九十分の夜
九十分の夜
九十分に一度、地球が明ける。
その夜明けを、遥は今日で何度見ただろう。指では足りない。もう手のひらでも足りない。滞在百七十二日目の朝——正確には、二千七百五十回目あたりの朝が、いままた窓の外にやってこようとしていた。
観測モジュール「キューポラ」の内部は、いつも薄闇に沈んでいる。地球を見るには、室内を暗くしておくのがいい。計器の緑や琥珀の点滅が、遠くの町の灯のようにまばらに光り、その奥に、七枚の窓に切り取られた宇宙が広がっている。彼女はそこに、逆さまに浮かんでいた。上も下もない場所では、逆さまという言葉さえ意味を失う。ただ、足を天井の握りにひっかけ、両手を胸の前で組んで、彼女は地球の縁を見つめていた。
いま、眼下は夜だった。太平洋のどこか。海は闇に溶けて見えず、雲の重なりだけが、うっすらと星明かりを吸って灰色に浮かんでいる。ときおり、その灰色の下で、稲妻が音もなく走る。嵐の腹のなかで、光がひとつ、またひとつ、こもった鼓動のように明滅する。声は届かない。ここには、音というものがほとんどない。ステーションの機械が立てる、低い、絶え間ない唸りをのぞいては。
その静けさが、遥はときどき怖くなる。
夜明けは、いつも同じ場所からやってくる。
地球の弧の、いちばん向こう。夜と昼の境目を、彼女たちは「ターミネーター」と呼ぶ。終わらせる者、という物騒な名前の、その線。だが軌道の上から見るそれは、なにかを終わらせるようには見えない。むしろ、始めるための線だ。
まず、地球の縁が、ほんのわずかに色を持つ。黒でも紺でもない、深い藍が、弧に沿って一本の細い帯になる。それが数秒のうちに、藍から群青へ、群青から青へと明るさを増していく。青の帯の上には、さらに薄い水色が乗り、その上に、燃えるような赤と橙の一本が引かれる。虹の順序を、誰かが丁寧に、地球の縁に並べていくかのように。
そして——夜明けの線が、走る。
青白い光の刃が、地表を撫でて広がっていく。海が、まず銀に光る。雲が、下から照らされて、金の縁取りを持つ。大陸の輪郭が、闇のなかから彫り出されるように現れる。九十分ぶんの夜が、たった十数秒で、一気にほどけていく。
遥は、その最初の一瞬に、いつも息を止めてしまう。
地上にいたころ、彼女は夜明けを、時間だと思っていた。四時半、五時、五時半。じわじわと空が白んで、気づけば朝になっている。夜と朝の境目がどこなのか、地上では誰にも分からない。けれどここでは、境目は線だ。目に見える、触れられそうな、青白い一本の線。夜と朝は、地続きではなく、隣り合わせだった。闇のすぐ隣に、いつも光が待っている。
そのことを、彼女は軌道の上ではじめて知った。
一日は、二十四時間ではなかった。
このステーションでは、時間の単位は「周回」だった。地球を一周するのに、九十二分。太陽の側を四十六分、影の側を四十六分。それを、一日に十六回、繰り返す。十六の昼と、十六の夜。地上のたったの一日で、遥は、地上のほぼ半月ぶんの朝を、迎えていることになる。
そのことを、はじめのころ、彼女は数字として、頭で理解していた。訓練でも、繰り返し教えられていた。だが、実際にこの高度で、九十分ごとに窓の外が明滅するのを体験してみると、それは数字ではなくなった。時間そのものが、地上とは違う速さで、違うかたちで、流れているように感じられた。
体は、混乱した。滞在の最初の一週間、遥はほとんど眠れなかった。まぶたを閉じても、九十分ごとに、窓の隙間から光が差しこむ。夜だと思って眠りにつくと、四十六分後には、もう朝だった。体内の時計は、たちまち意味を失った。何度目かの「朝」に、彼女は、いま自分が起きるべきなのか眠るべきなのか、まったく分からなくなって、金属の壁のなかで、途方に暮れた。
それでも、人は慣れる。三週間もすると、遥は、決められた時刻に眠り、決められた時刻に起きられるようになった。アイマスクをして、耳栓をして、寝袋に体を固定して。九十分ごとの夜明けを、体は無視することを覚えた。けれど、心は、無視しなかった。眠る前の、わずかな時間。彼女はしばしば、寝袋から抜け出して、キューポラへ向かった。そこで、一度だけ、その周回の夜明けを見て、それから眠りについた。まるで、朝に挨拶をしてから眠るように。
慣れる、ということは、失うことでもあった。
はじめのころの、あの、時間が壊れていくような感覚。それは苦しかったけれど、同時に、鮮烈だった。すべてが新しく、すべてが恐ろしく、すべてが美しかった。慣れるにつれて、その鮮烈さは、少しずつ薄れていった。夜明けは、日常になった。二千七百五十回目の夜明けは、一回目の夜明けほどには、彼女を打ちのめさなかった。
けれど、とヴィクトルは言ったのだった。四千回見ても、四千一回目は、また新しい、と。
遥は、その言葉を、信じたかった。慣れることで失うものの奥に、それでも失われないなにかが、あるのだと。同じ夜明けは、ひとつもないのだと。
「起きてるのか」
耳のなかで、低い声がした。真下——というのも地上の言い方だが——別のモジュールにいる船長のヴィクトルだ。無線ごしの声は、いつも少しだけ眠そうに聞こえる。
「ええ。夜明けを見てました」
「何度目だ、それ」
「数えるのはやめました」
ヴィクトルが、鼻で笑うような音を立てた。彼はもう三度目の長期滞在で、通算すれば六百日近くをこの高度で過ごしている。夜明けなら、四千回以上見ているはずだった。それでも彼は、遥が窓に張りついているのを、一度も揶揄したことがない。
「見飽きないだろう」と、彼は言った。「俺も飽きない」
「船長でも?」
「四千回見ても、四千一回目は、また新しい」低い声が、少し柔らかくなる。「不思議なものだ。同じ夜明けは、ひとつもない」
無線が、かすかな雑音とともに切れた。遥はもう一度、窓のほうへ視線を戻す。夜明けの線は、すでにアフリカ大陸の東を舐めていた。ナイルの一筋が、朝日を受けて、細い水銀のように光っている。その光の帯の両側に、まだ夜が残っている街々の灯が、ぽつぽつと消え残っていた。人が、そこにいる。何億もの人が、いま目を覚まし、あるいはまだ眠っている。彼女はその、ひとりひとりを思うことはできない。ただ、その全体を、手のひらほどの大きさで、見下ろしている。
見下ろす、という言葉も、ここでは正しくない気がした。彼女は地球を、見上げているようにも感じる。あんなにも大きく、あんなにも美しいものを、自分は上から見ているのだろうか。それとも——
描かれた地球
滞在の荷物には、一枚の紙が入っていた。
規定の私物の重量は、ほんのわずかしか許されていない。歯磨き粉ひとつぶん、写真一枚ぶんの重さにも、地上では気の遠くなるような費用がかかる。それでも遥は、たった一枚の絵を、折りたたんで持ってきた。
娘の、そらの絵だった。
出発の前の夜、そらは食卓で、クレヨンを握りしめて何かを描いていた。六歳の、まだ小さな手だった。遥が覗きこむと、そらは絵を胸に隠して、「まだ見ちゃだめ」と言った。翌朝、玄関で、彼女はその絵を母の手に押しつけた。「宇宙に持っていって」と。
青い丸。それが地球だった。まわりに、黄色い点がいくつも散らばっている。星だ。地球の上には、小さな棒人間がひとつ、旗を持って立っている。「これ、ママ」と、そらは言った。そして地球の隅に、もうひとつ、小さな家が描いてあった。三角屋根の、窓のある家。その窓の奥に、点がふたつ並んでいる。「これは、そらとパパ。おうちで待ってるの」
遥はその絵を、キューポラの壁に、規定のテープで留めていた。窓の、いちばん隅。本物の地球の弧が、絵の青い丸のちょうど隣にくるように。
出発の朝のことを、遥はよく覚えている。
打ち上げ基地は、内陸の乾いた土地にあった。空は、地上でいちばん高く見える場所のひとつだった。夜明け前、まだ星の残る空の下で、遥は防護服に身を包み、家族と、最後の別れをした。柵ごしに。触れることは許されなかった。感染症の予防のために、宇宙飛行士は、打ち上げの前の何日かを、隔離のなかで過ごす。だから、娘を抱きしめることは、できなかった。
そらは、柵の向こうで、小さな手を、いっぱいに広げて振っていた。「いってらっしゃい」と、大きな声で言った。その声は、乾いた空気のなかを、まっすぐに届いた。夫が、娘の肩に手を置いていた。母が、その隣で、ハンカチを握りしめていた。遥は、防護服の分厚い手袋ごしに、柵を握って、家族に手を振り返した。手袋のなかの指は、震えていた。
「絵、見た?」と、そらが叫んだ。
「まだ」と、遥は答えた。「宇宙で、見るね」
「ぜったい、見てね!」
その約束を、遥は、軌道に着いた最初の夜に、果たした。折りたたまれた紙を開いて、彼女は、娘の描いた青い丸を、はじめて見た。そして、窓の外の、本物の青い丸を見た。ふたつは、そっくりだった。そして、まるで違った。娘の青い丸には、家があった。窓があった。ふたつの点があった。本物の青い丸には、それが——見えなかった。見えないだけで、そこにある、と信じるしかなかった。
その夜、遥ははじめて、軌道の上で泣いた。誰にも見られないように、暗いキューポラのなかで、無重力の涙は、頬をつたって落ちることもなく、ただ、目のふちで、丸くふくらんでいった。彼女は、それを、手の甲でそっと拭った。片方だけの、作業用の手袋の、その甲で。
いま、その本物の地球に、夜明けの線が走っていた。そらの描いた青い丸は、静かに壁の隅で、朝を待っている。
娘は、地球のことを、青い丸として知っている。海があって、空があって、そのなかに家があって、家のなかに自分とパパがいる。それが、そらの世界のすべてだった。遥はいま、その世界の全体を、窓ごしに丸ごと見ている。青い丸は、本当に青かった。そらは、見たこともないのに、正しく塗っていた。誰に教わったのだろう。それとも、人は生まれつき、故郷の色を知っているのだろうか。
娘とは、週に一度、映像で話す。
回線の都合で、時間はいつも限られている。画面のなかのそらは、少しずつ大きくなっていく。前歯が一本抜けた。髪が伸びた。話す言葉が、少しずつ増えていく。母がいない半年のあいだに、娘は確実に育っていた。それが、遥にはうれしくもあり、たまらなく寂しくもあった。
「ママ、いま、どこ?」
先週、そらはそう尋ねた。
「宇宙だよ。地球の、ずっと上」
「地球って、まるい?」
「まるいよ。そらの描いてくれた絵の、あの青い丸みたいに」
「ほんとに?」画面のなかの娘は、目を丸くした。「じゃあ、ママ、おうち見える?」
遥は、答えに詰まった。見えない。この高度からでは、家どころか、町も、豆粒ほどの点にしかならない。彼女の暮らしていた町は、夜明けの線が通りすぎるほんの数秒のあいだに、光の帯の下を流れ去っていく、ただの明るみのひとつだった。
「……見えるよ」と、彼女は言った。「ちゃんと、見えてる」
嘘だった。けれど、まったくの嘘でもないと、彼女は思った。家は見えない。町も見えない。それでも、そこに家があることを、彼女は知っている。青い丸のなかのどこかに、三角屋根の家があって、窓の奥に、点がふたつ並んでいる。見えなくても、そこにある。見えないものを、それでもそこにあると信じること。それが、この距離が彼女に教えたことだった。
映像の通話には、遅延があった。
電波が、地上から、中継の衛星をいくつも経て、ステーションまで届くのに、わずかな時間がかかる。声が、少しだけ、遅れて届く。だから、遥と娘の会話は、いつも、ほんの一拍、間があいた。遥が「そら」と呼ぶと、一拍おいて、画面のなかの娘が反応する。娘が「ママ」と言うと、一拍おいて、遥の耳にその声が届く。
その一拍の遅れが、遥には、切なかった。同じ時間を生きているのに、同じ瞬間を、分かち合えない。娘の笑顔が届くころには、娘はもう、次のことを話しはじめている。時間が、ずれている。距離が、時間になって、ふたりのあいだに横たわっている。
けれど、あるとき、遥は気づいた。その一拍の遅れは、光が旅をしている時間なのだと。娘の声を運ぶ電波が、宇宙のなかを、確かに旅をして、この高度まで届いている。その旅の時間が、一拍の遅れになっている。遅れているのではない。届いているのだ。四百キロの距離を越えて、光の速さで、娘の声が、確かに、ここまで来ている。
そう思うと、その一拍が、いとおしくなった。
「ママ」と、娘が言う。一拍おいて、その声が届く。その一拍のあいだ、娘の声は、宇宙を旅している。遥は、その旅を、待つ。待って、受け取る。待つことには、意味がある。彼女は、そのころから、そう思うようになっていた。
眠れ、眠れ
娘は、ひとつだけ、母に頼みごとをした。
「歌、録音していい?」と、出発の前の晩、そらは言った。「ママがいなくても、ねるとき、聞けるように」
遥は、娘の子守唄を録音した。自分が娘に歌ってやる歌ではない。娘が、母のために歌う歌だった。そらは小さな録音機に向かって、少し照れながら、けれど真剣に、歌った。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、朝が扉をたたくまで。
遥の祖母が、遥に歌ってくれた歌だった。その祖母もまた、彼女の母から受け継いだのだという。何代も前から、この歌は、眠れない子のそばで歌われてきた。星が海をわたるまで。朝が扉をたたくまで。いちばん暗い時間を、歌でやり過ごすための、古い呪文のような歌。
遥は、眠れない夜に、それを聞く。
軌道の上では、眠りは難しい。九十分ごとに窓の外が明るくなるのだから、体内の時計は、たちまち狂ってしまう。宇宙飛行士は皆、アイマスクをして、決められた時刻に眠る。だが遥は、しばしば眠れなかった。眠れない夜——といっても、その「夜」がいつなのか、ここでは曖昧だが——彼女はイヤホンを片耳にさして、娘の歌を聞いた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
娘の、少し舌足らずな歌声が、機械の唸りの向こうで、細く、まっすぐに響く。星が海をわたる。ここでは、それは比喩ではなかった。彼女自身が、星のひとつになって、九十分ごとに、海をわたっているのだから。眼下の海を、幾度も幾度も、彼女はわたっていく。娘の歌を聞きながら。
そして、朝が扉をたたく。九十分ごとに、青白い線が、彼女の窓を叩く。
孤独という高度
ステーションには、六人が滞在していた。
国籍はまちまちだった。言葉も、育った土地も、信じるものも違う。それでも、この閉じた金属の器のなかでは、六人は奇妙なほど、ひとつだった。誰かが咳をすれば、全員が気づく。誰かが塞ぎこめば、それも伝わる。狭い場所では、心の気配まで、空気のように共有される。
けれど、遥はときどき、たまらなく孤独になった。
それは、六人のなかにいながらの孤独ではなかった。もっと大きな、地球という球そのものからの距離が生む、静かな孤独だった。窓の外には、四百キロ下に、八十億の人がいる。彼女の娘がいる。夫がいる。母がいる。友がいる。彼女の知るすべての人が、あの青い丸のなかにいる。そして、彼女はそこにいない。
人という存在は、孤独なのだと、彼女は軌道の上で考えるようになった。
この宇宙は、想像もつかないほど広い。何十億光年の彼方まで、闇と、遠い星ばかりが続いている。そのなかで、生命の宿った星は——少なくとも、彼女たちが知るかぎりでは——たったひとつ。あの青い丸だけだった。八十億の人も、無数の獣も、緑の森も、青い海も、すべてがあの一粒に乗っている。ほかには、どこにもいない。宇宙の広さのなかで、あんなにも小さな一粒のなかに、すべてが寄り集まっている。
それは、孤独だった。けれど——
その孤独が、遥にはいとおしかった。
寄り集まっている、ということが。あの小さな球のうえで、八十億の人が、身を寄せ合うように暮らしている。喧嘩をし、憎み合い、それでも同じ大気を吸い、同じ夜明けを迎える。宇宙のこの広大な闇のなかで、光を灯しているのは、あの一粒だけだ。その灯を、彼女はいま、外から見ている。守りたい、と思った。理由もなく、ただ、あの一粒を、守りたいと思った。
夜明けの線が、また、地球を渡っていく。
いま、その線は、ヨーロッパの西岸にさしかかっていた。大西洋の暗い海が、線の手前でまだ眠り、線の向こうで銀に目覚める。海岸線が、ひとつ、またひとつと、朝の側へ渡っていく。遥は、その一本の線を、目で追う。
あの線の下では、いま、無数の人が、夜明けを迎えている。
けれど、地上の人は、この線を見ることはできない。彼らにとって、夜明けは、ゆっくりと空が白むことだ。窓の外がいつのまにか明るくなり、鳥が鳴き、目覚まし時計が鳴る。線として、刃として、走る光としての夜明けを、地上の人は知らない。
遥だけが、それを見ている。六人だけが、それを見ている。
人類のほとんどが知らない夜明けを、いま、この高度で、彼女は見ている。それは、途方もない孤独であり、同時に、途方もない恩寵だった。誰も見たことのない夜明けを、彼女は、あの青い丸のために、代わりに見ているのだ。娘のために。夫のために。母のために。彼女の知る、すべての人のために。
大気の層を、遥は、幾度となく見つめた。
地球の縁を、真横から見ると、大気は、一本の細い層になって見える。青い球の表面に、薄く、ほんの薄く、水色のヴェールがかかっている。その厚みは、地球の大きさに比べれば、りんごの皮ほどもない。それどころか、皮よりも薄いのだと、誰かが言っていた。もし地球がりんごの大きさなら、大気は、そのうえに息を吹きかけたときの、曇りほどの厚みしかない、と。
その、息の曇りほどの薄さのなかに、すべてがある。
八十億の人が呼吸する空気。鳥の飛ぶ空。雲。雨。風。嵐。青い空も、夕焼けの赤も、みんな、その薄いヴェールのなかの出来事だった。そのヴェールの、ほんの少し外側は、もう宇宙だった。真空の、底なしの闇。生きられない場所。生と死を分けるものが、あんなにも薄い一枚のヴェールでしかないことを、遥は、軌道の上ではじめて、目で見た。
その薄さが、彼女を、震えさせた。
あんなに薄いもので、あんなにたくさんのものが、守られている。あんなに薄いもので、彼女の娘も、守られている。ひとたびそのヴェールが破れれば、あの青い丸の生命は、たちまち、宇宙の闇に吸い出されてしまうだろう。それほどに、危うい。それほどに、脆い。
けれど、その脆さこそが、いとおしいのだと、遥は思った。
脆いから、守りたくなる。薄いから、大切にしたくなる。もしあのヴェールが、鉄のように厚く、決して破れないものだったら、彼女は、あんなにも切実に、地球を思うことはなかっただろう。守りたい、と思うのは、それが失われうるからだった。夜明けが美しいのは、夜が終わるからだった。灯が尊いのは、それが消えうるからだった。
脆いものを、それでも守ろうとすること。それが、人という存在なのかもしれない、と遥は思った。あの薄いヴェールのなかで、八十億の人が、互いの脆さを守り合いながら、生きている。宇宙のこの広大な闇のなかで、それは、たったひとつの、灯だった。
いちばん暗い刻
軌道には、夜明けだけでなく、夜もある。
九十分のうち、およそ半分は、地球の影のなかを通る。ステーションが、地球の裏側——太陽から隠れた側へ回りこむと、窓の外は、ほんとうの闇になる。地上の夜のように、うっすらとした明るみさえない。宇宙の夜は、底なしの、純粋な黒だった。
その闇のなかで、遥はいちばん、地球を近く感じる。
明るい昼の側では、地球は眩しすぎて、細部が白く飛んでしまう。けれど夜の側に回ると、地球は、闇のなかに沈んだひとつの巨大な塊になる。その塊の表面に、無数の光が散っている。都市の灯だ。オレンジの、金の、白の光の網が、大陸の形をなぞって、地球の夜の側にびっしりと広がっている。
人の灯だった。
八十億の人が、闇のなかで、灯をともしている。彼女はその一つひとつを、上から見ている。あの光のひとつは、誰かの台所かもしれない。あの光のひとつは、眠れない誰かの部屋かもしれない。あの光のひとつの下で、母親が、子に子守唄を歌っているかもしれない。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
いちばん暗い時間に、人は、いちばん灯を必要とする。
遥は、それをよく知っていた。地上にいたころ、彼女もまた、いちばん暗い夜に、いちばん光を求めた。夫と諍いをした夜。娘が高い熱を出して、朝まで眠れなかった夜。母の病が知らされた夜。そういう夜、彼女は、小さな灯りをつけて、それを見つめていた。闇が濃ければ濃いほど、ひとつの灯は、強く、あたたかく感じられた。
いま、地球の夜の側で、無数の灯が、彼女を見上げている——ように、彼女には思えた。
一度だけ、遥は、船外活動をした。
滞在の半ばのことだった。ステーションの外壁の、ある装置を交換するために、彼女は、ヴィクトルとふたり、宇宙服に身を包んで、エアロックから外へ出た。訓練を、何百時間も積んでいた。手順は、体に染みついていた。それでも、はじめて、金属の器の外に、自分の体ひとつで浮かんだとき、遥は、言葉を失った。
上も下もなかった。壁も天井もなかった。ただ、宇宙が、あらゆる方向に、無限に広がっていた。頭の側にも、足の側にも、右にも左にも、宇宙があった。そして、彼女のすぐ下——命綱でつながれた、その先に、地球があった。
手を伸ばせば、届きそうだった。もちろん、届かない。四百キロの距離が、そこにはあった。それでも、遮るものが、なにもなかった。ヘルメットのバイザーの、その向こうに、じかに、地球があった。青い球が、ゆっくりと、彼女の下を、流れていた。
そのとき、彼女は、地球の夜の側に、さしかかっていた。
眼下に、都市の灯が、広がっていた。窓ごしに見るのとは、まるで違った。宇宙服のなかで、彼女は、ひとりだった。ヴィクトルは、少し離れた壁面で、作業をしていた。無線ごしの、彼の呼吸の音だけが、耳のなかにあった。そして、その呼吸の音の向こうに、底なしの、宇宙の沈黙があった。
遥は、そのとき、生まれてはじめて、宇宙の大きさを、体で感じた。
自分は、なんと小さいのだろう。この、宇宙服ひとつぶんの、ちっぽけな体。それが、無限の闇のなかに、ぽつんと浮かんでいる。命綱一本で、金属の器につながって。その器もまた、宇宙の大きさに比べれば、砂粒ほどもない。そして、その下の地球さえ——あんなに大きく見える地球さえ、宇宙の広さのなかでは、ひとつの、青い点に過ぎない。
怖かった。心の底から、怖かった。
けれど、その恐怖の底で、遥は、ふしぎな安らぎを、同時に感じていた。自分が小さいことは、恐ろしかった。けれど、その小ささのなかに、彼女は、確かに、生きていた。この無限の闇のなかで、彼女は、呼吸をしていた。心臓が、鼓動していた。娘のことを、思っていた。それは、宇宙の大きさに、決して吞まれない、なにかだった。
小さくても、消えない灯。それが、命だった。
遥は、作業を終え、エアロックへ戻った。金属の器のなかに帰ると、そこは、あたたかく、狭く、なつかしかった。彼女は、宇宙服を脱ぎながら、体の震えが、なかなか止まらないのに気づいた。恐怖の震えではなかった。畏れの震えだった。あんなにも大きなものを見て、あんなにも小さな自分が、それでも生きていることへの、畏れだった。
滞在も、終わりに近づいていた。
あと二週間で、遥は帰還船に乗り、あの青い丸へ帰る。半年ぶりの重力。半年ぶりの空気。半年ぶりの、娘の抱擁。それを思うと、胸が高鳴った。けれど同時に、彼女は知っていた。この、九十分ごとの夜明けを、地上ではもう二度と、見られないということを。
地上に帰れば、夜明けは、また時間に戻る。線ではなく、じわじわとした明るみに。触れられそうな青白い刃は、ここに置いていくしかない。彼女は、地球のいちばん美しい姿を、地球の外から見た、ごくわずかな人間のひとりだった。その記憶を、彼女はどう抱えて生きていくのだろう。
「寂しくなるだろう」
ヴィクトルが、また、無線ごしに言った。彼は遥の顔を見なくても、その気配を読む。
「ええ」と、遥は答えた。「ここを離れるのが、寂しいです。おかしいですね。あんなに、帰りたいと思っていたのに」
「おかしくない」ヴィクトルの声は、静かだった。「俺も、毎回そうだ。帰る前になると、この窓が、恋しくなる」
「船長は、何が、いちばん恋しくなりますか」
しばらく、無線は沈黙した。それから、彼は言った。
「夜明けの、その手前だ」
遥は、その言葉の意味を、すぐに理解した。
夜明けの、その手前。青白い線が走る、ほんの一瞬前。地球の縁に、藍の帯が生まれ、群青になり、青になっていく、あの数秒。まだ闇のほうが濃くて、けれど、確かに光が来ると分かっている、あの時間。夜明けそのものより、その手前のほうが、美しい。彼女もまた、そう感じていた。
いちばん暗いところに、光の兆しが差す瞬間。それが、いちばん美しいのだった。
縁に昇るもの
その「朝」は、ふいにやってきた。
滞在も残りわずかとなった、ある周回のことだった。遥はいつものように、キューポラに逆さまに浮かんで、夜明けを待っていた。ステーションは、地球の夜の側を、静かに滑っていた。窓の外は、底なしの黒。眼下には、都市の灯の網が、闇のなかにひろがっている。
そのとき、地球の縁の、まだ夜の深いあたりに、遥は、ひとつの光を見た。
星ではなかった。星は、地球の縁のずっと上、宇宙の側に散らばっている。けれどそれは、地球の弧の、すぐ上——大気の層の、ほんの外側に、ぽつりと、けれどはっきりと、光っていた。
青い光だった。
蒼く、澄んで、鋭い。ほかのどの星よりも、冴えていた。夜明けの手前の、いちばん闇の濃いこの時間に、その光だけが、まるで自分がここにいることを主張するように、地球の縁で、強く光っていた。
彗星だ、と遥は気づいた。
事前の観測情報にはあった。この時期、ミラと名づけられた彗星が、地球の近くを通過する、と。長い周期でめぐる、蒼い尾を持つ星。地上からも観測できるが、大気に邪魔されて、その光は淡い。けれど軌道の上からなら——大気の外からなら、その真の姿が見える、と。
遥は、息を止めた。
彼女の見上げる先——いや、見下ろす先、その区別ももう意味をなさない、地球の縁のあたりに、ミラ彗星が、昇ろうとしていた。地球の弧を背景に、蒼い星が、細く長い尾をたなびかせて、闇のなかから立ち上がってくる。その尾は、太陽の風に吹かれて、地球とは反対の方向へ、まっすぐに流れている。まるで、誰かが暗い紙のうえに、一本の蒼い筆を、そっと引いたかのようだった。
いちばん暗い時間に、空でいちばん、冴えて光る星。
遥は、そのとき、なぜか泣きそうになった。理由は、うまく言えなかった。ただ、あの蒼い星が、地球の縁で光っているのを見て、彼女は、なにかを、確かに、受け取った気がした。
「ミラだ」
耳のなかで、ヴィクトルの声がした。彼も、別のモジュールの窓から、それを見ているらしかった。
彼女は、しばらく、その蒼い星から、目を離せなかった。地上では、この彗星のことが、少しだけ話題になっていた。何十年に一度の接近だと、ニュースが伝えていた。人々は、街の灯を消して、夜空を見上げようとしていた。けれど、地上の空は、たいてい、明るすぎた。街の灯が、大気の淡さが、彗星の蒼い光を、かき消してしまう。多くの人は、それを、うっすらとした染みほどにしか、見られないだろう。
遥だけが——この高度にいる者だけが、その真の姿を見ていた。大気の外で、街の灯の届かないところで、ミラは、ほんとうの蒼さで、光っていた。彼女は、また、思った。誰も見たことのない光景を、自分は、あの青い丸のために、代わりに見ているのだ、と。
「ミラって、どういう意味なんですか」と、遥は尋ねた。
「不思議な、という意味だ。ラテン語の。昔の人が、そう名づけた。周期的に明るくなったり、暗くなったりする星に」ヴィクトルは、少し間をおいて、続けた。「見えたり、見えなくなったりする。消えたと思うと、また戻ってくる。だから、不思議な星、ミラ」
消えたと思うと、また戻ってくる。
遥は、その言葉を、心のなかで繰り返した。あの蒼い星は、長い時間をかけて、宇宙の彼方まで遠ざかり、そして、また戻ってくる。何十年、何百年をかけて。人ひとりの一生では、二度と見られないかもしれない。それでも、それは、消えたのではない。ただ、遠くにいるだけだ。見えないところにいるだけだ。そして、いつか、また、戻ってくる。
見えないものを、それでもそこにあると信じること。
娘のことを、彼女は思った。家は見えない。町も見えない。それでも、そこにある。青い丸のなかのどこかに、三角屋根の家があって、窓の奥に、点がふたつ並んでいる。見えなくても、いる。遠くにいるだけで、消えたのではない。
彼女は、壁の隅に留めた、そらの絵を見た。青い丸。その隣に、本物の地球の弧。そして、その縁に、いま、蒼い星が昇っている。娘の描いた黄色い星の点々のなかに、ミラも、まぎれこんでいるように見えた。そらは、この星のことを、知らずに描いていたのだろうか。
ミラが昇りきると、地球の縁が、色を持ちはじめた。
夜明けが、来る。
藍の帯が、弧に沿って生まれる。群青へ。青へ。その上に、水色。さらにその上に、赤と橙の一本。虹の順序が、地球の縁に、丁寧に並べられていく。蒼い彗星は、その色の帯のなかで、なお、消えずに光っていた。夜明けの光にかき消されるまでの、わずかな時間、ミラは、地球の朝と、ひとつの空を分かち合っていた。
そして、夜明けの線が、走った。
青白い刃が、地表を撫でて、広がる。海が銀に光る。雲が金の縁を持つ。大陸が、闇から彫り出される。九十分ぶんの夜が、たった十数秒で、ほどけていく。ミラの蒼い光は、朝の青のなかに、静かに溶けて、見えなくなった。
けれど、消えたのではない、と遥は思った。
ただ、光のなかに、隠れただけだ。夜が来れば、また、あの蒼い星は、地球の縁で光るだろう。次の周回で。その次の周回で。そして、この彗星は、長い旅の果てに、いつか、また、この空へ戻ってくるだろう。彼女が、もうこの世にいなくなったころに。娘が、母になったころに。あるいは、娘の娘が、夜空を見上げるころに。
消えたと思うと、また戻ってくる。不思議な星、ミラ。
青い箱
帰還の準備をしていて、遥は、荷物のなかに、ひとつの小さな箱を見つけた。
青いマッチ箱だった。
すっかり忘れていた。出発の前に、母が、彼女の荷物にそっと忍ばせたものだった。「月光堂」という古い店の、青いマッチ箱。母が娘だったころから、その店は同じ場所にあって、同じ青いマッチを売っていたのだという。ラベルには、細い三日月と、その下に小さな書店——「月光書房」という名の——が描かれていた。母は、遥がまだ小さかったころ、眠る前に、そのマッチで、枕元の小さな蝋燭を灯してくれた。灯りがともるまでの、しゅっという音と、硫黄のにおいが、遥にとっての、眠りの合図だった。
宇宙では、火は使えない。マッチを擦ることは、決してできない。母もそれを知っていたはずだった。それでも母は、その青い箱を、娘の荷物に入れた。
「火はつけなくていいのよ」と、出発の朝、母は言った。「持っているだけで。暗いところで、心細くなったら、それを、握っていなさい」
遥は、その青いマッチ箱を、手のひらに握った。無重力のなかで、箱は、なんの重さも持たなかった。それでも、握ると、確かに、そこにあった。硬い、四角い、小さな箱。母の手が、かつてこの箱を握った。祖母の手も、握ったのかもしれない。
いちばん暗いところで、心細くなったら、それを握っていなさい。
母の言葉が、いま、彼女には、深く分かる気がした。火はつけられなくても、光の記憶は、握ることができる。灯りがともるまでの、あの、しゅっという音を、心のなかで擦ることができる。いちばん暗い時間に、光の兆しを思い出すことが、できる。
彼女は、青いマッチ箱を、そらの絵の隣に、テープで留めた。青い丸と、青いマッチ箱。娘の描いた地球と、母のくれた光。そのあいだで、本物の地球が、また、朝を迎えようとしていた。
片方の手袋
帰還の日が、近づいていた。
船外活動の記録を整理していて、遥は、ロッカーの奥に、片方だけの作業手袋が残っているのに気づいた。
いつのものだろう。滞在の初めのころ、船外活動の訓練で使ったものかもしれない。相方の手袋は、どこかへ行ってしまっていた。片方だけの手袋は、妙に頼りなく、ロッカーのなかで、宙にふわりと浮いていた。
彼女は、その片方の手袋を、しばらく見つめた。
片方だけ、というのは、寂しいものだった。手袋は、二つでひとつだ。片方では、その役目を果たせない。けれど、と遥は思った。片方だけでも、それは確かに、手袋なのだ。もう片方を、待っている手袋なのだ。
彼女は、娘のことを、また思った。半年のあいだ、娘は、片方の手袋のようにして、母を待っていたのだろう。二つでひとつのはずの、母と子。その片方が、遥として、四百キロの高度にいた。娘は、地上で、もう片方として、待っていた。そして、あと二週間で、二つは、ひとつに戻る。
遥は、その片方の手袋を、そっとロッカーに戻した。次にこのステーションに来る誰かが、いつか、もう片方を見つけるかもしれない。あるいは、この手袋のまま、地上へ持ち帰られて、記念に飾られるかもしれない。どちらでもよかった。片方だけでも、それは、待つことができる。待つ、ということには、意味がある。彼女は、そう思うようになっていた。
最後の夜明け
帰還の前夜——といっても、その「夜」は、地上のそれとは違うが——遥は、最後の夜明けを見るために、キューポラへ向かった。
ステーションは、静かだった。ほかの乗員は、眠りについていた。機械の唸りだけが、いつものように、低く、絶え間なく続いている。遥は、七枚の窓のあいだに、逆さまに浮かんだ。足を握りにひっかけ、両手を胸の前で組む。壁の隅には、そらの絵。その隣に、青いマッチ箱。彼女は、片耳にイヤホンをさして、娘の子守唄を、そっと流した。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、朝が扉をたたくまで。
娘の、少し舌足らずな歌声が、闇のなかに、細く響く。
眼下は、夜だった。太平洋の、どこか。海は闇に溶け、雲だけが、星明かりを吸って、灰色に浮かんでいる。ときおり、その下で、稲妻が音もなく走る。地球の夜は、深く、静かだった。都市の灯が、遠い岸辺に、点々と散っている。
星が海をわたるまで。
彼女自身が、星のひとつになって、いままた、海をわたっていた。何度も、何度も、わたってきた海を、これが最後の一度として、わたっていく。娘の歌を聞きながら。母のマッチを、隣に置きながら。
やがて、地球の縁が、色を持ちはじめた。
藍の帯。群青。青。水色。赤と橙の一本。虹の順序が、地球の縁に、丁寧に並べられていく。夜明けの、その手前。まだ闇のほうが濃くて、けれど、確かに光が来ると分かっている、あの数秒。ヴィクトルが、いちばん恋しくなると言った、あの時間。
遥は、息を止めて、それを見つめた。
いちばん暗いところに、光の兆しが差す瞬間。それが、いちばん美しい。絶望のいちばん底に、希望の最初の一滴が落ちる瞬間。人は、その一滴のために、長い夜を耐えるのだ。彼女は、そう思った。地上にいたころ、いちばん暗い夜を、彼女は、朝が来ることだけを頼りに、耐え抜いてきた。娘の熱が下がる朝を。母の病が癒える朝を。夫と、また笑い合える朝を。朝は、いつも、闇のすぐ隣で、待っていた。
そして——夜明けの線が、走った。
青白い刃が、地表を撫でて、広がっていく。海が、銀に光る。雲が、金の縁を持つ。大陸が、闇から彫り出される。九十分ぶんの夜が、たった十数秒で、ほどけていく。
娘の歌が、ちょうど、終わった。
眠れ、眠れ、朝が扉をたたくまで。
朝が、扉を、たたいていた。青白い光の指が、地球の扉を、静かに、たたいていた。
遥は、壁の隅の、そらの絵を見た。青い丸。黄色い星。旗を持った棒人間。三角屋根の家。窓の奥の、ふたつの点。娘の描いた世界は、いま、彼女の窓の外で、本物として、朝を迎えていた。
「ただいま」と、彼女は、まだ帰ってもいないのに、小さく、つぶやいた。
見えない家に向かって。見えない娘に向かって。見えないけれど、確かにそこにある、あの青い丸のなかの、ひとつの窓に向かって。
帰還船の窓から、遥は、最後にもう一度、ステーションを見た。
金属の器は、地球の光を反射して、銀色に光っていた。あそこで、彼女は、二千七百五十回の夜明けを見た。あの器のなかに、片方の手袋が、まだ、もう片方を待って浮かんでいる。あの窓の隅に、次に来る誰かのために、彼女はそらの絵を——いや、絵は持ち帰った。青いマッチ箱だけを、彼女は、置いてきた。次に、いちばん暗いところで心細くなる誰かのために。握るための、光の記憶として。
帰還船は、地球の夜の側へ、降りていった。
大気に触れると、窓の外が、炎で赤く染まった。摩擦の熱。それもまた、ひとつの夜明けのようだった。闇のなかを、炎に包まれて、彼女は、故郷へ降りていく。八十億の灯の、その一粒へ。娘のいる、その一粒へ。
やがて、炎がおさまり、窓の外に、青が見えた。
空だった。上から見下ろす、地球の縁の青ではない。下から見上げる、大気の底の、あの青だった。彼女が、生まれて、育って、娘を産んだ、あの青。娘が、見たこともないのに、正しく塗った、あの青。
遥は、その青のなかへ、帰っていった。
地上に降りて、しばらくのあいだ、遥は、朝が来るたびに、窓辺に立った。
地上の夜明けは、線ではなかった。じわじわと、空が白んで、鳥が鳴き、いつのまにか朝になっている。触れられそうな青白い刃は、もう、どこにもなかった。夜と朝の境目は、また、曖昧になっていた。
けれど、遥は、知っていた。
境目は、曖昧に見えても、確かにそこにある。夜のすぐ隣に、いつも、朝が待っている。いちばん暗いところに、いつも、光の兆しが差している。地上からは見えないだけで、青白い夜明けの線は、いまも、地球のどこかを、走り続けている。九十分ごとに、絶え間なく、地球を、めぐり続けている。
ある朝、そらが、母の隣に立った。
「ママ、宇宙、どうだった?」
遥は、しばらく考えてから、答えた。
「暗かったよ。宇宙は、とっても、暗かった」
「こわくなかった?」
「こわかった」と、遥は正直に言った。「でもね、いちばん暗いところで、いちばん、きれいな光が見えるの。ミラっていう、蒼い星がね」
「ミラ?」
「うん。消えたと思うと、また戻ってくる、不思議な星。そらが大きくなって、そのまた子どもが大きくなったころに、もう一度、空に戻ってくるよ」
そらは、母の顔を見上げた。それから、ふと、思い出したように言った。
「ママ、おうち、見えた?」
遥は、娘を抱き上げた。娘は、半年のあいだに、少し重くなっていた。片方の手袋が、もう片方と、ひとつに戻ったように、彼女は、娘を、両腕で、しっかりと抱いた。
「見えたよ」と、遥は言った。今度は、嘘ではなかった。「ちゃんと、見えてた。ずっと、見てたよ」
窓の外で、地上の朝が、ゆっくりと、明けていく。
線は見えない。刃も見えない。それでも、闇のすぐ隣で、光が、いま、扉をたたいている。九十分に一度でなく、たった一度きりの、けれど確かな、この地上の朝が。娘を抱いた腕のなかで、遥は、その光を、静かに受け止めた。
いちばん暗い夜を渡りきった者だけが、朝の、ほんとうの重さを知る。