夜明け前の待合室
始発を待つ人間は、みな少しだけ死んでいる、と誰かが言った気がした。けれどそれは、まだ生きているという意味でもあった。
夜明け前の待合室は、蛍光灯が一本だけ切れかかっていて、四つのうちの三つが平坦に白く灯り、残りのひとつが、思い出したように、ちり、ちり、と瞬いていた。その明滅の呼吸に合わせて、天井の隅の蜘蛛の巣が、あるかなきかに揺れる。壁の時計は三時十七分を指している。始発まで、まだ一時間半近くある。
寒い、というより、冷たい、という言葉のほうが近い刻だった。窓の外は、色というものをすべて吸い取られたような濃い藍色で、その藍のいちばん底に、ホームの蛍光灯と、線路の鉄が、わずかに白く光っている。ガラスに映る待合室のなかは、外よりもいくらか明るく、いくらか黄ばんでいて、そこに座る人々の輪郭を、ぼんやりと二重に描き出していた。
七人いた。
いや、数えなおすと、六人と、それから一匹。
長椅子のいちばん奥で、老人がひとり眠っている。灰色の帽子を目深にかぶり、両手を膝の上でゆるく組んで、首をわずかに前に傾けたまま、規則正しく肩を上下させている。息を吐くたびに、白いものが薄く立ちのぼって、すぐに消える。彼の足もとには、口を紐で縛った風呂敷包みがひとつ。そのかたわらに、痩せた三毛猫が身を丸めていて、これも眠っているのか、目を細く閉じている。飼い猫なのか、野良なのか、老人の連れなのか、たまたまここへ迷い込んだのか、誰にも分からなかった。
その老人から少し離れた、窓ぎわの席に、若い女がひとり座っていた。二十歳を過ぎたばかりか、もう少し上か。俯いて、両の手のひらで顔の下半分を覆っている。泣いていた、というより、泣きはらしたあとの顔だった。目のまわりが赤く腫れて、頬に、乾ききらない筋がいくつも走っている。彼女はときおり、息を吸うときに、ひくり、と喉を鳴らした。もう涙は出ていないようだった。ただ、泣きおえた体が、余韻のように震えている。彼女の膝の上には、旅行鞄がひとつ置かれていて、その持ち手を、両手できつく握りしめていた。
反対側の壁ぎわには、スーツ姿の男が立っていた。座らずに、壁に背をあずけ、腕を組んで、じっと足もとを見つめている。四十くらいだろうか。ネクタイはゆるめられ、ワイシャツの襟もとがくたびれている。徹夜明けなのか、それとも、これから長い旅に出るのか。足もとには黒い革の鞄がひとつ。彼はときおり、思い出したように腕時計を見て、それから、また足もとに視線を落とす。まるで、時間が進むことを確かめないと不安でいられない人のように。
出入口の近くには、大きなリュックを背負った、外国から来たらしい若者がひとり。旅行者だろう。壁に貼られた路線図を、身を乗り出すようにして眺めている。ときどき、手のなかのしわだらけの地図と、壁の路線図とを見くらべては、小さくうなずいたり、首をかしげたりしていた。彼の背後の窓には、朝日を待つ藍色の空がひろがっていて、そのなかに、彼の背中と、リュックの膨らみとが、黒い影絵のように浮かんでいる。
そして、待合室の真ん中あたり、どちらの群れにも属さない中途半端な席に、わたし——語り手のわたしが座っていた。わたしのことは、いまはあまり語るまい。わたしもまた、この夜明け前の待合室に、それぞれの事情を抱えて集まった六人のうちのひとりにすぎない。ただ、わたしはこのとき、なぜか妙に目が冴えていて、まわりの人々のひとりひとりを、静かに見ていた。見ている、というより、感じていた、というほうが正しいかもしれない。同じ闇のなかにいる、ということを。同じ寒さのなかにいる、ということを。そして、同じ夜明けを待っている、ということを。
言葉は、ひとつも交わされなかった。
三時三十分の予告なく、駅の構内放送が入った。
「まもなく、上りの回送電車が通過いたします。ホームには近づかないよう、ご注意ください」
抑揚のない、録音された女の声だった。誰もそれに反応しなかった。眠る老人はそのまま眠り、泣きはらした女は俯いたまま、スーツの男は足もとを見つめたまま、外国の若者だけが、ちらりと顔をあげて、それからまた路線図に戻った。
やがて、遠くから、地鳴りのような音が近づいてきた。音は次第に大きくなり、ホームの向こうを、灯りをすべて落とした暗い電車が、風を巻いて通り過ぎていった。その一瞬、待合室のガラスが、がた、と鳴り、切れかかった蛍光灯が、いっそう激しく明滅した。電車が去ると、あとには、さっきよりも深い静けさが残った。回送電車というのは、乗る者のない電車のことだ。どこかから来て、どこかへ行く、けれど誰も乗せない電車。それが、この夜明け前の駅を、音もなく通り過ぎていく。
わたしは、なぜか、その回送電車のことを、少し寂しく思った。乗る者もなく、降りる者もなく、ただ走らねばならない電車。けれど、と、わたしは思いなおした。それでも、あの電車は、始発のために走っているのだ。回送されたその車両は、どこかの車庫で向きを変え、やがて、この駅か、あるいは別の駅で、始発の電車として、人を乗せて走りはじめる。いまは誰も乗せていなくても、それは、朝のための、準備の走りなのだ。
そう思うと、あの暗い電車が、少しだけ、愛おしく思えた。
泣きはらした女が、ふいに、鞄のなかから何かを取り出した。ハンカチかと思ったが、ちがった。小さな、青いマッチ箱だった。彼女は、それを両の手のひらのなかに包み込むようにして、しばらく、じっと見つめていた。蛍光灯の下で、その箱は、くすんだ、けれどたしかに青い色をしていた。箱の表には、何か文字が書かれているようだったが、遠目には読めなかった。彼女は、そのマッチ箱を、まるで、生きているものを扱うように、そっと、両手で温めていた。
わたしは、そのマッチ箱に、見おぼえがあった。
青いマッチ箱
この町のはずれに、月光堂という、古い雑貨屋があった。
いや、雑貨屋というより、なんと呼べばいいのか分からない、不思議な店だった。表通りから一本入った、細い路地の突き当たりにあって、看板もなく、ただ、格子戸の上に、白い月を象った小さな行灯がひとつ、下がっているだけ。その行灯に、青い墨で「月光堂」と書かれている。それが店の名だと知る者は、この町でも、そう多くはなかった。
店には、雑多なものが並んでいた。古い本、色あせた絵葉書、欠けた茶碗、片方だけの手袋、鍵の失くなった錠前、動かない懐中時計。誰かが手放したもの、誰かが失くしたもの、誰にも要らなくなったもの。それらが、埃をかぶって、けれど妙にきちんと、棚に並んでいた。店の奥には、いつも、白髪の老婆がひとり座っていて、客が来ても、来なくても、同じように、静かに何かを繕っていた。
その月光堂で、あの青いマッチ箱は売られていた。
正確には、売られていた、というのも少しちがう。あのマッチ箱は、月光堂を訪れた者に、老婆が、ときおり、渡すものだった。金を取ることもあったし、取らないこともあった。渡す相手も、老婆が決めた。どういう基準で渡すのか、誰にも分からなかった。ただ、あの青いマッチ箱を老婆から受け取った者は、みな、どこか、うつむいた顔をしていた、という。夜のいちばん深いところで、道を見失った者たち。行くあてをなくした者たち。
箱の表には、こう書かれていた。
「暗いときには、これを擦りなさい。ひとつぶんだけ、明るくなります」
たったそれだけの、小さな灯り。マッチ一本ぶんの、はかない光。けれど、いちばん暗いときには、その一本ぶんの光が、生きるか死ぬかを分けることもある——そういう、店だった。月光堂とは、そういう店だった。
泣きはらした女が、いま、両手のなかに温めている青いマッチ箱。それは、あの月光堂の、あの老婆の手から渡されたものにちがいなかった。とすれば、この女もまた、夜のいちばん深いところで、道を見失った者のひとりなのだ。行くあてをなくして、あるいは、行くあてを、これから見つけようとして、この夜明け前の駅に、たどり着いた者。
わたしは、彼女に、声をかけようかと思った。そのマッチ箱を、わたしも知っています、と。けれど、かけなかった。夜明け前の待合室では、言葉は、なぜか、そぐわない気がした。ここでは、ただ、同じ闇のなかにいる、ということだけが、たしかなことだった。言葉を交わせば、その、かすかな連帯が、かえって壊れてしまいそうな気がした。
だから、わたしは、ただ、彼女を見ていた。彼女が、青いマッチ箱を、そっと、また鞄のなかにしまうまで。
三時四十五分。切れかかった蛍光灯が、とうとう、ひときわ大きく、ちり、と鳴って、それから、少しのあいだ、ふっつりと消えた。
待合室が、いっそう暗くなった。
その闇のなかで、眠っていた老人が、ふいに、身じろぎをした。帽子の下から、しわだらけの顔をあげて、しばらく、ぼんやりと、あたりを見まわす。それから、足もとの三毛猫に気づいて、その背を、皺だらけの手で、そっと撫でた。猫は、目を細めたまま、喉を鳴らした。ごろごろ、という、低い、あたたかい音が、しんとした待合室に、かすかに響いた。
老人は、それから、風呂敷包みの結び目を、ゆっくりとほどきはじめた。なかから出てきたのは、竹の皮に包まれた、握り飯がふたつ。彼は、そのひとつを、竹の皮ごと、掌にのせて、しばらく眺めていた。それから、ふと、顔をあげて、待合室のなかを、また、見まわした。
その視線が、俯いて座る、泣きはらした女のところで、止まった。
老人は、握り飯を掌にのせたまま、ゆっくりと立ちあがった。足もとが少しおぼつかなくて、一度、よろけたが、風呂敷の結び目に手をついて、なんとか体を起こした。三毛猫が、心配そうに、彼を見あげた。老人は、握り飯を持って、女のほうへ、ゆっくりと歩いていった。
そして、女の前に立つと、何も言わずに、その握り飯を、女の膝の上に、そっと置いた。
女が、驚いたように、顔をあげた。老人は、にっこりと笑った。歯の抜けた、けれど、あたたかい笑顔だった。それから、しわがれた声で、ぼそりと、こう言った。
「食べなさい。夜明けまでは、まだ、遠い」
たったそれだけ言うと、老人は、また、ゆっくりと、自分の席に戻っていった。もうひとつの握り飯を、竹の皮ごと、自分の膝にのせて、ゆっくりと、食べはじめた。三毛猫が、その手もとを、じっと見あげていた。老人は、握り飯のかけらを、ひとつまみ、猫に分けてやった。猫は、それを、行儀よく、ちいさな口で、食べた。
女は、しばらく、膝の上の握り飯を、じっと見つめていた。それから、ゆっくりと、竹の皮をひらいて、その握り飯を、ひとくち、食べた。ふたくち、食べた。彼女の目から、また、涙がこぼれた。けれど、それは、さっきまでの涙とは、ちがう涙のようだった。彼女は、涙をこぼしながら、けれど、たしかに、握り飯を、ひとつ、食べきった。食べおえると、竹の皮を、丁寧に、たたんで、それを、鞄のなかに、そっと、しまった。
そのとき、消えていた蛍光灯が、ふいに、また、ちり、と灯った。
待合室が、また、白く、明るくなった。
四時。放送が、また入った。
「始発電車のご案内をいたします。四時五十二分発、下り、各駅停車が、まもなく、一番線に、まいります——ではございません。しばらく、お待ちください」
録音の途中で、生の駅員の声が割り込んで、あわてて訂正した。まだ、五十分以上ある。始発は、まだ、来ない。誰かが、小さく、笑ったような気がした。スーツの男だった。彼は、腕を組んだまま、口もとだけで、かすかに笑って、それから、また、足もとに視線を落とした。
わたしは、その男のことを、少し考えた。彼は、いったい、どこへ行こうとしているのだろう。あるいは、どこから、帰ろうとしているのだろう。徹夜明けの、疲れた顔。ゆるめられたネクタイ。くたびれたワイシャツ。彼の足もとの、黒い革の鞄には、何が入っているのだろう。仕事の書類か。それとも、もう二度と使わない、何かの、名残か。
男は、ふいに、上着の内ポケットから、一枚の写真を取り出した。古い、色あせた写真のようだった。彼は、それを、しばらく、じっと見つめていた。写真に何が写っているのかは、わたしには見えなかった。けれど、その男の顔つきから、それが、彼にとって、とても大切な、けれど、もう手の届かない、何かであることは、分かった。
男は、写真を、また、そっと、内ポケットにしまった。それから、大きく、ひとつ、息を吐いた。白い息が、蛍光灯の光のなかに、ゆっくりと、立ちのぼって、消えた。
彼は、旅立つ者だろうか。それとも、帰る者だろうか。
わたしには、分からなかった。けれど、旅立つことと、帰ることとは、もしかしたら、そんなに、ちがわないのかもしれない、と、わたしは思った。どこかを離れることは、どこかへ向かうことでもある。何かを失うことは、何かを、これから、得ようとすることでもある。この夜明け前の待合室にいる者は、みな、何かを離れて、何かへ向かおうとしている。旅立つ者も、帰る者も、みな、同じ闇のなかで、同じ夜明けを待っている。
外国から来た若者が、ふいに、路線図から離れて、待合室のなかを、うろうろと歩きはじめた。何かを探しているようだった。彼は、壁ぎわの、自動販売機のところで、足を止めた。財布を取り出して、小銭を数えて、それから、困ったように、首をかしげた。硬貨が、足りないのだろう。彼は、温かい飲み物が、欲しいようだった。夜明け前の冷えは、旅の者の骨にまで、しみるものだから。
そのとき、スーツの男が、壁から背を離して、若者のほうへ、歩いていった。男は、財布から、小銭をいくつか取り出して、若者に、差し出した。若者が、驚いたように、男を見た。男は、何も言わずに、ただ、小銭を、若者の手のひらに、のせた。それから、自分の指で、自動販売機の、いちばん温かそうな、赤い缶のボタンを、示した。
若者は、しばらく、その小銭と、男の顔とを、見くらべていた。それから、たどたどしい日本語で、こう言った。
「アリガトウ、ゴザイマス」
男は、また、口もとだけで、かすかに笑って、それから、何も言わずに、自分の席に——いや、席ではない、壁ぎわの、もとの場所に、戻っていった。若者は、その小銭で、温かい缶を、ふたつ、買った。ひとつは、自分のために。もうひとつを、彼は、両手で持って、しばらく、待合室のなかを、見まわしていた。
そして、その温かい缶を、俯いて座る、泣きはらした女の前に、そっと、置いた。
女が、また、顔をあげた。若者は、はにかんだように笑って、たどたどしく、こう言った。
「アタタカイ。ドウゾ」
女は、その缶を、両手で、そっと、受け取った。それから、小さな声で、「ありがとう」と、言った。この夜明け前の待合室で、はじめて交わされた、言葉らしい言葉だった。若者は、うれしそうにうなずいて、それから、自分の缶を持って、また、路線図のほうへ、戻っていった。
わたしは、思った。言葉は、ひとつも交わされなかった、と、さっき、わたしは書いた。けれど、それは、正しくなかった。言葉は、交わされなかったかもしれない。けれど、何か、もっと、あたたかいものが、この待合室のなかを、静かに、めぐりはじめていた。握り飯が、老人から女へ。小銭が、男から若者へ。温かい缶が、若者から女へ。それは、言葉ではなかった。けれど、たしかに、何かが、手から手へ、渡されていた。
夜明け前の、いちばん暗く、いちばん冷える刻に。
片方だけの手袋
四時十五分。わたしは、ふと、自分の隣の席に、何かが置かれているのに気づいた。
片方だけの、手袋だった。
濃い、臙脂色の、女ものの、毛糸の手袋。右手のものか、左手のものか、しばらく見て、右手のものだと分かった。誰かが、忘れていったのだろう。この待合室に来て、去っていった、誰かが。あるいは、いまここにいる、誰かのものが、落ちたのか。
わたしは、その手袋を、手に取った。柔らかい、けれど、少し、くたびれた手触りだった。手のひらのところが、うっすらと、擦り切れている。長いあいだ、使われた手袋だった。誰かの手を、長いあいだ、あたためてきた手袋だった。そして、いまは、片方だけになって、この、がらんとした待合室の、冷たいベンチの上に、忘れられていた。
片方だけの手袋。それは、なぜだか、とても、寂しいものだった。
手袋は、ふたつで、ひとつだ。片方だけでは、その役目を、半分しか、果たせない。もう片方は、どこへ行ったのだろう。持ち主の手もとに、あるのだろうか。それとも、もう片方も、どこか、別の場所で、忘れられているのだろうか。ふたつの手袋は、いつか、また、めぐりあうのだろうか。それとも、このまま、永遠に、離れ離れなのだろうか。
わたしは、その手袋を、ベンチの、見えやすいところに、そっと、置きなおした。もし、持ち主が、これを探しに、戻ってきたら、すぐに見つかるように。もし、戻ってこなくても、次に、これを必要とする、誰かの目に、留まるように。片方だけの手袋にも、まだ、役目は、あるかもしれない。もう片方を、失くしてしまった、別の誰かの、右手を、あたためる役目が。
そのとき、眠っていた——いや、もう、眠ってはいなかった、老人が、その手袋を、じっと、見ていることに、わたしは気づいた。老人の目は、遠い、遠いものを、見ているようだった。彼は、風呂敷包みのなかから、何かを、また、取り出した。それは、もう片方の、手袋だった。左手の。同じ、臙脂色の。
老人は、その左手の手袋を、皺だらけの手のひらにのせて、しばらく、じっと、見つめていた。そして、ベンチの上の、右手の手袋を、ゆっくりと、手に取った。ふたつの手袋を、両の手のひらにのせて、並べて、また、じっと、見つめた。
ふたつで、ひとつの、手袋だった。
老人が、ぽつりと、言った。誰に言うともなく。
「……妻のじゃった」
その声は、しわがれて、けれど、静かで、あたたかかった。
「去年の、冬に、逝きよってな。ずっと、探しておったんじゃ。片方だけ、失くしてしもうて。あれは、この手袋を、片方だけつけて、逝きおった。もう片方は、どこへやったか、分からんかった。ずっと、探しておった。この駅の、この待合室に、置き忘れたんじゃないかと、思うてな。だから、月に一度、こうして、夜汽車に乗って、この駅まで、来ておったんじゃ」
老人は、ふたつの手袋を、そっと、重ねた。右手と、左手と。臙脂色の毛糸が、蛍光灯の下で、あたたかく、光った。
「見つかった。やっと、見つかった。今夜、やっと、片方が、戻ってきた」
老人の目から、涙が、こぼれた。皺の、深い谷を、つたって。けれど、彼は、笑っていた。泣きながら、笑っていた。三毛猫が、その膝に、そっと、身を寄せた。
わたしは、その片方だけの手袋が、誰のものだったのか、ついに、分からなかった。誰が、忘れていったのか。あるいは、本当に、そこに、あったのか。もしかしたら、それは、ずっと前から、そこに、あったのかもしれない。老人が、探しつづけていた、ちょうど、その片方が。この夜明け前の待合室が、長いあいだ、老人のために、そっと、預かっていたのかもしれない。
そう思うことに、わたしは、決めた。
夜明け前の待合室では、そういう、小さな奇跡が、起こることが、あるのだ。いちばん暗い刻に。いちばん冷える刻に。人が、待ち、耐え、祈る、その、いちばん深いところで。
四時半。空が、ほんの少しだけ、変わりはじめた。
窓の外の、あの、色をすべて吸い取られたような、濃い藍色が、いちばん底のところで、わずかに、藍を薄めはじめていた。まだ、夜だった。まだ、闇だった。けれど、その闇の底に、ほんのわずかな、藍の、薄まりが、生まれていた。それは、光ではなかった。まだ、光ではなかった。けれど、光の、予感だった。夜明けの、いちばん最初の、ためらいがちな、気配だった。
わたしは、窓の外を、見た。
ホームの、屋根の切れたところ。その先の、空。まだ、深い藍色の、その空の、いちばん高いところに、ひとつ、蒼い星が、光っていた。
いや、星、というには、少し、大きすぎた。少し、尾を、引いていた。それは、彗星だった。ミラ彗星。ここ数日、夜明け前の空に、いちばん冴えて、いちばん強く光ると、新聞に書かれていた、あの、蒼い彗星。
わたしは、その彗星を、見た。息を、のんだ。
なんという、光だろう。
夜のいちばん暗い刻に、闇のいちばん濃いところで、その蒼い彗星は、まるで、そこだけ、別の世界から、光が、こぼれているように、冴え冴えと、強く、光っていた。まわりの星が、みな、この夜明け前の冷えのなかで、いくぶん、力なく、瞬いているなかで、その彗星だけは、ちがった。いちばん暗いときに、いちばん強く。いちばん冷えるときに、いちばん、あざやかに。まるで、闇が濃ければ濃いほど、その光は、強くなる、とでもいうように。
わたしは、ふいに、悟った。あの彗星は、希望の、徴なのだ、と。
希望というものは、明るいときには、見えない。昼の、まぶしい光のなかでは、あの蒼い彗星も、見えはしない。希望が、ほんとうに、その姿を、あらわすのは、いちばん暗いときなのだ。いちばん、冷えるときなのだ。人が、待ち、耐え、祈る、その、いちばん深いところでこそ、希望は、はじめて、冴え冴えと、光るのだ。あの彗星のように。
わたしは、待合室のなかを、見まわした。
眠りから覚めた老人は、ふたつの手袋を、大切そうに、胸に抱いて、窓の外の彗星を、見ていた。泣きはらした女も、いつのまにか、顔をあげて、その、蒼い光を、見ていた。スーツの男も、壁から背を離して、窓に近づき、じっと、彗星を、見あげていた。外国の若者も、路線図から離れて、窓ガラスに、額を、押しつけるようにして、その光に、見入っていた。三毛猫までもが、老人の膝の上で、首をあげて、窓の外を、見ていた。
六人と、一匹が、みな、同じ、蒼い彗星を、見ていた。
言葉は、ひとつも、交わされなかった。けれど、そのとき、たしかに、わたしたちは、ひとつだった。同じ闇のなかにいる、六人と、一匹。同じ寒さのなかにいる、六人と、一匹。そして、同じ希望を、同じ夜明けを、待っている、六人と、一匹。
その連帯は、あたたかかった。
夜明け前の待合室が、これほど、あたたかい場所だとは、わたしは、知らなかった。
眠れ、眠れ
四時四十分。泣きはらした女が、小さな声で、うたいはじめた。
はじめは、それが、うたであることに、誰も、気づかなかった。ただ、彼女の口から、かすかな、旋律の、断片のようなものが、こぼれはじめた。息の、あわいに、まぎれるほど、小さな声で。けれど、それは、たしかに、うただった。
「眠れ、眠れ……星が、海を、わたるまで……」
わたしは、その子守唄を、知っていた。
古い、古い子守唄だった。この町の、いや、この町だけではない、どこの町でも、母親が、子どもを寝かしつけるときに、うたう、あの子守唄。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」。星が、夜のあいだに、空を、ゆっくりとわたって、海の向こうに沈み、そして、朝が来る。それまで、眠っていなさい。おまえが眠っているあいだに、夜は、明けるから。安心して、眠っていなさい。そういう、うただった。
女は、俯いて、青いマッチ箱を、また、両手のなかに包み込んで、その子守唄を、うたっていた。誰に、うたっているのか、わたしには、分からなかった。もしかしたら、彼女は、自分自身に、うたっているのかもしれなかった。この、いちばん暗い、いちばん冷える刻を、なんとか、耐えるために。夜明けまで、なんとか、生きのびるために。自分で自分を、寝かしつけるように。眠れ、眠れ、と。
けれど、それは、彼女ひとりの、うたでは、なくなった。
眠りから覚めた老人が、その旋律に、静かに、声を、重ねはじめたのだ。しわがれた、低い、けれど、たしかな、老いた声で。「眠れ、眠れ……」。彼も、その子守唄を、知っていた。きっと、彼も、幼い子どもに、あるいは、逝ってしまった妻に、この子守唄を、うたったことが、あるのだろう。
やがて、スーツの男も、口の中で、その旋律を、なぞりはじめた。声には、ならなかった。けれど、彼の唇が、たしかに、動いていた。「眠れ、眠れ」。彼にも、この子守唄の、記憶が、あるのだろう。もしかしたら、内ポケットの、あの写真の、誰かに、うたった記憶が。
外国の若者は、言葉は、分からなかっただろう。けれど、彼は、その旋律を、聞いて、目を、閉じた。そして、かすかに、体を、揺らしはじめた。子守唄というものは、言葉が分からなくても、伝わるものだ。それは、世界じゅうの、どの母親も、うたうものだから。夜のいちばん暗いところで、子を、あやすうた。眠れ、眠れ。夜は、明けるから。
わたしも、口の中で、その子守唄を、うたった。
がらんとした、夜明け前の待合室に、蛍光灯の、白い光の下に、六人の、小さな、子守唄が、そっと、ひとつに、溶けあった。誰も、大きな声では、うたわなかった。ただ、息の、あわいに、こぼれるほどの、小さな声で。けれど、その、小さな声が、集まって、待合室のなかを、あたたかく、満たしていった。
眠れ、眠れ。星が、海を、わたるまで。
窓の外の、蒼い彗星が、ゆっくりと、空を、わたっていく。夜明けに向かって。海の、向こうに向かって。星が、海をわたるまで。それまで、わたしたちは、ここで、待つ。この、いちばん暗い、いちばん冷える刻を、この、小さな子守唄で、あたためながら。夜明けまで。始発まで。それぞれの、朝まで。
三毛猫が、老人の膝の上で、ごろごろと、喉を鳴らした。それも、ひとつの、子守唄のようだった。
四時五十分。空が、藍色から、群青へと、変わりはじめていた。
いちばん暗い刻は、過ぎたのだ。もう、闇は、後退しはじめていた。窓の外の、あの、蒼い彗星も、いつのまにか、その光を、少しずつ、薄めはじめていた。夜明けが近づくにつれて、彗星は、その姿を、空に、溶かしていく。それは、消えるのではない。ただ、役目を、終えるのだ。いちばん暗い刻に、いちばん強く光って、人々を、夜明けまで、導く、その役目を。
やがて、放送が、入った。今度は、まちがいでは、なかった。
「まもなく、四時五十二分発、下り、各駅停車が、一番線に、まいります。黄色い線の内側まで、お下がりください」
始発だった。
待合室の、六人と、一匹が、ゆっくりと、動きはじめた。
老人が、いちばん先に、立ちあがった。ふたつの手袋を、大切そうに、胸のポケットに、しまって。風呂敷包みを、肩にかけて。それから、足もとの三毛猫を、そっと、抱きあげた。猫は、いやがらずに、彼の腕のなかに、おさまった。やはり、連れだったのだ。老人は、待合室のなかを、ぐるりと、見まわした。そして、みなに向かって、深く、ふかく、お辞儀を、した。何も、言わずに。ただ、深く。それから、始発の、待つ、ホームへと、ゆっくりと、歩いていった。
彼は、帰る者だろうか。それとも、旅立つ者だろうか。妻の手袋の、両方を、見つけた、いま、彼は、どこへ、向かうのだろう。わたしには、分からなかった。けれど、その背中は、来たときよりも、少しだけ、軽く、見えた。長いあいだ、探しつづけたものを、やっと、見つけた者の、背中だった。
泣きはらした女も、立ちあがった。青いマッチ箱を、そっと、鞄のなかに、しまって。旅行鞄の持ち手を、握りなおして。彼女の顔は、もう、泣いてはいなかった。目のまわりは、まだ、赤かったけれど、その表情は、来たときとは、ちがっていた。何かを、決めた者の、顔だった。あるいは、何かを、手放して、身軽になった者の、顔だった。彼女は、握り飯をくれた老人の、去っていったほうを、一度、見た。それから、温かい缶をくれた、外国の若者に、小さく、頭を、下げた。そして、ホームへと、歩いていった。
彼女は、旅立つ者だろうか。それとも、帰る者だろうか。分からなかった。けれど、その足取りは、来たときよりも、しっかりと、していた。夜明け前の、いちばん暗いところで、握り飯を、食べ、温かい缶を、受け取り、子守唄を、うたった、その体は、もう、あの、震えていた体では、なかった。
スーツの男は、内ポケットの、あの写真を、もう一度、そっと、取り出して、見た。それから、それを、しまって、黒い革の鞄を、手に取った。彼は、外国の若者のところへ、歩いていって、路線図を、指さしながら、何か、身振りで、教えていた。若者が、行きたいところを、聞いているようだった。若者が、地図の、一点を、指さすと、男は、うなずいて、路線図の、乗り換えの駅を、いくつか、指で、たどってみせた。若者が、うれしそうに、うなずいた。それから、ふたりは、いっしょに、ホームへと、歩いていった。同じ電車に、乗るのだろう。旅立つ者と、帰る者が、しばらくのあいだ、同じ電車に、揺られて、それから、別々の駅で、別々の朝へと、降りていくのだ。
わたしも、立ちあがった。
始発は、もう、ホームに、入ってきていた。明るい、あたたかそうな、灯りを、すべて、灯した電車が、風を巻いて、静かに、止まった。回送されて、車庫で、向きを変え、また、戻ってきた、あの電車かもしれない。いまは、灯りを、すべて灯して、人を、乗せるために、そこに、いる。
わたしは、待合室を、出るまえに、もう一度、振りかえった。
がらんとした、待合室。切れかかった蛍光灯が、まだ、ちり、ちり、と、瞬いている。誰も、いなくなった、ベンチ。その、いちばん奥のベンチの上に、ひとつ、忘れ物が、あった。
いや、忘れ物では、なかったかもしれない。
青いマッチ箱だった。月光堂の、あの、青いマッチ箱。泣きはらした女が、鞄に、しまったはずの、あの箱が、なぜか、ベンチの上に、そっと、置かれていた。忘れたのか。それとも、わざと、置いていったのか。次に、この、夜明け前の待合室に、たどり着く、道を見失った、誰かのために。
わたしは、その青いマッチ箱を、手に取った。箱の表の、文字を、読んだ。「暗いときには、これを擦りなさい。ひとつぶんだけ、明るくなります」。わたしは、それを、しばらく、見つめた。それから、また、そっと、ベンチの上に、置きなおした。次の、誰かのために。この、いちばん暗い刻に、この待合室に、たどり着く、次の、誰かのために。
そう、これは、そういう、リレーなのだ。
握り飯が、老人から、女へ。小銭が、男から、若者へ。温かい缶が、若者から、女へ。路線図の教えが、男から、若者へ。そして、青いマッチ箱が、女から、次の、見知らぬ誰かへ。夜明け前の待合室では、こうして、小さなあたたかさが、手から手へ、渡されていく。一本の、マッチの光のように。ひとつぶんずつ。けれど、その、ひとつぶんずつの光が、つながって、この、いちばん暗く、いちばん冷える刻を、渡っていく、橋に、なるのだ。夜明けまでの、橋に。
ホームに出ると、空気は、いっそう、冷たかった。
けれど、その冷たさの、いちばん底に、もう、夜明けの、気配が、あった。東の空が、群青から、菫色へ、そして、そのいちばん端が、ほんのわずかに、白みはじめていた。まだ、光ではない。けれど、光の、いちばん最初の、ためらいがちな、生まれかけ。それが、たしかに、そこに、あった。
蒼い彗星は、もう、ほとんど、見えなくなっていた。夜明けの、白みのなかに、その光を、溶かして。けれど、それは、消えたのではない。ただ、役目を、終えたのだ。いちばん暗い刻に、いちばん強く光って、わたしたちを、夜明けまで、導いた、その役目を。彗星は、明日も、あさっても、また、いちばん暗い刻に、いちばん強く、光るだろう。また、道を見失った、誰かを、夜明けまで、導くために。
始発電車に、みなが、乗り込んでいく。
老人と、三毛猫が、いちばん奥の席に、腰を、下ろした。泣きはらした——もう、泣いてはいない女が、ドアの近くの席に、座った。スーツの男と、外国の若者が、並んで、席に、着いた。若者は、温かい缶を、まだ、両手で、握っていた。
わたしも、電車に、乗り込んだ。
ドアが、閉まる、まえに、わたしは、もう一度、ホームを、振りかえった。
がらんとした、ホーム。誰も、いない。ただ、待合室の、切れかかった蛍光灯が、まだ、ちり、ちり、と、瞬いている。その、ベンチの上に、青いマッチ箱と、そして、片方だけの——いや、片方だけの手袋は、もう、そこには、なかった。老人が、両方とも、持っていったから。ベンチの上には、青いマッチ箱だけが、ぽつんと、残されて、次の、誰かを、待っていた。
そして、その、ホームの、いちばん先。線路が、藍色の彼方へと、消えていく、その、突き当たりの、空に。
もう、ほとんど、見えなくなった、けれど、まだ、かすかに、蒼く、光る、あの、彗星の、名残。
ドアが、閉まった。
電車が、静かに、動きはじめた。
始発電車は、夜明けに向かって、走りはじめた。
車内は、あたたかかった。夜明け前の、あの、骨まで冷える寒さが、嘘のように、あたたかかった。窓の外を、藍色の町が、ゆっくりと、流れていく。まだ、眠っている町。まだ、闇のなかの町。けれど、その闇は、もう、後退しはじめていた。町の、あちこちに、ぽつり、ぽつりと、灯りが、ともりはじめている。パン屋の、灯り。新聞配達の、自転車の、ランプ。早起きの、誰かの、台所の、窓。夜明けは、こうして、ひとつ、ひとつの、小さな灯りから、はじまるのだ。
わたしは、車内を、見まわした。
老人は、三毛猫を、膝にのせて、目を、閉じていた。その、胸のポケットには、ふたつで、ひとつの、手袋。彼の顔は、安らかだった。もう、探すものは、ない。彼は、次の駅で、降りるのだろうか。それとも、終点まで、行くのだろうか。どこで降りても、彼は、もう、片方だけの手袋を、探して、夜汽車に乗ることは、ないだろう。彼の、夜明けは、もう、来たのだ。
泣きはらしていた女は、窓の外を、じっと、見ていた。流れていく、藍色の町を。その表情は、静かだった。彼女が、何を、抱えて、この夜明け前の待合室に、来たのか、わたしには、ついに、分からなかった。何を、失ったのか。何を、手放したのか。あるいは、これから、何を、はじめようとしているのか。けれど、彼女は、もう、大丈夫だ、と、わたしは、思った。握り飯を、食べ、温かい缶を、受け取り、子守唄を、うたい、そして、青いマッチ箱を、次の誰かに、託した、彼女は、もう、大丈夫だ。彼女の、夜明けも、もう、来ようとしている。
スーツの男と、外国の若者は、小さな声で、話していた。言葉は、うまく、通じていないようだったけれど、それでも、ふたりは、笑っていた。男が、何か、身振りで、話すたびに、若者が、うなずいて、笑う。若者が、たどたどしい日本語で、何か言うたびに、男が、うなずいて、笑う。旅立つ者と、帰る者。まったく、ちがう、事情を抱えた、ふたり。けれど、いまは、同じ電車に、揺られて、同じ、夜明けに、向かって、走っている。
わたしは、窓の外を、見た。
東の空が、菫色から、薔薇色へと、変わりはじめていた。地平線の、いちばん端が、燃えるように、あかね色に、染まりはじめている。夜が、明ける。とうとう、夜が、明ける。あの、いちばん暗く、いちばん冷える刻を、わたしたちは、渡りきったのだ。待って、耐えて、祈って、そして、渡りきった。
電車が、次の駅に、着いた。
老人が、三毛猫を抱いて、立ちあがった。彼は、降りていく、まえに、車内の、みなに向かって、また、深く、お辞儀を、した。それから、朝の、あかね色に染まりはじめた、ホームへと、降りていった。三毛猫が、彼の腕のなかで、朝の光に、目を、細めた。老人の背中が、朝の光の、なかへ、溶けていく。彼の、朝へ。
次の駅で、泣きはらしていた女が、降りた。彼女は、降りる、まえに、わたしのほうを——いや、車内の、みなのほうを、一度、見て、そして、かすかに、微笑んだ。それは、来たときには、見られなかった、微笑みだった。彼女は、朝の、ホームへと、降りていった。旅行鞄を、しっかりと、握って。彼女の、朝へ。
次の、また次の駅で、スーツの男が、降りた。若者と、握手を、して。そして、また次の、大きな駅で、外国の若者が、大きなリュックを、背負って、降りた。彼は、降りる、まえに、車内の、みなに向かって、大きく、手を、振った。「アリガトウ」。彼の、たどたどしい、けれど、あかるい声が、朝の光の、なかに、響いた。彼の、朝へ。
こうして、夜明け前の待合室に、集った、六人と、一匹は、始発とともに、それぞれの、朝へと、散っていった。
言葉は、ほとんど、交わされなかった。名前も、知らない。どこから来て、どこへ行くのかも、知らない。ふたたび、会うことも、ないだろう。けれど、わたしたちは、たしかに、あの、いちばん暗い刻を、いっしょに、渡った。同じ闇のなかで、同じ寒さのなかで、同じ夜明けを、待った。そして、小さなあたたかさを、手から手へ、渡しあいながら、それぞれの、朝へと、向かった。
わたしも、やがて、自分の駅で、降りた。
ホームに、降りると、朝の光が、まぶしかった。夜明けは、もう、完全に、訪れていた。あの、いちばん暗く、いちばん冷える刻は、遠い、遠い、昨夜のことのように、思えた。空は、澄んだ、あかるい、水色に、染まって、東の空には、もう、太陽が、顔を、出そうとしていた。
わたしは、駅を、出た。
朝の、町を、歩いた。パン屋の、あたたかい匂いが、した。新聞配達の、自転車が、通りすぎた。早起きの、人々が、それぞれの、一日を、はじめようとしていた。夜が明ければ、みな、それぞれの、事情を抱えて、それぞれの、一日を、生きていく。あの、夜明け前の待合室で、握り飯を、分けあい、子守唄を、うたいあった、あのことは、もう、誰も、口には、しないだろう。それは、いちばん暗い刻の、いちばん深いところで、起こった、ひそやかな、夢のような、出来事だったから。
けれど、と、わたしは、思う。
あの、夜明け前の待合室は、いまも、あそこに、ある。がらんとした、蛍光灯の、切れかかった、あの待合室。そして、そのベンチの上には、いまも、青いマッチ箱が、ぽつんと、置かれて、次の、誰かを、待っている。道を、見失った、誰かを。夜のいちばん深いところで、行くあてを、なくした、誰かを。
その、誰かが、あの待合室に、たどり着いたとき。
いちばん暗く、いちばん冷える、その刻に。
きっと、また、誰かが、握り飯を、分けるだろう。誰かが、温かい缶を、渡すだろう。誰かが、子守唄を、うたいはじめるだろう。そして、ホームの、いちばん先の、空には、あの、蒼い彗星が、いちばん暗いときに、いちばん強く、冴え冴えと、光って、その、誰かを、夜明けまで、導くだろう。
夜は、かならず、明ける。
どんなに、暗くても。どんなに、冷えても。星が、海を、わたるまで、待っていれば。夜は、かならず、明ける。そのことを、わたしは、あの、夜明け前の待合室で、知らない誰かたちと、いっしょに、教わったのだ。
わたしは、朝の光のなかを、歩いていく。
ポケットのなかで、わたしの右手が、何かに、触れた。取り出してみると、それは、片方だけの、臙脂色の——ではなかった。それは、月光書房の、しおりだった。いつ、そこに、入れたのか、覚えのない、一枚のしおり。月光書房。夜のあいだだけ、ひらいているという、あの、古い、古い本屋。青い月の、行灯を、掲げた。もしかしたら、わたしも、いつか、あの店で、この物語を、一冊の本として、見つけるのかもしれない。夜明け前の待合室に、集った、六人と、一匹の、名も知らぬ、けれど、たしかに、いっしょに、夜を、渡った、あの人たちの、物語を。
朝の光が、しおりの、青い月を、あたたかく、照らした。
そして、わたしは、思うのだ。始発を待つ人間は、みな、少しだけ、死んでいる。けれど、始発に乗った人間は、みな、もう一度、生まれるのだ、と。あの、いちばん暗い刻を、渡りきって、朝の光のなかへ、降りていく、そのとき、わたしたちは、みな、新しく、生まれなおすのだ。名も知らぬ、誰かの、小さなあたたかさを、胸に、抱いて。夜明けまで、待った、その、褒美のように。
夜は、明けた。
そして、また、いつか、夜は、来る。けれど、その夜の、いちばん暗いところにも、かならず、あの、蒼い彗星は、光るだろう。いちばん暗いときに、いちばん、強く。それが、希望というものの、かたちなのだ。わたしは、それを、忘れない。あの、夜明け前の待合室の、名も知らぬ人たちと、いっしょに、待った、あの、夜明けのことを、わたしは、生きているかぎり、忘れない。
朝の、澄んだ空気を、わたしは、胸いっぱいに、吸い込んだ。
新しい一日が、はじまろうとしていた。