夜を編む者
夜を編む者
夜のいちばん深い底に、ひとつの部屋がある。
それは家のなかにある部屋ではない。地図の上にも、暦の上にも記されない。人が寝返りを打ち、夢のいちばん薄くなるあたり、眠りと目覚めのあわいの、そのさらに下の水底のような場所に、その部屋はしずかに沈んでいる。壁はなく、天井もなく、ただ闇だけがなめらかに続いている。そこには、夜のいちばん深い底に棲むと言われる者が坐している。
人はその者を、いくつもの名で呼んできた。夜の王、と呼んだ者もある。ただの闇、と呼んだ者もある。名を持たぬ者、と呼ぶのがいちばん正しいのかもしれない。なぜなら、名とは光のなかで交わされるものだからだ。夜のいちばん深いところでは、名は溶けて、ただ在ることだけが残る。
その者は、夜を編んでいる。
編むというのは、たとえのようでいて、たとえではない。その者の手のなかには、いつも一本の糸がある。黒よりも黒い、けれど光を吸うのではなく、光をそっと畳みこんだような糸だ。その糸を、その者は指で繰り、少しずつ闇を編んでゆく。編まれた闇は、地の果てから昇り、山を越え、海を渡り、町の屋根の上に降りて、人々の窓に忍びこむ。こうして夜が来る。毎晩、その者が編むから、夜が来るのだ。
その糸が、どこから来るのかを、知る者はいない。ある言い伝えでは、それは、昼のあいだに人が流したすべての涙を、その者が集め、より合わせたものだという。また別の言い伝えでは、それは、まだ生まれぬ者たちの、まだ見ぬ夢を、細く細く紡いだものだという。どちらが正しいのかは、わからない。ただ、たしかなことは、その糸が、尽きたことは一度もない、ということだ。人が涙を流すかぎり、人が夢を見るかぎり、糸は、尽きぬ。そしてその者は、編むのをやめぬ。
編むその手つきには、いそぎがない。あわてもない。倦みもない。ただ、水が低きへ流れるように、種が土のなかで芽吹くように、あるべくしてある、というふうに、その者は編む。一目、また一目。世界の東の端が暮れれば、その者はそちらへ闇を送り、西の端が暮れれば、こんどはそちらへ送る。地の全体が、その者の編み目の下に、順ぐりに沈んでゆく。人はそれを、日の沈み、と呼ぶ。けれど、ほんとうは、その者が、編んでいるのだ。
そして、寅の刻。
午前三時から五時。人の呼吸がいちばん浅くなり、脈がいちばん遅くなり、病者がいちばん多く息を引きとる刻。夜警の眠気がいちばん深くなり、母親が乳を含ませたまま壁にもたれて眠り落ちる刻。この刻に、その者の編む闇はいちばん濃くなる。糸の目がいちばん詰まり、闇はいちばん重くなる。世界のすべての明かりが小さく細り、蝋燭は芯まで燃え、炉の火は灰の下に沈み、星さえも遠のいて見える。
けれどこの刻に、ただひとつだけ、遠のかぬ光がある。
その夜、部屋の縁に、一人の人間が坐っていた。
どうやってそこへ来たのか、その人間にもわからなかった。眠っていたはずだった。眠れずに、寝床のなかで幾度も寝返りを打ち、時計の針の音を数え、やがて数えることにも倦んで目を閉じたはずだった。そして目を開けると、ここにいた。壁のない部屋の縁に、膝を抱えて坐っていた。
寒かった。
冷えというのは、この刻の冷えは、皮膚の上を撫でてゆくたぐいのものではない。骨の芯へ、まっすぐに差しこんでくる。血の通う道を凍らせ、指の先から順に感覚を奪ってゆく。人間は、片方の手袋をはめていた。左手にだけ、毛糸の手袋を。もう片方は、どこかで失くしたのだろう。右手はむき出しのまま、抱えた膝の上に置かれ、青白く、かすかにふるえていた。
「寒いか」
声が、闇のなかから聞こえた。
低い声だった。低い、というより、深い、と言うほうが近い。井戸の底から響いてくるような、あるいは大地そのものが口をきいたような声だった。人間はびくりと肩をふるわせ、顔を上げた。
そこに、その者がいた。
かたちは、はっきりとは見えなかった。闇のなかの闇として、その者はそこにいた。人のかたちをしているようでもあり、していないようでもあった。目があるとすれば、その目は星のない夜空の色をしていた。人間は、なぜだか、逃げようとは思わなかった。逃げる場所がないことを、どこかで知っていたからかもしれない。あるいは、寒すぎて、逃げることも忘れていたのかもしれない。
「寒い」と、人間は答えた。声がふるえた。「こんなに寒いのは、はじめてだ」
「そうだろう」と、その者は言った。「今は寅の刻だ。一日でいちばん暗く、いちばん冷える刻だ。おまえたち人間が、いちばん多く死ぬ刻でもある」
人間は、抱えた膝にいっそう顔を埋めた。その者の言葉は、脅しのようには聞こえなかった。ただ、事実を述べているだけのようだった。それがかえって、人間を寒がらせた。脅す者には、まだ、情がある。けれど、ただ事実を告げる者には、情も、無情もない。ただ、夜がそこにあるように、その者は、そこにいた。
どこか遠くで、水の滴る音がした。ひとしずく、また、ひとしずく。それは、時が過ぎてゆく音のようでもあり、なにかが、少しずつ、失われてゆく音のようでもあった。人間は、その音を数えかけて、やめた。時計の針を数えて眠れなかった、あの寝床のことを、思い出したからだった。
「わたしは」と、人間は口を開いた。「わたしは、死ぬのだろうか」
「さあ」と、その者は答えた。「それは、わたしの決めることではない。わたしはただ、夜を編む者だ。おまえが夜を越えるか、越えぬかは、おまえの決めることだ」
その者の手のなかで、糸が動いていた。
人間は、その手つきを見つめた。目が慣れてくると、闇のなかにも濃淡があることがわかってきた。その者の手は、闇よりわずかに薄い闇でできていて、その指が繰る糸は、闇よりわずかに深い闇でできていた。指は休むことなく動き、糸を繰り、闇を編んでいた。編まれた闇が、部屋の縁からこぼれ、下へ下へと流れ落ちて、どこか遠くの世界へ降りてゆくのが、人間にはなんとなく感じられた。
「それは、なんだ」と、人間は訊いた。
「夜だ」と、その者は答えた。「わたしは夜を編んでいる。毎晩、こうして編むから、夜が来る。おまえたちが眠り、休み、傷を癒すために、夜が来る」
「では、あなたが編むのをやめれば」と、人間は言った。「夜は、来ないのか」
その者の指が、一瞬、止まった。
星のない目が、人間のほうを向いた。それは、はじめてその者が人間を「見た」瞬間だった。それまでその者は、ただそこに在るだけだった。けれどその瞬間、その者は、たしかに人間を見た。
「面白いことを言う」と、その者は言った。「たいていの人間は、そうは訊かぬ。たいていの人間は、こう訊く――『いつになったら夜が明けるのか』と。おまえは、逆のことを訊いた」
人間は、言葉に詰まった。自分でも、なぜそう訊いたのか、わからなかった。ただ、その者の指が止まったとき、なにか、答えが得られるような気がしたのだ。
「わたしは」と、人間は言った。「わたしは、夜が明けてほしいのかどうか、わからないのだ」
一つ目の問い
その者は、糸を繰る手を、ゆっくりとおろした。
編むのをやめた、というのではなかった。ただ、しばし手を休めた、というふうだった。その者は、人間のほうへ、わずかに身を傾けた。闇が動いた。それはまるで、深い水のなかで大きな魚がゆっくりと向きを変えるようだった。
「聞かせてみよ」と、その者は言った。「なぜ、夜が明けてほしいのか、わからぬのだ」
人間は、しばらく黙っていた。むき出しの右手を、左手の手袋で包もうとしたが、片方だけの手袋は、両手を温めるには足りなかった。人間は、その足りなさを、しばらく見つめていた。
「明日が」と、人間はようやく口を開いた。「明日が、来てほしくないのだ」
「なぜ」
「明日には」と、人間は言った。「別れがある。わたしは、大切なものを、明日、手放さなければならない。それは決まってしまったことで、覆せない。夜が明ければ、朝が来る。朝が来れば、その時が来る。だから――」
人間の声が、途切れた。冷えた息が、白く、闇のなかに散った。
その者は、うながしはしなかった。せかしもしなかった。ただ、待った。夜が、朝を待つように。種が、春を待つように。その者の沈黙は、深く、けれど、拒むものではなかった。むしろ、その沈黙のなかに、人間は、そっと、身を横たえることができた。言葉にならぬものを、言葉にせぬまま、置いておくことのできる、そういう沈黙だった。
「その大切なものは」と、しばらくして、その者は静かに問うた。「人か。それとも、物か」
「わからない」と、人間は答えた。「人でもあり、物でもある。人であった、と言うべきかもしれない。もう、この手のなかには、いないのだから。けれど、明日、正式に、手放すことになっている。名を消し、しるしを畳み、部屋を空にする。そうすれば、それは、ほんとうに、いなくなる。今はまだ、かろうじて、この世に片足を残している。けれど、明日には――」
人間は、また、言葉を切った。
「だから、夜が明けなければいいと、思ったのか」と、その者は静かに言った。
人間は、うなずいた。うなずいてしまってから、その重さに、みずから驚いた。
その者は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「それは、わたしの誘いだ」
「誘い、とは」と、人間は訊いた。
「わたしは、夜を編む者だ」と、その者は言った。「けれど、それだけではない。わたしは、この刻に、人に問う者でもある。いちばん暗く、いちばん冷えるこの寅の刻に、あらゆる光が消えかけるこの刻に、わたしは人の枕もとへ行き、問うのだ――『このまま夜が明けなければいい、と思ったことはないか』と」
その者の声は、いよいよ深くなった。
「多くの者は、その問いを、夢のなかで受けとる。目が覚めれば忘れる。けれど、たしかに受けとる。そして、その問いに、心のいちばん奥で答える。ある者は『いや、明けてほしい』と答える。ある者は――」
「ある者は」と、人間は続きをうながした。
「ある者は」と、その者は言った。「『このまま明けなければいい』と答える。そして、そう答えた者は、この夜を越えぬ」
人間は、ぞっとした。冷えとは別の寒さが、背筋を走った。
「あなたは」と、人間は言った。「あなたは、人を、夜のなかへ引きこむ者なのか」
「いいや」と、その者は静かに首を振った――そのしぐさが、闇のなかで、たしかに感じられた。「わたしは、引きこまぬ。わたしは、ただ問う。答えるのは、人だ。わたしは、人の心を映す鏡にすぎぬ。もし人が夜のなかへ沈むのなら、それは人が、みずから沈むことを選んだからだ。わたしは、その手を引きはせぬ。だが、その手を、押しとどめもせぬ」
人間は、その者の、星のない目を見た。そこには、責めるものも、そそのかすものも、なかった。ただ、深い、深い静けさがあった。
「ずるい」と、人間は、ぽつりと言った。「あなたは、ずるい。問うだけで、答えは、こちらに投げてよこす。夜のなかへ沈むも、朝へ越えるも、みんな、こちらに決めさせる。あなたは、なにも決めない。なにも背負わない」
「そうかもしれぬ」と、その者は言った。その声に、怒りはなかった。「けれど、考えてみよ。もし、わたしが、おまえの代わりに決めたなら――おまえを、力ずくで朝へ引きあげたなら――それは、はたして、おまえの朝だろうか。おまえが、みずから選ばぬ夜明けを、おまえは、ほんとうに、生きられるだろうか」
人間は、黙った。
「わたしが問うのは」と、その者は続けた。「おまえを試すためではない。おまえに、おまえ自身の心を、見せるためだ。人は、いちばん暗いところへ来ぬかぎり、みずからの心のいちばん奥を、のぞきこもうとはせぬ。光のなかでは、心は、いくらでも自分を欺ける。けれど、この寅の刻の、いちばん暗いところでは――もはや、欺けぬ。だから、人は、ここへ来る。ここでしか、聞けぬ答えを、聞くために」
夜の書
そのとき、人間は、自分の膝の上に、一冊の書物があることに気づいた。
いつからそこにあったのか、わからなかった。ここへ来たとき、たしかに手ぶらだった。けれど今、たしかに、膝の上に一冊の書物がある。革の表紙は古び、頁のふちは擦り切れ、けれど不思議と、その書物はほのかに光っていた。青い光だった。冷たくはなく、けれど熱くもない、月のようにしずかな光だった。
「それは」と、その者が言った。「月光書房から来た、夜の書だ」
「月光書房」と、人間はくり返した。その名を、どこかで聞いた気がした。眠れぬ夜に迷いこむ者だけがたどり着く、という書店の名を。夜のあわいにだけ扉を開く、という店の名を。店先には、青いマッチ箱が積まれているという――月光堂の、青いマッチ箱。その一本を擦れば、消えかけた心の芯に、ふたたび、小さな火が灯るという。人間は、その話を、いつ、誰から聞いたのか、思い出せなかった。けれど、たしかに、聞いたことがあった。眠れぬ夜の、ずっと昔に。
「あの店の奥に」と、その者は言った。「一棚だけ、けっして売られぬ書物がある。夜の書、と呼ばれる。それは、夜を越えようとする者の枕もとに、ひとりでに現れる。おまえの膝の上に来たのは、おまえが今、夜を越えようとしているからだ」
人間は、おそるおそる、その書物を開いた。
頁には、なにも書かれていなかった。
いや――書かれていないのではなかった。書かれていた文字が、闇のなかで見えないのだ。青い光は、頁のふちを照らすだけで、そこに記された文字までは照らさなかった。人間は、目を凝らした。凝らせば凝らすほど、文字は闇のなかへ逃げていった。
「読めぬだろう」と、その者は言った。
「読めない」と、人間は答えた。
「今は、読めぬ」と、その者は言った。「夜の書は、夜のなかでは読めぬ。その書に記されているのは、夜を越えた者だけが読める文字だ。夜が明けて、朝の光が差したとき、はじめてその文字は浮かびあがる」
「なぜ、そんなふうに、できているのだ」と、人間は訊いた。「なぜ、夜のなかで読ませてくれぬ。今、読めれば、わたしは、安心できるのに。明日、なにが起こるかを知れば、わたしは、こんなに怖がらずにすむのに」
「それは、逆だ」と、その者は静かに言った。「もし、夜のなかで明日を読めてしまえば、人は、夜を越えようとは、せぬだろう。書物に書かれた明日を、ただ、なぞればよいと思うだろう。みずから歩まずとも、答えは知れる、と。けれど、それでは、明日は、来ぬ。明日とは、読むものではない。歩いて、たどり着くものだ。だから、この書は、夜のなかでは、けっして読めぬようにできている。おまえが、みずからの足で、朝へたどり着いたとき――そのときはじめて、褒美のように、頁は、開く」
人間は、書物を見つめた。読めぬ頁を、じっと見つめた。
「では」と、人間は言った。「この書を読むためには、夜を越えなければならないのか」
「そうだ」と、その者は言った。「けれど、覚えておくがいい。夜を越えねば読めぬということは、夜を越えれば読める、ということでもある。この書は、おまえがまだ知らぬおまえの明日を、記している。読むかどうかは、おまえしだいだ」
二つ目の問い
人間は、書物を膝の上に伏せて置いた。青い光が、掌を、ほのかに温めた。
「もし」と、人間は言った。「もし、夜が明けなければ、どうなるのだ」
「明けぬ夜、か」と、その者は言った。「それは、こういうことだ。おまえは、この刻に、とどまることになる。永遠に。寅の刻の、いちばん暗いところに。別れも来ぬ。手放すこともせずにすむ。大切なものは、失われぬまま、おまえの手のなかにありつづける。冷えは、ずっとこのままだが――冷えに慣れれば、それも、やがて感じなくなる。おまえは、痛みを知らずにすむ」
その者の声は、やさしかった。おそろしいほど、やさしかった。
「そして」と、その者は続けた。「わたしのそばには、そうして夜のなかにとどまることを選んだ者たちが、いる。彼らは、もう、なにも失わぬ。なにも手放さぬ。なにも痛まぬ。彼らは、しずかだ。とてもしずかだ。おまえも、そうなれる」
人間は、闇の奥を見た。
見えなかった。けれど、そこに、たしかに、たくさんの気配があった。しずかな、あまりにしずかな気配が。息をひそめているのでも、眠っているのでもない、ただ、とどまっている気配が。冷えて、動かず、痛まず、けれど――あたたかくもない気配が。
「彼らは」と、人間は訊いた。「しあわせなのか」
その者は、答えなかった。
長い、長い沈黙があった。糸を繰る音も、しなかった。ただ、青い書物の光だけが、人間の掌の上で、しずかに息をしていた。
「わからぬ」と、ついに、その者は言った。「しあわせとは、光のなかの言葉だ。夜のいちばん深いところには、しあわせも、ふしあわせもない。ただ、とどまることがあるだけだ。彼らは、痛まぬ。だが、喜びもせぬ。彼らは、失わぬ。だが、得もせぬ。彼らは、別れぬ。だが――もう、出会いもせぬ」
人間は、その闇の奥の、しずかな気配を、もう一度、見つめた。
そのとき、ふと、そのなかのひとつが、動いた気がした。動いた、というより、こちらを、見た気がした。ずっと昔に、夜のなかへ沈むことを選んだ、誰かが。その者は、なにかを言おうとしているようだった。けれど、声は、なかった。夜のなかにとどまった者たちには、もう、声もないのだった。ただ、その目が――目があるとすれば――こう告げているようだった。行くな、とどまれ、ここには、痛みがない、と。あるいは、逆に――行け、越えよ、わたしのようには、なるな、と。人間には、どちらとも、わからなかった。
「あの者たちは」と、人間は言った。「後悔しているのか。夜のなかにとどまったことを」
「後悔もまた、光のなかの言葉だ」と、その者は言った。「夜のなかには、後悔もない。ただ、動かぬことがあるだけだ。けれど――」
その者は、めずらしく、言いよどんだ。
「けれど、ときおり、夜明けが近づくと、彼らのなかの幾人かが、身じろぎする。あの蒼い星が、いちばん強く光るとき、彼らは、なにかを、思い出しかけるようだ。思い出しかけて、けれど、もう、動く力もなく、また、しずかに沈んでゆく。それを、後悔と呼ぶべきかどうかは――わたしには、言えぬ。ただ、それを見るのは、いつも、少しばかり、辛い」
「辛い」と、人間はくり返した。「あなたにも、辛いということが、あるのか」
その者は、答えなかった。ただ、糸を握る手が、ほんのわずか、こわばったように見えた。
「出会いも」と、人間はつぶやいた。
「そうだ」と、その者は言った。「夜のなかにとどまるということは、明日を捨てるということだ。そして明日を捨てるということは、その明日に来るはずだったすべてを捨てるということだ。おまえが手放さねばならぬ、その別れ――それは、たしかに、痛い。だが、その痛みは、かつておまえが、なにかに出会ったことの証だ。出会わねば、別れもない。愛さねば、失いもせぬ」
人間は、片方だけの手袋を見た。
左手にだけ、手袋がある。右手はむき出しだ。この手袋は、対になっていたはずだった。かつては、両手を温めていたはずだった。それが今、片方だけになっている。もう片方を、いつ、どこで失くしたのか、人間は思い出そうとした。
思い出せなかった。けれど――失くしたということは、かつて、持っていたということだった。片方だけになったということは、かつて、両方そろっていたということだった。この足りなさは、かつての満ち足りの、残り香なのだ。
「わたしは」と、人間は言った。「わたしは、手放したくない」
「わかっている」と、その者は言った。
「手放したくない。別れたくない。明日が来てほしくない。それは、本当だ」と、人間は言った。声がふるえた。「けれど――もし、この手袋のもう片方を、わたしがまだ持っていたとして。両手が温かかったとして。そのために、明日を、まるごと捨てなければならないとしたら――」
人間は、言葉を切った。冷えた息が、白く散った。
「わたしは、それでも、明日がほしい」と、人間は言った。
空でいちばん冴える星
その者は、動かなかった。
けれど、その闇のなかで、なにかが、わずかに変わった。星のない目が、ほんの少し、遠くを見た。まるで、遠い記憶を手繰るように。
「顔を上げてみよ」と、その者は言った。
人間は、顔を上げた。
そこには、空があった。壁のない部屋の、その上に、いつのまにか、空が広がっていた。星のない、闇だけの空。この寅の刻、いちばん暗いこの刻には、星々さえも遠のいて、空はただ黒かった。
けれど――そのただ黒い空の、いちばん奥に、ひとつだけ、光っている星があった。
蒼い星だった。
ほかのどの星よりも冴えて、強く、その星は光っていた。まるで、闇が濃くなればなるほど、その星だけは明るさを増すかのように。まわりの星々が消えてゆくなかで、その星だけは、ひときわ強く、ひときわ蒼く、燃えていた。
「あれは」と、人間は訊いた。
「ミラ彗星だ」と、その者は言った。「めったに、人の目には見えぬ星だ。けれど、いちばん暗いこの刻にだけ、あの星は、空でいちばん冴えて光る。闇がいちばん深いときに、いちばん強く輝く星だ」
人間は、その蒼い光を見つめた。
不思議だった。あんなに遠く、あんなに小さな光なのに、見つめていると、胸の奥の、凍りかけていたなにかが、ほんの少し、ゆるむのだった。まるで、遠い岸辺で、誰かが、小さな明かりを掲げて、こちらを待っていてくれるようだった。まだ、そこへは、届かない。けれど、明かりが見えるということは、岸があるということだった。岸があるということは、たどり着ける、ということだった。
「あの星は」と、その者は続けた。「約束のしるしだ。あの星が空にいちばん強く光るとき、それは、夜がいちばん深いということだ。そして、夜がいちばん深いということは――夜明けが、いちばん近い、ということだ」
「いちばん近い」と、人間はくり返した。
「そうだ」と、その者は言った。「あの星は、こう告げている。『今が、いちばん暗い。だから、もうすぐ、明けるのだ』と。いちばん暗い刻にこそ、あの星は輝く。夜明けが約束されているからこそ、闇はいちばん深くなれる。もし夜明けが来ぬのなら――あの星は、輝きはせぬ」
人間は、その蒼い光から、目を離せなかった。
「では」と、人間は言った。「あの星が光っているかぎり、夜は、必ず明けるのか」
その者は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「わたしは、夜を編む者だ。夜明けを約束する者ではない。夜明けを司るのは、わたしとは別の者だ。わたしは、ただ、夜を編む。そして、頃合いが来れば――手を止める。わたしが編むのをやめたとき、闇は、それ以上ふえぬ。ふえぬ闇は、やがて薄れる。薄れた闇の向こうから、光が差す。それが、夜明けだ」
「では、あなたは」と、人間は言った。「頃合いが来れば、手を止めるのだな」
「止める」と、その者は言った。「ただし――」
その者の声が、ふたたび、深くなった。
「ただし、わたしが手を止めるのは、夜を越えようとする者のためだ。夜のなかへ沈むことを選んだ者のためには、わたしは、手を止めぬ。その者のために、わたしは、編みつづける。永遠に。その者が望むかぎり」
三つ目の問い
その者は、ふたたび、糸を手に取った。
けれど、繰りはじめなかった。ただ、糸を手のなかで、しずかに握っていた。
「もう一度、問おう」と、その者は言った。「これが、最後の問いだ。よく聞くがいい。そして、心のいちばん奥で、答えるがいい」
人間は、うなずいた。青い書物を、両手で――片方は手袋、片方はむき出しの手で――しっかりと抱えた。
「このまま夜が明けなければいい、と思うか」と、その者は問うた。
人間は、目を閉じた。
思い出した。手放さねばならぬ、その大切なもののことを。明日、来るはずの別れのことを。その痛みのことを。冷えた寝床のなかで、時計の針を数えていた、その孤独のことを。眠れずに、朝を恐れていた、その心のことを。
思い出した。空になる部屋のことを。畳まねばならぬしるしのことを。もう、その名を呼んでも、返事が来ぬということを。呼んでも返事が来ぬなら、いっそ、呼ばずにすむこの夜のなかに、とどまってしまいたい、と願った、その弱さのことを。ここには、明日がない。明日がなければ、別れもない。別れがなければ、この胸を裂くような痛みも、来ぬ。だから、いっそ――と、心のいちばん奥が、ささやくのを、人間は、たしかに、聞いた。
それから、思い出した。
その大切なものと、はじめて出会った日のことを。両手が温かかった日のことを。笑いあった日のことを。手をつないで歩いた日のことを。子守唄を口ずさんだ夜のことを――「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」と、たしかに、誰かが、そう歌ってくれた夜のことを。
痛みは、たしかにあった。けれど、その痛みの奥には、たしかに、光があった。失うことの痛みは、かつて得たことの、証だった。別れの悲しみは、かつて出会ったことの、証だった。
もし、あの出会いが、なかったなら。もし、あの日々が、なかったなら。この痛みも、なかっただろう。けれど――それは、あの温もりも、なかった、ということだった。あの笑い声も、あの手のぬくもりも、あの子守唄の夜も、なかった、ということだった。痛みを消すということは、それらすべてを、なかったことにするということだった。人間は、それを、望まなかった。痛くていい。痛くて、いい。その痛みは、たしかに、あの人がいた、という、消せぬ証なのだから。
人間は、目を開けた。
そして、空を見た。ミラ彗星が、いちばん暗いこの刻に、空でいちばん冴えて、蒼く光っていた。夜明けの約束のしるしとして。
「いいえ」と、人間は言った。
声は、もう、ふるえていなかった。
「わたしは、夜が明けてほしい」と、人間は言った。「たとえ、明日、手放さねばならなくても。たとえ、別れが痛くても。わたしは、夜が明けてほしい。なぜなら――夜が明けねば、わたしは、あの人と出会ったことさえ、無かったことにしてしまう。痛みごと、消してしまう。痛みを消すために出会いを消すのは――わたしには、できない。痛いのは、出会ったからだ。わたしは、その出会いを、捨てたくない」
その者は、しばらく、動かなかった。
それから、その者の口もとに――口もとと言えるものがあるとして――かすかな、けれどたしかな、なにかが浮かんだ。それは、笑みのようだった。夜のいちばん深い底に棲む者の、はじめての、笑みのようだった。
「よい答えだ」と、その者は言った。「いや――正しい答えというものは、ない。ただ、それは、おまえの答えだ。おまえが、みずから選んだ答えだ。だから、よい」
「あなたは」と、人間は言った。「わたしが、そう答えることを、望んでいたのか」
その者は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「わたしは、なにも望まぬ。望むことは、光のなかの営みだ。けれど――」
その者の声が、いつもより、やわらかかった。
「けれど、もし、望むということが、わたしにも許されるのなら――わたしは、いつも、こう望んでいる。人が、夜を、越えることを。わたしのそばに、これ以上、しずかな者が、ふえぬことを。編むのをやめる夜が、一夜でも、多くあることを。それが、望みと呼べるものなら――そうだ。わたしは、望んでいた。おまえが、そう答えることを」
その者は、糸を手のなかで、ゆっくりとほどいた。
繰るのではなく、ほどいた。編むのではなく、手を止めた。人間には、それがわかった。夜を編む者が、この人間のために、編むのをやめたのだ。
「見よ」と、その者は言った。
人間は、空を見た。
ミラ彗星の蒼い光の、そのまわりの闇が、ほんのわずか、薄らいでいた。まだ夜だった。まだ暗かった。まだ冷えていた。けれど、いちばん濃かった闇が、ほんのわずか、ゆるんでいた。編まれることをやめた闇が、少しずつ、薄れはじめていた。
薄明
冷えは、まだあった。
けれど、それは、さっきまでの冷えとは、どこか違っていた。骨の芯を凍らせる冷えではなく、これから温まってゆくものの、その一歩手前の冷えだった。夜明け前の、いちばん冷える、けれどいちばん夜明けに近い、あの冷えだった。
人間は、片方だけの手袋をはめた左手で、むき出しの右手を包んだ。片方だけでは、足りなかった。けれど、その足りなさが、今は、悲しくなかった。片方を失くしたということは、かつて、両方そろっていたということだ。この足りなさは、満ち足りていた日々の、残り香なのだ。人間は、その残り香を、両手のなかに、そっと抱いた。
「もう、行くがいい」と、その者は言った。
「行く、とは」と、人間は訊いた。「わたしは、どこへ行くのだ」
「朝へ」と、その者は言った。「おまえは、夜を越えた。だから、朝へ行く。目が覚めれば、おまえは、いつもの寝床にいるだろう。この部屋のことも、わたしのことも、おそらく、忘れているだろう。夢のように、忘れているだろう。けれど――」
その者は、人間の膝の上の、青い書物を見た。
「けれど、その書だけは、覚えているがいい」と、その者は言った。「その夜の書は、おまえが持って帰るがいい。目が覚めても、それは、おまえのそばにある。今は読めぬ。夜のなかでは、読めぬ。けれど、朝の光が差せば――その頁の文字は、浮かびあがる。おまえの、まだ知らぬ明日が、そこに記されている」
人間は、書物を、胸に抱いた。
青い光が、胸のなかで、しずかに脈打った。それは、まるで、心臓の鼓動のようだった。あるいは、遠くの誰かの、鼓動のようだった。人間は、その光を抱いたまま、その者のほうを見た。
「あなたは」と、人間は言った。「あなたは、これから、どうするのだ」
その者は、少し、驚いたようだった。星のない目が、わずかに、ゆらいだ。
「わたしのことを、案じるのか」と、その者は言った。「たいていの者は、夜を越えると、わたしのことなど、振り返りもせぬ。朝へ向かって、走ってゆく。それでいいのだ。夜のことは、忘れていいのだ」
「けれど」と、人間は言った。「あなたは、ここに、残るのだろう。夜のいちばん深いところに。ずっと、ひとりで」
「ひとりではない」と、その者は言った。「わたしのそばには、夜のなかにとどまることを選んだ者たちがいる。彼らのために、わたしは、編みつづける。それが、わたしのつとめだ。そして――」
その者は、しばし、言葉を切った。
「そして、毎晩、寅の刻になれば、また、新しい者が来る。眠れずに、朝を恐れて、夜のいちばん深いところへ、迷いこんでくる。わたしは、その者に問う。『このまま夜が明けなければいい、と思ったことはないか』と。そして、その者が、おまえのように答えれば――わたしは、また、手を止める。それが、わたしのつとめだ」
「では」と、人間は言った。「あなたは、人が、夜を越えるのを、待っているのか」
その者は、答えなかった。
けれど、その沈黙のなかに、たしかに、答えがあった。人間は、それを、感じた。夜のいちばん深い底に棲むこの者は、人を夜のなかへ引きこむ者ではなかった。人を、夜のなかへ誘う者ですらなかった。この者は――人が、みずからの力で、夜を越えるのを、待っている者だった。
問いは、誘いではなかった。問いは、試しだった。人が、みずからの心のいちばん奥で、なにを選ぶかを、映し出すための、鏡だった。そして、この者は、心のどこかで、人が「夜が明けてほしい」と答えることを、願っていた。願いながら、けれど、それを口にはせず、ただ、問いつづけていた。
なぜなら、答えを人にゆだねることこそが、この者の、いちばん深いやさしさだったからだ。手を引きもせず、押しとどめもせず、ただ、問い、そして、待つ。人が、みずから光を選ぶのを、待つ。それが、闇そのものである、この者の、光だった。
「あなたは」と、人間は言った。「やさしいのだな」
その者は、また、あの笑みのようなものを浮かべた。
「やさしさとは、光のなかの言葉だ」と、その者は言った。「夜のいちばん深いところには、やさしさもない。ただ――待つことが、あるだけだ」
星が海をわたるまで
空が、少しずつ、色を変えはじめていた。
まだ、朝ではなかった。まだ、闇だった。けれど、東のほう――東というものがあるとして――そのいちばん低いところが、ほんのわずか、藍色に染まりはじめていた。黒から、藍へ。それは、夜明けの、いちばん最初のしるしだった。
ミラ彗星の蒼い光は、まだ、そこにあった。けれど、その輝きは、もう、いちばん強くはなかった。まわりの空が明るみはじめると、あの星の蒼さは、少しずつ、薄れていった。それは、消えるのではなかった。役目を終えるのだった。いちばん暗い刻に、いちばん強く輝いて、夜明けの約束を告げる。その役目を終えて、あの星は、しずかに、朝の光のなかへ、溶けてゆくのだった。
「聞こえるか」と、その者が言った。
人間は、耳をすませた。
聞こえた。遠く、遠く、どこか遠いところから、歌が聞こえた。子守唄だった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
やわらかな、低い声だった。母が子に歌うような、あるいは、夜が、朝に歌うような、そんな声だった。人間は、その歌を、知っていた。いつか、誰かが、自分に歌ってくれた歌だった。そして、いつか、自分が、誰かに歌った歌だった。
「星が、海をわたる」と、人間はつぶやいた。
「そうだ」と、その者は言った。「あのミラ彗星が、空という海を、わたってゆく。そして、朝の岸辺に、たどり着く。そのとき、夜は、明ける。子守唄は、そのことを歌っている。眠れ、眠れ――星が、海をわたりきるまで。わたりきれば、朝が来る。だから、それまで、眠っていていい。それまで、待っていていい。夜は、必ず、明けるのだから」
人間は、立ち上がった。
膝が、こわばっていた。長いあいだ、坐っていたからだ。冷えた足に、少しずつ、血が通いはじめた。痛かった。けれど、その痛みは、生きているものの痛みだった。凍えて感覚を失った者には、味わえぬ痛みだった。人間は、その痛みを、いとおしく思った。
「行くのか」と、その者が言った。
「行く」と、人間は答えた。「朝へ、行く」
「そうか」と、その者は言った。「では、行くがいい。振り返らずに、行くがいい。夜のことは、忘れていい。ただ――」
その者は、最後に、こう言った。
「ただ、覚えておいてほしいことが、ひとつある。おまえが、これから、どれほど暗い夜を迎えようとも――どれほど冷える刻を、くぐろうとも――そのいちばん暗いところに、必ず、あの蒼い星は、輝いている。いちばん暗いときにこそ、いちばん強く。それは、夜明けの、約束だ。だから、いちばん暗いときにこそ、顔を上げよ。空を、見よ。あの星が、そこにいる。それが見えるかぎり、夜は、必ず、明ける」
夜明け
人間は、うなずいた。
そして、朝のほうへ、歩きだした。藍色に染まりはじめた、東のほうへ。青い書物を、胸に抱いて。片方だけの手袋をはめた左手で、むき出しの右手を包んで。冷えた足で、一歩ずつ、光のほうへ。
一度だけ、振り返りたくなった。
けれど、振り返らなかった。振り返れば、あの者の、しずかなやさしさに、心が、ふたたび引きとめられるような気がしたからだ。あの者は、待っている。人が、夜を越えるのを、待っている。だから、越えなければならなかった。越えることが、あの者への、いちばんの答えだった。
歩きながら、人間は、思った。
いつか、また、眠れぬ夜が来るだろう。朝を恐れる夜が、来るだろう。手放さねばならぬものが、また、現れるだろう。そのたびに、自分は、あの寅の刻の、いちばん暗いところへ、迷いこむのかもしれない。そして、あの者は、また、問うのだろう。「このまま夜が明けなければいい、と思ったことはないか」と。
そのとき、自分は、また、答えられるだろうか。「いいえ、夜が明けてほしい」と。
わからなかった。けれど――と、人間は思った。けれど、そのときも、きっと、あの蒼い星は、輝いている。いちばん暗いところに、いちばん強く。それが見えるかぎり、自分は、また、答えられる。何度でも、答えられる。夜が、明けてほしい、と。
東の空が、藍から、薄い水色へと、変わっていった。
ミラ彗星は、もう、見えなかった。海を、わたりきったのだった。朝の岸辺に、たどり着いたのだった。星が海をわたりきったから、夜が、明けるのだった。
人間は、まぶたの裏に、光を感じた。
朝の光だった。冷えていた頬に、ほのかな温もりが、差してきた。骨の芯まで凍らせていた冷えが、ゆっくりと、ほどけてゆくのがわかった。血が通い、指の先に、感覚がもどってきた。むき出しの右手にも、片方だけの手袋のなかの左手にも、等しく、温もりが差してきた。
人間は、目を開けた。
寝床の、なかだった。
窓の外が、白みはじめていた。夜明けだった。時計の針は、五時を指していた。寅の刻が、終わろうとしていた。
人間は、しばらく、天井を見つめていた。夢を見ていたような気がした。けれど、どんな夢だったか、思い出せなかった。誰かと、話していたような気がした。とても深い声の、誰かと。けれど、その声も、その姿も、もう、思い出せなかった。夢は、朝の光のなかで、溶けてゆくものだった。
けれど――と、人間は思った。
胸の上に、なにか、重みがあった。
人間は、身を起こした。そして、胸の上を見た。
一冊の書物が、そこにあった。
革の表紙が古び、頁のふちが擦り切れた、古い書物だった。人間には、覚えがなかった。こんな書物を、寝床に持ちこんだ覚えは、なかった。けれど、たしかに、それは、そこにあった。人間は、それを、手に取った。青い光は、もう、なかった。ただの、古い書物だった。
人間は、その書物を、開いた。
頁には、文字が、記されていた。
夜のなかでは読めなかった文字が、朝の光のなかで、はっきりと、浮かびあがっていた。人間は、その文字を、読んだ。
そこに記されていたのは、人間の、まだ知らぬ明日だった。
明日、手放さねばならぬ、その別れのことが、記されていた。その痛みのことが、記されていた。けれど――その別れの、そのずっと先のことも、記されていた。痛みが、少しずつ、やわらいでゆくことが。やがて、その痛みが、大切な思い出に、変わってゆくことが。そして、いつか、また、新しい出会いが、訪れることが。片方だけになった手袋の、そのもう片方を、いつか、思いがけないところで、見つけることが。
すべてが、そこに、記されていた。
人間は、頁を、閉じた。
そして、窓のほうを見た。
窓の外は、もう、朝だった。夜は、明けていた。いちばん暗く、いちばん冷えた、あの寅の刻は、越えられていた。あの蒼い星は、もう、見えなかった。けれど、人間は、知っていた。あの星は、今も、どこかにある。そして、次に夜がいちばん暗くなるとき、あの星は、また、いちばん強く、輝くのだ。夜明けの、約束として。
人間は、寝床から出た。
冷えた床に、素足が触れた。冷たかった。けれど、その冷たさの向こうに、もう、朝の温もりがあった。人間は、窓辺へ歩き、窓を開けた。
冷たい、けれど、澄んだ、夜明けの空気が、部屋のなかへ流れこんできた。東の空が、水色から、淡い金色へと、変わってゆくところだった。鳥が、鳴きはじめていた。遠くで、誰かが、目を覚まし、一日を、はじめようとしていた。
人間は、片方だけの手袋を、はめた。
なぜ、それをはめたのか、自分でもわからなかった。ただ、はめたかった。片方だけの、その足りなさとともに、この朝を、迎えたかった。足りないということは、かつて、満ちていたということだ。そして、いつか、また、満ちるということだ。人間は、そのことを、なぜだか、知っていた。あの、思い出せぬ夢の、深い声の、誰かが、教えてくれたのかもしれなかった。
そして、人間は、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
その子守唄は、もう、眠るための歌ではなかった。目覚めるための、歌だった。星が海をわたりきったから、夜が明けた。夜が明けたから、目覚めるのだ。そして、目覚めたから、また、生きるのだ。手放し、別れ、痛み、そして――また、出会うために。
朝の光が、部屋いっぱいに、満ちていった。
夜を編む者は、もう、どこにもいなかった。夜のいちばん深いところは、朝の光のなかへ、溶けてしまった。けれど、人間は、知っていた。あの者は、消えたのではない。ただ、次の夜まで、しずかに、待っているのだ。次に、誰かが、眠れぬ夜に、朝を恐れて、迷いこんでくるのを。そして、その者に問うのを――「このまま夜が明けなければいい、と思ったことはないか」と。
いちばん暗い刻に、いちばん近い夜明けがある。いちばん深い闇に、いちばん強い星が光る。それを教えるために、あの者は、待っている。夜のいちばん深い底で、糸を繰りながら、しずかに、やさしく、待っている。
そして、人間は、朝のなかへ、歩みだした。手放すために。別れるために。痛むために。そして――生きるために。夜は、明けた。だから、生きるのだ。何度、夜が来ようとも、そのたびに、越えるのだ。あの蒼い星が、いちばん暗いところで、いちばん強く輝くのを、信じて。