月光書房
卯の刻 ・ 明け方 ・ 第 八 話

露と鉄

相馬 志緒
歴史・反戦 ・ 約25頁

露と鉄

夜明けというものは、砲声のあいまにしか来なくなっていた。

その朝、はじめて砲声のほうが夜明けに席をゆずった。

イリヤは、泥の壁に背をあずけたまま、そのことに気づいた。気づいたというよりは、身体のどこかがそれを感じとった、と言うほうが正しい。何時間も、何日も、絶え間なく地の底からせり上がっていた震動が、ふいにやんだのだ。耳の奥に張りつめていた膜が、そっとゆるむ。世界の重さが、ほんの少しだけ、肩からおりた。

彼は自分の呼吸の音を聞いた。ずいぶん久しぶりに、自分の呼吸というものを、ひとつの音として聞いた。白い息が、鼻先から立ちのぼり、まだ暗い空気のなかへ溶けていく。冷たかった。刺すように冷たく、それでいて、どこか甘いような冷たさだった。土と、火薬と、血と、そのすべての奥に、露の匂いがあった。

塹壕の底には、うっすらと霜がおりていた。

イリヤは十九だった。あるいは、もうすぐ十九になるはずだった。誕生日がいつだったか、この頃はよく思い出せなくなっている。冬のはじめに徴集され、貨車に詰め込まれ、汽笛と雪と、母の顔の記憶をひとつずつ剥がされながら、彼はここまで運ばれてきた。ここがどこなのか、正確には知らない。地図の上のひとつの点。丘と丘のあいだの、名もない窪地。将校たちはそこを「戦線」と呼び、彼らはそこを「泥」と呼んだ。

前の夜のことを、イリヤは、断片としてしか覚えていなかった。砲弾の閃光が、塹壕の壁を、一瞬ごとに白く照らしだしたこと。その白い光のなかで、仲間たちの顔が、蝋人形のように、こわばって見えたこと。誰かが、母を呼んで泣いていたこと。誰かが、聖書のことばを、途切れとぎれに唱えていたこと。そして、砲弾がひとつ、すぐ近くに落ちるたびに、土が、天から雨のように降ってきて、生きている者と、もう生きていない者の上に、分けへだてなく積もっていったこと。

そういう夜が、幾晩、つづいたのか、彼にはもう数えられなかった。時間というものが、この泥のなかでは、ほどけてしまっていた。夜と昼のさかいめも、生と死のさかいめも、すべてが、砲声の絶え間ないつらなりのなかに、溶けて、ひとつづきになっていた。ただ、砲弾の落ちる音と、次の砲弾の落ちる音の、そのあいだの、ほんのわずかな静寂のなかにだけ、彼はときおり、自分がまだ生きているらしいということを、思い出すのだった。

だから、その朝の静けさは、彼にとって、なにか信じがたいものだった。まるで、世界が息をつめて、じっと、なにかを待っているようだった。あるいは、あまりに長く鳴りつづけた鐘が、鳴りやんだあとに、空気そのものがまだ震えているような、そんな静けさだった。彼は、その静けさが、こわかった。だが、同時に、その静けさに、すがりつきたかった。もう少しだけ、もう少しだけ、つづいてくれと。

隣で、年かさの兵が身じろぎした。

ステパンといった。四十がらみの、髭の白くなりかけた男で、もとは南のどこかで葡萄をつくっていたという。手のひらが、木の皮のように厚く、ひび割れていた。イリヤは、この男の手が好きだった。理由はわからない。ただ、その手を見ていると、戦場ではないどこかの、日の匂いのする土のことを思い出せる気がした。

ステパンには、故郷に、妻と、三人の子がいた。いちばん上が、イリヤと同じくらいの歳の娘で、いちばん下が、まだ乳のみ子だという。夜、砲撃のあいまに、ステパンはときおり、その子どもたちの話をした。娘が葡萄の房を頬ばって、口のまわりを紫にした話。息子が、はじめて樽をひとりで転がせるようになった話。そういう話をするとき、ステパンの声は、この泥のなかの声ではなく、日の照る丘の、風の匂いのする声になった。イリヤは、その声を聞くのが好きだった。その声を聞いていると、この世界のどこかに、まだ、葡萄の実る土地があるのだということを、信じられる気がした。

「なあ、若いの」と、あるとき、ステパンは言った。「戦が終わったら、うちへ来い。葡萄をたらふく食わせてやる。おまえみたいなやせっぽちは、ひと夏でまるまる太っちまうさ」

イリヤは、笑った。その約束が、けっして果たされないかもしれないことを、二人とも、心のどこかで知っていた。だが、その約束は、それでも、あたたかかった。約束というものは、果たされなくても、それが交わされたという、そのことだけで、人をあたためることが、あるのだ。

「やんだな」とステパンが低く言った。声に出したのではなく、ほとんど息だけで。

「やみましたね」とイリヤも同じように答えた。

大きな声を出すのが、二人とも、なんとなくためらわれた。この静けさが、まるで薄氷のように、ちょっとした声で割れてしまいそうな気がしたのだ。

塹壕のなかは、まだ夜の色をしていた。土の壁は黒く、水たまりは鉛のように鈍く光っていた。だが、頭上の空をふり仰ぐと、東のほうの一角が、ほんのわずかに、藍を薄めていた。墨を落とした水が、少しずつ澄んでいくように。星がひとつ、またひとつ、その薄まりのなかに沈んでいく。

イリヤは、その空をずっと見ていた。

見ていると、ひとすじの光が目にとまった。ほかの星とはちがう光だった。にじんで、長く、蒼白い尾を引いていた。空の高いところから、地の際のほうへ向かって、静かに横たわるように伸びている。何日か前から、夜になるとそれが見えていた。誰かが、あれはミラ彗星だ、と言っていた。何百年に一度、めぐってくるのだと。

「あれは、」とイリヤは言いかけて、口をつぐんだ。

ステパンも、同じ方向を見ていた。

彗星は、白みゆく空のなかで、少しずつ、色を失っていった。夜が明けるにつれ、その蒼白い尾は空の青にとけこみ、輪郭をなくし、やがてどこからが星でどこからが空なのか、わからなくなった。まるで、夜そのものが、最後に残したひとしずくの光を、朝にそっと手渡しているようだった。

「消えちまう」とステパンがつぶやいた。

「ええ」

「あれを見るのは、これで最期かもしれん。おれの生きてるうちには、もう二度と来やしないだろう」

イリヤは何も言わなかった。彼のほうは、次にあれがめぐってくる何百年後まで、自分が生きているとは、もとより思っていなかった。それどころか、今日の日暮れまで生きているかどうかも、あやしいものだった。

彗星は、消えた。

空は、しらじらと明けていった。

塹壕の向こう。三十歩ばかり先の、有刺鉄線と、砲弾の抉った穴だらけの、あの荒れ地の向こうに、敵の塹壕があった。

昨日まで、そこから絶え間なく鉄が飛んできた。銃弾が、砲弾が、そして時には、火のついた叫び声が。イリヤは、そこにいるのが誰なのか、知らなかった。顔を見たこともなかった。ただ、そこに「敵」がいて、その「敵」は自分を殺そうとしていて、だから自分も殺さねばならない、ということだけを、頭ではなく身体で覚え込まされていた。

だが、その朝は、そこも静かだった。

イリヤは、そっと胸壁のふちに近づいて、目だけを出した。

朝靄が、荒れ地の上に低く這っていた。乳白色の靄が、砲弾の穴を、鉄条網を、崩れた土嚢を、うっすらと覆い、そのすべての角をやわらかくしていた。昨日までは、地獄の絵そのものだったその光景が、その朝は、まるで幼い頃に見た、霜の朝の畑のようにも見えた。

靄のなかに、点々と、暗い塊がころがっていた。

それが何であるか、イリヤは知っていた。だから、そこから目をそらした。

彼は空を見た。もう一度。

東の空は、いまや、薔薇色に染まりはじめていた。灰から、藍から、薔薇へ。その色は、荒れ地の靄にも映り、靄の一面が、うっすらと桃色に光った。露が、鉄条網の一本一本に、無数の玉となって宿り、その桃色の光を受けて、きらきらと燃えた。有刺鉄線が、まるで宝石を連ねた首飾りのように光るのを、イリヤは、生まれてはじめて見た。

美しい、と思った。

そう思ってしまった自分を、彼はすぐに恥じた。こんなところで、こんな朝に、美しいなどと。だが、その思いは、恥じるそばから、また胸の底からわいてきた。美しいものは、美しかった。それを止めることは、誰にもできなかった。

そのとき、声が聞こえた。

歌だった。

低い、かすれた、男の声。向こうの塹壕のほうから、靄をわたって、それは流れてきた。ことばは、わからなかった。イリヤの国のことばではなかった。敵の国のことばだった。だが、その節まわしを、イリヤは知っていた。

眠れ、眠れ。

イリヤは、そのことばのない節に、自分の国のことばを、思わず重ねていた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

母が、歌ってくれた歌だった。冬の夜、暖炉の火のそばで、幼いイリヤを膝にのせて。星が海をわたるまで。海を見たこともなかった幼い彼は、その海というものを、夜空のことだと思っていた。星が、夜という海を、ゆっくりと泳いでわたっていく。それを見届けるまでは、眠っていい。そう歌われて、彼はいつも、海のなかばで眠りに落ちた。

敵の国の子守唄と、彼の国の子守唄は、ちがうことばで、同じ節を歌っていた。

イリヤの脳裏に、故郷の台所が、ふいに、鮮やかによみがえった。冬の朝、母が竈に火をおこすと、部屋じゅうに、パンの焼ける匂いがひろがった。窓には霜の花が咲いていて、その花のひとひらひとひらを、幼いイリヤは、指で溶かしては、外の雪景色をのぞいた。母は、いつも、何かしら口ずさんでいた。歌とも言えぬような、小さな節を。手を動かしながら、鼻の先で、ふんふんと。それは、母が機嫌のいい徴だった。母が歌っているかぎり、その日は、いい日になるのだと、幼い彼は思っていた。

母の手は、けっして美しい手ではなかった。あかぎれて、節くれだって、いつも何かの匂いがした。パンの匂い、竈の灰の匂い、洗濯の石鹸の匂い。だが、その手で撫でられると、どんな傷も、どんな悲しみも、不思議と、やわらいだ。母は、その手で、彼のために、手袋を編んだ。彼のために、パンを焼いた。彼のために、この歌を歌った。そして、その手で、発つ朝、彼の掌に、藍色のマッチ箱を、そっと握らせたのだ。

いま、その母は、どこにいるのだろう。彼は、思った。あの台所で、まだ、歌っているだろうか。それとも、窓辺に立って、雪の降る道の果てを、じっと見つめているだろうか。帰らぬ息子を、待ちながら。

どうして、と彼は思った。どうして、同じなのだろう。

向こうの塹壕にいる男にも、母がいたのだ。冬の夜、火のそばで、その男を膝にのせて、この歌を歌った母が。そしていま、その男は、遠い異国の泥のなかで、誰にともなく、その歌を口ずさんでいる。眠りの終わりに。あるいは、眠れぬ夜の終わりに。

歌は、やがて、ふつりと途切れた。

靄のなかに、ふたたび静けさがおりた。だが、それは、さっきまでの静けさとは、どこかちがっていた。もう、他人どうしの静けさではなかった。

「若いの」とステパンが、いつのまにか隣に来ていた。

「聞こえましたか」

「ああ。おれの婆さんも、あれを歌った。ことばはちがうがな。節はおんなじだ」

「どうして、同じなんでしょう」

ステパンは、しばらく黙っていた。それから、白い息を長く吐いて、言った。

「同じだからさ。人間なんてものは、どこの国でも、たいして変わりゃしない。腹が減って、寒くて、子どもが泣きゃあ、同じ歌を歌う。ちがうのは、どっちの塹壕に生まれ落ちたか。それだけよ」

イリヤは、荒れ地のほうを見た。

靄が、少しずつ薄れていた。日が、丘のふちから顔を出そうとしていた。最初の光の矢が、荒れ地を斜めに射抜いて、露の玉のひとつひとつを、白い火に変えた。世界じゅうが、一瞬、まぶしく燃えた。

そして、その光のなかに、一羽の鳥が鳴いた。

どこにいるのか、姿は見えなかった。だが、たしかに、鳥だった。荒れ地の、砲弾の穴の底のどこかに、あるいは、崩れた木の切り株の陰に、一羽の小鳥がいて、朝が来たことを、ただそれだけのことを、高らかに鳴きかわしていた。この地上に起きたすべてのことなど、まるで知らぬげに。

イリヤは、なぜか、その声で、泣きそうになった。

こんな朝が、あることを、忘れていた。夜が明け、鳥が鳴き、露が光る、そんな、ありふれた朝が、まだ、この世界に残っていることを。砲声のなかで暮らすうちに、彼は、そういう朝のことを、まるで、遠いおとぎ話のように、思うようになっていた。だが、朝は、いまも、こうして、来るのだった。彼が、それを見ていようと、いまいと。誰かが、生きていようと、死んでいようと。朝は、ただ、来た。世界の律儀さ、あるいは、世界の無関心さで。

そして、その無関心こそが、なぜか、イリヤには、なぐさめだった。人間が、どれほど愚かなことをしようと、どれほど血を流そうと、朝は、それを裁かず、それを止めず、ただ、いつものように、露を光らせ、鳥を鳴かせる。まるで、こう言っているように。おまえたちの戦などとは、かかわりなく、わたしは、明ける。おまえたちが、いつか、この愚かさに気づく日まで、わたしは、幾度でも、明けつづける。だから、どうか、気づきなさい。この光を。この露を。この、朝を。

靄がすっかり晴れると、荒れ地の様子が、はっきりと見えるようになった。

そのとき、イリヤは、それに気づいた。

塹壕と塹壕のちょうどなかほど、砲弾の穴のふちに、何か、暗い色のものが落ちていた。土のうえに、それだけが、妙にくっきりと。はじめは、また、あの暗い塊のひとつかと思った。だが、ちがった。もっと小さく、もっと、なんでもないものだった。

手袋だった。

片方だけの、手袋。

毛糸で編まれた、灰色の手袋。指の先が、うっすらとほつれていた。誰かが、それをそこに落としたのだ。昨日か、一昨日か、あるいはもっと前に。夜襲のとき、退却のとき、あるいは、地を這って進むとき。そして、その持ち主は、もう片方をどこかに残したまま、それを拾いにくることは、なかったのだ。

イリヤは、その手袋を、じっと見ていた。

なぜだか、目を離せなかった。

片方だけの手袋。それは、この荒れ地に散らばっている、すべての「片方だけ」のものの、ちいさな徴のように思われた。片方だけの兄弟。片方だけの息子。母を残した子。子を残した母。妻を残した夫。約束を残した恋人。すべてが、ここで、片方だけになった。

その手袋は、敵の国の毛糸で編まれていた。だが、その編み目は、イリヤの母が、彼のために編んでくれた手袋の編み目と、驚くほど、似ていた。

きっと、あの向こうにも、それを編んだ手があったのだ。冬の夜、ランプのそばで、遠くへ発つ息子のために、あるいは夫のために。指がかじかまぬように。少しでも、あたたかいように。そう祈りながら、一目、また一目と。

その祈りは、いま、片方だけになって、二つの塹壕のあいだの、誰のものでもない土のうえに、落ちていた。

イリヤは、自分の手を、見おろした。

彼の手にも、母の編んだ手袋が、はめられていた。灰色の毛糸の、指先のほつれかけた手袋。荒れ地に落ちたあの手袋と、驚くほど、よく似ていた。ちがう国の、ちがう母が、ちがうことばで祈りながら編んだはずのものが、こうも似ているということが、イリヤには、なぜか、たえがたく思われた。もし、この二つの手袋を、いっしょに籠に入れて、どちらが敵のもので、どちらが味方のものか、選んでみろと言われたら、誰にも、選べはしないだろう。神さまにも、選べはしないだろう。

なのに、人は、その手袋をはめた手で、たがいに、引き金を引く。その手袋を編んだ母たちは、遠く離れた二つの家で、同じように、火のそばで、同じ歌を歌いながら、息子の無事を祈っている。そして、その祈りは、荒れ地のうえで、片方だけの手袋となって、朽ちていく。

これほど、ばかげたことが、あるだろうか。

日がのぼった。

まるい、赤い、大きな太陽が、丘のふちから、ゆっくりと、その全身をあらわした。荒れ地は、金色の光に満たされた。露は、しだいに蒸発し、光の玉は、ひとつ、またひとつと、消えていった。空気が、わずかに、ぬくもりはじめた。

イリヤは、胸壁のふちから、そっと身を乗り出した。

何を考えていたのか、彼自身にも、わからなかった。ただ、あの手袋を、あのまま、あそこに落ちたままにしておくのが、どうしても、たえがたかった。片方だけで、誰にも拾われず、いずれ次の砲弾がそれを土の底に埋めてしまうだろうことが。

彼は、塹壕のふちに手をかけた。

「よせ」とステパンが、鋭く、しかし低く言った。「狙撃兵がいる」

だが、イリヤは、もう、荒れ地のうえにいた。

朝の光のなかを、彼は、ゆっくりと、身をかがめて進んだ。有刺鉄線のあいだをくぐり、砲弾の穴のふちをまわり、露に濡れた土のうえを、一歩、また一歩と。心臓が、耳のなかで鳴っていた。だが、不思議と、こわくはなかった。世界は、あまりに静かで、あまりに明るかった。

向こうの塹壕から、銃声は、こなかった。

一歩ごとに、彼は、思った。次の一歩で、撃たれるかもしれない、と。額を、心臓を、貫かれて、この露の光る土のうえに、倒れ伏すかもしれない、と。だが、それでも、彼の足は、止まらなかった。とめられなかった。何かが、彼を、前へ、前へと、押しやっていた。それは、勇気ではなかった。むしろ、それは、あまりに長く恐怖のなかにいすぎた者が、ある朝、ふいに、その恐怖の底を抜けてしまう、あの、しずかな諦めにも似た、あるいは、しずかな祈りにも似た、何かだった。

彼の足もとで、露に濡れた草が、しなった。まだ、枯れきってはいない、細い草だった。こんな荒れ地にも、草は生えるのだ、とイリヤは思った。砲弾に、幾度、抉られても、抉られても、また、草は、生えてくるのだ。ちいさな、青い、いのちが。それを見たとき、彼の胸に、なぜか、あたたかいものが、こみあげた。世界は、まだ、終わっていなかった。草が、生えているかぎり。露が、光っているかぎり。

イリヤは、あの手袋のところまで、たどりついた。

膝をつき、それを拾いあげた。毛糸は、露に濡れて、冷たく、重かった。だが、たしかに、それは手袋だった。誰かの手を、あたためるためのものだった。彼は、それを、両手で、そっと包んだ。

そのとき、彼は、顔をあげた。

向こうの塹壕のふちに、一人の兵が、身を乗り出していた。

敵だった。

その男もまた、荒れ地に出ていた。イリヤと、ちょうど同じように、身をかがめ、こちらへ向かって、静かに進んでこようとしていた。二人は、荒れ地のまんなかで、たがいの姿を、はじめて、まっすぐに見た。

若い男だった。イリヤと、そう変わらぬ歳に見えた。頬が、寒さで赤かった。目が、驚きに見開かれていた。その手には、銃はなかった。ただ、片方の手袋だけを、はめていた。

もう、片方の手袋を。

イリヤは、悟った。

自分が拾ったその手袋の、もう片方を、その男は、いま、その手にはめていた。あるいは、その男自身が、それを落とした者だったのか。それとも、その男の兄弟が、友が、それを落としたのか。もう、どちらでもよかった。二つの手袋は、いま、二つの塹壕のあいだで、ふたたび、めぐりあった。

二人は、たがいを、見つめあった。

長い、しずかな時間だった。鳥が鳴いていた。露が光っていた。世界は、まだ、明けたばかりだった。

イリヤは、拾った手袋を、ゆっくりと、その男のほうへ、さしだした。

これは、きみのものだ。

ことばは、通じなかった。だが、その所作は、通じた。

男は、はじめ、動かなかった。それから、おそるおそる、こちらへ、歩みよってきた。有刺鉄線のあいだを、砲弾の穴のふちを。二人のあいだの、三十歩が、二十歩に、十歩に、五歩になった。

そして、二人は、荒れ地のまんなかで、向かいあって、立った。

近くで見ると、その男の顔には、そばかすがあった。鼻の頭に、頬に、幼い子どものように。目は、灰色がかった青で、その青のなかに、朝の空が映っていた。唇が、寒さと、それとも別の何かに、かすかに震えていた。

イリヤは、手袋を、さしだした。

男は、それを、受けとった。

指が、ふれた。冷たい指どうしが、一瞬、ふれあった。それだけのことだった。だが、その一瞬、イリヤは、たしかに、あたたかいものを感じた。血の通った、生きた指の、あたたかさを。それは、敵の指ではなかった。ただ、寒さにかじかんだ、一人の若者の指だった。

男は、受けとった手袋を、じっと見た。それから、自分の手にはめていた、もう片方の手袋を、見た。二つの手袋は、たしかに、対だった。同じ手が編んだ、同じ毛糸の、対の手袋。片方は、この男の手に。もう片方は、いま、この男の手のなかに戻ってきた。

男の目に、みるみる、涙がもりあがった。

彼は、何かを、言った。イリヤには、わからないことばで。だが、そのことばの意味は、わかった。ありがとう、と、その男は言ったのだ。あるいは、すまない、と。あるいは、その両方を。

イリヤは、首を、横にふった。いいんだ、と。それから、自分のポケットに、手を入れた。

彼のポケットには、いつも、あるものが入っていた。

母が、発つ朝に、彼の掌に、そっと握らせたものだった。藍色の、小さなマッチ箱。ふたのところに、三日月が、銀色で刻まれていた。月光堂、と、小さな文字が読めた。母は、それを、お守りだと言った。どんなに暗い夜でも、これがあれば、火をおこせる。火があれば、あたたかい。あたたかければ、生きていられる、と。

イリヤは、その火を、一度も、使わなかった。使ってしまえば、なくなってしまう気がして。母のことばを、なくしてしまう気がして。だから、それは、ずっと、彼のいちばん深いポケットのなかで、ひとつのお守りとして、眠っていた。

彼は、そのマッチ箱を、取りだした。

朝の光に、藍色が、深く、しずかに、光った。三日月が、銀色に、ちらりとまたたいた。

彼は、それを、その男に、さしだした。

なぜ、そんなことをしたのか、イリヤには、うまく説明できなかった。ただ、この男に、何か、渡したかったのだ。手袋を返してもらった、そのお返しではなかった。そういう、勘定のようなものではなかった。ただ、この、荒れ地のまんなかの、束の間の朝のなかで、たがいが、たしかに人間であったということの、消えない徴を、何か、この男に、持っていてほしかった。この男が、いつか、どこか、暗い夜のなかで、絶望のふちに立ったとき、ポケットのなかのこの小さな箱を握って、思い出してほしかった。かつて、敵であるはずの一人の若者が、荒れ地のまんなかで、これを自分に手渡した、あの朝のことを。この世界には、まだ、そういうことが、起こりうるのだということを。

男は、目をみはった。それから、両手で、それを、うやうやしく受けとった。まるで、聖なるものを受けとるように。彼は、その三日月を、指で、そっと、なぞった。そして、また、涙をこぼした。

その涙が、そばかすの頬を、つたって、朝の光に、ひとしずく、きらりと光った。露のように。荒れ地に宿った、あの、無数の露の玉のように。イリヤは、その涙を見て、思った。ああ、この男も、泣くのだ、と。当たり前のことだった。だが、その当たり前のことが、この場所では、ほとんど、奇跡のように、思われた。敵が、自分の目の前で、泣いている。人間らしく、ただ、泣いている。それを見られただけで、彼は、この朝、ここへ来た甲斐が、あったと思った。

二人は、しばらく、ただ、そこに立っていた。

言うべきことばは、なかった。あったとしても、それは、二人のことばでは、通じなかっただろう。だが、通じないことばよりも、はるかに多くのことが、その朝の光のなかで、二人のあいだを、行き来していた。

きみにも、母がいる。

ぼくにも、母がいる。

きみは、帰りたい。

ぼくも、帰りたい。

こんなことは、まちがっている。

ああ、まちがっている。

イリヤは、その男の目のなかに、自分自身を見た。おびえも、疲れも、望郷も、そして、それでもまだ消えていない、ひとかけらの、やさしさも。この男も、きっと、はじめて人を撃った夜には、手が震えたのだろう。この男も、きっと、はじめて仲間の死をその腕に抱いた朝には、声をあげて泣いたのだろう。この男も、この男も、この男も――

イリヤは、悟った。敵などというものは、どこにもいなかったのだ。ただ、二つの塹壕があり、そのそれぞれに、母の歌を覚えている若者たちが、震えながら、うずくまっているだけだった。銃を持たされ、憎めと命じられ、殺さねば殺されると教えこまれた、ただの、若者たちが。

そのとき、男が、片手を、そっと、あげた。

握手を、もとめているのだ、とイリヤは気づいた。彼は、自分の手を、さしだした。二つの手が、荒れ地のまんなかで、握りあわされた。一方は、手袋をはめた手。もう一方は、手袋を渡してしまった、素手。あたたかい手と、冷えた手が、たがいの体温を、分けあった。

それは、この戦のはじまって以来、この荒れ地のうえで交わされた、ただひとつの、人間らしい握手だった。歴史に記される、いかなる条約の調印よりも、いかなる将軍たちの握手よりも、はるかに、真実の握手だった。

そのとき、遠くで、音がした。

はじめは、かすかだった。だが、それは、みるみる、大きくなった。地の底から、ふたたび、あの震動が、せり上がってきた。イリヤの背筋が、こわばった。あの音を、彼の身体は、忘れていなかった。

砲撃が、はじまろうとしていた。

夜明けの休戦は、終わりつつあった。将校たちの時計が、ふたたび、戦を、指し示したのだ。

二人は、はじかれたように、たがいの塹壕のほうを、ふりかえった。それから、もう一度、たがいを、見た。

男は、手袋を、握りしめていた。そして、もう一方の手には、藍色のマッチ箱を。彼は、口を、動かした。ことばは、聞こえなかった。だが、その唇の動きは、たしかに、あの歌の、はじめの一節だった。

眠れ、眠れ。

イリヤも、口を動かした。同じ節を。ちがうことばで。

星が海をわたるまで。

そして、二人は、背を向けた。

イリヤは、走った。

露に濡れた土のうえを、有刺鉄線のあいだを、砲弾の穴のふちを、もときた道を、必死で。背後で、最初の砲弾が、荒れ地に落ちた。土が、噴きあがった。世界が、ふたたび、ゆれはじめた。あの静けさは、薄氷のように、割れた。

彼は、塹壕に、転げこんだ。

ステパンの、太い腕が、彼をつかまえ、底へ、引きずりおろした。

「馬鹿が」とステパンは言った。だが、その声は、怒ってはいなかった。「馬鹿が。生きてやがる。よかった」

ステパンは、イリヤの身体を、あちこち、たしかめた。撃たれてはいないか。破片を浴びてはいないか。父親が、雪のなかを転げまわった子どもを、たしかめるように。イリヤは、無傷だった。ただ、手袋を、失っただけだった。

「手袋は、どうした」とステパンが訊いた。

「渡しました」とイリヤは答えた。「向こうの、若いのに」

ステパンは、しばらく、イリヤの顔を、見つめていた。それから、何も言わずに、自分の手袋を、片方、脱いだ。そして、それを、イリヤの、素手のほうの手に、押しつけた。

「いいですよ、ステパンさん。あなたの手が、凍える」

「いいから、はめてろ。おれの手は、皮が厚い。おまえの手は、まだ子どもの手だ。凍えちまう」

イリヤは、その手袋を、受けとった。ステパンの手袋は、大きくて、彼の手には、ぶかぶかだった。だが、あたたかかった。まだ、ステパンの体温が、残っていた。イリヤは、そのあたたかさを、両手で、そっと、包んだ。

こうして、手袋は、めぐっていくのだ、と彼は思った。母から、彼へ。彼から、敵の若者へ。そして、ステパンから、また、彼へ。あたためあうということ。それだけが、この凍てついた世界で、人が人にできる、ただひとつの、たしかなことなのかもしれなかった。

イリヤは、泥の底に、あおむけに倒れていた。息が、あがっていた。心臓が、狂ったように鳴っていた。だが、彼の掌のなかには、何もなかった。手袋も、マッチ箱も、もう、彼のものではなかった。それらは、向こうへ、渡っていった。

彼は、空を、見た。

砲煙が、朝の空を、みるみる、汚していった。薔薇色の空は、灰色に、黒に、覆われていった。あの、彗星の消えた、うつくしい夜明けの空は、もう、どこにもなかった。ただ、火と、鉄と、煙の、いつもの空が、彼の頭上に、戻ってきていた。

だが、イリヤは、思った。

たしかに、あった、と。

砲撃は、その日、日暮れまでつづいた。

命令が、下った。前進せよ、と。イリヤたちは、笛の音とともに、塹壕を出て、あの荒れ地を、向こうの塹壕めがけて、駆けた。あの、朝、露の光った荒れ地を。あの、二つの手袋がめぐりあった荒れ地を。いまや、そこは、ふたたび、火と鉄の、地獄だった。

イリヤは、走りながら、必死で、向こうの塹壕を、見た。あの若者を、探した。あの、そばかすの、灰色がかった青い目の若者を。だが、煙と土埃のなかに、顔などというものは、もう、なかった。あるのは、閃光と、轟音と、噴きあがる土と、倒れていく影と、絶叫だけだった。彼は、引き金を引いた。どこへ向けてか、自分でも、わからぬまま。目をつむって、ただ、引いた。撃たなければ、撃たれる。それだけが、身体を動かしていた。

途中で、彼はつまずき、砲弾の穴のなかに、転げ落ちた。その穴の底に、一人の兵が、倒れていた。敵か、味方か、わからなかった。もう、事切れていた。その手には、片方だけの、手袋が。イリヤは、思わず、その顔を、のぞきこんだ。そばかすは、なかった。ちがう若者だった。だが、それでも、その死に顔は、あの若者と、どこか、似ていた。この荒れ地に倒れる者は、みな、どこか、似ていた。みな、誰かの、息子だった。

彼は、その穴から、はい出し、また、走った。

日が、暮れた。

イリヤは、生きのびた。ステパンも、生きのびた。何人かが、生きのびず、名前を、泥に残した。それは、いつものことだった。戦は、いつものように、なにひとつ変えず、なにひとつ解決せず、ただ、数だけを増やして、その日を、終えた。前線は、朝と、寸分も、変わっていなかった。あれほどの火と、あれほどの血の果てに、地図の上の線は、一ミリも、動いていなかった。

夜が来た。

星が、また、出た。だが、あの彗星は、もう、なかった。それは、あの夜明けに、空にとけて、消えてしまったのだ。ステパンの言ったとおり、彼らの生きているうちには、もう、二度と、めぐってはこないのだろう。

イリヤは、ふと、母のことばを、思い出した。あの、藍色のマッチ箱を、彼の掌に握らせた朝、母は、こんなことを言ったのだ。「彗星の出る晩にはね、町のはずれに、ふしぎな古本屋が現れるんだよ。月光書房っていうんだ。ひと晩だけ、ぽつんと灯りをともしてね。朝になると、跡かたもなく、消えてしまう。おまえのお祖父さんは、若いころ、一度だけ、そこへ入ったことがあるそうだよ。そこで、一冊の本を、もらってきた。この世のすべての戦が終わったあとのことが、書いてある本だってさ」

幼いイリヤは、その話を、おとぎ話だと思っていた。祖父の本が、家のどこにあったのかも、知らなかった。だが、いま、この夜、彗星の消えた空の下で、彼は、ふと、思うのだった。あの本には、いったい、何が、書いてあったのだろう、と。この世のすべての戦が終わったあとの、世界のことが。露が光り、鳥が鳴き、二つの塹壕のあいだに、もう、誰も倒れていない、そんな朝のことが。

その本を、読んでみたい、とイリヤは思った。生きて、故郷へ帰り、その本を、探してみたい、と。

イリヤは、泥の壁に背をあずけ、暗い空を、見あげていた。

向こうの塹壕は、静かだった。あの男が、生きているのか、死んでいるのか、彼には、知るすべもなかった。あの、そばかすの若者が、あの、灰色がかった青い目の若者が、今日一日を、生きのびたのか、どうか。

イリヤは、目を、閉じた。

そして、心のなかで、そっと、祈った。

どうか、あの男が、生きていますように。どうか、あの男が、いつか、故郷へ、帰れますように。どうか、あの藍色のマッチ箱が、あの男の、いちばん暗い夜に、火を、ともしますように。あたたかい、火を。

彼は、それが、敵のための祈りだ、ということを、もう、気にしなかった。

夜が更けた。

寒さが、いっそう、身にしみた。イリヤは、両手を、口もとに近づけ、白い息で、あたためた。指が、かじかんでいた。手袋を、渡してしまったのだ。もう、彼の手を、あたためるものは、なかった。

だが、彼は、悔いなかった。

彼は、もう一度、目を閉じ、あの歌を、心のなかで、口ずさんだ。母の歌った、あの歌を。あの男の母も、きっと歌ったであろう、あの歌を。ちがうことばで、同じ節の、あの子守唄を。

眠れ、眠れ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

彼は、その歌を、あの男のために、歌った。あの男の母のために。そして、この地上の、すべての塹壕のなかで、いま、眠れずにいる、すべての若者たちのために。ちがう国の、ちがうことばの、だが、同じ節を、心のどこかに持っている、すべての息子たちのために。

眠りが、彼を、包みはじめた。

彼は、うとうととしながら、思った。夜明けが、また、来るだろう、と。空が、また、白むだろう。露が、また、光るだろう。鳥が、また、鳴くだろう。世界は、また、もう一度、はじまろうとするだろう。

その夜明けに、砲声が、やんでいますように。

その夜明けが、戦いの、はじまりではなく、終わりで、ありますように。

明け方近く、イリヤは、夢を見た。

夢のなかで、彼は、故郷の家にいた。冬の夜だった。暖炉の火が、あかあかと燃えていた。母が、彼を、膝にのせて、歌っていた。眠れ、眠れ、と。窓の外には、雪が、しずかに、降っていた。

ふと、窓の向こうを、見ると、雪のなかに、一人の若者が、立っていた。

そばかすの、灰色がかった青い目の、若者だった。彼は、片方だけの手袋をはめた手で、藍色のマッチ箱を、握っていた。そして、その三日月の刻まれたふたを、そっと、あけた。一本のマッチが、擦られた。ちいさな火が、ともった。

その火は、雪のなかで、あたたかそうに、ゆれていた。

若者は、その火を、両手で、大切に、包んでいた。そして、火のむこうから、イリヤのほうを見て、かすかに、微笑んだ。ありがとう、と、その唇が、動いた。

イリヤも、微笑みかえした。

そして、二人は、同じ歌を、それぞれのことばで、口ずさんだ。二つの声は、夢のなかで、ひとつに、溶けあった。ちがうことばが、同じ節のうえで、手を、つないだ。

火は、ゆれ、ゆれ、やがて、朝の光に、とけていった。

彗星が、空にとけていったように。露が、日にとけていったように。すべての、うつくしいものが、うつくしいまま、そっと、朝に、手渡されていくように。

イリヤが目をさましたとき、東の空は、ふたたび、白みはじめていた。

塹壕の底には、また、薄い霜がおりていた。彼の白い息が、鼻先から立ちのぼり、まだ暗い空気のなかへ、溶けていった。冷たかった。だが、その冷たさの奥に、たしかに、露の匂いが、あった。

砲声は、まだ、やんでいた。

彼は、耳をすました。

すると、遠く、荒れ地のむこうから、ひとすじの声が、聞こえてきた。低い、かすれた、男の声。あの歌だった。あの、子守唄だった。あの男が、生きていたのだ。今日という朝を、あの男は、迎えることが、できたのだ。

イリヤは、目を閉じ、その声に、耳をかたむけた。

そして、彼もまた、声には出さず、ただ息だけで、その節に、自分のことばを、重ねた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

空が、しらじらと、明けていった。

もし、いつか、この戦が終わる日が来るなら――そう、イリヤは思った――そのとき、人は、この朝のことを、思い出すだろうか。砲声のやんだ、束の間の、夜明けのことを。荒れ地に光った、露のことを。二つの塹壕のあいだを、渡っていった、片方だけの手袋のことを。ちがうことばで、同じ節を歌った、二人の若者のことを。

思い出さないかもしれない。

歴史は、勝った者と、負けた者のことしか、書かないのだから。将軍たちの名と、戦いの日付と、動いた国境の線しか、覚えていないのだから。名もない一人の兵士が、ある明け方に、敵に手袋を返した、などということは、どこにも、記されないだろう。

だが、と、イリヤは思った。

だが、あの朝、たしかに、二人の若者が、荒れ地のまんなかで、向かいあった。たしかに、冷たい指と指が、ふれあった。たしかに、二つの手袋が、めぐりあった。たしかに、一つの火が、敵から敵へ、手渡された。たしかに、同じ子守唄が、ちがう二つの唇から、こぼれた。

それは、どこにも、記されない。

だが、たしかに、あった。

いつか、この戦を戦った者たちは、みな、老いて、死んでいくだろう。イリヤも、ステパンも、あのそばかすの若者も。そして、この朝のことを覚えている者は、一人もいなくなるだろう。荒れ地は、また、草に覆われ、やがて、畑になり、あるいは、町になり、そこで、新しい子どもたちが、この地の下に何が埋まっているかも知らずに、笑い、駆けまわるだろう。それでいい、とイリヤは思った。それで、いいのだ。忘れられてこそ、平和なのだ。だが、それでも――と、彼は思うのだった。それでも、たったひとつだけ、この地に、しみこんで、消えずに残るものが、あるとすれば。それは、あの朝、二つの手袋がめぐりあったときの、あのあたたかさなのではないか。地の底に、露のように、それは、いつまでも、ひそんでいるのではないか。

だが、たしかに、あった。

そして、それが、あったということ――それだけが、この地獄のような場所に、それでも人間というものが、まだ生きているということの、たったひとつの、消えない徴だった。彗星のように、朝が来れば消えてしまう、ちいさな、蒼白い光。だが、たしかに、そこに、あった光。

イリヤは、空を、見あげた。

最後の星が、白みゆく空に、しずかに、沈んでいくところだった。

彼は、その星に、もう一度、祈った。それから、ゆっくりと、立ちあがった。今日も、朝が来た。今日も、世界は、もう一度、はじまろうとしていた。たとえ、この朝の終わりに、また砲声が戻ってくるとしても――いまこの一瞬、露は光り、鳥は鳴き、遠い塹壕のむこうで、一人の若者が、生きて、歌っていた。

それだけが、すべてだった。

そして、それだけで、じゅうぶんだった。

露が、光っていた。片方だけの、手袋を返したあの手のように、まだ、あたたかい何かが、この冷えた世界の底に、たしかに、残っていた。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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