杜の釘音
一
その社(やしろ)には、名がなかった。
いや、正しくは、名を口にする者がいなくなって久しかった、というべきだろう。村の者はそこを「杜(もり)さん」とだけ呼び、指さすときも顎の先でしゃくるようにして、それ以上は多くを語らなかった。参道の鳥居は苔に呑まれ、朱の色はとうに剥げ落ちて、木肌のあらわなところは血の乾いたような赤茶けた色をしていた。
昼のうちは、まだよかった。木漏れ日が落ち葉を照らし、椎(しい)の実が屋根に転がる音がして、それはそれで山あいの古社らしい静けさがあった。ところが日が沈み、里の灯(あか)りがひとつずつ消え、犬すら鳴きやむ頃合いになると、その杜は別の顔になった。
冷える。
夏の盛りでも、鳥居をひとつくぐると首筋がひやりとするのだと、里の年寄りは言った。まるで井戸の底のような冷えが、足もとから膝、腰、背へと這いのぼってくる。それは気温の問題ではなかった。何かが、そこに満ちていた。息をひそめて、じっと、こちらを見ているものの気配。
そして――丑三つ時になると、その杜には、女が来た。
伝次郎(でんじろう)が初めてそれを見たのは、明治のなかば、秋のことである。
彼は里の外れで炭を焼いて暮らす、四十がらみの独り者だった。妻を早くに亡くし、子もなく、山の斜面に築いた炭窯のそばの小屋でひとり寝起きしていた。
妻を喪ったのは、まだ三十を出たばかりの頃であった。労咳(ろうがい)であった。痩せて、痩せて、最期は骨と皮になって、それでも伝次郎の手を握って、すまぬ、すまぬ、と繰り返して逝った。子を成せなんだことを、詫びていたのである。伝次郎は、詫びることなど何ひとつない、と言ってやりたかったが、言葉にならなかった。あれから十年、彼は誰とも所帯を持たず、亡妻の位牌に、朝夕、湯をあげて暮らしてきた。夜、ひとりで窯の火を見つめていると、ときおり、妻の咳(せき)の音が、耳の奥で聞こえる気がした。死んだ者は、そう易々(やすやす)とは、この世を去らぬものらしい――そのことを、伝次郎は、身に沁みて知っていた。
炭焼きというのは夜のものである。窯の火加減を見るために、夜半に幾度も目を覚ます。その晩も彼は、窯の煙の色をたしかめようと小屋を出て、ふと、杜のほうへ目をやった。
杜は黒々と、里の裏手にわだかまっていた。梢(こずえ)のむこうに、細い月がかかっている。その月の下、御神木のあたりに――ちらり、と、赤いものが揺れた。
火だ、と伝次郎は思った。蝋燭(ろうそく)の火である。ひとつではない。額のあたりに三つ。左右に一つずつ、頭の上に一つ。逆さにした鉄輪(かなわ)――五徳(ごとく)に蝋燭を立て、それを冠(かぶ)った者の姿。
伝次郎の膝が、かくりと折れた。
丑の刻参りである。
聞いたことは、あった。だが見たのは初めてだった。里の女房どもが井戸端で、声をひそめて話すのを、彼は幾度か耳にしていた。杜さんには、丑三つ時に女が来る、と。白装束に身を包み、胸に鏡を提げ、口に櫛(くし)をくわえ、藁人形(わらにんぎょう)を御神木に打ちつける、と。
だが、その女が誰なのか、誰を呪っているのか、それを知る者はいなかった。里の女房は皆、自分ではないと言い、しかし互いに、あれはお前ではないかと疑い合っていた。杜の女は、里じゅうの女の影であり、里じゅうの女の秘めた憎しみであった。
伝次郎は、木の陰にうずくまって、それを見た。
女は、白かった。
月の乏しい闇のなかで、その白装束だけが、ぼうと浮いて見えた。髪を振り乱し、白い顔の額に、逆さの鉄輪。三本の蝋燭が、女の顔を下から照らし、目のくぼみを黒く落とし、頬を蒼白く浮かせていた。胸には円い鏡が、蝋燭の火を映して、まるでもうひとつの目のように光っていた。
女は、御神木の前に立っていた。
樹齢いくばくとも知れぬ、椎の巨木である。幹まわりは大人が三人がかりでようやく抱えられるほどで、その太い幹には、無数の傷があった。古いもの、新しいもの。五寸釘(ごすんくぎ)を打ちつけた跡である。ある傷にはまだ、腐りかけた藁の切れ端がこびりついていた。
女は、懐から藁人形を取り出した。
そして、片手に五寸釘、片手に金槌(かなづち)を握ると――打った。
かつん。
その音は、思いのほか、小さかった。
かつん。かつん。
夜の底に、それは沁みるように響いた。一打ちごとに、女の肩が震えた。伝次郎は、後になって幾度も思い返すのだが、その打ち方には、憎しみの烈しさよりも、むしろ、こらえきれぬ嗚咽(おえつ)のようなものがあった。打つたびに、女は、泣いていた。
丑の刻参りというものを、伝次郎は、ただの怖い話としてしか、知らなかった。憎い相手に見立てた藁人形を打ちつけ、七日七夜、丑三つ時に通いつづければ、呪いは成る――そのあいだ、けっして人に見られてはならぬ。見られれば呪いは己に返る、と。だから女は、人を避け、草木も眠るこの刻限に、この忌まれた杜を選んだのだ。伝次郎は、見てはならぬものを見ているのだ、という怖れに、身を縮めた。だが、逃げることも、できなかった。あの、こらえた嗚咽のような釘の音が、彼の足を、地に、縫いつけていた。
かつん。
やがて釘が幹に深く食い込み、藁人形は御神木にはりつけられた。女は、両の手を胸の前に組み、その組んだ指を額に当てて、深く、深く、頭を垂れた。何かを、祈っていた。呪いを唱えているのか、それとも――
伝次郎には、それが、経を唱えているようにも見えた。
女が去ったのは、東の空が薄く白みかけた頃であった。
蝋燭の火を吹き消し、鉄輪をはずして懐に収めると、女は、来たときと同じように、音もなく杜の奥へ消えていった。
伝次郎は、長いあいだ、木の陰から動けなかった。膝が笑って、立てなかったのである。夜露が下りて、着物の裾がぐっしょりと重くなっていた。
ようやく立ち上がり、彼は、御神木のほうへ、そろそろと近づいた。見てはならぬものを見に行く、その恐れと引き寄せられる気持ちとで、心の臓が痛いほど鳴っていた。
御神木には、藁人形が、はりついていた。
五寸釘は、その胸のあたりに、深く打ち込まれていた。藁の胴の中央に、一枚の紙が――形代(かたしろ)であろう――畳み込まれていた。伝次郎は、あたりに人の気配のないのをたしかめ、震える指で、その紙を引き抜いた。
まだ、あたりは暗い。彼は懐から、青いマッチ箱を取り出した。
それは、月光堂という、里に時おり回ってくる小間物売りから買ったものだった。藍(あい)よりも深い、夜そのもののような青の紙が貼られた箱で、擦(す)ると小さな火が、ぽっと灯る。彼はその火を、紙にかざした。
墨の字が、浮かんだ。
そこに書かれていたのは、呪う相手の名では、なかった。
「――安らかに」
そう、記されていた。
安らかに。ただ、それだけが。
伝次郎は、その紙をしばらく見つめ、それから、もとのように藁人形の胴に畳み込んだ。マッチの火が、指もとで消えた。あたりに、また、闇が戻った。
呪詛(じゅそ)の丑の刻参りに、「安らかに」とは、何ごとか。
彼には、わからなかった。ただ、胸の底に、冷たい水を一杯、飲み下したような心持ちだけが残った。
二
それから伝次郎は、幾晩か、杜を見張るようになった。
炭窯の番のついでである、と自分に言いわけをしていたが、まことのところは、あの女のことが、頭を離れなかったのだ。あの、経を唱えるような呪いのしぐさ。あの、「安らかに」の一言。
女は、来ない晩もあった。だが、五日か六日に一度は、必ず現れた。いつも同じ刻限、丑三つ時。いつも同じ白装束。いつも同じ、かつん、かつん、という、こらえた嗚咽のような釘の音。
伝次郎は、女の顔を、少しずつ見覚えていった。
若くはなかった。三十を、いくつか越えていよう。だが、老けてもいなかった。蝋燭の火に照らされたその横顔は、痩せてはいたが、どこか品があった。里の百姓女とは、違う。髪の結い方も、指の運び方も、どこか、違う。
そして、あるとき、伝次郎は気づいた。
女は、いつも、片方だけ、手袋(てぶくろ)をしていた。
左手にだけ、白い手袋を。金槌を握る右手は素手(すで)で、五寸釘を支える左手にだけ、白い手袋。それは当時、里ではまず見かけぬ、舶来(はくらい)のものであった。編み目の細かい、白絹(しろぎぬ)のような手袋。
なぜ、片方だけなのか。
伝次郎には、それが、ひどく心にかかった。まるで、もう片方の手袋を、どこかへ――誰かへ――やってしまったかのように。
一度、女が釘を打ちおえて去ったあと、伝次郎は、根方(ねかた)の落ち葉のなかに、白いものが落ちているのを見つけたことがあった。近づいてみると、それは、あの片方の手袋であった。女が、誤って、落としていったのである。伝次郎は、それを拾い上げた。掌(てのひら)に載せると、思いのほか、軽かった。細い編み目の、白絹のような手袋。指の先の、ひとところが、繕(つくろ)われていた。丁寧な、丁寧な、繕いであった。持ち主が、いかにこれを大切にしていたかが、その、小さな繕いの目から、伝わってきた。
伝次郎は、それを、御神木の根方に、そっと、置き直した。女が、次に来たとき、見つけられるように。
はたして、次の晩。女は、その手袋を見つけ、拾い上げると、胸に押し当て、しばらく、動かなかった。それから、いつものように、左手にそれをはめた。伝次郎は、そのとき、女の頬を、涙が、一筋、伝うのを見た。片方だけの手袋は、この女にとって、ただの持ち物では、ないのだ――そのことだけが、はっきりと、わかった。
謎が解けはじめたのは、里の医者、玄庵(げんあん)老人の口からであった。
伝次郎は、あるとき炭を届けに、玄庵の家を訪れた。玄庵は里で唯一、西洋の医術をかじった男で、齢(よわい)七十を越えてなお矍鑠(かくしゃく)としていた。囲炉裏端(いろりばた)で茶をすすりながら、伝次郎は、それとなく、杜の話を持ち出してみた。
「先生。杜さんに、丑の刻参りの女が出るという話、あれは、まことでしょうか」
玄庵の手が、湯呑みの途中で止まった。
老人は、しばらく、火を見つめていた。それから、ぽつりと言った。
「――お前さんも、見たか」
「はい」
「そうか」
玄庵は、深く、息を吐いた。皺の刻まれた顔に、火の色が揺れた。
「あれはな、伝次郎。呪いじゃない」
「え」
「呪いに、見えるがな。あれは、供養(くよう)じゃ」
伝次郎は、青いマッチ箱の火に浮かんだ、あの「安らかに」の三文字を、思い出した。
「――どういう、ことで」
玄庵は、茶を一口すすった。そして、囲炉裏の火に薪(まき)を一本くべると、ゆっくりと、語りはじめた。
「お前さんは、この里に来て、まだ十年ほどか。だから、知らんのも無理はない。二十年ほど前のことじゃ」
二十年前。伝次郎が、まだ隣の郡(こおり)で炭を焼いていた頃である。
「あの杜のむこう――今は誰も住まぬ、あの朽ちた屋敷を、憶えておるか」
伝次郎は、うなずいた。杜の奥、里からいちばん遠いところに、廃屋があった。かつては相当の構えであったろう、大きな屋根の、しかし今は柱も傾いた、荒れ果てた屋敷。狐狸(こり)の棲家(すみか)だと里の子らは言い、近づく者もなかった。
「あそこにはな、以前、ひとりの医者が住んでおった。わしの、若い頃の友じゃ。名を、津田玄伯(つだげんぱく)といった」
玄伯もまた、西洋医術を修めた者であった。長崎で蘭方(らんぽう)を学び、志(こころざし)高く、この山里に居を構えて、貧しい百姓らを、金も取らずに診(み)た。人望のあつい、まことに立派な医者であった、と玄庵は言った。
「玄伯には、妻がおった。志乃(しの)という、それはそれは、美しいひとでな」
伝次郎の胸が、とくりと鳴った。
「志乃どのは、江戸の生まれでな。武家の出だと聞いた。この山里には過ぎたひとであった。だが玄伯を慕(した)うて、こんな辺鄙(へんぴ)なところまでついてきた。夫婦仲は、それは睦(むつ)まじいものであった」
玄庵は、遠い日を、懐かしむように、目を細めた。
「わしも、幾度か、あの屋敷に招かれてな。志乃どのの手料理を、馳走(ちそう)になった。夏の宵など、縁側で、玄伯と碁(ご)を打っておると、志乃どのが、そっと、団扇(うちわ)であおいでくれてな。あのひとは、けっして、多くを語らぬひとであった。だが、玄伯を見るその目に、な。――なんと言えばよいか。まるで、この世に、この男ひとりしか、おらぬような。そんな目を、しておった。玄伯もまた、志乃どのを、そういう目で見ておった。二人は、そういう、夫婦であった」
玄庵の声が、そこで、翳(かげ)った。
「――だが、その玄伯が、死んだ」
三
それは、流行(はや)り病(やまい)の年であった。
「二十年前の夏じゃ。里に、悪い熱病が流行った。今でいう、疫痢(えきり)か、あるいはコロリ(コレラ)か――わしにも、正しいところはわからん。ばたばたと、人が死んだ。ひと夏で、里の三軒に一軒は、誰かを喪(うしな)った」
玄伯は、寝食を忘れて、病人を診てまわった。西洋の薬を惜しみなく使い、井戸に石灰(せっかい)を撒(ま)き、汚物を焼き、まことに獅子奮迅(ししふんじん)の働きであった。玄伯がいたおかげで、この里は、隣の郡ほどには、死人を出さずにすんだ。
「だが――医者は、病人にいちばん近い。玄伯は、病人の膿(うみ)を吸い、汚物にまみれ、ろくに眠りもせずに走りまわった。そうして、とうとう、己(おのれ)が病(や)みおった」
玄伯が倒れたのは、流行りがようやく下火になりかけた、秋口のことであった。
「志乃どのは、必死で看病した。だが、な。看病する者に、いちばん病はうつる。玄伯の熱がひいた頃には――今度は、志乃どのが、床(とこ)についておった」
伝次郎は、息を詰めて、聞いていた。
「玄伯は、己の病より、妻の病に狼狽(うろた)えた。回復しかけた体で、無理を押して、志乃どのを看た。持てるかぎりの薬を、妻に飲ませた。だが――薬が、足りなんだ」
薬が、足りなかった。
「あの流行りで、玄伯は、蓄えの薬を、里じゅうの病人に使い果たしておった。己の妻に飲ませるだけの薬が、もう、なかったのじゃ。玄伯は、隣の郡まで薬を求めに、幾度も走った。山を、越えてな。だが――間に合わなんだ」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆(は)ぜた。
「志乃どのが、死んだ」
玄庵の語る、その先が、伝次郎の胸を、いっそう冷やした。
「志乃どのを喪って、玄伯は、変わった。あれほど気丈(きじょう)な男が、抜け殻のようになってな。里の者を診ることも、しなくなった。屋敷にこもり、酒ばかり呷(あお)っておった。――そうして、ひと月ほどして」
玄庵は、そこで、言葉を切った。
「玄伯も、後を追った」
「――後を、追った」
「うむ。あの、御神木にな。志乃どのを葬(ほうむ)ったのが、ちょうど、あの杜であった。玄伯は、妻の眠るその御神木の下で――みずから、縊(くび)れた」
伝次郎は、思わず、目を閉じた。
あの御神木。丑の刻参りの女が、藁人形を打ちつける、あの椎の巨木。あの木の下に、津田玄伯という医者と、その妻志乃が、眠っている。
「以来、あの杜は、忌(い)まれるようになった。医者夫婦の、無念の死んだ場所。祟(たた)りがあると、里の者は言うた。近づかなくなった。名も、呼ばぬようになった。――そうして、いつの頃からか、丑三つ時に、女が出るようになった」
玄庵は、火箸(ひばし)で、灰を、掻(か)いた。
「不思議なのは、な。丑の刻参りの女が出ると噂が立ったのは、玄伯が死んだ、その年からなのじゃ。二十年、途切れることなく、女は、通うておるらしい。呪いというものは、七日七夜で成るというに。二十年、いったい、何を、呪いつづけておるのか。――里の者は、あれは、志乃どのの、怨霊(おんりょう)じゃと言う。薬が足りずに死なされた恨みで、里の者を、呪うておるのじゃ、と。だが、わしは、そうは思わん。あの女は、生きておる。生きた、女じゃ。怨霊なら、二十年も、律儀(りちぎ)に、通いはすまい」
伝次郎は、混乱していた。
「先生。それでは――あの女は、いったい、誰なので。志乃どのは、死んだのでしょう。まさか、その、亡霊(ぼうれい)が――」
玄庵は、首を、ゆっくりと横に振った。
「いや。あれは、生きた女じゃ」
「では」
「わしにも、わからん」
玄庵は、皺深い目を、細めた。
「わしも、一度だけ、遠くから見た。あの女を。白装束の。だが、顔は、見えなんだ。ただ――」
老人は、そこで、ふと、遠い目をした。
「あの女は、いつも、片方だけ、白い手袋をしておった。あれはな、伝次郎。志乃どのが、生前、していたのと――同じ、手袋であった」
四
その晩、伝次郎は、眠れなかった。
囲炉裏の残り火を見つめながら、彼は、玄庵老人の話を、幾度も反芻(はんすう)した。二十年前に死んだ医者夫婦。妻の眠る御神木の下で縊れた夫。そして、片方だけの手袋をした、丑の刻参りの女。
呪いに見えて、供養である、と玄庵は言った。
「安らかに」と、形代には書かれていた。
伝次郎の胸のなかで、いくつかの糸が、もつれ合っていた。もし、あの女が呪っているのだとしたら――いったい、誰を。二十年前に死んだ夫婦を、呪って、何になる。
いや。
彼は、はっと、目を見開いた。
呪う相手が、生きているとは、限らぬ。
丑の刻参りは、生者(せいじゃ)を呪うためのものだ、と誰もが思う。だが、もし――もし、あの女が、呪っているのが、死者(ししゃ)であったとしたら。
死んだ者への、呪い。
いや、呪いではない。それは、慟哭(どうこく)ではないか。
もう届かぬ相手に、届かせようとする、必死の――。
伝次郎は、次に女が現れる晩を、待った。
そして、その晩は、来た。
秋も深まった、木枯らしの吹く夜であった。杜の梢が、ざわざわと鳴っていた。伝次郎は、いつもの木の陰に身をひそめ、女が来るのを、待った。
女は、来た。
いつものように、白装束。いつものように、逆さの鉄輪に三本の蝋燭。いつものように、左手にだけ、白い手袋。
だが、その晩の女は、いつもと、どこか違っていた。
足取りが、重かった。よろめくように、御神木の前に立った。そして、藁人形を取り出す手が、震えていた。ひどく、震えていた。
女は、五寸釘を、幹に当てた。金槌を、振り上げた。
だが、打てなかった。
金槌が、宙で、止まった。女の肩が、大きく、震えた。そして――くずおれた。
女は、御神木の根方(ねかた)に、膝をついた。そして、その白い額を、幹に押し当てて、声を殺して、泣きはじめた。
伝次郎は、そのとき、初めて、女の声を聞いた。
「――あなた」
風の音にまぎれて、それは、かすかに、届いた。
「あなた……もう、二十年に、なります」
伝次郎の、背筋が、凍った。
「わたくしは、まだ、ここに、おります。あなたを、送ることが、できぬまま……二十年、この杜に、通うて……」
女の声は、途切れ、途切れであった。
「あなたが、いけないのです。わたくしを、置いて……ひとりで、逝(い)ってしまわれるから……わたくしは、あなたを、恨みました。恨んで、恨んで……この藁人形に、あなたの名を書いて……釘を打ちました。あなたを、呪いました。――そうでもせねば、生きて、おられなんだ」
伝次郎は、動けなかった。
女が呪っていたのは、生者ではなかった。死者ですら、なかった。
女が呪い、そして送ろうとしていたのは――その、夫であった。
だが、それでは、辻褄(つじつま)が合わぬ。
伝次郎の頭は、混乱した。玄庵は言った。志乃は死んだ、と。夫の玄伯が、その後を追って縊れた、と。ならば、いま御神木の下で泣いているこの女は、いったい、誰なのだ。
女は、幹に額を押し当てたまま、なおも、語りつづけていた。
「……わたくしは、あなたに、嘘を、つきました」
風が、いちだんと、強くなった。梢が、悲鳴のように鳴った。
「あの、流行り病(やまい)の夏。薬が、足りなくなったとき……あなたは、里の者に、薬を、みな、分けてしまわれた。己の妻に、残しておくべき薬まで……わたくしは、それを、恨みました。なぜ、わたくしより、里の者を選ぶのか、と」
伝次郎は、耳を疑った。
薬が、足りなかった。玄庵は、そう言った。玄伯が、里じゅうに薬を使い果たしたのだ、と。
「……最後に、ひと壜(びん)だけ、薬が、残っておりました。それを飲めば、どちらか一人は、助かる。あなたは、それを、わたくしに、飲めと言うた。わたくしは……」
女の声が、震えた。
「わたくしは……それを、あなたに、飲ませたのです」
伝次郎の、息が、止まった。
「あなたが、眠っておられる間に……その薬を、あなたの、湯呑みに……。あなたは、それと知らず、飲まれた。そして、熱が、ひいた。助かられた。――わたくしは、その薬を、飲まなんだ。飲んだふりを、して」
風が、ぴたりと、やんだ。
杜が、しんと、静まりかえった。
「わたくしは……あなたに、生きて、ほしかった。あなたのような、立派なひとが、こんなところで、死んでよいはずが、ない。里の者には、あなたが、要る。わたくしのような……女ひとりの命など……」
女は、そこで、声を、詰まらせた。
「……なのに、あなたは。わたくしが、逝った後、後を追(お)うて……。あなたは、わたくしの、嘘に、気づいたのですか。薬を、すり替えたことに。だから……だから、生きるのが、いやになったのですか」
伝次郎は、そのとき、ようやく、悟った。
いま、御神木の下で泣いているのは――志乃、その人であった。
五
死んだはずの、志乃であった。
いや。伝次郎の頭のなかで、玄庵の話が、崩れ、組み変わっていった。
志乃は、死んでいなかった。
薬をすり替え、夫を生かした志乃は、しかし、みずからは薬を飲まず、重い病に伏した。だが――死ななかった。死にきれなかった。あの熱病は、たしかに多くの命を奪ったが、なかには、生き延びる者もあった。志乃は、その一人であった。
だが、志乃が生死の境をさまよっている間に――夫の玄伯は、妻がもう助からぬと思いこみ、あるいは、妻の嘘に気づいて、その罪の深さに耐えかねて――御神木の下で、縊れた。
志乃が、意識を取り戻したとき。
夫は、すでに、この世にいなかった。
「わたくしは……生き、残ってしまった」
女の――志乃の声が、闇に、沁みた。
「あなたを、生かすために、嘘をついたのに。その、あなたが、先に逝(い)ってしまわれた。わたくしだけが、生き残って……。こんな、むごい話が、ありましょうか」
伝次郎は、木の陰で、ただ、涙を流していた。己の妻の、最期の顔が、闇のなかに、重なって見えた。すまぬ、すまぬ、と繰り返して逝った、あの顔が。生き残された者の、その、やり場のない哀しみが、彼には、痛いほど、わかった。
「里の者は、皆、わたくしも死んだと、思うておりましょう。玄伯の妻は、あの熱病で死んだと。――それで、よいのです。わたくしは、死んだことに、しました。この二十年、杜の奥の、朽ちた屋敷の、床下(ゆかした)の穴蔵(あなぐら)に、身をひそめて……夜だけ、ここへ、参りました」
二十年。
二十年もの間、この女は、死んだふりをして、生きた屍(しかばね)のように、廃屋の床下に隠れ棲(す)み、丑三つ時にだけ、この御神木に通っていたのだ。夫を、呪い、そして――送るために。
「……わたくしが、あなたを、呪うのは。恨んでいるのは。あなたを、恨むことで、しか……あなたを、憶えて、いられぬからです。恨みでも、なんでも……あなたと、繋がっていたい。この、藁人形と、五寸釘だけが……あなたと、わたくしを、繋ぐ、糸で……」
女は、藁人形を、そっと、胸に抱いた。
「けれど……もう、疲れました」
その声には、もう、憎しみは、なかった。
「わたくしも……もう、老いました。この体も、もう、長くは、ありますまい。――あなた。わたくしは、もう、あなたを、送ろうと思います。二十年、送れずにいた、あなたを。そして、わたくしも……あなたのもとへ、参ろうと思います」
六
そのとき。
伝次郎は、ふと、梢のむこうの、空を見上げた。
木枯らしに、雲が、払われていた。夜空は、いちめん、澄みわたっていた。そして――その、いちばん深い、闇の奥に。
蒼(あお)い、星が、あった。
長い、尾を、ひいていた。
彗星(すいせい)であった。
伝次郎は、それを、知っていた。里の年寄りが、「ミラ」と呼ぶ、あの星である。何十年かに一度、夜空を渡るという、蒼く冴えた、尾をひく星。この世と、あの世の、境を照らす星だと、年寄りは言った。あの星が出た年には、必ず、あの世から、迎えが来るのだ、と。
その、ミラ彗星が。
いま、御神木の、いちばん高い梢の、真上に――蒼く、冴えて、懸(かか)っていた。
まるで、その光が、御神木の下の、二十年前の死者と、いま生きて泣く女とを、しずかに、繋ぐかのように。この世と、あの世の、薄れた境を、照らすかのように。
伝次郎は、息を呑んだ。
その、蒼い光のなかで。
御神木の、幹が――ゆらり、と、揺れた気がした。
いや。揺れたのは、幹ではなかった。
幹の、前に。
女――志乃の、すぐ、傍(かたわ)らに。
もう、ひとつ、影が、立っていた。
伝次郎は、声を、あげそうになった。だが、出なかった。喉が、貼りついたように、動かなかった。
その影は、男であった。
痩せた、男。着物の裾が、風もないのに、揺れていた。顔は、蒼い彗星の光に、なかば照らされ、なかば闇に沈んでいた。だが、伝次郎には、わかった。それが、優しい顔をしていることが。哀しい顔をしていることが。
男は、じっと、女を――志乃を、見下ろしていた。
志乃は、まだ、気づいていなかった。御神木の根方に膝をつき、藁人形を胸に抱いて、泣いていた。
男の影が、そっと、手を、伸ばした。
その手が、志乃の、震える肩に――触れる、その寸前。
志乃が、顔を、あげた。
そして。
女の、目が、見開かれた。
「――あなた」
その一言に、伝次郎は、女の、二十年の、すべてを、聞いた気がした。
男は、何も、言わなかった。
ただ、その、蒼い光のなかで、かすかに、微笑(ほほえ)んだ。恨んでなど、いない、というように。責めてなど、いない、というように。
そして、男の影は、志乃の、左手を――白い手袋をした、その左手を、そっと、取った。
伝次郎は、そのとき、初めて、あの片方だけの手袋の、謎を、解いた。
手袋は、もともと、一組(ひとくみ)であった。志乃が、江戸から嫁いでくるときに持ってきた、大切な、舶来の手袋。夫婦の、思い出の品。
その片方を――志乃は、夫の亡骸(なきがら)とともに、御神木の下に、葬ったのだ。
もう片方を、みずからの手に、残して。
二十年。志乃は、片方だけの手袋を、はめつづけた。土のなかの、もう片方の手袋と、合わせるように。この世に残った己の手と、あの世へ渡った夫の手を、繋ぐように。
そして、いま。
男の影が、志乃の左手を、取った。
その、瞬間。
伝次郎の目には、たしかに、見えた。
男の、右手にも――白い手袋が、はめられていた。
土のなかで、二十年、朽ちなかった、もう片方の手袋が。
蒼い彗星の下で、二つの、白い手が、重なった。
男の右手と、女の左手。二十年、離れていた、一組の手袋が、いま、ひとつに、合わさった。
志乃の顔から、これまで見たこともないような、安らかな色が、こぼれた。憎しみも、悔恨も、慟哭も、すべてが、その一瞬に、溶けて、消えた。
「……ごめんなさい」
女の唇が、そう、動いた。
「あなたを、生かそうとして……あなたを、死なせて、しまった」
男は、静かに、首を、横に振った。
そして――伝次郎の耳に、たしかに、ではないが、風のなかに紛れて、聞こえた。男の、声のようなものが。
「――ちがう」
風が、囁いた。
「わたしは、お前を、恨んで、逝ったのではない」
男の影が、志乃の手を、握りしめた。
「わたしは……お前を、追って、逝ったのだ。お前が、死んだと、思うたから。お前のいない、この世に……いても、しかたが、なかった。だから、わたしは……お前の、後を、追うた」
女の目から、涙が、あふれた。
「……嘘を、つかれたことを、恨んで、いるのでは、ないのですか」
「――知って、いたよ」
風が、微笑んだ。
「薬を、すり替えたことは、初めから、知っていた。湯呑みの、薬の色が、変わっていたのだ。だから、わたしは……気づかぬ、ふりを、して、飲んだ。お前が、そこまでして、わたしを、生かそうと、するのなら……せめて、その心を、無に、したくは、なかった」
「――ああ」
女は、両手で、顔を、覆った。
「では、わたくしたちは……二十年、互いに、相手を、想うて……嘘を、つき合うて……そうして、すれ違うて、しもうたのですか」
「――そうだ」
風が、哀しく、笑った。
「だが、もう、よい。もう、すれ違いは、終わりだ。――さあ。もう、この杜に、通わずとも、よい。藁人形も、五寸釘も、もう、いらぬ。わたしは、ずっと、ここに、いた。お前が、通うてくるのを……ずっと、ここで、待って、いたのだ」
七
伝次郎は、木の陰で、身じろぎ、ひとつ、できなかった。
彼が、見ているのは、丑の刻参りの、呪いの光景ではなかった。それは、二十年の時を隔てて、ようやく、めぐり合った、夫婦の、再会であった。憎しみの藁人形は、送り火の、道標(みちしるべ)であった。五寸釘の、かつん、かつんという音は、あの世の夫を、呼ぶ、鐘(かね)の音であった。
蒼い彗星が、いよいよ、冴えた。
御神木の梢の上で、ミラの光は、青白く、燃えるように、輝いた。この世と、あの世の、境が、いま、いちばん、薄れていた。丑三つ時。草木も眠る、その刻限に、二つの魂が、境を越えて、触れ合っていた。
そのとき、伝次郎の、耳に。
どこからともなく、歌が、聞こえてきた。
女の――志乃の、声であった。
低く、しずかな、子守唄であった。
「――眠れ、眠れ」
女は、藁人形を、胸に抱き、あやすように、揺らしながら、歌っていた。
「星が、海を、わたるまで」
伝次郎は、その唄を、知らなかった。だが、その旋律は、なぜか、彼の胸の、いちばん深いところを、震わせた。彼が、幼い頃、亡くなった母に、歌ってもらった、その唄に、どこか、似ていた。
「――眠れ、眠れ」
その唄は、いまや、子を寝かしつける唄では、なかった。
それは、死者を、送る唄であった。
二十年、送れずにいた、夫を。彼岸(ひがん)へと、渡す唄であった。蒼い彗星が、海を――夜空という、あの大きな海を――渡っていく、その光に、乗せて。
「星が、海を、わたるまで……」
男の影が、その唄に、包まれて、少しずつ、薄れていった。
だが、その顔は、もう、哀しくは、なかった。安らかであった。ようやく、眠りにつく者の、顔であった。二十年、この杜に縛られ、妻の慟哭に呼ばれつづけて、彷徨(さまよ)っていた、その魂が、いま、ようやく、送られていく。妻の、唄に、送られて。
八
やがて、男の影は、蒼い光のなかに、溶けて、消えた。
後には、女ひとりが、残った。
志乃は、しばらく、御神木の幹を、見上げていた。彼女の左手からは、いつの間にか、白い手袋が、消えていた。
伝次郎は、後になって、あれは、あの世の夫が、持って、逝ったのだ、と思った。二十年、離れていた、一組の手袋。それが、いま、あの世で、ひとつに、なったのだ、と。
志乃は、御神木の根方に、屈(かが)みこんだ。そして、これまで打ちつけてきた、無数の藁人形を――幹に食い込んだ、無数の五寸釘を、ひとつ、ひとつ、丁寧に、抜きはじめた。
かつん、という、あの、打ちつける音は、もう、なかった。
代わりに、きしり、きしり、と、釘を、抜く音が、した。それは、二十年の、憎しみを、恨みを、慟哭を、ひとつずつ、幹から、抜き取っていく音であった。
女は、抜いた五寸釘を、両手に集め、それを、地に、埋めた。御神木の下、夫の眠る、その傍(かたわ)らに。
そして、最後に。
志乃は、御神木に向かって、深く、深く、頭(こうべ)を垂れた。
長い、長い、礼であった。
女が、立ち上がり、杜の奥へと、去っていく。
その足取りは、来たときとは、うって変わって、軽やかであった。二十年の、重荷を、下ろした者の、足取りであった。
伝次郎は、木の陰から、その後ろ姿を、見送った。
女は、一度も、振り返らなかった。
その後、伝次郎は、二度と、あの女を、見ることは、なかった。
丑三つ時になっても、杜には、赤い蝋燭の火が、灯らなくなった。かつん、かつんという、あの、こらえた嗚咽のような音も、しなくなった。杜は、静まった。
数日して、伝次郎は、思い切って、杜の奥の、あの朽ちた屋敷を、訪ねてみた。
屋敷は、荒れ果てていた。柱は傾き、屋根は落ち、床は抜けていた。誰かが、長く、棲んでいた気配は、なかった。少なくとも、この二十年、ここに、人が住んでいたとは、とても、思えなかった。
だが、床下の――かつては穴蔵であったろう、その暗がりに。
伝次郎は、ひとつ、見つけた。
古い、鏡が、ひとつ。丑の刻参りに使う、あの、胸に提げる鏡である。そして、その傍らに、小さな位牌(いはい)が、ひとつ。
伝次郎は、青いマッチ箱を、擦った。
ぽっと、灯った火に、位牌の、戒名(かいみょう)が、浮かんだ。
そこには、二人の名が、記されていた。
夫の、戒名と。妻の、戒名と。
日付は――夫のほうは、二十年前。妻のほうは、つい、数日前の、日付であった。
伝次郎は、その位牌を、そっと、拝んだ。
そして、屋敷を出て、御神木のもとへ、行った。
御神木の下の、土に。真新しい、小さな盛り土が、ひとつ、あった。誰かが、埋葬されたばかりの、跡であった。
だが、それを、埋めた者が、誰なのか、伝次郎には、わからなかった。志乃自身が、みずからの死を予感して、あらかじめ、己の墓を、掘っておいたのか。それとも――あの、彗星の夜に、二人の魂が、互いを送り、送られて、共に、この土の下へ、還っていったのか。
伝次郎には、わからなかった。
ただ、彼は、その盛り土のうえに、野の花を、一輪、手向(たむ)けた。
そして、青いマッチ箱を、その傍らに、そっと、置いた。
なぜ、そうしたのか、彼自身にも、わからなかった。ただ、あの世で、二人が、もし、闇のなかで、心細(こころぼそ)い夜を、過ごすことが、あるならば。この、青いマッチ箱の、小さな火が、その、道を、照らしてくれれば、と。そう、願ったのだ。
九
それから、幾年か、経った。
伝次郎は、齢を取り、やがて、炭を焼く仕事も、若い者に譲った。だが、彼は、丑三つ時に目を覚ますたびに、いまも、あの杜のほうを、見やる癖(くせ)が、抜けなかった。
杜には、もう、赤い火は、灯らない。
だが、伝次郎は、ときおり、思うのだ。
あの、志乃という女は、まことに、呪いをかけて、いたのだろうか、と。
丑の刻参りは、恐ろしいものだ、と誰もが言う。憎しみの、呪詛の、業(ごう)の深いものだ、と。だが、志乃の、あの、かつん、かつんという、釘の音には、憎しみよりも、哀しみが、あった。呪いよりも、祈りが、あった。
彼女は、夫を、呪ったのではない。
呼んでいたのだ。
もう届かぬ、あの世の夫に、届けと、届けと、その一心で、五寸釘を、打ちつづけたのだ。恨むことでしか、繋がっていられぬ、その細い、細い糸を、二十年、必死で、手繰(たぐ)りつづけたのだ。
そして、最後に、彼女は、その夫を――呪ったのでは、なく――送った。
憎しみの底に、恋があった。
呪いの奥に、慟哭があった。
そして、慟哭のさらに、奥に――救いが、あった。
伝次郎は、あるとき、里の若い者に、こんな話を、聞いた。
杜の近くを、夜、通りかかると、ときおり、子守唄の、聞こえることが、ある、というのだ。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」
女の声で、低く、しずかに。
若い者は、それを、怖がっていた。杜には、まだ、亡霊が、出るのだ、と。
だが、伝次郎は、それを聞いて、微笑んだ。
それは、亡霊の、恨みの声では、ない、と、彼には、わかっていた。
それは、送る者と、送られる者とが、いまも、ともに、あの世で、寄り添うている、その、しるしなのだ。二十年、すれ違いつづけた夫婦が、ようやく、ひとつになって、互いを、あやし、あやされ、眠りにつく――その、安らかな、唄なのだ。
「――眠れ、眠れ」
伝次郎は、丑三つ時の、闇のなかで、ひとり、その唄を、口ずさんでみることが、あった。
うろ覚えの、旋律であった。だが、歌っていると、なぜか、胸の底が、あたたかくなった。早くに死に別れた、彼自身の、妻のことも、思い出された。
ある年の、秋のこと。
伝次郎は、また、あの、蒼い星を、見た。
何十年かぶりに、夜空を、渡る、ミラ彗星。
その星は、あのときと、同じように、御神木の、いちばん高い梢の上に、蒼く、冴えて、懸かっていた。この世と、あの世の、境を、照らすように。
伝次郎は、もう、老いていた。その星を、見上げながら、彼は、思った。
――あの二人は、いま頃、あの、蒼い星の、渡っていく、夜空の海を。手を、繋いで、渡っている、のだろうか。
一組の、白い手袋を、はめて。
そして、彼は、ふと、気づいた。
いつの間にか、彼の、口が、あの、子守唄を、口ずさんでいたことに。
「眠れ、眠れ……星が、海を、わたるまで……」
蒼い彗星は、しずかに、しずかに、夜空を、渡っていった。
やがて、その尾が、山の端(は)に、隠れる頃。
伝次郎の、口ずさむ唄も、闇のなかに、溶けて、消えた。
杜には、いまも、名がない。
里の者は、そこを、「杜さん」とだけ、呼ぶ。丑三つ時には、近づかぬ。
だが、もし、あなたが、いつか、その杜の傍(そば)を、夜、通ることが、あって。梢の上に、蒼く冴えた、尾をひく星を、見たなら。そして、風のなかに、かすかな、子守唄を、聞いたなら。
どうか、恐れないで、ほしい。
それは、憎しみでは、ない。呪いでは、ない。
それは、二十年、すれ違いつづけた者たちが、ようやく、めぐり合うて、互いを、送り、送られ――手を、繋いで、眠りにつく、その、しずかな唄なのだから。
伝次郎自身も、やがて、齢を重ね、静かに世を去った。里の者は、彼が、丑三つ時になると、あの子守唄を口ずさんでいたことを、少しばかり、不気味がった。だが、彼を看取(みと)った隣家の老婆は、こう言った。伝次郎さんは、最期に、笑うておった、と。まるで、長く待った誰かが、迎えに来た者を見つけたような、そんな、安らかな顔で、逝きなさった、と。
――草木も眠る、丑三つ時。この世と、あの世の、境が、いちばん薄れる、その刻(とき)に。ひとは、ときに、恨みという、細い糸を、手繰りよせてでも、愛(いと)しい者と、もう一度、触れ合おうとする。そして、その、恨みの糸の、いちばん奥に――憎しみの、底の底に――ひとは、いつも、消えぬ恋を、抱いているのだ。
呪いとは、届かぬ声の、いちばん深い形なのかもしれぬ。そうして、その声が、ようやく届いたとき、呪う者と呪われる者とは、もはや一つの、同じ哀しみの、表と裏に過ぎぬことを――蒼い星だけが、しずかに、知っている。