月光書房
丑の刻 ・ 丑三つ時 ・ 第 十二 話

岸辺の砂時計

常盤 夜舟
幻想・境界 ・ 約25頁

岸辺の砂時計

眠りに落ちる寸前、いつも私は片手を胸のうえに置く。それが子供のころからの癖で、そうしないと落ちてゆく先がわからないような、心もとない気がするのだった。掌の下で心の臓がひとつ、またひとつと打つのを数えているうちに、まぶたの裏がしずかに明るんでくる。明るむといっても、昼のあかるさではない。青みを帯びた、水底のような光だ。その光が満ちてくると、私はもう、あの岸辺に立っている。

岸辺は、いつも同じ岸辺だった。

砂は白く、指のあいだからこぼれるほど細かい。海とも川ともつかない水が、目のとどくかぎり遠くまで、鏡のようにひろがっている。波は立たない。ただ、ふちのあたりで水がひたひたと砂を舐めては引いてゆく音だけが、耳のうしろで絶えず鳴っている。空には星がひとつ。ほかの星はどこにもなく、その一つだけが、蒼く冴えて、水面に長い尾を引いていた。

その岸辺に、あの人が立っている。

「また来たね」

そう言って、あの人はいつも私のほうを振りかえる。声は、水のなかを渡ってくるように、少しくぐもって聞こえる。けれど、なつかしさだけは、寸分も損なわれずに届く。

私はうなずく。何をしに来たのか、自分でもわからない。ただ、来ずにはいられない。眠るというのは、この岸辺へ渡ってくることなのだと、いつのころからか、そう思うようになっていた。昼のあいだの疲れも、心のわだかまりも、この砂を踏むと、水にほどけるように、すうっと消えてゆく。ここは、私にとって、いちばん心のやすまる場所だった。それがなぜなのか、目覚めると忘れてしまうのだけれど。

あの人は、私よりいくらか背が高い。夜の色をした上着を着て、その裾を、ありもしない風がときおり揺らす。顔は――これがふしぎなのだが――目覚めると、どうしても思い出せない。目のあたりも、口もとも、ぼんやりと霞んでしまう。それでいて、夢のなかにいるあいだは、はっきりとその人だとわかる。世界じゅうのだれとも取り違えようのない、たったひとりのその人だと。

ふたりで、砂のうえに腰をおろすこともあった。あの人は、細い枝きれのようなもので、砂に絵を描く。船の絵。魚の絵。星の絵。そうして描いては、寄せてくる水に、そっと消させる。消えると、また描く。何を描いても、いつか水が来て消してしまうのに、あの人は、それをすこしも惜しまなかった。「消えるから、いいんだよ」と、あの人は言った。「消えるものだけが、うつくしい」。私にはその意味が、そのときはよくわからなかった。ただ、砂に絵を描くあの人の、しずかな横顔だけを、いつまでも見ていたかった。

「今日は、どんな一日だった」

あの人はそう訊く。私は昼のことを話す。職場のこと、窓辺に置いた鉢植えのこと、雨が降ったこと、降らなかったこと。とりとめもない話を、あの人はいつも、心底おもしろそうに聞いてくれる。うなずき、笑い、ときには目を細めて、遠くの星を見やる。

「星が、きれいだね」

「うん」と私は言う。「あの星は、いつもあそこにいる」

「うごいているんだよ」とあの人は言う。「ゆっくりと、海をわたっている。わたりきったら、また巡ってくる。何十年もかけて」

そんな話をしているうちに、水のふちのあかるさが少しずつ濃くなってくる。それが、別れのしるしだった。あかるさが濃くなると、あの人の姿が、水底の光にとけるように、うすれてゆく。

「もう、行くのかい」

「うん」と私は言う。行きたくはない。けれど、まぶたのうしろのあかるさには、逆らえない。

「気をつけて、おかえり」

あの人はいつも、そう言って手をあげる。私も手をあげる。そうして、明るさが目のなかいっぱいに満ちて――目が覚める。

目が覚めると、私は自分の寝床にいる。天井の木目が、うっすらと見える。枕もとの時計は、きまって午前二時から三時のあいだを指している。丑三つ時。草木も眠るという、夜のいちばん深いところ。私は毎晩、この刻に目を覚ます。そうして、いま見たばかりの夢を、思い出そうとする。

けれど、思い出せない。

だれかに会った。なつかしいだれかに。それだけはわかる。胸のあたりに、会ったあとの温もりのようなものが、まだ残っている。けれど、それがだれだったのか、何を話したのか、どんな顔をしていたのか――手を伸ばすそばから、砂のようにこぼれてゆく。

私はしばらく暗い天井を見あげ、やがてまた目をとじる。すると、また眠りが来る。今度は夢のない、深い眠りが。

そういう晩が、いつからつづいているのか、私にはわからなかった。

数えようとしても、数えられない。夢のなかのことは目覚めると忘れ、目覚めてからのことは、また眠るまでの短い時間にすぎない。一日は薄い紙のようで、めくってもめくっても、同じ絵が描いてある。窓辺の鉢植えに水をやり、勤めに出て、帰り、灯りをつけ、消し、寝床に入る。そのあいだじゅう、私はどこか半分、ここにいないような心地でいた。

半分は、あの岸辺にいるのだ。

昼のさなか、ふと手がとまることがある。湯呑みを持ったまま、あるいは戸口の鍵をまわしかけたまま、私はしばらく動かなくなる。だれかに呼ばれたような気がして。けれど、振りむいてもだれもいない。ただ、胸のおくが、遠い潮のように、しずかに鳴っている。

近ごろ、私は、鏡を見るのが、少しこわくなった。鏡のなかの自分の顔が、日ごとに、うすくなってゆくような気がしたのだ。血の色が、退いてゆくような。目のしたには、いつからか、青いくまが刻まれていた。まるで、あの水底の光が、まぶたの裏から、じわじわと滲みだしてきたかのように。勤め先の女は、「顔色が悪いよ」と、たびたび言った。「ちゃんと、こちら側で、飯を食べているのかい」と。こちら側で、という言いかたが、そのときは妙に耳に残った。まるで、あちら側でも、私が何かを食べているとでもいうように。

夜が更けるにつれ、私の体は、軽くなってゆくようだった。寝床に横たわると、体の重みが、しだいに感じられなくなる。掌を胸に置いても、その掌の重みさえ、あるかないか、わからなくなる。落ちてゆく、というよりも、浮きあがってゆくような心地で、私は毎晩、あの岸辺へ渡っていった。そうして、渡るたびに、こちらの岸のことが、少しずつ、遠くなっていった。

「ぼんやりしているね」と、勤め先の年上の女が言った。「近ごろ、よく眠れているかい」

「眠れています」と私は答えた。「よく眠れすぎるくらい」

女はふしぎそうな顔をした。「よく眠れすぎる、というのは、どういうことだね」

私は答えに窮した。眠るのが、待ち遠しい。それを口にすると、なにか、恥ずかしいことのように思われた。夜が来るのを、私は毎日、待っていた。日が暮れて、灯りを消して、掌を胸に置いて目をとじる、あの瞬間を。そうして、あの岸辺へ渡ってゆく、その一歩を。

「あんまり眠りすぎると」と女は言った。それから、少し声をひそめた。「向こうへ、引っぱられるよ」

「向こう、というのは」

「あちらさ」と女はあごで、暮れかけた窓の外をしゃくった。「うちの祖母がよく言っていた。丑三つ時に、いつも決まった夢を見るようになったら、気をおつけ、と。それはね、こちらの夢じゃないんだと」

「こちらの夢じゃない、というのは」

「向こうから、見せられている夢なんだと」

私はそのとき、なぜか背すじが冷たくなった。けれど、その冷たさのなかに、ひとすじ、あたたかいものが混じっていた。向こうから、見せられている――そう思うと、あの岸辺で私を待つあの人の顔が、いっそういとおしく思われたのだ。

「あんたの祖母さんは」と私は訊いた。「それから、どうなさったんですか。決まった夢を見るようになった人は」

女は、少しのあいだ、黙っていた。窓の外では、日がすっかり暮れて、街のあかりが、ひとつ、またひとつと灯りはじめていた。

「知りあいの娘さんがね」と女は、声を落として言った。「若くして、許婚を亡くしたんだと。それからというもの、毎晩、丑三つ時に、その人の夢を見るようになった。夢のなかで会っては、あれこれ語らって、目が覚めると忘れる。はじめは、ただの悲しみだと、まわりも思っていた。けれど、そのうち、娘さんが、だんだんと痩せてきた。顔から、生気が退いてきた。そうして、ある朝――」

女は、そこで言葉を切った。

「起きてこなかったんだと」と、女は、それだけ言った。「布団のなかで、しずかに。まるで、眠ったまま、どこかへ渡っていったみたいに。顔には、笑みが浮かんでいたそうだよ。ようやく、会えた、という顔で」

私は、湯呑みを持つ手が、かすかに震えるのを覚えた。けれど、こわい、とは思わなかった。むしろ、その娘さんが、うらやましいような気さえした。その心もちが、われながら、おそろしかった。

その晩も、私は岸辺に立っていた。

いつものように白い砂を踏み、いつものように、あの人が振りかえるのを待った。水のうえには、あの蒼い星がひとつ、長い尾を引いていた。

「また来たね」と、あの人は振りかえって言った。

「また来た」と私は言った。

その日、私はふと、あることを訊いてみたくなった。昼に、あの女から聞いた話が、まだ胸に残っていたのだ。

「ねえ」と私は言った。「わたしたちは、どうしてこうして、ここで会えるんだろう」

あの人は、しばらく黙っていた。それから、遠くの水面に目をやって、言った。

「会いたいと、思っているからじゃないかな。おたがいに」

「おたがいに」

「うん」あの人はうなずいた。「片方だけが会いたがっても、この岸辺には来られない。ふたりとも、おなじだけ会いたいと思っているときだけ、ここで会えるんだ」

私はその言葉を、しずかに胸におさめた。ふたりとも、おなじだけ。それは、なんという心づよい言葉だろうと思った。私が眠りにつくのを待つのとおなじだけ、あの人も、どこかで私を待っていてくれる。そう思うと、この白い砂の岸辺が、世界じゅうのどこよりも、たしかな場所のように思われた。

「わたし、目が覚めると、あなたのことを忘れてしまうの」と私は言った。「顔も、話したことも、みんな。それが、悲しい」

「わたしもだよ」とあの人は言った。「わたしも、目が覚めると、きみを忘れる」

「あなたも、目が覚めるの」

「覚めるとも」あの人は笑った。「わたしにも、朝は来る。きみとちがう朝がね」

私は、そのちがう朝がどんな朝なのか、そのとき訊かなかった。訊けば、なにか、この岸辺のやわらかなものが壊れてしまう気がして。ただ、あの人とならんで、蒼い星の映る水面を、いつまでも見ていた。

水のふちが明るんできた。

「もう、行くのかい」

「うん」

「気をつけて、おかえり」

私は手をあげた。あの人も手をあげた。明るさが満ちて――目が覚めた。

丑三つ時。天井の木目。胸に残る、会ったあとの温もり。私はいつものように、いま見た夢を思い出そうとして、いつものように、思い出せなかった。

けれど、その晩は、ひとつだけ、こぼれ落ちずに残ったものがあった。

ふたりとも、おなじだけ会いたいと思っているときだけ、ここで会える。

その言葉だけが、なぜか、砂にならずに、掌のなかに残っていた。私はそれを、大切に握りしめて、また眠りに落ちた。

翌る日、私は古い写真を出してみる気になった。

なぜ、そんな気になったのか、自分でもわからない。ただ、掌に残ったあの言葉が、私のなかのどこか、長いあいだ蓋をしていた抽斗を、そっと引きあけたのだ。会いたいと、思っているからじゃないかな。おたがいに――だれに、私はそれほど会いたいと思っているのだろう。夢のなかのあの人は、だれなのだろう。

押入れの奥から、古い菓子箱を引き出した。なかには、色のあせた写真が、雑然と重なっている。両親の若いころ。子供の私。もう名も思い出せない、遠い親戚たち。私はそれを一枚ずつ、めくっていった。

そうして、ある一枚のところで、手がとまった。

海辺で撮った写真だった。白い砂浜。私はまだ、十かそこらの子供だ。その私の隣に、背の高い人が立っている。夜の色ではなく、夏の白い開襟のシャツを着て、こちらに向かって、目を細めて笑っている。

その顔を、私は知っていた。

夢のなかで、いつも思い出せなかった顔。目覚めると霞んでしまう、あの人の顔。それが、いま、色あせた紙のうえに、はっきりと写っていた。

兄だった。

私には、兄がいた。

思い出す、というのは、ふしぎなものだ。堰が切れると、それまでどうして忘れていられたのかと訝しいほど、いちどきに水があふれてくる。

兄がいた。私より六つ年上の、背の高い兄。よく笑う人だった。私が転んで泣くと、砂を払ってくれた手。夏の夜、縁側で、私を膝にのせて星を教えてくれた声。あの星はなんという名前だ、と私が訊くと、兄は指をさして言った。あれはミラという星だ、と。ふしぎな星だ、と兄は言った。ふだんは見えないくらいに暗いのに、あるときになると、ぱっと明るくなる。そうしてまた、ゆっくりと暗くなる。何百日もかけて、明るくなったり暗くなったりを繰りかえしながら、天の海を、ずうっとわたっていくんだ、と。

――星が、海をわたっていく。

夢のなかで、あの人が言った言葉と、それは同じだった。ゆっくりと、海をわたっている。わたりきったら、また巡ってくる。何十年もかけて。

私は写真を握ったまま、しばらく動けなかった。

兄は、死んだのだ。

いつのことだったろう。私がまだ若く、兄はさらに若かった。急な病だった。ひと冬のあいだに、あれほど大きかった兄が、みるみる小さくなっていった。最期の晩、私は病室の窓辺に立っていた。窓の外には、雪もよいの空に、ぼんやりと星がひとつ。兄が教えてくれた、あのミラという星だった。

兄は、うすく目をあけて、私に言った。

「怖がらなくていい」と、兄は言った。「わたしはただ、少し先に、あの岸へわたるだけだ。おまえが来るのを、向こうで待っている。急がなくていい。ゆっくり、おいで」

それから兄は、乾いた唇で、なにかを口ずさもうとした。声にはならなかった。けれど、その唇の動きだけで、私にはわかった。母がうたってくれた、あの唄だった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――。兄は、自分で自分に、その唄をうたおうとしていた。おのれを送る唄を、おのれでうたおうとしていた。私は、あとをつづけてやろうとした。けれど、喉がつまって、声にならなかった。

そうして兄は、目をとじた。丑三つ時のことだったと、あとで看護婦が教えてくれた。夜のいちばん深いところで、兄は、あの岸へわたっていった。私は、その唄を、うたってやれなかった。送り唄を、最後まで、うたってやれなかった。そのことが、長いあいだ、私の胸のおくに、小さな棘のように刺さっていた。忘れることで蓋をした、その棘が。

私はそれから、長いあいだ、兄のことを思い出さないようにして生きてきた。思い出せば、悲しかったから。忘れることで、私はどうにか、昼を生きてきたのだ。

けれど――夜は。

夜ごと、丑三つ時に、私はあの岸辺へ渡っていた。忘れたはずの兄に、会いにいっていた。目覚めると忘れるようにして、それでも、夜ごと、会いにいっていた。

会いたいと、思っているからじゃないかな。おたがいに。

――兄も、私を待っていてくれたのだ。

私は、こわくなった。

こわい、というのとは、少しちがう。もっと深いところが、しんと冷えるような心地だった。夢のなかで会っているあの人は、この世の人ではない。もうずっと前に、あの岸へわたっていった人だ。それなのに、私は毎晩、その岸辺へ渡っていって、言葉を交わし、ならんで星を見ていた。

――では、あの岸辺を歩いているのは、どちらなのだろう。

生きている私が、死者の岸をたずねているのか。それとも――私のほうが、いつのまにか、あちらへ渡ってしまっているのか。

その夜、私はなかなか寝つけなかった。掌を胸に置いても、心の臓の音が、いつもより速く、乱れて聞こえた。眠ることが、はじめてこわかった。眠れば、また岸辺へ渡ってしまう。渡ってしまえば――このまま、目が覚めなくなるのではないか。兄が「ゆっくり、おいで」と言った、あの言葉のとおりに。

けれど、こわさの底には、いつも、あの温もりがあった。会えるのだ、と思う心が。もう会えないと思っていた兄に、夜ごと会えるのだ、と。それは、この世のどんな悲しみとも引きかえにできないほど、あまく、かなしく、いとおしいことだった。

私は、迷った。

眠らずにいれば、あの岸辺へは渡れない。渡れなければ、兄には会えない。けれど、渡りつづければ、いつか私は、ほんとうにあちらへ行ってしまうかもしれない。

夜のいちばん深いところで、私は寝床に起きあがり、窓辺に立った。

窓の外の空に、星がひとつ、蒼く冴えて懸かっていた。

ミラだった。兄が教えてくれた、天の海をわたる星。丑三つ時の、いちばん深い闇のなかで、その星だけが、この世とあの世の境を照らすように、しずかに光っていた。夢の岸辺で見るのと、寸分たがわぬ星が、いま、現の窓の外に、たしかにあった。

夢と、現と。ふたつの空に、同じ星がかかっている。

私は、その星を見あげながら、思った。あるいは、境などというものは、はじめから、ないのかもしれない、と。この世とあの世は、この一つの星のもとで、ひとつづきの水面のように、しずかにつながっているのかもしれない、と。

窓の桟に、手をかけた。冷たかった。指さきの感覚が、いつもより遠かった。ふと、自分の手を、月あかりにかざしてみた。青白い光のなかで、その手は、うっすらと透けているように見えた。窓の外の星の光が、掌を通して、向こう側にすけているような。私は、あわてて手を握りしめた。ばかな、と思った。生きている人間の手が、透けるはずがない。それでも、いちど覚えた不安は、消えなかった。

私は、どちら側にいるのだろう。

眠りのなかで、私は毎晩、あの岸辺を歩いている。あれは、こちらの岸から向こうを覗いているのか。それとも、私はもう、向こうの岸に立っていて、この現の暮らしのほうを、遠い夢のように、覗いているのか。どちらが夢で、どちらが現なのか。掌が透けて見えるこの現のほうが、じつは夢なのではないか――そんな考えが、頭をもたげた。丑三つ時の闇は、そういう考えを、しずかに育てる闇だった。

私は、その晩、とうとう一睡もできなかった。眠るのがこわく、けれど、眠って兄に会いたく、その二つのあいだで、朝まで、身を横たえていた。障子が白みはじめるころ、ようやく、鳥の声が聞こえた。この世の鳥の声だった。それを聞いて、私は、はじめて、ほっと息をついた。ああ、私は、まだ、こちらにいる。まだ、朝の来る岸に。

翌る日、私は、勤め先のあの女に、思いきって話してみた。

兄のこと。夢のこと。夜ごとの岸辺のこと。話しながら、私は自分の声が震えているのに気づいた。

女は、黙って聞いていた。聞きおえると、しばらく、湯呑みの底を見つめていた。それから、静かに言った。

「送ってあげなさい」

「送る、というのは」

「その岸辺にね」と女は言った。「あんたの兄さんは、まだ、渡りきっていないんだよ。ほんとうなら、とうに向こう岸へ着いていなくちゃいけない人が、いつまでも、あの岸辺にとどまっている。だれかを待って」

「わたしを、待って」

「あんたをね」女はうなずいた。「あんたが、あんまり会いたがるものだから。あんまり、忘れまいとするものだから。兄さんは、渡るに渡れないでいる。あんたを置いて先へ行くのが、忍びなくて」

私は、返す言葉がなかった。

「向こうへ行かせておあげ」と女は、やさしく言った。「あんたのためじゃない。兄さんのために。ちゃんと、送ってあげるんだ」

「どうやって」と私は訊いた。「どうやって、送ればいいの」

女は、しばらく考えていた。それから、言った。

「唄をうたっておあげ」

「唄」

「送り唄をね」と女は言った。「昔から、死者を送るときには、唄をうたうものだよ。この世の岸から、向こう岸まで、その人が迷わず渡れるように。あんたのお母さんは、あんたが小さいころ、寝るときに、なにか唄ってくれなかったかい」

私は、思い出した。

母がいつも、寝床でうたってくれた唄があった。低い、やわらかな声で。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

私が思い出したのを見て、女は、しずかにうなずいた。

「それだよ」と女は言った。「その唄をね、ちゃんと、最後までうたっておあげ。あんたは、その唄を、兄さんに、うたいそびれたんじゃないのかい」

私は、はっとして、女の顔を見た。なぜ、それを知っているのだろう。私は、兄の最期のことは、なにひとつ、この人に話していなかった。唇だけで唄をうたおうとした兄のことも。それをうたってやれなかった私のことも。

女は、私の驚いた顔を見て、かすかに笑った。

「顔に書いてあるよ」と女は言った。「送りそびれた者の顔にはね、みんな、おなじものが浮かんでいる。うたえなかった唄が、喉のところで、つかえているんだ。それが、あんたを、夜ごと、あの岸辺へ引いていくのさ。うたいそびれた唄を、うたいに」

私は、うつむいた。喉のおくに、たしかに、なにか、固いものがつかえている気がした。何十年ものあいだ、そこにあって、飲みこむことも、吐きだすこともできずにいた、小さな棘のようなものが。

「こわがることは、ないよ」と女は、やさしく言った。「唄をうたって、送ってあげれば、それでいい。そうすれば、兄さんも、あんたも、どちらも、あるべき岸へ帰れる。唄というのはね、そのためにあるんだ。人と人を繋ぐためじゃない。この世とあの世を、繋ぐためにね。繋いで――そうして、ちゃんと、切り離すために」

その夜、私は覚悟をきめて、寝床に入った。

掌を胸に置く。心の臓が打つ。まぶたの裏が、青みを帯びて明るんでくる。水底のような光が満ちてくる。そうして私は、また、あの岸辺に立っていた。

白い砂。凪いだ水面。蒼く冴えて長い尾を引く星。そして、いつものように、あの人が――兄が、こちらを振りかえった。

「また来たね」と兄は言った。

「また来た」と私は言った。声が、少し掠れた。

私は、兄の顔を見た。夢のなかでははっきりと見えるはずのその顔が、その晩は、いっそうくっきりと見えた。写真のなかで笑っていた、あの夏の日の顔と、寸分たがわなかった。そうして私は、はじめて、その顔が、もうこの世にはない人の顔なのだと知りながら、それを見ていた。

「兄さん」と、私は言った。

兄の目が、かすかに見ひらかれた。

「思い出したのかい」と、兄は静かに言った。

「思い出した」と私は言った。涙が、頬をつたった。「みんな、思い出した。兄さんが、わたしより六つ年上だったことも。星の名前を教えてくれたことも。ミラっていう星のことも。それから――兄さんが、もう、いないってことも」

兄は、しばらく黙っていた。それから、やわらかく笑った。かなしいような、ほっとしたような、ふしぎな笑いだった。

「気づいてしまったんだね」

「うん」

「わたしはね」と兄は言った。「ほんとうは、とうに渡らなくちゃいけなかったんだ。この岸辺は、通りすぎる場所なんだよ。向こう岸へわたるための。だのに、わたしは、渡れなかった。おまえのことが、気がかりで」

「わたしのことが」

「おまえが、あんまり、わたしを忘れまいとするものだから」兄は、遠くの水面を見やった。「夜ごと、この岸辺へ来てくれる。会いにきてくれる。うれしかった。うれしかったんだよ、ほんとうに。だからわたしは、渡らずに、ここでおまえを待っていた。毎晩、毎晩」

「わたしも」と私は言った。「わたしも、うれしかった。もう会えないと思っていた兄さんに、会えるんだもの」

「うん」

「でも――」私は、掌をきつく握った。「でも、このままじゃ、いけないんでしょう。兄さんは、渡らなくちゃいけないんでしょう。向こう岸へ」

兄は、こたえなかった。ただ、しずかに、私を見ていた。その目には、やさしさと、かなしさと、それから、ほんの少しの、安堵のようなものがあった。

「ねえ、兄さん」と、私は言った。「ひとつ、教えてほしいことがあるの」

「なんだい」

「わたし、近ごろ、自分の手が、透けて見えるの」と私は言った。「鏡のなかの顔も、日ごとに、うすくなっていく。わたしは、生きているの? それとも、もう――」

兄は、私の手をとった。あたたかい手だった。この世のだれの手より、たしかな、あたたかい手だった。

「生きているとも」と兄は、きっぱりと言った。「よくお聞き。おまえが透けて見えるのはね、おまえの半分が、夜ごと、こちらへ来すぎているからだ。人は、あんまり足しげく、この岸へ通うと、体のほうが、こちらの色に染まってしまう。魂が、こちらへ馴染んでしまう。そうして、ある晩、うっかりと、渡りきってしまうんだ。二度と、帰れない岸へ」

「それが、こわいの」と私は言った。「でも、もっとこわいのは――兄さんに、もう会えなくなること」

兄は、しずかに首をふった。

「会えなくなるんじゃない」と兄は言った。「送るというのは、別れることじゃない。あるべきところへ、返すということだ。おまえは、こちらの岸へ。わたしは、向こうの岸へ。そうして、それぞれの岸で、それぞれの時を生きて――いつか、時が満ちたら、また、この岸辺で会うんだ。そのときには、もう、忘れることも、こわがることも、ない。ただ、なつかしいだけの再会がある」

「岸辺を歩いているのは、どちらなんだろうって」と、私は言った。「わたし、こわかった。夢のなかで境の岸を歩いているのは、生きているわたしなのか、それとも、いつのまにか、わたしのほうが渡ってしまっているのか」

兄は、首をふった。

「歩いているのは、おまえだよ」と兄は言った。「生きている、おまえだ。この岸辺は、生きている者が、死んだ者を送りにくる場所なんだ。おまえは、まだ渡っていない。渡ってはいけない。おまえには、帰る朝がある。ちがう朝がね」

「ちがう朝」

「わたしにはもう、来ない朝さ」兄は笑った。「わたしの朝は、この岸辺のずっと向こう、おまえには見えない岸で、明けるんだ」

私は、砂のうえに、なにか小さなものが落ちているのに気づいた。

かがんで、拾いあげた。

手袋だった。片方だけの、子供の手袋。毛糸で編まれた、古い、くたびれた手袋。私は、それに見おぼえがあった。子供のころ、私が持っていた手袋だ。冬の海辺で、片方だけをなくした。あのとき、兄が、いっしょになって砂浜じゅうを探してくれた。けっきょく見つからなくて、私は泣いた。兄は、自分の手袋の片方を私にくれた。大きすぎて、ぶかぶかの手袋を。

「これ」と私は言った。「これ、あのときの」

「ずっと、探していたんだよ」と兄は言った。「おまえが、なくした片方をね。この岸辺には、この世でなくしたものが、みんな流れついてくる。だから、探していた。いつか、おまえに返せるようにと思って」

私は、その片方だけの手袋を、胸に抱いた。

「もう、いいんだよ、兄さん」と、私は言った。声が、震えた。「もう、探さなくていい。片方だけで、いいの。わたし、これを持って、帰るから。ちゃんと持って帰って、大切にするから。だから――兄さんは、もう、渡って」

水のふちが、明るんできた。

いつもの、別れのしるしだった。けれど、その晩は、それがちがう別れだと、私にはわかっていた。

「兄さん」と私は言った。「わたし、唄をうたうね」

「唄」と兄は言った。

「母さんが、うたってくれた唄」と私は言った。「憶えてる?」

兄は、しずかに笑った。「憶えているとも」

私は、うたいはじめた。低い、やわらかな声で。母がそうしてくれたように。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

夢の岸辺の空に、蒼い星がかかっていた。天の海をわたる、あの星が。

――眠れ、眠れ、波が砂をぬらすまで。

兄の姿が、水底の光にとけるように、うすれはじめた。けれど、その晩は、いつものように、ただ消えてゆくのではなかった。兄は、うすれながら、いっぽ、いっぽ、水のなかへと歩みだしていた。凪いだ水面が、兄の足もとで、しずかに輪をひろげた。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

「気をつけて」と、兄は振りかえって言った。いつもの言葉だった。けれど、そのつづきが、その晩はちがった。「気をつけて、おかえり。わたしのぶんまで、朝を生きておくれ」

「うん」と私は言った。うたいながら、涙が、とめどなく頬をつたった。「うん。生きる。ちゃんと、生きる。だから、兄さんも――行って。まっすぐ、向こう岸まで。もう、迷わないで」

兄は、うなずいた。

そうして、水のうえを、遠ざかっていった。蒼い星の尾が、水面に長い道をつくっていた。兄は、その光の道を、いっぽ、いっぽ、踏みしめて、遠ざかっていった。だんだんと小さくなり、星の光にとけて、やがて、見えなくなった。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

うたいおえたとき、私は、目が覚めていた。

丑三つ時。天井の木目。枕もとの時計は、午前二時と三時のあいだを指していた。

けれど、その晩は、いつもとちがっていた。

私は、夢を、忘れていなかった。

兄のこと。岸辺のこと。片方だけの手袋のこと。うたった唄のこと。そのすべてを、私は、はっきりと憶えていた。目覚めても、砂にならずに、掌のなかに残っていた。

そうして、掌のなかに――

私は、はっとして、握りしめていた右手をひらいた。

なにも、なかった。手袋は、そこになかった。あれは、夢のなかのことだったのだ。当たり前のことだった。それなのに、私はしばらく、からっぽの掌を見つめていた。指のあいだに、まだ、あの古い毛糸のごわごわとした手ざわりが、たしかに残っている気がして。

私は、寝床から起きあがり、窓辺に立った。

窓の外の空に、星がひとつ、蒼く冴えて懸かっていた。

ミラだった。天の海をわたる星。夢の岸辺で、兄が渡っていった、あの光の道の、その先。丑三つ時の、いちばん深い闇のなかで、その星だけが、しずかに、光っていた。

けれど――その星は、いつもより、少しだけ、遠くにあるように見えた。

わたりきったんだ、と私は思った。兄は、向こう岸へ、わたりきったんだ。

それから、私は、あの岸辺の夢を見なくなった。

夜ごと、丑三つ時に目を覚ますこともなくなった。私は、ふつうに眠り、ふつうに目覚めるようになった。鏡のなかの顔にも、日ごとに、血の色がもどってきた。目のしたの青いくまは、いつのまにか、消えていた。手をかざしても、もう、透けては見えなかった。ひと月もするうちに、勤め先の女が、「顔色が、よくなったね」と言った。「ちゃんと、こちら側で、飯を食べているようだ」と。私は、笑ってうなずいた。「はい」と私は言った。「ちゃんと、こちら側で」。

ときどき、ほんの少し、さびしく思うことがある。もう、兄には会えないのだと思うと。夢のなかでさえ、会えないのだと思うと。

けれど、そのさびしさは、以前のような、忘れることでしか堪えられない悲しみとは、ちがっていた。それは、ちゃんと送りだしたあとの、しずかなさびしさだった。あたたかな、なつかしいさびしさだった。

私は、兄のことを、忘れなくなった。

昼のさなか、ふと手がとまる。湯呑みを持ったまま、あるいは戸口の鍵をまわしかけたまま。けれど、もう、だれかに呼ばれたような、心もとない気はしない。私は、思い出しているのだ。兄のことを。星の名前を教えてくれた、あの縁側の夜のことを。片方だけの手袋のことを。そうして私は、ひとりで、しずかに笑う。

勤め先のあの女には、その後、いちど、礼を言った。あなたのおかげで、ちゃんと、兄を送れました、と。女は、湯呑みの底を見つめたまま、しばらく、なにも言わなかった。それから、ぽつりと言った。「わたしはね、あの許婚を亡くした娘さんを、送ってあげられなかった」と。「唄を、教えてあげられなかった。だから、あの娘さんは、渡っていってしまった。笑いながら、向こうへ」。女の目のふちが、かすかに、濡れていた。「あんたには、間にあってよかった」と、女は言った。「ほんとうに、よかった」。私は、そのとき、はじめて、この人がなぜ、あれほど親身になって私を送りだそうとしてくれたのか、その底にあるものを知った気がした。人は、送りそびれた者のことを、生涯、忘れられないのだ。そうして、せめて、ほかのだれかを、送りそびれずにすむようにと願うのだ。それもまた、ひとつの、しずかな救いなのかもしれなかった。

季節が、いくつか、めぐった。

春には、窓辺の鉢植えに、小さな白い花が咲いた。夏には、夜ごと、遠い海鳴りのような音を、風のなかに聞いた。私は、もう、その音をこわがらなかった。それは、あの岸辺の、ひたひたと砂を舐める水の音に、どこか似ていた。似ていて、けれど、ちがった。あれは、もう、私を呼ぶ音ではなかった。ただ、遠くから、しずかに、そこに在るというだけの音だった。生きている岸から聞く、あの世の潮騒。それを聞きながら、私は、こちらの岸で、ふつうに眠り、ふつうに目覚めた。

冬が来て、私は、押入れの奥から、あの古い菓子箱を出した。

なかの写真を、一枚ずつ、きれいな帳面に貼りなおした。海辺で撮った、兄の写真も。夏の白いシャツを着て、目を細めて笑っている、あの写真も。

貼りおえて、私は、ふと、菓子箱の底に、なにか青いものがあるのに気づいた。

小さな、青いマッチ箱だった。

月光堂、と、かすれた字で書いてある。

見おぼえは、なかった。いつ、だれが、ここに入れたものか、まるでわからなかった。けれど、私は、なぜか、それを兄のものだと思った。この青は、あの岸辺の水の色に似ている。あの星の光の色に似ている。

私は、そのマッチ箱を、写真の帳面のあいだに、そっとはさんだ。

その晩、私は、ためしに、そのマッチ箱をあけて、なかの一本を擦ってみた。しゅっ、と乾いた音がして、青みを帯びた小さな焰が、ぽっと灯った。ほんの、指さきほどの焰だった。けれど、その焰を見つめているうちに、私は、ふしぎと胸が満たされてくるのを覚えた。この小さな青い焰の色は、たしかに、あの岸辺の水の色だった。あの星の光の色だった。焰は、しばらく揺れて、やがて、指もとで、しずかに消えた。消えぎわに、ほんのかすかに、潮の匂いがしたような気がした。気のせいだったろう。けれど私は、その燃えさしの軸を、捨てずに、帳面のあいだに、そっとしまった。

母がうたってくれた唄を、私は、いまも憶えている。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

あれは、ただの子守唄だと、私はずっと思っていた。子供を寝かしつけるための、ありふれた唄だと。

けれど、いまはちがう。あれは、送り唄でもあったのだ。この世の岸から、あの世の岸まで。生きている者が、死んだ者を送りだすための、しずかな唄。母は、それを知っていたのだろうか。それとも、知らずに、ただうたっていたのだろうか。私には、わからない。ただ、あの唄が、いまも私のなかで、しずかに鳴っている。

夜、寝床に入るとき、私はいまも、掌を胸に置く。子供のころからの癖だ。掌の下で、心の臓が、ひとつ、またひとつと打つ。その音を数えているうちに、まぶたの裏が、ほのかに明るんでくる。

けれど、もう、あの水底の光ではない。ただの、眠りのやわらかな暗さだ。私は、その暗さのなかへ、しずかに落ちてゆく。夢のない、深い眠りへ。

たまに――ほんとうに、たまに――眠りの、いちばん深いところで、遠い水の音を聞くことがある。ひたひたと、砂を舐めては引いてゆく音。そうして、そのむこうから、なつかしい声が、聞こえるような気がする。

「気をつけて、おかえり」

私は、眠りのなかで、うなずく。

うん、と。ちゃんと、生きているよ、兄さん。あなたのぶんまで、朝を。

いつか、私にも、あの岸へわたる日が来るだろう。

そのときには、きっと、兄が、向こう岸で待っていてくれる。夏の白いシャツを着て、目を細めて。そうして、私が渡りきったら、こう言うのだ。

「よく来たね。急がなくていいと言ったのに」

そのときのために、私は、生きる。ちゃんと、朝を。

そういえば、この話には、ひとつ、書きそびれたことがある。

兄を送った、あの晩のことだ。

目が覚めて、からっぽの掌を見つめたあと、私は窓辺に立って、ミラの星を見あげた。それから、ふと、思いたって、玄関の戸をあけてみた。丑三つ時の、しんと冷えた夜気が、頬を撫でた。空には、あの星。地には、霜がおりていた。

戸口の、三和土のうえに――なにか、小さなものが、落ちていた。

そこには、うっすらと、霜がおりていた。白い霜のうえに、ぽつんと、ひとつだけ、影のように、それは在った。まわりの霜が、そこだけ、ふっと溶けているように見えた。まるで、たったいま、だれかの手が、そこに置いていったばかりのように。私は、あたりを見まわした。だれもいなかった。ただ、しんと冷えた夜気と、頭上のミラの星と、地の霜と。それだけだった。

かがんで、拾いあげた。

片方だけの、子供の手袋だった。毛糸で編まれた、古い、くたびれた手袋。編み目の、ところどころが、ほつれていた。何十年も前に、冬の海辺でなくした、あの片方に、寸分たがわなかった。夢のなかで拾ったものが、どうして、現の戸口に落ちているのか――そんな問いは、もう、私の胸には浮かばなかった。境などというものは、はじめから、ないのだ。あの晩、私は、そう思ったのだから。夢の岸辺と、現の戸口とは、あの一つの星のもとで、ひとつづきの砂浜のように、しずかに繋がっているのだ。

私は、それを、しばらく見つめていた。それから、そっと、胸に抱いた。冷たかった。夜気に冷えて、氷のように冷たかった。けれど、抱いているうちに、だんだんと、ぬくもってきた。私の胸の温もりが、うつっていった。

――探していたんだよ。おまえが、なくした片方をね。いつか、おまえに返せるようにと思って。

私は、その手袋を、いまも持っている。

写真の帳面と、青いマッチ箱と、いっしょに。押入れの奥の、大切な場所に。片方だけの手袋。もう片方は、どこにあるのか、わからない。たぶん、あの岸辺の、白い砂のうえに。あるいは、兄の、あの大きな掌のなかに。

片方だけで、いいのだ。

わたしは、これを持って、帰ってきたのだから。ちゃんと、この世の岸へ。朝の来る、こちらの岸へ。

そうして、いつか、もう片方を受けとりに、向こうへ渡る。その日まで。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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