澪の道
橋の欄干は、素手で触れると骨まで冷えた。
冬の川は、水があることを音でしか教えない。眼の下は真っ暗で、ただ黒が流れているという感じだけがあって、それが水なのか、それとも自分の内側にあいた穴なのか、澪子にはもう分からなくなっていた。午前三時を回ったころだと思う。腕時計は家に置いてきた。財布も、鍵も、電話も、すべて机の上にきちんと並べて出てきた。持ってきたのは、この身ひとつと、右手にはめた片方だけの手袋だけだった。
左手の手袋は、いつか失くした。どこで失くしたのかも覚えていない。片方だけになったそれを、捨てられないまま何年も引き出しに入れていて、今夜、家を出るときに、なぜか右手にだけはめた。理由はない。ただ、最後にひとつだけ、身につけていたかったのかもしれない。何を、とは言えないけれど。
風はなかった。風がないぶん、寒さはまっすぐ落ちてきた。空から、じかに。夜明け前の冷えというのは、日が沈んでからずっと積もってきた冷たさが、いちばん底に沈んで固まったものだ。夜のうちでいちばん暗く、いちばん冷たい刻。橋のたもとの街灯はひとつだけついていて、その光の輪の外は、もう何も見えなかった。
澪子は、欄干に両手をかけた。片方は素手、片方は手袋。冷たさが違った。その違いだけが、まだ自分が生きていることを教えてくれるようで、けれどそれももう、どうでもよかった。
四か月前に、母が死んだ。
長い病気ではなかった。倒れて、運ばれて、三日で逝った。あっけなくて、澪子はまだ、母がいないということが本当のこととして飲み込めずにいた。夜、台所で二人ぶんの茶碗を出しかけて、手が止まる。朝、洗濯物を干しながら、母の下着を探してしまう。そのたびに、ああ、と思う。ああ、いないのだ、と。その「ああ」が、日に何度も、小さな刃のように胸を刺した。
父は澪子が幼いころに家を出ていた。きょうだいはない。母と娘の、二人きりの家だった。狭いけれど、あたたかい家だった。母は口数の少ない人で、けれど澪子が学校でつらいことがあった日には、決まって甘いものを食卓に出した。おはぎ、みたらし団子、あんこの入ったパン。何も聞かずに、ただ甘いものを出して、自分も向かいで黙って食べた。それが母の、言葉のかわりだった。
小学校で、いじめられた時期があった。澪子は誰にも言えなかった。言えば母を心配させると思ったし、母は工場の夜勤で疲れていて、そのうえ娘のことまで背負わせたくなかった。けれど母は、たぶん、気づいていた。ある晩、学校から帰ると、食卓に、あたたかいおしるこが置いてあった。湯気の立つ、餅の入ったおしるこ。母は何も聞かなかった。ただ、食べなさい、とだけ言った。澪子は、その甘さを喉に通しながら、こらえていた涙を、こぼした。母は向かいで、自分のぶんのおしるこを、黙って食べていた。それだけで、澪子は、また明日、学校に行けるような気がしたのだった。
甘いものは、母の手のひらだった。言葉にできないやさしさを、母は、いつも甘さにして、澪子に差し出した。そうやって、澪子は、生きてきた。母のつくる甘さで、幾つもの暗い夜を、こえてきた。
母が死んでから、澪子は甘いものが食べられなくなった。喉を通らない。口に入れると、なぜか涙が出た。甘さを感じたとたん、そこに母がいないことが、あまりにもはっきりと分かってしまうからだった。甘いものは、もう、母の手のひらではなかった。ただ、母がいないという事実を、いっそう深く教える、冷たい欠落でしかなかった。
仕事も辞めた。正確には、辞めさせられた。忌引きのあと、どうしても朝、起きられなくなって、無断で休む日が続いた。上司はさいしょ心配してくれたが、やがて呆れ、最後には静かに引導を渡した。仕方のないことだと澪子も思った。自分が同じ立場でも、そうしただろう。
貯えは少しあった。けれど、それが尽きたときのことを考えると、息ができなくなった。三十四歳。独り。仕事もなく、家族もなく、これから先の長い長い時間を、たった独りで、あの二人ぶんの茶碗のある部屋で、いったいどうやって生きていけばいいのか。
眠れない夜が続いた。眠っても、母の夢を見て、目が覚めると母はいなくて、その落差に、いっそ眠らないほうがましだと思うようになった。夜が、こわかった。夜のなかにいると、自分がだんだん薄くなっていくような気がした。誰にも見られず、誰にも触れられず、このまま薄くなって、消えてしまうのではないか、と。
友人と呼べる人は、いなかった。もともと澪子は、人と深くつきあうのが苦手だった。母がいれば、それでよかったから。母さえいれば、ほかに誰もいらなかった。その母が、いなくなった。そうしてはじめて、澪子は、自分がこの世界に、たった一本の細い糸で、かろうじて繋がれていただけだったことを知った。そして、その糸は、もう、切れてしまっていた。
昼と夜の区別が、つかなくなった。カーテンを閉めきった部屋で、澪子は、時間が溶けていくのを、ただ眺めていた。食べることも忘れた。気づけば体重が、ずいぶん減っていた。鏡のなかの自分は、頬がこけて、眼だけが大きく、まるで、幽霊のようだった。ああ、私はもう、半分、あちら側にいるのだ、と澪子は思った。母のいる、あちら側に。
そして今夜、澪子は消えることにした。
薄くなって消えるのを待つよりも、自分で終わらせるほうが、まだしも自分の手の内にあるような気がした。それがせめてもの、自分に残された最後の選択のように思えた。
家を出るとき、ふしぎと悲しくはなかった。むしろ、静かだった。長いあいだ、胸のなかで鳴りつづけていた雑音が、ようやく止んだような。ああ、もういいのだ、もう頑張らなくていいのだ、と思うと、肩から力が抜けた。その軽さのまま、澪子はこの橋まで歩いてきた。
欄干に手をかけたまま、澪子は空を見上げた。
なぜ見上げたのか、自分でも分からない。最後に、地面ではなく空を見たかったのかもしれない。
空は、晴れていた。夜明け前の、雲ひとつない空。星がたくさん出ていた。街の灯りが少ない、川沿いのこのあたりは、思いのほか星がよく見えた。冬の星は、どれも鋭かった。凍った針の先のように、ひとつひとつが冷たく尖って光っていた。
そのなかに、ひとつだけ、色の違う星があった。
蒼い星だった。ほかの星がみな白く尖っているなかで、その星だけが、深い蒼をたたえて、しかもいちばん強く光っていた。まるで、いちばん暗いこの刻を待っていたかのように。闇が濃ければ濃いほど、その蒼はいよいよ冴えて、澄んで、天のいちばん高いところで、静かに燃えていた。
尾が、あった。
かすかに、けれどたしかに、その星の後ろには、蒼白い光の帯が長くたなびいていた。彗星だ、と澪子は思った。いつだったか、テレビで見た。何十年かに一度、この空にやってくるという星。名前は――ミラ、といったか。
母と、見たことがあった。
澪子がまだ小さいころ、母が夜中に起こしてくれたのだ。眠い眼をこすりながら、母に手をひかれてベランダに出た。寒かった。母は自分の首に巻いていたマフラーを、澪子の首に巻いてくれた。そして、あれよ、と空を指さした。ほら、蒼いお星さま。あれはね、ずうっと遠くから、何十年もかけて、この空まで会いに来てくれるのよ。今日を逃したら、次に会えるのは、あんたがおばあさんになるころ。
あの星はね、と母は言った。いちばん暗い夜に、いちばん、きれいに見えるの。まわりが明るいと、負けてしまって、見えないのよ。でもね、暗ければ暗いほど、あの星は、負けないで、いちばん、強く光るの。だからね、澪子。あんたも、いつか、暗い夜が来たら、あの星を、思い出しなさい。いちばん暗いときにこそ、いちばん、光るものが、あるんだって。
だから、よおく見ておきなさい。
母のその声が、いま、耳の奥ではっきりとよみがえった。よおく見ておきなさい。あのとき母がひいてくれた手の、あたたかさまで。
澪子の眼から、涙がこぼれた。
それは、家を出てからはじめての涙だった。あれほど静かだった胸のなかが、その蒼い星ひとつで、急にざわめきだした。会いに来てくれた、と思った。あの星は、母が一度だけ見せてくれたあの星は、いま、この夜明け前のいちばん暗い空に、また会いに来てくれた。そして自分は、それを最後に見ながら、この橋から――
だめだ、と澪子は思った。星を見てはいけなかった。空を見上げてはいけなかった。地面だけを見て、何も考えず、そのまま欄干を越えるつもりだったのに。星ひとつで、自分の決心がこんなにも揺らぐことが、澪子は悔しくて、情けなくて、いっそう激しく泣いた。
欄干を握る手に、力をこめた。片方の、素手のほうに。
「よく冷えますね」
声が、した。
澪子はびくりとして、涙で濡れた顔を上げた。
橋のたもとの街灯の下に、人影がひとつ、立っていた。小柄な、年老いた男の人だった。厚手のジャンパーを着て、毛糸の帽子を目深にかぶっている。片手に、大きな懐中電灯を持っていた。その足もとには、白い犬が一匹、ちょこんと座って、澪子のほうを見上げていた。
犬の散歩、なのだろう。こんな時間に、と澪子は思い、けれど、こんな時間に橋の上に立っている自分のほうがよほど、と思い直した。
老人は、澪子のほうへ、ゆっくりと歩いてきた。急がず、あわてず、ただ散歩の途中でたまたま人に出くわしたというふうに。近づいてくると、その顔には深い皺が刻まれていて、けれど眼だけは、暗がりのなかでも、おだやかに澄んでいた。
「この時間はねえ」と老人は、澪子の隣、少し離れたところで欄干に手をかけた。「一日でいちばん、冷えるんですよ。日が沈んでからの冷たさが、みんなこの刻に降りてくる。だからいちばん寒い。でもね」
老人は、空を見上げた。
「いちばん寒いってことは、いちばん夜明けに近いってことなんですわ」
澪子は、何も言えなかった。この老人が、自分の何を見て取っているのか、分からなかった。何も知らずに、ただ通りすがりに世間話をしているだけかもしれない。それとも――澪子は、とっさに顔をそむけて、涙を拭った。
いちばん暗いってことは、いちばん夜明けに近いってことなんですわ。
その言葉が、澪子の胸の奥に、小石のように、落ちて、沈んだ。そんなこと、澪子には、どうでもよかった。夜明けなんて、来なくていい。もう、朝なんて、いらない。朝が来れば、また、あの二人ぶりの茶碗のある部屋で、独りきりの一日が、始まってしまう。母のいない朝が、また一つ、増えるだけだ。だから澪子は、夜明けの前に、夜のいちばん暗いところで、終わりにしたかった。朝を、迎えたくなかった。
けれど、この老人は、まるで、そんな澪子の心を知ってか知らずか、夜明けの話を、した。いちばん暗いことは、いちばん夜明けに近いことだと。その言葉が、澪子の耳に、こびりついて、離れなかった。
老人は、澪子の様子には気づかないふりをしているのか、本当に気づいていないのか、のんびりと言葉を続けた。
「うちの犬がね、この時間になると、どうしても散歩に行きたがるんですよ。困ったもんでね。年寄り同士、眠りが浅いのかもしれません。おかげで、私も毎晩この時間に、ここを通るんです」
足もとの白い犬が、くうん、と小さく鳴いた。
「見ましたか」と老人が言った。「あの、蒼い星」
澪子は、思わず空を見上げた。あの星が、まだそこにあった。ほかのどの星よりも冴えて、蒼く、静かに燃えていた。
「彗星ですわ」と老人は言った。「ミラっていうそうです。何十年かに一度しか、来ない。私は前に見たのは、まだ女房が生きてたころだったな。もう、四十年も前だ」
女房、という言葉に、澪子の胸が小さく動いた。
「ふしぎなもんでね」と老人は、星を見上げたまま言った。「あの星が、いちばんよく見えるのは、いちばん暗い、いまくらいの刻なんです。まわりが明るいと、かき消されて見えん。暗ければ暗いほど、はっきり見える。まるで、暗いのを待っとったみたいにね」
澪子は、その言葉を、胸の奥で聞いた。暗いのを待っとったみたいに。
「あなた」と、老人がふいに言った。声の調子は、変わらなかった。おだやかなままだった。「もしよかったら、あったかいもの、飲みませんか」
老人は、肩から下げた古い布の鞄から、金属の水筒を取り出した。
「女房がね」と老人は、水筒の蓋をゆっくりと回しながら言った。「毎晩、私が散歩に出るときに、これを持たせてくれてたんです。冷えるからって。もう、女房はおらんのですがね。習慣ってのは、なかなか抜けんもんで。私、いまでも毎晩、自分で入れて、持って出るんですわ」
蓋がカップになっていた。老人はそこに、水筒の中身を注いだ。湯気が、暗がりのなかに、白く立ちのぼった。甘い香りがした。生姜と、蜂蜜の匂い。
「生姜湯ですわ」と老人は、そのカップを、澪子のほうへ差し出した。「蜂蜜を、たっぷり入れてね。あったまりますよ」
澪子は、動けなかった。受け取ることも、断ることもできず、ただ立ちすくんでいた。
甘いもの。母が死んでから、喉を通らなくなった、甘いもの。それを、この見知らぬ老人が、いま、差し出している。
「遠慮せんでいい」と老人は言った。「こんな時間に、こんな寒いところに立っとる者同士だ。あったかいもんを分け合うのに、遠慮なんかいらんですわ」
老人の声には、押しつけがましさが、まるでなかった。飲みなさい、と命じるのでもなく、飲まないと心配だ、と責めるのでもない。ただ、そこに、あたたかいものがあって、あなたも寒いだろうから、どうぞ、と差し出す。それだけだった。その、なんの計算もない、ただの、素朴なやさしさが、かえって、澪子の、かたくなに閉じていた心を、そっと、押し開いた。
その言葉に、澪子の手が、動いた。
欄干から手を離し、そのカップを、両手で受け取った。片方は素手、片方は手袋。カップの熱が、素手のほうに、じんと沁みた。冷えきっていた指先が、その熱で、痛いくらいだった。ああ、あたたかい、と澪子は思った。四か月ぶりに、そう思った。あたたかい、と。
「どうぞ」と老人が言った。
澪子は、そのカップを口に運んだ。
甘かった。生姜のぴりりとした辛さの奥に、蜂蜜のまろやかな甘さがあって、それが喉を通って、胃の底まで、あたたかく落ちていった。喉が、通った。四か月ぶりに、甘いものが、喉を通った。
そのとたん、澪子の眼から、また涙があふれた。こんどは、止まらなかった。声を殺して、けれど肩をふるわせて、澪子は泣いた。カップを両手で握りしめたまま、その湯気に顔をうずめるようにして、泣いた。
老人は、何も言わなかった。急かすことも、慰めることもせず、ただ、澪子が泣きやむのを、隣で静かに待っていた。足もとの白い犬も、じっとしていた。川の音だけが、暗がりの底で、静かに流れていた。
その、待つという姿に、澪子は、母を思った。母も、こんなふうだった。澪子が泣くとき、母は、決して急かさなかった。よしよし、と背中をさすることもしなかった。ただ、そばにいて、澪子が泣きやむのを、静かに、待っていた。泣いていいのよ、とも言わなかった。言葉は、なかった。ただ、そばにいる、ということ。それが、母のやり方だった。そして、いま、この見知らぬ老人が、同じことを、していた。この寒い、夜明け前の橋の上で、見ず知らずの自分のために、ただ、そばにいて、待っていてくれる。
その、名もない、あたたかさが、澪子の心の、いちばん凍てついた芯のところを、じわじわと、溶かしていった。
「母が」と、澪子は、泣きながら言った。自分でも、なぜそんなことを言うのか分からなかった。ただ、言葉が、あふれる涙といっしょに、こぼれて出た。「母が、死んだんです。四か月前に。甘いものが、好きな人で。私がつらいと、いつも甘いものを、出してくれて。だから私、母が死んでから、甘いものが、食べられなくなって」
言葉は、途切れ途切れだった。けれど老人は、うなずきながら、その一つひとつを、聞いていた。
「そうですか」と老人は言った。それだけだった。そうですか、と。
「もう」と澪子は言った。「もう、疲れて。生きているのが、疲れて。母もいなくて、仕事もなくて、この先、どうやって生きていけばいいのか、分からなくて。だから、私」
そこまで言って、澪子は言葉を止めた。だから、私。その先を、言葉にすることが、できなかった。けれど、言わずとも、この老人には、もう分かっているのだろうと思った。だからこの人は、こんな時間に、この橋の上で、自分に生姜湯を差し出したのだろう、と。
老人は、しばらく黙っていた。それから、欄干にもたれたまま、ぽつりと言った。
「私もね」
澪子は、老人を見た。
「私も、女房が死んだとき、この橋に立ったんですよ」
風が、なかった。老人の声は、静かに、澪子の耳に届いた。
「もう、二十年も前になるかな。女房が死んで、私は、もう生きとる意味がないと思った。子もなくてね、二人きりの暮らしだった。女房が死んで、家に帰っても、誰もおらん。飯を食っても、うまくもなんともない。夜は眠れん。私はね、あなたと同じように、この橋に立ったんです。いまと、おんなじ、夜明け前でね」
澪子は、息をのんだ。
「そのときね」と老人は、空を見上げた。「べつに、あの彗星が出とったわけじゃない。星も、たいして見えん、曇った晩だった。ただね、私が欄干に手をかけたとき、ふいに、思い出したんですわ。女房が、毎晩、私に持たせてくれた、この水筒のことをね」
老人は、手のなかの水筒を、そっと撫でた。
「その晩も、私は、鞄にこれを入れとった。習慣でね。中身は、女房が最後に入れてくれた生姜湯が、まだ入っとった。冷たくなっとりましたがね。私はそれを、橋の上で飲んだんです。冷たい生姜湯を。そうしたらね」
老人の声が、少し、ふるえた。
「なんだか、女房に、叱られとるような気がしてね。あんた、なにしとるの、って。まだ、あたしの生姜湯が残っとるじゃないの、って。ばかばかしい話ですわ。冷たい生姜湯ひとつでね。でも、私は、それで、橋を降りたんです」
老人は、しばらく黙って、川を見おろした。
「女房はね」と老人は続けた。「口やかましい人でしたよ。私が酒を飲みすぎると叱る。夜ふかしすると叱る。冷えるからマフラーをしろ、と叱る。そのくせ、自分は病気を隠しとったんですわ。私に心配をかけまいと思ったんだろうね。気づいたときには、もう、手遅れだった。私はね、それが、悔しくてね。もっと早く気づいてやれなかった自分が、許せなかった。だから、あの橋の上でも、私は、自分を、罰したいような気持ちだったんです」
犬が、くうん、と鳴いた。老人は、その頭を、そっと撫でた。
「でもね、あの冷たい生姜湯を飲んだとき、思ったんですわ。女房は、私を罰してほしいなんて、これっぽっちも、思っとらんだろうって。あの人が最後まで気にしとったのは、私が、ちゃんと、あったかくしとるかどうか、それだけだった。だったら、私にできることは、自分を罰することじゃない。ちゃんと、あったかくして、生きることだ。それが、女房への、いちばんの供養だ。そう、思ったんですわ」
澪子は、手のなかのカップを見た。
まだ、あたたかかった。湯気が、細く、立ちのぼっていた。
母も、そうだったのだろうか、と澪子は思った。母は、澪子に、罰してほしいなんて、思っていないのだろうか。もっと早く病院に連れて行けなかった自分を、母の異変にもっと早く気づけなかった自分を、澪子は、ずっと、責めていた。母が倒れる少し前、疲れた、と母が言ったとき、澪子は、年のせいだよ、と軽く受け流してしまった。あのとき、もっと気にかけていれば。もっと、母を見ていれば。その悔いが、四か月のあいだ、澪子の胸を、休みなく、噛みつづけていた。
けれど、もし、母が、老人の女房と同じなら。もし母が、いまも気にかけているのが、澪子を責めることではなく、ただ、澪子が、ちゃんと、あたたかくしているかどうか、ちゃんと、甘いものを食べているかどうか、それだけなら――。
澪子は、もう一口、生姜湯を飲んだ。あたたかさが、また、喉を通っていった。
「それから」と老人は言った。「私はね、毎晩、自分で生姜湯を入れて、この犬と散歩に出るようになったんです。女房のかわりに、私が、私に、持たせてやる。おかしな話でしょう。でもね、そうやって毎晩、この時間に、この橋を通っとると、ときどき、あなたみたいな人に、出会うんですわ」
澪子は、はっとして、老人を見た。
「一年に、一人か、二人ね」と老人は、静かに言った。「みんな、あなたみたいな顔をして、ここに立っとる。私はね、そういう人に、この生姜湯を、分けてあげるだけです。あとは、なんにも言えん。ただ、あったかいもんを、飲んでもらうだけ。それでも」
老人は、澪子の眼を、まっすぐに見た。皺の奥の、その澄んだ眼で。
「それでも、今まで会うた人はみんな、橋を降りてくれましたよ」
澪子の眼から、また、涙がこぼれた。
「私はね」と老人は、また空を見上げた。「もう年でね。この散歩も、あと何年、続けられるか分からん。だからね、ときどき思うんです。私がいなくなったら、この橋を通る人は、誰が、あったかいもんを分けてあげるんだろう、ってね」
老人は、ふ、と笑った。
「まあ、そのときは、そのときだ。今夜は、私が、おる。それだけのことですわ」
東の空が、わずかに、白みはじめていた。
いつのまにか、あの蒼い彗星の光が、少しずつ、薄れていた。空の縁のほうから、深い藍色が、少しずつ、灰色に、そして淡い青みへと、変わりはじめていた。夜明けが、近づいていた。
「ほら」と老人が言った。「白んできた。いちばん暗い刻を過ぎると、あとはもう、明るくなる一方ですわ。夜明けってのはね、あんまり静かに来るもんだから、うっかりすると、見逃してしまう。でも、ちゃんと、来るんです。毎朝、かならず」
澪子は、東の空を見た。
まだ、太陽は見えなかった。けれど、たしかに、空は白みつつあった。夜のいちばん深い底を、いつのまにか、通り過ぎていた。あれほど濃かった闇が、少しずつ、薄れていく。凍てついていた空気の底に、かすかに、朝の気配が混じりはじめていた。
「あなた」と老人が言った。「そのカップ、持って帰ってくれんかね」
澪子は、老人を見た。
「返しに来てほしいんですわ」と老人は、いたずらっぽく笑った。「私は毎晩、この時間に、ここを通る。だからね、いつでもいい、そのカップを返しに、来てください。あんまり急がんでいい。一週間後でも、一か月後でも、一年後でもいい。あなたが、返しに来られるようになったら、そのときに」
澪子は、手のなかのカップを見つめた。それは、ただの金属のカップだった。けれど、そのなかに、まだ、あたたかいものが残っていた。
「私」と、澪子は言った。声が、かすれた。「私、返しに、来ます」
その言葉を口にしたとき、澪子は、はじめて、明日のことを、口にしていた。四か月ぶりに、明日という日が、自分にもあるのだと、思った。カップを返しに行く、という、たったひとつの、ちいさな約束。それが、澪子を、明日に、繋いだ。今夜を、こえた先の、明日に。
「ええ」と老人は、うなずいた。「待っとります」
「かならず」と澪子は言った。「かならず、返しに来ます。だから」
だから、私は、今夜は、帰ります。
その言葉を、澪子は、口には出さなかった。けれど、老人には、伝わったのだと思う。老人は、ただ、おだやかに、うなずいた。
澪子は、欄干から、離れた。
一歩、後ろへ下がった。それだけのことが、こんなにも重く、こんなにも遠いことだったのかと、澪子は思った。一歩。たった一歩。けれど、その一歩を、澪子は、たしかに、生きるほうへと、踏み出した。
橋の上に立ってから、どれくらいの時間が、たったのだろう。三十分か、四十分か。それとも、もっと短かったのかもしれない。あの、いちばん暗く、いちばん張りつめていた数十分を、この老人の、なんでもない一言と、一杯のあたたかい生姜湯が、そっと、繋ぎとめてくれた。もし、あの一言がなかったら。もし、この老人が、犬を連れて、この橋を通りかからなかったら。澪子は、いまごろ、あの黒い川の底に、いたかもしれない。そう思うと、澪子の足が、震えた。生きているという、そのことの、あまりの、きわどさに。
けれど、澪子は、いま、こちら側に、立っていた。橋の、こちら側に。冷たい欄干の、内側に。生きているほうの、側に。
右手の手袋を、澪子は見た。片方だけの、古い手袋。もう片方は、いつか、どこかで失くした。ずっと、それが、自分のようだと思っていた。片方だけ。相方を失くして、意味をなくして、それでも捨てられずに、引き出しの奥に、独りきりで。
けれど、いまは、少しだけ、違うふうに思えた。片方を失くしても、この手袋は、まだ、手をあたためる。片方だけでも、それは、ちゃんと、手袋だった。意味を、なくしてはいなかった。
「あなた、名前は」と老人が言った。
「澪子です」と澪子は言った。「三沢、澪子」
「みおちゃん、か」と老人は言った。「いい名前だ。水の、澪、と書くのかね。船の通ったあとに残る、水の道のことだ。暗い川面にも、ちゃんと、道は残るんですわ」
澪子は、その名の由来を、はじめて、母以外の人の口から聞いた。母は、澪子が生まれたとき、この名をつけた理由を、一度だけ、話してくれたことがあった。あんたが生まれた夜は、川のそばの病院でね、窓から、夜の川が見えたのよ。真っ暗だった。でも、そこに、月の光の道が、一本、まっすぐに伸びててね。こんなに暗いのに、ちゃんと、光の道がある。あんたにも、そういう道が、いつでも見えますようにって。そう思って、澪、ってつけたの。
暗いのに、ちゃんと、光の道がある。母のその言葉が、いま、この夜明け前の橋の上で、澪子の胸に、しずかに、よみがえっていた。
澪子は、川を見た。あれほど真っ暗だった川面が、白みはじめた空を映して、かすかに、光りはじめていた。黒一色だったそこに、いま、細い、銀色の筋が、いくつも走っていた。まるで、無数の、澪のように。暗い水の上を通り過ぎていった、無数のものたちの、残していった、光の道のように。
「私は、藤田といいます」と老人は言った。「藤田、和一。この、犬は、ハナといいます」
足もとの白い犬が、ハナ、と呼ばれて、しっぽを一度、ぱたりと振った。
帰りぎわに、藤田老人は、鞄のなかを探って、小さなものを取り出した。
「これを、持っていきなさい」
それは、青い、マッチ箱だった。
「月光堂の、マッチですわ」と老人は言った。「もう、店はとうの昔になくなってしまったが。私は、これを、まだ大事に持っとるんです。女房が、好きでね。台所の、火をつけるのに、いつも、これを使っとった」
澪子は、その青いマッチ箱を、受け取った。ふるびて、角がすり切れていたが、青い色は、まだ、あざやかだった。
「暗いときにはね」と老人は言った。「マッチを、一本、擦るといい。ちいさな火でもね、あるとないとじゃ、大違いですわ。私は、女房が死んでからずっと、暗い夜には、これを一本、擦ってきた。それだけで、なんだか、女房が、そばにおるような気がしてね」
澪子は、そのマッチ箱の蓋を、そっと開けた。なかには、まだ、何本かのマッチが残っていた。赤い頭の、細いマッチ。
一本を、取り出した。そして、箱の横で、擦った。
しゅっ、と音がして、ちいさな火が、灯った。
夜明け前の、まだ薄暗い空気のなかで、その火は、いっしんに、燃えた。赤く、あたたかく、ちいさく。風がないから、火は、まっすぐに、立ちのぼった。澪子は、その火を、じっと見つめた。手のひらほどの、その、ちいさな明かりを。
あるとないとじゃ、大違い。
ほんとうに、そうだった。この、ちいさな火ひとつが、いま、澪子の手のなかで、たしかに、あたたかかった。
この、ちいさな火が、と澪子は思った。この、指先ほどの、たよりない火が、それでも、闇のなかに灯れば、まわりのものを、ぼんやりと、照らしだす。老人の、皺の刻まれた顔を。足もとの、白い犬の毛並みを。そして、澪子自身の、涙で濡れた手のひらを。ほんの、わずかなあいだ。けれど、たしかに。
人の、やさしさも、こういうものかもしれない、と澪子は思った。この老人がくれたものは、大きな救いではなかった。ただ、一杯の生姜湯と、なんでもない一言。マッチ一本ほどの、ちいさなもの。けれど、それが、いちばん暗い刻に灯れば、澪子の、凍てついた心を、たしかに、照らした。あるとないとじゃ、大違い。ほんとうに、そのとおりだった。
火は、やがて、マッチの軸を伝って、指のほうへ、近づいてきた。澪子は、そっと、息を吹きかけて、それを消した。細い煙が、ひとすじ、立ちのぼって、白みはじめた空へ、消えていった。けれど、消えたのは、火だけだった。その火が灯した、あたたかさは、澪子の胸のなかに、消えずに、残っていた。
東の空が、いよいよ、明るくなっていた。
雲の縁が、うっすらと、金色に染まりはじめていた。まだ、太陽は昇っていない。けれど、その光は、たしかに、地平の向こうから、届きはじめていた。夜のいちばん暗い底を、澪子は、いつのまにか、通り過ぎていた。あの、蒼い彗星は、もう、明るくなった空に溶けて、見えなくなっていた。
けれど、消えたのではない、と澪子は思った。ただ、明るくなったから、見えなくなっただけだ。あの星は、いまも、あの高いところで、蒼く、静かに、燃えている。次に、この空がいちばん暗くなる夜まで、ずっと。そして、いちばん暗いその刻に、また、いちばん冴えて、光るのだ。会いに来てくれるのだ。
「さて」と藤田老人は言った。「ハナも、そろそろ、腹が減ったころだ。帰りますかな」
老人は、犬のリードを、そっと引いた。ハナが、立ち上がった。
「じゃあ、澪子さん」と老人は言った。「また、いつでも。カップを、返しに」
「はい」と澪子は言った。「かならず」
老人は、片手を、軽く上げた。そして、犬を連れて、橋のたもとの、街灯の下を、ゆっくりと、歩いていった。その背中が、白みはじめた朝の光のなかへ、少しずつ、遠ざかっていった。
澪子は、その背中を、見送った。
見えなくなるまで、見送った。
それから、澪子は、自分の手のなかを、見た。片方は、金属のカップ。まだ、ほんの少し、あたたかかった。片方は、青いマッチ箱。そして、その、両方の手を、澪子は、そっと、胸に、抱いた。
家までの道を、澪子は、ゆっくりと歩いた。
来たときとは、違う道のように思えた。同じ道のはずなのに。街は、まだ、眠っていた。けれど、空は、刻一刻と、明るくなっていた。冷たい空気の底に、朝の匂いが、たしかに、混じっていた。パンを焼く匂い。どこかの家の、台所の匂い。人が、目を覚まし、また新しい一日を、はじめようとしている、その匂い。
歩きながら、澪子は、小さな声で、口ずさんでいた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
それは、母が、澪子が幼いころに、毎晩、歌ってくれた子守唄だった。ずっと、忘れていた。母が死んでから、一度も、思い出さなかった。それが、いま、ふいに、口をついて出た。あの、彗星を見たからかもしれない。ずうっと遠くから、何十年もかけて、この空まで、会いに来てくれる、蒼い星。星が、海を、わたるまで。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。眠れ、眠れ、朝が扉をたたくまで。母の歌は、いつも、二番まであった。星が海をわたって、そうして、朝が、扉をたたく。眠っているあいだに、いちばん暗い夜は、いつのまにか過ぎ去って、朝が、そっと、扉をたたきに来る。子どもの澪子は、その歌を聞きながら、いつも、朝が扉をたたく前に、眠りに落ちた。そして、目を覚ますと、もう、朝だった。夜のいちばん暗いところを、母の歌が、そっと、こえさせてくれていたのだ。
いま、澪子は、その二番まで、歌った。誰もいない、明けはじめた街の道で。小さな、けれど、たしかな声で。
眠れ、眠れ。母の声が、耳の奥で、歌っていた。あのベランダで、澪子の首に、自分のマフラーを巻いてくれた、あの夜の、母の声で。その声は、もう、澪子を責めていなかった。ただ、やさしく、あたたかく、澪子を、朝のほうへ、送り出していた。
澪子は、泣きながら、歩いた。けれど、それは、来たときの涙とは、違う涙だった。凍りついた涙ではなく、溶けはじめた涙だった。春の、雪解けのような。長い冬の底で凍りついていたものが、ようやく、溶けて、流れだしたような、そういう涙だった。
家に着いたのは、すっかり夜が明けたころだった。
澪子は、鍵を開けて、部屋に入った。机の上に、財布と、鍵と、電話が、出てきたときのまま、きちんと並んでいた。それを見て、澪子は、少し、笑った。ばかみたいだ、と思った。あんなに、きちんと、並べて。
台所に、行った。二人ぶんの茶碗が、まだ、そこにあった。母のと、自分の。澪子は、それを、しばらく見つめた。それから、母の茶碗を、そっと、手に取った。もう、割るのはよそう、と思った。しまうのもよそう。ただ、このまま、置いておこう。母が、そこにいたことの、しるしとして。
四か月のあいだ、澪子は、その茶碗を、見るのがつらかった。見るたびに、母がいないことを、思い知らされたから。けれど、いまは、少しだけ、違った。この茶碗は、母がいないことのしるしではなくて、母がいた、ということの、しるしなのだ。母は、たしかに、ここにいた。この茶碗で、毎朝、いっしょに、ご飯を食べた。その、たしかな時間が、あったのだ。それは、母が死んでも、消えることはない。誰にも、奪えない。澪子は、そのことに、いまはじめて、気づいたような気がした。
母がいなくなったのではなく、母は、たしかに、いた。その差は、小さいようで、澪子にとっては、生と死ほどの、大きな差だった。
それから、澪子は、やかんに、水を入れて、火にかけた。
青い、月光堂のマッチで、コンロの火を、つけようとして――けれど、澪子のコンロは、自動点火の、新しいものだった。マッチは、いらなかった。澪子は、少し、笑った。そして、その青いマッチ箱を、母の茶碗の隣に、そっと、置いた。
お湯が、沸いた。
澪子は、戸棚の奥から、蜂蜜の瓶を、探し出した。ずっと、使っていなかった。生姜は、なかった。けれど、蜂蜜だけでも、と思った。お湯に、蜂蜜を、たっぷりと、溶かした。甘い、あたたかい匂いが、台所に、ひろがった。
その、蜂蜜湯を、澪子は、あの、藤田老人にもらった、金属のカップに、注いだ。
そして、一口、飲んだ。
甘かった。あたたかかった。喉を、すうっと、通っていった。
窓の外は、すっかり、明るくなっていた。冬の朝の、澄んだ、青い空。あの、蒼い彗星が燃えていた、いちばん暗い刻の空の、そのつづきの空。同じ空だった。夜のいちばん暗い底も、この明るい朝も、みんな、ひとつづきの、同じ空だった。
澪子は、カップを、両手で、握りしめた。
このカップを、返しに行こう、と思った。一週間後でも、一か月後でも、一年後でもいい。けれど、かならず、返しに行こう。あの橋の上で、生姜湯を差し出してくれた、あの老人に。そして、もし、いつか、あの老人がいなくなって、あの橋を通る人が、誰もいなくなったら――そのときは、私が、行こう。私が、あの橋を、毎晩、通ろう。あったかいものを、鞄に入れて。
そうして、あの橋の上で、いちばん暗い夜明け前に、独りで立っている、誰かに、出会ったら。
私は、その人に、言うのだ。
よく冷えますね、と。
窓辺に、朝の光が、さしこんでいた。
その光のなかで、澪子は、右手の手袋を、そっと、脱いだ。片方だけの、古い手袋。それを、しばらく、手のひらの上で、見つめた。
失くした、もう片方の手袋のことを、澪子は、思った。どこで、失くしたのだろう。もう、思い出せない。けれど、いい、と思った。片方は、どこかにある。この世の、どこかに。私が、失くした、その片方は、いまも、どこかで、誰かの手を、あたためているのかもしれない。あるいは、まだ、暗い引き出しのなかで、独りきりで、待っているのかもしれない。
いつか、と澪子は思った。いつか、その片方に、会えるだろうか。会えないかもしれない。たぶん、会えないだろう。
けれど、それでも、この手袋は、片方だけでも、ちゃんと、手袋だった。ちゃんと、手を、あたためた。
澪子は、その手袋を、青いマッチ箱の、隣に、置いた。母の茶碗と、マッチ箱と、片方だけの手袋。それらが、朝の光のなかで、静かに、並んでいた。
やかんの、残りのお湯で、澪子は、蜂蜜湯を、もう一杯、作った。
そして、母の茶碗の前に、それを、そっと、供えた。
「おかあさん」と、澪子は言った。「私、甘いもの、飲めたよ」
言いながら、澪子は、また、泣いた。けれど、こんどの涙には、あの、刃のような痛みは、なかった。ただ、あたたかいものが、胸の奥から、あふれて、こぼれた。
「おかあさん、ごめんね」と澪子は言った。「もっと、早く、気づいてあげられなくて。もっと、そばにいてあげられなくて。それから――」
それから、と澪子は、声をつまらせた。
「それから、ありがとう。たくさん、甘いものを、つくってくれて。あの甘さが、あったから、私、今日まで、生きてこられた。今夜も、あの、生姜湯の甘さで、私、生きるほうに、戻ってこられたよ」
返事は、なかった。けれど、澪子には、聞こえたような気がした。あの、口数の少ない母の、そうかい、という、短い、けれど、あたたかい、返事が。よかったね、澪子。あんたが、生きてて、よかった。母は、きっと、そう言っている。澪子を責めるのではなく、ただ、澪子が、いま、生きていることを、あちらの空から、蒼い星のあたりから、静かに、喜んでいる。
窓の外で、鳥が、鳴いた。冬の朝の、澄んだ、鳴き声だった。夜は、明けていた。いちばん暗く、いちばん冷たかった刻を、澪子は、生きて、こえていた。そして、これから始まる、長い、長い、一日を、澪子は、独りではあるけれど、独りきりではなく、生きていくのだろう、と思った。
あの、金属のカップを、返しに行くまでは。すくなくとも、それまでは。
そう思うと、澪子の胸に、ひとすじ、あたたかいものが、灯った。あの、マッチの火のような。ちいさな、けれど、たしかな、火が。
いちばん暗い刻に、いちばん冴えて光る、あの蒼い星のように――闇が濃ければ濃いほど、その光は、いよいよ澄んで、たしかに、そこに、在るのだった。