内線七番
内線七番
夜勤の看護師も帰った古い病棟の、いちばん奥に、宿直室はある。
この建物が本院として使われていたのは、もう十年も前までのことだ。今は新しい病院が丘の上に建って、患者も、医師も、看護のひとびとも、みなそちらへ移ってしまった。残されたこの旧館は、書類の保管と、いくつかの倉庫と、月に一度だけ通ってくる外来のためだけに、細ぼそと息をしている。夜は完全に無人になる。だからこそ、わたしのような夜警がひとり、宿直室に詰めることになる。
わたしがこの仕事に就いて、三年になる。
三年のあいだ、ここで妙なものを見たことはない。噂は聞いた。古い病院というのは、どこでも似たような噂を持つものだ。かつて三階の東病棟で亡くなったひとの足音がするとか、地下の霊安室のあたりで女の泣く声がするとか。だが、そういうものにわたしは一度も出くわさなかった。無人の廊下は、ただ無人であるにすぎなかった。夜というのは、こわいものではなく、退屈なものだった。少なくとも、あの晩までは。
わたしは、守屋という。もう五十を過ぎた男だ。若いころは、ほかの仕事をしていた。工場に勤めていたが、それがつぶれて、あちこちを転々とした。妻とは、とうに別れた。子はいない。田舎には、年老いた母がひとりでいるが、めったに帰らない。帰っても、話すことがない。わたしは、そういう、ひとりの暮らしに慣れた男だった。無人の建物の夜警という仕事は、そんなわたしに、よく合っていた。誰にも会わず、誰とも話さず、ただ、暗い廊下を、ひとりで見まわる。それが、わたしの夜だった。
この仕事のいいところは、静けさだ。世間の音から、遠く離れていられる。昼のあいだの、たくさんの声や、物音や、明るすぎる光から。夜のこの建物には、そういうものが、いっさいない。あるのは、ただ、闇と、冷気と、自分の足音だけだ。わたしは、その静けさを、案外、気に入っていた。生きているうちに、これほどの静けさに包まれることは、そうそうない。まるで、世界に、自分ひとりしか残っていないような。
だが、そういう静けさのなかにいると、時どき、ふしぎな感覚に襲われることがある。ほんとうに、自分ひとりなのだろうか、という感覚だ。この闇のなかに、自分のほかに、誰かがいるのではないか。息をひそめて、じっと、こちらを見ているのではないか。そういう気配を、ふと、感じることがある。だが、それは、いつも、気のせいだった。振り返っても、そこには、ただ、闇があるだけだった。
あの晩というのは、冬の、いちばん底の冷える晩のことだ。
わたしは巡回の合間に、宿直室の机で茶を淹れて飲むのを習いとしていた。安い番茶を、欠けた急須で。机の上には、備えつけの古い黒電話が一台。外線用のものだ。それとは別に、壁ぎわの棚に、内線交換の卓が据えつけてある。ずらりと並んだ差込口と、番号を書いた小さな札。1、2、3……と続いて、それぞれが病棟のナースステーションや、診察室や、事務室につながっていた。もっとも、今はどこにもつながってはいない。線はとうに切られている。棚のほこりを見れば、何年も誰も触れていないことがわかる。
その内線卓のいちばん端に、七番の差込口があった。
七番の札だけ、なぜか少し古びていた。ほかの札はプラスチックの白なのに、七番だけが、黄ばんだ紙に墨で書いたもので、貼りかえられずに残っていた。「七」の字が、しずかに掠れている。
いつだったか、わたしはその卓を、掃除しようとしたことがある。あまりにほこりがひどかったので。だが、雑巾を手に取って、卓の前に立ったとき、なぜか、手が止まった。触れてはいけないような気がしたのだ。うまく言えないが、その卓には、ほかの棚とは違う、なにか、しんとした重みのようなものがあった。触れたら、そこに眠っているものを、起こしてしまうような。わたしは結局、その卓だけは、掃除せずに、そのままにしておいた。ほかの棚は、こまめに拭いたのに。七番の卓だけは、三年のあいだ、一度も、触れなかった。
わたしはその卓のことなど、ふだんは気にも留めていなかった。線の切れた電話が、鳴るはずもないからだ。だが、今にして思えば、心のどこかで、いつも、あの卓のことを、気にしていたのかもしれない。触れてはいけない、と感じていたということは、そこに、何かがある、と、うすうす、わかっていたということだ。ただ、それを、認めたくなかっただけで。
その晩、わたしは十二時の巡回を終えて、宿直室に戻ってきたところだった。茶を淹れて、椅子に腰かけた。窓の外は、真冬の、澄みきった夜空だった。街の灯からも遠いこの丘のふもとでは、星がよく見える。わたしはなにげなく窓を見上げた。
そして、それに気づいた。
東の空の、いちばん深い闇のところに、蒼く冴えた星がひとつ、尾を引いて懸かっていた。ただの星ではない。彗星だった。青みを帯びた光が、まるで空に細い傷をつけたように、しずかに、けれど確かに、そこにあった。わたしは彗星のことなど何も知らないが、それでも、その星がどこか特別なものだということは、見た瞬間にわかった。この世のものとも、あの世のものともつかぬ、境の色をしていた。
新聞で読んだような気もする。ミラ彗星、とかいう名の星が、今年は近づいて見える、と。何十年に一度の、と。
わたしはしばらく、その蒼い光に見入っていた。茶が冷めていくのにも気づかずに。
ふしぎな心持ちだった。その星を見ていると、胸の奥のほうが、しんと冷えて、けれど、なぜか、少しも寂しくなかった。むしろ、なにか、遠い、なつかしいものを見ているような気がした。子どものころ、母に手を引かれて、夜道を歩いた、あのときのような。あるいは、まだ生まれる前の、どこか遠いところの記憶のような。わたしは、そういう感傷とは、無縁の男のはずだった。だが、その晩は、あの蒼い星のせいで、心のたがが、少しだけ、ゆるんでいたのかもしれない。
あとから思う。あの星が、境をひらいたのだ。この世と、あの世の。そして、わたしの心の、いちばん奥の、閉ざしていた戸を。ほんの少しだけ、あけたのだ。
そのときだった。
電話が鳴った。
最初、わたしは机の黒電話が鳴ったのだと思った。だが、違った。黒電話は沈黙している。音は、壁ぎわの棚から――内線卓から、していた。
りりん、りりん、と。
古い、金属の、澄んだベルの音だった。今どきの電話の音ではない。もっと古い、心の芯に届くような、細く高い音。
わたしは椅子から立ちあがれなかった。線の切れた電話が鳴るはずがない。棚のほこりを見れば、何年も誰も触れていないことがわかる、あの卓が。だのに、鳴っている。りりん、りりん、と、鳴りやまない。
わたしはようやく立って、卓に近づいた。音は、七番の差込口のあたりからしていた。あの、墨で書かれた古い札の。
七番の受話器は、卓の脇に伏せて置かれていた。古い、黒い、重たげな受話器。それが、かすかに震えているように見えた。ベルの音に合わせて。
りりん、りりん、と。
わたしは手を伸ばした。伸ばしてしまった。あとから思えば、なぜあのとき出てしまったのか、自分でもわからない。ただ、そのまま鳴らせておくことのほうが、はるかにこわかった。無人の建物のなかで、鳴りやまぬ電話を、ただ聞いていることのほうが。
受話器を取った。冷たかった。氷のように。
「……もしもし」
わたしは言った。声が掠れていた。
しばらく、何も聞こえなかった。ただ、遠い、遠い風のような音だけがした。海鳴りのような、あるいは、たくさんのひとの寝息を集めたような。
それから、声がした。
「――ああ、つながった」
女の声だった。若くはない。かといって、ひどく老いてもいない。しずかで、疲れた、けれどどこかやさしい声。
「よかった。ずっと、かけていたのよ。ずっと」
「どちら、さまですか」
わたしはやっとそれだけを言った。心臓が、耳のなかで鳴っていた。
女は、少し笑ったようだった。
「わたし? わたしはね、ここにいたのよ。ずっと前。あなたのいる、その建物に」
「……患者さん、ですか」
「そう。患者。長いこと患者だった。長いこと、ね」
女の声には、ざらついた、けれど不思議とあたたかい響きがあった。わたしは受話器を握りしめたまま、内線卓の七番の札を見ていた。掠れた墨の「七」の字を。
「あの、」わたしは言った。「この電話は、線が切れているはずなんです。何年も前から。鳴るはずが――」
「そうね。鳴るはずがない」女は、わたしの言葉を引き取るように言った。「わたしもそう思っていたわ。何年も、何年も、かけつづけて。誰も出なかった。ベルが鳴っているのかどうかも、わからなかった。ただ、暗いところで、受話器を握って、番号を回して、待っていたの。誰かが出てくれるのを」
わたしは何も言えなかった。
「でもね、今夜は違った。今夜は、あの星が出ているでしょう。蒼い、尾を引いた星が。あれが出る夜は、境が薄くなるの。こちらとそちらの境が。だから、つながったのよ。何十年ぶりかで」
窓の外の、蒼い光のことを、わたしは思った。あれが出る夜は、境が薄くなる。その言葉が、なぜか少しも突飛には聞こえなかった。あの星を見た瞬間に、わたし自身、そう感じていたからだ。この世のものとも、あの世のものともつかぬ色だ、と。
「あなた、」女は言った。「今、そこにいるのね。あの建物に。ひとりで」
「……はい」
「こわい?」
わたしは答えられなかった。こわくないと言えば嘘になる。だが、こわいと言ってしまうのも、なぜかためらわれた。この声は、わたしを脅かそうとしているのではない。それだけは、はっきりとわかったからだ。
「こわがらないで」女はやさしく言った。「わたしはただ、話したいだけなの。ずっと、話したかったの。言えなかったことを。言えないまま、来てしまったから」
わたしは、机の椅子を引きずってきて、内線卓のそばに腰をおろした。受話器を耳に当てたまま。そうしていると、少しだけ、こわさが薄れた。
電話台のわきに、小さなものが置いてあることに、そのとき気づいた。マッチ箱だった。藍色の、三日月を刻んだ、小さなマッチ箱。「月光堂」と横に小さく記してある。わたしのものではない。前任の夜警のものだろうか。それとも――。わたしはなぜか、そのマッチ箱を手に取って、握りしめた。冷えた掌のなかで、それだけが、ふしぎとあたたかいような気がした。
「あなたのお名前は」女がたずねた。
「……守屋、といいます」
「守屋さん」女は、わたしの名を、大切そうに繰り返した。「いい名前ね。守る、という字でしょう。ここを守ってくれているのね。ひとりで、こんな夜に」
「守る、というほどのことは」わたしは苦く笑った。「ただ、見まわっているだけです。誰もいない、廊下を」
「それでも、いてくれる。それが、どんなにありがたいことか」
女は、しばらく黙った。それから、ゆっくりと語りはじめた。
「わたしはね、この建物の、三階の東の病室にいたの。長いこと。窓から、丘のふもとの町が見えた。夜になると、ぽつぽつと灯りがついて。わたしはその灯りを、ひとつずつ数えるのが好きだった。あの灯りの下に、どんなひとが暮らしているんだろうって。晩ごはんは何かしら、子どもは寝たかしら、って」
三階の東病棟。わたしの胸が、かすかにざわめいた。噂に聞いた、あの、足音がするという――。
「わたしには、娘がひとりいたの」女はつづけた。「まだ小さかった。入院したとき、あの子は五つだったわ。夫はいなかった。早くに亡くしてね。だから、わたしが病んでしまったら、あの子はひとりぼっちになる。それが、なによりもこわかった」
わたしは、この病院の、三階の東病棟のことを、思い浮かべた。今は、もう使われていない、あの階のことを。がらんとした廊下と、ベッドの取り払われた病室と、割れかけた窓ガラスの、あの階のことを。その、いちばん奥の部屋の窓から、たしかに、丘のふもとの町が見えるはずだった。わたしも、巡回のときに、何度か、その窓から、夜の町を見おろしたことがある。ぽつぽつと灯る、家々の明かりを。あの明かりのひとつずつを、このひとは、数えていたのだ。晩ごはんは何かしら、子どもは寝たかしら、と。病んだ体を、ベッドに横たえて。
わたしは、なぜか、胸がしめつけられるような気がした。会ったこともない、名も知らぬ、この女のひとの、その、ささやかな夜のいとなみを思うと。
「あの子は、面会に来られる日には、必ず来てくれた」女の声は、闇のなかでしずかに揺れていた。「親戚に連れられて。小さな手に、いつも何か握って。押し花だったり、折り紙だったり。あるとき、片方だけの手袋を持ってきたことがあってね」
女は、そこで、少し言葉を切った。なにか、遠いものを、見つめるように。
「面会の時間は、いつも、あっという間だった」女はつづけた。「三十分か、一時間か。あの子は、帰るのをいやがって、いつも、泣いた。ベッドの柵に、小さな手で、しがみついて。まだ帰りたくない、ママといたい、って。看護婦さんが、あの子を、そっと引き離して、連れていく。その、遠ざかっていく背中を、わたしは、いつも、見送った。廊下の角を曲がるまで。角を曲がる直前に、あの子は、いつも、一度だけ、振り返って、手を振ってくれた。小さな手を、いっぱいに、振って。わたしも、振り返した。それが、面会のたびの、決まりだった。角を曲がって、あの子の姿が消えると、わたしは、いつも、しばらく、泣いた。ひとりで、枕に顔をうずめて」
わたしは、その、無人の廊下の角のことを、思った。今も、この建物のなかにある、いくつもの、廊下の角のことを。あの角のどれかで、かつて、小さな子どもが、振り返って、手を振ったのだ。母親に。そして、その母親は、ベッドのうえから、その、消えていく背中を、見送ったのだ。何度も、何度も。もう二度と、会えなくなる日が、来るとも知らずに。
「手袋、ですか」
「そう。赤い、毛糸の手袋。もう片方をなくしてしまったんですって。あの子ったら、なくしたほうじゃなくて、残ったほうを、わたしに持ってきたの。『ママ、寒くないように』って。片方だけじゃ、手はあたたまらないのにね。でも、わたしはそれが、いちばんうれしかった。片方だけの、小さな赤い手袋。それを、ずっと枕もとに置いていたわ」
わたしは、握りしめたマッチ箱の、三日月の刻みを、指の腹でなぞっていた。
「わたしの病気はね、少しずつ、けれど確かに、わたしを弱らせていった。ある日、お医者さまが、家族を呼んでください、と言った。わたしにはもう、それが何を意味するか、わかっていた。あの子だけは、呼ばないでほしいと、わたしは頼んだ。あんな小さな子に、母親の死ぬところを見せたくなかったから」
女の声が、わずかに震えた。
「でも、それは間違いだった。今なら、そうわかる。あの子は、来たがっていたの。最後に、母親に会いたがっていた。なのに、わたしのばかな見栄が、それをはばんだ。わたしは、あの子に、さよならを言わなかった。言えなかった。言わせなかったの、自分に」
無人の廊下の、非常灯だけが、緑がかった光を落としていた。宿直室のドアは開けたままだった。その隙間から、廊下の、ずっと奥までつづく闇が見えた。闇は、生きもののように、しずかに息づいているように思えた。
わたしは受話器を握りしめて、女の声に耳を傾けていた。
「わたしはね、」女は言った。「最後の晩、この電話をかけようとしたの。この、内線の電話を。ナースステーションを呼んで、看護婦さんに、家に電話をかけてほしいと頼むつもりだった。あの子に、ひとこと、伝えてほしくて。たった、ひとことを」
「なんと、伝えたかったんですか」
わたしは、たずねてしまった。たずねてはいけないような気もしたが、たずねずにはいられなかった。
女は、しばらく答えなかった。
「それがね、」やがて、女は言った。「それが、思い出せなかったの。そのときは、ちゃんと、言葉があったのよ。胸のなかに。あの子に伝えたい、大切なひとことが。でも、受話器を取って、番号を回そうとしたとき――もう、指に力が入らなかった。受話器が、こんなに重いものだとは、思わなかった。わたしは、番号を、最後まで回せなかった。七番の、この卓の、線を。回しきる前に、わたしは……」
女の声が、そこで途切れた。
わたしは、その光景を、まざまざと、思い描くことができた。うす暗い病室のなかで、ひとりの女が、ベッドから、やっとの思いで手を伸ばして、枕もとの内線電話を取る。もう、指先には、ほとんど力が残っていない。それでも、あの子に、ひとことを伝えたい、その一心で、番号を回そうとする。1、を回す。次を回そうとする。だが、その途中で、受話器が、掌からすべり落ちる。ことり、と、力なく。そうして、女の意識は、しずかに、遠のいていく。あの子に伝えたかった、たったひとことを、胸につかえさせたまま。
わたしは、七番の差込口を見た。掠れた墨の「七」の字を。この番号を、あのひとは、回しきれなかったのだ。最後の力を振りしぼって、けれど、届かなかった。
なぜ、七番の札だけが、墨で書かれ、貼りかえられずに残っていたのか。今、わたしには、わかった気がした。この卓の、七番だけは、あのひとが、亡くなった、その晩のままに、時が止まっているのだ。ほかの札は、幾度も貼りかえられ、線もつなぎかえられ、やがて、すべてが切られた。だが、七番だけは、あのひとの、最後の指の記憶を、宿したまま、ここに、残されつづけた。だから、掃除をしようとしたとき、わたしの手は、止まったのだ。触れてはいけない、と。ここには、まだ、終わっていない何かが、眠っている、と。
「だから、わたしは、ここに残ったの」女は言った。「言えなかったひとことが、胸のなかに、つかえたまま。それを言うまでは、どこへも行けなかった。行きたくなかった。あの子に、さよならも、それも、何も言えないまま、行ってしまうなんて、できなかったのよ」
「それで、」わたしはやっとの思いで言った。「それで、あなたは、ずっと、この電話を」
「ずっと、かけつづけていたの」女は言った。「この卓の、七番から。線が切れているとも知らずに。いいえ、知っていたのかもしれない。それでも、かけずにはいられなかった。いつか、誰かが、出てくれるかもしれないと思って。その誰かに、頼めるかもしれないと思って。あの子に、伝えてほしいと」
わたしは、想像した。何十年もの、無人の夜を。誰もいない、暗い病棟の、いちばん奥の卓の前で、ひとりの女が、受話器を握って、番号を回している姿を。回しても、回しても、つながらない。ベルは、どこにも、鳴らない。それでも、女は、受話器を置かない。また、番号を回す。1、を回し、次を回し――七番の、その番号を。夜ごと、夜ごと。季節がめぐり、年が過ぎ、この建物が古びて、患者たちが去り、やがて、無人になっても。女だけは、そこに、残って、かけつづけていた。届かない相手に。言葉にならない思いを、託して。
その、気の遠くなるような、孤独を思うと、わたしは、こわさよりも、ただ、深い、深い哀しみを、覚えた。文子さんは、こわいものでは、なかった。文子さんは、ただ、寂しかったのだ。あまりにも、長いあいだ、ひとりで、待ちつづけて。
「よく、」わたしは言った。「よく、あきらめずに、かけつづけましたね。何十年も」
「あきらめる、なんて」女は言った。「あの子のことを、あきらめるなんて、できるはずが、ないでしょう。母親だもの。たとえ、体が、ここになくなっても。たとえ、何十年、何百年、かかっても。あの子に、ひとことを伝えるまでは、わたしは、あきらめない。それが、母親、というものよ」
「でも、」わたしは言った。「あなたは、伝えたいことが、思い出せなかったんですよね。最後の晩に」
「そうなの」女の声は、しずかに沈んでいた。「思い出せないまま、ずっと、かけつづけていた。何を言いたいのかも、わからないまま。ばかみたいでしょう。伝えたい言葉もないのに、電話だけをかけつづけるなんて」
「ばかみたいだなんて」わたしは言った。自分の声が、少し湿っているのに気づいた。「そんなこと」
わたしには、その気持ちが、わかるような気がした。伝えたい言葉が、何なのか、わからない。けれど、伝えたい、という思いだけは、たしかに、胸のなかにある。その、行き場のない思いを、抱えたまま、ただ、電話をかけつづける。それは、決して、ばかげたことではない。むしろ、それこそが、いちばん、人間らしい姿なのではないか。
わたし自身にも、そういう思いが、あった。田舎の母に、何か、伝えたいことがある。だが、それが何なのか、わたしには、うまく言葉にできない。だから、電話をかけない。かけても、天気の話や、体の具合の話で、お茶を濁して、切ってしまう。ほんとうに伝えたいことは、いつも、喉のところで、つかえたままだ。わたしたちは、みな、そうやって、伝えられないまま、日を送っている。そして、いつか、伝える機会を、永遠に、失う。文子さんのように。
「でもね、守屋さん」女は言った。「今夜、あなたが出てくれた。あの蒼い星の下で。そうして、こうして話しているうちに――思い出したの。あのとき、あの子に、伝えたかったことを」
わたしは、息をつめた。
窓の外の、蒼い彗星の光が、宿直室の床に、細く差しこんでいた。
「なんだったんですか」わたしはたずねた。「あなたが、伝えたかったのは」
女は、ふっと、微笑んだような気配がした。
「それはね、」と、女は言った。「たいしたことではないの。ほんとうに、たいしたことじゃない。ただ――ありがとう、って。それだけ」
「ありがとう」
「そう」女は言った。「あの子が、片方だけの手袋を持ってきてくれたこと。押し花や、折り紙を、握りしめてきてくれたこと。面会のたびに、笑ってくれたこと。わたしが病んでしまって、迷惑ばかりかけていたのに、あの子は、いつも笑って、わたしの手を握ってくれた。『ママ、だいじょうぶ』って。五つの子が、母親に、だいじょうぶ、って言うのよ。そんなこと、言わせてしまって。それなのに、わたしは、あの子に、ありがとうも言わなかった。当たり前だと思っていた。母と子だもの、当たり前だと。でも、当たり前なんかじゃなかった。あの子がくれたものは、ぜんぶ、宝物だった。それを、わたしは、一度も、ちゃんと、ありがとうと言わなかった」
女の声は、泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。
「ありがとう、って、言いたかったの。それだけ。生んでよかった、あなたのおかげで、わたしの人生は、しあわせだった。ありがとう、って。それを言わないまま、行ってしまった。だから、ずっと、ここにいたの」
わたしは、受話器を握りしめたまま、うつむいていた。マッチ箱の、三日月の刻みが、掌に食いこんでいた。
ありがとう。たった、五文字の言葉だ。いつでも、言おうと思えば、言えた言葉だ。だが、それを、言わないまま、逝ってしまう。そういうことが、この世には、なんと多いことか。当たり前だと思っているうちに。まだ時間があると思っているうちに。いつか言えばいいと思っているうちに。その「いつか」は、ある日、とつぜん、来なくなる。文子さんは、その「いつか」を、失った。そして、その悔いが、あまりにも深かったから、彼女は、逝くことができなかった。何十年も、この暗い卓の前で、受話器を握りしめて。
わたしは、思わず、目頭を押さえた。会ったこともない、この女のひとの、その悔いが、まるで、自分自身の悔いのように、胸に迫ってきたからだ。
「守屋さん」女は言った。「あつかましいお願いなのだけれど」
「はい」
「あの子に、伝えてもらえないかしら。ありがとう、と。それだけでいいの」
わたしは、顔をあげた。
「でも、」わたしは言った。「わたしは、あなたの娘さんを、知りません。名前も、今どこにいるのかも」
「そうね」女は、しずかに言った。「そうよね。困らせてしまったわね。ごめんなさい」
女の声が、少しずつ、遠ざかっていくような気がした。あの、風のような、海鳴りのような音が、また、受話器の向こうから聞こえはじめていた。
「いいのよ、守屋さん」女は言った。「あなたに、聞いてもらえただけで。誰かに、言葉にできただけで。もう、それだけで、じゅうぶんなの。何十年も、胸につかえていたものが、今夜、やっと、言葉になった。あなたのおかげよ。あの星と、あなたの」
「待ってください」わたしは、思わず言った。「待って。何か、方法があるはずです。あなたの娘さんに、伝える方法が。名前を、教えてください。せめて、名前を」
女は、少し黙った。
「……ふみ、というの」やがて、女は言った。「文子。わたしの、名前は。娘は――娘は、あさひ。朝の日と書いて、朝日。あの子が生まれた朝、東の空が、それはきれいに晴れていたから。あなたのいる、その三階の東病棟の窓から見た、朝の空みたいに」
朝日。わたしは、その名を、胸に刻んだ。
「もし、いつか、」女は言った。「あさひという名の女のひとに会うことがあったら。もう、いい歳になっているはずよ。四十を、五十を、過ぎているかもしれない。もし、その人が、赤い、片方だけの手袋のことを覚えていたら――そのときは、伝えてあげて。ママは、ありがとうって言っていたよ、と。それだけで、いいの」
風の音が、強くなっていた。受話器の向こうの声が、それに紛れて、だんだんと、聞き取りにくくなっていった。
「文子さん」わたしは呼びかけた。「文子さん、まだ、そこにいますか」
「いるわ」遠くで、女の声がした。「でも、そろそろ、行かなくちゃ。星が、沈む前に。あの星が沈んだら、境が、また閉じてしまうから」
「行くって、どこへ」
「わからない」女は言った。「でも、行かなくちゃいけないところがあるの。ずっと、行けずにいた場所。言い残したことがあるうちは、行けなかった。でも、今夜、あなたが聞いてくれた。だから、もう、行ける。やっと」
わたしは、何か言いたかった。引きとめたかった。だが、引きとめてはいけないのだと、心のどこかでわかっていた。このひとは、ずっと、この暗いところで、受話器を握って、待っていたのだ。何十年も。言えなかったひとことを、胸につかえさせたまま。今、それが、やっと、言葉になった。だから、行ける。行かせてあげなければならなかった。
「文子さん」わたしは言った。「わかりました。もし、いつか、朝日さんに会えたら――きっと、伝えます。ママは、ありがとうって言っていた、と」
「ありがとう」女は言った。「ほんとうに、ありがとう、守屋さん。あなたも、どうか、大切なひとに、言えるうちに、言っておいてね。ありがとうも、さよならも。言えないまま、行ってしまうのは――こんなにも、つらいことだから」
そのとき、どこからか、歌が聞こえてきた。
低い、やさしい、女の声。子守唄だった。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
その一節が、受話器の向こうから、あるいは、無人の廊下の奥から、あるいは、蒼い星のかかる空そのものから、しずかに流れてきた。文子さんが、口ずさんでいるのだろうか。それとも、誰か別の、たくさんの声が、彼女を送るために。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
わたしは、目を閉じて、その唄を聞いていた。それは、眠りにつく子どものための唄であると同時に、旅立つひとを送るための唄でもあるように、わたしには聞こえた。文子さんは、今、その唄に送られて、行こうとしている。ずっと行けなかった場所へ。
「文子さん」わたしは、最後に、呼びかけた。「よい、旅を」
返事は、なかった。
ただ、風の音が、すうっと、遠のいていった。海鳴りのような音も、子守唄も、しだいに薄れて、やがて、完全な静寂になった。
わたしは、受話器を、そっと、耳から離した。もう、そこからは、何の音も聞こえなかった。ただの、冷たい、黒い受話器だった。線の切れた、内線卓の、七番の。
わたしは、それを、卓のうえに、伏せて置いた。もとのように。
伏せた受話器は、もう、震えてはいなかった。あの、冷たさも、いつのまにか、消えていた。ただの、古い、黒い受話器だった。長いあいだ、誰かの手に握られつづけて、けれど、今は、その手から、そっと、放されたばかりの。わたしは、しばらく、その受話器を、見おろしていた。なんとも言えない、静けさが、そこにあった。ようやく、なすべきことを、なし終えた者の、しずかな安らぎのような、静けさが。
窓の外を見た。
蒼い彗星は、もう、東の空の低いところまで、沈みかけていた。その尾が、地平に触れそうになっていた。境が、閉じようとしている。わたしは、その最後の光を、見ていた。
やがて、彗星は、丘の稜線の向こうに、しずかに沈んでいった。
空には、いつもの星々だけが残った。ふつうの、冷たく瞬く、遠い星々が。
宿直室のなかは、もとの、静かな夜に戻っていた。机のうえの茶は、すっかり冷えきっていた。わたしは、掌のなかのマッチ箱を見た。藍色の、三日月を刻んだ、月光堂のマッチ箱。わたしは、そっと、そのなかのマッチを一本取り出して、擦った。
小さな火が、ともった。
その火は、なぜか、ふつうのマッチの火よりも、あたたかく、やさしいように思えた。まるで、その火のなかに、誰かの、大切なひとつの場面が、映っているかのように。片方だけの、赤い手袋を握った、小さな手のような。だいじょうぶ、と笑う、五つの子どものような。
わたしは、その火が消えるまで、しばらく、見ていた。
やがて、火は、しずかに、消えた。
それから、わたしは、宿直の記録帳に、その晩のことを書こうとして、ペンを止めた。何を書けばいいのか、わからなかった。線の切れた内線電話が鳴った、とは、とても書けなかった。書けば、頭がおかしくなったと思われるだろう。あるいは、居眠りをして夢を見たのだ、と。
だが、あれは、夢ではなかった。
その証拠に、翌朝、わたしが宿直室を出るとき、内線卓の七番の受話器は、ほんの少し、位置がずれていた。わたしが伏せて置いた、そのままの位置に。前の晩、ほこりの積もっていたはずのその卓の、七番の差込口のあたりだけが、うっすらと、ほこりが払われていた。まるで、誰かが、そこで、受話器を握っていたかのように。何度も、何度も。
わたしは、その日、家に帰ってから、母に電話をかけた。田舎で、ひとり暮らしをしている、年老いた母に。用もないのに電話をかけたのは、久しぶりのことだった。母は、驚いたようだった。どうしたの、何かあったの、と。わたしは、なんでもないよ、と言った。ただ、声が聞きたくなっただけだよ、と。それから、少し迷って、言った。いつも、ありがとう、と。
母は、電話の向こうで、しばらく黙っていた。それから、少し笑って、変な子ね、と言った。その声が、少し、湿っているように、わたしには聞こえた。
わたしたちは、それから、とりとめのない話を、少しした。畑の話や、近所のひとの話や、いつ帰ってくるのか、という話を。いつもなら、早々に切りあげてしまう、そういう話を、その晩は、いつまでも、していたかった。母の声を、聞いていたかった。生きているうちに、聞ける、その声を。
電話を切ったあと、わたしは、しばらく、受話器を見つめていた。ふつうの、外線の、白い受話器だ。この受話器は、いつでも、母につながる。番号を回せば、母が出る。それが、どんなに、ありがたいことか。文子さんは、それが、できなかった。回しきれなかった、あの晩の番号を、何十年も、回しつづけていた。つながらない相手に。
わたしは、心に決めた。母が、生きているうちに、伝えたいことは、伝えておこう、と。喉のところで、つかえさせたまま、逝かせはしない、と。文子さんが、教えてくれたことだ。届かなかった言葉の、その、つらさを。
文子さんの言った、朝日という女性に、わたしは、まだ、会っていない。
あれから、何年も経った。わたしは、今も、この旧館の夜警をつづけている。あの晩以来、内線電話が鳴ることは、二度となかった。七番の卓は、また、静かに、ほこりをかぶりはじめている。文子さんは、もう、行ってしまったのだ。ずっと行けなかった場所へ。やっと、行けたのだ。
だが、わたしは、待っている。
いつか、この病院に――今は、月に一度の外来だけになってしまったこの旧館に、あるいは、丘のうえの新しい病院に――朝日という名の、いい歳をした女性が、訪ねてくるかもしれない。かつて、母親が、この三階の東病棟にいた、という女性が。赤い、片方だけの手袋を、まだ、覚えている、という女性が。
もし、その人に、会うことがあったら。
わたしは、伝えるつもりだ。あなたのお母さんは、ずっと、この病院に残っていた、と。あなたに、ひとこと、伝えたくて。ずっと、電話をかけつづけていた、と。そして、その、伝えたかったひとことは――ありがとう、だった、と。
それだけで、いいのだ。文子さんは、そう言った。それだけで、じゅうぶんなのだ、と。
この話を、わたしは、誰にも、していない。話しても、信じてはもらえないだろうと思うからだ。線の切れた内線電話が鳴って、何十年も前に亡くなったひとの声がした、などと。居眠りをして、夢を見たのだ、と言われるのが、関の山だ。あるいは、この、無人の建物での、ひとりきりの夜勤が、わたしの心を、少し、おかしくしたのだ、と。
だが、わたしには、わかっている。あれは、夢ではなかった。わたしの、心のまどいでも、なかった。あれは、たしかに、起こったことだ。あの、蒼い星の下で。この世とあの世の境が、いちばん薄れる、あの刻に。文子さんは、たしかに、この電話を通して、わたしに、語りかけた。そして、言い残したことを、言い終えて、行った。
いつだったか、わたしは、この病院の、古い記録を、調べてみたことがある。書類の保管庫に、何十年ぶんもの、患者の記録が、眠っている。埃をかぶった、分厚い綴りのなかから、わたしは、探した。文子、という名の患者を。三階の東病棟に、長く入院していた、文子、という女性を。
だが、見つからなかった。記録は、あまりにも古く、多くが、傷んで、読めなくなっていた。あるいは、廃棄されたのかもしれない。わたしは、文子さんが、いつの時代のひとなのかも、知らない。十年前か、二十年前か、それとも、もっと、ずっと昔の、ひとなのか。この旧館が、まだ、新しかったころの。ただ、あの、墨で書かれた古い札を見るかぎり、それは、かなり昔のことのように、思われた。
それでも、わたしは、確信している。文子さんは、実在したのだ、と。そして、朝日という娘も、どこかで、生きているはずだ、と。もう、いい歳になった、女性として。
時どき、深い夜に、宿直室でひとり茶を飲んでいると、わたしは、あの、蒼い彗星のことを思う。この世とあの世の境を、しずかに照らした、あの星のことを。あの星は、何十年かに一度、また、めぐってくるという。次にあの星がめぐってくるとき、わたしは、まだ、生きているだろうか。この宿直室に、まだ、詰めているだろうか。
わからない。
だが、もし、そのとき、また、あの内線電話が鳴ったなら。線の切れた、七番の卓の、あの古びた墨の札の番号が、りりん、と鳴ったなら。
わたしは、きっと、また、受話器を取るだろう。冷たい、氷のような、その受話器を。そして、耳を澄ますだろう。誰かの、言い残した言葉を、聞くために。この世に、まだ、つかえたまま残っている、誰かの、たったひとことを。
草木も眠る、丑三つ時。この世とあの世の境が、いちばん薄れるという、その刻に。
わたしは、思う。この世には、言えなかった言葉が、どれほど多く、宙にただよっているのだろう、と。ありがとう。ごめんなさい。さよなら。大好きだよ。届けたくて、届かなかった、たくさんの言葉が。それらは、みな、どこへ行くのだろう。誰にも受け取られなかった言葉は、いったい、どこへ。
もしかしたら、それらは、みな、あの蒼い星のなかに、集まっているのかもしれない。あの、境を照らす星のなかに。そして、彗星がめぐってくる、いちばん深い夜に、境が薄れるあの刻に、また、こぼれ落ちてくるのかもしれない。線の切れた電話を通して。誰かの耳に。届けられるのを、待ちながら。
だから、わたしは、待っている。次の、りりん、を。
――守屋さん。
最後に、もうひとつだけ、書いておこうと思う。
あの晩から、しばらく経った、ある夜のことだ。わたしは、いつものように、宿直室で、記録帳をつけていた。ふと、机のうえの、あの月光堂のマッチ箱を手に取った。あの晩から、わたしは、それを、お守りのように、宿直の鞄に入れて持ち歩くようになっていた。
マッチ箱を開けてみた。なかのマッチは、あの晩、一本使ったきりで、あとはそのまま残っているはずだった。
だが、箱のなかに、マッチとは別に、小さな紙きれが、折りたたんで入っていた。前には、なかったはずのものだ。わたしは、それを、そっと、開いてみた。
鉛筆で、たどたどしい、子どもの字で、こう書いてあった。
――ママ、げんきになってね。あさひより。
わたしは、それを、長いこと、見つめていた。
いつ、誰が、それを、そこに入れたのか。わからない。ただ、わたしには、それが、あの、片方だけの赤い手袋とともに、文子さんの枕もとに置かれていた、あの子からの手紙のように、思えてならなかった。何十年ものあいだ、文子さんが、たったひとつの宝物として、持ちつづけていた、あの手紙が。
文子さんは、旅立つとき、それを、わたしに、託していったのだろうか。それとも、忘れていったのだろうか。あるいは――もう、いらなくなったから、置いていったのだろうか。伝えたかったことを、伝えられたから。
わたしは、その紙きれを、マッチ箱のなかに、そっと、戻した。そして、蓋を、閉じた。
いつか、朝日さんに会えたら、これを、渡そうと思う。あなたが、五つのときに書いた、この手紙を。あなたのお母さんが、何十年も、たったひとつの宝物として、持ちつづけていた、この手紙を。
そして、伝えよう。ママは、ありがとうって言っていたよ、と。
あなたのおかげで、しあわせだったよ、と。
その日が来るまで、わたしは、この、藍色の、三日月を刻んだマッチ箱を、大切に、持ちつづけよう。片方だけの手袋のように。対になるはずのものを、待ちながら。
草木も眠る、丑三つ時。この世とあの世の境が、いちばん薄れる刻に、蒼く冴えた星が、また、めぐってくる夜まで。
わたしは、待っている。りりん、と、鳴る、その音を。届かなかった言葉が、やっと、届く、その夜を。