殻を割る朝
世界はまだ、あなたのかたちをしていなかった。
はじめに、音があった。
それは光より先にやってきた。まだわたしがわたしを知らないころ、まだ「わたし」という言葉さえ生まれていないころ、丸い暗がりの底に、その音は染みてきた。低くて、あたたかくて、水の底を渡ってくるようなふるえ。それはうたっていた。眠れ、眠れ、と。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。わたしはそのとき、まだ眠りと目覚めの区別を知らなかったから、うたが「眠れ」と言っているのか「目覚めよ」と言っているのか、わからなかった。ただ、そのふるえが好きだった。ふるえのくるほうへ、体の丸まったやわらかい先を、そっと向けていた。
殻のなかは、狭かった。
けれど、狭いと感じるためには、広さを知っていなければならない。わたしは広さを知らなかった。だからそれは、狭いのではなく、ちょうどよかった。わたしのかたちにぴったりと合った、まるいまるい壁。膝を抱え、くちばしを胸の羽毛のあいだにうずめ、そうしているあいだ、わたしはこの丸い夜のいちばん奥にいた。壁のむこうから、あのうたが、しみてきた。壁のむこうから、規則正しい、大きな鼓動が、伝わってきた。とくん、とくん。それはわたしのものではなかった。それは、わたしをかこう者の胸の音だった。
わたしはその音を、時計のかわりにしていた――といっても、時計を知っていたわけではない。ただ、その音が来るたびに、わたしはひとつ大きくなった。とくん、で羽が一枚。とくん、で目のうしろの骨が一分。とくん、で、爪の先が、ほんの少しだけかたくなった。暗がりのなかで、わたしはひそかに、自分をつくっていた。誰にも見られず、誰にも急かされず、まるい夜の底で、指の一本、羽の一枚を、順番にととのえていた。
わたしには、においも、あった。
そう、殻のなかにも、においは、あった。それは、わたし自身の、あまい、まだ生まれていないもののにおいと、うすい膜のにおいと、それから、壁のむこうからわずかに沁みてくる、木のにおいだった。わたしは、そのにおいの層を、ひとつひとつ、まだ言葉にできないまま、かぎわけていた。においには、遠さがあった。すぐそばのにおいと、ずっと遠くから来たにおい。遠いにおいは、うすくて、けれど、なぜか、こがれさせた。あの、遠いにおいの、来るほうに、外があるのだ、と、わたしのなかの何かが、ささやいた。
とくん、と、鼓動が鳴った。
その鼓動のあいだにも、わたしは、育っていた。指の先の爪が、また、ほんの少し、かたくなった。まぶたのうらの、まだあけたことのない目が、暗がりのなかで、それでも、光をさがすように、うごいた。生まれる前の生きものは、たぶん、じっとしているように見えて、いつも、いそがしいのだ。まるい夜のそこで、羽の一枚、骨の一分を、いそいで、ととのえている。誰にも見られないところで、いのちは、ひそかに、じぶんを、いそいでいる。
やがて、わたしのなかに、ひとつの言葉が生まれた。
それは「外」という言葉だった。
外
「外」を、わたしはどこで覚えたのだろう。
誰も教えてはくれなかった。うたは「眠れ」と言うばかりで、「外」とは一度も言わなかった。鼓動も「外」とは打たなかった。それでもある日、暗がりの底で、わたしのなかに、その言葉が芽のように生えた。ここではない、どこか。この壁のむこうにある、まだ見たことのない広さ。それを指す言葉が、わたしのなかにひとりでに育った。
たぶん、それは、光のせいだった。
殻は、まったくの闇ではなかった。わたしはずっと、それを闇だと思っていた。けれどある「とくん」のあとで、わたしは気づいた。壁の一点が、ほかより、ほんの少しだけ、うすい。そこだけ、闇がやわらかい。目をこらすと――といっても、わたしはまだ目をあけたことがなかったのだけれど――閉じたまぶたの内側に、かすかな、ほんとうにかすかな、赤みのようなものが、にじんだ。
それは、殻を透かして入ってくる、外の光だった。
明け方の光だった。
そのころ、外の世界では、いちばんはやい光が、東の空のふちに生まれようとしていた。まだ日は昇っていない。ただ、夜がゆっくりと、その重みをほどきはじめる時刻。空の底が、藍から、鈍い灰へ、そしてほんのりとした乳白へと、順にうすれていく刻。その光の、いちばん先っぽの、いちばん頼りない一片が、木々の葉をくぐり、枝のあいだを縫い、巣のくぼみへ落ち、そうしてわたしの丸い壁を、うっすらと赤く染めた。
わたしはそれを知らなかった。明け方も、東も、空も、木も、葉も、まだ何ひとつ知らなかった。ただ、壁の一点がうすい、ということを知った。そして――ここが、たいせつなところなのだけれど――わたしは、そのうすいところへ、体を向けた。
暗がりのなかで、生まれる前のわたしが、光のほうへ向いたのだ。
なぜ、そうしたのだろう。
誰も、光のほうを向きなさいとは言わなかった。うたは眠れと言うばかりだった。それでもわたしは、うすい闇のほうへ、閉じたまぶたを向けた。まるで、生まれるずっと前から、わたしのなかの何かが、光を知っていたかのように。まるで、わたしという小さな生きものの、いちばん古い部分が、はるか昔、いつか見た朝のことを、覚えていたかのように。
わたしは、そのうすい一点を、じっと感じていた。
そして、こう思った。あそこには、何かがある。
うたが、変わった。
ずっと同じだった子守うたの、節がひとつ、変わった。眠れ、眠れ、のあとに、それまでなかった一行が、そっと足された。星が海をわたるまで――そのあとに、うたはこうつづけた。「わたるまで、そして、渡りきったなら」。
渡りきったなら。
わたしのなかで、その言葉が、しんと響いた。渡りきる、ということが、あるのだ。眠りには、終わりがあるのだ。この丸い夜にも、そとがわがあるのだ。うたが、それを、そっと教えてくれた。眠れ、とうたいながら、うたはずっと、目覚めのことを、うたっていた。子守うたというのは、たぶん、そういうものなのだ。眠りへ送り出すふりをしながら、いつか来る朝のことを、こっそり約束しているもの。
わたしは、くちばしを、胸からあげた。
それは、生まれてはじめての、自分からの動きだった。それまでのわたしは、ただ丸まって、つくられるのを待っていた。とくん、で羽が一枚、とくん、で骨が一分、というふうに、時に流されて、育てられていた。けれどいま、わたしは、自分の意思で、うずめていたくちばしをあげた。うたのくるほう、光のうすいほうへ、その小さな先っぽを、向けた。
くちばしの先には、ひとつ、かたいものがあった。
生まれてくるものは、みな、それを持っているのだという。あとで――ずっとあとで――わたしはそれを「卵歯」という名で呼ばれることを知る。くちばしの先の、小さな、白い、いっとき限りのかたさ。壁を破るためだけに、生まれてくる者に授けられ、破りおえたら、じきに落ちて、二度と生えてこない、ただ一度の道具。
わたしは、それを持っていた。
それがなんのためのものか、わたしは知らなかった。ただ、くちばしを光のほうへ向けたとき、その先っぽのかたいところが、壁のうすい一点に、こつん、と、あたった。
こつん。
その音を、わたしは、生まれてはじめて、自分の外に聞いた。
割れ目
こつん、と、もういちど。
音は、壁のむこうへ、抜けていった。それまで、すべての音はむこうから来るばかりだった。うたも、鼓動も、みなむこうから、わたしのほうへ。けれど、こつん、という音は、はじめて、わたしのほうから、むこうへ、出ていった。
わたしは、それにおどろいた。
音が、出ていける。ということは、この壁は、どこかで、外とつながっている。閉じきってはいない。むこうへ抜ける道が、ある。わたしのなかで、「外」という言葉が、いよいよはっきりと、輪郭をもった。それはもう、ただの予感ではなかった。手のとどく、くちばしのとどく、ほんとうの場所になった。
わたしは、卵歯で、もういちど、壁を突いた。
こつん。
こんどは、ただ音が出ていっただけではなかった。壁の、いちばんうすいところに、ほんの、ほんのわずかな、ひっかかりが生まれた。なめらかだった丸い壁の、ひとところだけが、ざらりとした。わたしはそこを、また突いた。こつん。ざらり。こつん。ざらり。突くたびに、ひっかかりは、ほんの少しずつ、深くなった。
それは、たいへんな仕事だった。
わたしの体は、まだ、たよりなかった。羽はしめっていて、骨はやわらかく、力というものを、わたしはまだよく知らなかった。首をひとつうしろへ引くのに、丸い夜のなかで、体じゅうの、まだ名前も知らない筋を、ぜんぶ使わなければならなかった。引いて、突く。引いて、突く。ひとつきごとに、わたしは、へとへとになった。突いては休み、休んではまた、うすい壁の、同じ一点を、突いた。
くるしかった。
生まれるということが、こんなにくるしいとは、わたしは知らなかった。丸まって、うたを聞いて、育てられているのは、らくだった。狭いけれど、あたたかく、ちょうどよかった。壁を突くのをやめれば、わたしはまた、あのらくな丸い夜に、戻れるはずだった。もう突かなくていい。もう引かなくていい。目をあけなくていい。うすい光のほうを、向かなくていい。
けれど、わたしは、突くのをやめなかった。
なぜ、やめなかったのだろう。
くるしかったのに。戻れば、らくだったのに。それでもわたしは、うすい一点を、突きつづけた。わたしのなかの、いちばん古い部分が、こう言っていた。あそこへ、行け。あの光のあるほうへ。この壁のむこうの、広さのほうへ。行かなければ、おまえは、おまえにならない。
とくん、と、むこうで、大きな鼓動が鳴った。
それは、いつもより、はやかった。とくん、とくん、とくん。わたしをかこう者の胸が、はやく、打っていた。わたしが壁を突くのを、その者は、外で、感じているのだ。そして、案じているのだ。そのはやい鼓動が、わたしには、わかった。だいじょうぶ、と、わたしは思った。うまく言葉にはならなかったけれど、そういう気もちが、わたしのなかに、生まれた。だいじょうぶ。いま、行くから。
うたが、また、聞こえた。
こんどは、もう「眠れ」とは、うたっていなかった。
「めざめよ」と、うたっていた。
同じ節で、同じやさしさで、けれど言葉だけが、裏返っていた。眠れ、眠れ、が、めざめよ、めざめよ、に。星が海をわたるまで、が、星が海をわたりきったら、に。それは、送り出すうただった。生まれてくる者の背を、そっと押すうただった。
わたしは、ありったけの力で、卵歯を、うすい一点に、たたきつけた。
こつん、ではなかった。
ぴしり、と、鳴った。
ひとすじの光
壁が、割れた。
いや、割れた、というのは、正しくない。壁ぜんたいが崩れたわけではなかった。ただ、うすい一点に、ひとすじの、細い、細い、線が、はしった。そしてその線から――
光が、入ってきた。
ああ。
それを、なんと言えばいいのだろう。
あれほどこがれた、あのうすい赤みが、あんなにかすかな、閉じたまぶたのむこうのにじみでしかなかったものが、いま、細い割れ目から、まっすぐに、わたしのなかへ、さしこんできた。それはもう、にじみではなかった。ひとすじの、はっきりとした、光だった。細くて、まぶしくて、白くて、そしてほんの少し、金色だった。それは、割れ目からまっすぐにのびて、わたしの、まだあけていないまぶたに、あたった。
わたしは、目を、あけた。
はじめて。
生まれてはじめて、わたしは、目をあけた。
そして、光を、見た。
見る、ということが、こういうことだとは、わたしは知らなかった。それまで、うすい赤みを「感じて」はいた。けれどそれは、皮膚で感じる温みのようなものだった。いま、わたしは、光を、目で、受けた。目という、生まれる前にひそかに育てておいた、あの丸くうるんだ器官が、割れ目からさしこむひとすじを、まるごと、受けとめた。
痛いほど、まぶしかった。
けれど、わたしは、目を、閉じなかった。
くるしくて、涙のようなものが、目のふちににじんだ。それでもわたしは、閉じなかった。閉じるくらいなら、この光を見なくなるくらいなら、まぶしさに焼かれたほうがましだと、生まれたばかりのわたしは、もう、そう思っていた。生きものというのは、たぶん、生まれたその瞬間から、光のほうを見てしまうものなのだ。まぶしくても。痛くても。それでも、見てしまう。
割れ目のむこうに、色が、あった。
まだ、はっきりとは見えなかった。生まれたばかりの目は、ぼんやりと、にじんでいた。それでも、わたしは、色を、見た。うすい、うすい、乳白の色。そのなかに、ほんのりとまじる、桃のような、金のような色。そしてその、白と金のはざまに、ひとすじ――
ひとすじの、蒼白い光が、あった。
それは、割れ目からさしこむ、あの朝の光とは、ちがっていた。朝の光は、あたたかく、金がかっていた。けれどそのひとすじは、冷たく、蒼く、そして、長かった。乳白の空のいちばん高いところから、ながく、ながく、尾を引いて、うすれていく――そういう光だった。
わたしは、それを、じっと見た。
なんだろう、と思った。
あれは、なんだろう。
朝の光が、東の空の底からのぼってくるのなら、あの蒼い、長い尾を引く光は、その反対の、まだ夜の残っている高い空から、しずかに、消えていこうとしていた。まるで、夜が、去りぎわに、ひとつだけ、忘れものを置いていったかのように。まるで、これまでの、わたしの見なかったすべての夜が、たったひとすじの蒼い線になって、いま、白みゆく空に、とけて、消えていくかのように。
わたしは、まだ、その名を知らなかった。
ずっとあとで、わたしは知る。あれには、名があった。ミラ、というのだ、と。ながい尾を引く、めったに来ない、旅の星。夜にだけ蒼く燃え、朝には空に溶けて消える、最後の夜の光。それが、わたしの生まれた、まさにその明け方に、東の空の高いところを、しずかに渡っていたのだ、と。
けれど、生まれたばかりのわたしは、名を知らなかった。
ただ、こう思っただけだった。
わたしがはじめて見た空に、消えていく光が、ひとつあった。
それは、さよならの光だった。わたしが、はじめて見たもののひとつが、消えていくものだったなんて。生まれることのいちばん最初に、去っていくものを見送るなんて。けれど、いま思えば、それでよかったのだ。夜が去るから、朝が来る。ひとつの光が消えるから、べつの光が、生まれる。あの蒼いひとすじは、わたしに、いちばん最初の、いちばんたいせつなことを、教えていた。
去るものと、来るもの。
その、あわいに、生まれてくるということ。
ひろがる
割れ目を、わたしは、ひろげた。
蒼いひとすじを見たあと、わたしのなかに、あたらしい力が、湧いた。それは、くるしさに勝つ力だった。もっと見たい。この割れ目のむこうを、もっと。ひとすじだけでは、たりない。空ぜんたいを、世界ぜんたいを、この目で。わたしは、卵歯で、割れ目のふちを、つついた。つついて、押した。押して、ひろげた。
殻が、めりめりと、鳴った。
ひとつめの割れ目から、ふたつめの線が、枝わかれした。ふたつめから、みっつめが。壁は、もう、丸い夜ではなかった。ひびだらけの、崩れかけた、うすい、白い、殻だった。わたしは、そこに、体ぜんたいで、もたれた。首を、思いきり、うしろへ引き、そして――
殻が、われた。
こんどこそ、ほんとうに、割れた。
上半分が、ぱかりと、ずれた。わたしの頭の上の、丸い蓋が、かたむいた。そのすきまから、ひかりが、どっと、なだれこんできた。ひとすじではなかった。もう、割れ目のむこうの、ぼんやりとした色ではなかった。世界ぜんたいの光が、いちどきに、わたしのうえに、降ってきた。
わたしは、まぶしさに、のけぞった。
そして、はじめて、外の、空気を、吸った。
ああ。
息を、するということ。
それまで、わたしは、殻のなかの、こもった、あまい、しめった空気を、吸っていた。それがふつうだと思っていた。けれど、いま、割れた殻のすきまから吸いこんだ空気は、ちがった。それは、つめたかった。しんと、つめたくて、そして、みずみずしかった。夜のあいだにたまった冷たさの、いちばん底の底の空気。それが、わたしの、生まれたばかりの、まだ乾いてもいない小さな肺に、しみた。
明け方の、空気だった。
その匂いを、わたしは、生涯、わすれない。
つめたい草の匂い。しめった土の匂い。どこか遠くの、水の匂い。それから、木の、若い葉の、青い匂い。すべてが、まだ、朝日にあたためられる前の、いちばん清らかな、いちばん最初の匂いだった。夜が、ていねいに冷やして、露に洗って、そうして朝のために、とっておいてくれた、いちばん上等な空気。それを、生まれたばかりのわたしが、いちばんに、吸った。
わたしは、殻から、頭を、出した。
そして、世界を、見た。
世界は、広かった。
広い、という言葉が、はじめて、意味をもった。丸い壁は、もう、ない。わたしのくちばしの先が、どこまでのびても、どこにも、あたらない。上には、空。上のずっと上まで、ぜんぶ、空。まわりには、みどりの、大きな、ゆれるもの――あとで「葉」と教わるもの。その葉のあいだから、金色のかけらが、ちらちらと、こぼれてくる。それは、木の葉のあいだをくぐってきた、朝日のかけらだった。
わたしは、それらを、名も知らずに、見た。
名を知らないというのは、こわいことだった。目に映るすべてが、あたらしく、そして、正体のわからないものだった。あの大きなみどりは、なんだろう。あの金色のこぼれは、なんだろう。上のあの、はてしない青みは。世界には、こんなにたくさんの、わからないものがある。わたしは、その多さに、おそろしくなった。殻のなかは、狭くて、くらくて、けれど、すべてがわかっていた。壁は壁で、うたはうたで、鼓動は鼓動だった。それだけだった。それでよかった。
けれど、いま。
わたしのまわりには、名も知らぬものが、いっぱいだった。
わたしは、こわかった。
殻の、割れて、まだ半分わたしをかこっている、白いかけらの、そのなかに、もういちど、もぐりこみたくなった。もういちど、丸まって、目を閉じて、あのうたを聞いていたくなった。外は、広すぎた。まぶしすぎた。わからなすぎた。生まれるというのは、こんなにも、こわいことだったのか。誰も、教えてくれなかった。うたは、めざめよ、とうたうばかりで、めざめたそのさきが、こんなにこわいとは、うたわなかった。
そのとき。
大きな、あたたかい、影が、わたしのうえに、かかった。
親鳥
それは、わたしを、かこう者だった。
殻のむこうから、ずっと、うたを聞かせてくれていた者。とくん、と、鼓動を伝えてくれていた者。わたしが壁を突くたびに、はやく、案じるように打ってくれた、あの胸の、もちぬしだった。
わたしは、それを、はじめて、見た。
それは、大きかった。わたしの、何倍も。羽は、朝日を受けて、こげ茶と、金と、それからほんのりとした赤みとに、光っていた。まるい、黒い、つやのある目が、ふたつ。その目が、わたしを、見ていた。じっと、まっすぐに、生まれたばかりの、ぬれて、みっともなく、ふるえている、この小さなわたしを。
わたしは、その目のなかに、こわがらなくていい、というものを、見た。
言葉ではなかった。うたでもなかった。ただ、その黒い、つやのある目が、こう言っていた。おまえは、ここにいていい。この広い、こわい、まぶしい世界の、ここが、おまえの、いる場所だ。わたしが、いる。だから、こわがらなくていい。
わたしは、その目を見て、ふるえるのを、やめた。
親鳥は――そう、あとで、その者を「親鳥」と、わたしは呼ぶことを知る――くちばしを、そっと、わたしのほうへ、のばした。そして、わたしの、まだぬれている頭の羽を、やさしく、つついた。ととのえるように。あたためるように。だいじょうぶ、と、言うように。
そのとき、親鳥が、ちいさく、うたった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
それは、あのうただった。殻のなかで、ずっと聞いていた、あのうた。けれど、いまは、殻ごしのふるえではなかった。じかに、空気をふるわせて、わたしの、生まれたばかりの、はじめて音をきく耳に、じかに、届いた。声には、色があった。あたたかい、こげ茶の色。金の色。それから、ほんの少しの、赤みの色。うたの声には、羽とおなじ色が、ついていた。
わたしは、そのうたを聞いて、なきたくなった。
なぜだろう。うれしいのに。こわくないのに。それでも、なぜか、目のふちが、あつくなった。たぶん、それは、こういうことだった。わたしは、いま、殻のそとで、あのうたを、聞いている。ずっと、壁のむこうにあったうたが、いま、わたしとおなじ、この広い世界の、おなじ空気のなかに、ある。うたが、こちらがわに、来てくれた。わたしを、むかえに。
わたしは、くちばしを、あけた。
そして、生まれてはじめての、声を、だした。
ぴい、と、それは、鳴った。
か細くて、みっともなくて、ふるえた、小さな声だった。けれど、それは、わたしの、声だった。わたしのなかから、わたしの意思で、はじめて、外へ、出ていった、音だった。こつん、という卵歯の音とおなじように、それは、わたしから、世界へ、出ていった。ちがうのは、それが、うただった、ということ。ちいさな、へたな、けれど、まぎれもない、うたの、はじまりだった。
親鳥が、それに、こたえた。
もういちど、うたが、聞こえた。眠れ、眠れ、のあとに、あの、あたらしい一行が、つづいた。渡りきったなら――そして、こんどは、そのさきが、あった。うたには、まだ、つづきがあったのだ。
「渡りきったなら、こんどは、おまえが、うたうばん」
はじめての一日
わたしは、まだ、飛べなかった。
飛ぶどころか、立つことも、うまくできなかった。生まれたばかりの脚は、たよりなく、ふるえて、殻のかけらのなかで、わたしは、なんども、ころんだ。羽は、ぬれて、体に、はりついていた。それが、朝日のなかで、少しずつ、少しずつ、乾いていくのを、わたしは、感じた。乾くにつれて、羽は、ふわりと、立ちあがってきた。しめった、みっともないかたまりが、しだいに、やわらかい、あたたかい、羽毛に、なっていった。
親鳥は、そのあいだ、わたしのそばを、はなれなかった。
ときどき、くちばしで、わたしの羽を、つついた。ぬれてはりついた羽を、いっぽんずつ、ときほぐすように。それは、いたくはなかった。むしろ、そのたびに、わたしの体のどこかが、ふっと、かるくなった。乾いた羽が、ひとつ、また、ひとつと、たちあがった。わたしは、じぶんが、だんだん、ふくらんでいくのを、感じた。ぬれて、ちいさく、みじめだったかたまりが、乾いて、ふわりと、ふくらんで、まるくなっていく。まるで、しぼんでいた花が、朝日をあびて、ひらいていくように。
そのあいだじゅう、親鳥は、ちいさく、うたっていた。
うたは、もう、殻ごしではなかった。じかに、わたしの、まだ音になれていない耳に、ながれこんできた。眠れ、眠れ。けれど、そのうたを聞いても、わたしは、もう、眠くならなかった。ふしぎだった。眠れ、とうたわれているのに、わたしは、いよいよ、目がさえた。うたの、ほんとうの意味は、たぶん、「眠れ」でも「めざめよ」でもなくて、「わたしが、ここにいるよ」ということだったのだ。眠っていても、めざめていても、わたしが、そばにいる。うたは、それだけを、うたっていた。だから、そのうたは、眠りにも、めざめにも、おなじように、効いた。
わたしは、その、乾いていく感じが、すきだった。
生まれるというのは、いちどきに、ぜんぶ、なることではない、と、わたしは知った。殻を割ってからも、わたしは、まだ、生まれつづけていた。羽が乾くのも、脚がしっかりするのも、目のにじみが晴れて、世界がだんだんくっきり見えてくるのも、ぜんぶ、生まれることの、つづきだった。生まれるとは、瞬間ではなく、この、はじめての一日、まるごとの、ことだった。
朝日が、のぼった。
さっきまで、東の空の底で、乳白と桃色にゆれていた光が、いま、木々のこずえのむこうから、まるい、かがやくかたちになって、あらわれた。それは、わたしが見たなかで、いちばん、まぶしかった。あの、割れ目からさしこんだひとすじの、もとが、これだったのだ。世界じゅうを金色にする、大きな、大きな光の、もと。
その光のなかで、あたりが、いっせいに、かがやいた。
葉のうえの、露が、光った。ひとつひとつの水のつぶが、朝日を、まるごと、なかにとじこめて、ちいさな、まるい、光の玉に、なった。巣のふちの、枯れ草の、けばだちが、金色にふちどられた。親鳥の羽が、いよいよ、こげ茶と金と赤みとに、燃えた。そして、わたしの――わたしの、乾きかけの、まだたよりない羽さえもが、その光を受けて、ほんのりと、光った。
わたしは、光っていた。
生まれたばかりの、ぬれた、みっともないわたしが、朝日のなかで、ちいさく、光っていた。
それが、うれしくて、わたしは、また、ぴい、と、鳴いた。
空を、見あげた。
あの、蒼い、長い尾を引く光を、もういちど、さがした。
けれど、それは、もう、なかった。
朝日がのぼって、空が、すっかり、青くなって、乳白も桃色も、みんな、あかるい水色に、洗いながされて――そのなかに、あの、蒼いひとすじは、もう、どこにも、なかった。夜が、去った。夜といっしょに、あの旅の星も、去った。空に、とけて、消えた。わたしが、はじめて見た、消えていく光は、ほんとうに、消えてしまった。
わたしは、すこし、さびしくなった。
はじめて見たものが、消えてしまうのは、さびしい。もういちど、見たかった。あの、冷たくて、蒼くて、長い光を。けれど、消えてしまった。
そのとき、親鳥が、わたしのそばで、しずかに、言った。
うたのように、言った。
「あれは、夜の、いちばん最後の光。おまえが生まれるのを、まっていて、おまえを見とどけて、それから、消えていったのよ。めったに来ない、旅の星。つぎに来るのは、ずっと、ずっと、さきのこと。おまえは、その光の、消えるところに、生まれたの。おぼえておいで。おまえの生まれた朝には、旅の星が、ひとつ、空を渡っていた」
わたしは、その言葉を、胸に、しまった。
まだ、意味の半分も、わからなかった。けれど、おぼえておこう、と、思った。わたしの生まれた朝には、蒼い、長い尾を引く光が、ひとすじ、空を渡って、そして、消えた。それは、夜の、いちばん最後の光だった。そして、それが消えたところから、わたしの、はじめての一日が、はじまった。
さびしさは、まだ、あった。
けれど、そのさびしさのすぐとなりに、うれしさが、あった。ふたつは、けんかしなかった。さびしさと、うれしさは、明け方の空の、藍と金のように、となりあって、ひとつの、なんとも言えない、あたらしい気もちに、なっていた。それは、たぶん、「生きている」という気もちに、いちばん近いものだった。
巣のなかの、片方
巣は、まるかった。
殻とおなじように、まるかった。けれど、殻とちがって、そとがわが、あった。ふちがあって、そのむこうに、世界がひろがっていた。まるい、けれど、閉じていない。それが、巣だった。わたしは、殻という小さなまるさから、巣という、少し大きなまるさへ、生まれ出たのだ、と、思った。世界は、まるさが、だんだん大きくなっていく、そういうふうに、できているのかもしれなかった。
巣のなかに、いくつか、へんなものが、あった。
親鳥が、あちこちから、あつめてきたのだろう。枯れ草。羽。細い枝。それから――ひとつ、やわらかい、みょうなものが、あった。それは、草でも、羽でも、枝でもなかった。ふわふわしていて、けれど、羽ぽくはなくて、五本の、指のようなかたちの、袋が、ついていた。しかも、それは、あきらかに、鳥のものではなかった。もっと大きな、べつの生きものの、なにかの、いっぽうだった。
いっぽう、というのは、こういうことだった。それは、対になっているべきものの、片方だけ、らしかった。もう片方は、どこにもなかった。片方だけが、どういうわけか、この巣に、まぎれこんで、いた。
わたしは、それを、つついてみた。
やわらかかった。あたたかくはなかったけれど、寒くもなかった。指のような袋のなかに、くちばしを、いれてみた。すると、そこは、まるくて、狭くて、そして――なんだか、殻のなかに、似ていた。
わたしは、そのなかに、頭を、うずめた。
すると、ふしぎと、おちついた。
親鳥が、それを見て、ちいさく、笑うように、鳴いた。「それは、人のものよ。手袋、というの。片方だけ、風に飛ばされて、ここまで来たのね。もう片方は、どこかで、だれかが、さがしているかもしれない。でも、この片方は、いまは、おまえの、まくらね」
手袋のとなりには、もうひとつ、ちいさな、四角いものが、あった。
それも、鳥のものでは、なかった。人のものだった。藍色の、ちいさな、箱。手袋よりも、ずっと、かたかった。その、藍色の面に、なにか、しるしが、ほられていた。わたしは、まだ、かたちを読むことを知らなかったから、それが、ほそい、まがった、三日のかたちの月だ、ということは、あとで、教わるまで、わからなかった。ただ、その藍色が、明け方の、いちばん最初の空の色に、似ている、とだけ、思った。夜と朝の、さかいめの、あの、ふかい藍。
親鳥が、それを見て、また、ちいさく鳴いた。「それも、人のものよ。火をともす、ちいさな箱。どこか、遠くの、ふしぎな店から、来たのかもしれないね。彗星の夜にだけ、あらわれて、朝には消えてしまう、古い本の店。そこの、あかりを、つけるための箱。風は、いろんなものを、いろんなところから、はこんでくる。手袋も、この箱も、みんな、風の、おくりもの」
彗星の夜にだけあらわれて、朝には消える、店。
わたしは、それも、おぼえておこう、と、思った。世界には、夜にだけあらわれて、朝には消えるものが、ある。あの、蒼い旅の星のように。あの、店のように。そして、たぶん、わたしの生まれた、あの、まるい夜のように。消えるものは、なくなるのでは、ないのかもしれなかった。ただ、朝のむこうがわへ、しずんでいくだけ。つぎの夜を、待っているだけ。
手袋。人のもの。片方だけ、風に飛ばされて。
わたしは、また、おぼえておこう、と、思った。世界には、片方だけで、ここまで来るものが、ある。対のうちの、いっぽうだけ、はぐれて、旅をして、そして、まるで、生まれたばかりの雛のまくらになるために、ここへ着く。世界は、そんなふうに、いろんなものが、いろんなところから、はぐれて、集まって、できているのかもしれなかった。
わたしは、その、人の手袋の、片方に、頭をうずめて、すこし、まどろんだ。
まどろみながら、うたを、聞いた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。渡りきったなら、こんどは、おまえが、うたうばん。
世界の、たしかめ
まどろみから、さめると、朝は、もう、すっかり、あかるくなっていた。
わたしは、頭を、手袋のまくらから、あげた。
こわさは、まだ、あった。けれど、さっきよりは、ちいさくなっていた。まどろむ前は、名も知らぬものが、いっぱいで、おそろしかった。けれど、いまは、ひとつ、ふたつ、名を、おぼえた。あれは、葉。あれは、露。あれは、朝日。あれは、親鳥。あれは、手袋。名をおぼえると、こわさは、ちいさくなった。名づけるというのは、こわさを、ちいさくすることなのかもしれなかった。
わたしは、もっと、世界を、たしかめたくなった。
首を、めいっぱい、のばした。巣のふちから、そとを、のぞいてみた。
すると、ずっとむこうに、いろんなものが、あった。
大きな、みどりの、うねり。それは、木々の、こずえのつらなり、だった。そのむこうに、白い、もやが、たなびいていた。それは、谷の、朝もやだった。もやのむこうに、うっすらと、水が、光っていた。それは、川、だった。すべてを、わたしは、名も知らずに、見た。けれど、名を知らなくても、それは、うつくしかった。名を知らないものを、うつくしいと感じられること。それも、生きものの、ふしぎな、力のひとつだった。
そのとき、そらの、たかいところから、音が、した。
ぴい、ぴい、と、それは、鳴いた。
わたしの声と、似ていた。けれど、わたしのより、ずっと、じょうずで、ずっと、とおくまで、ひびいた。それは、べつの鳥の、声だった。わたしとおなじ、けれど、わたしより、ずっと前に生まれた、どこかの、だれかの、朝の声。
そして、その声に、こたえて、あちこちから、声が、あがった。
ぴい。ちゅん。りりり。ぴよ。ちちち。
朝の、木々のなかから、いっせいに、声が、あがった。
それは、朝の、うたごえだった。夜のあいだ、しずかにしていた鳥たちが、朝日がのぼると、いっせいに、目をさまして、うたいはじめる。生きていることを、たしかめあうように。おはよう、おはよう、と、言いあうように。わたしは、それを、聞いた。世界じゅうの、目ざめた生きものたちの、朝のうたを。
そして、気づいた。
わたしも、そのなかの、ひとつなのだ、と。
わたしも、いま、目ざめた。わたしも、いま、生きている。だから、わたしも、うたっていいのだ。あの、朝のうたごえの、いちばんはしっこに、いちばんへたな声で、いちばんちいさく、けれど、まぎれもなく、わたしも、くわわっていいのだ。
わたしは、くちばしを、あけた。
そして、ありったけの声で、鳴いた。
ぴい。
か細くて、ふるえて、みっともない声だった。けれど、それは、たしかに、朝のうたごえの、なかに、まじった。世界じゅうの目ざめた生きもののうたの、いちばんあたらしい一声として、わたしの声も、そこに、くわわった。
だれも、わたしのへたな声を、笑わなかった。
木々のなかの声たちは、わたしの声に、こたえてくれた。ぴい、と鳴くと、どこかで、ぴい、と、かえってきた。おはよう、と、かえってきた。よく、生まれたね、と、かえってきた。ようこそ、と、かえってきた。
わたしは、うれしくて、なんども、なんども、鳴いた。
讃歌
生まれるということは、こういうことだったのだ、と、わたしは、思った。
くらくて、狭い、まるい夜のそこで、うたを聞きながら、じぶんを、つくること。壁のうすいところを、見つけること。くるしくても、突きつづけること。戻れるのに、戻らないこと。まぶしくても、目を、あけること。はじめて見た空に、消えていく光を、見送ること。つめたい、みずみずしい空気を、はじめて、吸うこと。名も知らぬものの、多さに、おそれること。そのおそれの、すぐとなりで、あたたかい影に、まもられること。うたが、こちらがわに、来てくれること。じぶんの声で、はじめて、鳴くこと。片方だけの手袋に、頭をうずめて、まどろむこと。名を、ひとつ、ふたつ、おぼえること。そして、世界じゅうの朝のうたごえの、いちばんはしっこに、じぶんの声を、くわえること。
それが、生まれる、ということだった。
それは、いちどきに、ぜんぶ、なることではなかった。ひとつ、ひとつ、順番に、生まれていくことだった。そして、たぶん、それは、この、はじめての一日だけの、ことではなかった。あすも、あさっても、わたしは、生まれつづけるのだろう。あたらしい名を、ひとつずつ、おぼえて。あたらしい色を、ひとつずつ、見て。あたらしい音を、ひとつずつ、聞いて。そのたびに、わたしは、すこしずつ、生まれつづけるのだろう。
生きているというのは、たぶん、生まれつづける、ということなのだ。
朝日は、もう、木々のこずえの、ずっと上まで、のぼっていた。
露は、朝日にあたためられて、ひとつ、ひとつ、消えていった。さっきまで、光の玉だった水のつぶが、そらへ、のぼっていった。あの、蒼い星が、そらに溶けて消えたように、露もまた、そらに溶けて、消えていった。世界は、消えるものと、生まれるものとで、できていた。夜が消えて、朝が生まれた。星が消えて、日が生まれた。露が消えて――そして、わたしが、生まれた。
わたしは、巣のふちに、たよりない脚で、立った。
はじめて、ちゃんと、立てた。ふるえながら、けれど、じぶんの脚で。
そして、羽を、ひろげてみた。
まだ、飛べない、ちいさな、乾いたばかりの羽。それを、めいっぱい、ひろげて、朝日に、あてた。羽の一枚、一枚に、金色の光が、とおった。羽は、光を、すかした。わたしは、じぶんの羽が、光をすかして、金色にかがやくのを、見た。
いつか、この羽で、飛ぶのだ、と、思った。
いまは、まだ、飛べない。けれど、いつか。この羽が、もっと、大きく、もっと、つよくなったら、わたしは、あの、朝日ののぼる、東のそらへ、飛ぶのだ。あの、蒼い星が消えていった、たかいそらへ。世界じゅうの朝のうたごえの、まんなかへ。
そのとき、わたしは、じぶんのうたを、うたうのだ。
眠れ、眠れ、ではなく、めざめよ、めざめよ、と。まだ、殻のなかにいる、だれかのために。まだ、くらい、まるい夜のそこで、うすい光を、さがしている、だれかのために。渡りきったなら、こんどは、おまえが、うたうばん――親鳥が、うたってくれたように。うたは、そうやって、ひきつがれていくのだ。夜のはしから、朝のはしへ。生まれる者から、生まれる者へ。
わたしは、羽を、たたんだ。
そして、親鳥のとなりに、そっと、よりそった。
親鳥は、あたたかかった。羽の下に、わたしを、すこし、いれてくれた。そこは、殻のなかに、似ていた。まるくて、あたたかくて、うたが、聞こえた。けれど、殻とは、ちがった。そこには、そとがわが、あった。羽のすきまから、朝の光が、さしこんでいた。つめたい、みずみずしい空気が、ながれこんでいた。まもられていながら、閉じこめられてはいない。それが、生まれたあとの、あたらしいまるさだった。
わたしは、目を、とじた。
けれど、それは、殻のなかで、丸まっていた、あの目のとじかたとは、ちがった。あれは、生まれる前の、まだ何も見ていない目の、とじかただった。いまのは、いちど、世界のぜんぶを見て、光も、色も、こわさも、うれしさも、ぜんぶ知ってから、それでも、あんしんして、とじる目の、とじかただった。
うたが、聞こえた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。渡りきったなら、こんどは、おまえが、うたうばん。
わたしは、その約束を、羽の下の、あたたかい、あかるいくらがりのなかで、ちいさな胸に、しっかりと、しまった。
その夜、わたしははじめて、夜というものを、そとがわから、見た。
朝がきて、昼がきて、そして、また、夜が、きた。生まれてはじめての、まる一日が、めぐった。夜は、こわくなかった。殻のなかの夜とは、ちがっていた。羽の下から、そっと首をだすと、そらに、たくさんの、ちいさな光が、あった。星、というのだ、と、親鳥が、おしえてくれた。
わたしは、星をさがした。
あの、蒼い、長い尾を引く星を。けれど、それは、もう、なかった。ふつうの星たちは、たくさん、あった。けれど、あの、旅の星だけは、いなかった。もう、ずっと遠くの、夜の海を、わたっているのだろう。つぎに、この空へ、もどってくるのは、ずっと、ずっと、さきのこと。そのころには、わたしは、もう、大人の鳥になって、じぶんの巣で、じぶんの雛に、うたを、うたっているのかもしれなかった。
そう思うと、ふしぎな気もちに、なった。
わたしが、はじめて見た光は、つぎにわたしがそれを見るときには、わたしは、もう、いまのわたしでは、ないのだ。旅の星は、そうやって、生きものの、いちばんはじめと、ずっとあとを、むすぶのかもしれなかった。生まれた朝と、うたをひきつぐ朝とを。
わたしは、また、羽の下に、頭を、しまった。
眠る前に、もういちど、ちいさく、鳴いてみた。
ぴい。
きょうよりは、すこしだけ、じょうずに、鳴けた。あすは、もっと、じょうずに、鳴けるだろう。あさっては、もっと。そうやって、わたしは、じぶんのうたを、すこしずつ、おぼえていくのだろう。いつか、めざめよ、と、うたえるようになるまで。
親鳥の、鼓動が、聞こえた。
とくん、とくん。
殻ごしに聞いていた、あの音と、おなじ音だった。けれど、いまは、殻ごしではなく、じかに、聞こえた。あたたかい、羽の下で。わたしは、その音を、時計のかわりにして――いや、もう、時計はいらなかった。時は、これから、いくらでも、あった。はじめての一日が、おわった。そして、あすが、あった。あさってが、あった。数えきれない、朝が、これから、あった。
わたしは、眠った。
生まれてはじめての、まる一日の、いちばん最後の眠り。それは、めざめのための、眠りだった。眠るたびに、わたしは、めざめるのだ。めざめるたびに、わたしは、また、すこし、生まれるのだ。
眠れ、眠れ。うたが、遠くなっていった。星が海をわたるまで。うたは、ゆっくりと、夜の底へ、しずんでいった。渡りきったなら――
そして、わたしは、あすの朝を、待った。
くらい、あたたかい、羽の下の、まるさのなかで、うすい光が、また、さしこんでくる、あの明け方を。世界が、もういちど、はじまる、あの刻を。
まだ、あなたのかたちをしていなかった世界は、いま、あなたを待って、しずかに、白みはじめている。