明け方の缶コーヒー
一
夜行バスが高速を降りたのは、まだ空がインクの底みたいに濃い時刻だった。
窓に額をつけて眠っていた透は、体がふわりと持ち上がるような感覚で目を覚ました。バスがゆるいカーブを下っていく。前の座席の背もたれに深く食い込んでいた膝を、そっと引き戻す。九時間、同じ姿勢でいた足の裏に、じんとしびれが残っていた。
カーテンの隙間から外を見ると、まだ夜だった。けれど、故郷の夜とは色が違う。
透の生まれた町の夜は、ほんとうに黒かった。田んぼの向こうの山の稜線が、その黒のもっと濃いところとして、かろうじて見分けられるくらいの黒。星は、掃いても掃いても湧いてくるように、空じゅうにあった。
いま窓の外を流れていく夜は、黒ではなかった。オレンジがかった、けだるい紫みたいな色をしていた。光が、どこか下のほうから染み上がってくるみたいに、夜そのものが薄く発光している。無数の灯り。ビルの窓の、消し忘れられたような小さな四角がいくつも。高速道路のナトリウム灯が、規則正しく後ろへ飛んでいく。この街は、夜のあいだも、完全には眠らないのだと透は思った。
「まもなく、終点でございます」
車内アナウンスが、眠気を含んだ低い声で流れた。ぱらぱらと、あちこちの座席で人が身じろぎする気配。誰かが咳をした。誰かがスマートフォンの画面を点けて、その青白い光が一瞬、天井に映った。
透はリュックを膝の上に抱え直した。その中に、彼のこれからの生活のすべてが入っている——というのは大げさだけれど、少なくとも、当面のいちばん大事なものは入っていた。数枚の下着とシャツ、洗面道具、母が持たせた梅干しのタッパー、それから、財布と、印鑑と、まだ一度も使ったことのない、この街のアパートの鍵。
鍵は、昨日の昼に、不動産屋から郵便で届いたばかりのものだった。てのひらに乗せると、ひやりと冷たくて、なんだか本物とは思えなかった。この小さな金属の歯が、これから自分の帰る場所の扉を開けるのだと考えると、うれしいような、こわいような、名前のつけられない感じが胸の底で揺れた。
透は十八歳だった。この春、高校を出て、この街の小さな専門学校に入ることが決まっていた。入学は四月。まだ二週間あった。それより先に街に着いて、アパートを片づけて、アルバイトを見つけて、街の呼吸に慣れておこうと思ったのだ。誰もそんなに早く来なくていい、と母は言った。けれど透は、始まる前の、この誰も自分を知らない街に、ひとりで立ってみたかった。
なぜだかはうまく言えない。ただ、はじまりのいちばん最初の光を、自分ひとりで浴びてみたかった。
きのうの夕方、透は、あの、田んぼのあいだの一本道を歩いて、町の停留所まで行った。夜行バスは、町の外れの、コンビニの駐車場の隅から出ることになっていた。父は仕事で来られず、母だけが、透のリュックとは別に、そんなに要らないと言うのに、みかんの袋やら、握り飯やらを詰めた紙袋を、無理やり持たせようとして、けっきょく透に断られて、少し、しょんぼりしていた。
「困ったら、いつでも帰っておいで」と、母は、バスが来るまでのあいだ、何度も、同じことを言った。「無理は、しないでね。都会は、こわいところも、あるから」
透は、そのたびに、「わかってる」と、少しうるさそうに、答えた。ほんとうは、うるさかったのではない。ただ、あんまり母が心配そうな顔をするので、こっちまで、心細くなってしまいそうで、それが、こわかったのだ。強がっていないと、足が、動かなくなりそうだった。
バスが、駐車場に、大きな体を滑り込ませてきたとき、母は、ふいに、黙った。そして、透の腕を、一度だけ、ぎゅっと、握った。骨ばった、けれど、あたたかい手だった。畑仕事で荒れた、母の手。透が生まれてから十八年間、透のために働きつづけた手。その手の感触を、透は、いまも、腕に、覚えている。
「じゃあ」とだけ、透は言った。それ以上、何か言うと、声が、へんになりそうだった。
バスに乗り込んで、窓ぎわの席から見ると、母は、駐車場の、白い灯りの下に、ぽつんと、立っていた。バスが動きだしても、ずっと、そこに、立っていた。小さく、手を振っていた。透も、振り返した。バスがカーブを曲がって、母の姿が、コンビニの建物の陰に隠れて、見えなくなるまで、透は、窓に、顔を、押しつけていた。
そうして、透は、故郷を、離れた。
バスは、大きな駅の裏手のロータリーに滑り込んで、ゆっくりと停まった。
エアブレーキが、しゅう、と長いため息をついた。運転手が、車内灯を点ける。急に明るくなった車内で、乗客たちは、みんな少し気まずそうに目を細めて、それぞれの荷物を手繰り寄せていた。ひと晩じゅう、他人どうしが同じ箱の中で眠っていたことに、いま気づいたみたいに。
透は列に並んで、ゆっくりとステップを降りた。
外の空気を吸い込んだ瞬間、ぞくりとした。
冷たかった。三月の明け方の、まだ夜の底に沈んだままの冷たさ。けれど、それだけではなかった。故郷の冷たさは、土と、枯れた草と、遠くの雪の匂いがした。この街の冷たさは、金属と、コンクリートと、それから、かすかに、何かの排気の匂いがした。無機質な、けれど不思議と嫌ではない匂い。たくさんの人が生きて、動いて、それでもまだ眠っている、そういう街の、寝息のような匂いだった。
ロータリーには、透のほかにも、同じバスから降りた人たちがまばらに散っていた。スーツケースを引く音が、静かな明け方の空気に、からから、からから、と響く。誰も口をきかなかった。みんな、それぞれの目的地のほうへ、うつむいて歩いていく。
透は、その場に立ち止まったまま、しばらく空を見上げた。
まだ、暗かった。けれど、故郷にいたときには一度も見たことのない光景が、そこにあった。
見上げるほど高いビルが、四方を囲んでいた。首が痛くなるほど上を向いても、てっぺんが見えないくらいのビルもあった。その黒い壁面に、まばらに、消し忘れられたオフィスの灯りがともっている。誰かが、こんな時刻に、あの高いところでまだ働いているのだろうか。それとも、ただ消し忘れられただけなのだろうか。灯りのひとつひとつが、遠い星のように、けれど星よりもずっと人間くさく、ぽつり、ぽつりと、そこにあった。
透は、リュックの肩ひもを握りしめた。
——来てしまった。
そう思うと、急に、足の下の地面が、ぐらりと不確かなものに感じられた。ここには、自分を知っている人が、ひとりもいない。この何百万人だか何千万人だかの人間が生きている街で、透という名前を知っているのは、まだ、誰ひとりいなかった。
その心細さは、思っていたよりずっと、大きかった。
地図のアプリを頼りに、透はアパートのほうへ向かって歩き出した。
駅前の大通りは、ひとの姿もまばらだった。信号だけが、律儀に赤と青を変えていく。誰も渡らない横断歩道で、青信号が、ぴよ、ぴよ、と鳥のような音を鳴らしていた。透は、その音を聞きながら、なんだか可笑しくなった。誰もいないのに、ちゃんと鳥の声をまねている。この街は、律儀なのだ。誰も見ていなくても、決められたことを、きちんきちんと、やっている。
大通りから一本入ると、道は急に細くなった。両側に、雑居ビルや、シャッターの下りた飲食店や、まだ看板の灯りをつけたままの居酒屋が並んでいた。路上には、片づけられていないビールの空き瓶を入れたケースが積まれ、その脇に、酔って脱ぎ捨てたのか、片方だけの黒い手袋が、指を空に向けて落ちていた。もう片方は、どこへ行ったのだろう。透は、なぜだかその手袋のことが、少しのあいだ、頭から離れなかった。片方だけになってしまったものの、あの、置き去りにされた感じ。自分も、故郷から片方だけ、この街に落ちてきたようなものだ、とふと思った。
歩いているうちに、道に迷った。
正確には、迷ったというより、地図のなかの自分の位置が、くるくると回って定まらなくなったのだ。どちらが北なのか、わからない。故郷なら、山を見れば北がわかった。海を思えば南がわかった。けれど、ここには、山も海もなかった。ただ、四方を、同じ高さのビルが、同じような顔をして囲んでいた。方角というものが、この街では、ひどく頼りなかった。
透は、いったん立ち止まった。リュックが、じっとりと重かった。眠りの浅かった体が、しんと冷えていた。
そのとき、道の先に、明るい光が見えた。
コンビニだった。
まるで、暗い海のなかにぽつんと浮かんだ、灯台みたいだった。ガラス張りの店の中から、白くて均一な、まぶしいくらいの光が、あふれ出していた。その光は、故郷のコンビニとまったく同じ光だった。何百キロも離れたこの街で、故郷とまったく同じ、あの、真昼のように明るい光。それを見た瞬間、透の胸のなかで、張りつめていた何かが、ふっと、ゆるんだ。
透は、その光に、吸い寄せられるように歩いていった。
自動ドアが、間の抜けた電子音とともに開いた。
「いらっしゃいませ」
レジの奥から、声がした。
透は、あたたかい空気のなかへ、足を踏み入れた。エアコンの、乾いたぬくもり。おでんの、出汁の匂い。雑誌のインクの匂い。それから、耳になじんだ、あの入店チャイム。故郷のコンビニと、何ひとつ変わらなかった。ここだけは、この見知らぬ街のなかで、透の知っている世界と、地続きだった。
透は、あてもなく、店のなかをぐるりと回った。何を買うというあてもなかった。ただ、この明るさのなかに、もう少し、いたかった。飲み物の冷蔵ケースの前で足を止め、ずらりと並んだペットボトルを眺める。あたたかい缶コーヒーのケースの、ぼんやりした赤い光。
結局、透は、ホットの缶コーヒーをひとつと、それから、レジ横のあたたかいまんじゅうを、ひとつ、手に取った。
レジには、若い店員がひとり、立っていた。
透と、そう歳の変わらない青年に見えた。少し眠そうな、けれど、穏やかな目をしていた。名札には「ラウ」と、カタカナで書いてあった。この街のコンビニで働く、外国から来た人なのだろう、と透は思った。夜勤明けなのか、その顔には、ひと晩じゅう起きていた人の、独特の、うすい疲れがにじんでいた。けれど、その疲れは、荒れた感じではなく、なんというか、静かに凪いだ感じだった。
「あたためますか」
まんじゅうを差し出しながら、ラウが言った。少しだけ、独特の抑揚のある日本語だった。
「あ、はい」
「二百三十円です」
透が財布から硬貨を出そうとしたとき、指がかじかんでいて、うまく数えられなかった。百円玉が、ころんとカウンターの上を転がって、ラウのほうへ落ちた。
「あ、すみません」
「大丈夫」
ラウは、その硬貨を、指の長い手で、そっと拾い上げた。そして、透の顔を、ちらりと見た。
「……もしかして、いま、着いた?」
え、と透は顔を上げた。
ラウは、微笑んだ。
「バス。夜行バス。あの、大きい荷物と、あなたの、その顔」
「顔?」
「うん。はじめての街に、いま着いた人の、顔」
透は、どきりとした。そんなにわかりやすい顔をしていたのだろうか。けれど、そう言われて、なぜだか、恥ずかしいというより、ほっとした。この街で初めて、自分のことを、ちゃんと見てくれた人がいた。透という名前はまだ知らなくても、透が「いま、この街にやってきたばかりの人間だ」ということを、この人は、わかってくれた。
「そうです」と、透は言った。「今朝、着きました。……そんなに、わかりますか」
「わかる」
ラウは、まんじゅうを電子レンジに入れて、ボタンを押した。ぶうん、という低い音。回転する、まんじゅうの、ぼんやりした影。
「わたしも、そうだった。三年、前」
まんじゅうがあたたまるまでの、ほんの一分ほどのあいだに、ラウは、ぽつり、ぽつりと、話した。
自分も、三年前、遠い国から、ひとりでこの街に来たこと。飛行機を降りたとき、言葉が、ひとつもわからなかったこと。最初の夜、泊まるところが決まっていなくて、二十四時間営業のこのコンビニの、明るい光のなかで、朝まで、雑誌を読むふりをして過ごしたこと。
「あのとき、この店の光が、なかったら」と、ラウは言った。「わたし、たぶん、泣いてた」
透は、黙って、聞いていた。
「でも、光があった。だから、大丈夫だった。朝まで、ここにいたら、外が、明るくなった。それで、あ、朝が来る、って。朝が来たら、なんとかなる、って」
チン、と、電子レンジが鳴った。
ラウは、あつあつのまんじゅうを、薄い紙の袋に入れて、透に渡した。それから、あたたかい缶コーヒーも。
「はい。どうぞ」
「……ありがとうございます」
透は、その袋の、ほんのりしたぬくもりを、両手で受け取った。かじかんでいた指の先に、じんわりと、熱が伝わってきた。それは、思っていたよりずっと、ありがたい熱だった。
「あの」と、透は言った。「ちょっと、道に、迷ってて」
透は、アパートの住所を見せた。ラウは、それを見て、少し首をかしげてから、ああ、とうなずいた。
「近い。ここから、五分。あの信号を、右。それから、まっすぐ。パン屋さんの、角を、左」
「あの信号を、右。まっすぐ。パン屋さんの、角を、左」
透が復唱すると、ラウは、うんうん、とうなずいた。
「そう。すぐ。もう、着く」
もう、着く。
その言葉が、透の胸に、あたたかく落ちた。ひと晩じゅうバスに揺られ、見知らぬ街に降ろされ、道に迷っていた自分が、もう、着くのだ。帰る場所に。
透は、レジ袋を提げて、ドアのほうへ歩きかけた。それから、ふと足を止めて、振り返った。
「あの、ラウさん」
「ラウ、でいい」
「ラウさん。……ありがとうございました。あの、道だけじゃなくて」
ラウは、ちょっとだけ、きょとんとした顔をした。それから、また、あの静かな微笑みを浮かべた。
「うん」
「その、……着いたばかりの人を、見つけてくれて」
ラウは、少しのあいだ、透を見ていた。その眼のなかに、三年前の、ひとりぼっちで朝を待っていた自分の姿を、重ねているみたいだった。
「わたしも」と、ラウは言った。「あのとき、誰か、いてほしかった。だから」
だから、いま、あなたに。
そうは言わなかったけれど、透には、そう聞こえた。
ドアの、自動の音が、鳴った。別の客が、入ってきた。作業着を着た、大柄な男の人だった。おそらく、これから、朝の仕事に、出ていく人だろう。ラウは、透に、小さく、うなずいてから、「いらっしゃいませ」と、その人のほうへ、顔を向けた。もう、透ひとりの時間は、終わりだった。この街は、動きだしていた。ラウにも、ラウの、朝の仕事が、あった。
透は、レジ袋を提げて、店を出ようとして、もう一度、振り返った。ラウは、作業着の人の、たばこの銘柄を、棚から探しているところだった。その、背中。三年前、ひとりでこの街に来て、朝の光を待った青年の、いまの、背中。ちゃんと、この街で、生きて、立って、働いている、その背中を、透は、目に、焼きつけた。
いつか、自分も、あんなふうに、なりたい。この街の、朝の光の一部に。
二
外へ出ると、空が、変わりはじめていた。
透がコンビニに入ったときには、まだ夜の底のような紺色だった空が、いつのまにか、東のほうから、うっすらと白みかけていた。ビルとビルの、細い隙間の、いちばん低いところ。そこだけが、藍色から、灰がかった青へ、そしてほんのわずかに、桃色を溶かしたような色へと、じわじわと、明けていこうとしていた。
透は、缶コーヒーのプルタブを開けた。
ぷしゅ、という小さな音。立ちのぼる湯気。ひと口すすると、甘くて、熱くて、少しだけ、鉄みたいな味がした。その熱が、喉を通って、胃の底に落ちていくのが、はっきりとわかった。冷えきっていた体の芯に、小さな火が、ぽっと灯った。
透は、歩き出した。
言われたとおり、信号を右に曲がった。まっすぐ、歩いた。空は、一歩ごとに、明るくなっていくようだった。夜のあいだ、あれほど頼りなく、こわく感じられたビルの群れが、白みゆく空を背景にすると、少しずつ、輪郭を、やわらかくしていった。黒い壁だと思っていたものが、じつは、薄いグレーだったり、褪せたベージュだったりすることが、光のなかで、わかってきた。
どこかで、鳥が、鳴いた。
透は、はっとして、足を止めた。
こんな、コンクリートとアスファルトばかりの街にも、鳥がいるのか。すずめだろうか。故郷で毎朝聞いていた、あの、ちゅんちゅんという声。それが、ビルの、どこか高いところから、確かに、聞こえた。ひとつ、鳴くと、それに答えるように、別のところから、もうひとつ。それから、もうひとつ。明け方の鳥たちが、この巨大な街の、あちこちで、目を覚ましはじめていた。
透は、なんだか、泣きそうになった。
なぜだかは、わからなかった。ただ、鳥が鳴いていた。故郷でも、この街でも、同じように。夜が明ければ、どこでも、鳥は鳴くのだ。空は白むのだ。それは、あたりまえのことなのに、その、あたりまえのことが、いま、透の胸を、どうしようもなく、揺さぶった。
自分は、遠くへ来た。ひとりで、来た。けれど、朝は、ちゃんと、ここにも、来る。
透は、缶コーヒーを、両手で包んで、また、歩き出した。
道の端の、小さな植え込みに、透は、目を止めた。街路樹の根もとの、猫の額ほどの土に、名前も知らない、小さな草が、生えていた。その、細い葉の先に、露が、ひとつぶ、光っていた。街灯の、消えかけた最後の光を受けて、その一滴が、ちいさな、水晶みたいに、きらめいていた。
こんなところにも、露は、降りるのだ、と、透は思った。
コンクリートと、アスファルトばかりの、この、巨大な街のなかにも。人が、気づかない、道の隅の、小さな土のうえに。夜のあいだ、しずかに、露は、降りていた。そして、朝の光を受けて、いま、ひとつぶだけ、透に、見つけられた。透は、しゃがみこんで、しばらく、その一滴を、見つめた。息を、するのも、忘れそうなくらい、きれいだった。
故郷の、朝の、田んぼの露を、透は、思い出した。学校へ行く朝、あぜ道を歩くと、ズックの先が、露で、いつも、濡れた。母に、「また靴を濡らして」と、叱られた。あの、当たり前だった露が、いま、この街の、道の隅で、たったひとつぶ、透を、待っていてくれたみたいだった。
大丈夫だ、と、透は思った。
露のあるところなら、きっと、生きていける。
透は、立ち上がって、また、歩いた。
パン屋の角を左に曲がると、そこは、静かな住宅街の路地だった。
急に、街の顔が変わった。大通りの喧噪も、ネオンも、ここにはなかった。古びた木造のアパートや、小さな一軒家が、肩を寄せ合うように並んでいた。誰かの家の窓に、ぽっと、灯りがともった。台所の灯りだろう。この街にも、ちゃんと、朝ごはんを作る人がいて、朝が始まっていくのだ、と透は思った。
透のアパートは、その路地の、いちばん奥にあった。
二階建ての、古い、けれど、こざっぱりとしたアパートだった。「メゾン・ひばり」という、少し気取った名前が、色褪せたプレートに書いてあった。透の部屋は、二階のいちばん端、二〇三号室だった。
透は、鉄の外階段を、一段ずつ、のぼった。かん、かん、と、透の足音が、明け方の静けさに、思ったより大きく響いた。二〇三号室のドアの前に立って、リュックの中から、あの、冷たい鍵を取り出した。
てのひらの上で、鍵は、もう、冷たくなかった。透の体温を、いつのまにか、吸っていた。
鍵を、鍵穴に差し込む。少しだけ、固かった。ぐっと力を入れて回すと、ごとり、と、思いのほか重たい手ごたえがあって、錠が、開いた。
ドアを、開けた。
がらんとした、六畳ほどの部屋だった。何もなかった。家具も、カーテンも、まだ何もない。ただ、東向きの窓から、明けはじめた空の光が、床の上に、四角く、差し込んでいた。畳の目が、その光のなかで、くっきりと見えた。埃が、光の帯のなかを、きらきらと、舞っていた。
透は、靴を脱いで、部屋に上がった。
床は、ひやりと冷たかった。けれど、その、何もない部屋の冷たさは、不思議と、嫌ではなかった。ここが、これから、自分の場所になる。この、何もない四角い空間に、これから、自分の暮らしを、ひとつずつ、置いていくのだ。
透は、部屋の、まんなかに、しばらく、立っていた。
がらんとした部屋は、しんと、静かだった。けれど、耳をすますと、いろんな音が、聞こえてきた。壁の、向こうの、隣の部屋で、誰かが、水を、使っている音。上の階で、誰かが、歩く、かすかな足音。遠くの、大通りの、車の音。そして、また、あの、鳥の声。この、薄い壁の、すぐ向こうに、たくさんの、他人の暮らしが、息づいていた。透は、そのなかの、ひとつになったのだ。誰も、透を知らない。けれど、透は、もう、この、大きな建物の、大きな街の、暮らしの、ひとつの部屋を、たしかに、占めていた。
新しい畳の、青い匂いがした。それから、まだ、誰も暮らしていない部屋の、乾いた、少し埃っぽい匂い。この匂いを、透は、たぶん、一生、忘れないだろうと思った。はじまりの、匂い。何もない、けれど、これから、すべてが始まる、部屋の、匂い。
透は、窓辺に立った。
窓の外には、さっき歩いてきた街が、広がっていた。低い屋根の連なりの、その向こうに、都心の高層ビル群が、朝もやのなかに、青くかすんで、そびえていた。ビルとビルのあいだの、細い、細い隙間。ちょうど、二本のビルにはさまれた、その、縦に長い空の切れ端。
透は、そこに、光の筋を、見た。
はじめ、飛行機雲かと思った。
けれど、飛行機雲にしては、それは、細くて、鋭くて、そして、青白かった。ビルとビルの隙間の、白みゆく空の、いちばん高いところ。そこに、一本の、蒼い光の尾が、すっと、引かれていた。
彗星だ、と、透は思った。
そういえば、と、透は思い出した。故郷の町の、公民館の掲示板に、貼り紙があった。何日か前から、ミラ彗星というのが、明け方の空に見えるのだと。何十年に一度、めぐってくるのだと。母が、それを指さして、「透が街に行く朝に、ちょうど見えるかもしれないねえ」と、言っていた。
その、彗星だった。
こんな、光にあふれた大都会の、無数のネオンと、無数のオフィスの灯りに、負けないで。ビルとビルの、あの細い隙間の、そのまた奥の、いちばん遠い空に。蒼く、長い尾を引いて、ミラ彗星は、そこに、あった。
けれど、それは、消えかけていた。
空が、白んでいくにつれて、その蒼い光は、みるみる、薄れていった。夜のあいだは、あんなにはっきりと見えていただろうその尾が、いま、朝の光に、溶けていく。まるで、砂糖が、あたたかい水に溶けるように。あるいは、夢が、目覚めの光のなかで、消えていくように。
透は、まばたきもせず、それを、見つめた。
見ていてはいけない、と、どこかで思った。まばたきをしたら、次に目を開けたときには、もう、消えているような気がした。だから、目を、見開いたまま、その、消えていく最後の光を、見送った。
夜の、最後の光だった。
ひと晩じゅう、透を、あの夜行バスの窓から、見守ってくれていたのかもしれない、と、透は思った。故郷から、この街まで。九時間の、あの、暗い高速道路の上を。ずっと、あの蒼い星は、空の隅に、いてくれたのかもしれない。そして、いま、透が、無事に、この街の、自分の部屋の窓辺に、たどり着いたのを、見届けて。
夜が、明ける。
彗星は、その夜と、いっしょに、消えていこうとしていた。
透が、まばたきを、ひとつ、した。
次に目を開けたとき、ビルの隙間の空は、もう、すっかり、白かった。蒼い尾は、どこにも、なかった。ただ、雲ひとつない、あさぎ色の空が、そこに、あるだけだった。
三
透は、リュックを、床に下ろした。
そして、中身を、ひとつずつ、取り出しはじめた。まだ、何を先にするというあてもなかった。ただ、この、何もない部屋に、自分の持ち物を、ひとつずつ、置いていくのが、なぜだか、無性に、したいことだった。
シャツを、たたんで、窓辺に置いた。洗面道具を、部屋の隅に、まとめて置いた。母が持たせた梅干しのタッパーを、これはどこに置いたものか少し迷ってから、これも、窓辺に、そっと置いた。
そして、リュックの、いちばん底から、それは、出てきた。
小さな、マッチ箱だった。
藍色の、きれいな箱。表には、細い三日月が、金色の線で、刻んであった。「月光堂」と、古めかしい書体で、書いてあった。
透は、それを、てのひらに乗せた。
故郷の町の、外れに、月光堂という、古い雑貨屋があった。透が子どものころから、そこにあった。もう、ほとんど客も来ないような、ひっそりした店だった。母は、ときどき、そこで、こまごまとしたものを買った。ろうそく。線香。それから、このマッチ。
出発の日の朝、母は、このマッチ箱を、透のリュックの底に、そっと、入れた。
「都会のアパートは、火なんか、使わないかもしれないけどねえ」と、母は言った。「でも、ひとつ、持っておゆき。……なんだか、心細くなったら、火をつけてごらん。小さくても、火があると、ちょっと、ちがうから」
そのときは、透は、なんとなく、うなずいただけだった。マッチなんて、いまどき、使うことがあるだろうか、と思った。ライターのほうが、便利だ。スマートフォンにだって、明かりはある。
けれど、いま、この、何もない部屋の、白みゆく光のなかで、透は、そのマッチ箱を、じっと、見つめていた。
箱を、開けてみた。
なかには、軸の赤いマッチが、きちんと、並んでいた。ひとつ、取り出して、箱の横の、ざらざらしたところに、こすってみた。
じっ、と、ためらってから、ぽっ、と、小さな火が、灯った。
朝の光のなかでは、その火は、ずいぶん、頼りなかった。オレンジ色の、小さな、小さな炎。窓から差し込む、あかるい朝の光に、その火は、ほとんど、透けて、見えるくらいだった。ちょうど、さっきの、消えていった彗星みたいに、朝の光のなかで、消え入りそうな、けれど、確かに、そこにある、火。
透は、その、小さな火を、見つめた。
そして、母の、あの言葉を、思い出した。
——小さくても、火があると、ちょっと、ちがうから。
ほんとうだ、と、透は思った。
こんな、何もない部屋の、こんな、あかるい朝の光のなかでさえ、この、たった一本のマッチの火は、たしかに、部屋の空気を、ほんの少し、あたためた。透の、まだ心細い胸の底を、ほんの少し、あたためた。母の手が、この火を、ここまで、運んでくれたような気がした。
火は、軸を、じりじりと、燃やしていった。
指のところまで、火が近づいて、透は、ふっと、それを、吹き消した。
細い煙が、一筋、朝の光のなかを、ゆらゆらと、立ちのぼった。硫黄の、なつかしい匂い。故郷の、月光堂の、あの、うす暗い店先の匂い。母の、朝の、台所の匂い。
透は、燃えさしのマッチを、そっと、窓辺の、タッパーの横に、置いた。
それから、透は、しばらく、窓辺に、座っていた。
膝を抱えて、白んでいく空を、ぼんやりと、眺めていた。
鳥の声は、さっきより、ずっと、増えていた。あちこちで、ちゅんちゅん、と、鳴いている。すずめだけではなかった。ときどき、ぴいーっ、と、鋭く、高く鳴く鳥もいた。どこかで、からすが、かあ、と、一度だけ、鳴いた。街が、目を、覚ましていく。
遠くで、電車の走る音がした。ごとごとと、規則正しい、あの音。まだ、始発だろうか。それとも、貨物だろうか。その音を聞いていると、透は、この街の、大きな体が、ゆっくりと、動きはじめるのを、感じた。何百万もの人が、これから、目を覚まし、顔を洗い、朝ごはんを食べ、それぞれの一日を、始めていく。透も、そのなかの、ひとりに、なるのだ。
透は、ふと、あの子守唄を、思い出した。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで——。
母が、透が小さいころ、寝つけない夜に、よく歌ってくれた歌だった。星が、海をわたるまで、眠れ、と。子どものころの透は、その歌の意味が、よくわからなかった。星は、空にあるのに、どうして、海を、わたるのだろう、と。
けれど、いまは、なんとなく、わかる気がした。
星が、海をわたる。夜のあいだ、空を、ゆっくりと、めぐっていく。そして、朝になれば、その星は、光の海の向こうへ、わたっていって、見えなくなる。さっきの、彗星みたいに。星が、海を、わたりきったとき——つまり、朝が、来たとき——眠りは、終わる。
透は、もう、眠くはなかった。
九時間、バスに揺られて、ろくに眠れなかったはずなのに。心は、しんと、澄んで、目は、冴えていた。まるで、いままでの十八年間の、長い、長い眠りから、いま、ようやく、目を覚ましたみたいだった。
眠りが、終わったのだ。
母の子守唄は、透を、眠らせるための歌だった。けれど、いま、透の胸のなかで、その歌は、逆の意味で、鳴っていた。星が、海を、わたりきった。だから、もう、目を覚ましなさい。ここから、始めなさい、と。
四
腹が、ぐう、と、鳴った。
透は、思い出したように、あの、コンビニのレジ袋を、引き寄せた。まんじゅうは、もう、すっかり、冷めていた。けれど、袋の底には、まだ、ほんのりとした、ぬくもりが、残っていた。
透は、まんじゅうを、袋から出して、ひと口、かじった。
あんこの、素朴な甘さが、口のなかに、広がった。冷めてはいたけれど、しっとりとして、やさしい味がした。透は、窓辺に座って、朝の光を浴びながら、そのまんじゅうを、ゆっくりと、食べた。この街で食べる、いちばん最初の食事だった。まんじゅうひとつと、缶コーヒーひとつ。けれど、それは、透にとって、どんなごちそうよりも、忘れられない、朝ごはんになった。
食べながら、透は、ラウのことを、思い出した。
あのラウも、三年前、ひとりで、この街に、来た。言葉も、わからないまま。泊まるところも、決まらないまま。そして、あの、コンビニの光のなかで、朝を、待った。外が、明るくなるのを、待った。
そして、いま、ラウは、あのレジに、立っている。この街の、明け方の、灯台みたいな、あの光のなかに。ひとり、遠い国から来た誰かが、道に迷って、心細い顔をして、あの光に、吸い寄せられてくるのを、待つように。
透は、思った。
自分も、いつか、そうなれるだろうか。この街に、慣れて、この街の、誰かにとっての、あの、あたたかい光に。誰かの、いちばん心細い朝に、「もしかして、いま、着いた?」と、声を、かけてやれる、そんな人に。
まだ、わからなかった。
透は、この街の、何も知らなかった。地図の、北も、南も、わからなかった。友だちも、まだ、ひとりもいなかった。専門学校が、どんなところなのかも、これから見つけるアルバイトが、うまくいくのかも、何も、わからなかった。
心細さは、まだ、胸の底に、ちゃんと、あった。
けれど、それと、同じくらい、いや、もしかしたら、それより、少しだけ、大きく——胸の、もっと奥のほうで、何かが、とくとくと、脈打っていた。
高鳴り、というのだろうか。
これから、始まる。何もかもが、これから。この、何もない部屋に、これから、暮らしが、生まれる。この、見知らぬ街の、無数の路地の、どこかに、これから、透の、居場所ができる。まだ会っていない、たくさんの人と、これから、出会う。
それは、こわいことだった。けれど、それは、たまらなく、わくわくすることでも、あった。
透は、缶コーヒーの、最後のひと口を、飲みほした。
もう、ぬるくなっていた。けれど、その、ぬるさが、なぜだか、いとおしかった。
窓の外の空は、すっかり、明けていた。あさぎ色は、いつのまにか、澄んだ、うすい水色に、変わっていた。ビルの、いちばん高いところの窓ガラスが、どこかで昇りはじめた朝日を受けて、きらり、と、光った。ひとつ、光ると、それが、隣のビルに、映って、また、光った。ガラスと、ガラスが、光を、投げ合っていた。街じゅうの、無数の窓が、朝日を、受けて、いっせいに、目を覚まそうとしていた。
透は、立ち上がった。
窓を、開けた。
朝の空気が、どっと、部屋に、流れ込んできた。冷たくて、けれど、もう、夜の底の冷たさとは、違っていた。どこか、みずみずしい、生まれたての、朝の冷たさ。その空気は、露の匂いがした。こんな、コンクリートの街にも、どこかに、露が、降りているのだ。植え込みの、葉っぱの上に。誰かの家の、鉢植えの土の上に。透の見えないところで、この街の、小さな緑が、朝の露に、光っているのだ。
透は、大きく、息を、吸った。
胸いっぱいに、この街の、朝の空気を、吸い込んだ。
これが、この街の、朝だ。透の、新しい生活が始まる、この街の、いちばん最初の、朝の空気だ。
透は、それを、体じゅうに、しみ込ませた。
窓辺の、燃えさしのマッチが、朝風に、ころり、と、転がった。
透は、それを、拾い上げて、藍色のマッチ箱の、隣に、そっと、置き直した。三日月の刻まれた、母の、月光堂のマッチ箱。それは、この、何もない部屋の、いちばん最初の、家具のようだった。故郷から、透といっしょに、この街へ、やってきた、たったひとつの、火の、記憶。
これから、この部屋に、いろんなものが、増えていくだろう。机が来て、布団が来て、カーテンが下がって、本が並んで、そのうち、写真の一枚も、飾られるかもしれない。友だちが、遊びに来るかもしれない。誰かと、この窓辺で、いっしょに、朝を、迎える日が、来るかもしれない。
けれど、いちばん最初に、この部屋に、置かれたのは、この、小さな、マッチ箱だった。
透は、それを、大切な、お守りみたいに、しばらく、見つめていた。
やがて、透は、リュックを、空にして、それを、床の、隅に、置いた。
そして、もう一度、窓辺に、立った。
眼下の路地では、もう、人が、動きはじめていた。制服を着た人が、駅のほうへ、足早に、歩いていく。自転車のベルが、りん、と、鳴った。どこかの家の、ドアが、開いて、閉まる音。犬を連れた老人が、ゆっくりと、散歩していく。この街の、ふつうの、一日が、透の、見ている前で、始まっていた。
透は、その、街の朝を、見おろしながら、思った。
自分は、ここに、来た。
ひとりで、夜行バスに乗って。故郷を、離れて。誰も、自分を知らない、この、巨大な街に。ゆうべ、ロータリーに、降り立ったときには、足の下の地面が、あんなに、頼りなく、感じられた。心細さで、押しつぶされそうだった。
けれど、朝は、来た。
彗星は、消えた。夜は、明けた。鳥が、鳴いた。マッチの火は、灯った。まんじゅうは、あたたかかった。ラウは、「もう、着く」と、言ってくれた。
そして、いま、透は、自分の部屋の、窓辺に、立って、この街の、朝を、見ている。
心細さは、消えていなかった。けれど、その心細さは、もう、ゆうべの、あの、押しつぶされそうな心細さとは、少し、違っていた。それは、これから始まる、長い、長い旅の、いちばん最初の、朝の心細さ。誰もが、はじまりの朝には、こうして、少しだけ、心細くて、そして、少しだけ、胸を、高鳴らせているのだろう。ラウも、そうだった。きっと、この街に来た、何百万もの人が、みんな、それぞれの、はじまりの朝に、この、同じ、心細さと、高鳴りを、抱えていたのだ。
透は、ひとりでは、なかった。
この街の、朝の光のなかに、透は、たしかに、いた。
透は、ふと、故郷の、母の顔を、思い浮かべた。
いまごろ、母も、あの、田んぼの向こうの、低い家の台所で、朝ごはんの、支度を、しているだろう。もしかしたら、ゆうべ、透の乗った夜行バスのことを、心配して、あまり、眠れなかったかもしれない。そして、今朝、あの、故郷の、黒々とした空が、白んでいくのを、見ながら、透のことを、思っているかもしれない。
無事に、着いただろうか、と。
透は、スマートフォンを、取り出した。そして、母に、短い、メッセージを、送った。
「着いたよ。部屋も、ちゃんとあった。彗星、見えた。マッチ、ありがとう」
送信ボタンを、押すと、それは、この街の、朝の空を、そして、山と、川と、田んぼを、越えて、故郷の、母のところへ、飛んでいった。すぐに、返事は、来ないかもしれない。母は、まだ、電話に、気づかないかもしれない。それでも、いい、と、透は思った。この、透の、いちばん最初の朝を、誰かに、伝えられた。それだけで、よかった。
透は、スマートフォンを、しまった。
そして、両手を、ぐっと、上に、伸ばして、大きく、伸びを、した。
体の、あちこちが、ぽきぽきと、鳴った。九時間、縮こまっていた体が、ようやく、ほどけていくようだった。透は、ふう、と、長い、息を、ついた。
さあ、と、透は思った。
何から、始めよう。まずは、布団を、買いに行こうか。それとも、掃除道具か。近所を、歩いて、あのパン屋の、パンを、買ってみようか。ラウのいる、あのコンビニに、また、行ってみようか。「昨日は、ありがとう」と、もう一度、言いに。
やることは、山ほど、あった。何も、決まっていなかった。地図も、まだ、頭に、入っていなかった。
けれど、透は、もう、こわく、なかった。
窓の外の空は、いつのまにか、まぶしいくらいの、朝に、なっていた。
ゆうべ、あんなにこわかった、あの、高層ビルの群れが、いまは、朝日を浴びて、白く、きらきらと、輝いていた。ビルとビルの、あの、細い隙間。ゆうべ、蒼い彗星が、消えていった、あの空。そこには、もう、彗星は、なかった。けれど、そのかわりに、その隙間から、まっすぐに、一筋の、朝日が、差し込んできて、透の、まだ何もない部屋の、床の上に、あかるい、あたたかい、光の帯を、つくっていた。
透は、その、光の帯のなかに、そっと、足を、踏み入れた。
てのひらを、ひらいて、その光を、受けた。
あたたかかった。
それは、消えていく夜の光ではなかった。これから、昇っていく、朝の光だった。透の、これから始まる、何千という朝の、そのいちばん最初の、朝の光だった。
透は、その光のなかで、目を、閉じた。
まぶたの裏が、あかるい、オレンジ色に、なった。
そして、透は、もう一度、目を、開けた。
——おはよう、と、透は、小さく、声に出して、言ってみた。
この、街に。この、朝に。この、まだ何も始まっていない、けれど、たしかに、始まろうとしている、自分の、新しい一日に。
窓の下の路地で、また、鳥が、鳴いた。
まるで、透の「おはよう」に、答えるみたいに。