終着の露
終着は、旅のいちばん端で、いつも少しだけ夜のにおいを残している。
上りの夜行〈しののめ〉が、闇のなかを北へ北へと走り抜けて、いよいよ終着の海際の駅へすべりこもうとする、その明け方のことだった。時刻はまだ五時をまわったばかりで、空は東の縁からうっすらと灰を溶かしたように白みはじめている。けれど地上のものはまだどれも夜の色をしていて、田も、林も、遠くの家々も、青みがかった影のままそこにうずくまっていた。
車掌の宇野は、七号車のデッキに立って、流れていく窓の外を見ていた。
彼はもう三十年、この夜行に乗っている。三十年、夜のあいだじゅう起きていて、乗客たちが眠るのを見守り、そして毎朝、この同じ明け方の光のなかへ列車を送り届けてきた。何百回、何千回とくり返してきた明け方だ。それでも、と宇野はいつも思う。それでも、この刻ばかりは、一度として同じ色をしていたことがない。
窓の外で、ひとつ、また、家の灯りがともった。誰かが起きたのだ。この列車が通り過ぎるのを、その人は知らない。知らないまま、湯を沸かすために、あるいは牛を起こすために、あるいはただ眠れずに、灯りをつけた。宇野はその小さな橙色を、通り過ぎるまで見ていた。ほんの一瞬、闇のなかに黄いろく浮かんで、そしてすぐに、後方へ流れ去っていく。列車の速さで見れば、人の暮らしというものは、みな、そうやって一瞬だけ灯って、流れ去っていくもののように思えた。
宇野は、この時刻の田舎の灯りが好きだった。都会の駅を出て、二時間も走れば、外はもう、ほとんど無人の闇になる。その闇のなかに、遠く、ぽつり、ぽつりと、人の灯りが点る。あの灯りのひとつひとつに、暮らしがある。眠りがあり、目覚めがあり、諍いがあり、赦しがある。列車は、そのすべての上を、素通りしていく。素通りしながら、けれど宇野は、いつも、その灯りのひとつひとつに、心のなかで、そっと会釈をした。おはよう、と。おやすみ、と。どちらとも言えるような、明け方の挨拶を。
夜行列車というものは、と彼は思う。眠っている世界の上を、目を覚ましたまま渡っていく舟のようなものだ。乗っている者たちも、たいてい眠っている。だから車掌は、眠らない船頭だった。みなが眠っているあいだ、ひとりだけ起きて、レールの音を数えている者。
船頭には、渡す岸がある。彼にとってのそれは、いつも、明け方だった。夜という川を、乗客たちを乗せて渡りきり、朝という岸へ、みなを送り届ける。それが、宇野の三十年だった。渡すたびに、乗客は降りていき、彼だけが、また舟に残る。そしてまた、次の夜、次の川を渡る。船頭は、岸には上がらない。上がってしまえば、もう、渡せなくなるからだ。
がたん、ごとん、と車輪が継ぎ目を踏む。
その音は、夜のあいだはずっと子守唄のように聞こえていた。けれど、明け方が近づくにつれ、同じ音がなぜか少しずつ、目覚めをうながす音に変わっていく。宇野にはそれが不思議でならなかった。音は変わらないのに、こちらの耳のほうが、夜から朝へと寝返りを打つのだ。
三号車のいちばん端、進行方向に向かって左側の窓ぎわに、女がひとり座っていた。
名を、笹倉ゆきといった。四十を少し越えたところだろうか。膝の上に古い革の鞄をのせ、両手をそのうえに重ねて、ずっと窓の外を見ている。夜のあいだ、彼女は一睡もしなかった。眠ろうとはした。目を閉じもした。けれど、まぶたの裏には、行きの列車の窓が浮かんでくるばかりだった。
彼女は、両手に、飴色の革の手袋をはめていた。もう十年以上も前に、南の町のはずれの、小さな洋品店で買ったものだ。安いものではなかった。当時の彼女には、身のほど知らずの贅沢だった。それでも彼女は、その手袋を買った。ちょうど父の手が、こんな色をしていた。畑仕事で焼けて、なめされたような、飴色の。手袋をはめると、彼女はときどき、父の手に手を包まれているような気がした。そんなふうに思う日がくるとは、故郷を出たときには、考えもしなかったけれど。
夜が更けるにつれ、車内の暖房で手が汗ばんできて、彼女は右の手袋だけを脱いだ。脱いだそれを、膝の鞄のうえに置いた。左は、はめたままだった。なぜ左だけ残したのか、自分でもわからなかった。ただ、両方とも脱いでしまうのが、なぜか心細かった。片方だけでも、父の手のぬくもりに、触れていたかった。
十七年前、彼女はこの同じ夜行に、下りで乗った。あのときは南へ向かっていた。逃げるように、故郷を捨てて。若かった。若すぎた。連れていた男は、着いた町で半年ももたずに彼女を置いていったが、彼女はそれでも故郷へは帰らなかった。帰れなかった、というほうが正しい。捨てた町へ、おめおめと。
そして今、彼女は上りに乗っている。北へ、帰っている。
父の危篤の報せが届いたのは、三日前だった。もう長くないと。声だけでも聞かせてやってくれと、疎遠だった弟が電話ごしに、感情を殺した声で言った。彼女は返事をしなかった。ただ、受話器を置いてから、押し入れの奥から、この革の鞄を引きずり出した。十七年前、この鞄ひとつを提げて出てきたのだ。中には、もう何も入れるものがなかった。空のまま、それでも彼女はそれを持って駅へ向かった。
列車が動きだしてから、彼女はずっと、間に合うだろうか、と考えていた。父の死に、ではない。父の生に、間に合うだろうか、と。まだ息のあるうちに着けるだろうか。着いたとして、何を言えばいいのだろう。ごめんなさい、だろうか。それとも、ただいま、だろうか。十七年も家を空けた娘が、死にゆく父の枕もとで口にしていい言葉が、この世にあるのだろうか。
家を出た日のことを、彼女はいまでも、細かなところまで覚えている。あれも、明け方だった。まだ暗いうちに、彼女は荷物をまとめ、足音を殺して、玄関を出た。誰にも見送られたくなかった。とりわけ、父には。父は、彼女が男と出ていくことを、頑として許さなかった。あんな男といっしょになるなら、親でも子でもない、と、父はそう言った。だから彼女は、親でも子でもなくなることを、選んだ。玄関の戸を、そっと、けれど、たしかに、閉めた。かちり、と鍵のかかる音が、暗い家に響いた。あの音を、彼女は、忘れたことがない。
けれど、家を出て、少し歩いたところで、彼女はふりかえった。二階の、父の部屋の窓に、灯りがついていた。父は、起きていたのだ。娘が出ていくのを、知っていて、それでも、止めなかった。ただ、灯りをつけて、暗い部屋のなかで、じっと、待っていた。娘が、思いなおして戻ってくるのを。あるいは、ただ、娘の足音が、遠ざかっていくのを、聞いていた。
彼女は、戻らなかった。あの灯りに、背を向けて、歩きつづけた。振り切るように。あのとき、ふりかえりさえしなければ、と、彼女は何度も思った。あの灯りを、見さえしなければ。見てしまったから、彼女は、十七年ものあいだ、あの灯りに、追われつづけたのだ。眠れない夜のたびに、あの窓の、あの黄いろい灯りが、まぶたの裏に点った。父は、待っていた。父は、あのとき、たしかに、待っていた。それを知っていて、彼女は、逃げた。
窓の外を、蒼白い光がひとすじ、よぎった。
はじめ彼女は、それを流れ星かと思った。けれど、それは流れなかった。ゆっくりと、けれど確かに、白みかけた空の高いところを、長い尾を引いて渡っていく。彗星だ、と気づくのに少しかかった。ずっと昔、まだ幼かったころ、父が縁側で教えてくれたことがある。ほら、ゆき、あれがミラ彗星だ。何十年に一度しか来ないんだ。おまえがおばあさんになるころ、もう一度来るかもしれんな。
そうだ、と彼女は思った。あれから、もう一度、来たのだ。
彗星の蒼い光は、けれど、白みゆく空にはもう長くは耐えられなかった。夜のいちばん最後の光として、それはみるみる薄れ、溶けるように、朝の色のなかへ消えていった。彼女はその消えぎわを、まばたきもせずに見つめていた。まるで、それが消えてしまうまでは、まだ夜が続いているとでもいうように。まるで、それが消えてしまえば、もう間に合わないとでもいうように。
消えた。
彼女は、そっと目を伏せた。
同じ三号車の、通路をはさんだ反対側に、若い男が座っていた。
大学生の、槙田といった。彼は帰りではなかった。行きだった。生まれてはじめて、ひとりで海を見にいくのだ。終着の駅は、海際にある。改札を出て歩けば、五分で防波堤に着くと、時刻表の裏に書いてあった。
彼が海を見にいこうと思い立ったのには、たいした理由はない。強いて言えば、理由がなさすぎることが理由だった。二十歳になって、彼は自分が、これといって何も望んでいないことに気づいてしまった。まわりの友人たちが、就職だ、資格だ、留学だと、それぞれの朝へ向かって走りだしていくのを、彼はぼんやりと眺めていた。彼にはその朝が、まだ見えなかった。
だから彼は、朝を見にきた。文字どおりの朝を。海から昇る、いちばん最初の太陽を、その目で見れば、何かがわかるような気がした。何もわからないかもしれない。それでもいい、と彼は思った。何もわからないということが、はっきりわかるだけでも。
夜のあいだ、彼はうとうとしては目を覚まし、目を覚ましては、向かいの席の女を見た。眠らない女だった。ずっと窓の外を見ている。彼女があの蒼い彗星を見つめていたとき、槙田もまた、その横顔ごしに、同じ彗星を見ていた。声はかけなかった。かけられるはずもなかった。けれど、見知らぬ他人と、同じ夜のいちばん最後の光を、同じ列車のなかで見たということが、彼にはなぜか、ひどく胸に迫った。
この人にも、と彼は思った。この人にも、行き先があるのだ。ぼくの知らない、この人だけの朝が。
槙田は、鞄のなかから、一枚の絵葉書を取り出した。海の絵の描かれた、古い絵葉書だった。それは、亡くなった祖父の遺品のなかから、彼が見つけたものだった。裏には、祖父の若いころの筆跡で、こう走り書きがしてあった。「海を見た。生きていて、よかったと思った」。ただ、それだけ。日付も、宛先も、切手もない。出されることのなかった葉書だった。
祖父が、いつ、どこの海を見て、そう思ったのか、槙田は知らない。訊く前に、祖父は死んでしまった。けれど、その一行が、なぜか彼を、この夜行に乗せた。生きていて、よかったと思える海が、この世にあるのなら。ぼくも、それを、見てみたい。二十歳の彼には、まだ、生きていてよかった、と思えるほどのことは、何もなかった。けれど、いつか、そう思える日がくるのなら――その最初の一歩を、朝の海から、はじめてみたかった。
彼は、絵葉書を、そっと胸ポケットにしまった。窓の外は、まだ暗い。けれど、その暗さのむこうに、もう、海の気配があるような気がした。
同じ三号車の、宇野がまだ気づいていない席に、もうひとり、眠らない乗客がいた。
年老いた男だった。名を、樽見といった。七十をいくつか越えていた。彼は、通路側の席に、背を丸めて座り、両手を膝のうえで固く組んでいた。網棚には、風呂敷に包んだ、小さな四角い箱がのっている。骨箱だった。妻の骨だ。
妻は、この北の町の生まれだった。若いころ、樽見は、都会へ出て働くために、彼女を連れて、故郷を離れた。妻は、故郷に帰りたい、と、一度も口にしたことはなかった。けれど、亡くなる少し前、うわごとのように、海が見たい、と言った。生まれた町の、あの海が。樽見は、そのとき、はじめて気づいた。この人は、五十年ものあいだ、帰りたかったのだ、と。帰りたい、と言えば、夫を困らせると思って、言わなかっただけなのだ、と。
だから樽見は、いま、妻を連れて帰っている。遺骨になった妻を。五十年、口に出せなかった里帰りに。列車が、故郷の海へ近づくにつれ、樽見は、風呂敷のなかの箱に、ときどき、そっと手を触れた。もうすぐだよ、と、彼は心のなかで語りかけた。もうすぐ、海が見えるよ。おまえの、生まれた海が。すまなかったね。こんなに、遅くなってしまって。
樽見の目に、涙はなかった。涙は、もう、通夜のあいだに、涸れてしまっていた。ただ、彼は、夜のあいだじゅう、まっすぐに前を見て、妻の故郷が近づいてくるのを、待っていた。
宇野が車内を検札のためにまわりはじめたのは、終着まであと一時間ほどになったころだった。
夜行の検札は、乗客が眠っているあいだは控える。起こしてしまうからだ。けれど明け方が近づけば、みな薄く目を覚ましはじめる。そのころあいを、宇野は長年の勘で計っていた。車内の空気が、眠りから覚めへと、ふっと潮の変わるように傾く瞬間がある。その瞬間を、彼は聞き分けられた。寝息の質が変わるのだ。深い海のような寝息が、浅い波打ちぎわのそれに変わる。
彼は懐中電灯を手に、しずかに車両を進んだ。
薄明かりの車内は、青みがかっていた。天井の常夜灯だけがついていて、乗客たちの顔を、水底のように仄かに照らしている。網棚には、鞄や、たたんだ上着や、脱いだ靴が、めいめいの旅の重みを載せていた。宇野はその一つひとつに、そっと目をやりながら歩く。この鞄の主は、どんな朝へ降りていくのだろう、と。三十年、彼はそうやって、無数の見知らぬ人生の断片のあいだを、夜ごと歩いてきた。
三号車に入って、彼はまず、眠らない女に気づいた。
「切符を、拝見します」と、宇野はできるだけ低い声で言った。眠っている隣客を起こさぬように。
女は、はっとしたように顔を上げた。よほど深く、どこか遠いところへ心をやっていたらしい。切符を差し出す手が、わずかに震えていた。宇野はそれを受け取り、あらためた。終着まで。片道。彼は鋏を入れ、そっと返した。
「もうすぐ、夜が明けます」と、宇野は言った。
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。ただ、この女には、それを言ってやらねばならないような気がした。もうすぐ、夜が明けます、と。
女は、宇野を見上げた。それから、かすかにうなずいた。何か言いかけて、けれど言葉にはならず、ただ、ありがとうございます、と、消え入りそうな声で言った。
宇野は、会釈をして、次の席へ進んだ。
通路のむこう、若い男の席で、宇野はまた足をとめた。
槙田は起きていた。窓に額をつけるようにして、外を見ている。まだ暗い外を。宇野が切符を求めると、彼は素直に差し出した。終着まで。やはり片道。けれど、この若者の片道は、あの女の片道とはまるでちがう匂いがした。宇野には、それがわかった。
「海を、見にいらっしゃるんですか」と、宇野はつい訊いた。
槙田はおどろいたように顔を上げた。「わかりますか」
「終着で降りて、鞄も持たず、まっすぐ海のほうへ歩いていく若い人は、たいてい」と宇野は微笑した。「三十年も見ていると、だいたいわかるようになります」
「三十年」と槙田はつぶやいた。「この列車に、三十年」
「ええ。もう、この夜行の朝を、何千回も見てきました」
「どんな朝が、いちばんよかったですか」
宇野は、少し考えた。それから言った。「それを、いま探しているところなんですよ、私も。三十年かかっても、まだ見つからない。だから、あしたも乗るんです」
槙田は、ふっと笑った。夜のあいだじゅう、はじめての笑いだった。
その少し先の席で、宇野は、風呂敷包みを網棚にのせた老人に、切符を求めた。
樽見は、ふるえる指で、切符を差し出した。宇野は、それをあらためながら、ふと、網棚の風呂敷包みに目をとめた。四角い、小さな箱の形。その包み方には、宇野には覚えがあった。三十年のあいだに、何度も、見てきた形だった。
宇野は、何も言わなかった。ただ、切符を返すとき、いつもより深く、頭を下げた。それが、彼にできる、精いっぱいの弔いだった。言葉は、いらなかった。この老人が、いま、どんな旅をしているのか、宇野には、わかっていた。そして、わかっている、ということを、この深い一礼で、老人に伝えたかった。
樽見は、宇野の一礼を受けて、少しおどろいたように、顔を上げた。それから、その意味を悟ったように、彼もまた、ゆっくりと、頭を下げた。ふたりのあいだに、言葉は、ひとつも、かわされなかった。けれど、たしかに、何かが、通った。夜行列車の、明け方の車内で、名も知らぬ車掌と、名も知らぬ老人のあいだに。
宇野は、次の席へ進んだ。彼は、思った。この列車は、と。この列車は、生きている者だけを、運んでいるのではない。死んだ者も、運んでいる。そして、生きている者の抱えた、死んだ者の記憶を。夜行列車は、そういうものを、いちばん多く運ぶ舟なのかもしれない。夜の闇は、そういうものを、いちばん、隠してくれるから。人は、昼の光のなかでは抱えきれないものを、夜の闇にまぎれて、そっと、運ぶのだ。
宇野が七号車まで検札を終えて、ふたたびデッキに戻ったころには、空はもうずいぶん明るくなっていた。
灰色だった東の空に、うっすらと、桃色の芯がさしはじめている。地上のものたちも、少しずつ夜の青を脱ぎ、それぞれの色をとりもどしつつあった。田は緑を、屋根は瓦の色を、道はまだ湿った土の色を。露が、線路ぎわの草の葉に、無数にきらめいていた。列車が起こす風に吹かれて、その露の玉が、いっせいに震えるのが見えた。
ひばりが、鳴きはじめた。
どこか高いところで、一羽が。それから、もう一羽が。夜のあいだ沈黙していた世界が、鳥の声から先に、目を覚ましていく。宇野はいつも、この最初のひと声が好きだった。世界がもう一度はじまる、その合図のようなものだから。
彼は上着の内ポケットから、小さなものを取り出した。
藍色の、マッチ箱だった。表に、細い三日月が一つ、押し型で刻んである。〈月光堂〉と、小さく銘が入っている。もう何年も前、名も忘れた小さな駅の売店で買ったものだ。宇野は煙草をやめて久しいが、このマッチ箱だけは、なぜか手ばなせずに持ち歩いていた。三日月の刻みを、指の腹でなぞる。夜ごとの検札のあいだ、疲れたときに、彼はよくこうする。すると不思議と、心がしずまるのだった。
明け方の光のなかで、藍色はいっそう深く見えた。三日月の溝に、朝の白い光がひとすじ、たまっていた。
終着まで、あと十分。
車内放送のスイッチに手をかける前に、宇野はもう一度、車内を見まわそうと、三号車へ戻った。
乗客たちが、めいめいに、降りるしたくをはじめていた。眠っていた者は目を覚まし、寝ぐせを直し、脱いでいた靴をはき、網棚から荷を下ろす。夜のあいだ、たがいに見知らぬまま同じ闇を渡ってきた者たちが、いま、朝の光のなかで、はじめてたがいの顔をはっきりと見る。けれど、もう言葉をかわす時間はない。あと十分で、みなはばらばらの改札へ散り、二度と会うことはない。
宇野は、その光景が、好きなような、さびしいような、名づけがたい心持ちで、いつも見ていた。
一夜のあいだ、たしかに、彼らはひとつの舟に乗り合わせていた。同じレールの音を聞き、同じ闇を渡り、同じ彗星を見た者もいた。それは、家族でも、友でも、恋人でもない。けれど、まったくの他人でもない。名前も知らないまま、一夜だけ、たしかに人生を並べて過ごした者たち。そして朝が来れば、その並びは、露のように、跡形もなくほどけていく。
眠らない女は、革の鞄を膝に抱えたまま、じっと窓の外を見ていた。桃色に染まりはじめた空を。もう覚悟を決めたような、けれどまだ、どこか祈るような横顔だった。
若い男は、もうそわそわと立ち上がりかけていた。海が、近い。彼にはもう、潮の匂いが嗅ぎとれているようだった。
「まもなく、終点でございます」
宇野は、マイクを手に、いつもの文句を読みあげた。三十年、何千回もくり返してきた言葉だ。それでも彼は、この言葉を、けっしてぞんざいには言わなかった。
「長らくのご乗車、まことにありがとうございました。お忘れ物のございませんよう、お手まわり品を、いま一度お確かめくださいませ」
お忘れ物のございませんよう――と言いながら、宇野はいつも、ひそかに思う。人は、忘れ物をしにこそ、旅に出るのかもしれない、と。持ってきたものを、どこかに置いていくために。あるいは、置いてきたものを、取りにいくために。
「本日も、〈しののめ〉をご利用いただき、ありがとうございました。どうぞ、よい一日を」
よい一日を。
その言葉を言うとき、宇野の胸には、いつも、かすかな痛みのようなものがきざした。彼はこれから、この人たちの一日を、見ることがない。この人たちが、どんな朝を迎え、どんな昼を過ごし、どんな夜へ帰っていくのか、彼は永遠に知らない。ただ、よい一日を、と祈ることしかできない。夜の船頭にできるのは、朝の岸へ、みなを送り届けることだけだ。そこから先の陸のことは、もう、彼の管轄ではなかった。
列車が、速度を落としはじめた。
終着駅は、海の匂いがした。
がたん、と最後の継ぎ目を踏んで、〈しののめ〉は、ホームへゆっくりとすべりこんだ。まだ人けのないホームに、明け方の白い光が、斜めにさしこんでいる。柱の影が、長く、床に伸びていた。空はもう、すっかり明るい。東の海のほうは、桃色が濃く燃えて、いままさに、太陽が水平線を押し上げようとしていた。
扉が、開いた。
ひやりと澄んだ、朝の空気が、車内へなだれこんできた。夜のあいだこもっていた、眠りの匂いや、人いきれや、暖房の乾いた匂いが、その澄んだ空気に、みるみる押し流されていく。宇野はデッキに立って、降りていく乗客たちを、ひとりひとり見送った。
「ありがとうございました」
「どうぞ、お気をつけて」
「ありがとうございました」
若い男が、はずむような足どりで降りていった。宇野と目が合うと、彼は少し照れたように会釈をして、それから、海のほうへ、一目散に歩いていった。振り向きもせずに。宇野は、その後ろ姿が、朝の光のなかへ小さくなっていくのを、見ていた。あの若者は、いま、自分の朝を探しにいくのだ。見つかるといい、と宇野は思った。見つからなくても、探しにいったということを、いつか、大切に思える日がくるといい。
風呂敷包みを抱いた老人が、ゆっくりと、一段ずつ、たしかめるように降りてきた。網棚の骨箱を、両腕にしっかりと抱えて。ホームに降り立つと、樽見は、しばらく、じっと立ちつくした。それから、風呂敷のなかの箱に、そっと顔を寄せて、何かを、ささやいた。宇野には、その言葉は聞こえなかった。けれど、老人の唇の動きから、ついたよ、と言ったのが、わかった。ついたよ。おまえの、海だよ。
樽見は、海のほうへ向きなおった。防波堤のむこうから、朝日を受けた海が、きらきらと、光っていた。老人は、風呂敷包みを、その海のほうへ、少しだけ、持ち上げるようにした。ほら、と。ほら、見えるかい。おまえの、生まれた海だよ。五十年ぶりの。そして、ゆっくりと、その光のほうへ、歩きだした。骨箱を、抱きしめるようにして。宇野は、その背中を、深く、頭を下げて、見送った。おかえりなさい、と、心のなかで、老人にではなく、その腕のなかの人に、言った。
眠らない女は、いちばん最後に降りてきた。
革の鞄を、両手で胸に抱くようにして。ホームに片足をおろすとき、彼女はほんの一瞬、ためらったように見えた。まるで、この一歩を踏み出せば、もう後戻りはできないとでもいうように。けれど、彼女は踏み出した。しっかりと、両足で、朝のホームに立った。
宇野は、その背に、思わず声をかけた。「間に合うと、いいですね」
女は、ふりむいた。
なぜこの車掌が、そんなことを言うのか、彼女にはわからなかったはずだ。宇野自身にも、わからなかった。ただ、言わずにはいられなかった。彼女は、宇野の顔を、しばらくじっと見た。それから、その目に、みるみる涙が盛り上がってきた。彼女は、それを見られまいとするように、深く、深く頭を下げた。そして、何も言わずに、改札のほうへ、歩きだした。
背すじを、まっすぐに伸ばして。
宇野には、わかった。あの人は、もう泣かないだろう。もう、逃げないだろう。あの人は、間に合わせるつもりなのだ。父の死にではなく、父の生に。まだ息のあるうちに、ただいま、と言うために。あるいは、間に合わなかったとしても、もう、逃げはしないだろう。逃げてきた十七年に、今日、けりをつけにいくのだ。宇野には、そういう背中が、三十年のあいだに、いやというほど見分けられるようになっていた。
そのころ、若い男の槙田は、防波堤の突端に立っていた。
海は、思っていたよりも、ずっと大きかった。写真で見たのとも、想像していたのとも、まるでちがった。それは、ただ広いというのではなかった。生きていた。呼吸していた。寄せては返す波の一つひとつが、朝の光を砕いて、無数の金の破片を、彼の足もとまで運んできては、また、引いていった。潮の匂いが、彼の肺を、いっぱいに満たした。
いままさに、水平線を離れたばかりの太陽が、海のうえに、まっすぐな、一本の金の道をつくっていた。その道は、彼の立っている突端から、はるかな沖の、太陽そのものまで、まっすぐに伸びていた。まるで、いま歩きだせば、あの太陽まで、歩いていけるとでもいうように。
槙田は、胸ポケットから、祖父の絵葉書を取り出した。「海を見た。生きていて、よかったと思った」。彼は、その一行を、もう一度、読んだ。それから、顔を上げて、目の前の、本物の海を見た。
わかった、と彼は思った。祖父が、何を見たのか。
生きていて、よかった、というのは、何かいいことがあったから、そう思う、というのではないのだ。ただ、この光を、この匂いを、この波の音を、自分がいま、たしかに受け取っている――ということ。それだけで、じゅうぶんだったのだ。理由なんて、いらなかった。生きていること、それじたいが、この朝の海のように、ただ、そこにある。それを、受け取れる目と、耳と、肺があること。それが、生きていて、よかった、ということなのだ。
彼の頬を、朝の風が、なでていった。海鳥が、一羽、高く鳴いた。槙田は、いつまでも、その場に立っていた。何も望んでいなかったはずの自分が、いま、この朝を、まるごと望んでいた。もう一度、この光を。もう一度、この波を。もう一度、明日を。彼は、はじめて、明日が、見たいと思った。
乗客が、みな降りてしまうと、〈しののめ〉は、急にがらんとした。
宇野は、車内の見まわりをはじめた。忘れ物の点検だ。これも三十年、毎朝くり返してきた仕事だった。誰もいなくなった車内は、朝の光にみたされて、まるで、たったいままで人がいたことが、遠い昔のことのように思われた。座席には、まだ人のぬくもりの名残があった。窓には、寝ていた乗客の額の跡が、うっすらと油じみて残っていた。宇野は、それらを、名残おしむように見ながら歩いた。
三号車の、眠らない女が座っていたあたりに来て、宇野は、ふと網棚を見上げた。
そこに、手袋が、片方だけ、残っていた。
女ものの、飴色の、革の手袋だった。左手のものらしかった。片方だけ。もう片方は、どこにもない。宇野は、それを手にとった。まだ、かすかに、香りがした。夜のあいだ、その手にはめられていたのだろう。てのひらの部分が、少しくたびれて、なじんでいた。
あの人のだろうか、と宇野は思った。あの、間に合うといいですね、と声をかけた人の。
けれど、もう追いかけられはしなかった。彼女は、とうに改札のむこうへ、朝の町のなかへ、消えてしまった。宇野は、その片方だけの手袋を、しばらく手のなかで見ていた。片方だけ、というのは、妙なものだ、と彼は思った。両方そろっていれば、ただの手袋だ。けれど、片方だけになったとたん、それは、もう片方を待つものになる。失われたもう片方の、記憶を抱えたものになる。
彼女は、片方をどこに落としたのだろう。
もしかしたら、と宇野は思った。もしかしたら、あの人は、片方を、わざと置いてきたのかもしれない。十七年前に故郷を出たときの、あの若い自分を。両手にはめていた手袋の、片方を。逃げてきた自分を、この夜行に置いていって、もう片方だけを持って、朝の町へ、帰っていったのかもしれない。
もちろん、そんなことは、宇野の勝手な想像にすぎない。
けれど彼は、その想像が、あながち的はずれではないような気がした。三十年、この夜行の朝を見てきた者の勘だった。人は、忘れ物をしにこそ、旅に出る。持ってきたものを、どこかに置いていくために。
宇野は、その手袋を、忘れ物として届けるべきだった。
規則では、そうすることになっている。忘れ物は台帳に記し、遺失物として保管所へ回す。三か月たっても持ち主が現れなければ、処分される。それが決まりだった。
けれど宇野は、その日、その手袋を、台帳には記さなかった。
彼は、それを自分の上着の内ポケットに、そっとしまった。〈月光堂〉の藍色のマッチ箱の、すぐ隣に。理由は、うまく言えなかった。ただ、この手袋を、遺失物の棚の、無数の忘れ物のあいだに埋もれさせてしまうのが、どうしても忍びなかった。あの人は、もう取りにこない。取りにくるべきでは、ないのだ。これは、置いていかれたものだから。置いていかれたものは、遺失物ではない。それは、旅立ちのしるしだ。
宇野は、片方だけの手袋を、これから、自分が持っていようと思った。マッチ箱と同じように。使うためではなく、ただ、持っているために。あの一夜と、あの朝の、たしかにそこにあったことの、証人として。
三十年、彼は、無数の人の一夜を見送ってきた。そして、そのほとんどを、忘れてきた。忘れなければ、車掌はつとまらない。けれど、いくつかは、忘れずにいたかった。忘れずにいてやりたかった。誰も見ていなかった、たったひとりの、たったひと夜の旅立ちを。この片方だけの手袋を持っているかぎり、宇野は、あの人のことを、覚えていられる。名も知らぬまま。それでいい、と彼は思った。名を知らずとも、覚えていることは、できる。
見まわりを終えて、宇野は、ホームへ降りた。
空は、もうすっかり、朝だった。
東の海のほうから、いま、太陽が、水平線を離れたところだった。まぶしい、まっさらな金色の光が、ホームの屋根の下まで、まっすぐにさしこんでくる。夜のあいだ、青くうずくまっていた世界のすべてが、その光を浴びて、いっせいに、それぞれの色をとりもどしていた。露が、ホームの端の草に、金の粒のようにきらめいている。どこかで、また、ひばりが鳴いた。それに応えるように、駅の裏の林で、別の鳥が鳴いた。
宇野は、しばらく、その光のなかに立っていた。
三十年、この明け方を、何千回、見てきただろう。それでも、一度として、同じ色はなかった。今日の朝も、今日だけの色をしていた。この光は、二度と、こないのだ。だからこそ、と宇野は思う。だからこそ、毎朝、この刻ばかりは、胸が、あたらしくなる。まるで、自分もまた、この光といっしょに、もう一度うまれなおすように。
彼はふと、内ポケットに手をやった。
藍色のマッチ箱と、片方だけの手袋が、そこにあった。三日月と、飴色の革。夜のかけらと、旅のかけら。宇野は、それをたしかめるように、上着のうえから、そっと押さえた。
昇りきった太陽が、ホームを、金色に満たした。
夜行〈しののめ〉は、その光のなかで、しずかに息をととのえていた。長い夜を走りきった車体が、朝の風に冷やされて、かすかに、ちりちりと音を立てている。まるで、疲れをほどいているように。夜のあいだ、この車体は、眠る者たちを乗せて、闇を渡ってきた。そして、みなを、朝の岸へ、送り届けた。役目は、終わった。列車もまた、ひとつの、明け方を迎えていた。
宇野は、〈しののめ〉の車体を、ふりかえって見た。
明るい朝の光のなかで見る夜行列車は、なぜか、少しだけ、さびしげだった。夜のあいだは、あれほど頼もしく、あれほど大きく見えた舟が、朝の光のなかでは、ただの、くたびれた鉄の箱に見えた。それが、宇野には、いとおしかった。夜の役目を終えた者の、静かな疲れが。
「おつかれさま」と、彼は、列車に向かって、小さく言った。
三十年、毎朝、彼はそう言ってきた。乗客にではなく、列車にでもなく、この一夜そのものに向かって。渡りきった、ひとつの夜に向かって。おつかれさま、と。
数日ののち。
宇野は、非番の日に、一通の葉書を受け取った。差出人の名は、笹倉ゆき、とあった。宇野には、覚えのない名だった。けれど、消印は、あの終着駅のものだった。
葉書には、こう書いてあった。
「あの明け方、三号車で、間に合うといいですね、と声をかけてくださった車掌さんへ。どうやってお名前を調べたのか、と不思議に思われることでしょう。降りたあと、どうしても、お礼が言いたくなって、駅の方に、ずいぶんと無理をお願いいたしました。
父は、間に合いました。ほんの、二日でしたけれど。わたしの顔を見て、ただいま、と言ったら、父は、おかえり、と言ってくれました。それだけでした。それだけで、じゅうぶんでした。十七年ぶんが、その二文字に、ぜんぶ入っていました。
車掌さんの、あのひとことがなければ、わたしは、あの一歩を、踏み出せなかったかもしれません。もうすぐ夜が明けます、と、あなたはおっしゃいました。ほんとうに、明けました。ながい、ながい夜が。
お礼を申しあげます。名も知らぬままで、失礼をいたします。どうぞ、これからも、たくさんの方の朝を、送り届けてさしあげてください」
宇野は、その葉書を、何度も読んだ。
それから、上着の内ポケットから、片方だけの手袋を、取り出した。飴色の、女ものの、左手の手袋。やはり、あの人のものだったのだ。宇野は、それを、そっと手のなかに包んだ。
彼は、その手袋を、あの人に送り返そうとは、思わなかった。葉書には、住所は書かれていなかった。書かれていても、送り返さなかっただろう。これは、あの人が、置いていったものだ。置いていかれたものは、置いていかれたままにしておくのが、いい。それが、旅立ちというものだ。片方だけになった手袋は、もう、対の相方を待ってはいない。片方だけで、完結している。逃げてきた自分を置いて、もう片方だけで、朝の町へ帰っていった、あの人のように。
宇野は、その手袋を、机のひきだしの、いちばん奥にしまった。〈月光堂〉のマッチ箱と、いっしょに。三日月と、飴色の革。夜のかけらと、旅のかけら。それは、彼が三十年のあいだに集めた、いくつかの「忘れずにいたかったもの」の、あたらしい仲間になった。
その夜、宇野は、また〈しののめ〉に乗った。
夜のあいだじゅう、彼は起きていた。乗客たちが眠るのを見守り、レールの音を数え、窓の外を流れていく、眠る世界の灯りを見ていた。何百回、何千回とくり返してきた夜だ。それでも、と彼は思う。それでも、この夜もまた、この夜だけの闇をしていた。
明け方が近づいて、東の空が、うっすらと白みはじめたころ。
三号車のデッキで、宇野は、ふと、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
それは、ずっと昔、彼の母が、彼に歌ってくれた子守唄だった。歌詞も、節も、もう半ばは忘れてしまった。けれど、その最初のひとふしだけは、明け方になると、どういうわけか、ひとりでに口をついて出てくるのだった。眠れ、眠れ、と。
けれど、と宇野は、口ずさみながら思う。この子守唄は、ほんとうは、眠りの終わりに歌うべき歌なのかもしれない。星が海をわたるまで――星は、いま、海をわたりおえて、朝の光のなかへ消えていくところだ。だから、これは、眠れ、という歌でありながら、もう、眠らなくていい、という歌でもあるのだ。夜は、終わったのだから。もう、目を覚ましていい。もう一度、はじめていい。
そういえば、と宇野は思い出した。ゆうべ、線路ぎわの、あの小さな無人駅を通り過ぎたとき。ふだんは真っ暗なはずの、駅裏の路地のいちばん奥に、ぽつりと、灯りがともっていた。木の看板がかかっていて、たしか、月光書房、とか、そんな字が読めたような気がする。あんなところに、古本屋などあっただろうか。三十年通っていて、宇野は、そんな店を、見た覚えがなかった。彗星の出る夜にだけ現れる店、という話を、どこかで聞いたことがあるような、ないような。けれど、通り過ぎてしまえば、それも、夜のあいだの、たくさんの灯りのひとつにすぎなかった。朝になれば、きっと、あんな店は、もう、そこにはないのだろう。
窓の外を、蒼白い光が、ひとすじ、よぎった。
ミラ彗星だった。今日もまた、白みゆく空の高いところを、長い尾を引いて、渡っていく。夜のいちばん最後の光として。そして、朝が近づくにつれ、その蒼い光は、みるみる薄れ、溶けるように、消えていった。まるで、夜が、自分の持ちものを、ひとつずつ、朝に明けわたしていくように。最後にいちばん美しいものを、惜しむように残して、そして、それも、手ばなして。
宇野は、その消えぎわを、見ていた。あの人が、そうしていたように。まばたきもせずに。彗星が消えてしまえば、夜も、終わる。けれど、それでいいのだ、と彼は思う。夜が終わるから、朝が来る。眠りが終わるから、目が覚める。すべての明け方は、何かの終わりであり、何かの、はじまりだった。
ひばりが、鳴きはじめた。
一羽が。それから、もう一羽が。夜のあいだ沈黙していた世界が、鳥の声から先に、目を覚ましていく。宇野は、上着の内ポケットに、そっと手をやった。〈月光堂〉のマッチ箱の隣に、今日は、手袋はない。手袋は、机のひきだしの奥で、眠っている。けれど、そこにあることを、彼は知っていた。片方だけの、飴色の手袋が。あの一夜と、あの朝の、証人が。
がたん、ごとん、と車輪が継ぎ目を踏む。
その音は、いつのまにか、子守唄から、目覚めの音に変わっていた。宇野は、車内放送のマイクに、手をのばした。まもなく、終点。彼はこれから、また、眠る者たちを、朝の岸へ、送り届ける。名も知らぬ、たくさんの人の、たったひと夜と、たったひとつの朝を。そのうちの、いくつかを、彼はきっと、また、忘れずにいたいと思うのだろう。ひきだしの奥に、そっとしまうように。片方だけの手袋のように。証人として。
三十年、彼はそうしてきた。そして、あと何年、そうできるだろう。いつか、彼もまた、この舟を降りる日がくる。船頭にも、渡りきる夜が、最後に一度、訪れるはずだ。そのとき、彼を朝の岸へ送り届けてくれるのは、いったい、誰なのだろう。宇野には、わからなかった。けれど、そのときが来たら、と彼は思う。そのときが来たら、どうか、誰かが、私にも言ってくれるといい。もうすぐ、夜が明けます、と。
窓の外で、露が光っていた。ひばりが、いくえにも、鳴きかわしていた。列車は、朝の岸へ、しずかに、近づいていく。
終着は、旅のいちばん端で、いつも少しだけ夜のにおいを残している。けれど、その夜のにおいのむこうから、いつも、あたらしい朝が、露を光らせて、待っている。