月光書房
卯の刻 ・ 明け方 ・ 第 十 話

始発前

綾瀬 霜郎
サスペンス ・ 約25頁

始発前

夜は、まだ完全には去っていなかった。

改札の向こう、ホームの先に広がる空だけが、うっすらと灰色に濁りはじめている。まだ青でも白でもない、火傷の痕のような色。そこに立つと、世界の縁が少しずつ剥がれて、その下から別の色がにじみ出してくるのが見えた。男は、その空を見ないようにしていた。見てしまえば、自分がどれだけ長く逃げてきたかを、時間そのものが教えてしまうからだった。

無人駅だった。改札には自動の機械が二台、蒼白い光を放って並んでいる。その光だけが、まだ夜の側についていた。券売機の唸る低い音、蛍光灯の細かな明滅、遠くで一度だけ鳴いて黙った鳥の声。そういうものが、夜の残りをかろうじて留めていた。

男は上着の襟を立て、ホームのいちばん端のベンチに腰を下ろした。木のベンチは夜露を吸って、座ると尻に冷たさがしみた。その冷たさが、かえってありがたかった。眠ってはいけない。眠ったら、追いつかれる。眠ったら、思い出してしまう。

体のどこもかしこも、疲れきっていた。三日間、まともに横になっていない。靴の中で、指がふやけて痛んだ。歩きに歩いた足が、いまも、地面の下でかすかに震えているのがわかる。顔を撫でると、無精髭がざらりと掌にあたった。自分が何日、風呂に入っていないのか、もう思い出せなかった。だが、そんなことは、どうでもよかった。疲れも、痛みも、汚れも、いまの彼にとっては、逃げつづけているという事実の、確かな手ざわりのようなものだった。それがあるかぎり、彼はまだ、捕まっていなかった。

ホームの屋根は、片側だけが崩れかけていた。錆びた鉄骨が剥き出しになり、ところどころ、屋根板が抜け落ちている。その抜け落ちた穴から、灰色になりかけた空が覗いていた。屋根の下には、色の褪せた広告の看板が一枚、傾いてかかっていた。何の広告だったのか、もう読めなかった。長い年月、雨と風に晒されて、絵も文字も、白く抜け落ちていた。まるで、この駅そのものが、世界から少しずつ忘れられていくのを、体現しているようだった。

こんな駅を、彼は選んだのだった。忘れられた駅を。誰も来ない、誰も見ていない、地図の隅の点を。だが、忘れられているというのは、彼が思っていたほど、安心できることではなかった。むしろ、こういう場所でこそ、隠しごとは、いっそう鮮明に浮かび上がってくる。誰の目もないぶん、自分の目だけが、逃げ場なく、自分に向けられるのだった。

始発は五時二十四分。

時刻表の数字を、男はもう何十回も確かめていた。腕時計は持っていなかった。捨てたのだ、三つ前の町で。時間を確かめるたびに、あの女の顔が浮かんでくるのが耐えられなくて、川に投げた。それでも時間は、駅の柱にかかった丸い時計の中で、平然と進んでいた。いま、四時五十一分。あと三十三分。

三十三分逃げ切れば、始発が来る。始発に乗れば、遠くへ行ける。海の見える町、名前も知らない終着駅、そこでなら、誰も自分を知らない。誰も、あの夜のことを。

男は、逃げていた。

何から、と問われれば、答えるのは難しかった。警察から、と言えばそのとおりだった。だが、それだけではなかった。もっと確かに、逃れようのないものから、彼は夜通し逃げてきたのだった。

三日前の晩のことを、彼は繰り返し反芻していた。反芻しないでいようとするほど、それは鮮明になった。狭いアパートの台所、蛍光灯の下、水の流れる音。女の背中。彼女はこちらに背を向けたまま、洗い物をしていた。何かを言った。何を言ったのか、いまとなっては思い出せない。ただ、その言葉が、彼の中の細い糸を、ぷつりと断った。それだけは覚えている。

気がつくと、女は床に倒れていた。

そこから先は、途切れている。彼が何をしたのか、正確には覚えていない。覚えていないというのは、便利な言い訳のように聞こえるかもしれない。だが、本当に、記憶はそこで白く飛んでいた。次に気づいたとき、彼は玄関で靴を履いていて、手が震えていて、外はもう暗くなりかけていた。

彼は走った。

電車を乗り継ぎ、バスに乗り、途中からは歩いた。町から町へ、夜から夜へ。三日のあいだ、まともに眠っていなかった。眠れば、あの背中を見る。振り向く途中で止まった、あの背中を。

初日の夜は、駅前のビジネスホテルに泊まろうとした。だが、フロントで身分証を求められて、慌てて店を出た。名前を、書けなかった。名前を書けば、そこに記録が残る。記録が残れば、たどられる。彼は、自分の名前が、いまや罠のようなものだと知った。ずっと当たり前に背負ってきた名前が、突然、火のように熱を持って、彼を焼こうとしていた。

二日目の夜は、二十四時間営業の喫茶店の隅で過ごした。コーヒーを一杯だけ頼み、それを何時間もかけて飲んだ。店員が、ときどき、こちらをちらりと見た。その視線のたびに、心臓が縮んだ。テレビはついていなかったが、彼は、いつニュースが流れるか、いつ自分の顔が画面に映るか、そればかりを恐れていた。ニュースになっている、という確信が、彼にはあった。あれだけのことをして、ニュースにならないはずがない。だが、皮肉なことに、彼は、そのニュースを、自分の目で確かめる勇気さえなかった。真幸が、どうなったのか。生きているのか、死んでいるのか。それを知るのが、何よりも、恐ろしかった。

三日目——つまり、今夜。彼は、もう、まっすぐに歩くのも難しくなっていた。金も、ほとんど尽きていた。財布の中には、始発に一度乗れるだけの小銭と、しわくちゃの千円札が二枚。それだけだった。逃げるにも、金がいる。逃げつづけるには、もっと、いる。彼には、そのどちらも、なかった。

いま、彼はこの小さな駅にいる。地図で見れば、県の端の、山と海のあいだの、指の先ほどの点。ここまで来れば、と彼は思った。ここから始発に乗れば、あと少しで、県境を越える。越えてしまえば。

越えてしまえば、何だというのだ。

その問いが、夜のあいだ、ずっと彼の背後を歩いていた。足音のように。

ホームには、彼のほかに人影はなかった。

いや——いた。

反対側のベンチに、老人が一人、座っていた。いつからそこにいたのか、男は気づかなかった。まるで、夜の一部が固まって人の形になったような、そんな座り方だった。小さな体を丸め、膝の上に両手を置いて、じっと線路の向こうを見ている。ずいぶんと古びた鳥打帽をかぶり、色の褪せた外套を着ていた。足元には、麻紐で縛った古い鞄が一つ。

男は、その老人から目を逸らした。誰にも見られたくなかった。誰の記憶にも、この夜の自分を残したくなかった。始発が来るまで、石になっていたかった。

その一方で、彼は、奇妙な安堵も感じていた。三日間、彼は、すれ違う人という人を、恐れてきた。誰もが、自分を見張っているように思えた。だが、この老人には、そういう緊張がなかった。あまりに古びて、あまりに静かで、まるで、この駅の柱や、傾いた看板や、崩れた屋根と、同じもののように、そこにあった。人ではないものと、居合わせているような。そんな感覚が、なぜか、彼の張りつめた神経を、わずかに、ゆるめた。

だが、老人のほうが、口を開いた。

「冷えますなあ」

しわがれた、けれど奇妙に澄んだ声だった。夜露に濡れた石を、指で撫でたような声。

男は返事をしなかった。

「明け方がいちばん冷える。夜よりも、朝のほうが。ご存じでしたか」

男は、やはり黙っていた。だが老人は、返事を求めているふうでもなかった。ただ、そこにある空気に向かって話しているようだった。

「夜のうちは、まだ昼の熱が地面に残っておるんです。それが、じわじわと逃げていく。いちばん冷えるのは、日の出の直前。地面がすっかり熱を失って、それでも太陽はまだ昇らん。そのわずかな時間が、いちばん冷える」

老人は、線路の先の空を見た。灰色が、ほんのわずか、色を持ちはじめていた。

「そういう時間に、人は死ぬことが多いそうですよ。命が、いちばん細くなる刻限だ」

男の背筋を、冷たいものが走った。この老人は、何かを知っているのか。いや、そんなはずはない。ただの、老人の世間話だ。明け方の駅で、たまたま居合わせた二人の、意味のない言葉のやりとりだ。

だが、それにしては——

「あなたは」男は、初めて口を開いた。「どこへ行くんです」

老人は、少し笑ったようだった。帽子の陰で、口元だけが動いた。

「わたしですか。わたしは、迎えに行くんです」

「迎えに」

「ええ。もう、長いこと待たせておる人を」

男は、それ以上訊かなかった。訊けば、自分のことも訊かれる。どこへ行くのか、と。その問いに、彼は答えられなかった。どこへ行くのか、自分でもわからなかったからだ。ただ、ここではない、どこかへ。それだけだった。

老人は、また、線路の向こうへ目を戻した。しばらく、二人のあいだに、沈黙が流れた。だが、それは、気づまりな沈黙ではなかった。むしろ、その沈黙の中で、男は、少しずつ、体の力が抜けていくのを感じた。まるで、この老人が、彼の代わりに、夜の重さを、いくらか引き受けてくれているような。そんな、根拠のない感覚だった。

「あなたは、眠らんのですね」老人が、ぽつりと言った。

男は、どきりとした。

「眠ってしまえば、楽になるでしょうに」

「眠れないんです」男は、思わず答えていた。「眠ると、見るから」

「何を、見るのです」

男は、答えなかった。だが、答えなかったこと自体が、答えだった。老人は、それ以上、問わなかった。ただ、小さく、うなずいた。すべてを、わかっているような、うなずき方だった。

四時五十八分。

男は立ち上がり、ホームを歩いた。じっとしていられなかった。歩けば、少しは暖かくなる。歩けば、考えずにすむ。

ホームの端まで行くと、線路が緩やかに湾曲して、闇の中に消えていた。その闇の向こうから、始発が来る。あと二十六分。

彼は空を見上げた。見ないようにしていた空を、とうとう見上げてしまった。

灰色の空の、まだ暗い西の縁に、一筋の光があった。細く、蒼白く、長い尾を引いていた。

彗星だった。

数日前から、新聞やテレビで騒がれていた。何十年かに一度、地球に近づく彗星だと。名前は——ミラ、と言ったか。男は、そんなものに興味はなかった。逃げているあいだ、空を見上げる余裕などなかった。それが、いま、目の前にあった。

ふいに、彼は思い出した。あの夜の、少し前のことだ。真幸が、テレビを見ながら、言ったのだった。「ねえ、彗星が来るんだって。何十年かに一度なんだって。一緒に、見に行かない?」と。彼は、そのとき、酔っていて、生返事をした。「そんなもの、見て何になる」と、たしか、そんなことを言った。真幸は、少し寂しそうな顔をして、それきり、その話をしなかった。

彼は、真幸と、彗星を、見に行かなかった。行くはずだった夜に、彼は、彼女を、あんなことにしてしまった。そして、いま、一人で、この星を見ている。逃げてきた駅のホームで。彼女を置いて。それが、たまらなく、こたえた。彼女が見たがっていた星を、自分が、こんな形で、こんな場所で、見ているということが。

蒼白い光は、明けゆく空の中で、もう消えかけていた。夜の最後の光が、朝の光に食われていく。彗星は、白みゆく空に溶けるように、その輪郭を失いつつあった。あと数分もすれば、完全に見えなくなるだろう。夜が明けきってしまえば、それは、なかったことになる。

男は、その光を、しばらく見つめていた。

なぜだか、涙が出そうになった。逃げているあいだ、一度も泣かなかった。あの夜も、泣かなかった。それが、こんな、消えていく星の光を見て、涙が出そうになるとは。

星が消える。夜が明ける。何かが、終わろうとしていた。

「きれいなものですなあ」

いつのまにか、老人が隣に来ていた。同じように、空を見上げていた。

「ミラ、というそうです。あの星は」老人は言った。「ラテン語で、『不思議なもの』という意味だとか。昔の人が、あの星を見て、そう名づけた。現れたり、消えたり。あるかと思えば、ない。ないかと思えば、また現れる。そういう星だから」

「消えていくんですか」男は訊いた。

「ええ。もう、じきに。夜が明けますからな。夜が明ければ、星は消える。当たり前のことです」老人は言った。「けれど、消えるからといって、なくなるわけじゃない。ただ、見えなくなるだけだ。あそこに、ちゃんとある。見えないだけで、ちゃんと、ある」

男は、老人の横顔を見た。皺の刻まれた、けれど穏やかな顔だった。この老人は、いったい何者なのだろう。なぜ、こんなことを言うのだろう。まるで、自分の心の中を、覗いているかのように。

彗星を見ながら、男の頭の中で、あの女の——真幸の顔が、次々と、めくれていった。

初めて会ったときのこと。彼が、駅前の路地裏で、酔いつぶれて座り込んでいたところに、真幸は通りかかった。見知らぬ女だった。彼女は、彼の前でしゃがみ、「大丈夫?」と訊いた。彼は、追い払おうとした。「ほっといてくれ」と、荒い言葉を投げた。だが、真幸は、去らなかった。近くの自動販売機で、温かい缶コーヒーを買ってきて、彼の手に握らせた。「これ、飲んで。飲んだら、少しは、まし」

なぜ、彼女が、あんなことをしたのか、彼には、いまでもわからない。見ず知らずの、酔っぱらいの男に。だが、その温かさが、缶の温かさが、その夜の、彼の凍った掌に、ひどく、しみた。それが、はじまりだった。

真幸は、いつも、彼を、見捨てなかった。彼が、どんなに荒れても。どんなに、自分を傷つけるような生き方をしても。彼女は、そばにいた。「あなたには、まだ、間に合うから」と、言いつづけながら。

彼には、それが、わからなかった。なぜ、間に合うのか。何に、間に合うのか。彼は、もう、とっくに、手遅れなのだと思っていた。父も、母も、彼が若いころに、相次いで死んだ。頼れる者は、誰もいなかった。仕事は、いつも、続かなかった。人と、うまくやれなかった。誰かが、少しでも、彼の内側に踏み込もうとすると、彼は、反射的に、その手を、振り払った。傷つけられる前に、傷つける。それが、彼の、身についた癖だった。

真幸だけが、その手を、振り払われても、また、差し出しつづけた。何度も、何度も。彼が、拒んでも、拒んでも。

そして、あの夜、彼は、とうとう、その手を——差し出しつづけてくれた、その人そのものを、突き飛ばしてしまったのだった。

彼は、目を閉じた。彗星の、蒼白い残像が、瞼の裏に、しばらく残っていた。それも、やがて、消えた。

五時三分。

二人は、それぞれのベンチに戻った。老人はまた小さく丸くなり、男はまた襟を立てた。

ホームの空気が、少しずつ変わっていた。夜のあいだ、ぴんと張りつめて動かなかった空気が、ゆっくりと動きはじめていた。どこか遠くで、鳥が鳴いた。今度は、一羽ではなかった。二羽、三羽と、声が重なった。夜のあいだ黙っていたものたちが、目を覚ましはじめていた。

男は、目を閉じた。ほんの少し、休むだけだ。眠るわけではない。

だが、目を閉じたとたん、あの背中が浮かんだ。

洗い物をする、女の背中。振り向く途中で止まった、あの背中。

男は、はっと目を開けた。

そして、初めて、はっきりと思い出した。

女は——振り向いたのだ。

記憶が、白く飛んでいたところ。その白い部分の中に、いま、色が戻ってきた。女は、床に倒れる前に、振り向いた。そして、彼を見た。恐怖の目でも、憎しみの目でもなかった。それは——

悲しい目だった。

まるで、彼のことを、心配しているような。彼がこれから何をするのか、どこへ行ってしまうのか、それを案じているような。そういう目で、女は彼を見て、そして、倒れた。

男は、両手で顔を覆った。

思い出したくなかった。ずっと、思い出さないようにしてきた。記憶を白く飛ばして、覚えていないふりをして。そうすれば、逃げ切れると思っていた。だが、明け方の光は、容赦がなかった。夜のあいだ隠れていたものを、一つ残らず、照らし出していく。

「眠れないのですか」

老人の声がした。男は、顔を上げた。

「眠っては、いけないんです」男は、掠れた声で言った。自分でも、なぜそんなことを口にしたのか、わからなかった。ただ、この老人になら、言ってもいいような気がした。夜が明ければ消えてしまう、この老人になら。

「眠ると、追いつかれる、と?」老人は言った。

男は、答えなかった。答えは、沈黙の中にあった。

老人は、しばらく黙っていた。それから、静かに歌いはじめた。低い、かすれた、けれど不思議と暖かい声で。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで——」

男の心臓が、跳ねた。

その歌を、彼は知っていた。どこで聞いたのか、思い出せない。だが、体のいちばん深いところが、その歌を覚えていた。母だろうか。それとも、もっと昔の、名前も顔も覚えていない誰かだろうか。

「眠れ、眠れ、露が光を返すまで——」

老人は、ゆっくりと歌った。ホームの冷たい空気の中に、その歌が、ひとつぶひとつぶ、露のように落ちていった。

「その歌は」男は言った。

「子守唄です」老人は言った。「もう、誰も歌わなくなった、古い子守唄。眠りにつくための歌だと、みな思っておる。けれど、違う。これは、眠りの終わりの歌なんです」

「眠りの、終わり」

「ええ。星が海をわたって、露が光を返す。それは、夜が明けるということ。目が覚めるということ。この歌は、眠っている子を、そっと起こすための歌なんです。もう夜は明けた。目を覚まして、新しい一日を始めなさい、と。そういう歌なんです」

男は、老人の顔を見つめた。

「わたしは」老人は、遠くを見ながら言った。「昔、人に、この歌を歌ってやったことがあります。眠らせるためではなく、起こすために。だが、その人は、とうとう目を覚まさなかった。わたしが歌うのが、遅すぎたのです」

老人の声に、初めて、影が差した。

「だから、いまでも歌うんです。遅すぎることのないように。目を覚ますべき人が、ちゃんと目を覚ませるように」

五時十一分。

あと十三分。

男は、ホームの時計を見た。それから、線路の消えていく闇のほうを見た。始発は、あの闇の向こうから来る。彼を、遠くへ運んでいく。誰も自分を知らない町へ。あの背中を、あの悲しい目を、置き去りにできる町へ。

だが。

男は、改札のほうを振り返った。改札の脇に、灰皿があった。金属の、古びた円筒形の灰皿。その縁に、何かが置かれていた。

彼は立ち上がり、そこへ歩いていった。

灰皿の縁に、マッチ箱が一つ、置かれていた。藍色の、小さなマッチ箱。表には、三日月が刻まれていた。細く、白く、優美な三日月。その下に、小さな文字で、「月光堂」と記されていた。

誰かが、忘れていったのだろうか。それとも、置いていったのだろうか。

男は、そのマッチ箱を手に取った。振ってみると、中でマッチが軽い音を立てた。まだ、いくつか残っているようだった。

彼は、その三日月を、指でなぞった。細い、白い三日月。ふと、彼は、いつか、どこかで、この店の名を、聞いたような気がした。月光堂。あるいは、月光書房。彗星の夜にだけ現れて、朝には消えてしまう、古い書店の話を。誰から聞いたのだったか。真幸だったかもしれない。彼女は、そういう、たわいのない話が、好きだった。「そういうお店に、一度、入ってみたいな」と、彼女は、言っていた。「きっと、この世にない本ばかり、置いてあるのよ」

彼は、なぜだか、そのマッチ箱を捨てられなかった。上着のポケットに入れた。冷えた指先に、その小さな箱の角が、かすかに暖かく感じられた。まるで、ついさっきまで、誰かの掌の中にあったかのように。

灰皿の中には、吸い殻が一本、まだ煙をくゆらせていた。誰かが、ついさっきまで、ここにいたのだ。だが、ホームには、男と老人のほかに、人影はなかった。改札の外にも、駅前のロータリーにも、動くものは、何もなかった。ただ、街灯が一つ、明けかけた空の下で、まだ律儀に、灯りつづけているだけだった。

男は、その煙を見つめた。細く、青白い煙が、明けゆく空気の中に、ゆっくりと立ちのぼっていった。あの彗星の尾のように。消えていく、夜の最後の光のように。

「あなたは、逃げておられる」

男が振り向くと、老人が、いつのまにかすぐ後ろに立っていた。

男は、身構えた。とうとう来た、と思った。この老人は、警察の者かもしれない。あるいは、もっと別の何かかもしれない。彼を捕らえるために、この駅で待っていたのかもしれない。

「わたしを、捕まえに来たのか」男は言った。声が、震えていた。

老人は、首を横に振った。

「いいえ。わたしは、誰も捕まえたりしません。ただ、見ているだけです。人が、夜のあいだに、どこへ逃げていくのか。そして、夜明けに、どうするのか」

「どうする、とは」

「留まるか、去るか。それを、決めるのです。人は、夜のあいだは、逃げていられる。暗闇が、すべてを隠してくれるから。けれど、夜が明ければ、隠れる場所はなくなる。光が、すべてを照らし出す。そのとき、人は、決めなければならない。この光の中に、留まるか。それとも、光の届かないところへ、逃げつづけるか」

老人は、東の空を指した。灰色だった空が、いつのまにか、淡い橙色を帯びはじめていた。地平線の際が、金色に燃えようとしていた。

「もうじき、日が昇ります」老人は言った。「日が昇れば、あなたは、決めなければならない」

五時十七分。

あと七分。

男は、ベンチに戻り、崩れるように座った。

彼の中で、二つの声が、争っていた。

一つの声は言った。逃げろ。始発に乗れ。遠くへ行け。あの町では、誰もお前を知らない。あの背中のことも、あの悲しい目のことも、誰も知らない。お前は、新しい人間として、生き直せる。名前を変え、顔を変え、過去をすべて捨てて。忘れてしまえばいい。忘れてしまえば、なかったことになる。星が、夜が明けて消えるように。

もう一つの声は、もっと小さかった。だが、もっと深いところから、聞こえてきた。

留まれ、と、その声は言った。戻れ。向き合え。お前がしたことに。あの女に。あの悲しい目に。逃げても、逃げても、あの背中は、お前の後ろを歩きつづける。足音のように。夜が明けても、朝が来ても、あの目は、お前の中で、お前を見つづける。逃げ切れるものではない。決して。

男は、頭を抱えた。

逃げる、というのは、たやすいことに思えた。ただ、始発に乗ればいい。座席に身を沈め、目を閉じて、電車が運んでくれるにまかせればいい。何も、しなくていい。何も、決めなくていい。ただ、流されていけばいい。それは、彼が、これまでの人生で、ずっとしてきたことだった。流されて、逃げて、振り払って。楽なほうへ、楽なほうへと。

戻る、というのは、恐ろしかった。戻れば、彼は、自分のしたことと、正面から、向き合わなければならない。あの、悲しい目と。もし、真幸が、死んでいたら。彼は、その事実を、一生、背負うことになる。もし、生きていたら——生きていたとしても、彼は、罪を、償わなければならない。裁かれ、罰せられ、自由を失う。そして何より、真幸に、詫びなければならない。詫びて、許されないかもしれない。許されないという、その痛みを、まっすぐに、引き受けなければならない。

どちらが、楽か。答えは、わかっていた。

だが、楽なほうが、正しいわけではない。それも、彼には、わかっていた。ずっと、目を逸らしてきた、その事実が、明け方の光の中で、いま、はっきりと、彼の前に、立っていた。

どちらの声が、正しいのか。いや、正しさの問題ではないのかもしれなかった。ただ、一つだけ、はっきりしていることがあった。

始発が来れば、選ばなければならない。

彼は、あの女のことを、思い返した。

名前は、真幸といった。彼女とは、二年前に出会った。彼が、いちばん荒れていた頃だった。仕事を失い、酒に溺れ、誰にも心を開けなかった頃。真幸は、そんな彼を、なぜか見捨てなかった。

「あなたには、まだ、間に合うから」

彼女は、よくそう言った。何に間に合うのか、彼にはわからなかった。だが、真幸がそう言うと、なぜか、そんな気がした。まだ、間に合う。まだ、やり直せる。

だが、彼は、変われなかった。酒はやめられなかった。仕事も、長続きしなかった。そのたびに、真幸は、黙って彼を支えた。責めなかった。ただ、悲しそうな目で、彼を見た。

あの夜。

彼は、また酔っていた。真幸は、洗い物をしていた。彼女が、何かを言った。いまなら、思い出せる。

「もう、逃げるのは、やめようよ」

彼女は、そう言ったのだ。

「あなたは、いつも、逃げてる。自分から。ほんとうの自分から。だから、苦しいの。ねえ、もう、逃げるのは、やめようよ。ちゃんと、向き合おうよ。二人で」

その言葉が、彼の中の、いちばん触れられたくない場所に、触れた。

彼は、かっとなった。手が出た。真幸は、倒れた。頭を、流し台の角に打ちつけた。

だが——

男は、はっとした。

彼は、殺してなどいなかった。

真幸は、倒れて、動かなくなった。彼は、パニックになって、逃げた。だが、彼女は、死んではいなかった。あのとき、たしかに、彼女は、目を開けていた。振り向いて、彼を見た。悲しい目で。そして、何かを言おうとした。

「まゆき」

男は、思わず、その名を口にした。

彼女は、生きている。

いや——生きていたはずだ。あのときは。だが、いまは。彼が逃げているあいだに。三日も、放っておいたのだ。誰にも知らせず。救急車も呼ばず。あの狭いアパートで、彼女は、ひとりで——

男は、立ち上がった。

五時二十分。

あと四分。

「戻らなければ」男は、口の中で呟いた。

彼女は、まだ、生きているかもしれない。いや、もう、手遅れかもしれない。だが、確かめなければ。もし、まだ間に合うのなら。もし、まだ——

「あなたには、まだ、間に合うから」

真幸の声が、耳の奥で、聞こえた気がした。

男は、改札のほうへ、駆け出そうとした。

だが、そのとき、線路の向こうから、光が見えた。

始発だった。

闇の中から、二つの光が近づいてくる。まっすぐに、こちらへ。ゴォ、という低い音が、少しずつ大きくなっていく。ホームの空気が、震えはじめた。

男は、立ち尽くした。

始発が来る。あれに乗れば、遠くへ行ける。誰も知らない町へ。逃げ切れる。あの女のことも、あの夜のことも、すべて、置き去りにして。

だが、戻れば。戻って、確かめれば。もし、まだ間に合うのなら。

二つの光が、ぐんぐん、大きくなる。レールが、鳴った。金属の、鋭い、けれど、どこか懐かしい音。彼の足元で、ホームが、細かく、震えた。その震えが、彼の体の芯まで、伝わってきた。心臓が、その震えと、同じ速さで、打っていた。逃げるのか。留まるのか。あと、数秒。あと、数秒で、決めなければ。

彼の手は、上着のポケットの中で、あの藍色のマッチ箱を、握りしめていた。三日月の角が、掌に、食い込んだ。その痛みが、なぜか、彼を、正気に引き戻した。

始発の光が、ホームを照らした。男の顔を、その光が、まっすぐに照らした。逃げ場のない光だった。夜のあいだ、彼を隠してくれていた闇を、その光は、一瞬で、剥ぎ取った。彼は、その光の中に、裸で、立っていた。もう、どこにも、隠れられなかった。

「決めましたか」

老人の声が、すぐそばで、した。

男は、老人を見た。老人は、穏やかな目で、彼を見返していた。その目は、真幸の目に、どこか似ていた。悲しくて、けれど、優しい目。

「わたしは」男は言った。声が、震えていた。「わたしは、あの人を、置いてきた。倒れたまま。三日も。もし、まだ、生きているなら——」

「戻るのですか」

「戻る」男は言った。「戻って、確かめる。もし、手遅れなら、わたしは、罪を償う。逃げない。もう、逃げない」

言葉にしたとたん、彼の中で、何かが、ほどけた。夜通し、彼の背中を歩いてきた足音が、ぴたりと、止まった。

彼は、もう、逃げていなかった。

始発が、ホームに滑り込んできた。ドアが開いた。暖かい空気と、蛍光灯の白い光が、ホームにこぼれ出た。中は、がらんとして、誰も乗っていなかった。ただ、無人の座席が、彼を待っていた。遠くへ運ぶために。

男は、そのドアを、見つめた。

一歩、足が、前に出た。乗ろうとする体を、彼は、感じた。長年の癖が、逃げるという癖が、彼の足を、そのドアの中へ、運ぼうとした。楽なほうへ。流されるほうへ。何も決めなくていい、ほうへ。

だが、彼は、その一歩で、止まった。

そして、乗らなかった。

ドアが閉まった。始発は、低い音を立てて、動きはじめた。ゆっくりと、それから、だんだん速く。ホームを離れ、線路の先の、明けゆく空のほうへ。彼を乗せずに、去っていった。

男は、その電車を、見送った。それが、闇の——いや、もう闇ではなかった。明けゆく空の、淡い光の中に、消えていくまで。

ホームに、静けさが戻った。

いや、それは、夜の静けさとは違った。夜の静けさは、張りつめて、冷たかった。だが、いまの静けさは、暖かかった。鳥の声が、あちこちで重なっていた。どこかで、水の流れる音がした。世界が、目を覚ましつつあった。

男は、東の空を見た。

地平線が、燃えていた。金色に、橙色に。太陽が、いままさに、昇ろうとしていた。その光が、ホームを、線路を、山を、すべてを、金色に染めていった。

夜が、明けた。

彼は、西の空を見た。あの彗星は、もう、どこにもなかった。蒼白い光は、朝の光に溶けて、消えていた。夜の最後の光は、去った。

だが、老人の言葉が、彼の中で、響いていた。

——消えるからといって、なくなるわけじゃない。ただ、見えなくなるだけだ。あそこに、ちゃんとある。見えないだけで、ちゃんと、ある。

男は、あの彗星が、いまも、白みゆく空の向こうに、ちゃんとあるのを、感じた。見えないだけで。そして、あの女のことも。あの夜のことも。逃げても、なくなりはしない。ちゃんと、ある。だから、向き合わなければならない。見えなくしてしまうのではなく、ちゃんと、そこにあるものとして。

彼は、ふと、老人のことを思い出した。

振り向いた。

だが、老人は、いなかった。

反対側のベンチにも、ホームのどこにも、あの老人の姿は、なかった。足元にあったはずの、麻紐で縛った古い鞄も。まるで、最初から、そんな人など、いなかったかのように。

男は、しばらく、その空のベンチを見つめていた。

夜のあいだだけ、現れたのだろうか。夜が明けて、消えてしまったのだろうか。あの彗星のように。あの子守唄のように。

彼は、ポケットに手を入れた。あの、藍色のマッチ箱が、そこにあった。三日月の刻まれた、月光堂のマッチ箱。それだけは、確かに、彼の手の中にあった。夜が、彼に残していった、たった一つのしるしのように。

彼は、そのマッチ箱を、握りしめた。

改札を出ると、駅前の小さなロータリーに、明けたばかりの光が、あふれていた。

夜のあいだ、あれほど冷たく、あれほど暗く、あれほど張りつめていた世界が、いまは、まるで別のものになっていた。空気が、ゆるんでいた。匂いが、変わっていた。夜の匂い——鉄と、露と、闇の匂いが、消えて、代わりに、朝の匂いがした。焼きたてのパンの匂い。淹れたてのコーヒーの匂い。どこかの家の、味噌汁の匂い。人が、目を覚まし、一日を始める、その匂いだった。

新聞配達の自転車が、朝露を跳ね上げながら、通り過ぎていった。パン屋の灯りが、一つ、ともった。犬を連れた老女が、こちらに会釈をして、歩いていった。その会釈が、彼には、こたえた。三日間、誰の視線からも、逃げてきた。だが、この老女は、彼を、逃げるべき相手として見なかった。ただの、朝の通行人として、見た。会釈を、返した。それが、どれほど、ありがたいことか、彼は、初めて知った。世界が、当たり前のように、動きはじめていた。

その、当たり前の世界の中に、彼は、立っていた。もう、逃げてはいなかった。逃げるのをやめた者にだけ、その、当たり前の世界は、扉を開くのだった。

公衆電話が、ロータリーの隅にあった。彼は、そこへ、歩いていった。

受話器を取り、番号を押した。指が、震えていた。

「はい、警察です」

その声を聞いたとき、彼の目から、涙が、こぼれた。夜通し、流れなかった涙が。

「あの」彼は言った。「わたしは——」

言葉が、詰まった。だが、彼は、続けた。逃げずに。

「わたしは、人を、傷つけました。三日前です。女性を。まゆき、という人を。倒れたまま、置いてきました。まだ、生きているかもしれない。すぐに、救急車を。それから、わたしを、捕まえてください。わたしは、逃げません。ここで、待っています」

彼は、住所を告げた。真幸のアパートの。それから、いま自分のいる、この駅の名を。

電話の向こうの声は、落ち着いていた。逃げないでください、そこを動かないで、と、その声は言った。彼は、動きません、と答えた。もう、どこにも、逃げません、と。言いながら、彼は、自分の声が、これほど、静かに響くのを、初めて聞いた気がした。三日間、恐怖と焦りで、ざらついていた声が、いまは、澄んでいた。まるで、夜が明けて、空気が澄むように。

受話器を置いたあと、彼は、しばらく、そこに立っていた。掌に、まだ、受話器の冷たさが残っていた。だが、その冷たさは、もう、夜の冷たさではなかった。彼は、深く、息を吸った。朝の空気が、肺のいちばん奥まで、届いた。三日ぶりに、彼は、まともに、呼吸をした気がした。

朝の光が、彼の全身を、包んでいた。

暖かかった。夜通し、冷えきっていた体が、その光の中で、少しずつ、ほどけていった。

彼は、駅のベンチに、腰を下ろした。ここで、待つのだ。警察が来るまで。あるいは、真幸の無事の知らせが来るまで。もし、無事でなくとも、彼は、逃げない。もう、決して。

彼は、目を閉じた。

今度は、あの背中は、浮かんでこなかった。代わりに、真幸の、あの言葉が、聞こえた。

「あなたには、まだ、間に合うから」

間に合ったのか、間に合わなかったのか、それは、まだわからなかった。もしかしたら、もう、手遅れかもしれない。彼のしたことは、決して、消えはしない。償っても、償いきれないかもしれない。

だが。

彼は、逃げるのを、やめた。

夜が明けて、光の中に、留まることを、選んだ。

それだけが、いま、彼にできる、たった一つのことだった。そして、それは、真幸が、ずっと、彼に望んでいたことでもあった。

遠くで、鳥が鳴いた。

彼は、目を開けた。

空は、もう、すっかり明るくなっていた。あの、火傷の痕のような色は、どこにもなかった。青く、澄んだ、朝の空が、広がっていた。

ホームの先の空には、もう、彗星はなかった。

だが、彼は、知っていた。それが、いまも、そこにあることを。見えないだけで、ちゃんと、あることを。

彼は、ポケットから、あの藍色のマッチ箱を取り出した。三日月の刻まれた、月光堂のマッチ箱。それを、手のひらに乗せて、じっと見つめた。

夜のあいだ、彼を導いた、小さなしるし。

彼は、それを、ポケットに戻した。そして、警察を待った。逃げずに。光の中で。

夜は、明けた。そして、彼の、長い夜も、ようやく、明けようとしていた。

彼は、もう、逃げていなかった。

——ずっとあとになって、彼は、この明け方のことを、思い返すことになる。

真幸は、生きていた。あのアパートで、隣人が、異変に気づき、彼が電話をする、その少し前に、救急車が呼ばれていた。彼女は、意識を取り戻していた。頭に、大きな傷を負い、しばらくは、口もきけなかったが、命は、取りとめていた。

彼は、罪を、償った。決して、軽くはない罪だった。だが、彼は、逃げなかった。逃げずに、すべてを、受け入れた。

長い時間が、過ぎた。

そして、ある日、彼は、真幸と、再会した。彼女は、彼を、責めなかった。ただ、あの、悲しくて、優しい目で、彼を見た。そして、言った。

「間に合ったのね」

彼には、その言葉の意味が、わかった。

あの明け方、始発に乗らなかったこと。逃げずに、戻ろうとしたこと。それが、間に合った、ということだった。彼が、彼自身に、間に合った、ということだった。

真幸が、それを望んでいたことも、彼は、知った。彼女は、彼が捕まることを望んだのではなかった。彼が、逃げるのをやめることを、望んだのだ。逃げつづける、その苦しみから、彼が、解き放たれることを。だから、彼女は、あの夜、最後に、「もう、逃げるのは、やめようよ」と、言ったのだった。倒れる、そのときまで。悲しい目で、彼を、案じながら。

彼は、その言葉に、あの明け方、ようやく、応えたのだった。三日も、遅れて。だが、遅すぎることは、なかった。間に合ったのだ。ぎりぎりで。夜が明けきる、その、ほんの少し手前で。

彼は、いまでも、あの老人のことを、考える。

あの人は、誰だったのだろう。なぜ、あの明け方の駅に、いたのだろう。子守唄を歌い、彗星のことを語り、そして、消えていった、あの老人は。

わからなかった。おそらく、永遠に、わからないだろう。

だが、彼は、あの老人が、言った言葉を、いまでも、覚えている。

——目を覚ますべき人が、ちゃんと目を覚ませるように。

あの老人は、彼を、起こしに来たのかもしれない。長い、長い、夜の眠りから。逃げつづけるという、終わりのない眠りから。

そして、彼は、目を覚ました。あの明け方に。夜が明けて、星が消え、露が光を返した、あの刻限に。

彼は、あの藍色のマッチ箱を、いまも、持っている。

三日月の刻まれた、月光堂のマッチ箱。中のマッチは、一本も、使っていない。使う気に、なれなかった。それは、火を灯すためのものではなく、もっと別の何かのためのものだと、彼は、感じていた。

夜の、終わりのしるし。眠りの、終わりのしるし。

彼は、ときどき、それを取り出しては、あの明け方のことを、思い返す。冷えきったホーム。消えゆく彗星。子守唄。そして、始発が、彼を乗せずに、去っていった、あの瞬間を。

あのとき、彼は、逃げるのを、やめた。

そして、初めて、自分の人生を、生きはじめた。

明け方は、いつも、いちばん冷える。

夜よりも、朝のほうが。地面が、すっかり熱を失って、それでも、太陽は、まだ昇らない。そのわずかな時間が、いちばん冷える。命が、いちばん細くなる刻限。

だが、その刻限を、越えれば。

太陽が、昇る。光が、あふれる。世界が、もう一度、始まる。

彼は、その刻限を、越えた。始発を待つ、小さな駅で。消えゆく彗星の下で。逃げるのを、やめて。

そして、朝が、来た。

夜は明け、逃げてきた者は、ようやく、立ち止まった。立ち止まった場所に、朝の光が、静かに、降りていた。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房

十二をつなぐ符牒について →

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