潮のちょうつがい
明け方の五時、命は決まって、いちばん遠くまで潮を引く。
三十年この病棟にいて、環はそれを潮のように覚えていた。産科の夜は、真夜中に山があり、丑三つ時に底があり、そして明け方に、もう一度ゆっくりと満ちてくる。生まれる子は、明け方に多い。逝く者もまた、明け方に多い。まるで世界がいちばん薄くなる刻を選ぶように、扉のこちらとあちらとで、いくつもの手が同時に、境を越えていこうとする。
環は分娩室の廊下を歩いていた。上履きの底が、磨かれた床に、ほとんど音を立てない。夜勤に入って九時間、足はもう自分のものというより、この廊下そのものの一部になったようだった。どこに継ぎ目があり、どこで床がわずかに沈むか、目をつむっても歩ける。窓は東を向いていて、まだ夜の色をしていたが、その夜の底のほうに、うっすらと、藍を薄めたような灰色が滲みはじめていた。
明け方だ、と環は思った。
夜勤の助産師にとって、明け方は、いちばん気を張る刻だった。人の体は、明け方に、いちばんゆるむ。血の巡りが、いちばん静かになる。眠っている者の呼吸が、いちばん浅くなり、生まれかけている者の力が、いちばん満ちてくる。だから、この刻に、命は動く。三十年、環は、明け方という刻を、まるで一人の気難しい老人のように、扱ってきた。機嫌を損ねないように。急かさないように。けれど、目を、離さないように。
廊下の突き当たりに、窓があった。すりガラスではない、透明な、大きな窓。夜勤のあいだ、環は、何度もその窓の前で足を止める。窓の外に、時間が流れているのを、確かめるために。病棟の中は、蛍光灯の光で、いつも同じ明るさに保たれている。夜も、昼も、同じ白さ。だからときどき、時間の感覚が、溶けてしまう。窓だけが、外の刻を、教えてくれた。今、外は、夜と朝の、境目にいた。
環は、その窓に、しばらく、額を近づけた。ガラスは、冷たかった。夜のあいだ、冷えつづけた冷たさ。けれど、その冷たさの奥のほうに、もう、朝の気配が、ひそんでいた。
その晩、環が受け持っていたのは、二人だった。
ひとりは、二〇二号室の若い母親。初産で、陣痛は夕方から始まり、夜半にいったん遠のいて、丑三つ時からまた戻ってきた。子宮口はゆっくりと、けれど確かにひらいていた。もうひとりは、名前を呼ぶことをためらう部屋にいた。
産科の病棟には、そういう部屋がある。名札の差し込みが空のままの部屋。ナースステーションの記録の上でだけ、静かに数字で扱われる部屋。二十二週を越えたばかりの妊婦が、夜のうちに救急で運ばれてきていた。腹の子の心拍は、環が最初に手をあてたときには、まだあった。細く、遠く、けれど確かに、環の指の腹に伝わってきた。
「大丈夫よ」と、環はその母親に言った。言葉というより、息のように。
美穂という名の、その母親は、夕方、下腹の張りを訴えて、近くの診療所に駆け込んだのだという。そこで異変が見つかり、救急車で、この病院へ運ばれてきた。運ばれてきたとき、彼女は、まだ、事態をよく呑み込めていない顔をしていた。少し前まで、彼女にとって、その腹は、ただ幸福なだけの、ふくらみだったのだろう。十月十日を、指折り数える対象だったのだろう。それが、ほんの数時間で、境の際まで、押し流されてしまった。
医師が、超音波の画面を、長いあいだ、見ていた。それから、静かな声で、いくつかの数字と、いくつかの言葉を、美穂に告げた。二十二週。この週数で、外の世界に出てしまえば、助けられる見込みは、ほとんどない、ということ。そして、いま、腹の中で、その子の状態が、急速に、悪くなっている、ということ。
美穂は、その説明を、うなずきながら聞いていた。けれど、その目は、どこも見ていなかった。環は、それを、何度も見てきた。あまりに大きな報せを受けとったとき、人は、いったん、目の焦点を失う。心が、それを受けとる場所を、体の中に、まだ、用意できていないのだ。
医師が去ったあと、部屋には、環と、美穂だけが残された。
「大丈夫よ」と、環は言った。何が大丈夫なのか、環自身にも、わからなかった。けれど、その言葉を、環は、口にした。その言葉には、三十年ぶんの、重みがあった。
夜勤の助産師は、二つの部屋のあいだを、何度も往復する。片方で命がひらいていくのを見守り、片方で命が閉じかけるのを見守る。三十年やってきて、環はそのあいだを歩く歩き方だけは、誰よりもうまくなったと思う。表情を、廊下の途中で切り替える。二〇二号室の扉の前では、口の端をわずかに上げる。もうひとつの扉の前では、それを消す。切り替えるというより、脱いで、着る。歩きながら、一枚の膜のように顔をつけかえる。
そうしなければ、こちら側の光を、あちら側へ持ち込んでしまう。あちら側の影を、こちら側へ持ち込んでしまう。命は、そういうものに敏感だ。生まれてくる子も、逝こうとする子も、部屋に入ってきた者の匂いを、皮膚のいちばん奥で嗅ぎ分ける。環はそう信じていた。三十年、それを信じることで、この仕事を続けてこられた。
ナースステーションに戻ると、後輩の看護師が、記録端末の光を顔に浴びて座っていた。真夜先という、まだ二年目の娘だった。名前が面白いね、と環が言ったのが最初の会話で、真夜中に強そうな名前でしょう、と娘は笑った。実際、夜勤に強かった。ただ、今夜のような晩は、まだ慣れていなかった。
「二〇二、進んでますか」と真夜先が訊いた。
「順調。あと二、三時間ってところかな」
「もう一つの……」
環は答えなかった。答える代わりに、給湯室のほうへ行き、ステンレスのポットから白湯を注いだ。夜勤の途中、環はいつも白湯を飲む。コーヒーでも茶でもなく、ただの湯。舌に味のないものを流し込むと、頭の中の膜が一枚、洗われる気がした。
窓の外を見た。
駐車場の街灯が、もうずいぶん力を失っていた。夜のあいだ煌々と照っていた光が、空の色に押されて、輪郭を溶かしはじめている。その空の、いちばん高いところに、環は一つの星を見つけた。
いや、星ではなかった。
尾を引いていた。蒼白い、長い尾を。夜のあいだじゅう、たぶんずっとそこにあったのだろうが、環が気づいたのは今だった。彗星だ。何週間か前から、そういう報せがあった。夕刊の隅に、ラジオの合間に。ミラ彗星、と誰かが呼んでいた。数十年に一度、この空を通るのだと。
環は湯呑みを両手で包んだまま、しばらくそれを見ていた。
彗星の光は、白みゆく空のなかで、ちょうど溶けかけていた。夜が濃いうちは、あんなにも冴え冴えと尾を引いていただろうに、いま、空が明るくなるにつれて、その蒼白さは薄れ、輪郭をなくし、まるで空のほうへ、少しずつ、還っていくようだった。最後の夜の光。夜が世界にあずけていく、いちばん最後の一滴。それが今、環の目の前で、朝に飲み込まれていく。
きれいだね、と、口の中だけで環は言った。
だが、きれいだ、という言葉は、いつも環を少しだけ後ろめたくさせる。この仕事をしていると、きれいなものは、たいてい、何かの終わりについてくる。
環が助産師になったのは、二十四のときだった。
きっかけを訊かれると、いつも困る。感動的な話は、何もなかった。看護学校を出て、たまたま最初に配属されたのが産科で、たまたま先輩に恵まれ、たまたま辞めそびれて、気づけば三十年が経っていた。命の誕生に立ち会いたかったから、というような、面接で言うような答えを、環は自分の口から出したことがない。嘘になる気がするからだ。
本当のことを言えば、環がこの仕事を続けてこられたのは、生まれる瞬間のためではなかった。その、あとの静けさのためだった。
赤ん坊が生まれ、産声を上げ、母親の胸に置かれ、部屋じゅうが泣いたり笑ったりして、それがひととおり済んだあとに、ふっと訪れる、あの静けさ。誰も何も言わなくなり、母親が子の顔をただ見つめ、子がまだ焦点の合わない目で、初めての光を浴びている、あの数秒。時間が、そこだけ、水たまりのように溜まる。環は、その静けさに、三十年、養われてきた。
だが、その静けさとよく似た静けさが、もう一つある。
見送りの静けさだ。
小さな体が、もう息をしなくなり、母親がそれを抱き、誰も何も言えなくなる、あの静けさ。生まれの静けさと、見送りの静けさは、環にはときどき、同じもののように感じられた。どちらも、言葉が役に立たなくなる場所だった。どちらも、時間が水たまりのように溜まる場所だった。ただ、片方では水たまりが光を映し、片方では影を映す。それだけの違い。
若いころ、環はその二つを、はっきり別のものだと思っていた。喜びと、悲しみ。祝福と、弔い。だが三十年やってきて、その境目は、環のなかでだんだんと薄れてきた。二つは、同じ川の、上流と下流のようなものだ。同じ水が、生まれるほうへも、逝くほうへも、流れていく。
環が、初めて、間に合わなかった命に立ち会ったのは、二十六のときだった。まだ、何もわかっていなかった。生まれてこなかった子を、どう扱えばいいのか。その母親に、どんな言葉をかければいいのか。何一つ、教わっていなかった。学校では、生まれる子のことしか、習わなかった。だから環は、そのとき、ただ、立ちすくんだ。母親のそばで、何もできず、ただ、震えていた。
そのとき、環の指導係だった、年配の助産師が、静かに、環の肩に手を置いた。そして、こう言った。
「泣いていいのよ、あなたも」
環は、その言葉を、三十年、忘れなかった。助産師は、泣いてはいけないのだと、環は思い込んでいた。冷静でいなければ、母親を、支えられないのだと。けれど、その先輩は、そうではないと、教えてくれた。一緒に泣くことも、支えることのうちなのだと。ただし、と、その先輩は付け加えた。廊下に出てから、泣きなさい。部屋の中では、あなたは、母親のいちばんそばにいる、しっかりした手でいなさい。廊下に出たら、そこで、あなたは、あなたに戻っていい。
だから環は、それからずっと、廊下で泣いてきた。三十年、たくさんの廊下で。そして、部屋に入るときには、しっかりした手に、戻ってきた。着るべき顔を、廊下の途中で、着かえながら。あの先輩は、もう、この世にいない。けれど、その教えだけが、環の手のひらの中に、まだ、残っていた。
三時四十分ごろ、もう一つの部屋の心拍が、落ちはじめた。
環は、その母親のそばに座った。まだ二十代のなかばくらいの女性で、名前を美穂といった。夫は仕事で遠方にいて、始発の電車で向かっている最中だった。美穂は、腹に手をあてたまま、天井を見ていた。泣いてはいなかった。泣くには、まだ何かが足りていない、というような顔をしていた。
「先生」と、美穂は環を呼んだ。助産師を先生と呼ぶ人が、ときどきいる。「この子、まだ、いますか」
環は、超音波の画面のほうを見なかった。代わりに、美穂の腹に、そっと手をあてた。冷たくないように、あらかじめ自分の手を、白衣の下で温めておいた手だった。
「いるよ」と環は言った。「まだ、ちゃんと、ここにいる」
それは、真実だった。医学が定める真実とは、少しずれているかもしれない。けれど環の手のひらは、まだ、そこに何かがいることを、感じていた。心拍だけが命ではない。三十年やってきて、環はそのことを、たくさんの手のひらで覚えてきた。
美穂は、目を閉じた。それから、小さな声で、歌いはじめた。
環は、その旋律を知っていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
古い子守唄だった。環の祖母も、それを歌った。海のない土地に育ったのに、なぜか、星が海をわたる、という一節が、環の胸には深く残っていた。星が、夜のあいだじゅうかけて、空という海を渡っていく。そのあいだ、眠っていなさい、と。渡りきったとき、朝が来る。子守唄は、たいてい、眠りのはじまりのために歌われる。けれどいま、美穂が歌っているそれは、眠りのはじまりのためではなかった。眠りの、終わりのためだった。もう二度と覚めない眠りへ向かう子に、その入り口で、母が歌う唄。
環は、歌をさえぎらなかった。
歌のあいだ、環はただ、美穂の腹に手をあてていた。指の腹に伝わってくる、細い、細い拍動。それは、歌の拍子と、どこかで合っているようにも、外れているようにも、感じられた。
三時五十八分、その拍動が、止まった。
環の手のひらが、いちばん先に、それを知った。画面の数字より、警報より、先に。三十年、この手のひらは、命の来る瞬間と、去る瞬間を、機械よりわずかに早く知る術を、身につけてしまっていた。それは、能力というより、業のようなものだった。
美穂は、歌いつづけていた。
環は、その歌を、最後まで歌わせた。星が海をわたるまで。わたりきるまで。歌の最後の一音が、部屋の空気に溶けて消えたとき、環は、静かに言った。
「渡りきったね」
美穂は、目を開けた。
そして、初めて、泣いた。
その子は、女の子だった。
生まれた、という言葉を使うべきか、環はいつも迷う。二十二週。手のひらに載るほどの、小さな、小さな体。けれど、指があった。爪があった。閉じたまぶたがあり、その下に、たぶん誰かに似た目があった。夫は、まだ、来ていなかった。美穂は、たった一人で、その子を抱いた。看護師の真夜先が、あらかじめ温めておいた、柔らかな布に包んで。
環は、その子の足に、そっと、インクをつけた。
足形をとるのだ。生まれてきた子には、記念に足形をとる。逝った子にも、環は、それをとる。この病棟に来て初めてそれを教わったとき、そんなことをして意味があるのか、と環は思った。若かった。けれど今は、わかる。それは、この世に、この子が確かにいたという、たった一つの、消えない痕跡になる。数字ではなく、記録ではなく、この子の足そのものが、紙の上に残る。
小さな足が、白い紙に、藍色の形を残した。
環は、それを、美穂に渡した。美穂は、まだ乾いていないその紙を、両手で、そっと持った。まるで、それが、まだ温かい何かであるかのように。
「名前は」と、環は訊いた。「決めてあった?」
美穂は、うなずいた。
「あかり、って」
環の手が、一瞬、止まった。
あかり。灯り。明かり。窓の外で、いま、まさに、白みはじめている、あの光の名前。この子は、その名を、腹の中で、ずっと持っていた。ひとつの朝の名前を。生まれてくれば、その名で呼ばれるはずだった、朝の名前を。
「いい名前」と、環は言った。声が、少し、掠れた。三十年やってきて、掠れない声を作る術も、環は身につけていたはずだった。けれど、その朝は、掠れた。
「あかりちゃん」と、環は、その小さな子に、呼びかけた。
逝った子に、名前を呼びかけるのは、環の、長年の習慣だった。この子は、確かにここにいた。ならば、名前を呼ばれる資格が、この子にはある。ほんの短いあいだでも、この世にいた者は、名前を持ち、名前を呼ばれる。それが、環の、たった一つの、祈りのかたちだった。
「あかりちゃん、こんにちは」と、環は続けた。「そして、さようなら」
こんにちは、と、さようならを、こんなに近くで、続けて言うことが、この世に、あるだろうか。生まれてきた子には、こんにちは、だけを言う。逝ってしまった人には、さようなら、だけを言う。けれど、この子には、その両方を、ほとんど同じ息で、言わなければならなかった。来たね、と、行くのね、を。その二つの言葉のあいだに、あるはずだった、長い長い一生が、この子には、なかった。ほんの一瞬に、畳み込まれてしまっていた。
美穂が、その子の、小さな手に、自分の指を、そっと差し入れた。
すると、その、小さな指が、美穂の指を、わずかに、握った、ように見えた。反射なのか、環にも、わからなかった。もう、拍動は止まっていた。けれど、その手は、確かに、母の指を、包むように、少しだけ、丸くなった。
「握った」と、美穂が言った。「先生、この子、握りました」
「うん」と環は言った。「握ったね」
そのとき、美穂の顔から、はじめて、あの、こわばりが、ほどけた。悲しみは、まだ、そこにあった。けれど、悲しみのそばに、別の何かが、生まれていた。この子が、確かに、自分の子だった、という、たしかな手ざわりが。この子は、ほんの一瞬、母の指を、握った。その一瞬は、もう、誰にも、奪えなかった。
環は、その光景を、目に、焼きつけた。母親へ渡す足形にも、記録にも、残らない、その一瞬を。環の、目だけが、それを覚えているだろう。三十年、環の目は、そういう、どこにも残らない一瞬を、たくさん、覚えてきた。
四時半ごろ、環は、いったんナースステーションに戻った。
真夜先が、記録をつけていた。手が、少し、震えていた。
「初めて?」と環は訊いた。
真夜先は、うなずいた。「生まれてくるほうは、何度も。でも……こういうのは、初めてです」
「そう」
環は、白湯をもう一杯注いで、真夜先の前に置いた。それから、自分の分も。二人は、しばらく、黙って湯を飲んだ。窓の外は、藍がだいぶ薄まって、灰の色に、ほのかな桃色が混じりはじめていた。彗星は、もう、見えなくなっていた。溶けきったのだ。夜が、世界に返した最後の一滴が、朝のなかへ、すっかり吸い込まれてしまった。
「先輩」と、真夜先が言った。「わたし、間違ったこと、言っちゃったんです。あの人に」
「なに」
「大丈夫ですよ、って。……大丈夫じゃなかったのに」
環は、湯呑みを両手で包んだ。
「言っていいのよ」と環は言った。「大丈夫、は」
真夜先が、顔を上げた。
「大丈夫、っていうのはね」と環は続けた。「治りますよ、って意味じゃないの。助かりますよ、でもない。……あなたがここにいることを、わたしがちゃんと見てますよ、っていう意味なの。だから、言っていい。むしろ、言ってあげて。あの人は、たった一人で、あの子を、渡してあげなきゃいけなかったんだから」
真夜先は、しばらく黙っていた。それから、小さく、うなずいた。
そのとき、廊下の遠くで、扉の開く音がした。
始発の電車が、着いたのだ。あわただしい足音が、こちらへ、近づいてきた。美穂の夫だった。まだ若い、けれど、ひと晩で、いくつも年をとったような顔をした男が、廊下を、駆けてきた。環は、ナースステーションを出て、その男を、部屋の手前で、いったん、止めた。
「間に合いましたか」と、男は、息を切らして言った。「あの、うちの子は」
環は、その男の目を、まっすぐ見た。こういうとき、目をそらしてはいけない。目をそらすことが、いちばん、残酷だった。
「生まれました」と、環は言った。「女の子でした。あかりちゃんです。……とても、きれいな子です」
男は、その言葉の意味を、少しずつ、受けとっていった。生まれた、という言葉と、でした、という過去のかたちの、そのあいだにある、越えられなかった境を。男の顔が、ゆっくりと、崩れていった。
「奥さんが、待っています」と、環は言った。「あかりちゃんも。……まだ、抱いていられます。行ってあげてください。二人で、あの子を、抱いてあげてください」
男は、うなずいた。それから、部屋のほうへ、一歩、踏み出して、また、止まった。振り向いて、環に、深く、頭を下げた。何も言わなかった。言葉には、ならなかったのだろう。環も、ただ、頭を下げ返した。
男が、部屋に入っていった。扉が、静かに、閉まった。
環は、その扉の前に、しばらく、立っていた。中から、押し殺した、泣き声が、聞こえてきた。二つの声が。それは、悲しみの声だったが、同時に、二人が、はじめて、親になった声でもあった。あの子は、二人を、親にした。ほんの短いあいだで。けれど、確かに。
環は、そっと、その扉から、離れた。そして、廊下を、少し歩いてから、壁に、額を、つけた。
そこで、環は、泣いた。少しだけ。あの先輩に、教わったとおりに。廊下で。声を立てずに。三十年、たくさんの廊下で、してきたように。
そして、涙を、白衣の袖で、拭いた。着るべき顔に、戻った。まだ、夜は、明けきっていなかった。まだ、もう一つの部屋に、満ちてくる潮が、あった。
窓のほうで、鳥が鳴いた。
一羽だった。まだ夜の名残のある空に、最初の一羽が、遠慮がちに、けれどはっきりと、声を落とした。産科の窓は東を向いているから、鳥の声は、いつも、いちばん先に届く。環は、三十年、この病棟で、いくつの最初の一羽を聞いてきただろう。生まれた子の最初の泣き声と、明け方の最初の鳥の声は、環のなかで、いつも、どこか似ていた。どちらも、世界に向かって、私はここにいる、と告げる声だった。
「先輩は」と真夜先が言った。「怖くないんですか。……両方、いっぺんに来る夜って」
環は、少し考えた。
「怖いよ」と、正直に言った。「三十年やっても、怖い。ただ……」
言葉を探した。窓の外を見た。桃色が、少しずつ、金色に変わろうとしていた。
「ただね。生まれるのと、逝くのは、別々のことじゃないんだ、って、だんだん思うようになった。同じ、扉なんだよ。こっちから見ると、開くように見える。あっちから見ると、閉じるように見える。でも、扉は、一つなの。わたしたちは、その、ちょうつがいのところに、立ってる」
真夜先は、じっと、環を見ていた。
「ちょうつがいは」と環は言った。「開くときも、閉じるときも、同じ音がするの」
二〇二号室のブザーが鳴ったのは、五時を少し過ぎたころだった。
若い母親の分娩が、いよいよ最終の段階に入っていた。環は、着るべき顔を着て、その部屋に入った。廊下の途中で、あかりのことを、いったん、胸のいちばん奥にしまった。忘れるのではない。しまうのだ。抽斗に、そっと。この母親のためには、今、満ちてくるほうの潮に、全部の手を貸さなければならなかった。
分娩室は、明るかった。
窓には、もう、朝の光が満ちはじめていた。無影灯の白い光と、窓から入る朝の光が、部屋のなかで混ざり合い、境目をなくしていた。若い母親は、汗みずくで、けれど目は、驚くほど澄んでいた。出産の最終盤にいる女性の目を、環は、いつも、美しいと思う。そこには、痛みと、力と、それから、何か、この世のものでないものへの、まっすぐな集中がある。
「いいよ、いいよ」と環は言った。「息、吐いて。……そう。上手」
母親の手を、環は握った。母親は、それを、痛いほど握り返してきた。生きようとする力、生ませようとする力が、その握力から、環の手のひらに、まっすぐ伝わってきた。ついさっき、もう一つの手のひらで、環は、去っていく命の、最後の細い拍動を感じたばかりだった。同じ手のひらで、今度は、生まれ来る命の、荒々しいほどの力を、受け止めている。
三十年、この二つを、同じ手で受けてきた。環は、自分の手のひらを、ときどき、こわいと思う。あまりにたくさんのものが、通り過ぎていった手だった。けれど今は、その手が、ありがたかった。二つの命の、両方に触れることのできた、たった一組の手。
この母親のことを、環は、夕方から、見てきた。陣痛が始まったばかりのころ、彼女は、笑う余裕さえあった。夫と、二人で、来ていた。夫のほうが、よほど、おろおろしていた。夜が深まるにつれて、笑いは消え、彼女は、痛みの、深い海のなかへ、少しずつ、潜っていった。丑三つ時に、いちばん、つらそうだった。もう無理です、と、彼女は、何度も言った。環は、そのたびに、背中をさすった。無理じゃないよ、と。あなたの体は、ちゃんと、知ってるからね、と。
女の体は、産むことを、知っている。頭では、知らなくても、体が、知っている。それは、何万年も、女から女へ、受け継がれてきた、いちばん古い記憶だった。環の仕事は、その記憶を、信じてやることだった。母親自身が、自分の体を、信じきれなくなったとき、代わりに、信じてやること。あなたの体は、大丈夫。あなたは、産める。何万年も、みんな、そうしてきた。あなたも、できる。
夜のあいだじゅう、環は、その言葉を、この母親に、注ぎつづけてきた。そして今、その言葉が、実を結ぼうとしていた。
「見えてきた」と環は言った。「頭、見えてきたよ。もうすぐ。もうすぐだよ」
母親が、最後の力を、振り絞った。
その力を、環は、両手で、支えた。同じ手で。ついさっき、あかりの、止まった拍動を、感じた手で。ついさっき、廊下で、涙を拭った手で。その手が今、生まれ来る命の、いちばん先端に、触れていた。三十年、この手は、生と死の、両方の縁を、なで続けてきた。同じ縁を。同じ、指の腹で。
そして、五時二十三分。
その子は、生まれた。
産声は、すぐには上がらなかった。ほんの数秒、部屋じゅうが、息を止めた。環は、その小さな体を、両手で受け、素早く、けれど確かめるように、背中に触れた。
それから、その子は、泣いた。
けたたましく。世界じゅうに文句を言うみたいに。窓の朝と、無影灯の白と、大人たちの安堵と、全部に向かって、この子は、力いっぱい、泣いた。私はここにいる、と。今、来た、と。
生まれた子は、男の子だった。
環は、その子を、母親の胸に置いた。裸のまま、母親の肌に、直接。カンガルーケアという。生まれたばかりの子を、いちばんに、母親の体温に触れさせる。子は、泣きやみ、母親の胸の上で、まだ焦点の合わない目を、うっすらと開けた。何も見えていないはずだった。けれど、その目は、確かに、光のほうを向いていた。窓の、朝のほうを。
母親は、笑っていた。泣きながら、笑っていた。夫が、その肩に、手を置いていた。夫の手も、震えていた。三人が、そこにいた。ついさっきまで、二人だった場所に、三人が、いた。世界が、一人分、増えた。その、一人分の重みを、環は、いつも、部屋の空気の中に、感じる。生まれた、というのは、体重計の数字が増えることではない。世界に、あたらしい重さが、一つ、加わることだった。誰かの心の中で、これから何十年も、いちばん重たいものになる、その、はじまりの重さ。
環は、その光景から、少しだけ、身を引いた。あの、静けさが訪れる前の、いちばん濃い数秒。環が三十年、養われてきた、あの静けさ。それは、環のためのものではなかった。母と、子のためのものだった。環は、そこから、そっと下がって、二人に、その時間を、まるごと渡した。
窓のそばに立った。
朝が、来ていた。すっかり、来ていた。桃色は金色になり、金色は、もう、白い光に変わろうとしていた。露が、駐車場の車の屋根に、無数に光っていた。ひとつひとつが、朝の光を、小さく捉えて、きらめいていた。夜のあいだに、世界にたまった水が、今、光になっている。彗星はもう、どこにもなかった。夜は、完全に、終わっていた。
環は、白衣のポケットに、手を入れた。
そこに、片方だけの、白い手袋があった。
いつからそこにあるのか、環は、もう覚えていない。分娩用の、使い捨てではない、布の手袋。対のもう片方は、ずっと前に、どこかでなくした。片方だけになったそれを、環は、なぜか捨てられずに、ずっとポケットに入れてきた。お守りのように。三十年の、あいだじゅう。片方だけ残ったものには、なくしたもう片方の記憶が、宿るのだと、環は思っていた。この手袋は、環がこれまで受けとめてきた、すべての手のひらを、覚えている。生まれた手も、逝った手も。片方だけで、両方を、覚えている。
環は、その手袋を、そっと、握った。
この手袋のもう片方を、環は、いつ、なくしたのだったか。何度も思い出そうとして、思い出せなかった。ただ、片方だけになったとき、環は、それを、捨てられなかった。片方だけになったものには、なくしたほうの記憶が、宿る。もう、二度と揃わない、という寂しさが、宿る。けれど、その寂しさこそが、なぜか、いとおしかった。揃っているものより、片方だけのもののほうが、多くを、覚えている。あかりも、そうだった。あの子には、生きるはずだった、もう片方の、長い一生が、なかった。片方だけで、この世に、来て、逝った。けれど、その片方だけの命が、美穂と、その夫と、そして環の中に、消えない記憶を、宿した。片方だけのものは、いつも、揃っているものより、深く、残る。
環は、その手袋を、ポケットに、戻した。もう、片方を探すのは、やめよう、と思った。この片方だけのままで、いい。この片方だけのままで、環は、また、たくさんの手のひらを、受けとめていくのだろう。
夜勤が明けたのは、七時だった。
引き継ぎを済ませ、環は、更衣室で、私服に着替えた。三十年着つづけた白衣を脱ぐと、体が、急に、軽くなり、同時に、急に、疲れた。夜勤明けの体は、いつもそうだ。緊張が解けたとたん、九時間ぶんの重さが、まとめて肩に降りてくる。
ロッカーの内側に、環は、あかりの足形をとった紙の、写しを、一枚、貼っていた。
いや、正確には、写しではない。もう一枚、とっておいたのだ。逝った子の足形を、環は、いつも、二枚とる。一枚は母親へ。もう一枚は、自分のロッカーの内側へ。三十年、それを続けてきた。ロッカーの内側は、もう、小さな足形で、いっぱいだった。この病棟を通り過ぎていった、名前を呼ばれた、たくさんの、小さな子たち。環だけが、その全部を、覚えている。
あかり、と環は、心の中で、もう一度、呼んだ。
その足形の並びの中には、名前だけになった子が、たくさん、いた。三十年、環が、この世とあの世の境目で、受けとめてきた、たくさんの、小さな足。ある子は、生まれてきて、少しだけ息をして、逝った。ある子は、生まれる前に、逝っていた。ある子は、名前さえ、つけてもらえなかった。けれど、環は、その全部に、名前を呼びかけ、その全部の、足形を、とった。この世に、確かにいた、という証を。
なぜ、それを続けてきたのか、環は、うまく、言葉にできなかった。誰に頼まれたわけでもない。記録に残る仕事でもない。ただ、環には、それが、必要だった。忘れないことが。数えつづけることが。この、名前の並びを、環は、自分の、いちばん奥の抽斗のように、思っていた。ここに、この子たちが、いる。世界のどこにも、もう場所を持たない、この子たちの、たった一つの、場所が。
それから、環は、そっと、その紙の隣に、指を滑らせた。何もない壁の、少しの隙間に。まるで、そこに、もう一枚、貼る場所を、あらかじめ空けておくように。この仕事を続けるかぎり、その場所は、また、埋まっていくのだろう。生まれる子と、逝く子と。満ちる潮と、引く潮と。
環は、ロッカーを閉めた。
病院を出ると、朝が、まぶしかった。
夜勤明けの朝の光は、いつも、ふつうの朝より、白く、鋭く、そして、優しい。九時間、蛍光灯の下にいた目には、太陽の光が、ほとんど、痛いほどだった。環は、目を細めて、空を見上げた。
もう、彗星は、どこにもなかった。
昨夜、あんなに冴え冴えと尾を引いていた、あの蒼白い光は、朝のなかへ、すっかり溶けて、消えていた。次にあれが来るのは、何十年も先だという。そのとき、環は、たぶん、もう、この病棟にはいない。もしかしたら、この世にも。けれど、あの彗星は、また、来る。この朝、環が見たことを知らないまま、また、誰かの夜の空に、蒼白い尾を引き、そして、また、誰かの見ている朝のなかへ、静かに、溶けていくのだろう。
夜が、世界に返す、最後の一滴のように。
環は、鞄の中を探った。
指先が、小さな、硬いものに触れた。取り出すと、それは、藍色の、小さなマッチ箱だった。三日月が、一つ、刻んである。月光堂の、と、箱の隅に、小さな文字があった。いつ、どこで手に入れたのか、環は、覚えていない。ずっと前、どこかの古い店で。彗星の夜にだけ現れるという、あの、朝には消えてしまう古書店で――そんな噂を、誰かから聞いた気もするが、環には、もう、思い出せない。ただ、この藍色の箱を、環は、ずっと、鞄の底に入れてきた。火をつけたことは、一度もなかった。
環は、その箱を、少し、傾けてみた。
中で、マッチが、乾いた音を立てた。まだ、燃やせるものが、そこにある、という音だった。まだ、灯せる、という音。環は、それを、また、鞄の底に、そっと、戻した。今日は、火を、つけない。けれど、いつか、つける日が、来るかもしれない。あかりを灯す日が。あの子の名前を、火のかたちで、この世に、灯してやる日が。
環は、歩きはじめた。
朝の街は、目を覚ましはじめていた。パン屋の灯りがつき、新聞配達の自転車が、露に濡れた道を、しゃっ、しゃっ、と過ぎていった。ゴミ収集車の音が、どこか遠くで鳴っていた。世界は、また、始まろうとしていた。昨夜、生まれた子も、昨夜、逝った子も、この朝を、たぶん、それぞれのやり方で、迎えている。ひとりは、この世で。ひとりは、環の、ロッカーの内側で。
家に帰る途中、環は、いつもの公園を通った。
ベンチに、腰を下ろした。夜勤明けは、いつも、まっすぐ家に帰る気になれない。この、朝と昼のあいだの、どちらでもない時間を、環は、この公園で、少しだけ、過ごす。夜のあいだに命に触れた手を、朝の空気で、ゆっくりと、洗うように。
木々の葉が、露に濡れて、光っていた。
一羽だった鳥は、いつのまにか、たくさんになっていた。あちこちで、鳥が、鳴いていた。夜のあいだ、あんなに静かだった世界が、今は、音で、満ちていた。環は、目を閉じた。
眠れ、眠れ、と、環は、口の中で、歌った。
美穂が歌っていた、あの子守唄。眠りの終わりのために歌われた、あの唄。けれど今、環がそれを歌うのは、眠りのはじまりのためだった。これから帰って、少し、眠るのだ。九時間、開けつづけていた目を、閉じるのだ。子守唄は、もともと、そのためのものだった。誰かを、眠りの入り口まで、送っていくための唄。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
星は、もう、渡りきってしまった。彗星は、朝に溶けた。けれど、また、夜が来れば、別の星が、また、海を渡りはじめる。そして、また、明け方が来て、また、溶けていく。そのくりかえしの、どこか一点に、ゆうべの、あの二つの命が、あった。生まれた子と、逝った子。満ちた潮と、引いた潮。同じ扉の、開くほうと、閉じるほう。
ふと、環は、自分にも、子がいなかったことを、思った。
三十年、他人の子を、何千と、取り上げてきて、環自身には、子が、なかった。若いころ、そのことで、悩んだ時期も、あった。夜勤明けに、他人の赤ん坊を抱いた腕で、誰もいない部屋の扉を開けるのが、つらかった時期も。けれど、いつからか、それも、遠くなった。環は、思うようになった。自分は、たくさんの子の、はじまりの手だったのだ、と。所有はしなかった。けれど、触れた。この世に来る、その、いちばん最初の瞬間に、環の手が、そこにあった。それで、じゅうぶんだった。母になる、ということには、いくつもの、かたちがある。産むことだけが、それではない。迎えることも、見送ることも、母のすることだった。
環は、目を閉じたまま、朝の光を、まぶたの裏で、感じていた。
まぶたの裏は、朝の光で、ほのかに、朱色に、染まっていた。それは、あの子の足形の、藍色とも、彗星の、蒼白さとも、違う色だった。生きているものの、色だった。血の通っている、まぶたの、色だった。環は、その朱色のなかに、しばらく、身を沈めていた。
その日の午後、少し眠って、目を覚ましたとき、環は、あることを思った。
三十年、この仕事をしてきて、いちばん、大切なことは、たぶん、これだったのだ、と。
迎えることと、見送ること。喜ぶことと、悲しむこと。それを、同じ夜のうちに、同じ手のひらで、してきたこと。片方だけを選ぶことは、できなかった。片方だけの手袋のように、この仕事は、いつも、片方だけを、環に残していった。生まれた子は、環の手を離れて、この世の、遠くへ、育っていく。逝った子は、環の、ロッカーの内側に、名前と足形だけを、残していく。環の手のひらには、そのどちらも、残らなかった。ただ、両方に触れた、という感触だけが、残った。
けれど、と、環は思った。
もしかしたら、それで、いいのだ。
助産師の手は、命を、所有するための手ではない。命を、通すための手だ。こちらから、あちらへ。あちらから、こちらへ。扉のちょうつがいのところに立って、開くも、閉じるも、同じ音で、受けとめる。そして、命が通り過ぎたあとに残るのは、手のひらの、あの、温かい、空っぽの感触だけ。その空っぽを、環は、三十年、抱きしめてきた。
そして、環は、思った。ゆうべ、生まれた、あの男の子のことを。あの子は、これから、長い一生を、生きるだろう。学校に行き、恋をし、失敗し、誰かを愛し、いつか、自分の子を、抱くのかもしれない。そのどこにも、環は、いない。あの子は、自分を取り上げた助産師の顔など、覚えていないだろう。当然だ。生まれたばかりの子は、何も覚えていない。けれど、環の手のひらは、あの子の、いちばん最初の重みを、覚えている。それで、いい。覚えていてもらう必要は、ない。ただ、こちらが、覚えていれば。片方だけで、じゅうぶんだった。片方だけの手袋のように。
あかり、と、環は、もう一度、名前を呼んだ。
窓の外は、もう、昼だった。夜も、明け方も、とうに過ぎていた。けれど、環のなかには、まだ、あの明け方の光が、残っていた。白みゆく空に溶けた、彗星の、最後の蒼白さが。あの光は、たぶん、これから先も、環のなかで、消えない。次の夜勤の、次の明け方まで。そして、その次の、明け方まで。
やがて、また、夜が来る。
そして、また、明け方が来る。空が白みはじめ、露が光り、最初の鳥が鳴き、世界が、もう一度、始まろうとする。その刻に、環は、また、あの病棟の廊下を、歩いているだろう。二つの部屋のあいだを。満ちる潮と、引く潮の、あいだを。着るべき顔を、廊下の途中で、着かえながら。
環は、公園のベンチから、立ち上がった。
体は、まだ、重かった。けれど、その重さは、いやなものではなかった。ゆうべ、二つの命に触れた、その重さだった。生まれた子と、逝った子。その両方を、環は、この体で、受けとめた。両方を、忘れないだろう。あの男の子の、荒々しい産声も。あかりの、止まった拍動の、細さも。両方を、同じ手のひらが、覚えている。
家までの道を、環は、歩いた。朝が、すっかり、昼へと、傾いていた。露は、もう、乾いていた。夜が世界に残したものは、朝の光に、すっかり、拭われていた。彗星も。露も。そして、名前を呼ばれた、小さな子も。この世は、忘れることで、また、始まっていく。けれど、誰かが、覚えていなければならない。環は、その、覚えているほうの手だった。忘れていく世界の、片隅で、片方だけの手袋を、握りしめて、覚えている手。
家の鍵を開けながら、環は、また、あの子守唄を、口の中で、歌った。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
そして、思った。星が海を渡りきったあと、朝が来る。けれど、朝が来ても、渡っていった星のことを、空は、忘れない。夜のあいだ、確かにそこにいた光を。溶けて消えても、また、いつか、めぐってくる光を。環は、その、めぐりの、いちばん薄いところ――夜と朝の、境目に、三十年、立ちつづけてきた。そして、これからも、立つのだろう。次の夜勤の、次の明け方まで。
灯りは、いつも、まだ生まれていない誰かと、もう逝ってしまった誰かの、両方のために、灯っている。
そして、そのどちらのためにも、明け方は、いつも、同じ光で、やって来る。まるで、迎えることと、見送ることは、はじめから、一つのことだったのだと、そう、告げるように。