを、待っている坂なのだ。そして、いちど乗せてやれば、その者を、あの世へと送りとどけることができる、そういう坂なのだ。
送りの坂。
丑三つ時の、雨の峠。
わたしは、いまも、あのダッシュボードの隅の、片方の手袋を、ときおり、そっと撫でる。あたたかかった、あの感触を、思いだしながら。
最後に、ひとつだけ。
あの晩から、ずいぶん経ったある夜のことだ。
わたしは、また、あの峠を、越えていた。雨は降っていなかった。星の澄んだ、静かな夜だった。
峠の頂の、ひらけた空を見あげると――そこに、あの蒼い彗星が、また、懸かっていた。
わたしは、車を止めて、しばらく、その星を見ていた。
すると、どこからともなく、あの子守唄が、聞こえてきた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
姉の声と、弟の声。ふたつの声が、蒼い星のあたりから、静かに、聞こえてくるのだった。
もう、哀しみの唄では、なかった。それは、安らかに眠る者たちの、寝息のような唄だった。
わたしは、目を閉じて、その唄を、しばらく聞いていた。
そして、そっと、車を出した。
峠を越えて、谷を下りながら、わたしは思った。あの星が、また空をわたるとき――志乃と弟は、水の底の久瀬で、寄りそって眠っているのだろう。片方ずつだった手袋を、ようやくひとつに合わせて。もう、どこへも、帰らなくていいのだと、安らかに。
そして、いつか、わたし自身が、この世からあの世へと送られる晩がきたなら――そのときはきっと、あの子守唄が、わたしのためにも、うたわれるにちがいない。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
そう思うと、死ぬることさえ、そう、こわくはないような気が、するのだった。