露のなかの森
一
いちばん深いねむりの底で、小さなヤマネは、ひとつの音に触れた。
それは水の音であった。とても遠く、けれどもたしかに、木のうろの外側を、ぽつり、ぽつりと、なにかがつたっていく音。ヤマネはまるくなったまま、その音を、ゆめのつづきのように聞いていた。冬のあいだ、ヤマネの世界には音というものがほとんどなかった。あるのはただ、しんとした冷たさと、自分のちいさな心臓がゆっくりと打つ音ばかりであった。それが、いま、外から、水がしたたっている。
水がしたたるということは、氷がとけているということだ。氷がとけているということは――と、ねむりの底のヤマネは、そこまで考えて、また考えるのをやめた。まぶたはまだ、はりついたように重かった。手足のさきは、まだ冬の冷たさを抱いていた。ヤマネは尾を鼻づらにまきつけたまま、もうすこしだけ、と思った。もうすこしだけ、この暗いところにいたい。ここはあたたかくて、なにも変わらなくて、こわいものがなにひとつない。
けれども、水の音は、やんではくれなかった。
ぽつり。ぽつり。ぽつり。
その音は、まるで、だれかがヤマネの肩を、そっと、そっと、たたいているようであった。おきなさい。もう、おきなさい、と。
ヤマネは、ちいさな鼻さきを、ほんのすこしだけ動かした。空気の匂いが、変わっていた。冬のあいだ、ヤマネのねむるうろのなかは、かわいた木と、自分の毛のあたたかい匂いばかりであった。それが、いま、その匂いのすきまに、なにか、しめった、あおい匂いがまじっている。土の匂い。とけた雪の匂い。そして――ヤマネの知らない、あまい、かすかな匂い。
その匂いが、ヤマネのねむりを、いちばん奥から、そっとほどいた。
ヤマネは、まぶたをあけた。
うろのなかは、まだ暗かった。けれども、その暗さのはしに、ほそい、ほそい灰色の光がさしこんでいた。ヤマネのねむっているうろは、大きな木の、地面ちかくのふしあなのなかにあった。そのふしあなの入り口が、いま、ほんのりと、あかるくなりはじめている。夜ではない。まだ、朝でもない。そのあいだの、うすい、たよりない、けれどもたしかに、なにかがはじまろうとしている、灰色がかった青い光。
明け方だ、とヤマネは思った。
ヤマネは、まるめていた体を、そろそろとほどいた。手足のさきに、ちくちくと、しびれのような感じがもどってくる。長いあいだ動かさなかった関節が、ぎこちなく、きしんだ。ヤマネは、まず前足のかたほうを、そっと前にのばしてみた。それから、うしろ足。それから、ながい尾。ひとつひとつ、自分の体をたしかめるように、ヤマネはうごいた。
そうして、ヤマネは、うろの入り口のほうへ、よろよろと歩いていった。
ふしあなの入り口から、外をのぞいて、ヤマネは、しばらく、ただじっとしていた。
外の世界は、ぬれていた。
夜のあいだに雨がふったのか、それとも、朝つゆがおりたのか、あたりのものという ものが、みんな、こまかな水のつぶをまとっていた。木のはだも、地面の落ち葉も、まだ芽のかたい枝も、そのすべてが、しっとりと、こまかく光っていた。そして、空は、白みはじめていた。木々のこずえのむこう、東のほうの空が、灰色から、うすい水色へ、そして、そのはしのほうが、ほんのりと、桃色をおびた金色へと、そまりかけていた。
ヤマネは、その空を見あげた。
見あげて、ヤマネは、あるものを見つけた。
まだ夜ののこっている、西の空のたかいところに、ひとつの光があった。それは、ふつうの星ではなかった。ほそくながい、あおじろい尾を、しずかにうしろへひいて、その光は、白みゆく空のなかに、じっと、うかんでいた。
ヤマネは、その光を知らなかった。
けれども、ヤマネの、そのまた祖母のヤマネが、ちいさかったころの、そのまた昔から、そのながい尾をひく星は、ときおり、この森の空にあらわれるのだと、いつか、だれかが言っていたような気がした。ながい尾をひく、あおい星。それがのぼる夜には、森のふるいものたちが、みな、そっと目をさますのだと。
ヤマネは、その星を、しばらくのあいだ、じっと見あげていた。
星は、うごかなかった。けれども、そのあおじろい光は、空が白んでいくにつれて、だんだんと、うすくなっていった。金色がひろがるほどに、その尾は、とけるように、みじかくなっていった。まるで、夜という大きな水のなかへ、さいごのひとしずくが、しずかに、もどっていくように。
やがて、そのながい尾も、あおい光も、朝の光のなかに、すっかりとけて、見えなくなった。
さいごの夜の光が、消えたのだ。
ヤマネは、なぜか、むねのおくが、きゅう、とした。会ったこともないだれかに、さよならを言われたような、そんな心もちであった。けれども、それは、かなしいだけの心もちではなかった。あの、ながい尾をひく星が消えていくのと、いれかわりに、東の空から、あたらしい光が、いま、まさに、のぼってこようとしている。ヤマネには、それがわかった。
さいごの夜が消えて、あたらしい朝がはじまる。
ヤマネは、ちいさく、身ぶるいをした。それは、寒さのためだけの身ぶるいではなかった。
二
ヤマネは、ふしあなから、そっと外へ出た。
ぬれた木のはだに、ちいさな前足がふれた。ひやりと、けれども、その冷たさのおくに、ほんのりとしたぬくもりがあった。冬のあいだの、しんと凍える冷たさとは、まるでちがう、生きている冷たさであった。ヤマネは、木のはだのくぼみに、しっかりと爪をたてて、するすると、幹をのぼりはじめた。
のぼりながら、ヤマネは、あたりを見まわした。
そして、ヤマネは、気がついた。
森が、変わっていた。
冬のまえ、ヤマネがこのうろへねむりにはいるとき、この幹のとなりには、もう一本、大きな木があったはずだった。ヤマネの背たけの、何百ばいもある、ふるい、ふるいナラの木。夏にはたっぷりとした葉をひろげ、秋にはたくさんのどんぐりを地面におとしてくれた、あの木。ヤマネの祖母も、そのまた祖母も、あの木のどんぐりで、冬ごもりのしたくをしたのだと聞いていた。
その木が、なかった。
ヤマネは、幹のとちゅうで、うごきをとめた。
あった場所には、ただ、大きな、ひくいきり株だけが、ぽつんとのこっていた。きり株のうえには、うすく苔がむしはじめていて、そのまわりには、雪どけのぬかるみに、いくつもの足あとがのこっていた。ヤマネの知らない、大きな、かたい足あと。あれは、人の足あとだ、とヤマネは思った。冬のあいだに、人が来て、あの木を、たおしていったのだ。
ヤマネは、きり株を、じっと見つめた。
あの大きな木は、もう、いない。あの枝も、あの葉も、あのどんぐりも、もう、ない。ヤマネは、なんだか、じぶんの体のどこかが、すこし、うすくなったような気がした。あの木があったから、この場所は、この場所だった。あの木がなくなってしまったら、この場所は、もう、まえの場所ではないような気がした。
けれども。
ヤマネは、まばたきをした。
きり株のまわりの、ぬかるんだ地面から、いくつも、みどりのものが、頭をもたげていた。
それは、あたらしい草の芽であった。ちいさな、まるまった、やわらかそうなみどりの芽。大きな木がなくなって、そのぶん、空がひらけて、光がまっすぐにさしこむようになったからだろうか、きり株のまわりの地面には、これまで見たこともないほど、たくさんの芽が、ぎっしりと、頭をだしていた。なかには、もう、ちいさな白い花を、ひとつ、ふたつと、ひらきかけているものもあった。
ヤマネは、その芽たちを、しばらく見ていた。
大きな木は、いなくなった。けれども、その木がいなくなった場所に、あたらしいいのちが、こんなにも、めばえている。ヤマネには、そのことが、うまく、のみこめなかった。うれしいのか、かなしいのか、じぶんでも、わからなかった。ただ、むねのおくが、また、きゅう、とした。あの、ながい尾をひく星が、消えていったときと、おなじように。
三
ヤマネは、幹のうえのほうへ、さらにのぼっていった。
のぼりながら、あたらしい枝のあいだに、ちいさな芽が、いくつもふくらんでいるのが見えた。かたくつぼんだ、あかい芽。そのなかには、これから、みどりの葉がおりたたまれているのだ。ヤマネは、その芽のひとつに、そっと鼻さきをよせてみた。あの、あまい、かすかな匂い。うろのなかで、ヤマネのねむりを、いちばん奥からほどいた、あの匂いは、この、芽の匂いであったのだ。
枝のいちばんたかいところまでのぼって、ヤマネは、森を見わたした。
朝の光は、いよいよ、ひろがりつつあった。東の空は、もう、桃色から、あかるい金色へと変わり、木々のこずえの、いちばん高いところが、その光をうけて、きらきらと、金いろにふちどられはじめていた。つゆのつぶが、その光をうけて、ひとつぶ、ひとつぶ、ちいさな星のようにきらめいた。森じゅうが、まるで、こまかなガラスのかけらをちりばめたように、光っていた。
そして、そのとき、はじめて、その声が、きこえた。
チチ、チチチ、と、どこかで、ちいさな鳥が、鳴いた。
ヤマネは、耳をすませた。
はじめの一羽の声に、こたえるように、また、べつのところから、チュルル、と、べつの鳥の声がした。それから、また、べつの声。また、べつの声。ひとつ、ふたつ、みっつと、鳥の声はふえていって、やがて、森じゅうが、ちいさな鳥たちの声で、いっぱいになった。
それは、うたのようであった。
ヤマネは、その声のかさなりを聞きながら、ふと、なつかしいような気もちになった。まだ、ヤマネがずっと、ずっとちいさくて、母のヤマネのおなかの毛にくるまれてねむっていたころ。母は、ときおり、ちいさな声で、なにかをうたってくれた。そのふしを、ヤマネは、もう、はっきりとは、おぼえていない。けれども、いまの、この鳥たちの声のかさなりは、どこか、あのうたに、にていた。
眠れ、眠れ――と、そのうたは、たしか、そんなふうにはじまった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
母は、そううたって、ヤマネを、ねむりへとさそったのだ。ちいさなヤマネは、母のおなかの、あたたかい毛のなかで、そのふしを、聞きながら、まぶたを、とじていった。星が海をわたるまで――と、そのうたは、うたっていた。星が海をわたるあいだ、あなたは、あんしんして、ねむっていていい。夜のあいだ、わたしが、ここに、いるから。
そのうたを、思いだすと、ヤマネは、なぜだか、むねが、あたたかくなった。母のヤマネは、いまは、もう、この森にはいない。ヤマネがおおきくなって、ひとりだちをしてから、母は、どこか、とおくの木のうろへ、うつっていった。それでも、母のうたった、あのふしは、いまも、ヤマネのこころのなかで、しずかに、ながれつづけていた。うしなったものは、うしなったまま、けれども、こころのなかに、のこっている。あのうたのように。
そして、いま、鳥たちの声は、それとはぎゃくの、けれども、おなじくらい、やさしいことを、うたっているようであった。おきなさい、おきなさい。星が海をわたりおえたよ。夜は、もう、いってしまったよ。おきて、朝を、ごらん。
ヤマネは、目をつむって、その声を聞いた。
母の、あのうたが、ヤマネをねむりへとさそったように、いま、この鳥たちの声は、ヤマネを、ねむりから、そっと、さましてくれていた。ながい冬のねむりが、いま、ほんとうに、おわろうとしていた。
四
ヤマネは、木のうえで、ひとやすみすることにした。
ながい冬のあいだ、なにも食べずにねむっていたヤマネの体は、まだ、じゅうぶんに力がもどってはいなかった。ヤマネは、日のあたる枝のうえに、ちいさくすわって、朝の光を、体いっぱいに浴びた。光は、まだ、それほどあたたかくはなかった。けれども、その光は、ヤマネのつめたくなった毛のおくまで、じんわりと、しみとおっていくようであった。
枝のさきに、ひとつぶの、つゆが、のこっていた。まるい、すきとおった、水のつぶ。そのなかに、のぼりはじめた朝の光が、とじこめられて、こまかく、きらめいていた。ヤマネは、そのつゆを、じっと、見つめた。つゆのなかには、さかさまになった、ちいさな森が、うつっていた。木々も、空も、のぼる光も、みんな、その、ひとつぶの、まあるい水のなかに、そっくり、おさまっていた。
風が、ふいた。
すると、つゆは、枝のさきから、ころり、と、ころげおちて、下の、しめった落ち葉のうえに、おちて、消えた。ちいさな森を、そのなかに、うつしたまま。ヤマネは、その、消えたつゆの、あとを、しばらく、見つめていた。あんなに、きれいに、光っていたのに。あんなに、ちいさな森を、そのなかに、かかえていたのに。ほんの、いっしゅんで、消えてしまった。
けれども――と、ヤマネは、ふと、思った。消えたつゆは、きっと、土のなかへ、しみこんで、あの、あたらしい芽の、ねっこを、うるおすのだろう。消えたのではない。かたちを、かえて、べつのものに、なっただけなのだ。ちょうど、あの、消えていった星のように。ちょうど、まえの森が、あたらしい森に、なっていくように。
そうしていると、下のほうの枝で、かさり、と、音がした。
ヤマネは、はっとして、下を見た。
一羽の、シジュウカラであった。むねに、くろいネクタイのような模様のある、ちいさな鳥。シジュウカラは、枝から枝へ、ちょんちょんと飛びうつりながら、ヤマネのすわっている枝のちかくまでやってきて、ちいさな首を、こてん、とかしげて、ヤマネを見た。
「おや」と、シジュウカラは言った。「めずらしい。ヤマネさんじゃないか。冬のあいだ、どこにいたんだい」
「ねむっていました」と、ヤマネは、こたえた。じぶんの声が、まだ、すこし、かすれていた。ながいあいだ、しゃべっていなかったからだ。「ずっと、あのうろのなかで、ねむっていました。いま、おきたところです」
「そうかい、そうかい」と、シジュウカラは、うなずいた。「ヤマネさんは、いつも、いちばん長くねむるからねえ。ぼくらが、もう三ど、巣をかけては、ひなをそだてて、というのをくりかえすあいだ、ヤマネさんは、ずうっとねむっているんだから」
シジュウカラは、そう言って、また、ちょん、と、ちかくの枝に飛びうつった。
「あの」と、ヤマネは、思いきって、たずねた。「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだい」
「あの、ナラの木のことです」ヤマネは、下のほうの、きり株を、そっと見おろした。「わたしのうろの、となりにあった、大きなナラの木。あれは、どうして、なくなってしまったのですか」
シジュウカラは、しばらく、だまっていた。それから、しずかに言った。
「冬のはじめにね、人が来て、たおしていったのさ。あの木は、もう、ずいぶん年をとっていて、なかのほうが、うろになっていた。おおきな風がふいたら、たおれて、あぶないからって、それで」
「そうですか」
「あの木には、いろんなものが、すんでいたんだけどね」と、シジュウカラは言った。「フクロウのおばあさんも、あの木のうろにすんでいた。コウモリの一家も、あの木の、皮のすきまにいた。それに――」
シジュウカラは、そこで、言葉をきった。
「それに?」と、ヤマネは、うながした。
「いや」と、シジュウカラは、首をふった。「なんでもない。とにかく、あの木は、もう、ないのさ。すんでいたものたちは、みんな、ほかの木に、うつっていった。そういうものさ。森は、いつも、すこしずつ、変わっていくんだ」
五
ヤマネは、シジュウカラの言葉を、こころのなかで、くりかえした。
森は、いつも、すこしずつ、変わっていく。
ヤマネには、その言葉が、なんだか、さびしいことのように思えた。ヤマネは、変わらないことが、すきであった。うろのなかが、いつも、おなじようにあたたかいのが、すきであった。となりに、いつも、おなじ大きなナラの木があるのが、すきであった。目がさめたら、まえとおなじ森が、そこにあってほしかった。
けれども、そうは、いかないのだ。
ヤマネがねむっているあいだにも、森は、うごいていた。木がたおれ、あたらしい芽がめばえ、だれかが、いなくなっていた。ヤマネは、ふと、あることを思いだして、シジュウカラに、もうひとつ、たずねた。
「あの、もうひとつ、聞いてもいいですか」
「いいとも」
「わたしには、なかまが、いました」と、ヤマネは言った。「おなじ、ヤマネの。すぐそこの、ヤブの下の、ちいさなうろに、すんでいました。名まえを、コハゼといいました。冬のまえには、いっしょに、どんぐりをあつめました。コハゼは、いま、どこにいますか。もう、おきていますか」
シジュウカラは、また、しばらく、だまっていた。
「コハゼさん、というのは」と、シジュウカラは、しずかに言った。「ちゃいろの、せなかに、くろいすじのある、ヤマネさんかい」
「そうです」
「あのこは」と、シジュウカラは言った。「あのこは、冬の、いちばんさむい日にね、目をさまさなかったのさ」
ヤマネは、シジュウカラを、見つめた。
「ヤマネさんは、みんな、うまく冬をこせるわけではないんだ」と、シジュウカラは、やさしい声で言った。「あんまり、さむい冬だと、ちいさなヤマネさんは、ねむったまま、目をさまさないことが、あるんだよ。コハゼさんは、そうだった。ヤブの下のうろで、まるくなったまま、春を、むかえられなかったんだ」
ヤマネは、なにも、言えなかった。
コハゼ。あの、いつも、じぶんより先に、いちばんおおきなどんぐりを見つけては、じまんげに鼻をならしていた、コハゼ。冬ごもりのまえのばんに、「春になったら、また、いっしょに、あそぼうね」と、言っていた、コハゼ。
その、コハゼが、もう、いない。
ヤマネは、じぶんの、ちいさな手を、見つめた。この手で、コハゼといっしょに、どんぐりをころがしたのだ。この手で、コハゼと、あそんだのだ。それなのに、じぶんが、あたたかいうろのなかで、ぬくぬくとねむっているあいだに、コハゼは、たったひとりで、つめたいうろのなかで、目をさまさなくなっていた。
「かなしいかい」と、シジュウカラが、たずねた。
「……はい」と、ヤマネは、こたえた。ちいさな声で。
「そうだね」と、シジュウカラは言った。「かなしいね。ぼくも、かなしいよ」
シジュウカラは、そう言って、ちいさな羽を、いちど、ふるわせた。
ヤマネは、目をつむった。
すると、まぶたのうらに、コハゼのすがたが、うかんできた。
去年の、秋のことであった。まだ、木々の葉が、あかや、きいろに、そまっていたころ。ヤマネとコハゼは、ならんで、ナラの木の根もとを、あるいていた。そのころは、まだ、あの大きなナラの木が、たくさんの葉を、そらいっぱいに、ひろげていた。地面には、おちたばかりのどんぐりが、あちこちに、ころがっていた。コハゼは、その一つ一つを、ちいさな前足で、ひっくりかえしては、においを、かいでいた。
「ねえ、見て」と、コハゼは、あるとき、とくいげに、言った。「こんなに、おおきいのを、見つけたよ」
コハゼの前足のなかには、まるまると太った、大きなどんぐりが、あった。つやつやと、ひかる、りっぱなどんぐり。ヤマネのあつめたどんぐりよりも、ずっと、大きかった。
「ずるい」と、ヤマネは、口を、とがらせた。「わたしも、そんなの、ほしい」
「ふふん」と、コハゼは、鼻を、ならした。「よく、さがせば、あるよ。ほら、そこの、葉っぱの下とか」
コハゼは、そう言って、じぶんの見つけた大きなどんぐりを、ヤマネの前に、ころん、と、ころがして、よこした。
「え」と、ヤマネは、めを、まるくした。
「あげる」と、コハゼは、言った。「わたしは、また、さがすから。ヤマネは、ちょっと、どんぐりさがしが、へたっぴだからね。それがないと、冬を、こせないよ」
そう言って、コハゼは、けらけらと、わらった。
あのどんぐりを、ヤマネは、たいせつに、うろのなかに、はこんだ。そして、いちばんさむい日に、そのどんぐりを、すこしずつ、かじって、冬を、こしたのだ。あのどんぐりが、あったから、ヤマネは、この春を、むかえることが、できた。コハゼのくれた、あのどんぐりが。
けれども、そのコハゼは――じぶんは、いちばんおおきなどんぐりを、ヤマネにゆずって、それで、じぶんは、冬を、こせなかったのかもしれない。
ヤマネは、めを、あけた。
まぶたのはしが、あつく、なっていた。
「コハゼ」と、ヤマネは、ちいさく、つぶやいた。だれにも、きこえないくらい、ちいさな声で。「ありがとう」
六
ヤマネは、しばらくのあいだ、木のうえで、じっとしていた。
朝の光は、いよいよ、たかくのぼり、森じゅうを、あかるく、てらしはじめていた。つゆのつぶは、もう、あらかたかわいて、木々のこずえは、あさみどりに、かがやいていた。鳥たちのうたは、あいかわらず、森じゅうに、あふれていた。世界は、こんなにも、あかるくて、あたらしくて、うつくしかった。
それなのに、ヤマネのこころのなかは、くもっていた。
失われた木。いなくなった、コハゼ。ヤマネがねむっているあいだに、森は、まえとは、ちがう森になってしまっていた。ヤマネは、まだ、そのことを、うまく、うけとめることが、できなかった。いっそ、もういちど、うろにもどって、まえのように、まるくなって、ねむってしまいたい、とさえ、思った。ねむってしまえば、なにも、変わらない。ねむってしまえば、なにも、うしなわずにすむ。
ヤマネが、そんなふうに考えていると、シジュウカラが、ふと、言った。
「ヤマネさん。ひとつ、いいものを、見せてあげようか」
「いいもの?」
「うん。ぼくについて、おいで」
シジュウカラは、そう言って、ちょん、ちょんと、枝を、飛びうつっていった。ヤマネは、まよったけれど、それでも、のろのろと、幹をつたって、シジュウカラのあとを、ついていった。
シジュウカラが、ヤマネをつれていったのは、あの、たおされたナラの木の、きり株のところであった。
「ここを、ごらん」と、シジュウカラは、きり株の、はしのほうを、くちばしでさししめした。
ヤマネは、きり株のはしを、のぞきこんだ。
そこには、たおされた、大きなナラの木の、きり口が、あった。ぐるぐると、たくさんの輪が、えがかれた、きり口。その輪の、いちばん外がわの、皮のちかくから、なにか、ちいさな、みどりのものが、ぴょこん、と、のびていた。
それは、あたらしい、ナラの、芽であった。
たおされた木の、きり株のはしから、あたらしい、ちいさなナラの芽が、もう、のびはじめていたのだ。ふたひらの、まるい、やわらかそうな葉を、そっと、ひらいて。
「木はね」と、シジュウカラは言った。「たおされても、ねっこが、いきていれば、また、こうやって、あたらしい芽を、だすことがあるんだ。この芽が、大きくなったら、また、まえのような、りっぱなナラの木に、なるかもしれない。何十年も、何百年も、かかるかもしれないけどね。でも、いのちは、こうやって、つづいていくのさ」
ヤマネは、その、ちいさなナラの芽を、じっと、見つめた。
七
「それから」と、シジュウカラは、こえをひそめて、言った。「もうひとつ、見せたいものがあるんだ。こっちに、おいで」
シジュウカラは、きり株から、すこしはなれた、ヤブのほうへ、ヤマネを、みちびいた。ヤブの下、しめった落ち葉のかげに、なにか、ちいさなものが、おちていた。
ヤマネは、ちかづいて、それを見た。
それは、片方だけの、手袋であった。
ちいさな、こどもの手袋。赤い毛糸で、あまれた、ふわふわの手袋。おそらく、この森に、あそびに来た、人のこどもが、おとしていったのだろう。かた方だけ、雪どけの落ち葉のなかに、うずもれるようにして、おちていた。もうかた方は、どこにも、なかった。
「これがね」と、シジュウカラは、ちょっと、いたずらっぽく言った。「じつは、この冬、いちばんの、たからものだったのさ」
「たからもの?」
「うん。だってね、これがおちてから、この手袋のなかに、ネズミの一家が、すみついたんだよ。冬のあいだ、あったかい、あかい毛糸のおうちさ。おかげで、あの一家は、あんなにさむい冬を、みんな、ぶじに、こせたんだ。人のこどもは、手袋をなくして、きっと、ないたろうけどね。この森のだれかにとっては、その手袋が、いのちを、すくったのさ」
ヤマネは、その、赤い手袋を、見つめた。
だれかが、うしなったものが、べつのだれかを、すくうことがある。
ヤマネは、そのことを、こころのなかで、そっと、かみしめた。片方だけになった、この手袋。もう、対には、ならない。けれども、この片方だけの手袋は、まえには なかった、あたらしい役目を、この森のなかで、はたしていた。うしなわれたものは、うしなわれたまま、けれども、あたらしい、なにかに、なっていた。
「森はね」と、シジュウカラは、しずかに言った。「たしかに、変わっていく。大きな木がなくなることもある。だいじな、なかまが、いなくなることもある。それは、かなしいことだ。ほんとうに、かなしいことだ。でもね、ヤマネさん。その、なくなったもののあとに、いつも、あたらしいものが、めばえるんだよ。きり株から、あたらしい芽がでるように。おとされた手袋が、だれかのおうちになるように。夜が、あけて、あさに、なるように」
ヤマネは、シジュウカラを、見あげた。
「夜が、あけて、あさに、なるように」と、ヤマネは、その言葉を、くりかえした。
そのとき、ヤマネは、けさ、見あげた、あの空を、思いだした。
八
ながい尾をひく、あおじろい星。
けさ、ヤマネがうろから出て、いちばんはじめに見あげた、あの星。空が白んでいくにつれて、だんだんとうすれ、やがて、朝の光のなかに、すっかりとけて、消えていった、あの、さいごの夜の光。
あの星が消えたとき、ヤマネは、むねのおくが、きゅう、とした。会ったこともないだれかに、さよならを言われたような、あの心もち。けれども、あの星が消えたのは、夜が、おわったからだ。夜が、おわって、あたらしい朝が、はじまったからだ。あの星は、消えたのではない。夜といっしょに、いってしまっただけだ。そして、そのかわりに、あたらしい朝が、この森を、てらしはじめた。
なくなったもののあとに、あたらしいものが、めばえる。
夜が、あけて、あさに、なるように。
ヤマネは、ふと、じぶんの、こころのなかで、なにかが、すこしずつ、ほどけていくのを、かんじた。ながい冬のねむりが、ゆっくりとほどけていったように。かたくつぼんでいた木の芽が、そっとひらいていくように。
コハゼは、いなくなった。あの大きなナラの木も、なくなった。それは、かなしいことだ。ほんとうに、かなしいことだ。ヤマネは、そのかなしさを、なかったことには、できない。けれども、コハゼといっしょにあそんだこと、あの大きな木のどんぐりをあつめたこと、それは、ヤマネのこころのなかに、いまも、ちゃんと、のこっている。ちょうど、あの、きり株のねっこが、いきているように。
そして、そのねっこから、あたらしい芽が、もう、のびはじめている。
「シジュウカラさん」と、ヤマネは、言った。「わたし、けさ、へんな星を、見たのです」
「へんな星?」
「はい。ながい、あおじろい尾を、ひいた星です。西の空の、たかいところに、うかんでいました。でも、あさになったら、すうっと、うすくなって、消えてしまいました」
シジュウカラは、ちょっと、目を、まるくした。
「それは」と、シジュウカラは言った。「ヤマネさんは、いいものを、見たね。あれは、ずっとずっと昔から、たまにしか、あらわれない星なんだ。あの星がのぼる夜には、森のふるいものたちが、みな、そっと目をさます、というよ。ヤマネさんが、けさ、目をさましたのも、もしかしたら、あの星に、よばれたのかもしれないねえ」
ヤマネは、なんだか、うれしいような、ふしぎな気もちに、なった。
あの星に、よばれた。ながい冬のねむりから、あの、消えていく星に、そっと、よびさまされた。おきなさい、おきなさい、と。夜は、もう、いってしまうよ。あたらしい朝を、ごらん、と。
「あの星は」と、ヤマネは、たずねた。「また、あらわれますか。いつか、また」
「さあねえ」と、シジュウカラは、くびを、かしげた。「なにしろ、たまにしか、こないからね。つぎに、いつ、くるのかは、だれにも、わからない。ぼくが、まだ、たまごのなかにいたころにも、いちど、のぼったと、母が言っていた。そのまた、ずっと昔にも、のぼったと。そうやって、ながい、ながい、あいだをおいて、あの星は、この森の空に、もどってくるんだ。ヤマネさんが、けさ、あれを見たのは、ほんとうに、めずらしい、しあわせな、ことなんだよ」
ヤマネは、あの、あおじろい光を、もういちど、こころのなかに、えがいた。
たまにしか、こない星。ながい、ながい、あいだをおいて、もどってくる星。それが、ちょうど、けさ、ヤマネの目ざめる、その朝に、のぼっていた。そして、ヤマネが見あげたそのとき、しずかに、朝の光のなかへ、とけていった。まるで、ヤマネを、おこすためだけに、はるばる、やってきて、そして、その役目を、はたしおえたかのように。
そう思うと、あの星が消えたことも、もう、さびしいだけでは、なかった。あの星は、じぶんの、するべきことを、して、しずかに、いってしまったのだ。あとには、あたらしい朝を、のこして。
九
朝の光は、いまや、森のすみずみまで、そそいでいた。
ヤマネは、きり株のうえに、ちょこん、と、のぼった。きり株のうえからは、森のなかが、ずいぶん、よく、見わたせた。まえは、あの大きなナラの木が、空をおおっていて、この場所には、あまり光がとどかなかった。けれども、いまは、木がなくなって、空がひらけて、朝の光が、まっすぐに、この場所に、そそいでいた。
そして、その光のなかで、たくさんの、あたらしい芽が、みどりに、かがやいていた。
ヤマネは、じぶんのすぐそばに、なにか、ちいさな、あおいものが、おちているのに、気がついた。
かがんで、見てみると、それは、ちいさな、あおいろの、箱であった。
はこの、ふたには、みかづきのかたちが、くっきりと、きざまれていた。藍色の、ふるびた、ちいさな箱。ヤマネは、その箱を、前足で、そっと、つついてみた。かたい、木のような、けれども、もっとかるい、ふしぎな手ざわり。なかで、なにか、かさかさと、ちいさな音がした。
「おや、それは」と、シジュウカラが、のぞきこんで、言った。「マッチ箱だね。人が、火をつけるときに、つかうものだ。ときどき、この森でも、おちているのを見かける。たしか――『月光堂』とかいう、店の、マッチ箱だよ」
「げっこうどう」と、ヤマネは、くりかえした。
「うん。なんでも、彗星――あの、ながい尾をひく星が、のぼる夜にだけ、この森のはずれに、ふるい古本屋が、あらわれるんだそうだ。『月光書房』とかいう、店がね。朝になると、消えてしまうから、だれも、ちゃんと見たことはないんだけどね。この、青いマッチ箱は、その、お店のあたりに、おちていることが、あるんだって」
ヤマネは、その、みかづきのきざまれた、青い箱を、じっと、見つめた。
彗星が、のぼる夜にだけ、あらわれて、朝になると、消えてしまう店。まるで、けさの、あの星のようだ、とヤマネは思った。夜のあいだだけ、そこにあって、朝が来ると、光のなかに、とけていく。けれども、その店のあった、あかしのように、この、ちいさな青い箱だけが、朝の森に、のこされている。ちょうど、あの、片方だけの手袋のように。
うしなわれても、なにかが、のこる。消えても、あかしが、のこる。
ヤマネは、その青い箱を、そっと、きり株のうえの、ひなたに、おいた。
十
ヤマネは、きり株のうえに、ちょこんとすわったまま、しばらくのあいだ、目のまえの森を、ながめていた。
まえの森は、たしかに、うつくしかった。あの大きなナラの木が、そらいっぱいに枝をひろげ、その葉のあいだから、ちらちらと、こもれびが、おちてきた。秋には、たくさんのどんぐりが、地面に、ころがった。ヤマネは、その森が、すきだった。あの森が、ずっと、つづいていくものだと、おもっていた。
けれども、いまの森も――と、ヤマネは、おもった。いまの森も、べつの、うつくしさを、もっていた。大きな木がなくなって、空がひらけて、光が、まっすぐに、地面まで、とどくようになった。そのおかげで、これまで、大きな木のかげで、めばえることのできなかった、たくさんの、ちいさな草花が、いま、いっせいに、頭をもたげている。まえの森には、なかった、あたらしいけしき。
どちらの森が、いいのか、ヤマネには、わからなかった。ただ、どちらも、それぞれに、うつくしいのだ、とおもった。そして、いまは、いまの森が、ここに、ある。ヤマネの生きているのは、まえの森ではなく、この、あたらしい、あさの森なのだ。
「シジュウカラさん」と、ヤマネは、言った。「わたし、もう、うろには、もどりません」
「ほう」と、シジュウカラは言った。「どうしてだい」
「けさ、目がさめたとき」と、ヤマネは、ゆっくりと、言った。「わたし、こわかったのです。目をさましたら、森が、まえとちがう森になっていて。大きな木がなくなっていて、コハゼが、いなくなっていて。わたしは、そのことが、かなしくて、こわくて、いっそ、もういちど、うろにもどって、ねむってしまいたいと、思いました。ねむってしまえば、なにも、変わらないから。ねむってしまえば、なにも、うしなわずに、すむから」
シジュウカラは、だまって、ヤマネの言葉を、聞いていた。
「でも」と、ヤマネは、つづけた。「ちがうのですね。ねむっていても、森は、変わっていくのですね。わたしが、うろのなかで、目をつむっているあいだにも、木はたおれて、コハゼは、いなくなっていました。ねむっていても、うしなうものは、うしなうのですね。それなら――」
ヤマネは、きり株のはしの、あの、ちいさなナラの芽を、見た。
「それなら、わたしは、おきていたい」と、ヤマネは、言った。「おきて、この、あたらしい芽が、大きくなっていくのを、見ていたい。かなしいことも、あるでしょう。うしなうことも、あるでしょう。でも、それとおなじくらい、あたらしいことも、めばえるのですね。わたしは、それを、見たいのです。ねむって、なにも見ないままでいるより、おきて、かなしいことも、うれしいことも、ぜんぶ、見ていたいのです」
シジュウカラは、しばらく、ヤマネを見つめて、それから、うれしそうに、ちいさな首を、こくり、とうなずかせた。
「いい、目ざめ、だったね」と、シジュウカラは言った。「ヤマネさん」
「はい」と、ヤマネは、こたえた。「いい、目ざめ、でした」
そのとき、また、どこかで、鳥が、うたいはじめた。チチ、チチチ、チュルル。けさ、ヤマネのねむりを、そっとさましてくれた、あの、やさしいうたごえ。眠れ、眠れ、ではなく、おきなさい、おきなさい、と、うたう声。星が海を、わたりおえたよ、と。
ヤマネは、その声に、みみを、すませた。
十一
ヤマネは、きり株のうえから、朝の森を、見わたした。
東の空の、金色の光は、いまや、森じゅうに、あふれていた。木々のこずえは、あさみどりに、かがやき、ぬれた地面は、光をうけて、しっとりと、ひかっていた。あちこちで、あたらしい芽が、みどりに、頭をもたげ、ちいさな白い花が、つゆのしずくを、まだ、そのはなびらに、のせていた。鳥たちのうたは、森じゅうに、あふれ、その一羽、一羽の声が、朝の空気を、こまかく、ふるわせていた。
森は、変わっていた。
けれども、それは、わるいことでは、なかった。ただ、変わっていた。まえの森が、おわって、あたらしい森が、はじまろうとしていた。夜が、あけて、あさに、なるように。ながい尾をひく星が消えて、金色の朝が、のぼるように。
ヤマネは、じぶんの、ちいさな体を、ぐっと、のばした。
ながい冬のあいだ、まるくなって、ねむっていた体。まだ、じゅうぶんに、力は、もどっていなかった。けれども、朝の光を浴びて、ヤマネの体には、すこしずつ、あたたかさが、もどってきていた。手足のさきの、しびれも、もう、きえていた。
「さて」と、ヤマネは、じぶんに、言いきかせるように、つぶやいた。「まず、なにか、たべなくては」
「それが、いいよ」と、シジュウカラが、わらった。「あそこの、ヤブのむこうに、あたらしい木の芽が、たくさん、でているよ。やわらかくて、あまくて、おいしいはずだ。それから、そこの、きり株のわきに、去年のどんぐりが、いくつか、のこっている。ネズミの一家が、うっかり、たべわすれたやつがね」
「ありがとう」と、ヤマネは、言った。「シジュウカラさん。いろいろ、教えてくれて」
「なあに」と、シジュウカラは言った。「また、いつでも、あそびに、おいで。ぼくは、たいてい、このへんの木に、いるからね」
シジュウカラは、そう言うと、ちょん、と、枝から、飛びたって、あさぞらの光のなかへ、まっすぐに、とんでいった。その、ちいさなすがたは、やがて、木々のみどりの、むこうに、見えなくなった。
ヤマネは、ひとり、きり株のうえに、のこった。
ヤマネは、もういちど、けさ、星の消えた、西の空を、見あげた。
そこには、もう、あの、ながい尾をひく星は、なかった。ただ、あかるい、あさの空が、どこまでも、ひろがっているばかりであった。星は、いってしまった。夜と、いっしょに。けれども、ヤマネのこころのなかには、あの、あおじろい光が、まだ、のこっていた。消えていく、その、さいごのすがたが。おきなさい、と、ヤマネをよびさました、あの、やさしい光が。
ヤマネは、きり株のうえの、青いマッチ箱を、そっと、なでた。それから、あの、片方だけの、赤い手袋のほうを、いちど、ふりかえって、見た。それから、あの、きり株のはしから、のびはじめた、ちいさなナラの芽を、見た。
うしなったもの。のこったもの。あたらしく、めばえたもの。
そのすべてが、この、朝の光のなかに、あった。
ヤマネは、きり株のはしまで、とことこと、あるいていった。そして、ちいさな前足を、そっと、地面のほうへ、のばした。ぬれた、つめたい、けれども、生きている土のうえへ。
一歩。
ヤマネは、あたらしい森の、あたらしい朝の、その光のなかへ、はじめの一歩を、ふみだした。
つゆが、その足のうらで、ちいさく、ひかった。そして、どこかで、また、鳥が、うたった。眠れ、ではなく、おきなさい、と。星が海を、わたりおえたよ、と。あたらしい一日が、いま、はじまるよ、と。
ヤマネは、うたごえのするほうへ、あるきだした。
森は、変わってしまった。けれど、朝は、こんなにも、あたらしかった。