灯明の夜
一
夜明け前の闇は、ほかのどの闇とも違う。
宵の闇には、まだ人の営みの余熱がある。真夜中の闇には、深い眠りのやわらかさがある。けれど寅の刻の闇は、そのどちらでもない。すべての熱が地の底へ引いて、火が消え、湯が冷え、灯が尽きたあとにだけ訪れる、いちばん芯の冷えた闇だ。そこには温めるものが何もない。ただ待つことしか、耐えることしか、祈ることしかできない闇である。
長円寺の本堂は、その闇のただなかにあった。
住職の妻、佐和は、須弥壇の前にひとり座していた。もう何刻この座を守っているのか、自分でもわからなかった。膝の下の畳は硬く、脚の感覚はとうになかった。背をまっすぐに立てているつもりでも、時折、意識が水のように傾いで、はっと持ち直す。そのたびに、堂の空気の冷たさが刃のように喉を滑り落ちていった。
香炉からは、細い煙が一筋、まっすぐに立ちのぼっている。空気がまるで動かないので、煙は一本の細い糸のように、天井の暗がりへ吸い込まれていく。沈香の匂いが、佐和の鼻の奥にしみついていた。甘く、苦く、ほんのりと樹脂の脂を含んだその匂いは、もう匂いというより、この夜そのものの手触りのようになっていた。
須弥壇の左右に、灯明が二つ、ともっていた。菜種油の火は、風もないのに時折ふるえ、そのたびに本尊の阿弥陀如来の金泥の顔に、かすかな表情の揺らぎを生んだ。笑っているようにも、うつむいているようにも見える。佐和はその顔を見上げ、また目を伏せた。見つめすぎると、何かを問うてしまいそうだった。問うても、答えは返らないと知っていた。それでも問うてしまうのが人の弱さで、その弱さを、彼女は今夜、必死に押さえていた。
本堂の奥、庫裏へ続く廊下の先に、一つの部屋がある。そこに、娘の千代がいた。
三日前から熱が引かなかった。はじめは風邪だと思った。冬のはじめの、どこにでもある熱だと。けれど熱は日ごとに高くなり、昨日の夕刻からは、呼びかけても目を開けなくなった。町の医者は来た。首をかしげ、胸に耳をあて、脈をとり、そして長いあいだ黙ったあとで、ただ「今夜が峠でしょう」とだけ言った。薬はある、けれど効くかどうかはわからない、あとは体の力と、と。医者はそこで言葉を濁した。あとは体の力と、天の采配と、そう言いたかったのだろう。
千代は七つだった。
七つになったばかりの、春に、と佐和は思った。この子は、七つになったばかりだ。まだ、生きた歳月より、これから生きるはずの歳月のほうが、幾層倍も長いはずの、そういう歳の子だ。それが、なぜ。冬のはじめの、どこにでもある熱が、なぜ、この子の上でだけ、こんなふうに、深く根を張ったのか。同じ町の、同じ長屋の子らは、みな、二日三日で床を離れたというのに。なぜ、うちの子だけが。その問いは、答えのないまま、佐和の胸の底を、ぐるぐると、回りつづけていた。答えのない問いほど、人を苛むものはない。仏は無常を説く。生あるものは必ず滅す、と。頭では、わかっていた。何百度と、経に読んだ。けれど、頭でわかることと、胸で受け入れることのあいだには、寅の刻の闇より深い、渡りようのない淵があった。
夫の宗玄は、娘の枕元についていた。冷たい手ぬぐいを幾度も替え、小さな胸のかすかな上下を見つめていた。僧である夫は、経を上げるかわりに、ただ黙って娘の手を握っていた。読経は佐和にまかせた、というより、二人のあいだで言葉を交わすことなく、そういうかたちになった。夫は娘の傍らで肉の温もりを守り、妻は本堂で魂の行方を祈る。どちらが欠けても、この夜は越えられない気がした。
佐和は数珠を繰った。
一つ、また一つ。玉の一つ一つに、指の腹の記憶がある。嫁いできた日に、亡き義母から譲られた数珠だった。義母もまた、幾たびもこの玉を繰って、誰かのために祈ったのだろう。その手の温もりが、玉に染みているような気がした。
南無阿弥陀仏。
声には出さなかった。声にすれば、堂の静けさが崩れ、崩れたところから何かがなだれ込んでくる気がして、佐和はただ唇のなかで念仏を転がした。息のかたちだけの、音のない念仏。それは祈りというより、呼吸だった。吸って、吐いて、そのあいだに仏の名を挟む。そうしなければ、息の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
佐和は、嫁いできてから、二十年になる。
この長円寺に、十九で嫁いだ。町のはずれの、檀家も多くはない、貧しい小寺だった。夫の宗玄は、朴訥で、口下手で、けれど、経を上げる声だけは、驚くほど、澄んでいた。その声に惹かれて、と言えば嘘になるが、あの澄んだ声の人となら、貧しくとも、静かに生きていけるだろう、と、若い佐和は思ったのだった。実際、二人の暮らしは、貧しかったが、静かだった。子は、なかなか授からなかった。授からぬまま、十年が過ぎ、もう諦めかけていた三十の年に、ようやく授かったのが、千代だった。だから、この子は、二人にとって、ただ一人の子であるばかりでなく、諦めの果てに、天から、思いがけず、授けられた、恵みの子だった。その恵みを、今、天は、返せと言うのか。いちど与えて、七年で、返せと。
どうか。
その一語から先が、言葉にならなかった。どうか、助けてください。どうか、連れていかないでください。どうか、あの子を。言おうとするたびに、喉が締まり、言葉は途中で砕けて、ただの熱い塊になって胸に落ちた。祈りとは、こんなにも言葉にならないものだったか。佐和はこれまで、何百、何千と経を唱えてきた。仏の教えを人に説くこともあった。無常を、諦めを、受容を。けれど今、自分の娘の命を前にして、彼女の口からこぼれるのは、教えでも悟りでもなく、ただの、獣のような、どうか、という一語だけだった。
二
灯明の一つが、ふいに小さくなった。
菜種油が尽きかけているのだ。佐和ははっと我に返り、須弥壇のわきに置いた油壺へ手を伸ばした。指がかじかんで、うまく蓋が取れない。何度か滑らせて、ようやく開けた。傾けて、灯明皿に油を足す。火は油を吸って、また丈を取り戻した。ゆらりと立ち直った炎を見て、佐和はなぜか、泣きそうになった。
火を絶やしてはいけない。
そう思った。理屈はない。ただ、この二つの灯明を絶やしたら、娘の命の灯も一緒に消えてしまう——そんな、迷信めいた思いが、この夜の彼女を支配していた。人は、救いようのない出来事を前にすると、どんな小さな作法にでもすがるのだと、彼女はこの夜はじめて知った。灯を絶やすまい。香を絶やすまい。その一つ一つが、目に見えぬ命の綱を、かろうじて繋ぎとめているように思えた。
もう一つの灯明も、心もとなく揺れていた。
油壺を傾けると、とろりとした最後の一筋が皿に落ちて、それきり、壺は空になった。振っても、もう何も出ない。佐和の胸が冷えた。まだ夜明けまでには間がある。この二つの灯を、朝までもたせるだけの油が、もうないのだ。
庫裏に予備の油があったはずだ。けれど、この座を立てば、祈りの綱が切れる気がした。立ってはいけない。座を守らねば。けれど油がなければ、火は消える。火が消えれば——。
矛盾した二つの思いのあいだで、佐和は身動きが取れなくなった。
そのとき、須弥壇の下段、経机の隅に、小さな箱があるのに気づいた。
青いマッチ箱だった。
見覚えのある箱だった。町のはずれの、月光堂という小さな店で売っている。灯明や線香、蝋燭のたぐいを商う古い店で、そこの品には、みな決まって、青い包みや青い箱があしらわれていた。この青いマッチ箱も、いつか誰かが供物と一緒に置いていったものか、あるいは夫が買い置いたものか。ともあれ、それは経机の隅に、忘れられたように置かれていた。
箱を取り上げると、ふるとかすかに、なかで軸木の触れ合う乾いた音がした。まだ使えるらしい。佐和はふと、この箱を開けて、蝋燭に火を移そうと思った。灯明の油が尽きても、蝋燭ならまだ庫裏に幾本かある。それを須弥壇の左右に立てて、火を絶やさぬようにすればいい。
彼女は膝で立ち、堂の隅の戸棚から白い和蝋燭を二本、取り出した。そして経机の前に戻り、青いマッチ箱を開けた。
なかには、赤い頭の軸木が、行儀よく並んでいた。一本を取り、箱の側面で擦った。しゅっ、という小さな音とともに、闇のなかに小さな火の花が咲いた。
箱の側面には、月光堂の、青い刷り文字があった。細い、かすれかけた版で、「月光堂」と、それだけ。その下に、小さく、三日月のような形が、あしらわれていた。佐和は、その青い箱を、しばらく、手のなかで、見つめた。月光堂——町のはずれの、あの、古い、暗い店。棚という棚に、線香や、蝋燭や、灯明皿が、うずたかく積まれ、いつ行っても、店の奥が、青みがかった薄暗がりに沈んでいる、あの店。灯りを商う店が、なぜ、あんなに暗いのか、佐和は昔から、不思議だった。けれど、今なら、わかる気がした。灯りを商う者は、闇を、いちばんよく、知っているのだ。闇を知る者だけが、その闇に、火を灯す品を、売ることができるのだ。
その一瞬の光が、佐和の目を射た。
たった一本のマッチの火が、こんなにも明るいものだったか。堂の闇に慣れきった目には、その炎は太陽のように白く、まぶしかった。硫黄の匂いが鼻をかすめ、それから軸木の松脂の燃える匂いが立った。佐和はその火を、蝋燭の芯に移した。ぽっと蝋燭がともり、青いマッチの火は、役目を終えて、彼女の指先で静かに小さくなり、消えた。
消える前の、その最後のひとゆらぎを、佐和は見つめた。
火は、消えることで、蝋燭に命を渡したのだ。自らは消え、けれど別のところに火を移して。それはどこか、この夜の祈りに似ている気がした。祈りもまた、届いたかどうかはわからない。届かぬまま、消えるのかもしれない。けれど、もし届くのだとしたら、それは自らを消して、どこか別のところに、火を、灯すことなのではないか。
佐和は二本の蝋燭を須弥壇に立て、尽きかけた灯明のかわりに据えた。堂は、また明るさを取り戻した。
三
蝋燭の火のもとで、佐和はふたたび座についた。
青いマッチ箱を、数珠のわきに置いた。なぜか、それを手放したくなかった。この小さな箱が、今夜、火を絶やさぬための、たった一つの頼りだった。あと何度、この箱の軸木を擦ることになるだろう。夜明けまで、火をもたせられるだろうか。箱を振ると、まだ十分な数の軸木が、乾いた音を立てた。それが、佐和には妙に心強かった。
娘の顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
千代は、笑うと右の頬にだけ、小さなえくぼができた。夏には、庭のほおずきを鳴らそうとして、いつも失敗して口を尖らせた。字を覚えるのが好きで、経机に向かう父の隣で、見よう見まねで筆を握った。「か」の字がどうしても裏返しになって、それを直すたびに、むうっと膨れた。
そんな、なんでもない日々の断片が、次から次へと浮かんでは、佐和の胸を刺した。あの子は、もう、あの頬でえくぼを作らないのか。もう、ほおずきを鳴らそうとしないのか。もう、裏返しの「か」を書かないのか。
——考えるまい。
佐和は目をきつく閉じた。まだ何も終わっていない。まだ峠は越えていない。今夜が峠だと、医者は言った。ならば、今夜を越えれば。今夜さえ越えれば。
彼女は数珠をきつく握りしめた。玉が指に食い込んで痛かった。その痛みに、すがった。痛みがあるあいだは、まだ自分は正気でいられる。痛みがあるあいだは、まだ祈っていられる。
ふと、遠い記憶が、よみがえった。
佐和が、まだ、幼かったころのことだ。生家は、海辺の、小さな漁師町だった。ある冬、父が、時化の海に、出たきり、幾晩も、帰らなかった。母は、神棚の前に、夜通し座って、祈っていた。幼い佐和は、母の背中を、覚えている。まっすぐに立てた、けれど、時折、細かくふるえる、その背中を。母は、何も言わなかった。ただ、灯明を絶やさず、手を合わせ、口のなかで、何かを、唱えつづけていた。あのとき、佐和は、幼心に、思ったのだ。祈るというのは、こんなにも、静かで、こんなにも、必死なことなのか、と。父は、四日目の朝に、隣町の浜に流れ着いて、生きて、帰ってきた。母の祈りが、届いたのかどうか、それは、わからない。けれど、母は、父が帰ったあとも、しばらく、神棚の前を、離れなかった。その、母の背中が、今、須弥壇の前に座る、佐和自身の背中と、重なった。祈る者の背中は、みな、こうして、代々、受け継がれていくのかもしれない。母から娘へ。娘から、また、その娘へ。
どれほど経ったか。
堂のどこかで、ぴしり、と木の鳴る音がした。夜半の冷えで、柱が縮んで軋む音だ。佐和はびくりとして、廊下の奥へ耳をそばだてた。娘の部屋からは、何の音もしなかった。それが、良いことなのか、悪いことなのか、わからなかった。何の音もしないというのは、静かに眠っているのか、それとも——。
佐和は思わず立ち上がりかけて、しかしまた座り直した。
行ってはいけない。行けば、確かめてしまう。確かめて、もし、と思うと、足がすくんだ。ここで祈っているあいだは、まだ娘は生きている。そう信じていられる。この座を立って、あの部屋の襖を開けたその瞬間に、この夜の意味が決まってしまう気がした。だから彼女は、動かなかった。動けなかった。ただ座して、祈ることだけが、この夜の彼女に許された唯一のことだった。
祈りは、届くのだろうか。
ふいに、その疑いが、氷の刃のように胸を貫いた。
これまで幾たびも唱えてきた念仏、幾たびも上げてきた経。あれは、いったい、どこへ行ったのだろう。仏は、聞いているのだろうか。天のどこかに、この声を受け取る耳があるのだろうか。それとも、祈りとは、ただ闇に向かって声を放つだけの、むなしい行いなのだろうか。放たれた声は、誰にも届かず、ただ夜の冷えに吸い込まれて、消えていくだけなのだろうか。
もし、祈りが届かないのなら。
もし、この夜どれほど祈っても、あの子が——。
佐和の目から、はじめて、涙がこぼれた。
四
涙は、頬をつたって、膝の上に落ちた。
一度こぼれると、あとは止まらなかった。声を立てまいと、佐和は歯を食いしばった。夫に、聞かせたくなかった。あの人はあの人で、娘の枕元で、必死に温もりを守っている。妻の泣き声など、あの人の耳に届けてはならない。だから佐和は、音を殺して泣いた。肩だけが、小刻みにふるえた。
阿弥陀如来の顔を、涙で滲んだ目で見上げた。
金泥の顔は、蝋燭の火に照らされて、あいかわらず、笑っているようにも、うつむいているようにも見えた。何も語らなかった。ただ、そこに在った。千年も、二千年も、こうして人々の祈りを聞いてきたはずの仏は、何も語らず、ただ半眼で、この小さな女の泣く姿を見下ろしていた。
——なぜ、黙っているのですか。
佐和は、心のなかで、はじめて仏を責めた。
これまで、あなたに何を求めたでしょう。富も、栄えも、望みませんでした。ただ、まっすぐに生きてきたつもりです。人に施し、経を上げ、教えを守ってきたつもりです。それなのに、なぜ、あの子なのですか。なぜ、七つの、なんの罪もないあの子から、命を奪おうとするのですか。もし、これがあなたの采配なら、私はもう——。
そこまで思って、佐和は、はっと口をつぐんだ。心のなかの言葉すら、恐ろしくなった。仏を疑い、仏を責め、仏を捨てようとする自分が、恐ろしかった。こんな思いを抱いたまま祈っても、届くはずがない。むしろ、この疑いこそが、祈りを妨げているのではないか。信じきれぬ心で放つ祈りなど、天に届く前に、地に落ちてしまうのではないか。
そう思うと、佐和はますます、泣くしかなかった。
そのとき、庫裏の奥から、かすかな声がした。
佐和は、涙を拭うのも忘れて、耳を澄ました。
——うた、だった。
夫の、宗玄の声だった。低く、かすれた、けれど確かに、旋律を持った声。夫は、娘の枕元で、子守唄を歌っていた。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、
夜が明けて、鳥が啼くまで。
その唄を、佐和は知っていた。千代が赤ん坊のころ、幾たびも歌った唄だった。町の者はみな、この唄を知っていた。誰が作ったのかもわからぬ、古い子守唄。星が海をわたるまで、と歌うその一節が、佐和は昔から好きだった。夜の空を海に見立てて、星がその海をゆっくりとわたっていく。子どもが眠りにつくまでの、長い長い夜を、星の航海になぞらえた唄。
夫は、それを歌っていた。
もう七つになった娘に。赤ん坊のころのように、低い、かすれた声で。眠れ、眠れ、と。
佐和は、その声を聞きながら、また新しい涙をこぼした。けれど、それはさっきまでの涙とは、少し違っていた。
夫もまた、祈っていたのだ。
経ではなく、子守唄で。仏に向かってではなく、娘に向かって。眠れ、と。けれど、その「眠れ」は、二つの意味を持っていた。眠って、体を休めて、そして目を覚ましておくれ、という祈り。そして——もし、目を覚まさぬのなら、せめて、安らかに、恐れずに、眠っておくれ、という、もう一つの、口にできぬ祈り。
佐和は、目を閉じて、その唄に、耳を、ゆだねた。
星が、海をわたるまで。子どものころ、母が歌ってくれたときには、ただ、きれいな一節だと思っていた。夜の空を、海に見立てて、星が、その暗い海を、ひとつ、またひとつ、わたっていく。けれど、今、この夜、その一節は、まるで、違う響きを持って、佐和の胸に、届いた。星が、海をわたるまで——それは、この、長い、長い、夜が、明けるまで、ということだった。いちばん暗いこの海を、星が、わたりきるまで。その、わたりきる、一瞬を、待つこと。待って、待って、待ちつづけること。子守唄とは、つまるところ、待つ者のための、唄なのかもしれなかった。眠る子を待ち、明ける夜を待ち、帰らぬ者を待ち、そして、答えの返らぬ祈りの、その答えを、待つ。人の一生は、待つことに、満ちている。そして、いちばん、待つことの、つらい刻が、この、夜明け前の、寅の刻なのだった。
夫は、その両方を抱えて、歌っていた。
五
佐和は、いつしか、自分も心のなかで、その唄を口ずさんでいた。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
念仏ではなかった。経でもなかった。ただの、古い子守唄。けれど、それを口ずさむうちに、さっきまで胸を締めつけていた、あの、言葉にならぬ苦しさが、少しずつ、ほどけていくのを、佐和は感じた。
祈りとは、こういうものだったかもしれない。
立派な経文でなくてもいい。正しい作法でなくてもいい。仏を疑わぬ、澄みきった心でなくてもいい。ただ、愛する者を思って、その者のために、何かを口ずさむこと。届くかどうかもわからぬ思いを、それでも、闇に向かって、放ちつづけること。それが、祈りなのかもしれない。
疑いながら祈っていい。泣きながら祈っていい。責めながら祈っていい。祈りとは、そんなに、きれいなものではないのかもしれない。むしろ、こんなにも、みっともなく、必死で、言葉にならぬものなのかもしれない。
そう思うと、さっきまでの、仏を責めた自分を、佐和は、ようやく赦せる気がした。
阿弥陀如来を、もう一度、見上げた。
半眼の顔は、あいかわらず何も語らなかった。けれど、佐和には、今はもう、その沈黙が、冷たいものには思えなかった。仏は、答えないのではない。ただ、聞いているのだ。この夜の、母の泣き声も、父の子守唄も、七つの子の、かすかな寝息も、そのすべてを、ただ、聞いているのだ。答えを与えるかわりに、ただ、共にいてくれている。それが、仏というものの、ありようなのかもしれない。
蝋燭が、また一本、短くなっていた。
佐和は、青いマッチ箱を取り、新しい蝋燭に火を移した。しゅっ、と軸木が鳴り、火が咲き、蝋燭に移り、そして、指先で消えた。もう、何度この所作を繰り返しただろう。箱を振ると、軸木の音が、さっきより少しだけ、心もとなくなっていた。
火を絶やすまい。
その一念だけで、彼女は座を守りつづけた。
夜は、まだ明けなかった。堂の外は、依然として、墨を流したような闇だった。障子の向こうに、庭の気配はあるが、色はない。すべてが、灰と黒のあいだに沈んでいた。寅の刻。一日でいちばん暗く、いちばん冷える刻。人の命が、いちばん細くなる刻だと、昔から言われている。老いた者、病んだ者が、この刻に、多く息を引き取ると。
だからこそ、佐和は、この刻を、越えねばならなかった。
娘とともに、この、いちばん暗い刻を、越えねばならなかった。
六
寒さが、骨の芯までしみていた。
火鉢はとうに冷えていた。佐和は、うすい着物の上に、綿入れを一枚羽織っただけだった。息を吐くと、白く濁った。指先はかじかんで、数珠を繰るのも、ままならなくなっていた。それでも、彼女は座を立たなかった。
このとき、ふと、片方だけの手袋のことを、思い出した。
去年の冬、千代に、赤い毛糸の手袋を編んでやった。ふぞろいな、下手な編み目の手袋だった。千代は、それを大事にして、雪の日には必ずはめて出かけた。けれど、あるとき、片方をなくしてしまった。どこでなくしたのか、いくら探しても見つからなかった。千代は泣いた。佐和は、また編んでやると言ったが、千代は、あの手袋がいい、あれでなければいやだと、いつまでも泣いた。
残った片方の手袋は、今も、庫裏の千代の文箱のなかに、しまってある。片方だけの、赤い手袋。
なぜ、今、それを思い出したのか、佐和にはわからなかった。けれど、思い出すと、また涙がこみあげた。片方だけの手袋。片方をなくして、けれど、残った片方を、あの子は捨てなかった。いつか、なくした片方が、戻ってくると信じていたのかもしれない。あるいは、ただ、その片方が愛おしかったのかもしれない。
もし、あの子が、この夜を越えられなかったら。
残るのは、片方だけの手袋のように、佐和と、宗玄と、二人だけになる。娘という、片方をなくして。けれど、二人は、生きていかねばならない。片方だけの手袋を捨てられなかった、あの子のように、残されたものを抱えて、生きていかねばならない。
そう思うと、佐和は、胸が張り裂けそうだった。
いや。
佐和は、頭を振った。
まだだ。まだ、あの子は、生きている。まだ、なくしていない。片方だけの手袋のことなど、思うまい。二人だけになることなど、考えまい。今は、ただ、祈るのだ。あの子が、この夜を越えられるように。二つの手袋が、そろって、また雪の日に、あの子の小さな手を包めるように。
彼女は、ふたたび、数珠を繰った。かじかんだ指で、一つ、また一つ。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
心のなかで、子守唄を口ずさんだ。そして、その合間に、念仏を挟んだ。南無阿弥陀仏。二つの祈りが、彼女のなかで、ひとつに溶けあった。仏への祈りと、娘への祈りと。どちらが、どちらとも、もう区別がつかなかった。ただ、愛する者のために、闇に向かって、声にならぬ声を放ちつづける。それだけが、この夜の、彼女のすべてだった。
七
どれほど、そうしていただろう。
ふと、佐和は、堂の空気が、わずかに変わったのを感じた。
何が変わったのか、すぐにはわからなかった。けれど、確かに、何かが変わった。ずっと動かなかった香の煙が、かすかに、揺れた。どこからか、細い、細い、空気の流れが、堂に忍び込んできたのだ。
夜明けの、風。
佐和は、はっと顔を上げた。
まだ、堂のなかは暗い。蝋燭の火が、二つ、揺れている。けれど、その揺れ方が、さっきまでとは違っていた。堂の、東側の障子。その向こうに、ほんのわずか、闇の質が、変わりはじめていた。
彼女は、立ち上がった。
脚の感覚は、とうになかった。膝が、笑うようにふるえた。それでも、佐和は、須弥壇のわきの、小さな連子窓へ、歩み寄った。冷たい木の格子に手をかけ、外を、覗いた。
空は、まだ、暗かった。
けれど、その暗さは、もう、真夜中の暗さではなかった。東の、山の稜線のあたりが、ほんの、ほんのわずか、藍を帯びはじめていた。夜が、いちばん深いところを通り過ぎて、ゆっくりと、こちらへ、傾きはじめている。そんな、気配だった。
そして、その、まだ暗い空のなかに——
一つの、星が、あった。
ほかのどの星よりも、冴えて、強く、蒼く、光る星。
佐和は、息を呑んだ。
それは、ミラ彗星だった。
いつだったか、夫が、経机で、古い暦を繰りながら、教えてくれたことがあった。この冬、めずらしい星が、空にあらわれるのだと。ミラという名の、蒼い尾を引く星。長い長い旅をして、幾百年に一度、この空に戻ってくる星なのだと。
その星が、今、夜明け前の、いちばん暗い空に、いちばん冴えて、光っていた。
まわりの星々が、夜明けの気配に、一つ、また一つと、光を弱めていくなかで、その蒼い星だけが、まるで、闇を恐れぬかのように、いや、闇が深ければ深いほど、かえって強く、澄んで、光っていた。いちばん暗いこの刻に、空でいちばん、冴えて。
佐和は、その星を見つめた。
なぜだろう。その蒼い光を見ているうちに、彼女の胸のなかの、あの、言葉にならぬ苦しさが、すっと、鎮まっていくのを感じた。
八
いちばん暗いときに、いちばん、光る。
その星は、そう告げているようだった。
夜が、深ければ深いほど。闇が、濃ければ濃いほど。その、いちばん暗いところでこそ、光は、いちばん強く、冴えて、見える。宵の空では、あんなに、目立たなかったであろう星が、この、寅の刻の、いちばん暗い空では、こんなにも、まぶしく、光っている。
祈りも、そうなのかもしれない、と佐和は思った。
苦しくないときの祈りは、たぶん、あの、宵の星のようなものだ。あってもなくても、あまり、変わらない。けれど、いちばん苦しいとき、いちばん、絶望の底にあるときの祈りは——あの、夜明け前の蒼い星のように、いちばん、強く、天に、届くのかもしれない。
届くかどうかは、わからない。
けれど、あの星が、闇のなかで、あんなにも、けなげに光っているように。私の祈りもまた、この夜の闇のなかで、けなげに、光っているのかもしれない。誰の目にも見えぬかもしれない。仏の耳にすら、届かぬかもしれない。それでも、光ることを、やめない。放つことを、やめない。それが、祈りなのだ。
佐和は、連子窓のそばに立ったまま、その蒼い星に、手を合わせた。
南無阿弥陀仏。
はじめて、声に出して、唱えた。
低い、かすれた声だった。けれど、その声は、堂の闇に吸い込まれるのではなく、まっすぐに、あの、蒼い星に向かって、のぼっていくように、佐和には、思えた。
須弥壇に、灯明のかわりの蝋燭が、二つ、揺れていた。
佐和は、窓辺を離れ、経机の、青いマッチ箱を、手に取った。もう、軸木は、いくらも残っていなかった。振ると、二本か、三本か。
彼女は、その最後の軸木の一本を取り、蝋燭に、火を、移した。
しゅっ、と、いちばん最後の、鮮やかな火の花が、咲いた。
その火を、蝋燭に移し、佐和は、須弥壇の、いちばん高いところに、その蝋燭を、そっと、供えた。仏のためではなかった。娘のためだった。この火を、あの、蒼い星への、灯明にしよう。この夜、私が祈った、そのしるしとして。この、小さな火が、あの、大きな星と、天のどこかで、繋がっていますように。
青いマッチの火は、蝋燭に命を渡して、佐和の指先で、静かに、消えた。
そして、その、消える瞬間の、かすかな、ひとゆらぎのなかに——
佐和は、もう一度、あの子守唄を、聞いた気がした。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
星が。海を。わたるまで。
九
そのとき、庫裏の奥で、物音がした。
佐和は、びくりと、身をこわばらせた。
襖の、開く音。そして、廊下を、踏む足音。夫の、足音だった。速くはない。けれど、いつもと、どこか、違う。その足音は、まっすぐに、本堂のほうへ、近づいてきた。
佐和は、動けなかった。
須弥壇の前に、立ちすくんだまま、その足音を、聞いていた。心臓が、痛いほど、打っていた。この足音が、何を、告げに来るのか。峠を、越えたのか。それとも——。
佐和は、思わず、青いマッチ箱を、握りしめた。もう、火をともす軸木も、ほとんど残っていない、その、空に近い箱を。
足音が、本堂の入り口で、止まった。
佐和は、振り返ることが、できなかった。振り返れば、夫の顔を、見てしまう。その顔に浮かんだものを、読み取ってしまう。読み取れば、この夜の、意味が、決まってしまう。だから、彼女は、須弥壇のほうを向いたまま、動けなかった。
「佐和」
夫の声が、した。
低い、かすれた声。ずっと、子守唄を歌いつづけて、疲れきった声。佐和は、その一言に、これから続く言葉を、恐れた。
「佐和」
夫は、もう一度、妻の名を、呼んだ。
そして、言った。
「熱が、引いた」
佐和は、その言葉の意味を、すぐには、飲み込めなかった。
「今しがた」と、夫は、続けた。声が、ふるえていた。「今しがた、額に、手をあてたら……熱が、引いていた。汗を、たくさん、かいて……。そして……目を、開けた」
佐和は、ゆっくりと、振り返った。
夫が、入り口に、立っていた。その頬に、涙が、つたっていた。僧である夫が、これまで、佐和の前で、涙を見せたことは、一度も、なかった。その夫が、今、子どものように、頬を濡らして、立っていた。
「水を、飲みたいと……言った。あの子が……小さな声で……水を……」
佐和の膝から、力が、抜けた。
彼女は、その場に、崩れるように、座り込んだ。青いマッチ箱が、手から、こぼれ落ちて、畳の上を、乾いた音を立てて、転がった。
目を開けた。水を飲みたいと言った。ただ、それだけの、なんでもない、言葉。健やかな子なら、一日に、何十度と、口にするであろう、言葉。けれど、その、なんでもない言葉が、今、佐和には、この世で、いちばん、美しい言葉に、聞こえた。あの子が、また、言葉を、話した。あの、青白い唇が、また、動いた。あの、閉じたまま開かなかった目が、また、この世の光を、映した。それだけで、それだけのことが、こんなにも。人は、失いかけて、はじめて、あたりまえのことの、かけがえのなさを、知る。水を飲みたい、という、たった一言に、天地がひっくり返るほどの、重みが、宿ることを、知る。
そして、佐和は、声を、あげて、泣いた。
もう、殺す必要の、ない声だった。夫に、聞かせて、いい声だった。堂の闇を、揺るがすほどの、大きな、大きな、泣き声だった。それは、悲しみの涙では、なかった。この夜、はじめて流す、悲しみでは、ない涙だった。
十
夫が、佐和のそばに、来て、その肩に、手を、置いた。
二人は、須弥壇の前で、しばらく、言葉もなく、ただ、寄り添っていた。夫の手も、佐和の肩も、冷えきっていた。けれど、その、冷えた手と手のあいだに、かすかな、温もりが、生まれていた。
「……祈りが」と、佐和は、しゃくりあげながら、言った。「祈りが、届いたの、でしょうか」
夫は、すぐには、答えなかった。
長い、沈黙が、あった。灯明のかわりの蝋燭が、二つ、静かに、揺れていた。香炉の煙は、また、動きはじめた夜明けの風に、ゆらゆらと、たなびいていた。
「わからぬ」と、やがて、夫は、言った。
正直な、答えだった。僧でありながら、夫は、届いたとは、言わなかった。言えなかったのだ。それが、この人の、誠実さだった。
「わからぬ。祈りが、あの子を、救ったのか。それとも、あの子の、体の力が、勝ったのか。あるいは、ただの、めぐりあわせなのか。……わからぬ」
夫は、そこで、言葉を、切った。そして、須弥壇の、阿弥陀如来を、見上げた。
「けれど」と、夫は、続けた。「わからぬ、ということが、大切なのだと、わしは、思う」
「もし」と、夫は、言った。「祈れば必ず救われると、わかっていたら、それは、もう、祈りでは、ない。取り引きだ。あるいは、まじないだ。届くかどうか、わからぬからこそ、人は、必死に、祈るのだ。答えが、返らぬかもしれぬ、と知りながら、それでも、闇に向かって、声を放つ。……それが、祈りだ」
佐和は、涙の乾かぬ目で、夫を、見た。
「今夜」と、夫は、静かに、言った。「わしは、経を、上げなかった。ただ、あの子の、手を握って、子守唄を、歌っただけだ。仏を、疑いもした。なぜ、この子を、と。……お前も、そうであったろう」
佐和は、こくり、と、うなずいた。
「それでも、わしらは、祈るのを、やめなかった。疑いながら、泣きながら、それでも、祈った。……仏は、その、みっともない祈りを、聞いてくださったのか、くださらなかったのか。それは、わからぬ。けれど、わしらは、祈った。祈ることを、やめなかった。その、一夜を、越えた。……それだけで、よいのだと、わしは、思う」
夫の言葉は、静かに、佐和の胸に、しみた。
祈りが、届いたかどうか。それは、わからない。永遠に、わからないのかもしれない。仏は、あいかわらず、半眼で、何も、語らない。この夜の、その沈黙の意味を、佐和が、知ることは、ないだろう。
けれど、佐和は、もう、その沈黙を、恐れなかった。
十一
東の、連子窓が、白みはじめていた。
さっきまで、藍色だった空が、今は、うっすらと、白と、薔薇色の、あわいに、染まりつつあった。夜が、明けようとしていた。あの、いちばん暗い刻を、二人は、いや、三人は、越えたのだ。
佐和は、立ち上がり、もう一度、連子窓へ、歩み寄った。
空を、見上げた。
あの、蒼い星は——ミラ彗星は、もう、朝の光に、溶けはじめていた。夜が明ければ、あの星は、見えなくなる。けれど、消えるのでは、ない。ただ、昼の光の、向こう側へ、退くだけだ。そして、また、次の夜が来れば、また、闇が、いちばん深くなれば、あの星は、また、冴えて、光るだろう。いちばん暗いときに、いちばん、強く。
空には、もう、ほかの星は、ほとんど、見えなくなっていた。夜明けの光が、一つ、また一つと、星々を、拭い去っていく。けれど、あの、蒼い星だけは、最後まで、残っていた。まるで、この夜を祈りとおした者を、見届けようとするかのように。あるいは、次の、いちばん暗い夜まで、また、幾百年でも、旅をつづけると、告げるかのように。長い旅をする星なのだ、と夫は言った。幾百年に一度、この空に戻り、そして、また、闇の彼方へ、去っていく。人の一生など、あの星の、ひとまたたきにも、満たぬだろう。けれど、その、ひとまたたきの、いちばん暗い夜に、あの星は、確かに、ここで、光っていた。佐和の祈りと、ちょうど、同じ夜に。それは、偶然かもしれない。ただの、めぐりあわせかもしれない。けれど、佐和には、その偶然が、この夜、天が、彼女に与えた、たった一つの、目に見える、しるしのように、思えてならなかった。
佐和は、その、溶けゆく蒼い光に、もう一度、手を、合わせた。
ありがとう、と、心のなかで、つぶやいた。
祈りを、届けてくれて、ありがとう、では、なかった。ただ、この、いちばん暗い夜に、いちばん暗い空で、光っていてくれて、ありがとう、と。あなたが、光っていてくれたから、私は、祈りつづけることが、できました。あなたが、闇を恐れずに、光っていてくれたから、私も、闇のなかで、声を、放ちつづけることが、できました。それだけで、じゅうぶんです、と。
「あの子の、ところへ、行ってやりなさい」と、夫が、言った。
佐和は、うなずいた。
けれど、行く前に、彼女は、畳に、転がった、青いマッチ箱を、拾い上げた。振ってみた。かすかに、一本か、二本、軸木の音が、した。まだ、残っていた。
佐和は、その箱を、経机の、いちばん見えるところに、そっと、置いた。捨てる気には、なれなかった。この、小さな青い箱が、この夜、火を、絶やさずに、いてくれた。この箱の、一本一本の軸木が、闇のなかに、光を、灯しつづけてくれた。
いつか、また、誰かが、この長円寺の、本堂で、いちばん暗い夜を、越えねばならぬときが、来るかもしれない。そのとき、この、青いマッチ箱が、また、火を、灯すだろう。誰かの祈りのために、闇のなかに、小さな、光を。
佐和は、経机の青い箱に、一礼して、そして、庫裏へ、続く廊下を、歩きだした。
廊下は、まだ、冷えていた。けれど、その先の、娘の部屋の、襖の隙間から、ほんのりと、あたたかな、行灯の光が、漏れていた。
十二
襖を、開けると、千代が、目を、開けて、いた。
汗に濡れた前髪が、額に、貼りついていた。頬は、まだ、青白かった。けれど、その目は、確かに、開いて、母を、見ていた。
「かか、さま」
小さな、かすれた声で、千代が、言った。
その、たった一言に、佐和は、また、涙が、あふれた。彼女は、娘のそばに、膝を、つき、その、小さな手を、両手で、包んだ。冷たかった娘の手に、かすかな、けれど、確かな、温もりが、戻っていた。
「ここに、いますよ」と、佐和は、言った。「かかさまは、ここに、いますよ」
千代は、安心したように、また、目を、閉じた。けれど、それは、もう、あの、呼んでも開かなかった、深い眠りでは、なかった。ただの、疲れた子の、健やかな、まどろみだった。
部屋の隅では、夫が、行灯のそばに、座り込んでいた。もう、歌ってはいなかった。ただ、疲れきった目で、けれど、その目の奥に、確かな、安らぎを湛えて、母と娘を、見つめていた。行灯の、あたたかな光が、三人の顔を、やわらかく、照らしていた。本堂の、あの、冷えきった蝋燭の火とは、違う光だった。あの火は、闇のなかで、必死に灯しつづけた、祈りの火だった。この、行灯の火は、その祈りが、越えた朝を、静かに祝う、慰めの火だった。同じ火でありながら、こんなにも、違う。人の営みのなかで、火は、いくつもの、顔を持つ。
佐和は、娘の手を、握ったまま、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、
夜が明けて、鳥が啼くまで。
歌いながら、佐和は、障子の外を、見た。
夜は、明けた。星は、海を、わたりきった。そして、鳥が、啼きはじめていた。庭の、どこかで、一羽、また一羽と、夜明けを告げる、小鳥の声が、澄んだ空気を、渡っていく。
その、朝のことを、佐和は、生涯、忘れなかった。
千代は、その後、すっかり、快復した。また、笑うと、右の頬に、えくぼを作り、ほおずきを鳴らそうとして失敗し、裏返しの「か」を書いた。翌年の冬には、なくしたはずの、片方の手袋が、思いがけず、庭の、椿の根方から、見つかった。二つそろった、赤い手袋を、千代は、雪の日に、うれしそうに、はめて出かけた。
佐和は、あの夜のことを、あまり、人には、語らなかった。祈りが、娘を救ったのだ、とは、言わなかった。夫が言ったように、それは、わからないことだった。ただ、彼女は、あの夜、自分が、いちばん暗い刻に、いちばん、必死に、祈ったこと、そして、そのとき、空に、あの、蒼い星が、光っていたことを、胸の奥に、しまっていた。
年老いてから、佐和は、ときおり、月光堂に立ち寄って、あの、青いマッチ箱を、買い求めた。
そして、長円寺の本堂の、経机の隅に、そっと、置いておいた。誰のためとも、知れず。ただ、いつか、また、誰かが、いちばん暗い夜を、越えねばならぬときのために。その、青い箱の、一本の軸木が、闇のなかに、小さな、けれど、確かな、光を、灯せるように。
人には、ただ、祈るしか、ない夜が、ある。
言葉にならぬ願いを、闇に向かって、捧げつづける夜が。祈りが、届くのか、届かぬのか、答えは、返るのか、沈黙のままか、それすら、わからぬ夜が。
けれど、と、佐和は、思う。
いちばん暗いその夜にこそ、空では、いちばん冴えた星が、光っている。そして、いちばん暗いその夜にこそ、人の祈りは、いちばん、けなげに、光る。届くかどうかは、わからない。それでも、闇を恐れず、光ることを、やめない。
夜明けは、いつも、いちばん暗い刻の、すぐあとに、来るのだから。