月光書房
寅の刻 ・ 夜明け前 ・ 第 八 話

空木沢

山家 峰緒
冒険・救助 ・ 約25頁

空木沢

夜明け前の山は、音を凍らせる。

風がやんだ瞬間から、世界はそういうものになった。吹雪が吠えていたあいだは、まだ聞こえるものがあった。雪の粒が頬を打つ音、アイゼンが硬雪を噛む音、隣を進む仲間の荒い息。だが風が落ちると、それらの音までがどこかへ吸い込まれ、あとにはただ、耳の奥で自分の血が鳴る音だけが残った。

俺は立ち止まって、ヘッドランプの光を斜面の先へ向けた。青白い円錐が雪面を舐め、そこから先は、光の届かぬ闇だった。まだ空は黒い。午前三時半。冬至を過ぎたばかりのこの季節、夜明けまでにはまだ二時間近くある。二時間。長いのか短いのか、いまの俺には見当がつかなかった。

気温は、たぶん零下二十度を下回っている。息を吸うと、鼻の奥が、ぴりりと痛む。吐く息は、ヘッドランプの光のなかで、白い霧になって流れ、すぐに消える。睫毛に、細かな氷が結ぶ。ときおり、まばたきをすると、上下の睫毛が、一瞬、貼りつく。手袋の内側では、指を絶えず動かしていなければならない。動かすのをやめれば、指の感覚は、たちまち遠ざかっていく。感覚の遠ざかった指は、やがて、自分の指ではなくなる。

このくらいの寒さになると、寒いという感覚さえ、鈍る。人は、寒さで死ぬとき、最後には、暖かいと感じるという。凍える体が、最後の錯覚を見せるのだ。だから、寒さを感じられるうちは、まだいい。恐ろしいのは、寒さを、感じなくなったときだ。俺は、頬を、手袋の甲で、軽く叩いた。まだ、痛い。まだ、大丈夫だ。

そして、あの三人も――もし、まだ生きているなら――寒いと、感じていてくれ。俺は、そう祈った。寒がっていてくれ。凍えを、恨んでいてくれ。暖かいなどと、思うな。まだ、朝を、あきらめるな。

「三班、現在地二二〇〇。異常なし」

無線を口元に寄せて、告げる。声が白く凍り、すぐに散った。少しの間があって、無線の向こうから隊長の声が返ってきた。

「了解。無理をするな。夜明けまで、まだ間がある」

夜明けまで、まだ間がある。その言葉が、俺の背をひとつ押した。押すと同時に、締めつけもした。夜明けまで間があるということは、それまで、遭難者が生きていなければならないということだ。この闇のなか、この冷えのなか、たったひとりで。

遭難の一報が入ったのは、昨日の夕刻だった。

三人組のパーティ。冬山の経験はある連中だったという。だが天候の急変を読み違えた。予報より半日早く、寒気が入り込んだ。稜線に出たところで吹雪に巻かれ、下降のルートを失った。最後の交信は午後四時過ぎ。「一人、動けなくなった。俺たちで下ろす」――それきり、無線は途絶えた。

日没とともに、我々救助隊は入山した。夜間の捜索は、本来なら控える。二次遭難の危険がある。だが今回は違った。気温がこの冬いちばんの冷え込みまで下がる。夜を越せば、生存の望みは限りなく薄くなる。動けなくなった一人だけではない。その一人を下ろそうとした二人も、いまはどこにいるのか分からなかった。

「一晩だ」と、山を登りはじめる前、隊長は俺たちに言った。「一晩、俺たちが持ちこたえれば、あいつらも持ちこたえる。逆はない。俺たちが先に折れたら、あいつらは朝を見ない」

隊は三班に分かれた。第一班は主稜線を、第二班は東の沢筋を、そして俺のいる第三班は、西面の急な斜面を担当した。地図の上で見れば、遭難者が最後に交信した地点から、下降しようとして迷い込みそうな谷は、この西面だった。落ち込むように傾いた雪の斜面。デブリの走った跡が、いくつも縦に刻まれている。雪崩の巣だ。

「よりによって、この面か」

先頭を行く沢渡が、低くつぶやいた。ベテランだ。この山を、もう二十年も歩いている。彼の声には恐れはなかったが、慎重さがあった。慎重さは、この山では臆病とは違うものだ。臆病は足を止め、慎重さは足を選ぶ。沢渡は、一歩ごとに雪を選んでいた。

俺と、沢渡と、それから若い新田。三人。それが第三班だった。

装備は、確認した。ヘッドランプの予備電池、ツェルト、シュラフ、ザイル、雪崩ビーコン、ゾンデ棒、スコップ、無線機、そして――蘇生のための、あらゆるもの。だが、いちばん重いのは、装備ではなかった。いちばん重いのは、まだ会ってもいない三人の命が、俺たちの背に、乗っているという事実だった。装備は、置いていける。だが、それは、置いていけない。

入山口で、隊長は、俺たち一人ひとりの、目を見た。ベテランの、あの目で。「無理をするな」と、彼は言った。「だが、あきらめるのも、早すぎるな。そのあいだの、どこかで歩け。その、どこかを、見きわめるのが、山屋の仕事だ」

無理と、あきらめの、あいだ。俺は、その言葉を、背に、負って、闇へ、入った。

登りはじめて、四時間が経っていた。

新田の息が、さっきから少しおかしい。俺は後ろを振り返り、彼のヘッドランプの揺れを見た。揺れ方が、疲れている。若いということは、まだ自分の限界を知らないということだ。知らないから、無理をする。無理をしていることに、気づかない。

「新田」

「はい」

「水、飲め」

「まだ、大丈夫です」

「飲め。喉が渇いてないと思っても、体は乾いてる。乾くと、頭が回らなくなる。頭が回らなくなると、足元を見誤る。足元を見誤ると――」

言いかけて、やめた。この先を言う必要はなかった。足元を見誤れば、どうなるか。それは、俺たちが今夜、この山まで捜しに来た連中が、まさに教えてくれていることだった。

新田は素直に、ザックから水筒を出した。凍らせないよう、内ポケットに入れておいた水だ。それでも、口をつけると「冷たっ」と、小さく声を漏らした。若い声だった。俺はふと、なぜこいつが救助隊に入ったのか、まだ聞いていないことを思い出した。聞く機会は、これまでいくらでもあった。だが山の上では、人はあまり自分のことを話さない。話すべきことが、いつも別にあるからだ。

「先輩は」と、水筒をしまいながら、新田が言った。「怖くないんですか。こういう夜」

俺は少し考えた。嘘をつくこともできた。だが、この山の上で、この闇のなかで、若いやつに嘘をつく気にはなれなかった。

「怖いさ」

「え」

「毎回、怖い。慣れない。慣れたら、辞めどきだ」

新田は黙った。それから、「そうなんですね」と、どこか安心したように言った。恐れているのは自分だけではないと知って、安心したのだろう。恐れは、分かち合えば軽くなる。重さそのものは変わらないのに、担ぐ肩が増えれば、軽くなる。それが、隊というものだった。

「怖いのは、いいことだ」と、俺は、続けた。「怖いと、慎重になる。慎重になると、生きて帰れる。怖くなくなったやつから、山で死ぬ。俺は、そういうのを、何人も見てきた」

嘘ではなかった。俺は、恐れを失った者が、どうなるかを、知っていた。ある者は、無雪期の楽な感覚で、冬の斜面に踏み込んで、消えた。ある者は、疲れきった頭で、大丈夫だと思い込んで、まちがった尾根を下って、消えた。彼らはみな、その最後の瞬間まで、自分は大丈夫だと信じていた。恐れが、その信念を、正してくれなかったのだ。

「先輩は」と、新田が、また訊いた。「山を、嫌いになったこと、ありますか」

俺は、少し、考えた。

「ある」と、俺は言った。「何度も。人を、飲み込むからな。だが――」

「だが?」

「その、同じ山が、人を、返してくれることも、ある。今夜みたいに。だから、まだ、憎みきれずにいる」

新田は、うなずいた。その、うなずきかたに、若さのなかの、何か、静かなものが、混じりはじめていた。この一晩で、こいつは、少し、変わるのかもしれない。山は、人を、変える。飲み込むか、返すか、そのどちらかで。

沢渡が、手を挙げた。止まれ、の合図だ。

俺たちは足を止めた。沢渡は膝をつき、雪面に耳を寄せるようにして、じっと斜面の上を見つめていた。ヘッドランプを消している。闇に目を慣らして、何かを見ようとしている。

「どうした」と、俺は小声で訊いた。

「音が、した気がした」

「音」

「人の、声のような」

俺たちは息を殺した。風はやんでいる。だから、もし本当に声がしたのなら、聞こえるはずだった。だが、聞こえるのは、俺自身の血の音だけだった。斜面のどこかで、ときおり雪の崩れる、ぱさ、という乾いた音がするほかは、何もなかった。

一分。二分。俺たちは、彫像のように動かずにいた。冷えが、足の裏から這い上がってくる。じっとしていると、冷えは容赦なく体の芯を目指す。動いているあいだは、まだ体が熱を作る。止まると、熱は逃げていくばかりだ。

「気のせいか」と、沢渡が息を吐いた。だが、その息には、あきらめきれない響きがあった。

「いや」と、俺は言った。「進もう。この上だ。声がしたなら、この上に、まだ生きてる誰かがいる」

沢渡は俺を見た。ヘッドランプをつけていないので、その表情は見えなかった。だが、彼がうなずいたのは、気配で分かった。ベテランのうなずきには、重さがある。彼はもう一度雪をひと掴みして、握って、放した。雪の締まり具合を確かめている。それから、立ち上がった。

「行くぞ。ザイル、出せ」

俺たちは、ザイルで互いの体を繋いだ。一人が滑落しても、あとの二人が止められるように。三人が、一本の綱で一つになる。この綱があるかぎり、俺たちは一人ではなかった。だが同時に、一人が谷へ落ちれば、三人が谷へ引かれるということでもあった。信頼とは、そういうものだ。命を、他人の判断に預けるということだ。

沢渡が、先頭。俺が、真ん中。新田が、しんがり。順番は、沢渡が決めた。ベテランを先頭に、若いのを、いちばん引きの効くしんがりに置く。理にかなっていた。沢渡は、雪を、読める。どこが締まっていて、どこが空洞なのか、足の裏の感触で、分かる。俺には、まだ、そこまでは分からない。二十年の差は、そういうところに出る。

「間隔、詰めすぎるな」と、沢渡が言った。「詰めると、一人が落ちたとき、二人目も、いっしょに引かれる。だが、離れすぎても、止められん。この、ちょうどいい間隔ってやつを――」彼は、少し、間を置いた。「二十年かかって、やっと、体で覚えた」

綱が、ぴん、と張った。三人の呼吸が、その一本の綱を通して、伝わってくる。沢渡の、落ち着いた息。俺の、少し速い息。新田の、まだ乱れた息。三つの息が、綱の上で、ひとつのリズムを、探しはじめた。ばらばらでは、登れない。三人で、一つの、生きものにならなければ、この斜面は、越えられなかった。

斜面は、いよいよ急になった。

四つん這いに近い姿勢で、俺たちは登った。ピッケルを雪に打ち込み、アイゼンの前爪を蹴り込み、一歩、また一歩。息が上がる。心臓が、肋のなかで暴れる。汗が、内側で凍りはじめる。汗をかきすぎると、それが凍って、体温を奪う。だから、かきすぎないよう、ペースを保たなければならない。速すぎても遅すぎても、この山では死ぬ。

「先輩」と、また新田の声がした。「あれ、なんですか」

彼が指さす先――斜面の上、稜線の輪郭が、黒く空を裁ち切っているあたり。そのすぐ上に、ひとつ、青い光があった。

星ではない。いや、星なのだが、ただの星ではなかった。ほかのどの星よりも冴えて、強く、そして、わずかに尾を引いていた。青白い、澄んだ光。まるで、この夜のいちばん深いところで、誰かが一本、蒼いろうそくを灯したかのようだった。

「彗星だ」と、沢渡が言った。「ミラ彗星。ここ何日か、明け方に見えてる」

「彗星」

「ああ。昔から言うんだ。いちばん暗いときにこそ、いちばん光る星がある、と。妙なもんでな。晴れて、月のない、いちばん冷える夜――つまり、いちばん死にやすい夜にかぎって、あいつはよく見える」

俺は、その青い光を見上げた。稜線の上、夜明け前の黒い空に、それは静かに、けれど確かに、燃えていた。まるで、道しるべのように。あの光の下に、稜線がある。稜線を越えれば、東の空がある。東の空には、やがて、朝が来る。彗星は、その方角を、指し示していた。

「あいつを目印にしよう」と、俺は言った。「あの星の、真下だ。真下の稜線を目指す。遭難者が下降しようとしたのも、たぶん、あのあたりからだ」

理屈ではなかった。だが、俺はそう信じたかった。あの青い光が、たまたまこの夜、この方角に現れたのは、意味のないことではない――そう信じたかった。人は、いちばん暗いときに、意味を探す。意味がなければ、闇はただの闇だ。だが、意味があれば、闇は、越えるべきものになる。

新田は、しばらく、その星を、見上げていた。それから、ぽつりと、言った。

「兄が、死んだ夜も」と、彼は言った。「あんな星が、出てたのかな」

俺は、答えなかった。答えようが、なかった。だが、沢渡が、代わりに、言った。

「出てたさ」と、ベテランは言った。「毎晩、どこかに、出てる。あの手の星は。ただ、暗くならなきゃ、見えん。だから、いちばんつらい夜にしか、人は、あれに気づかん。皮肉なもんだ。だが――」彼は、ピッケルを、雪に打ち込んだ。「だからこそ、あれは、慰めになる。いちばんつらいときに、いちばん、そばにいてくれる星だ」

新田は、もう一度、その青い光を、見上げた。今度は、目を、そらさなかった。彼の兄が、山で見たかもしれない、その星を。彼は、いま、代わりに、見ていた。生きて、間に合わせる側に、まわって。

「行こう」と、俺は言った。「あの星が、消えないうちに」

彗星は、消えない。ただ、朝が来れば、光に紛れる。だが、それを言うのは、やめておいた。いまは、あの星が、俺たちを、待っていてくれる――そう思っていたかった。三人とも、そう思っていたかった。

登りながら、俺は昔のことを思い出していた。

十年前。俺がまだ、新田くらいの歳だったころ。俺は一度、山で人を、間に合わせられなかったことがある。

その男は、単独行だった。滑落して、脚を折り、動けなくなった。俺たちが見つけたときには、まだ息があった。だが、下ろすには、あまりに時間がかかった。彼は、担架の上で、静かに冷たくなっていった。最後に、俺の手を握って、何か言おうとした。だが、言葉にはならなかった。ただ、唇が、かすかに動いただけだった。

その唇が、何を言おうとしていたのか。俺はいまも、分からない。分からないまま、十年、この山を歩いている。もしかしたら、俺は、あのとき言葉にならなかったものを、聞き取りにこの山に登り続けているのかもしれない。誰か別の遭難者の口から。間に合った、誰かの口から。

「先輩」新田が、また声をかけてきた。「なんで、山岳救助を?」

俺は、少し笑った。さっき、俺が聞きそびれたことを、こいつが先に俺に訊いてきた。

「間に合わなかったことが、あるんだ」と、俺は言った。「一度。それで、まだ、間に合わせたことのほうが、足りてない気がしてな」

新田は、しばらく黙っていた。それから、「僕は」と言った。「僕の兄が、山で死にました。捜索隊が、間に合わなくて。だから、僕は――今度は、間に合わせる側に」

俺は、足を止めそうになった。だが、止めなかった。止めれば、この会話は、湿ったものになる。山の上で、湿ったものは、凍る。

「そうか」とだけ、俺は言った。「なら、間に合わせよう。今夜は」

「はい」

新田の声に、力が戻っていた。恐れと、決意は、同じ根から出ている。恐れるからこそ、決意する。何も恐れない者は、決意もしない。ただ、無謀なだけだ。新田は、恐れながら、決意していた。それは、いい救助隊員の証だった。

無線が、鳴った。

「各班へ。第一班より報告。主稜線上、幕営跡を発見。テントの残骸あり。ただし、人影なし」

隊長の声が、それを中継する。

「三人のうち、少なくとも一晩は、そこで耐えた形跡がある。だが、そこを出た。動けなくなった一人を連れて、あるいは残して、下降を試みたと見られる。方角は――西」

西。俺たちの、担当する面だ。

「三班、聞いたな」

「聞きました」と、俺は答えた。喉が、乾いていた。「こっちに、下りてきたんですね」

「可能性が高い。頼む」

「了解」

無線を切って、俺は上を見た。彗星は、まだそこにあった。青く、静かに。その真下の稜線から、遭難者たちは、下降を試みた。だとすれば、彼らは、いま、この斜面のどこかにいる。生きているか、あるいは――

俺は、その先を考えるのをやめた。考えても、足は速くならない。足を、動かすことだけを考えた。一歩。また一歩。

斜面の途中で、雪崩の痕に、行きあたった。

ゆうべの吹雪で、新しく落ちたものだ。表層が、大きく剥がれて、下の斜面へ、なだれ落ちていた。デブリの塊が、ごろごろと、闇のなかに、転がっている。俺たちは、ヘッドランプの光を、そこへ、向けた。

「まさか」と、新田が、声を、震わせた。「この下に、埋まってるんじゃ」

沢渡は、ビーコンを、確かめた。捜索モードに、切り替えて、斜面を、ゆっくりと、掃くように、動かす。もし、遭難者が、ビーコンを、身につけていて、この雪の下に、埋まっているなら、反応が、あるはずだった。

沈黙。

ビーコンは、何も、拾わなかった。

「反応、なし」と、沢渡が、言った。俺は、その声に、安堵と、不安の、両方を、聞き取った。安堵――ここには、埋まっていない。不安――だが、あの連中が、ビーコンを、身につけていなかったら? 反応がないのは、埋まっていないからではなく、埋まっていても、拾えないからかもしれなかった。

「ゾンデを、出そう」と、俺は言った。念のため、だった。俺たちは、細い、金属の棒を、雪に、突き刺した。一定の間隔で、規則正しく。人の体に、当たれば、独特の、柔らかい手応えが、返ってくる。雪でも、氷でも、岩でもない、あの、いやな手応えが。

何本、刺しただろう。指が、かじかむ。それでも、刺した。もし、この下に、誰かがいるなら。一分の、遅れが、命を、分ける。だが、ゾンデは、何も、探り当てなかった。ただ、締まった雪と、その下の、硬い地面を、伝えてくるだけだった。

「いない」と、沢渡が、断じた。「ここには、いない。上だ」

俺は、額の、汗を、拭った。凍る前に。この雪崩を、彼らが、避けられたのか、それとも、この雪崩の、少し前に、ここを、通り過ぎたのか。分からなかった。だが、少なくとも、ここには、いない。それは、望みが、まだ、上に、あるということだった。俺たちは、また、登りはじめた。

雪が、また舞いはじめた。

だが、これは吹雪ではなかった。風で舞い上げられた、地吹雪の、名残のようなものだ。ヘッドランプの光のなかを、細かな雪の粒が、無数に流れていく。まるで、光そのものが、粒立って流れているようだった。

「先輩、時間」と、新田が言った。

俺は、時計を見た。午前四時二十分。夜明けまで、あと一時間半ほど。

一時間半。長い。だが、遭難者にとっては、地獄のような一時間半だ。もし、いまも生きているなら、彼らは、その一時間半を、一秒ずつ数えているにちがいない。夜明けを、待って。光を、待って。

俺は、ふと、あることを思い出した。

子どものころ、母が歌ってくれた、子守唄。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

そういう歌だった。冬の夜、布団のなかで、俺はその歌を聞きながら眠った。星が海をわたるまで。子どもの俺は、その意味を知らなかった。星が、海を、わたる。そんなことがあるのか、と。

いまは、分かる。星は、夜のあいだじゅう、空を、東から西へ、あるいは西から東へ、ゆっくりとわたっていく。まるで、暗い海を渡る、小さな舟のように。そして、星が渡りきったとき、空の端に、朝が、来る。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

それは、朝までの、辛抱の歌だった。夜を、越えるための歌だった。俺は、口のなかで、その歌を、そっと歌ってみた。声には、出さなかった。だが、歌うと、なぜか、足に、力が戻った。

そして、俺は、思った。もし、あの三人が、いまも生きているなら、彼らも、何か、歌っているだろうか。何か、心のなかで、繰り返しているだろうか。誰かの声を。誰かの、顔を。人は、いちばん暗いところで、何かに、すがる。歌でも、祈りでも、たった一人の、名前でも。それが、朝までの、命綱になる。

「先輩」と、新田が、小さく言った。「僕、いま、変なこと、思ってました」

「なんだ」

「兄が、遭難した夜、最後に、何を、考えてたのかなって。寒くて、動けなくて、闇のなかで。何を、考えて、朝を、待ってたのかなって。ずっと、それが、分からなくて。でも、いま――」彼は、少し、言葉を、切った。「いま、なんとなく、分かる気が、します。たぶん、誰かが、来てくれるって、信じてたんじゃないかって。最後まで。だから、僕は――」

「だから、来た」と、俺は、言った。

「はい」新田の声が、白く、凍った。「今夜、僕が、来ました」

俺は、うなずいた。兄には、間に合わなかった。だが、この弟は、今夜、別の誰かに、間に合わせようとしている。それは、償いではなかった。もっと、静かで、深いものだった。人は、失ったものを、取り戻せない。だが、失ったものの、かたちを、別の誰かの上に、刻むことは、できる。新田は、それを、していた。歩きながら、ひとつずつ。

沢渡が、また止まった。

今度は、合図ではなかった。彼は、何かを見つけていた。ヘッドランプの光が、斜面の一点を、じっと照らしている。

「あれを見ろ」

俺は、その光の先を見た。雪の斜面の、少し窪んだところ。そこに、何か、雪と違う色のものが、あった。青い。深い、群青の、青。

「ザックか」

「いや」沢渡が、近づいた。「箱だ。小さな、箱」

俺たちは、雪をかき分けた。それは、マッチ箱だった。青い、マッチ箱。表には、金色の文字で、何か書かれていた。雪を払うと、その文字が読めた。

「月光堂」

「月光堂?」と、新田が首をかしげた。

「町の、古い店だ」と、沢渡が言った。「もう、ないかもしれん。昔、山屋がよく、あそこのマッチを持ち歩いた。湿気に強くて、この寒さでも、確実に火がつくって、評判でな」

俺は、その青いマッチ箱を、手に取った。振ると、なかで、マッチが、かすかに鳴った。まだ、いくつか、残っている。

「これは」と、俺は言った。「遭難者の、誰かのだ。ここを、通った。ここで、火をつけようとしたのか、あるいは――落としたのか」

「近いぞ」沢渡の声が、緊張した。「この上か、この下だ。散らばるな。まとまって、進め」

俺は、そのマッチ箱を、内ポケットにしまった。落とし主に、返すために。まだ、生きている落とし主に。俺は、そう決めた。決めることが、大事だった。まだ生きていると決めなければ、足は、前に出ない。

斜面を、少し登ったところで、俺たちは、それを見つけた。

雪の上に、点々と、赤いものが、あった。

血だ。凍った、血。

新田が、息を呑んだ。俺は、しゃがみ込んで、その痕跡を、追った。血は、斜面を横切るように、続いていた。誰かが、傷を負いながら、動いた跡だ。あるいは、動けなくなった誰かを、引きずった跡だ。

「生きてる」と、俺は言った。「動いてる、ってことは、生きてる。少なくとも、ここまでは」

血の跡を、俺たちは追った。一歩ずつ、慎重に。血は、斜面の、さらに窪んだ、風の当たりにくいところへと、続いていた。人は、弱ると、風を避ける。本能だ。動物と、同じだ。俺たちは、その本能を、信じて、追った。

そして、窪みの、いちばん奥。

雪庇の、陰。そこに、雪に半ば埋もれて、三つの、影が、あった。

「いたぞ!」

俺は、叫んだ。声が、こだました。三つの影は、動かなかった。俺の背筋を、恐れが、駆け上がった。間に合わなかったのか。また――

だが、そのとき、影の一つが、動いた。かすかに。ほんの、指先ほど。

「生きてる!」新田が、駆け寄った。「生きてます!」

俺たちは、雪をかき分けた。三人の遭難者。二人は、互いに身を寄せ合い、そのあいだに、もう一人を、庇うようにして、埋めていた。動けなくなった、一人を。仲間が、自分たちの体温で、その一人を、温めていた。一晩じゅう。この、凍てつく闇のなかで。

「聞こえますか! 救助隊です! もう、大丈夫だ!」

俺は、いちばん手前の男の、頬を、そっと叩いた。男の目が、うっすらと、開いた。凍えて、白くなった唇が、動いた。声は、出なかった。だが、その唇が、動いた。

「……き……た……」

来た。そう、言ったのだと思う。俺たちは、来た。間に合った。

男の、右手が、雪のなかから、伸びてきた。俺の腕を、掴もうとして。だが、その手には、手袋が、なかった。片方だけ。左手には、はめている。だが、右手は、素手だった。凍傷で、白く、腫れていた。

「手袋が」と、俺は言った。「片方、ない」

「あの子に」と、男が、かすれた声で、言った。目で、真ん中の、動けない一人を、示した。若い、女性だった。「あの子の、手に……両方、はめさせて……俺の、片方を……」

俺は、言葉を、失った。

この男は、自分の手袋の片方を、外して、動けなくなった仲間に、与えたのだ。両手が、凍えぬように。自分は、片手を、素手で、この一晩を、耐えた。この、いちばん冷える夜を。

十年前、俺の手を握ろうとして、言葉にならなかった、あの男の唇が、ふいに、俺の胸に、よみがえった。あのとき言えなかったものが、いま、この男の、片方だけの手袋のなかに、あるような気がした。人は、いちばん暗いところで、いちばん、人を想う。

俺は、自分の予備の手袋を、ザックから出して、男の、素手に、はめてやろうとした。だが、男は、首を、かすかに、振った。

「いい」と、彼は言った。「感覚が、もう、ない。はめても……分からない。それより……あの子を……あの子を、先に……」

自分の凍った手より、仲間の命を。この期に及んで、なお。俺は、男の言葉に、従った。だが、そっと、その素手にも、手袋を、かぶせた。男が、拒む力も、もう、なかった。凍った指が、手袋の内側で、ぴくりとも、動かなかった。それでも、いい。もう、これ以上、凍らせなければ、いい。

もう一人――女性を庇っていた、二人目の男は、意識が、朦朧としていた。だが、俺たちを見て、何か、言おうとした。「よかった」と、言ったように、聞こえた。あるいは、「間に合った」と。この男もまた、自分のことより、仲間の無事を、確かめようとしていた。三人が、三人とも、この一晩、自分より、他人の命を、上に、置いていた。だからこそ、三人とも、朝まで、生きのびた。誰かのために生きようとする心が、たぶん、いちばん、命を、凍らせないのだ。

無線を、握った。

「三班より本部! 遭難者三名、発見! 三名とも、生存! 繰り返す、三名、生存!」

無線の向こうで、隊長の声が、震えた。ベテランの、あの隊長の声が、震えていた。

「……よくやった。よく、やった。座標を送れ。第一班、第二班、そちらへ回す。担架、ヘリの要請――もう、動いてる。もう少しだ。もう少し、持ちこたえさせろ」

「了解!」

俺たちは、動いた。まず、動けない女性を、シュラフに包んだ。カイロを、体の要所に、当てた。温かい飲み物を、少しずつ、口に含ませた。凍った体を、急に温めてはいけない。ゆっくり、ゆっくり、命を、闇のなかから、引き戻す。

沢渡が、ツェルトを張った。風を、防ぐために。新田が、無線で、他班を、誘導した。声が、しっかりしていた。もう、疲れの揺れは、なかった。人は、なすべきことがあるとき、疲れを、忘れる。

俺は、片手の男の、素手を、自分の両手で、包んだ。凍った手を、こすらぬように。ただ、包んだ。俺の手の熱が、少しでも、伝わるように。

「よく、耐えた」と、俺は言った。「よく、朝まで、耐えた」

「朝?」男が、うっすら、笑った。「まだ……暗いじゃ、ないか……」

「もうすぐだ」と、俺は言った。「もう、すぐ、朝が来る」

そして、朝が、来た。

稜線の、彗星が、消えるころ。青い光が、朝の白さに、溶けていくころ。東の空が、藍から、群青へ、群青から、灰へ、灰から、淡い、金色へと、変わっていった。

光は、まず、稜線の縁を、なぞった。細い、金の線。それが、次第に、斜面を、下ってきた。ゆっくりと。一メートル、また一メートル。闇を、押しのけながら。まるで、光が、俺たちを、迎えに、下りてくるように。

そして、その光が、俺たちのいる窪みに、届いた。

雪が、白く、輝いた。ゆうべまで、あれほど黒く、恐ろしかった雪が、朝の光のなかで、ただ、白く、静かに、輝いていた。三人の遭難者の顔に、光が、当たった。血の気を失った顔に、朝の色が、差した。

女性が、目を、開けた。

「……あかるい」と、彼女は、言った。

「ああ」と、俺は言った。喉が、詰まった。「明るい。朝だ。あんたは、朝を、見た」

彼女の頬を、涙が、伝った。凍りはしなかった。もう、凍る夜は、終わったのだ。

俺は、その光のなかで、三人の顔を、はじめて、はっきりと、見た。夜のあいだは、ヘッドランプの、白い円のなかでしか、見えなかった顔。それが、いま、朝の、本物の光のなかに、あった。若い女性の、青ざめた、けれど、生きている顔。片手の男の、疲れ果てた、けれど、笑おうとしている顔。二人目の男の、朦朧としながらも、安堵に、ゆるんだ顔。生きている顔というのは、こんなにも、違う。死んだ顔とは、まるで、違う。俺は、それを、この十年で、いやというほど、知った。だからこそ、生きている顔を見ると、いつも、泣きたくなる。

新田が、俺の隣で、洟を、すすった。若いやつは、泣くのを、こらえていた。こらえなくていい、と、俺は言おうとして、やめた。いまは、まだ、仕事の途中だ。泣くのは、下りてから。山の上では、涙も、凍る。だが、その、こらえた涙のなかに、こいつの、兄への、長い、長い夜が、たたまれているのを、俺は、知っていた。

ヘリの音が、聞こえてきた。

谷の向こうから、次第に、大きく。第一班と第二班の、ヘッドランプの光も、斜面の、あちこちに、見えはじめた。もう、光は、いらなかった。夜が、明けたのだから。だが、その光は、消えなかった。仲間が、来る、その光は。

俺は、あの青いマッチ箱を、内ポケットから、出した。片手の男に、差し出した。

「これ、あんたのだろう。下の斜面で、拾った」

男は、それを見て、また、笑った。今度は、少し、しっかりと。

「ああ……火を、つけようとして……手が、かじかんで、落とした。片手じゃ……無理だった」

「片手で」と、俺は言った。「よく、ここまで」

「あの子を、朝まで」男は、言った。「それだけ、考えて……ほかは、何も……」

俺は、そのマッチ箱を、男の、無事なほうの手に、握らせた。左手。手袋を、はめた手。

「取っておけ」と、俺は言った。「あんたが、朝まで、耐えた、しるしだ」

男は、それを、握りしめた。まるで、それが、命そのものであるかのように。

担架で、三人を、下ろした。

ヘリが、女性を、先に、吊り上げた。渦巻く風のなか、彼女の体が、朝の空へ、上がっていった。俺たちは、それを、見上げた。青かった空は、もう、すっかり、明るかった。

片手の男を、担架に、乗せるとき、彼は、俺の袖を、素手のほうの手で、掴んだ。凍傷の、白い手で。

「あんた」と、彼は言った。「名前は」

俺は、名乗った。

「覚えておく」と、男は、言った。「一生。あんたたちが、来てくれたことを」

俺は、首を、振った。

「覚えてなくて、いい」と、俺は言った。「ただ、生きてくれ。それで、じゅうぶんだ」

十年前、俺の手を握った男は、覚えていてほしかったのだろうか。それとも、ただ、俺に、生きろと、言いたかったのだろうか。分からない。だが、俺は、いま、この男に、生きろと、言えた。間に合った、この男に。それは、十年ぶりに、俺の胸の、凍っていた何かを、溶かした。

すべてが終わったのは、朝の、七時過ぎだった。

俺たちは、斜面を、下りはじめた。登りとは、まるで、別の山のようだった。あれほど恐ろしかった斜面が、朝の光のなかでは、ただ、美しかった。デブリの跡さえ、雪原に刻まれた、静かな模様に見えた。夜は、ものを、恐ろしくする。だが、それは、夜のせいだ。ものそのものは、変わらない。変わったのは、俺たちのほうだった。俺たちは、夜を、越えたのだ。

新田が、隣に、並んだ。

「先輩」

「なんだ」

「間に合いましたね」

「ああ」と、俺は言った。「間に合った」

俺たちは、しばらく、無言で、下った。言葉は、いらなかった。三人の呼吸が、また、ひとつのリズムを、刻んでいた。だが、今度は、登りのときとは、違うリズムだった。張りつめたものが、ほどけていた。綱を、通して、それが、伝わってくる。沢渡の息も、俺の息も、新田の息も、ゆっくりと、深くなっていた。夜を、越えた者たちの、息だった。

沢渡が、ふと、足を止めて、振り返った。

「なあ」と、彼は言った。二十年、この山を歩いた男が。「俺は、もう、何度、この斜面を、下ったか、分からん。だが――今朝の下りは、覚えておくよ。生きて、下ろせた朝は、そう、多くない。多くないから、忘れん」

俺は、うなずいた。沢渡のような男でも、忘れないのだ。生きて下ろせた朝を。それは、この仕事の、数少ない、褒美だった。多くの朝は、褒美をくれない。届かなかった命を、背負って、下りる。だが、ときどき、こういう朝が、ある。だから、また、次の夜も、登れる。この、たった一度の朝のために。

新田は、空を、見上げた。もう、彗星は、見えなかった。朝の光が、それを、隠していた。だが、それは、消えたのではない。ただ、隠れただけだ。今夜も、いちばん暗くなれば、また、そこに、青く、光るのだろう。いちばん暗いところで、いちばん、光るために。

「あの星」と、新田が、言った。「また、見えますかね。今夜も」

「見えるさ」と、俺は言った。「暗くなれば、必ず」

町へ、下りた。

山の麓に、古い、商店街があった。俺は、ふと、あの、月光堂という店を、探してみたくなった。青いマッチ箱の店。まだ、あるだろうか。

沢渡が、道の角を、指さした。

「あそこだ。まだ、やってる」

小さな、古い店だった。硝子戸の向こうに、雑多な、山の道具が、並んでいた。そして、店の、いちばん奥に、もう一つ、看板が、あった。

「月光書房」

古書店だった。マッチ箱を売る店の、奥が、古書店になっていた。あるいは、もとは、書店だったのかもしれない。俺は、その硝子戸を、少し、開けてみた。

店の奥から、老いた女の、声が、聞こえた。低く、静かな、歌声だった。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」

あの、子守唄だった。母が、俺に、歌ってくれた。俺は、しばらく、その歌を、聞いていた。歌は、朝の光のなかで、まるで、夜を、見送るように、流れていた。星は、海を、わたりきった。夜は、明けた。もう、眠っていい。耐えた者は、みな、もう、眠っていい。

俺は、硝子戸を、そっと、閉めた。

その夜、俺は、病院に、見舞いに行った。

三人の遭難者は、みな、命を、とりとめていた。片手の男は、右手の指を、二本、失うかもしれない、と言われていた。凍傷が、深かった。だが、彼は、笑っていた。

「指の、二本くらい」と、彼は、言った。「あの子が、両手、無事なら」

真ん中にいた、女性――彼の、山仲間だという――は、両手とも、無事だった。男が、片方の手袋を、彼女に、与えたおかげで。彼女は、その話を、あとで、聞いたのだという。そして、泣いた、と。

俺は、男の、手袋のことを、思い出した。片方だけの、手袋。あの手袋は、いま、どこにあるのだろう。あの、いちばん暗い夜、一人の人間が、もう一人の人間のために、外した、片方の手袋。

「あの手袋は」と、俺は、訊いた。

「ああ」男は、言った。「彼女が、持ってる。返す、って言ったんだが、いらない、って。ずっと、持ってる、って」

俺は、うなずいた。それで、いいと思った。片方だけの、手袋。だが、それは、もう、片方だけではないのだ。もう、片方を、彼女が、持っている。二つで、一つの、しるしとして。あの夜を、越えた、二人の。

病室を、出るとき、廊下で、新田に、会った。こいつも、見舞いに、来ていた。手に、小さな、紙袋を、提げている。

「なんだ、それ」と、俺は訊いた。

「みかん、です」新田は、少し、照れたように、笑った。「兄が、山から下りてきたとき、いつも、みかんを、食ってたんです。冷えた体に、しみるって。だから――なんとなく」

俺は、笑った。みかん。ずいぶん、素朴な、見舞いだった。だが、そういうものが、いちばん、いいのかもしれない。凍えて、生きて帰ってきた者に、いちばん、しみるのは、そういう、あたたかくて、素朴なものだ。

「いいと思う」と、俺は言った。「食わせてやれ。ちゃんと、生きてる証拠を」

新田は、うなずいて、病室へ、入っていった。その背中は、この一晩で、少し、大きくなったように、見えた。山は、こいつを、飲み込まなかった。返した。そして、少し、大人にして、返した。

病院を、出ると、もう、夜だった。

空を、見上げた。町の、灯りが、まぶしくて、星は、あまり、見えなかった。だが、目を、凝らすと、東の空の、低いところに、ひとつ、青い光が、あった。

ミラ彗星。

まだ、そこに、いた。いちばん暗い夜に、いちばん、冴えて、光る星。俺は、しばらく、それを、見上げていた。

明日も、どこかで、誰かが、山で、夜を、迎えるだろう。凍える、闇のなかで。動けなくなって。望みを、消えかけさせながら。

だが、いちばん暗いときにこそ、いちばん、光る星が、ある。俺は、それを、知っている。今夜、それを、また、知った。

そして、光は、必ず、来る。ゆっくりと。稜線を、なぞり、斜面を、下り、闇を、押しのけて。迎えに、来る。耐えた者の、もとへ。

俺は、内ポケットに、手を、入れた。あの、青いマッチ箱は、もう、そこには、ない。持ち主に、返した。だが、その、乾いた、かすかな、マッチの鳴る音を、俺は、まだ、指先に、覚えていた。火を、つけるための、音。闇のなかで、小さな、火を、灯すための。

夜明け前の山は、音を凍らせる。だが、朝が来れば、凍った音は、みな、溶けて、水になり、沢を、下り、いつか、海へ、わたっていく。星が、海を、わたるように。

俺は、もう一度、青い星を、見上げて、それから、歩きだした。まだ、夜は、長い。だが、もう、朝の来ることを、俺は、恐れない。夜が、どれほど暗くとも――その底には、必ず、朝を、待っている、誰かがいる。そして、朝は、必ず、来る。俺たちが、迎えに、行くかぎり。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

← 『夜明け前の物語』目次へ