三時四十分の坂
三時四十分の坂
眠っている町を、いちばんさきに起こすのは、たぶん自分の自転車のブレーキの音だ。そう思うと、少しだけ、誇らしいのだった。
目覚まし時計が鳴るまえに、律は目を覚ます。三時十五分。枕もとの時計が、暗がりのなかで小さな緑の数字を灯している。針の音も、数字の光も、この時刻には妙にはっきりと感じられて、まるで町じゅうで自分ひとりだけが起きているような、そんな心細さと、そのうらがえしのような静かな昂ぶりが、いつも胸の底で入りまじる。
布団のなかは、まだ体温のかたちに温かい。そこから抜け出すのが、一日でいちばんつらい。冬のさなかのこの時刻、部屋の空気は刃物のように冷えていて、足の裏を床につけるだけで、身のうちの何かがきゅっと縮こまる。それでも律は、音を立てないように布団をたたみ、暗い廊下を、壁づたいに台所へ向かう。
母を起こしてはいけない。父を起こしてはいけない。眠っている家族の寝息のあいだを、律はすり抜けていく。この家では、律が起きていることを、朝になるまでだれも知らない。それでいい、と律は思っている。知られずにやってのけて、みんなが起きるころには、もう終わっている。そういう仕事なのだ、これは。
台所で、律は牛乳を一口だけ飲む。冷たい牛乳が、まだ半分眠っている喉を、するりと通っていく。自分が配るものと同じ、白い、あたりまえの味。それを飲むと、ようやく、体のどこかがきちんと目を覚ます。
上着を着る。厚手のシャツを二枚、その上にセーター、それから綿の入った上着。首にはマフラーを巻く。母が編んでくれたマフラーだ。毛糸のあいだから、去年の冬のにおいがする。そして最後に、手袋を、はめる。
手袋は、片方しかない。
もともとは、そろいの一組だった。紺色の毛糸で編まれた、指先まである手袋。それを律は、この冬のはじめに、どこかで片方なくした。配達路のどこかで落としたのか、鞄のなかに置き忘れて、それがどこかへ紛れたのか、もう思い出せない。気づいたときには、右手のぶんだけが残っていた。
母は、「新しいのを買ってあげる」と言った。けれど律は、いらない、と首を振った。うちに、そんな余裕がないことを、律はよく知っていた。父が働けなくなってから、この家の暮らしは、ずっと薄い氷の上を歩くようなものだった。牛乳配達の給金は、けっして多くはないけれど、それでもこの家には、たしかに要るお金だった。手袋の一組ぶんの値段が、どれだけのものか。律にはそれが、はっきりと数字で見える。
去年の秋のことだった。父が、勤め先の作業場で、足場から落ちて、腰を、痛めた。ひと月ちかく、寝たきりで、それから、少しずつ、起きられるようには、なったけれど、もう、前のようには、働けなくなった。重いものを、持てなくなった。長く、立っていられなくなった。父は、そのことを、いちばん、悔しがっていた。夕餉の卓で、父が、うつむいて、箸を持つ手を、じっと、見ているのを、律は、何度も、見た。その手が、ふるえているのを。
そのころ、律は、まだ、ただの、子どもだった。学校へ行って、帰ってきて、遊んで、寝る。それだけの、子どもだった。けれど、父の、あの、うつむいた背中を、見ているうちに、律のなかで、なにかが、変わった。自分にも、なにか、できることが、あるはずだ。この家のために。父の、悔しさの、いくらかでも、肩がわりできることが。
律が、牛乳配達をやりたい、と言ったとき、母は、はじめ、反対した。まだ子どもなのに、こんな寒いなか、暗いうちから、と。父は、なにも、言わなかった。ただ、じっと、律の顔を、見ていた。そして、しばらくして、低い声で、「そうか」と、ひとことだけ、言った。その、ひとことに、いろいろなものが、こもっていた。すまない、という気持ちと、ありがとう、という気持ちと、それから、たぶん、少しの、誇らしさと。律は、それを、聞き分けた。だから、律は、やることに、決めた。
だから律は、片方だけの手袋を、右手にはめる。ペダルをこぐとき、いつも下になって力の入る、右手に。左手は、上着の袖を長く引きおろして、そのなかに指をしまう。それでどうにか、しのいでいる。
けれど、朝がいちばん冷えるこの時刻、袖のなかの左手は、じきに感覚をなくす。かじかんで、赤くなって、しまいには痛みも感じなくなる。ハンドルを握る左手が、まるで自分の手ではない、木の枝か何かのように思えてくる。そのたびに律は、口のなかで、ちいさく息を吐きかける。白い息が、闇のなかに、ふわりと立ちのぼって、消える。
外に出ると、世界は、ぜんぶ、青かった。
空も、道も、屋根も、街灯の光の届かないところは、みんな深い青に沈んでいる。まだ夜のいちばん濃いところ。星が、驚くほどたくさん、天いっぱいに散らばっている。町の灯がほとんど消えているから、この時刻の空は、昼間の空とは、まるで別の空だった。
律は、店の裏手に停めてある自転車のところへ行く。前と後ろの荷台に、木箱がくくりつけてある。そのなかに、牛乳屋のおじさんが、もう瓶を詰めておいてくれている。ガラス瓶が、箱のなかで、かちゃりと鳴る。銀色の紙のふたが、街灯の光を、ちいさく弾く。
一本一本が、ずしりと重い。全部で、七十本ちかく。それを積んだ自転車は、押すだけでも、腕にこたえる。律は、両手でハンドルをつかみ、体重をかけて、ぐっと自転車を押し出す。タイヤが、凍てついた路面の上を、じゃり、と鳴る。
サドルにまたがると、荷の重みで、車体がぐらりと傾く。それを、足で支えて、まっすぐに立てなおす。息を、ひとつ、吸う。冷たい空気が、肺のいちばん奥まで届いて、そこで小さく痛む。
そして、律は、ペダルを、踏みこむ。
きい、と、こぎはじめの一漕ぎ目に、チェーンが鳴る。それから、自転車は、ゆっくりと、動きだす。重い。世界でいちばん重いものを引いて進んでいるみたいだ。けれど、いちど動きだしてしまえば、あとは、その重さが、律の背中を押してくれる。坂を下るとき、その重さは、ありがたい速さに変わる。
律の配達路は、この町の、東のはずれから始まる。
まずは、川ぞいの一帯。それから、坂をのぼって、丘の上の住宅地。それをぐるりと回って、また坂を下り、駅の裏の商店街をぬけて、最後に、古い長屋のならぶ路地で終わる。全部で、二時間ちかくかかる。終えるころには、東の空が、白みはじめている。
最初の家は、川ぞいの、佐藤さんの家。門の脇に、木でできた牛乳箱がある。律は自転車を停め、箱から一本、瓶を取り出して、佐藤さんの家の牛乳箱の蓋を、そっと開ける。空になった瓶が、なかにひとつ。それを取り出して、荷台の空箱に入れ、代わりに、新しい一本を、静かに、置く。
この、瓶を置くときの所作が、律はいちばん好きだった。かたん、と音を立てないように。眠っている人を、起こさないように。指先で、そっと、瓶の底を箱の底になじませる。それは、まるで、そこで眠っている人に、小さな贈り物を、こっそり届けているような、そんな気持ちのする所作だった。
この家の人は、朝、目を覚まして、この牛乳を飲むのだ。冷えた牛乳を、あたたかい台所で。その人は、ゆうべ律が、まだ暗いうちに、かじかむ手で、この一本を置いていったことを、たぶん、知らない。知らなくていい。ただ、その一本が、朝、きちんとそこにある。それだけで、律の仕事は、果たされている。
律はまた、自転車にまたがる。次の家へ。その次の家へ。
はじめのころ、律は、この、暗いなかを、ひとりで、こいでいくのが、こわかった。
夜の町は、昼の町とは、まるで、ちがう顔をしていた。見なれた道が、暗いなかでは、知らない道のように、見えた。電柱の影が、人のかたちに、見えた。風で、木立が、ざわめくと、そこに、なにか、いるような気が、した。犬が、闇のなかで、いきなり、吠えると、心臓が、口から、飛び出しそうに、なった。
最初のひと月ほど、律は、毎朝、こわさと、たたかいながら、こいでいた。早く、明るくなってくれ、と、そればかり、思っていた。ペダルをこぐ足に、ぎゅっと、力を、こめて、うしろを、振りかえらないように、して。
けれど、いつのころからか、律は、こわがらなく、なった。
それは、たぶん、この、暗い道の、ひとつ、ひとつを、律が、自分の、体で、覚えていったからだった。この角を曲がると、次に、なにが、あるか。この坂の、いちばん急なところは、どこか。どの犬が、吠えて、どの犬が、吠えないか。全部、律は、知った。知ってしまえば、こわいものは、なにも、なかった。暗闇そのものが、律の、よく知った、なじみのものに、なっていった。
いまでは、律は、この、暗い時刻の町を、まるで、自分の、庭のように、こいでいく。だれもいない、静かな、この時刻の町が、律には、ひそやかな、じぶんだけの、王国のように、思えることさえ、あった。
川ぞいの道は、風が、いちばん冷たい。
水面をわたってくる風が、まっすぐに、律の頬を打つ。マフラーから出ている顔の部分、額と、鼻と、耳。そこが、じんじんと痛くなる。目のふちに、じわりと涙がにじむ。それは、悲しくて出る涙ではなくて、ただ、寒さが押し出す涙だった。まぶたのなかで、そのしずくが、街灯の光を、ちいさく、七色に散らす。
袖のなかの左手は、もう、とうに感覚をなくしている。律は、赤信号もない、だれもいない道の途中で、いちど自転車を停め、左手を、口もとへ持っていく。はあ、と、白い息を、手のひらに吹きかける。何度も、何度も。けれど、その白い息の温かさは、あっというまに、冷たい空気にさらわれてしまう。
もういちど、右手の手袋を見る。紺色の、片方だけの手袋。母の編んだ、こまかい毛糸の目。この手袋が、右手だけでも、あることを、律はありがたく思う。もし、両手とも、素手だったら。そう思うと、片方でも、あることの温かさが、いっそう身にしみる。
失くしたもう片方は、いまごろ、どこにあるのだろう。どこかの道端で、土に汚れて、雨に濡れて、だれかに踏まれているのだろうか。それとも、誰かが拾って、どこかの塀の上に、そっと乗せてくれているだろうか。落とし主が、いつか通りかかって、見つけられるように。この町のどこかに、片方だけの、自分の手袋の、片割れが、ある。そう思うと、律は、なんだか、不思議な気持ちになる。まるで、自分自身の一部が、この町のどこかで、自分の帰りを待っているような。
坂を、のぼる。
丘の上の住宅地へ向かう、長い坂。ここが、この配達路で、いちばんつらいところだった。荷の重い自転車で、この坂をのぼるのは、律の細い足には、ほとんど無理なことだった。だから律は、自転車を降り、それを押して、坂をのぼる。
一歩、一歩。凍った坂道に、律の吐く白い息が、点々と散る。自転車のタイヤが、じゃり、じゃり、と、規則正しく鳴る。その音だけが、眠った町の静けさのなかに、響いている。
坂の途中で、律は、いちど立ちどまって、うしろを振りかえる。
のぼってきた坂の下に、町が、青く沈んで、広がっている。まだ、ほとんどの家が、眠っている。屋根の重なりが、闇のなかで、幾重にも折りかさなって、ゆるやかな谷をつくっている。そのずっと向こう、町のいちばん低いところを、川が、黒く、ひとすじ、流れている。
そして、空。
律は、坂の途中で、空を、見あげた。
そこに、蒼い星が、あった。
ほかのどの星よりも、大きく、鋭く、澄んで、蒼く光る星。空のいちばん暗いところで、それだけが、まるで、そこに一点、氷の孔があいて、そこから、この世のものではない光が、こぼれ出ているみたいに、冴えて、光っている。
彗星だ、と律は思った。
いつだったか、店の牛乳屋のおじさんが、教えてくれた。「このごろ、明けがたの空に、めずらしい星が出とるらしいぞ。ミラ彗星、というそうだ。何十年に一度、いや、何百年に一度、めぐってくる星だ、と。」
その、ミラ彗星が、いま、律の頭の真上に、かかっていた。
不思議だった。夜がいちばん深く、寒さがいちばん厳しく、町がいちばん深く眠っている、この、寅の刻。一日でいちばん暗いこの時刻に、その星は、空でいちばん、強く、輝いていた。まるで、暗ければ暗いほど、その光は、強くなるかのように。まわりのすべてが闇に沈んでいるからこそ、その一点だけが、いっそう、まぶしく、澄んでみえた。
律は、しばらく、その星を、見あげていた。かじかんだ手のことも、重い荷のことも、のぼりきれない坂のことも、その一瞬だけ、忘れていた。
この星を、いま、見ているのは、この町で、たぶん、自分だけだ。みんなが眠っているこの時刻に、いちばん暗い、いちばん寒いこの道の上に、自分がいたから、この星を、見ることができた。
そう思うと、律は、なんだか、この、つらい仕事のことが、少しだけ、ちがって見えるような気がした。だれも見ていないこの時刻の、だれも知らないこの空の、いちばん美しいものを、自分だけが、見ている。それは、この仕事をしている自分に、だけ、そっと開かれた、秘密の扉のようなものだった。
律は、ふうっと、白い息を吐いた。その白い息が、蒼い星に向かって、のぼっていって、闇のなかに、溶けた。
そして、また、自転車を、押しはじめた。坂の、のこりを。
丘の上に、のぼりきると、そこには、少しちがう風景が、待っていた。
まだ暗い。けれど、ここには、ぽつり、ぽつりと、灯りのついた窓が、あった。
丘の上の住宅地には、朝の早い人たちが、住んでいる。市場へ野菜を出しにいく八百屋さん。始発の電車で、遠くの工場へ通う人。朝いちばんの厨房に立つ、パン屋さん。そういう人たちの家の窓に、この時刻、もう、あたたかい色の灯りが、ともりはじめていた。
律は、その灯りを見るのが、好きだった。
暗い町のなかに、ひとつ、またひとつと、ともる、あかい灯り。それは、律に、告げていた。この暗い、寒い、眠った町のなかで、起きているのは、自分だけではない、と。ほかにも、いる。この時刻に、目を覚まして、それぞれの、朝の支度を、始めている人たちが。
一軒の家の窓から、味噌汁のにおいが、ながれてきた。だしの、あたたかい、湯気のにおい。それが、冷えきった律の鼻を、そっと、なでていった。律の腹が、きゅう、と鳴った。律は、思わず、笑った。
その家の牛乳箱に、律は、一本を置く。かたん、と鳴らさないように、そっと。そして、その灯りのともった窓を、いちど、見あげる。窓のなかで、だれかが、湯気の向こうで、動いている影。その影に向かって、律は、心のなかで、小さく、言う。
――おはようございます。あなたの牛乳、置いていきますね。
もちろん、その声は、届かない。窓は閉まっているし、律は、声に出したわけでもない。けれど、律は、その、届かないあいさつをするのが、好きだった。眠らずに、朝を迎えようとしている人と、暗いうちから働いている自分とが、この時刻、この町の空の下で、ひそかに、つながっているような、そんな気がしたから。
住宅地を、ぐるりと、回る。
牛乳箱を、ひとつ、ひとつ。この家には、二本。あの家には、一本。子どものいる家には、たいてい、多く。年寄りのひとり暮らしの家には、一本。律は、どの家が何本か、もう、全部、頭に入っている。
配達をはじめて、半年になる。はじめのころは、家の順番も、本数も、なかなか覚えられなくて、何度も間違えた。牛乳屋のおじさんに、叱られたことも、あった。けれど、いまは、もう、体が、覚えている。目をつぶっていても、次の家へ、たどりつけそうなくらいに。
そのことが、律には、少し、誇らしかった。半年前の自分には、できなかったことが、いまは、できる。それは、たしかに、自分が、この仕事のなかで、なにかを、身につけた、ということだった。だれに褒められるわけでもない。けれど、自分の体が、この道を、覚えている。その手ごたえが、寒さのなかで、律の背筋を、まっすぐに、してくれた。
坂の上の、いちばん奥の家。ここには、律より、ずっと年上の、おばあさんが、ひとりで住んでいる。この家に瓶を置くとき、律は、いつも、ほんの少し、時間をかける。
というのも、このおばあさんの家の牛乳箱には、ときどき、小さな、書きつけが、入っているからだ。
きょうも、あった。牛乳箱の蓋を開けると、空瓶のよこに、四つに折った、小さな紙。律は、それを、開いて、読む。街灯の、乏しい光のなかで。
「まいにち、ありがとう。さむいのに、たいへんね。かぜをひかないように。」
律の、胸の奥が、じん、と、あたたかくなった。
このおばあさんは、律の顔を、見たことがない。名前も、知らない。ただ、毎朝、暗いうちに、だれかが、自分の家に、牛乳を届けてくれる、ということだけを、知っている。その、顔も名前も知らない、だれかに向けて、おばあさんは、こうして、ときどき、小さな手紙を、書いて、牛乳箱に、入れておいてくれるのだ。
律は、いつも、その手紙に、返事を書きたい、と思う。けれど、律には、紙も、鉛筆も、この時刻の道の上には、ない。だから、律は、代わりに、いつもより、ていねいに、瓶を、置く。ありがとう、という気持ちを、こめて。かたん、とも、鳴らさないように。指先で、そっと、瓶の底を、箱の底に、なじませる。それが、律にできる、たったひとつの、返事だった。
律は、その手紙を、上着の内ポケットに、そっと、しまった。前に、もらった手紙も、まだ、そこに、入れてある。かじかんだ手で、そのポケットを、上から、そっと、押さえた。
丘の、いちばん奥まった一角に、律は、いちど、見なれない路地を、見つけたことが、あった。
いつもの、配達路の、すぐ、脇。ふだんは、なにもない、ただの、塀と塀の、あいだの、暗がりだったはずのところに、その朝は、細い、路地が、奥へと、のびていて、そのいちばん奥に、ぽつりと、灯りの、ともった、店が、あった。
古い、木の、看板が、出ていた。「月光書房」と、読めた。古本屋、らしかった。硝子戸の、向こうに、天井まで、ぎっしりと、本の、つまった棚が、見えて、そのあいだを、ろうそくのような、あわい灯りが、照らしていた。
こんなところに、こんな店が、あっただろうか、と、律は、いぶかった。毎朝、通っている道なのに。けれど、その朝は、なぜだか、空に、あの、蒼い彗星が、ひときわ、冴えて、光っていて、その光の、加減で、いつもの闇が、少し、ちがって見えたのかも、しれなかった。
律は、その店の前で、いちど、自転車を、停めた。硝子戸の、奥から、古い紙の、におい――かびと、ほこりと、それから、なつかしい、なにかの、まざったような、においが、ながれてきた。棚の、いちばん手前に、一冊、うすい本が、面を出して、飾られていた。表紙には、蒼い、星の絵が、描かれていた。
律は、その店に、入ってみたい、と、一瞬、思った。けれど、まだ、配る瓶が、荷台に、残っていた。仕事の途中で、道草を、するわけには、いかない。律は、後ろ髪を、引かれる思いで、その店に、背を向けて、また、ペダルを、踏んだ。
翌朝、律は、その路地を、探した。けれど、そこには、もう、路地など、なかった。ただの、塀と塀の、あいだの、暗がりが、あるだけだった。月光書房も、灯りも、あの、古い紙のにおいも、どこにも、なかった。夢でも、見たのだろうか、と、律は、思った。けれど、あの、蒼い星の下で、たしかに、見た、あの店の灯りの、あたたかさだけは、律の胸の、どこかに、ずっと、残っていた。
丘を、下る。
くだり坂は、のぼりとは、まるで、ちがう。重い荷を積んだ自転車が、その重さのぶんだけ、ぐんぐんと、速さを増していく。律は、ブレーキを、少しずつ、握りながら、坂を、下っていく。
きい、きい、と、ブレーキが鳴る。その音が、眠った町に、響く。
風が、律の頬を、耳を、まっすぐに、切って、うしろへ、流れていく。マフラーの端が、ぱたぱたと、旗のように、はためく。荷台の瓶が、かたかたと、ちいさく鳴りながら、ついてくる。
このくだり坂の、この、風を切る一瞬が、律は、好きだった。
つらい、のぼりの、ごほうびみたいに。あの、重い、一歩、一歩のあとに、この、風を切って下る、速さが、ある。かじかんだ手も、しびれた足も、この一瞬だけは、忘れられる。律は、下り坂の途中で、ほんの少しだけ、ペダルから、足を、離す。そして、まっすぐ前を、見る。
坂の下に、駅の裏の、商店街が、見える。そのずっと向こう、東の空の、いちばん端が――
白んで、いた。
いつのまにか、空が、変わっていた。
さっきまで、あんなに、深く、青かった空の、東の端が、ほんのりと、白んで、いた。まだ、太陽は、昇らない。けれど、その、太陽の来る方角の、地平線のあたりが、藍色から、灰色へ、そして、いちばん端は、ほのかな、桃色をふくんだ、あわい色へと、少しずつ、うつろいはじめていた。
夜明けが、近い。
律は、坂の下で、自転車を停め、もういちど、空を、見あげた。
さっき見た、ミラ彗星は、もう、探しても、なかなか、見つからなかった。夜がいちばん深いときに、あんなに冴えて光っていた蒼い星は、空が白みはじめると、その光を、すっと、薄めて、朝の色のなかに、溶けていこうとしていた。目を、こらすと、まだ、かすかに、それとわかる光が、あった。けれど、それは、もう、さっきの、鋭い、まぶしい輝きでは、なかった。
律は、少し、さびしいような気がした。けれど、同時に、思った。
あの星は、いちばん暗いときに、いちばん、光っていた。そして、朝が来ると、その役目を終えるように、静かに、消えていく。まるで、この、寅の刻の、いちばん暗く、いちばん寒い時間を、いっしょに、越えてくれた、だれかのように。夜のあいだ、ずっと、頭の上で、光ってくれていた。そして、朝が来れば、もう、その光は、要らない。だから、消える。
それでいいのだ、と、律は、思った。
朝が来る。それが、いちばん、大事なことだ。あの星は、朝が来ることを、いちばん暗いところで、ひとり、告げていてくれた。もう、その仕事は、終わった。あとは、この、白んでいく空が、じきに、太陽を、連れてくる。
商店街の道を、律は、こいでいく。
シャッターの、下りた店。まだ、暗い、店先。けれど、そのなかで、一軒だけ、灯りのついた店が、あった。
パン屋さんだ。
角の、小さなパン屋さん。そのガラス戸の向こうに、あたたかい、電球色の灯りが、ともっていて、白い割烹着を着た主人が、粉だらけの手で、なにか、大きな生地の、かたまりを、こねている。ガラスが、湯気で、うっすらと、くもっている。
そして、その、灯りのついた店から、パンの焼ける、においが、通りいっぱいに、ながれ出ていた。
こんがりと、香ばしい、あの、においだ。焼きたての、パンの。それが、冷えきった律の、鼻を、頬を、体じゅうを、ふわりと、つつんだ。
律は、思わず、自転車の速さを、ゆるめた。そのにおいの、なかを、ゆっくりと、通っていきたかったから。
このパン屋さんの、牛乳箱にも、一本を、置く。かたん、と鳴らさないように。すると、ガラス戸が、からり、と、開いた。
「おう、律ちゃん。おはよう。」
主人の、太い、あたたかい声だった。
律は、驚いて、顔を、あげた。この時刻に、だれかに、名前を呼ばれることは、めったに、ない。律は、いつも、だれにも見られずに、だれにも知られずに、この道を、こいでいくのだから。
「……おはよう、ございます。」
律の、白い息が、ふるえた。声が、寒さで、うまく、出なかった。
「寒いだろう。ちょっと、待ってな。」
主人は、そう言って、いちど、店の奥に、引っこんだ。そして、すぐに、また、戻ってきた。その手に、紙に、くるんだ、なにか、小さな、あたたかいものを、持って。
「焼きたてだ。まだ、店に出すには、はんぱなやつだけどな。食っていけ。」
そう言って、主人は、その、紙にくるんだものを、律の、手に、押しつけた。
それは、ちいさな、まるい、パンだった。
紙ごしにも、その、あたたかさが、じんわりと、律の、かじかんだ、手のひらに、つたわってきた。
律は、それを、両手で、そっと、包んだ。片方だけの手袋の、右手と、袖のなかから、そっと出した、赤くかじかんだ、左手とで。
そのパンの、あたたかさが、まず、かじかんで、感覚のなくなっていた、左手に、しみこんでいった。じん、と、痛いくらいの、あたたかさ。冷えきった指先が、そのあたたかさに、少しずつ、目を覚まして、じわじわと、うずいた。それは、ほとんど、痛みに近い、あたたかさだった。けれど、律には、その痛みが、たまらなく、うれしかった。
「……ありがとう、ございます。」
律は、うつむいて、そう、言った。声が、また、ふるえた。今度は、寒さのせいでは、なかった。
「なあに。毎朝、うちの牛乳を、届けてくれてる、礼だよ。おまえさんが、暗いうちから、こいで回ってくれるおかげで、うちも、朝から、うまい牛乳が、飲める。ありがたいことさ。」
主人は、そう言って、律の、頭を、粉だらけの手で、ぽん、と、ひとつ、なでた。
「気をつけて、いきな。もうすぐ、夜が、明けるぞ。」
パン屋さんを、あとにして、律は、また、自転車を、こぎはじめた。
けれど、もう、さっきまでの、律とは、ちがっていた。
手のなかの、あたたかいパンを、律は、ハンドルを握りながら、上着の、内ポケットに、そっと、しまった。おばあさんの手紙の、となりに。すると、そのポケットのあたりが、じんわりと、あたたかくなって、そのあたたかさが、上着の内がわから、律の胸を、あたためた。まるで、そこに、小さな、火が、ともっているみたいに。
かじかんでいた左手も、パンのあたたかさを、少し、わけてもらって、もう、さっきほどは、痛くなかった。律は、その左手を、また、袖のなかに、しまった。けれど、そこには、まだ、パンのあたたかさの、名残が、あった。
商店街を、ぬけると、最後の、配達路。古い、長屋の、ならぶ、路地。
この路地は、道が、せまくて、でこぼこで、自転車では、こぎにくい。だから、律は、また、自転車を、降りて、押していく。じゃり、じゃり、と、タイヤが、鳴る。
長屋の、一軒、一軒に、牛乳箱が、ならんでいる。古い、木の、箱。ペンキの、はげた、箱。錆びた、蓋の、箱。律は、その、ひとつ、ひとつに、瓶を、置いていく。かたん、と、鳴らさないように。
この路地に、住んでいるのは、律の家と、似たような、暮らしの、人たちだった。けっして、楽ではない、暮らし。それでも、毎朝、一本の牛乳を、とっている。子どもに、飲ませるために。年寄りに、飲ませるために。その、一本の牛乳が、その家の、朝の、ささやかな、ぜいたくなのだ。
律は、その、一本の、重みを、思う。自分が、いま、置いている、この、一本の、重み。それは、その家の、だれかの、朝を、少しだけ、あたたかくする、一本だった。そう思うと、律の、手のなかの、瓶が、ただの、ガラスの瓶では、ないように、思えてくる。
路地の、いちばん奥の、家。
そこが、律の、最後の、配達先だった。この一本を、置けば、きょうの、仕事は、終わり。
律は、その家の、牛乳箱の、蓋を、開けた。
すると、なかに、また、あの、小さな、書きつけが――と、律は、一瞬、思ったけれど、それは、丘の上の、おばあさんの家だと、思い出して、ひとりで、少し、笑った。この家には、手紙は、ない。ただ、空の、瓶が、ひとつ。それを、取り出して、新しい一本と、入れ替える。
かたん、とも、鳴らさない。指先で、そっと。
これで、七十本ちかい、瓶を、ぜんぶ、置き終えた。荷台の箱は、いまは、空瓶で、いっぱいだ。行きの重さと、帰りの重さは、おなじくらい、重い。けれど、その重さの、中身が、ちがう。行きは、これから、だれかの朝に、なる、瓶の重さ。帰りは、もう、だれかの朝に、なった、瓶の重さ。律は、その、ちがいが、好きだった。
律は、自転車の脇に、立って、大きく、ひとつ、伸びを、した。凍りついていた、体の、あちこちの、関節が、ぱきぱきと、鳴った。
そして、律は、路地の、切れめから、東の、空を、見た。
空は、もう、すっかり、白んで、いた。
さっきまで、あわい、桃色だった、東の空が、いまは、金色に近い、あかるい色に、変わって、いた。まだ、太陽そのものは、屋根の向こうに、隠れていて、見えない。けれど、その、太陽の、来る、方角が、はっきりと、わかった。屋根の、輪郭が、その、金色の光を、背にして、くっきりと、黒く、浮かびあがって、いた。
星は、もう、ひとつも、見えなかった。あの、蒼い、ミラ彗星も、ほかの、無数の、星たちも、みんな、この、あかるい、朝の、光のなかに、溶けて、消えて、いた。
そして、町が、目を、覚まし、はじめて、いた。
さっきまで、暗く、静まりかえっていた、家々の、窓に、ひとつ、またひとつと、灯りが、ともりはじめる。どこかで、雨戸を、開ける音。どこかで、水を、使う音。どこかで、犬が、ひとこえ、鳴いた。遠くの、線路のほうから、始発の、電車の、音が、かすかに、聞こえてくる。
町が、生き返っていく。
律が、暗いうちから、こいで回った、この町が。だれも、起きていなかった、この町が。いま、いっせいに、目を覚まして、それぞれの、一日を、始めようと、して、いる。
そして、その、目を覚ました人たちは、これから、それぞれの、家の、牛乳箱を、開けて、そこに、冷えた、一本の牛乳が、きちんと、置いてあるのを、見つけるのだ。だれが、いつ、それを、置いていったのかも、知らずに。ただ、あたりまえのように、そこに、ある、一本を。
律は、それでいい、と、思った。
自分の、した、仕事は、朝の、光のなかに、溶けていく。あの、ミラ彗星が、朝の光に、溶けて、消えたように。だれにも、見られず、だれにも、知られず。けれど、その、一本、一本は、たしかに、そこに、ある。その、たしかさが、律の、誇りだった。
律は、自転車に、またがった。
帰り道は、来た道を、逆に、たどる。長屋の路地を、ぬけ、商店街を、通り、坂を、のぼり、下り、川ぞいの道を、こいで、店へ、戻る。空瓶を、返して、それで、今日の、仕事は、ほんとうに、終わる。
けれど、その前に、律は、内ポケットから、あの、パンを、取り出した。
紙を、そっと、開くと、まだ、ほのかな、あたたかさが、残っていた。まるい、こんがりと焼けた、小さなパン。律は、それを、ひとくち、かじった。
外は、かりっと、なかは、ふわりと。ほんのり、あまくて、あたたかい。焼きたての、パンの、味が、律の、口いっぱいに、ひろがった。冷えきって、こわばっていた、体の、いちばん、奥のほうまで、その、あたたかさが、しみこんでいった。
律は、そのパンを、自転車を、こぎながら、少しずつ、食べた。
もったいなくて、いちどには、食べられなかった。ひとくち、かじっては、また、内ポケットに、しまい、しばらく、こいで、また、取り出して、ひとくち。そうやって、律は、その、小さなパンを、帰り道の、ながいあいだ、味わって、食べた。
食べながら、律は、思った。この、パンを、律に、くれた、あの、パン屋さんも、律と、おなじだ、と。まだ、暗いうちから、起きて、火を、おこして、粉を、こねて、朝いちばんの、パンを、焼いている。だれもが、まだ、眠っているうちに。そして、町の人が、目を覚ますころには、あたたかい、パンが、店に、ならんでいる。だれも、その、パン屋さんが、何時に起きて、どれだけの手間をかけたかを、知らない。ただ、あたりまえのように、そこに、焼きたてのパンが、ある。
律の、置いていく、牛乳と、おなじだ、と、律は、思った。
この町の、朝は、たくさんの、こういう、だれにも知られない、暗いうちの、手のはたらきで、できているのだ。牛乳を配る、律の手。パンを焼く、あの人の手。始発の電車を、動かす、だれかの手。新聞を刷る、印刷所の、だれかの手。町の、あかるい、あたりまえの朝は、みんな、その、暗いうちの、たくさんの手の、上に、乗っている。
そう思うと、律は、自分が、その、たくさんの手の、ひとつであることが、うれしかった。だれにも、見られなくても。だれにも、知られなくても。自分の、この、かじかんだ、小さな手も、たしかに、この町の、朝を、つくっている、たくさんの手の、ひとつ、なのだ。
川ぞいの道まで、戻ってきたとき、律は、ふと、道の、脇の、低い、石の塀の上に、なにか、小さな、紺色のものが、乗っているのに、気がついた。
律は、自転車を、停めた。
それは――手袋だった。
片方だけの、紺色の、毛糸の、手袋。
律は、目を、みひらいた。心臓が、とくん、と、跳ねた。
まさか、と思いながら、律は、自転車を降りて、その手袋を、手に、取った。紺色の、こまかい、毛糸の目。指先まで、ある、かたち。それは――律が、この冬のはじめに、失くした、あの、手袋の、片割れに、そっくり、だった。
律は、その、拾った手袋を、自分の、右手の手袋の、よこに、そっと、並べてみた。
おなじ、紺色。おなじ、編み目。おなじ、大きさ。
けれど――拾った手袋は、律の、右手にはめた手袋と、おなじ、右手用、だった。左手用では、なかった。
つまり、それは、律が、失くした、あの、手袋の、片割れでは、なかった。よく似た、けれど、律のものではない、だれか、ほかの人の、失くした、手袋だった。
律は、少し、笑った。息が、白く、ほどけた。
そうか、と、律は、思った。この町のどこかで、自分と、おなじように、片方だけの手袋を、失くした、だれかが、いる。そして、その、失くした片割れが、いま、この、塀の上に、乗っている。だれかが、拾って、落とし主が、通りかかったときに、見つけられるように、そっと、ここに、乗せておいたのだ。
律が、自分の失くした手袋を、そうであってほしい、と、願ったように。
律は、その、拾った手袋を、もういちど、ていねいに、その、塀の上に、乗せなおした。落とし主の、目に、いちばん、つきやすいように。朝の、あかるい光が、その、紺色の、毛糸の目を、ひとつ、ひとつ、照らしていた。
きっと、この手袋の、落とし主も、いま、どこかで、寒い思いを、しているのだろう。片方だけの手を、袖のなかに、しまいながら。けれど、その人が、いつか、この道を、通りかかって、この、塀の上の、片割れを、見つける日が、来るかもしれない。そうしたら、その人は、きっと、うれしい。
律は、なんだか、あたたかい気持ちで、また、自転車に、またがった。
店に、戻ると、牛乳屋の、おじさんが、待っていた。
「おう、律。ごくろうさん。寒かったろう。」
「ただいま、もどりました。」
律は、空瓶の、箱を、おじさんに、渡した。ぜんぶ、ちゃんと、届けて、ぜんぶ、空瓶を、回収してきた。数も、あっている。おじさんは、それを、たしかめて、うなずいた。
「よし。きょうも、完璧だ。」
その、ひとことが、律には、うれしかった。
「あの、」と、律は、言った。「おじさん。あの、星、見ました。ミラ彗星。坂の、上で。」
「おお、見たか。」おじさんは、目を、細めた。「あれは、いい星だな。いちばん、暗いときに、いちばん、光る。ああいう星が、空に、ひとつ、あると、なんだか、心強いもんだ。」
「はい、」と、律は、うなずいた。「心強かった、です。」
おじさんは、店の奥から、律のぶんの、給金を、持ってきて、律に、渡した。その、うすい、封筒を、律は、両手で、受け取った。片方だけの手袋の、右手と、まだ少し、赤い、左手とで。
その封筒の、重みが、律には、うれしかった。これで、また、家の、暮らしの、たしになる。母の、ほっとした顔が、目に、浮かんだ。
律は、その封筒を、上着の、内ポケットに、しまった。おばあさんの手紙と、パンを、包んでいた紙の、となりに。ポケットのあたりが、いろんなものの、あたたかさで、ふくらんで、いた。
家に、帰ると、母が、台所で、朝ごはんの、支度を、していた。
「おかえり。寒かったでしょう。」
母は、そう言って、律の、手を、両手で、包んだ。かじかんで、赤くなった、律の、手を。
「あんた、手袋、片方でしょう。左手、こんなに、冷たくして。やっぱり、新しいの、買わないと。」
「ううん、」と、律は、首を、振った。「いいんだ。右手の、これが、あれば。」
律は、右手の、紺色の手袋を、母に、見せた。母の、編んでくれた、手袋を。
「それに、」と、律は、言った。「きょう、いいこと、あったんだ。」
律は、内ポケットから、あの、パンを、包んでいた紙を、そっと、取り出した。パンは、もう、帰り道に、全部、食べてしまって、なかった。けれど、その、紙には、まだ、かすかに、パンの、においが、残っていた。
律は、パン屋さんのことを、話した。焼きたてのパンを、もらったこと。名前を、呼んでもらったこと。頭を、なでてもらったこと。そして、坂の上で、見た、蒼い、彗星のこと。白んでいく、空のこと。ひとつ、またひとつと、ともっていく、灯りのこと。塀の上の、片方だけの、手袋のこと。
母は、その話を、律の、冷えた手を、両手で、あたためながら、静かに、聞いていた。そして、律の、話が、終わると、母は、少し、うるんだ目で、笑った。
「そう。よかったね。」
その夜、布団に入ると、律は、すぐに、眠りに、落ちていった。
朝の、三時十五分から、ずっと、働きどおしだった、体は、綿のように、疲れていた。けれど、それは、いやな疲れでは、なかった。なにかを、やりとげた、あとの、心地よい、重さだった。
眠りに、落ちる、そのきわで、律は、母が、となりの部屋で、口ずさんでいる、子守唄を、聞いた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
小さいころ、律が、眠れない夜に、母が、いつも、歌ってくれた、あの唄。その、なつかしい旋律が、うすい壁を、こえて、律の、まくらもとまで、ながれてきた。
星が、海を、わたるまで。
律は、まぶたを、閉じたまま、思った。あの、蒼い彗星も、いまごろ、また、あの、暗い空を、ひとり、わたって、いるのだろうか。いちばん、暗いところで、いちばん、光りながら。
そして、あしたも、また、律は、その星の下を、こいでいく。かじかむ、片方だけの手で、重い荷を、引いて。眠った町を、いちばんさきに、起こす、あの、ブレーキの音を、鳴らしながら。
けれど、もう、律は、こわくは、なかった。
いちばん暗い、いちばん寒い、あの、寅の刻のさきに、かならず、夜明けが、来ることを、律は、知っていた。ひとつ、またひとつと、ともる、灯りを。白んでいく、空を。焼きたてのパンの、においを。そして、その、いちばん暗いところで、ひとり、光ってくれる、蒼い星を。
律は、それらを、ぜんぶ、知っていた。この町で、たぶん、律だけが。みんなが、まだ、眠っている、あの時刻に、暗い坂を、のぼった、律だけが。
眠れ、眠れ、と、母の唄が、ながれる。
律は、右手を、そっと、布団のなかで、握った。片方だけの手袋を、外した、その手を。けれど、その手のひらには、まだ、あの、焼きたてのパンの、あたたかさが、残っているような、気が、した。
夜明けは、いつも、いちばん暗いところの、すぐ、さきにある。それを、この手で、たしかめてきた者だけが、ほんとうに、その光を、知っている。律は、そう、思いながら、深い、あたたかな眠りの、いちばん奥へと、静かに、沈んでいった。