月光書房
丑の刻 ・ 丑三つ時 ・ 第 四 話

消灯

白河 望
怪異・情 ・ 約26頁

消灯

夜勤の看護師をしていると、時間というものが、日中とはちがう手ざわりを持ちはじめる。

昼の時間は、まっすぐな廊下のようだ。検温、投薬、記録、配膳、そのひとつひとつが標識のように立っていて、どこを歩いているのか、いつでも分かる。けれど、消灯の午後九時を過ぎ、面会の客が最後のひとりまで帰り、看護詰所の灯を半分落とすころになると、時間はしだいに、水のようにゆるくなる。ゆっくりと、深いところへ沈んでいく。

わたしが勤めているのは、市の外れにある古い病院の、四階の内科病棟だった。もう新しい棟を建てる話が幾度も出ては消えているという、白い漆喰の壁も、床の緑のリノリウムも、どこか時代のついた建物である。廊下の常夜灯は、いまどきめずらしい橙色の裸電球に近いもので、点々と灯るその光が、夜になると廊下を海底のように染めた。

その晩、いっしょに夜勤に入っていたのは、わたしと、准看護師の里見さんのふたりきりだった。里見さんはわたしより十ほど年下の、まだ勤めて三年目の娘で、消灯前の見回りを終えると、詰所の隅で記録の整理をしていた。

「今夜、彗星が見えるらしいですよ」

里見さんが、ふとそう言った。

「彗星」

「ええ。何十年ぶりとかで。窓から見えるかもしれないって、昼間、患者さんたちが話してました」

わたしは、なんとなく窓のほうを見た。詰所の窓は北向きで、外は真っ暗だった。街の灯もまばらな土地で、夜になると空だけがひどく広い。その広い空のどこかに、いま、めったに巡ってこない星が懸かっているのだと思うと、なにか胸の奥が、しんとした。

「見えたら教えてね」

「はい」

そうして、また静けさが戻った。

消灯後の病棟は、生きている場所とも、そうでない場所ともつかない、あわいの色をしている。三十いくつある病室のドアは、それぞれ薄く開けられ、なかからは、規則正しい寝息や、点滴の落ちるかすかな音や、ときおりの寝返りの衣ずれが、廊下へこぼれてくる。消毒液の匂いが、その静けさに冷たく混じっていた。

わたしはその匂いが、嫌いではなかった。むしろ、そこにいると落ち着くところがあった。消毒液の匂いは、ここが清潔であることの匂いであり、たくさんの人の生き死にを見送ってきた場所の、けれど少しも汚れていないという、奇妙な潔さの匂いだった。

わたしがこの仕事を選んだのは、もう二十年も前になる。若いころは、人の役に立ちたいなどという、まっすぐな志があったように思う。けれど、いまとなっては、その志がどこへ行ってしまったのか、自分でもよくわからない。ただ、来る夜も来る夜も、こうして眠る人たちのあいだを歩いていると、志などというものはとうに擦り切れて、そのかわりに、もっと静かな、なにか祈りに似たものが、手のなかに残っているのを感じる。眠る人の掛け布団を直すとき、点滴の管をそっと整えるとき、その所作のひとつひとつが、いつのまにか、祈りのかたちになっていた。

わたしには、夫も子もない。若いころ、いちど所帯を持ちかけたことがあったが、それも縁がなくて流れてしまった。だから、家に帰っても、待つ人はいない。むしろ、この夜の病棟のほうが、わたしにとっては、家に近いところがあった。眠る人たちの寝息のあいだにいると、ひとりだという淋しさが、なぜか薄れていく。ここには、生きている気配が、たくさんある。そして、その気配のなかに、ときおり、生きているとも死んでいるともつかない、もうひとつの気配が、そっと混じることがある。長く夜勤を続けていると、そういうものが、わかるようになる。

けれど、これほどはっきりと、目に見えるかたちでそれに出会ったのは、あの晩がはじめてだった。

その晩、わたしがはじめて「あのひと」を見たのは、日付が変わってしばらく経った、丑三つ時のことだった。

深夜の見回り

午前一時の見回りを、わたしはひとりで受け持った。里見さんには、詰所で少し休むように言った。まだ若いから、夜勤の三年目でも、深夜になると顔に疲れが出る。

丑三つ時。草木も眠るという、この刻のことを、わたしは、長く夜勤を続けるうちに、いつしか、特別なもののように感じるようになっていた。昼と夜のちょうど反対の、いちばん深いところ。人の心も体も、いちばん低く沈む刻。病棟でいえば、患者の容態が、いちばん急に変わりやすい刻でもある。命の火が、ふっと細くなる。夜勤の看護師なら、だれでも知っている。丑三つ時には、気を張っていなければならない、と。

けれど、それだけではない、と、わたしは思っていた。この刻には、なにか、目に見えぬものが、いちばん近くまで寄ってくる。詰所にひとり座っていると、廊下の奥から、だれかの気配が、そっと近づいてくることがある。振り向いても、そこにはだれもいない。ただ、常夜灯の橙色の光が、点々と、廊下を染めているだけ。それでも、たしかに、なにかがいる。そういう刻なのだった。

懐中電灯を手に、廊下を奥へと歩いていく。橙色の常夜灯のあいだを、白い上履きが音もなく運んでいく。各病室のドアの隙間から、そっと懐中電灯の光を差し入れて、患者の様子をたしかめていく。点滴の残量、呼吸、寝顔。ときには、光を当てただけで薄目を開ける人もあるから、そういうときは、声には出さずに、だいじょうぶ、というふうにうなずいてみせる。

四〇一号室。四〇二号室。四〇三号室。

順に見ていって、いちばん奥の、四一二号室にさしかかったときだった。

四一二号室は、その病棟でいちばん奥の、行き止まりに近い個室だった。窓が東と南のふたつあって、日当たりがよく、そのぶん夜になるといちばん闇が濃くたまる部屋でもあった。いま、その部屋にいるのは、坂上さんという、七十を過ぎたおばあさんひとりきりだった。

坂上さんは、ひと月ほど前からこの病棟にいた。もう治る見込みのない病を、静かに抱えて、静かに日々を過ごしている人だった。痛みはまだそれほど強くなくて、昼間は窓のそばの椅子に座って、外の欅の木をじっと眺めていることが多かった。あまり口数の多い人ではなかったけれど、看護師にはいつも礼儀正しく、「ありがとう」と「すみませんね」を欠かさなかった。

見舞いに来る人は、ほとんどなかった。ご主人は先に亡くなり、子どもはひとりあったが、遠方に住んでいて、めったに来られないのだと、申し送りで聞いていた。

わたしは、坂上さんのことが、なんとなく気にかかっていた。ひとりで、静かに、逝く支度をしている――そう見えたからかもしれない。あの人の身の上が、どこか、わたし自身の行く末と重なって見えたのかもしれない。夜勤のたびに、四一二号室の前を通ると、わたしはいつもより長く、そのドアの前で足を止めた。坂上さんの寝息が、いつもと変わらず、静かに聞こえてくると、それだけで、なぜかほっとするのだった。

昼間、坂上さんは、いつも窓辺の椅子に座って、外の欅を眺めていた。その横顔には、悲しみとも、あきらめともつかない、ただ深く澄んだ静けさがあった。ときおり、口もとが、かすかに動いていることがあった。なにか、歌のようなものを、口ずさんでいるように見えた。けれど、近づくと、それはやんでしまう。わたしは、その歌が何なのか、そのときは知らなかった。

わたしは、四一二号室のドアの隙間から、懐中電灯の光を差し入れようとして――手が、止まった。

部屋のなかに、人がいた。

坂上さんではない。坂上さんは、ベッドに横たわって眠っている。そのベッドの、頭のほうのかたわらに、もうひとり、だれかが立っていた。

痩せた、背の高い人影だった。こちらに背を向けて、ベッドの上の坂上さんを、じっと見おろすように、うつむいて立っている。

わたしは、はじめ、それを患者の家族だと思った。子どもさんが、ようやく見舞いに来たのだと。けれど、それはあまりに不自然だった。いまは丑三つ時である。面会時間はとうに過ぎている。正面の玄関は施錠され、夜間の出入りは詰所を通らなければできない。里見さんもわたしも、だれかを通した覚えはなかった。

それに――その人影は、どこかがおかしかった。

橙色の常夜灯は、廊下からドアの隙間ごしに、部屋のなかへわずかに差し込んでいる。けれどその光が、その人影にだけ、当たっていないのだ。まるで、その一角にだけ、光の届かない、別の夜がたまっているように。人影の輪郭は、闇のなかで闇を少し濃くしただけの、そういうたよりない濃さで、そこに在った。

わたしは、息を殺した。

その人影が、ゆっくりと、片方の手を伸ばした。坂上さんの、掛け布団からはみ出した手のほうへと。けれど、その手は、坂上さんの手に触れる寸前で止まった。触れられないのだ、というふうに。触れれば消えてしまうのを、恐れているというふうに。

そうして、かすかに――ほんとうに、耳をすまさなければ聞き取れないほどかすかに――声が聞こえた。

歌だった。低い、こもった、けれどやわらかい声で、だれかが子守唄を口ずさんでいた。

眠れ 眠れ
星が海を わたるまで

わたしの背筋を、冷たいものが、つうっと降りていった。

けれど、それは、恐怖の冷たさとは、少しちがっていた。もっと、深いところに触れる冷たさだった。冬の朝、まだだれも起きていない家のなかで、ひとり目を覚ましたときのような。懐かしさと、淋しさと、それから、名づけようのない切なさが、ないまぜになった、そういう冷たさだった。

その旋律を、わたしは知っていた。むかし、わたしの祖母が、わたしを寝かしつけるときに歌ってくれた唄だった。どこの土地の唄なのか、だれが作った唄なのか、知らない。ただ、眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――そのひとふしだけが、いつまでも耳の奥に残る、あの唄だった。祖母は、もう三十年も前に亡くなった。その祖母の声が、いま、この深夜の病室で、見も知らぬ影の口から流れてくる。わたしは、そのことに、震えた。けれど、その震えの底に、たしかに、あたたかいものがあった。

人影は、坂上さんの枕もとで、その唄を、ちいさく、ちいさく口ずさんでいた。まるで、眠る子を寝かしつけるように。

わたしは、ドアの隙間から目を離すことができなかった。こわい、とは、不思議と思わなかった。ただ、胸の奥が、締めつけられるように痛かった。

やがて、唄がやんだ。

人影は、伸ばしかけた手を、そっと引いた。そして、名残を惜しむように、もう一度ベッドの上の坂上さんを見おろすと――ふっと、その輪郭が、闇のなかへ溶けていった。まるで、はじめからそこには、濃い闇のひとかたまりがあっただけだったかのように。

部屋は、静けさに戻った。坂上さんの、規則正しい寝息だけが、そこに残った。

わたしは、しばらく動けなかった。

それから、ようやく気を取り直して、そっとドアを開け、部屋に入った。懐中電灯で、あたりをたしかめる。だれもいない。窓は、内側から施錠されたままだ。坂上さんは、おだやかな顔で眠っていた。

わたしは、坂上さんの点滴と呼吸をたしかめ、掛け布団をそっと直した。そのとき、ベッドの脇の床に、ふと目が留まった。

ベッドの下に、なにかが落ちていた。

かがんで拾いあげると、それは、手袋だった。古い、毛糸の手袋。焦げ茶色の、ずいぶんくたびれた、ところどころ毛玉のできた、そういう手袋だった。

けれど、それは、片方だけだった。左手の、片方だけ。

その手袋を手にしたとき、わたしは、ふしぎな感触を覚えた。冷たいのだ。まるで、いま外の雪のなかから拾ってきたように。八月の、蒸し暑い夜だというのに、その手袋だけが、ひやりと冷えていた。そして、そのくたびれた毛糸のあいだから、なにか、遠い冬の匂いがした。ずっと昔の、だれかの家の、火鉢の炭の匂いのような。

わたしは、その手袋をしばらく見つめてから、坂上さんの床頭台の引き出しに、そっとしまった。あとで本人に訊けばいい。落とし物として届いたのだろう、と、そのときは思った。けれど、こんな古びた、片方だけの手袋を、いったいだれが、なんのために持ち歩くだろう。そう思うと、また、胸の奥が、しんとした。

詰所へ戻る廊下は、来たときよりも、いっそう長く感じられた。橙色の常夜灯のあいだを歩きながら、わたしは、いま見たものを、どう考えればいいのか、わからなかった。こわいという気持ちと、切ないという気持ちが、胸のなかで、静かに混じり合っていた。そして、その唄が、まだ耳の奥で、かすかに鳴っていた。眠れ、眠れ、と。

星

詰所へ戻ると、里見さんが、窓のそばに立っていた。

「宮下さん」

わたしの名を呼んで、里見さんは、窓の外を指さした。

「見えました。彗星」

わたしは、窓辺へ寄った。

北向きの窓の、その黒い空のいちばん深いところに、蒼い星が、ひとつ懸かっていた。

それは、ふつうの星とは、あきらかにちがっていた。またたかず、ただ、しんと冴えている。氷を透かしたような、蒼い光。そのまわりに、ごくかすかに、尾のような淡いにじみがある。まるで、この世でいちばん深い闇に、そこだけ薄く氷を張ったような――そういう星だった。

その星の光を見ていると、なぜだか、さっき四一二号室で見たものが、また胸によみがえってきた。この世と、あの世と。その境が、いまいちばん薄くなっている刻。丑三つ時の、その闇のいちばん奥に、この蒼い星が懸かっている。まるで、こちらとあちらの、ふたつの岸を、同じひとつの光が照らしているように。

「きれいですね」と、里見さんが言った。

「きれいね」と、わたしも言った。

けれど、わたしの声は、自分でもわかるほど、うわの空だった。

「あの星、ミラっていうんですって」と、里見さんが言った。「くじら座の。何百日かかけて、明るくなったり暗くなったりするそうで。むかしの人は、消えたり現れたりするから、不思議な星だと思ったみたいですよ。『ふしぎな星』って意味の名前なんだそうです」

消えたり、現れたり。わたしは、その言葉を、胸のなかで繰り返した。まるで、さっき四一二号室で見たものの、そのままの姿だと思った。この世に、消えたり、現れたり。丑三つ時の、境の薄れる刻にだけ、そっと現れて。

その蒼い星は、しんと冴えて、なにも言わずに、ただそこに懸かっていた。何百日もかけて、ゆっくりと明滅を繰り返しながら、幾千年も、この空を巡ってきたのだろう。その悠久のなかでは、人ひとりの一生など、まばたきのひとつほどのことでしかない。けれど、そのまばたきのなかにも、断ち切れぬ情というものは、たしかに宿るのだ。わたしは、なぜだか、そう思った。

「宮下さん、どうかしました?」

里見さんが、わたしの顔をのぞきこんだ。

わたしは、いま見てきたものを、里見さんに話そうかと思った。けれど、うまく言葉にならなかった。話せば、たしかに、こわい話になってしまう。深夜の病室に、いるはずのない人影が立っていて、子守唄を歌っていた――そう言えば、ただの怪談だ。けれど、わたしが四一二号室で感じたものは、そういうものとは、どこかちがっていた。

「ううん」と、わたしは首を振った。「なんでもない。少し、疲れたのかも」

「休んでください。あとはわたしが見ますから」

「ありがとう。でも、だいじょうぶ」

わたしは、蒼い星をもう一度見た。星は、なにも言わずに、ただ冴えていた。

その夜は、それきり、何ごともなかった。

二晩目

翌る晩も、わたしは夜勤だった。

一日じゅう、四一二号室のことが、頭を離れなかった。昼のあいだ、わたしは非番だったが、家に帰っても眠れず、あの片方だけの手袋のことや、子守唄のことを、繰り返し思った。

わたしの、がらんとしたアパートの部屋で、昼の光のなかにいても、あの光景は、少しも薄れなかった。むしろ、明るいところにいるほうが、あの闇の濃さが、いっそうくっきりと思い出された。坂上さんの枕もとに立った、痩せた影。触れる寸前で止まった手。あのかすかな子守唄。

わたしは、あれは何だったのか、いくたびも考えた。幻を見たのだろうか。夜勤の疲れで。けれど、あの手袋は、たしかに、いまも坂上さんの引き出しにある。幻が、手袋を残していくはずはない。それなら、あれは、いったい。

考えても、答えは出なかった。ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。あの影は、坂上さんに、害をなそうとしているのではない。それは、あの唄の声を聞けば、わかった。あの声には、憎しみも、恨みも、なかった。ただ、深い、深い情だけがあった。だから、わたしは、こわくなかった。むしろ、もういちど、あの影に会いたいような気さえした。あれが誰なのか、誰に会いに来ているのか、それをたしかめたいと、わたしは思った。

夜になり、また病棟に立つと、わたしは自然と、時計を気にしていた。丑三つ時が近づくにつれて、心臓が、しだいに速くなっていくのがわかった。

午前一時。わたしは、また、ひとりで見回りに立った。

廊下は、昨夜と同じ、橙色の海の底だった。四〇一号室。四〇二号室。順に見ていって、そして、四一二号室の前に立った。

わたしは、ドアの隙間から、そっと部屋のなかをうかがった。

いた。

昨夜と、同じだった。坂上さんの眠るベッドの、頭のかたわらに、あの痩せた人影が立っていた。こちらに背を向け、うつむいて、坂上さんを見おろしている。その一角にだけ、光の届かない別の夜がたまっている。

そして、また、あのかすかな唄が聞こえてきた。

眠れ 眠れ
星が海を わたるまで

わたしは、こんどは、こわくなかった。ただ、その唄を、じっと聞いていた。

その声には、たしかに情があった。眠る人を、いとおしく思う情が。それは、生きている者が、生きている者にかけるのと、少しも変わらない、あたたかな情だった。ただ、その情が、いま、この世とあの世の境をまたいで、なお断ち切れずにいる。それだけのことだった。

わたしは、思いきって、ドアをそっと押し開けた。

昨夜は、人影は、わたしがドアを開ける前に消えてしまった。けれど今夜は――どうしたわけか、消えなかった。

わたしが、足音を殺して部屋に入り、ベッドから少し離れたところに立っても、人影は、まだそこに在った。坂上さんの枕もとに、うつむいたまま。

わたしは、勇気を出して、口を開いた。

「……どなた、ですか」

声は、われながら、頼りなく震えていた。

人影は、答えなかった。ただ、唄が、ふっとやんだ。

そして、ゆっくりと――ほんとうに、時間をかけて、ゆっくりと――こちらを振り向いた。

わたしは、息をのんだ。

それは、老人の顔だった。坂上さんと同じか、それより少し年かさに見える、痩せた、白髪の老人。けれど、その顔は、なぜだか、ひどく若々しいところがあった。目もとに、まだ壮年の面影が残っている。そういう、不思議な顔をしていた。

その目が、わたしを見た。責めるのでも、おびえるのでもない。ただ、静かに、こまったような、申し訳ないような、そういう目で、わたしを見た。

そして、その口が、声を出さずに、なにかを動かした。

――すまないね。

そう言ったように、わたしには見えた。夜ごと、こうして訪れて、あなたを驚かせて、すまないね、と。あるいは、こうしてしか、逢いにこられぬ身の上を、すまないね、と。

その目は、責めているのでも、助けを求めているのでもなかった。ただ、深く、静かに、あきらめと、それでもなお断ち切れぬ願いとの、そのあわいで、揺れていた。わたしは、その目を見て、なぜか、涙がこみあげた。この人は、だれかを、こんなにも、待っている。あるいは、だれかのために、こんなにも、こらえている。それが、痛いほど、わかったからだった。

つぎの瞬間、老人の姿は、また闇のなかへ溶けていった。あとには、坂上さんの寝息だけが、静かに残った。

わたしは、その場に立ちつくした。

床に目を落とすと、昨夜と同じ場所に、また、あの片方だけの手袋が落ちていた。焦げ茶色の、左手の、毛糸の手袋。わたしは、昨夜たしかに、これを引き出しにしまったはずだった。それが、また、ベッドの下に落ちている。

わたしは、手袋を拾い、引き出しを開けた。

――引き出しのなかにも、手袋があった。昨夜しまった、あの片方の手袋が。

つまり、いま、わたしの手のなかには、同じ手袋が二つ、ある。どちらも、左手の、焦げ茶色の、片方だけの手袋。

けれど、よく見ると、それは同じではなかった。引き出しのなかにあったほうは、毛糸がまだ新しく、毛玉も少ない。手のなかのほうは、ずいぶん古びて、くたびれている。

わたしは、なにかがわかりかけて、けれど、まだわからないまま、そのふたつの手袋を、そっと並べて引き出しにしまった。

坂上さんの話

三晩目の夜勤の前に、わたしは、昼のあいだに坂上さんのところへ立ち寄った。

昼の坂上さんは、いつものように、窓のそばの椅子に座って、外の欅を眺めていた。わたしが入っていくと、坂上さんは、おだやかに笑った。

「あら、宮下さん。今日は、お休みじゃなかったの」

「ええ。でも、ちょっと、坂上さんとお話ししたくて」

わたしは、椅子をひとつ引いて、坂上さんのそばに座った。

しばらく、とりとめのない話をした。外の欅のこと。今年は蝉が遅いこと。夜、彗星が見えたこと。坂上さんは、彗星のことを、目を細めて聞いていた。

坂上さんの手は、膝の上で、静かに組まれていた。骨ばった、しみの浮いた、けれど、どこか品のある手だった。長い年月、なにかを大切に扱ってきた人の手だと、わたしは思った。その手を見ていると、なぜだか、あの片方の手袋のことが、また思い出された。

「彗星ねえ」と、坂上さんは言った。「わたしが娘のころにも、一度、見たことがあったわ。ずいぶん昔よ。あのころは、若かったから、なんとも思わなかったけれど……いまになって見ると、なんだか、あの世からこの世を、そっとのぞいている目みたいに見えるわねえ」

わたしは、どきりとした。

そして、思いきって、訊いた。

「坂上さん。……あの、床頭台の引き出しに、手袋が入っているの、ご存じですか」

坂上さんの手が、止まった。

しばらく、坂上さんは、なにも言わなかった。それから、引き出しを、そっと開けた。なかには、あのふたつの、片方だけの手袋が並んでいた。

坂上さんは、その古びたほうの手袋を、そっと手に取った。そして、それを、両手で包むように持って、しばらく、じっと見つめていた。

「……これは」と、坂上さんは、静かに言った。「うちの人の、手袋なの」

わたしは、黙って、続きを待った。

「もう、五十年も前になるかしらねえ」と、坂上さんは言った。「わたしとうちの人には、子どもがひとり、いたの。男の子。まだ、三つになったばかりの」

坂上さんの声は、静かだった。けれど、その静けさの底に、五十年ぶんの何かが、沈んでいた。

「その子が、冬に、風邪をこじらせてね。当時は、いまみたいに、いい薬もなかったから。あっという間に、悪くなって……三日で、逝ってしまったの」

わたしは、なにも言えなかった。

坂上さんは、しばらく、窓の外を見ていた。欅の葉が、風に揺れていた。その葉の一枚一枚に、五十年前の冬の光が、宿っているとでもいうように。

「あのころのことは」と、坂上さんは、静かに言った。「いまでも、昨日のことみたいに覚えているの。その子が熱を出して、うんうん唸っていたこと。小さな手が、火のように熱かったこと。それが、だんだん冷たくなっていったこと。……不思議なものねえ。五十年経っても、少しも薄れないの。ほかのことは、みんな忘れてしまったのに。うちの人の顔だって、いまはもう、写真がなければ思い出せないくらいなのに。あの子の、あの小さな手の感触だけは、この手のひらに、今でも残っているの」

坂上さんは、自分の手のひらを、じっと見つめた。まるで、そこに、いまも小さな手が、乗っているとでもいうように。

「うちの人は、それはもう、その子を可愛がっていてね。夜、なかなか寝つかない子だったから、いつも、うちの人が抱いて、子守唄を歌って、寝かしつけていたの。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……って。あの人の、低い、下手な声でね」

坂上さんは、そこで、小さく笑った。けれど、その目は、遠くを見ていた。

「その子が、病気で寝ているあいだも、うちの人は、ずっとそばで、その唄を歌っていた。手が冷たいと可哀そうだからって、自分の手袋を、その子の小さな手に、はめてやってね。大人の手袋だから、ぶかぶかで。片方は、すぐに脱げてしまって……その、脱げたほうの片方を」

坂上さんは、手のなかの、古い手袋を見た。

「これを、わたしが、ずっと持っていたの。その子が逝ってしまってからも、ずっと。うちの人が、その子の柩に、片方だけ入れてやったの。あの世で、手が冷たくないようにって。そして、もう片方を――この、片方だけを、うちに残してね。いつか、また、あの子に会えたら、そのとき、もう片方をはめてやろうって。あの人は、そう言っていたわ」

わたしの目に、じわりと、熱いものがにじんだ。

「そのうちの人も」と、坂上さんは続けた。「もう、十年前に、逝ってしまってね。あの人、逝くまぎわに、この手袋を、わたしの手に握らせて、言ったの。――おれが先に行って、あの子を探しておくよ。おまえは、ゆっくり来ればいい。そのときは、この手袋を、忘れずに持ってきておくれ。あの子の、もう片方の手に、はめてやるんだ、って」

坂上さんは、手袋を、そっと胸に当てた。

「だから、わたしは、この手袋を、どこへ行くにも持っているの。この病院にも、持ってきたわ。もうじき、わたしも、あちらへ行くでしょう。そうしたら、うちの人と、あの子に、会える。そのとき、この手袋を、あの子の手に、はめてやるの。五十年ぶりに、ようやく、両手そろえて」

わたしは、もう、こらえきれなかった。

深夜の四一二号室で見た、あの人影。坂上さんの枕もとに立ち、触れられぬ手を伸ばし、子守唄を口ずさんでいた、あの痩せた老人。

――あれは、坂上さんのご主人だった。

先に逝って、あの世で子を探しながら、それでも夜ごと、丑三つ時の境の薄れる刻に、妻の枕もとへ帰ってくる。まだ来なくていい、ゆっくりおいで、と、眠る妻に、あの唄を歌って聞かせながら。そして、そのたびに、あの片方の手袋を――五十年前に子の手から脱げ落ちた、あの手袋を――そっと、置いていく。

わたしは、坂上さんに、そのことを話すべきかどうか、迷った。

けれど、話せなかった。話せば、坂上さんは、きっと悲しむ。まだ来なくていい、という夫の情を知れば、坂上さんは、この世に、もう少し、留まろうとするかもしれない。それは、やさしさであって、同時に、ふたりを、もう少し長く、離れ離れにしておくことでもあった。

それに、と、わたしは思った。もし話せば、坂上さんは、ご主人が夜ごと来ていることを知って、こんどは自分から、その時刻に目を覚まして、待つようになるかもしれない。生者が、死者を待つ。それは、してはいけないことのような気が、わたしにはした。生者には生者の岸があり、死者には死者の岸がある。そのあいだを渡っていいのは、いまはまだ、あの唄と、あの手袋だけなのだ。境がすっかり薄れる、そのときが来るまでは。

わたしは、ただ、坂上さんの手を、そっと握った。

「坂上さん。……きっと、会えますよ。ご主人にも、お子さんにも」

坂上さんは、おだやかに笑った。

「ありがとうね、宮下さん」

窓の外の欅が、風に、さらさらと鳴った。

坂上さんのそばを辞して、廊下へ出ると、わたしは、しばらく、壁にもたれて立っていた。目の奥が、熱かった。五十年。その言葉の重さが、わたしの胸に、しずかに沈んでいった。五十年ものあいだ、あの手袋の片方を持ち続け、いつか会えるその日を、待ち続ける。人の情というものは、なんとつよく、なんと、しずかなものだろう。

その日の午後、わたしは、ふと思い立って、自分のアパートの押し入れを探った。奥のほうに、古い菓子箱がひとつ、しまってあった。そのなかに、祖母の遺したものが、いくつか入っていた。色あせた手ぬぐい。小さな鈴。そして、擦り切れた、写経の本。祖母もまた、若くして子をひとり亡くしていた。わたしの母の、上の兄にあたる子を。祖母は、そのことを、めったに口にしなかった。ただ、わたしを寝かしつけるとき、あの子守唄を歌ってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。

いまになって、わたしは思う。あの唄は、祖母が、亡くした子に歌ってやっていた唄だったのかもしれない。わたしを寝かしつけながら、祖母は、ほんとうは、あの世の子に、歌っていたのかもしれない。眠れ、眠れ。まだ、眠っていていい、と。

わたしは、その菓子箱を、しばらく、膝の上に抱いていた。窓の外は、夏の日ざかりだった。けれど、わたしの胸のなかには、あの丑三つ時の、蒼く冷えた闇が、しずかに広がっていた。

三晩目

その夜、わたしは、また丑三つ時に、四一二号室の前に立った。

ドアの隙間から、なかをのぞく。

いた。あの人影が、坂上さんの枕もとに。うつむいて、坂上さんを見おろしている。そして、あのかすかな子守唄。

わたしは、こんどは、ドアを開けなかった。ただ、隙間から、そっと、その光景を見ていた。

昼に、坂上さんの話を聞いてからは、その人影が、もう、まったくこわくなかった。むしろ、いとおしいような、切ないような気持ちで、わたしは、その老人を見ていた。

この人は、と、わたしは思った。この人は、五十年も前に子を亡くし、それから、妻とふたりで、その悲しみを抱えて生きてきた。そして、自分が先に逝ってからは、あの世で子を探しながら、それでも夜ごと、こうして妻のもとへ帰ってくる。まだ来なくていい、ゆっくりおいで、と。会いたいだろうに。ひとりは淋しいだろうに。それでも、妻には、まだこの世の光のなかにいてほしいと、そう願っている。その情の深さを思うと、わたしは、胸が塞がるようだった。

死んでもなお、断ち切れぬものがある。それは、こわいことだと、世の人は言うかもしれない。けれど、わたしには、それは、この上なく尊いことのように思えた。人が生きて、だれかを愛し、その愛が、死という境をも越えていく。そういうことが、この世には、たしかにあるのだ。丑三つ時の、いちばん深い闇のなかで、わたしは、それを、目の当たりにしていた。

老人は、いつものように、坂上さんの手のほうへ、そっと手を伸ばした。触れる寸前で、止めた。触れれば、目を覚ましてしまうから。目を覚ませば、坂上さんは、こちらへ来ようとしてしまうから。だから、老人は、決して、妻に触れなかった。ただ、そのかたわらに立って、子守唄を歌うだけだった。眠れ、眠れ、と。まだ、眠っていていい、と。

わたしは、そのとき、ふと、思いついた。

引き出しの手袋のことを。

坂上さんは、この手袋を、あちらへ持っていくつもりでいる。子の手に、はめてやるために。けれど、いま、坂上さんの枕もとには、その手袋を子の手にはめてやりたいと、五十年待ち続けている人が、立っている。

わたしは、そっとドアを開けた。

老人が、こちらを見た。あの、こまったような、申し訳ないような目で。

わたしは、静かに、床頭台へ歩み寄った。老人の視線を感じながら、引き出しを開け、あの古びたほうの手袋を――ご主人が、いつか子に会えたらはめてやろうと言った、あの片方を――手に取った。

そして、それを、老人のほうへ、そっと差し出した。

「……これを」と、わたしは、小さな声で言った。「探して、いらしたんじゃありませんか」

老人の目が、大きく見開かれた。

その顔に、驚きと、それから、なにか、ずっとこらえてきたものが、あふれ出すのが見えた。

老人は、闇のなかから、そっと手を伸ばした。その手が、わたしの手のなかの手袋に――触れた。

冷たかった。氷のように。けれど、たしかに、触れた。

老人の手が、その古い手袋を、そっと取った。そして、それを、両手で、包むように持った。

老人は、その手袋を、じっと見つめた。そして、顔を上げ、わたしを見た。

――ありがとう。

こんどは、たしかに、そう聞こえた。声にならぬ声で、けれど、たしかに。

老人の姿が、ゆっくりと、薄れはじめた。けれど、消える前に、老人は、もう一度、眠る坂上さんを見おろした。その目に、この上ないやさしさと、そして、待ち続けたものが、ようやく手に入るという、静かな喜びがあった。

そして、老人は、ふっと、闇のなかへ溶けていった。手袋を、抱いたまま。

あとには、坂上さんの、おだやかな寝息だけが残った。

わたしは、引き出しを見た。

そこには、もう一つの手袋――あの、まだ新しいほうの手袋が、ぽつんと残っていた。けれど、それは、もう、片方だけではないような気がした。あちらで、いま、もう片方と、対になったのだから。五十年ぶりに、両手そろえて。

窓の外を、わたしは見た。

東の窓の、その黒い空のいちばん深いところに、あの蒼い彗星が、しんと冴えて懸かっていた。この世とあの世の、ふたつの岸を照らすように。そして、その光の下を、いま、ひとりの父が、五十年待ちわびた手袋を抱いて、子のもとへと、急いでいるのだろう。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と、あの子守唄を、口ずさみながら。

わたしは、しばらく、その星を見ていた。

送り

坂上さんが亡くなったのは、それから、ひと月ほど後のことだった。

夏の終わりの、静かな明け方だった。眠るように、苦しむことなく、逝かれた。看取ったのは、わたしだった。

臨終の少し前、坂上さんは、一度だけ、目を開けた。そして、窓のほうを見て、なにか、うれしそうに、微笑んだ。

「……来て、くれたわ」と、坂上さんは、かすれた声で言った。「うちの人が。あの子を、連れて」

わたしは、坂上さんの手を握った。

「そう。よかったですね」

「あの子ね」と、坂上さんは、目を細めた。「両手に、手袋を、はめているの。ぶかぶかの、大きな手袋を。うれしそうに、笑って……」

坂上さんの目から、一筋、涙がこぼれた。けれど、その顔は、この上なく、幸せそうだった。

そして、坂上さんは、静かに、目を閉じた。

坂上さんが逝かれたあと、わたしは、しばらく、その枕もとに立っていた。窓の外は、まだ暗く、東の空の低いところに、あの蒼い星が、消えかけながら、しんと懸かっていた。

わたしは、その星を見ながら、あの三晩のことを思った。丑三つ時の、境の薄れる刻に、あの父が、五十年待ちわびた手袋を抱いて、子のもとへ帰っていったこと。そして、いま、母が、そのあとを追って、逝かれたこと。三人は、いまごろ、あちらで、ようやくひとつになったのだろう。この世では、五十年、離れ離れだった家族が。

死とは、なんと哀しいものだろう。けれど、と、わたしは思った。それが、こういう再会のかたちを取るのなら、死は、ただ哀しいだけのものでは、ないのかもしれない。

わたしは、坂上さんの、まだあたたかい手を、しばらく握っていた。それから、床頭台の引き出しを開けた。

なかには、あの、まだ新しいほうの手袋が――ないと思っていた、その手袋が。

なかった。

引き出しは、空だった。

わたしは、しばらく、その空の引き出しを見つめていた。それから、そっと、閉じた。

坂上さんは、忘れずに、持っていったのだ。あちらへ。そして、いまごろ、あの家族は、両手に手袋をはめた小さな子を真ん中にして、五十年ぶりに、三人そろっているのだろう。

窓の外は、しらじらと明けはじめていた。あの蒼い彗星は、もう、どこにも見えなかった。夜が明ければ、あの星は、薄れて、空に溶けてしまう。けれど、また巡ってくるのだろう。この世とあの世の境が薄れる、あの丑三つ時に。だれかの枕もとへ、だれかが帰ってくる、その刻に。

月光書房

それから、しばらくして――これは、余談のようなものだけれど。

坂上さんが亡くなって、幾晩か経った、ある夜勤の帰り道のことだった。

その夜も、彗星が見える晩だった。わたしは、明け方の、まだ暗い道を、ひとり歩いていた。病院からわたしのアパートまでは、古い商店街を抜けていく。その商店街の、いつもは通りすぎるだけの、細い路地の奥に、その晩は、なぜか、ぼんやりとした灯りがともっていた。

わたしは、なんとなく、その路地へ、足を向けた。

坂上さんを見送ってから、わたしは、少し、変わったように思う。眠る人たちのあいだを歩くとき、以前よりも、そのひとりひとりの命が、いとおしく感じられるようになった。この人にも、きっと、だれか待っている人がいる。あるいは、この人を、あちらで待っている人がいる。そう思うと、夜勤の一夜一夜が、ただの仕事ではなく、なにか、送りと迎えの、静かな儀式のように思えてくるのだった。

路地の奥に、小さな古書店があった。「月光書房」と、色あせた看板に書いてあった。こんな店が、あんなところにあっただろうか、と、わたしは思った。何度も通っている路地なのに。夜のあいだだけ、そっと現れる店なのかもしれない――そんな、埒もないことを、わたしは思った。けれど、あの三晩のことを見てしまってからは、この世には、そういう店の一軒や二軒、あってもふしぎはないと、素直に思えるのだった。

戸は、細く開いていた。なかから、古い紙の匂いと、それから、かすかに、青いマッチの燃えるような匂いがした。

わたしは、なかへ入った。

店には、だれもいなかった。ただ、古い本が、天井まで積まれて、ひっそりと並んでいた。帳場の卓の隅に、藍色の、三日月を刻んだ小さなマッチ箱が、ぽつんと置いてあった。

わたしは、なんとなく、棚のあいだを歩いた。すると、一冊の本が、ふと目に留まった。

それは、ずいぶん古い、藍色の表紙の本だった。手に取って、頁を開くと――そこに、あの子守唄が、書いてあった。

眠れ 眠れ
星が海を わたるまで
母のふところ あたたかく
父のうたごえ とおくとも

わたしは、その頁を、じっと見つめた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母のふところ、あたたかく。父のうたごえ、とおくとも。――わたしの祖母が歌ってくれたのは、はじめの二行だけだった。そのあとに、こんな続きがあったとは、わたしは知らなかった。母のふところ、父のうたごえ。それは、まるで、あの坂上さんの家族のために、あつらえたような一節だった。母のふところで眠る子。その子に、遠くから、父が唄を歌う。とおくとも、とおくとも、その声は、たしかに、子のもとへ届いている。

わたしの目に、じわりと、熱いものがにじんだ。

そして、ふと、頁の下に、小さな書き込みがあるのに気づいた。だれかが、鉛筆で、そっと書いたような。

「これは、送りの唄でもある。生まれてくる子を眠らせる唄が、逝く者を送る唄になる。眠れ、眠れ。また会うまで」

わたしは、しばらく、その本を、抱いていた。

外へ出ると、東の空に、あの蒼い彗星が、しんと冴えていた。そして、その光の下を、明け方の風が、さらさらと吹きすぎていった。まるで、だれかが、遠くから、あの子守唄を、口ずさんでいるように。

わたしは、その唄を、小さく、口ずさんでみた。

眠れ、眠れ。星が海を、わたるまで。

死者を送る夜は、いつも、いちばん深い闇のなかに、蒼い星が懸かっている。その星の下で、断ち切れぬ情だけが、ふたつの岸を、そっと、渡っていくのだ。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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