三十年の針
止まった刻(とき)
家のいちばん奥の間に、動かない柱時計がある。
わたしがこの家に嫁いできた春から、もう三十年になるけれど、あの時計が動いているのを見たことは、ただの一度もなかった。文字盤の針は、いつも十一時五十七分のところで、そろって斜めに傾いだまま――ちょうど、糸の切れた凧が、風のない空にじっと止まっているように。丑三つ時の三分前、といえばいいのか。あるいは、正午の三分前でもある。針だけを見ていては、どちらとも決めかねる。ただ、この家のなかでは、あの時計の刻はいつも夜のものだと、だれに教わるでもなく、わたしは信じてきた。
夫の順一が亡くなって、五年になる。子はなかった。広すぎる家に、わたしひとりが残された。日が落ちると、家じゅうの部屋が順に、ひとつまたひとつと、闇に沈んでゆく。台所の灯りを消し、廊下の灯りを消し、最後に寝間の枕もとの灯りを消すとき――わたしはいつも、あの奥の間の時計のことを、ふと思う。あの子は、暗がりのなかで、傾いだ針をそろえたまま、どんな夢を見ているのだろう、と。
この家は、順一の祖父が建てたものだと聞いている。太い梁の一本いっぽんに、遠い時代の職人の鑿の跡が残っていて、雨の夜には、その木肌が湿って、家じゅうがしっとりと匂い立つ。廊下は長く、昼でも薄暗い。奥へ進むほどに、日の光は届かなくなり、いちばん奥の間は、真昼でも、どこか黄昏のような色に沈んでいる。あの柱時計は、その、いちばん奥の間の、いちばん暗い壁ぎわに立っている。ひとりで暮らすには、あまりに広く、あまりに古い家だった。
けれど、わたしは、この家を出ようとは思わなかった。親類のなかには、こんな大きな家に、ばあさんがひとりで居るのは物騒だ、町場の小さな借家にでも移ったらどうか、と勧める者もあった。わたしは、そのたびに、あいまいに笑って、首を横に振った。理由を、うまく言葉にはできなかった。ただ、この家を離れてしまえば、なにか大切なものを、置き去りにしてしまう――そういう、はっきりとしない、けれど根の深い思いが、いつも胸の底にわだかまっていた。
いま思えば、わたしは、あの止まった時計から、離れたくなかったのだ。あの時計のなかに、なにかが留まっている。そのことを、わたしは、頭ではなく、体のどこかで、ずっと知っていたのかもしれない。
昼のあいだ、わたしは、庭の草をむしり、仏壇の水をかえ、細ぼそとした畑の世話をして、時をやり過ごす。順一の遺したわずかな田畑と、あのひとが遺した蓄えとで、老いた身ひとつを養うには、こと足りた。話し相手はなかったけれど、さびしいと思うことは、不思議と少なかった。この家そのものが、わたしの、長い連れ合いのようなものだった。
けれど、夜は、べつだった。夜が更けて、家じゅうの物音が絶えると、この家は、昼とはまるで違う顔を見せる。柱の一本、天井の一枚が、それぞれに、なにかを覚えているように、ひっそりと息をひそめる。そういう晩、わたしは、奥の間の時計の針が、なぜいつも、あの十一時五十七分を指したまま、動かずにいるのか――そのわけを、ぼんやりと考えることがあった。順一は、生きているあいだ、そのわけを、一度しか、口にしなかった。そのたった一度のことを、わたしは、長いあいだ、胸の奥にしまって、蓋をしていた。
その晩、わたしは眠れずにいた。
秋の初め、日中はまだ汗ばむほどの陽気だったのに、夜が更けると、どこからともなく冷えた気が忍び入ってくる。障子の桟に、指を当てるとひやりとするような、そういう冷たさだった。掛けものを引き寄せても、足の裏の芯だけが、いつまでも温まらない。
その日の昼間、わたしは、ひさしぶりに、あの奥の間の掃除をしていた。仏壇の花を活けかえるついでに、しばらく放っておいた奥の間の畳を、雑巾がけしていたのだ。柱時計の前まで来て、わたしは、ふと、手を止めた。硝子の内側に、三十年ぶんの埃がびっしりと降りつもって、なかの振り子も、文字盤も、うっすらと霞んでいる。掃除をしようか、と一瞬思ったけれど、やめておいた。この時計にだけは、埃ひとつ、触れてはいけない――そんな気が、なぜか、したからだ。
そのとき、文字盤の、いつも見なれた数字の内側に、なにか、金色の細い線が刻まれていることに、わたしは、はじめて気がついた。埃をかぶって、いままで見えなかったのだろう。目を凝らしても、その線が、なんの絵なのか、はっきりとはわからなかった。ただ、ひとすじ、尾を引くような、細い光の線。わたしは、それを、しばらく見つめてから、雑巾を手に、その部屋を出た。そして、その晩、眠れずにいた。いま思えば、あの金色の線に触れたときから、なにかが、静かに、動きはじめていたのかもしれない。
障子の外の闇は、いつになく、深かった。虫の声も、いつのまにか、絶えていた。ただ、家の奥のほうから、しんと張りつめた気配が、廊下を伝って、こちらへ流れてくるようだった。冷えは、その気配とともに、忍び寄ってくるのだった。
枕もとの時計を手さぐりで引き寄せて、目を細めた。夜光の針が、丑三つ時に近づいていた。午前二時をわずかに過ぎたあたり。この刻に目が覚めてしまうと、あとはもう、朝までまんじりともせぬのが常だった。
――こつ。
はじめは、家鳴りかと思った。古い木の家は、夜のあいだじゅう、どこかで小さく鳴っている。柱が乾いて縮む音、梁がわずかにたわむ音。三十年も暮らしていれば、その一つひとつを、耳が覚えている。だから、その音が、いつものどれとも違うと気づいたとき、わたしは掛けもののなかで、そっと息をとめた。
――こつ。こつ。
規則正しい。乾いていて、硬い。木の音ではない。金物の、それも、うんと古い、油の切れた歯車の擦れるような――。
あの奥の間の、時計の音だと、わたしにはわかった。
わからないはずがなかった。三十年、止まっていたのだから。三十年、鳴らなかったのだから。鳴らないものの音というのは、鳴らないという一事によって、かえってはっきりと、耳の奥に形を刻んでいる。それが、いま、鳴っていた。
こつ、こつ、こつ、と。
わたしは、しばらく、床のなかで、身じろぎもせずにいた。掛けものを、顎のところまで引きあげて、その音を聞いていた。恐ろしくなかった、といえば、嘘になる。心の臓が、胸の奥で、その音にあわせるように、とくとくと鳴っていた。けれど、それは、ただの恐ろしさとは、少し違った。なつかしさに、よく似た、なにか。遠い昔に一度だけ聞いて、それきり忘れていた声を、ふいに、また聞いたときのような――そういう、胸の底を、そっと撫でられるような感覚だった。
行かなければ、と思った。あの音のするところへ、行かなければ。それは、決めたというより、なにかに、しずかに手招きされているような、そういう心もちだった。逆らうことは、できなかった。逆らおうとも、思わなかった。
冷えた廊下に足を下ろすと、板の冷たさが、かかとから背筋へと駆けのぼった。灯りはつけなかった。つけようという気が、なぜか起きなかった。むしろ、灯りをつけてしまえば、この音も、この気配も、朝の光のように消えてしまう――そんな気がした。障子越しの、うすい闇のなかを、わたしは手さぐりで、奥の間へと進んでいった。廊下の、三枚目の板が、わたしの足の下で、かすかに、軋んだ。その軋みが、なぜか、胸に、痛いほど、しみた。
奥の間の障子を開けると、そこだけ、月あかりが差していた。
雨戸を閉め忘れていたのだろうか。いや、そんなはずはない。日が暮れる前に、たしかにこの部屋の雨戸も閉てたはずだ。それなのに、部屋の奥の柱時計に、青みを帯びた光が、まっすぐに当たっていた。文字盤が、ほのかに浮かびあがっている。
――動いていた。
三十年、十一時五十七分で止まっていた針が、いま、たしかに動いていた。長い針が、ひと目盛り、またひと目盛りと、ゆっくりと進んでゆく。こつ、こつ、という音は、その針の刻む音だった。振り子が、闇のなかで、ゆらり、ゆらりと揺れている。硝子の内側に降りつもった三十年ぶんの埃を透かして、真鍮の振り子が、月あかりを鈍く照りかえしていた。
わたしは、部屋の入口に立ちすくんだまま、その針を見ていた。
十一時五十七分。五十八分。五十九分。
長い針が、いよいよ天辺の十二を指そうとしたとき――部屋の空気が、ふっと、変わった。
冷えていたはずの空気が、急に、やわらかくなった。畳の匂いが、濃くなった。それは、いまのこの家の畳の匂いではなかった。もっと新しい、青い藺草の匂い。嫁いできたばかりのころ、この部屋に敷きたてだった、あの畳の匂いだった。
そして、匂いのなかに、人の気配が生まれた。
わたしの背後、廊下のほうから、誰かが歩いてくる足音がした。
すり足の、慣れた歩き方。板を鳴らさぬように、そろりと運ぶ足。振り向いてはいけない、と、頭のどこかがささやいた。けれど、その足音を、わたしは知っていた。知りすぎるほど、知っていた。
順一の足音だった。
夜更けに、蔵の帳面をつけて、それから寝間へ戻ってくるときの、あのひとの足音。廊下のちょうど三枚目の板が、いつもかすかに軋む。その軋みまで、寸分たがわず、耳に届いた。
「――まだ起きとったんか」
背後で、声がした。低い、少しかすれた、順一の声。
わたしは、答えられなかった。喉が凍りついたように動かない。返事をしてしまえば、なにかが、取りかえしのつかぬところへ滑り落ちてしまう――そんな気がした。
けれど、その声は、わたしに向けられたものではなかった。
「――寝んと、体にさわるぞ。もう二時じゃ」
順一の声は、わたしの、すぐ横をすり抜けていった。まるで、わたしがそこにいないかのように。そうして、部屋のなかへと入っていった。
わたしは、そこで、見た。
月あかりの差す畳の上に、若い順一が、坐っていた。
三十いくつの、まだ髪の黒々とした順一。わたしと祝言を挙げて、幾年もたたぬころの、あのひとだった。膝の上に、なにかを大切そうに抱えている。目を凝らすと、それは、赤ん坊だった。
小さな、生まれてまだ幾日もたたぬような、赤ん坊。
わたしは、息をのんだ。
わたしたち夫婦に、子はなかった。それは、はじめから子がなかったのではない。一度だけ、授かったことがあった。嫁いで二年目の秋。けれど、その子は、生まれてわずか三日で、この世を去った。名は、まだつけていなかった。つけるまえに、逝ってしまった。だから、わたしたちは、その子のことを、長いあいだ、口にしなかった。口にすれば、傷が、また新しく開くから。
あの子を身ごもったとき、順一の喜びようは、ひととおりではなかった。無口で、めったに笑わぬあのひとが、そのころは、まるで人が変わったように、よく笑った。仕事から帰ると、まず、わたしの、まだそれほどふくらんでもいない腹に、そっと手をあてた。「男の子かな、女の子かな」と、あのひとは言った。「どっちでもええ。丈夫に生まれてくれれば、それでええ」。夜になると、あのひとは、わたしの腹に耳をあてて、なかの子に、話しかけた。「早う、出てこいよ。父ちゃんが、待っとるぞ」と。そして、まだ生まれてもいない子に、この止まる前の柱時計の音を、聞かせるのだった。「ほら、聞こえるか。この家の時計の音じゃ。おまえが生まれたら、この音を数えて、大きゅうなるんじゃぞ」と。
あのころ、あの柱時計は、まだ、生きていた。こつ、こつ、と、昼も夜も、律儀に時を刻んでいた。その音は、この家の、心の臓の音のようだった。順一も、わたしも、その音を数えながら、生まれてくる子を、指おり数えて待っていた。
けれど、産み月が近づくにつれ、わたしの体は、日に日に、衰えていった。医者は、はじめから、難しい産だと言っていた。そして、あの秋の朝、わたしは、幾刻もの苦しみの果てに、ようやく、その子を産んだ。小さな、けれど、たしかに息をする、いのちだった。産声は、細かった。糸のように、細かった。その細い産声を聞いたとき、順一は、産室の外の廊下で、声を殺して、泣いていた。
けれど、医者の顔は、暗かった。「この子は、長くは、もたぬかもしれません」と、医者は、順一に、そっと告げた。わたしは、その言葉を、朦朧とした意識のなかで、切れぎれに聞いていた。母体も、弱っていた。わたしは、子を抱くことも、乳をふくませることも、ままならぬまま、床に臥せるほかなかった。
その、名もない子を、若い順一が、腕に抱いていた。
順一は、赤ん坊の顔をのぞきこみながら、小さな声で、なにかを口ずさんでいた。子守唄だった。
「――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
わたしの、よく知っている唄。嫁いでくるまえ、わたしの母が、わたしに歌ってくれた唄。そして――そうだ、思い出した。あの子が生まれた三日のあいだ、わたしと順一が、かわるがわる、その小さな耳もとで歌った、あの唄だった。
「眠れ、眠れ、風が山をこえるまで……」
順一の声は、震えていた。
わたしは、そのとき、はじめて気がついた。この光景は、あの子が逝った、あの晩のものなのだ、と。柱時計が止まった、あの刻のものなのだ、と。
あの晩、わたしは、隣の間に臥せっていて、この光景を、この目で見ることは、できなかった。ただ、壁ごしに、順一の唄声を、聞いていただけだった。だから、これは、わたしが、はじめて目にする、あの夜の、ほんとうの姿だった。あのひとが、たったひとりで、逝きゆく子を抱いて、どんな顔で、どんな声で、あの子を送っていたのか。三十年、わたしは、それを、知らずにいた。知りたくても、知ることのできなかった、あの夜の、いちばん奥の景色。それが、いま、月あかりのなかに、しずかに、開かれていた。
三十年前の、あの秋の晩。
わたしは、産後の疲れで、隣の間に臥せっていた。医者はもう、手のほどこしようがないと言った。あとは、この子の命の灯が、いつ消えるかというだけだ、と。わたしは、あまりの悲しみに、ただ横になって、天井を見つめることしかできなかった。涙も、もう、出なかった。ただ、腹の底が、氷のように冷たくなって、そこから、体じゅうが、少しずつ、凍りついてゆくようだった。
わたしは、あの子を、抱いてやりたかった。ひと目、しっかりと、この目で見て、この腕に抱いて、乳をふくませてやりたかった。けれど、体が、いうことをきかなかった。起きあがろうとすると、目のまえが暗くなり、そのまま、また床に沈んでしまう。わたしは、母でありながら、母のつとめの、なにひとつ、してやることができなかった。それが、なにより、つらかった。
けれど、順一は――夫は、その子を離さなかった。
医者が帰ったあと、順一は、赤ん坊を抱いて、この奥の間に籠もった。「おれが、抱いとってやる」と、あのひとは、わたしに言った。「おまえは、休め。この子は、おれが、しっかりと、抱いとってやるから」。そうして、丑三つ時が近づくまで、ずっと、子守唄を歌いつづけていた。わたしは、隣の間で、その声を、切れぎれに聞いていた。壁ごしに聞こえてくる、あのひとの、震える声を。無口なあのひとが、あんなに長く、あんなにやさしく歌うのを、わたしは、はじめて聞いた。そして、それが、最後だった。
あの子は、丑三つ時に、逝った。
十二時――ではない。時計が止まっていたのは、十一時五十七分。順一が、あとで、ぽつりと言ったことがある。あの子の息が、すうっと細くなって、それきり止まったとき、ふと壁の時計を見たら、ちょうど針が、十一時五十七分を指していた、と。まるで、時計が、その刻を覚えておこうとするように、そこで、こつん、と止まったのだ、と。
――それきり、三十年、時計は動かなかった。
順一は、その時計を、直そうとはしなかった。時計屋に見せることさえ、しなかった。「あれは、あの子の時計じゃ」と、あのひとは言った。「あれが止まっとる限り、あの子は、まだこの家におる。動かしてしもうたら、あの子は、行ってしまう」
わたしが、そのわけを、あのひとの口から聞いたのは、あの子を亡くしてから、もう十年もたったころのことだった。ある晩、めずらしく酒を飲んだ順一が、奥の間の時計を見あげながら、ぽつり、ぽつりと、そう語ったのだ。それきり、あのひとは、二度と、そのことを口にしなかった。わたしも、聞かなかった。触れれば、また、あの秋の夜が、ありありとよみがえってしまう。ふたりとも、それが、こわかったのだ。
だから、わたしたちは、止まった時計を、そのままにした。三十年、埃をかぶるにまかせて、そのままにしてきた。時計のない家、というものは、どこか、時の流れの外に、ぽつんと取り残されているようなところがある。わたしたちの暮らしは、あの止まった針のまわりを、いつも、しずかに、めぐっていた。歳をとるのも、老いてゆくのも、あの止まった刻を中心に、ゆっくりと、まわっているようだった。そして、順一もまた、五年前の、ある冬の朝、眠るように、逝った。その死に顔は、おだやかだった。まるで、どこか、行くあてを心得ている者の、顔だった。いま思えば、あのひとは、あの止まった時計のなかへ、帰ってゆく先を、ちゃんと、知っていたのだ。
いま、その時計が、動いている。
若い順一は、赤ん坊を抱いたまま、子守唄を歌いつづけている。その顔は、月あかりのなかで、涙に濡れていた。わたしの知っている、いちばん若い、いちばん悲しい、あのひとの顔だった。
わたしは、部屋の入口から、一歩、なかへ踏み出した。
そのとき、若い順一が、ふと、顔をあげた。わたしのほうを――いや、わたしのいる場所を、見た。見えているのか、いないのか、わからない。けれど、その目は、たしかに、なにかを探すように、宙をさまよった。
「……ばあさんか」
若い順一の口から、そんな言葉がこぼれた。
わたしは、はっとした。
「ばあさん」――それは、あのひとが、晩年のわたしを呼んだ呼び名だった。祝言を挙げたばかりのころ、あのひとは、わたしを名で呼んだ。それが、歳をとるにつれて、いつしか「ばあさん」に変わった。若い順一が、その呼び名を知っているはずがない。まだ、そのころのわたしたちは、若かったのだから。
けれど、あのひとは、たしかに、そう呼んだ。まるで、いまのわたしが――五十を過ぎ、髪も白くなったわたしが、そこに立っていることを、どこかで感じとっているかのように。
「……来たんか。三十年、待っとったぞ」
若い順一は、そう言って、かすかに笑った。
わたしの目からも、涙がこぼれた。声を出そうとしたけれど、やはり、喉は動かなかった。ただ、うなずくことしか、できなかった。何度も、何度も、うなずいた。
時計は、動きつづけている。
こつ、こつ、こつ。
長い針が、十二を越え、一分、二分と、進んでゆく。零時をまわった。いや――この部屋のなかでは、いま、あの晩の丑三つ時なのだ。三十年前の、あの秋の夜。時が、ここだけ、巻き戻されている。
若い順一が、腕のなかの赤ん坊を、そっと、わたしのほうへ差し出した。
「抱いてやってくれ。おまえに、抱かれたがっとる」
わたしは、震える手で、その小さな体を受けとった。
――重さがあった。
たしかに、ぬくもりのある、小さな命の重さが、わたしの腕に伝わった。三十年、抱くことのできなかった、あの子。名もつけてやれなかった、あの子。その子が、いま、わたしの腕のなかで、かすかに身じろぎをした。
まぶたを閉じたその顔は、眠っているようだった。安らかに、眠っているようだった。
わたしは、その小さな体を、両の腕で、そっと包みこんだ。落としてしまわぬように、こわしてしまわぬように。三十年、ずっと、この腕は、この重さを、待っていたのだ。抱くことのできなかった悔いが、腕の奥に、こりのように、固まっていた。そのこりが、いま、この小さなぬくもりに触れて、ゆっくりと、ほどけてゆくのがわかった。
わたしは、その小さな耳もとに、口を寄せた。そして、歌った。三十年前、隣の間で臥せったまま、歌ってやることのできなかった、あの唄を。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
かすれた、老いた声だった。けれど、それは、たしかに唄になった。声のふしぶしが、震えた。三十年ぶんの、言えなかった詫びと、言えなかった愛おしさとが、その震えのなかに、こもっていた。ごめんね、と、わたしは、唄のあいまに、胸のうちでつぶやいた。抱いてやれなくて、ごめんね。乳をやれなくて、ごめんね。名も、呼んでやれなくて、ごめんね。あの子は、それでも、まぶたを閉じたまま、わたしの胸に、そっと、頬を寄せてくるようだった。
「眠れ、眠れ、風が山をこえるまで……」
若い順一が、わたしの声にあわせて、歌いだした。ふたりの声が、月あかりの部屋に、しずかに重なった。三十年の時をこえて、はじめて、わたしたちは、その子のために、ふたりで唄をうたった。
そのとき、部屋の隅に、ひとつの明かりが、ぽっと灯った。
見ると、それは、小さな火だった。柱時計の下――その台座のあたりに、誰かが、マッチを擦ったらしい。青い、藍色の小箱が、畳の上に落ちていた。蓋に、細い三日月が刻まれている。月光堂の、青いマッチ箱だった。
そういえば、と、わたしは思い出した。あの晩、順一は、この時計の裏に、なにかを隠していた。灯明の火を絶やすまいと、あのひとは、幾度もマッチを擦っていた。あの子の枕もとの、小さな豆ランプを、消さぬために。
いま、その火が、ふたたび灯った。
畳の上のマッチの火は、消えることなく、ゆらゆらと燃えつづけている。その青みがかった炎が、若い順一の顔を、わたしの腕のなかの赤ん坊の顔を、やわらかく照らしていた。まるで、その一場面だけを、この世に留めておこうとするように。
わたしは、火のほうを見た。それから、窓のほうを見た。
雨戸が、いつのまにか、開いていた。
窓の外に、星がひとつ、懸かっていた。
いや、星というには、それは、あまりに蒼く、あまりに冴えていた。夜のいちばん深いところ、墨を流したような闇の底に、ひとすじの光が、尾を引いて横たわっている。それは、ゆっくりと、天のいちばん高いところをわたってゆくところだった。
ミラ彗星、と、わたしは胸のうちでつぶやいた。
子どものころ、母が、その名を教えてくれた。まだ、わたしが、この家に嫁ぐよりも、ずっと前のこと。ある夜更け、母は、寝つけずにいたわたしを、そっと縁側に連れ出して、夜空を指さした。そこに、蒼い光が、ひとすじ、尾を引いていた。「ずうっと昔から、あの星は、ときどき空をわたるんよ。この世と、あの世の、ちょうど境目を照らすように」と、母は言った。「あの光が見えた晩は、逝ったひとと、いちばん近うなれるんよ」と。
そのとき、母が、なぜ、あんなにも、しんみりとした声で、そう言ったのか。子どもだったわたしには、わからなかった。いまなら、わかる。母もまた、そのころ、幼くして逝った子を――わたしの、顔も知らぬ姉を、胸に抱いていたのだろう。あの星を見あげながら、母は、その子と、いちばん近くなろうとしていたのだ。母は、あの縁側で、低い声で、あの子守唄を歌った。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」と。それが、母から、わたしへ、そして――と、わたしは、いま、思う。この唄は、母から娘へ、また娘から、その子へと、逝った者を送るために、受け継がれてきた唄なのだ、と。
その彗星が、いま、この家の窓の外に、懸かっていた。丑三つ時の、いちばん深い闇の底に、それは、蒼く、冴えて、まるで、この世とあの世の境の一線を、そっと指でなぞるように、静かに、天をわたってゆくところだった。
わたしは、はっとして、柱時計の文字盤を、あらためて見た。
月あかりに浮かぶ、古い文字盤。その、数字の並ぶ内側に――いままで気づかなかった、細かな絵が刻まれていた。金の泥で描かれた、ひとすじの、尾を引く星。ミラ彗星だった。時計の職人が、いつの時代にか、この文字盤に、あの彗星を刻んでおいたのだ。
窓の外の彗星と、文字盤のなかの彗星が、月あかりのなかで、ひそかに、向かいあっていた。まるで、外の空と、この止まった時計のなかの時間とが、その一点で、そっと触れあっているかのように。
わたしは、その意味を、ゆっくりと悟った。
この彗星が空をわたるあいだだけ――この世とあの世の境がいちばん薄れる、丑三つ時のあいだだけ、止まった時計は動き、留まっていた者は、ここへ戻ってこられるのだ。三十年、この文字盤のなかに、あの子と、あのひとの一夜が、封じこめられていた。彗星が、その封を、いま、そっと解いたのだ。
わたしは、腕のなかの赤ん坊を、そっと揺すりながら、若い順一に問うた。声は、まだ出なかったけれど、目で、問うた。
――あなたは、ずっと、ここにいたの。
若い順一は、わたしの目を見て、うなずいた。
「おれは、この子を、ひとりにはできんかった」と、あのひとの声が言った。「おまえが、あとから来てくれると、信じとった。この子を、おまえに渡すまで、おれは、ここを離れられんかった」
わたしは、涙をこらえきれなかった。
順一は、五年前に亡くなった。けれど、あのひとは、あの世へは行かなかったのだ。この、止まった時計のなかへ――三十年前の、あの丑三つ時のなかへ、戻ってきていたのだ。名もない子を抱いたまま、たったひとり、わたしが来るのを、待ちつづけていたのだ。
「おれが逝ったとき」と、順一の声はつづけた。「三途の川のほとりで、この星が見えた。それで、ああ、あの晩へ戻れる、と思うた。あの子のところへ、行ける、と。それから、ずっと、ここで、おまえを待っとった。この星が、また空をわたる晩を、待っとった」
わたしは、順一の顔を見た。若い、あのころの顔。けれど、その目の奥には、五年前に亡くなった、老いた順一の、あのおだやかな眼差しが、たしかに、宿っていた。若い姿をしていても、それは、わたしの知る、あのひとそのものだった。三十年前のあの晩から、あのひとは、ずっと、この一夜を、生きなおしていたのだ。何度も、何度も、彗星のめぐるたびに、この奥の間で、名もない子を抱いて、子守唄を歌い、そして、わたしが来るのを、待っていたのだ。
「さびしゅう、なかったの」と、わたしは、ようやく、声に出して、問うた。喉の凍りが、いつのまにか、ほどけていた。
順一は、しずかに、首を横に振った。「さびしくは、なかった」と、あのひとは言った。「この子が、おったからな。それに――待つというのは、そう、悪いものじゃない。待っとるあいだは、まだ、会えるという望みが、あるからな」
こつ、こつ、こつ。
時計の音が、少しずつ、遅くなってきた。
長い針の進みが、鈍ってゆく。振り子の揺れが、だんだんと、小さくなってゆく。窓の外の彗星も、天のいちばん高いところを越えて、いまや、西の空へと傾きはじめていた。その蒼い光が、少しずつ、薄れてゆく。
刻が、終わろうとしていた。
若い順一が、立ちあがった。そうして、わたしのほうへ、両手を差し出した。
「その子を、返してくれ」
わたしは、首を振った。いやだ、と、体じゅうで訴えた。ようやく、抱くことができたのに。三十年、抱けなかったこの子を、ようやく。
順一は、かなしそうに、けれど、やさしく笑った。
「連れていくんじゃない」と、あのひとは言った。「一緒に、行くんじゃ。おれと、この子と。おまえは、まだ、こっちにおらんといかん。おまえの刻は、まだ、来とらん。――けどな、ばあさん。おれたちは、ここで、待っとる。おまえの時計が止まる、その刻まで、な」
わたしは、赤ん坊の顔を、もう一度、見た。
眠ったまま、その子は、かすかに笑んでいるように見えた。まるで、母の腕のぬくもりを、たしかに覚えた、というように。名もつけてやれなかったこの子は、それでも、わたしを、母だと、知っていた。
離したくなかった。三十年、待って、ようやく、この腕に抱いたのだ。もう二度と、離したくなかった。けれど、わたしには、わかっていた。この子を、いつまでも、この止まった時計のなかに、留めておいてはいけない。それは、この子のためではなく、わたしの、ただの未練なのだ、と。わたしが手を離さぬかぎり、この子も、あのひとも、あの世へ渡りきれずに、この一夜のなかを、さまよいつづけることになる。それは、この子を、いちばん愛おしむこととは、違う。母というものは、抱くことだけではない。手を離すことも、また、母のつとめなのだ。
わたしは、その子の額に、そっと口づけをした。冷たくはなかった。ぬくもりがあった。かすかな、乳の匂いがした。生まれてまだ幾日もたたぬ、あの、なつかしい匂いだった。
そして、震える腕で、その子を、若い順一に返した。腕から、その重さが、ゆっくりと去ってゆく。まるで、体の一部が、もぎ取られてゆくようだった。けれど、わたしは、こらえた。歯を食いしばって、こらえた。
順一は、赤ん坊を抱きなおすと、わたしに、深くうなずいてみせた。
「唄を」と、あのひとは言った。「最後に、もう一度、あの唄を、聞かせてくれ。この子を、送るのに」
わたしは、うなずいた。そして、歌った。今度は、声が出た。しっかりと、出た。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
若い順一も、赤ん坊を揺らしながら、歌った。
「眠れ、眠れ、風が山をこえるまで……」
ふたりの声が、月あかりの部屋に満ちた。それは、もう、悲しみの唄ではなかった。三十年、行き場を失っていた小さな魂を、ようやく、あるべきところへ送りだす、そういう唄だった。
不思議なことに、歌ううちに、わたしの胸を、長いあいだ塞いでいた、あの重いものが、少しずつ、軽くなってゆくのを感じた。あの子を亡くしてからの三十年、わたしは、心のどこかで、ずっと、自分を責めていた。抱いてやれなかったこと。乳をやれなかったこと。母でありながら、母のなにひとつ、してやれなかったこと。その悔いが、いつも、胸の底に、冷たい石のように、沈んでいた。けれど、いま、この唄を歌いながら、その石が、ゆっくりと、溶けてゆくようだった。おまえは、ちゃんと、母だったよ――と、順一の声が、唄のあいまに、そう言ってくれているような気がした。
みらの、閉じたまぶたが、ほんのわずか、ふるえた。まるで、母の唄を、たしかに聞いた、というように。そして、その小さな唇の端が、かすかに、笑んだ。それは、この世に生を享けて三日のあいだ、一度も見せることのなかった、あの子の、はじめての、笑みだった。わたしは、その笑みを、生涯、忘れまいと思った。
畳の上の、青いマッチの火が、ふっ、と揺れた。
そして、消えた。
同時に、窓の外の彗星が、西の空の、雲の向こうへと、しずかに沈んでいった。
こつ。
時計が、最後に、ひとつ、音を刻んだ。
そして――止まった。
わたしは、はっと、文字盤を見た。
針は、また、あの刻に戻っていた。十一時五十七分。三十年前、あの子が逝った、あの刻。長い針と短い針が、そろって斜めに傾いで、そこで、じっと止まっていた。
けれど、なにかが、違っていた。
部屋を満たしていた、あの青い藺草の匂いも、若い順一の気配も、赤ん坊のぬくもりも、いつのまにか、消えていた。畳は、また、三十年ぶんの古びを取りもどしていた。月あかりも、もう、差してはいなかった。雨戸は、閉じたままだった。開いた覚えなど、はじめからなかったかのように。
わたしは、ひとり、暗い部屋のまんなかに、立ちつくしていた。
腕のなかは、からっぽだった。
けれど――そのからっぽの腕に、ぬくもりの名残だけが、たしかに、残っていた。
わたしは、柱時計の下に、身をかがめた。
台座のあたりを、手さぐりでさぐると、指先に、小さな、硬いものが触れた。取りあげて、目を近づける。
藍色の、マッチ箱だった。蓋に、三日月が刻まれている。
けれど、それは、さっき、幻のなかで見たものとは違った。もっと古い、もっとくたびれた、幾十年もそこにあったような、色のあせたマッチ箱。三十年前、順一が、この時計の裏に隠していったものに、ちがいなかった。
わたしは、その箱を、あけてみた。
なかには、マッチが、ただ一本だけ、残っていた。
それから、小さく折りたたまれた、紙きれが入っていた。ひらいてみると、そこには、順一の字で、たった一言、書きつけてあった。
――この子の名は、みらと、つけたい。あの星の名じゃ。
わたしは、その紙きれを、胸に押しあてて、声をあげて泣いた。暗い奥の間に、老いた女の泣き声が、ひとりぶん、こもった。けれど、それは、悲しみだけの涙では、なかった。
三十年、名もないと思っていた、あの子。けれど、あのひとは、ちゃんと、名をつけていた。わたしに言えぬまま、この時計の裏に、そっと隠していた。みら――彗星の名。この世とあの世の境をわたる、あの星の名を。
順一は、きっと、あの晩、あの子を抱いて子守唄を歌いながら、心のうちで、その名を呼んでいたのだろう。声には出さずに。声に出せば、その名が、この世に、この子を、しばりつけてしまうと思ったのか。あるいは、わたしに聞かせて、また、傷を負わせまいとしたのか。あのひとは、いつも、そういうひとだった。自分のつらさは、胸のいちばん奥に隠して、わたしには、笑ってみせる。無口で、不器用で、けれど、だれよりも、深く、静かに、この家の者を思っていた。
あの子は、みら、という名を持っていた。星の名を持って、星の名の彗星に導かれて、あの止まった時計のなかへ、帰っていったのだ。文字盤に刻まれた、あの金色の星の下へ。そう思うと、わたしの涙は、いつのまにか、あたたかいものに、変わっていた。
それから、幾晩か、わたしは、あの奥の間に、床をのべて眠るようになった。
止まった時計のそばで、眠る。針は、あいかわらず、十一時五十七分を指したまま、動かない。けれど、もう、さびしくはなかった。あの時計のなかに、あのひとと、みらが、いる。そう思うと、暗がりのなかでも、腕に、あのぬくもりが、よみがえってくるようだった。
わたしは、あの藍色のマッチ箱を、仏壇の、あの子の位牌のかたわらに、そっと置いた。位牌には、あの晩から、みら、という名を、彫ってもらった。石屋の主人は、女の子ですか、男の子ですか、と尋ねた。わたしは、少し考えて、「どちらでもよいのです。星の子ですから」と答えた。主人は、けげんな顔をしたけれど、その名を、ていねいに、彫ってくれた。
夜、床につくまえに、わたしは、そのマッチ箱から、ときおり、一本だけ残ったマッチを、取り出して、眺める。三日月の刻まれた、藍色の小箱。順一が、あの晩、あの子の枕もとの豆ランプを、絶やすまいと、幾度も擦った、あのマッチ。擦ってしまえば、この最後の一本も、燃えつきてしまう。だから、わたしは、けっして、擦らない。ただ、手のひらにのせて、あのひとが、この火で照らそうとした、あの一夜のことを、思うのだ。
奥の間で眠っていると、ときおり、夢とも、うつつともつかぬ狭間で、あの子守唄が、どこからか、聞こえてくることがある。低い、順一の声。それに重なる、母の声。そして、いつのまにか、わたし自身の声も、そこに、そっと加わっている。眠りの入口で、わたしは、その唄に抱かれて、静かに、まぶたを閉じる。
近所の時計屋が、あるとき、家に立ち寄って、あの柱時計を見て、言った。
「奥さん、これ、直しましょうか。歯車が錆びとるだけです。油をさせば、また動きますよ」
わたしは、首を振って、断った。
「いいえ。あれは、あのままで、いいんです」
時計屋は、けげんな顔をしたけれど、それ以上は、なにも言わなかった。
わたしは、いまでも、丑三つ時に、ときおり目を覚ます。
そして、耳をすます。こつ、こつ、という、あの音を、待つ。
けれど、時計は、めったに、動かない。あの音が聞こえるのは、空に、あの蒼い星が懸かる晩だけ。何年に一度、あるかないかの、その晩だけ。母が言ったとおりだった。あの星が見えた晩にだけ、逝ったひとと、いちばん近うなれる。止まった時計は、その晩にだけ、こつ、こつ、と動きだし、この家の時間を、あの秋の夜へと、そっと巻き戻す。
そのわずかな数分のあいだ、わたしは、若い順一に会い、みらを抱く。そして、三人で、あの子守唄を歌う。彗星が西の空へ沈むとき、時計はまた止まり、みんな、文字盤のなかへと帰ってゆく。
わずか数分の逢瀬のために、わたしは、幾年も待つ。長い、といえば、長い。けれど、待つあいだにも、あの止まった時計は、この家の奥で、いつも、静かに、あのふたりを、抱いていてくれる。だから、待つのは、つらくはない。順一が言ったとおりだった。待っているあいだは、また会えるという望みが、いつも、胸のなかに、ともっているのだから。
歳をとるにつれて、わたしの体も、少しずつ、衰えてきた。膝が痛み、目もかすむ。夜中に目を覚ますことも、多くなった。けれど、それを、わたしは、恐れてはいない。むしろ、わたしの命の時計が、少しずつ、あの十一時五十七分に近づいてゆくのを、どこかで、待っているような気さえする。老いてゆくことは、あのふたりに、少しずつ、近づいてゆくことなのだから。
わたしは、それでいいと思っている。急ぐことはない。
いつか――わたしの命の時計が、こつん、と止まる、その刻が来たなら。そのときは、わたしも、あの文字盤のなかへ、行くのだろう。若い順一と、みらの待つ、あの秋の夜へ。そうして、三人で、ずっと、あの唄を歌っていられるのだろう。
星が、海をわたるまで。
風が、山をこえるまで。
いつまでも、いつまでも。
きのうの晩、また、あの音が聞こえた。
こつ、こつ、こつ、と。
窓の外に、蒼い星が、懸かっていた。
わたしは、床から起きて、奥の間へ向かった。障子を開けると、そこに、月あかりが差していた。柱時計の針が、ゆっくりと動いていた。畳の上に、青いマッチの火が、ひとつ、灯っていた。
若い順一が、赤ん坊を抱いて、坐っていた。そして、こちらを見て、笑った。
「来たか、ばあさん」
わたしは、その傍らに、坐った。順一が、みらを、わたしの腕に渡してくれた。
からっぽだった腕に、ふたたび、ぬくもりが宿った。
わたしたちは、歌いはじめた。三人で、しずかに、歌いはじめた。
止まった時計が指す、十一時五十七分。それは、この家のなかで、いつまでも終わらない、いちばん深く、いちばんやさしい、丑三つ時の刻だった。