戻りの刻
露が光りはじめる少し前に、山は息を吸いこむ。
それはほんとうに、ひとつの生きものの呼吸に似ていた。夜のあいだ谷の底にたまっていた冷たい空気が、東の稜線がわずかに白むころ、するりと持ちあがっていく。木々が身をゆすり、笹の葉から夜のしずくがこぼれ、名も知らぬ鳥が最初のひと声を投げる。その、山がひとつ大きく息を吸いこむ刻に、この村では、死んだ者が帰ってくる。
年に一度、その明け方だけ。
わたしはその夜、眠らなかった。眠らないと決めていたわけではない。母を待つ子どもが、どうして眠れるだろう。囲炉裏の残り火が、灰の下でちいさく息づいていた。わたしはその赤みを見つめながら、板戸のむこうの闇が、少しずつ色を変えていくのを待っていた。闇はまず藍になり、それから鼠になり、いちばん奥のほうから、ほのかな青みが滲みだしてくる。その青みが来たら、山が息を吸う。そうしたら、母が帰ってくる。
村の年寄りたちは、その明け方を「戻りの刻」と呼んだ。
一
母が死んだのは、去年の秋のことだ。
秋といっても、この山あいの村では、麓の里よりずっと早く冬の匂いが来る。栗の毬がはじけ、蕎麦の花が白く散り、朝に霜が降りるようになったころ、母は薪を割っていて、ふいに斧を取り落とした。手がしびれるといって、母はそのまま板の間に横になった。それから三日、母は熱を出したり引いたりを繰り返し、四日めの明け方に、静かに息をしなくなった。
わたしは十歳だった。父はいない。父がどこにいるのか、どうしていないのか、母は最後まで話さなかったし、わたしも尋ねなかった。この村では、いない者のことをあまり尋ねない。いる者と、いない者と、そのあいだにいる者と――村はそういうふうに、静かに分かれていた。
母を焼いたのは、村はずれの、川の曲がるところにある焼き場だった。煙が細くまっすぐに立ちのぼって、その日はよく晴れていて、煙は青い空にのぼりきると、そのまま溶けて消えた。わたしは煙が消えるまで、そこに立っていた。骨を拾うとき、村の老婆が、母ののどぼとけの骨を、そっとわたしの手のひらにのせてくれた。ちいさな、仏さまが座っているような形の骨だった。あたたかいのか冷たいのか、わからなかった。
「よう泣かん子やな」と老婆は言った。責めているのではなかった。ただ、そう見えたのだろう。
わたしは泣かなかった。泣けなかったのだと思う。母がいなくなったということが、あまりに大きすぎて、涙のかたちに縮まってくれなかった。かなしみというものは、ちいさければちいさいほど、たやすく涙になる。ほんとうに大きなかなしみは、からだの奥にただ重く沈んで、そこにあるのかどうかさえ、しばらくのあいだ、自分でもわからなくなる。
母がいなくなってから、わたしは母の使っていたものに、いちいち躓くようになった。
流しのわきにかけられた、片方だけの手袋。母が畑仕事に使っていた、藍色の木綿の手袋だ。もう片方はどこへいったのか、いつからか、片方だけがそこにかかっていた。母はそれを、右手だけにはめて、左手は素手で仕事をしていた。「片方だけでも、あると助かるんよ」と母は言った。「大事なほうの手を、守ってくれるからね」母にとって大事な手が右だったのか左だったのか、わたしはついに聞かなかった。片方だけの手袋は、母が死んだあとも、そこにかかったままだった。わたしはそれを、外すことができなかった。外してしまったら、母がほんとうに、片方きりでこの世に残していったものを、わたしが握りつぶしてしまうような気がした。
母の茶碗。母の枕。母がいつも座っていた、囲炉裏の左の座。
それらは、母がいたことの証であると同時に、母がもういないことの証でもあった。わたしは家のなかを歩くたびに、その二つの証のあいだを、行ったり来たりした。
ひと月がたち、ふた月がたった。麓では里の暮らしがあり、村には村の暮らしがあり、暮らしというものは、誰かがいなくなっても、ずうずうしいほど続いていく。わたしは母がしていたように、朝に火を熾し、水を汲み、鶏に餌をやった。母の見よう見まねで、母のしていたことをなぞった。なぞっているうちは、母がすぐそこにいるような気がした。けれど、なぞり終えて、ふと手が空くと、そこにぽっかりと、母のかたちをした穴があいていた。
その穴に、わたしはいつまでも慣れなかった。
二
戻りの刻のことを教えてくれたのは、隣家のトメばあだった。
トメばあは、村でいちばんの年寄りだった。いくつになるのか、本人も覚えていないという。腰が曲がって、目は白く濁っていたけれど、耳はよく聞こえたし、昔のことなら、なんでも知っていた。母が死んでからというもの、トメばあはよくわたしの家に来て、囲炉裏のそばに座り、しゃがれた声でいろいろな話をしていった。
冬が来て、雪が谷を白く埋め、そして春が来て、雪がとけ、山桜がひっそりと咲いて散ったころ、トメばあはある夕方、いつになく改まった声で言った。
「もうすぐやな」
「なにが」とわたしは尋ねた。
「戻りの刻や」トメばあは、白く濁った目を、板戸のむこうの空へ向けた。「彗星が出る。あの、蒼い長い尾の星がな。あれが夜空を横切るころ――ちょうどその、明け方や。死んだもんが、いっぺんだけ帰ってくる。この村は、昔からそういう土地なんよ」
わたしは、トメばあが呆けたのかと思った。死んだ者が帰ってくる、などということが、あるはずがない。母を焼いたのは、ほかならぬわたしだ。のどぼとけの骨を、この手で拾った。
「信じられんか」とトメばあは笑った。歯のない口が、やわらかく開いた。「わしも、はじめは信じんかった。けどな、わしの母も、わしの前に帰ってきた。わしの連れ合いも、いっぺん帰ってきよった。年に一度、彗星の出る明け方だけ。空が白むまでのあいだだけな。夜が明けたら、また行ってしまう。それでも――いっぺんでも会えるいうのは、ありがたいことやで」
「どうして、明け方だけなの」
「さあな」トメばあは首をかしげた。「死んだもんはな、いっとう深い夜の底におるんやろ。ほんで、夜が明けるいうことは、その底から、いっぺん浮きあがってこられるいうことなんやないか。ちょうど、水の底におった魚が、明け方に水面まで上がってくるみたいにな。けど、日が高うなったら、また底へ戻らんならん。まぶしすぎて、おられんのやろ」
わたしは、母が水の底にいるところを想像した。冷たくて、暗くて、静かなところ。母は寒がりだった。冬になると、いつも手足が冷たいといって、火のそばを離れなかった。そんな母が、こんなに長いあいだ、暗い水の底で寒い思いをしているのかと思うと、胸のなかの、あの重く沈んでいたものが、ふいに揺れた。
「トメばあ」とわたしは言った。「母さんも、帰ってくる?」
「帰ってくるさ」トメばあは、わたしの頭に、皺だらけの手をのせた。「まだ死んで一年もたっとらん。いちばん、帰ってきたがっとる時分や。おまえに会いに、きっと帰ってくる。――ええか、その夜は、眠るんやないで。戸を、細う開けとくんや。それから、火を絶やすな。帰ってきたもんは、火のあるほうへ、迷わず来るゆうからな」
その夜から、わたしは彗星を待った。
三
彗星は、それから七日めの明け方に、はじめて空に出た。
わたしは板戸の隙間から、空をうかがっていた。まだ暗い、いちばん深い時刻だった。東の稜線の、そのまた奥のほうから、細い、蒼白い光の筋が、音もなく夜空を横切っていた。それは、天のどこかから、だれかがそっと引いた一本の線のようだった。星というには長すぎ、雲というには鋭すぎた。蒼く、冷たく、けれどどこか、なつかしい光だった。
その光を見たとたん、わたしは息をのんだ。理由はわからない。ただ、その光が、ずっと昔から知っているもののような気がした。生まれるよりも前から知っていたもの。母の胎のなかで、まだ目も開かないうちから、聞いていた音のようなもの。
彗星は、夜のいちばん奥に、しばらくとどまっていた。それから、東の空が少しずつ白みはじめると――蒼い尾は、その白さのなかに、ゆっくりと溶けていった。氷が水に溶けるように。息が空に消えるように。あんなにはっきりと見えていた光が、白んでゆく空に少しずつ吸われて、うすくなり、やがて、どこにあったのかもわからなくなった。
それは、この長い夜の、いちばん最後の光だった。
彗星が消えると同時に、山が息を吸った。
ほんとうに、山がひとつ、大きく息を吸ったのだ。谷の底の冷たい空気が、するりと持ちあがり、木々がざわめき、笹の葉から夜のしずくがこぼれ落ちた。露が、あちこちで、ちいさく光りはじめた。まだ日は出ていない。けれど、世界は明らかに、夜のものではなくなっていた。うすい、乳色の光が、すべてのものの輪郭を、やわらかくふちどっていた。
そのとき、庭のほうで、露を踏む音がした。
さく、さく、と。
草の露を、だれかが踏んでくる音だった。わたしは板戸に手をかけたまま、動けなかった。心臓が、耳のうしろで鳴っていた。音は、まっすぐに、火のあるほうへ――囲炉裏のあるこの家のほうへ、近づいてきた。
「――ただいま」
戸のむこうで、声がした。
母の声だった。
四
戸を開けると、そこに母が立っていた。
明け方の、うすい光のなかに、母は立っていた。死んだときのままの、藍の野良着を着ていた。髪は、いつものように、うしろでひとつに束ねていた。顔は、少しやつれて見えたけれど、まちがいなく母だった。母は、露に濡れた庭に立って、少し困ったような、けれどうれしそうな顔で、わたしを見ていた。
「大きゅうなったなあ」と母は言った。
たった半年で、子どもがそんなに大きくなるはずもないのに、母はそう言った。あるいは、死んだ者の目には、生きている者の時間が、もっと速く流れて見えるのかもしれない。半年が、母にとっては、何年にも感じられたのかもしれない。
わたしは、なにも言えなかった。言いたいことは、胸のなかに山のようにあったのに、そのどれもが、のどのところでつかえて、出てこなかった。かわりに、わたしは母に駆け寄って、その野良着にしがみついた。
母のからだは、あたたかかった。
それが、いちばん不思議だった。死んだ者は冷たいものだと、わたしは思っていた。けれど母のからだは、生きていたときとおなじように、あたたかかった。野良着からは、母のにおいがした。土と、薪の煙と、それから、母だけが持っている、あのやわらかいにおい。わたしはそのにおいを、胸いっぱいに吸いこんだ。吸いこんでも吸いこんでも、足りなかった。
「さむいなあ」と母は言った。「なかへ、入れてくれるか」
わたしたちは、家のなかへ入った。囲炉裏の火は、消えずに息づいていた。トメばあの言いつけどおり、わたしは一晩じゅう、火を絶やさなかった。母は、いつもの座――囲炉裏の左の座に、ゆっくりと腰をおろした。その半年のあいだ、ずっと空いていた座に、母がいる。それだけのことが、わたしには、信じられなかった。
「火を、絶やさんかったんやな」と母は言った。「えらいなあ。おかげで、迷わず来られた。火のないほうへは、どうしても足が向かんのよ。冷たいところは、もう、たくさんやからな」
母は、火に手をかざした。細い、白い手だった。生きていたときより、少し細くなったようだった。その手を、わたしは見つめた。ああ、この手だ、と思った。わたしの頭を撫でた手。わたしの熱を計った手。斧を握って、薪を割った手。片方だけの手袋を、右手にはめていた手。
わたしは、流しのわきにかかったままの、片方だけの手袋のことを思い出した。
「母さん」とわたしは言った。「手袋、まだ、かかったまま」
母は、そちらを見た。それから、ふっと笑った。
「そうか。まだ、かけといてくれたんか」母の声が、少し湿った。「あれはな――もう片方は、川に流したんよ。おまえが、まだ小さいときにな。おまえが川で遊んでて、あぶないところやった。手袋の、片方が流されてな。もう片方だけ、残ったんや。けど、わしは、それをずっと使うとった。片方きりの手袋でも、あると助かる。それにな――」
母は、そこで言葉を切った。それから、火を見つめたまま、静かに続けた。
「片方だけになったものは、な。もう片方を、ずっと待っとるみたいで、捨てられんかったんよ。いつか、めぐり会えるような気がしてな」
わたしは、その言葉の意味を、そのときはよくわからなかった。片方だけになったもの。もう片方を、ずっと待っている。――それが、母とわたしのことだと気づいたのは、もっとあとになってからだった。
五
夜が明けるまでの、みじかい時間を、わたしたちはいっしょに過ごした。
母は、いろいろなことをした。まず、火にかけた鍋で、粥を炊いた。「腹が減っとるやろ」と母は言った。死んだ者が、生きている子のために、粥を炊く。それは奇妙なことのはずなのに、そのときのわたしには、この世でいちばんあたりまえのことのように思えた。母は、いつものように、粥に少し塩を入れ、それから、庭の隅に生えている、名も知らぬ青菜を摘んできて、刻んで入れた。粥は、母の炊く粥の味がした。半年ぶりの、母の味だった。
粥を、ひとくち、口にはこんだ。あたたかかった。舌の上で、塩のかどが、やわらかくほどけた。青菜の、かすかな苦みが、そのあとに来た。半年のあいだ、わたしは、自分で炊いた粥ばかりを、食べてきた。水加減がわからず、べちゃべちゃになったり、逆に、芯が残ったり。母の粥は、そのどちらでもなかった。米の一粒一粒が、ちょうどよく、ふくらんでいた。どうして、こんなに、ちがうのだろう。おなじ米、おなじ鍋、おなじ火なのに。母の手が通ると、どうして、こんなに、ちがうのだろう。わたしは、その理由が、知りたくて、けれど、聞けなかった。聞いてしまったら、この時間が、勉強のように、なってしまう気がした。いまは、ただ、母の炊いた粥を、味わっていたかった。
わたしが粥を食べているあいだ、母は、わたしの顔をじっと見ていた。まばたきも、惜しむように。半年ぶりに会う、わが子の顔を、母は、一つ残らず、目に灼きつけようとしているようだった。わたしが、母の顔を、覚えていたいと思ったのと、おなじように。生きている者と、死んでいる者と、どちらが、より切実に、相手の顔を、覚えていたいと願うのだろう。わたしには、わからなかった。ただ、母の目が、あんまり、まっすぐに、わたしを見ているので、わたしは、少し、はずかしくなって、粥の椀に、目を落とした。
「よう、ひとりで、やってきたなあ」と母は言った。「火を熾して、水を汲んで、鶏に餌をやって。ぜんぶ、わしのしとったことを、覚えとったんやな」
「見てたの?」とわたしは尋ねた。
母は、少し困ったように笑った。「見とった、ような気もするし、見とらんかった、ような気もする。死んだもんの見るものは、夢に似とってな。はっきりせんのよ。けど――おまえが、囲炉裏の火を、毎晩、だいじに守っとったのは、知っとる。それだけは、はっきり、わかる」
わたしは、粥を食べる手を止めた。
「母さん」とわたしは言った。「寒くないの。水の底は、冷たいって、トメばあが言ってた」
母は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「冷たいよ」
たった一言だった。けれど、その一言に、わたしの胸は、締めつけられた。
「冷たいし、暗いし、静かや。けどな――」母は、わたしのほうを見た。「そこにおると、いろんなことが、だんだん、遠うなっていくんよ。かなしいことも、つらいことも、うれしかったことも、みんな、うすうなっていく。おだやかになる、いうのかな。だから、そんなに、こわいところやない。ただ――」
母は、そこで、わたしの頭に手をのせた。
「おまえのことだけは、遠うならんかった。おまえのことだけは、どうしても、忘れられんかった。だから、帰ってきたんよ。ほかのことは、みんな遠くなったのに、おまえのことだけが、いつまでも、ここに――」
母は、自分の胸に、手をあてた。
「ここに、ひっかかっとった。だから、彗星が出たとき、いちばんに、思うた。帰ろう、てな。あの子に、いっぺん、会いに帰ろう、てな」
わたしは、粥の椀を置いて、母にしがみついた。あたたかい野良着に、顔をうずめた。母のにおいのなかで、わたしは、はじめて泣いた。母が死んでから、半年ぶりの涙だった。あの、大きすぎて涙のかたちに縮まってくれなかったかなしみが、母のあたたかさに触れて、ようやく、ほどけて、流れだした。
母は、なにも言わずに、わたしの背中を撫でていた。
六
わたしが泣きやむと、母は、繕いものをはじめた。
わたしの着物の、ほころびたところを、母は、針と糸で繕った。半年のあいだ、わたしはひとりで、下手な手つきで、着物を繕ってきた。母の繕う手つきは、まるでちがった。針がすっすっと布を通り、糸が、迷いなく、まっすぐに走った。母は、繕いながら、ちいさな声で、なにかを口ずさんでいた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」
子守唄だった。
母が、わたしが小さいころ、いつも歌ってくれた子守唄。眠れないわたしを、母は膝にのせて、その唄を、低い声で歌ってくれた。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」。わたしは、その旋律を、からだのいちばん深いところで覚えていた。まだ言葉もわからないうちから、聞いていた唄。彗星を見たとき、なつかしいと感じたのは、あの唄の旋律と、あの蒼い光とが、どこか似ていたからかもしれない。
「母さん」とわたしは言った。「その唄の、続きは」
母は、針を動かす手を止めなかった。
「続き、か」母は、少し考えるようにした。「続きは、な。わしの母も、その先を、歌わんかった。わしも、その先を、知らんのよ。星が海をわたるまで――そのあとに、なにがあるのか、だれも、教えてくれんかった。けど、わしは、こう思うとる」
母は、繕いものから顔をあげた。うすい明け方の光が、母の横顔を、やわらかくふちどっていた。
「星が海をわたったら――そのむこうに、また、朝が来るんやないか。夜がどんなに長うても、星が海をわたりきったら、その先には、きっと、朝が待っとる。だから、この唄は、眠らせる唄やのうて、ほんとうは、目覚めさせる唄なんやないか、てな。眠って、眠って、そのむこうの、あたらしい朝で、また目を覚ますための唄。――わしは、そう思うとる」
わたしは、母の言葉を、胸のなかで、繰り返した。
眠って、眠って、そのむこうの、あたらしい朝で、また目を覚ますための唄。
母は、繕いものを終えると、それをわたしに着せてくれた。ほころびは、きれいにふさがっていた。母の手の通ったところは、あたたかかった。
七
そのころには、東の空が、はっきりと明るくなりはじめていた。
板戸の隙間から、乳色の光が、細く差しこんでいた。露は、いよいよ盛んに光り、庭のあちこちで、朝の最初の鳥が、鳴きはじめていた。世界は、もう一度、始まろうとしていた。そして、それは、母が、行ってしまう時が近いということでもあった。
母も、それに気づいていた。
「もう、行かな、ならん」と母は言った。「日が出るまでに、戻らな、ならんのよ。まぶしすぎて、おられんからな」
わたしは、母の袖を、握った。
「いや」とわたしは言った。子どものように――いや、わたしはまだ子どもだった――わたしは、母の袖を握って、いやいやと首を振った。「まだ、いて。もっと、いて。日なんか、出なくていい。夜が、明けなければいい」
母は、かなしそうに笑った。
「夜が明けんかったら、朝が来んやろ」と母は言った。「朝が来んかったら、おまえは、これから先を、生きていけん。夜は、明けなあかんのよ。それが、いちばん、だいじなことや」
「でも」とわたしは言った。「明けたら、母さんは、いなくなる」
「いなくなる」母は、うなずいた。「けど、また来る。来年の、この明け方に。彗星が出て、山が息を吸うたら、わしは、また、火のあるほうへ、帰ってくる。だから――」
母は、わたしの前に、しゃがんだ。目の高さを、わたしと合わせた。
「だから、それまで、火を、絶やすな。囲炉裏の火を、だいじに守れ。おまえが火を守っとるかぎり、わしは、迷わず、帰ってこられる。ええか。火は、な――」
母は、火のほうを見た。囲炉裏で、火は、まだ、あたたかく息づいていた。
「火は、待っとる、いうことや。だれかが、火を守っとるいうことは、だれかが、まだ、待っとる、いうことや。待っとってくれる者がおるかぎり、死んだもんは、道に迷わん。冷たい水の底からでも、火のあるほうへ、帰ってこられる。だから――おまえは、わしの、火や」
わたしは、母の首に、しがみついた。
「わしの、火や」と母は、もういちど言った。「わしの、あたたかい、火や」
母のからだは、まだ、あたたかかった。けれど、そのあたたかさが、少しずつ、うすくなっていくのが、わたしにはわかった。空が、明るくなるにつれて、母のからだの輪郭が、うすい光のなかに、少しずつ、とけていくようだった。彗星が、白んでゆく空にとけたように。
八
「なあ」と母は言った。とけていく声で、母は言った。「ひとつ、頼みが、あるんよ」
「なに」とわたしは尋ねた。
「あの、手袋な」母は、流しのわきの、片方だけの手袋を見た。「あれを――もう、外してええよ」
わたしは、母の顔を見た。
「あれを、かけといてくれたのは、うれしかった」と母は言った。「けどな、あれは、もう、片方きりや。もう片方は、川に流れて、どこか遠くの海まで、行ってしもうた。片方きりのものを、いつまでも待っとるのは、つらいやろ。だから――もう、ええよ。あれを、外して、しまいなさい。おまえは、片方きりやない。おまえには、これから、たくさんの、対になるものが、できる。友も、できる。いつか、家族も、できる。だから、片方きりのものを、待たんでええ」
「でも」とわたしは言った。「あれを外したら、母さんとの、つながりが」
「つながりは、手袋に、あるんやない」母は、自分の胸を、それから、わたしの胸を、指した。「ここに、あるんよ。おまえの、ここに。わしが、おまえの火であるかぎり、わしらは、つながっとる。手袋は、ただの、木綿の切れや。だいじなのは、火のほうよ」
わたしは、うなずいた。母の言うことは、わからないところもあったけれど、いちばん大事なところは、わかった気がした。片方だけの手袋を、外していい。けれど、火は、絶やしてはいけない。母は、手袋ではなく、火のなかに、いる。
「もう、行くよ」と母は言った。
母は、立ちあがった。立ちあがると、母のからだは、いよいよ、うすくなっていた。板戸のむこうから差しこむ、朝の光を、母のからだが、透かしはじめていた。母の向こうに、囲炉裏の火が、透けて見えた。母は、光でできた、うすい絵のように、そこに立っていた。
「母さん」とわたしは言った。「また、来て。かならず、来て」
「来る」と母は言った。「彗星が、また出るまで。星が、また海を、わたるまで。それまで、火を、守っとってな」
母は、戸口へ歩いた。露に濡れた庭へ、母は、出ていった。母の足は、もう、露を踏まなかった。さく、さく、という音は、しなかった。母は、光のなかを、音もなく、歩いていった。
戸口で、母は、いちど、振り返った。
そして、いつものように、笑った。困ったような、けれど、うれしそうな、あの笑いかたで。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」
母は、その一節を、口ずさんだ。それが、母の、最後の言葉だった。母の姿は、朝の光のなかに、ゆっくりと、とけていった。うすくなり、なお、うすくなり、やがて、どこにあったのかも、わからなくなった。彗星が、消えたときと、おなじように。
日が、稜線から、顔を出した。
最初の、まぶしい光が、谷を、まっすぐに射た。露が、いっせいに、きらめいた。鳥が、あちこちで、高く鳴いた。山が、息を、吐いた。夜のあいだ吸いこんでいた息を、山は、ゆっくりと、吐きだした。世界は、あたらしい一日を、始めた。
母は、もう、いなかった。
九
わたしは、しばらく、戸口に、立っていた。
かなしくは、なかった。ふしぎと、かなしくは、なかった。胸のなかの、あの重く沈んでいたものは、もう、なかった。かわりに、そこには、あたたかい火のようなものが、ちいさく、けれど、たしかに、灯っていた。
わたしは、家のなかへ戻った。囲炉裏の火は、消えずに、息づいていた。わたしは、薪を、一本、くべた。火は、ぱちりと音を立てて、少し、大きくなった。
それから、わたしは、流しのわきへ行った。片方だけの、藍色の手袋を、そっと、外した。半年ぶりに――いや、母が使いはじめてから、何年ぶりだろう――その手袋は、フックから、離れた。手のひらにのせると、思ったより、軽かった。木綿の切れは、母のにおいを、かすかに、まだ、残していた。
わたしは、その手袋を、母の茶碗といっしょに、たんすの、いちばん上の引き出しに、しまった。捨てるのではなく、しまった。片方きりのものを、いつまでも表に出しておくのは、母の言うとおり、つらいことだった。けれど、捨てることも、できなかった。だから、しまった。いつか、思い出したくなったとき、開けられるように。
引き出しを閉めるとき、その奥に、ちいさな箱が、あるのに気づいた。
深い、藍色の箱だった。三日月の刻印が、銀の糸のように、浮かんでいた。マッチ箱だった。母が、どこで手に入れたのか、わたしは知らなかった。振ると、なかで、軸木が、からから、と鳴った。箱の裏に、ちいさく、「月光堂」と読めた。
わたしは、その名を、知らなかった。けれど、なぜか、なつかしい名だと、思った。彗星の見える夜にだけ、路地の奥に現れて、朝には消えている、古い本屋。いつか、だれかが、そんな話を、していたような気もした。母だったろうか。トメばあだったろうか。それとも、まだ言葉もわからないうちに、母の背で、聞いた話だったろうか。三日月の刻印を、指でなぞると、そこだけ、ひんやりと、冷たかった。まるで、明け方の、露のように。
わたしは、そのマッチ箱を、片方だけの手袋の、すぐ隣に置いた。片方きりのものと、火をともす道具とが、暗い引き出しのなかで、肩を寄せあうように、並んだ。それから、わたしは、引き出しを、静かに、閉めた。
十
その日から、わたしは、火を守るようになった。
夜、寝るまえに、囲炉裏の火を、灰のなかに、じょうずに埋めておく。朝、起きて、その灰を掘りかえすと、まだ、赤い種火が、残っている。その種火に、細い薪をあてて、ふうっと息を吹きかけると、火は、また、目を覚ます。わたしは、その、火が目を覚ます瞬間が、好きになった。ちいさな種火が、息を吹きかけられて、ぱっと、明るくなる、その瞬間。それは、なにかが、もういちど、始まる瞬間だった。
火を守ることは、待つことだった。
トメばあの言うとおり、そして母の言うとおり、火を守るということは、だれかを、待つということだった。わたしは、母を、待った。来年の、あの明け方を、待った。彗星が、また、蒼い尾を引いて、夜空を横切り、そして、白んでゆく空に、とけて消える、あの刻を。山が、息を、吸う刻を。露を踏む音が、火のあるほうへ、近づいてくる刻を。
待つことは、つらいことのはずだった。けれど、火を守っているあいだ、わたしは、つらくなかった。待つ相手がいるということは、その相手と、まだ、つながっているということだった。片方だけの手袋が、もう片方を待つように――いや、そうではない。母は、言った。つながりは、手袋にあるのではない。ここに、ある、と。わたしの、胸のここに。
だから、わたしは、待った。かなしみとしてではなく、あたたかい火として、待った。
村の暮らしは、続いた。夏が来て、蝉が鳴き、秋が来て、栗の毬がはじけ、蕎麦の花が、また、白く散った。母が、斧を取り落とした、あの季節が、めぐってきた。それから、冬が来て、雪が谷を埋め、春が来て、雪がとけ、山桜が、ひっそりと咲いて、散った。
そして、また、あの季節が、近づいた。
「もうすぐやな」と、ある夕方、トメばあが言った。去年と、おなじ声で。「戻りの刻や。彗星が、出る。おまえの、母さんが、帰ってくる」
わたしは、うなずいた。去年より、少しだけ、大きくなった手で、わたしは、囲炉裏に、薪を、くべた。火は、あたたかく、息づいていた。
「トメばあ」とわたしは尋ねた。「死んだ人は、いつまで、帰ってこられるの」
トメばあは、しばらく、黙っていた。それから、白く濁った目を、火のほうへ、向けた。
「さあな」とトメばあは言った。「わしの母は、十年ばかり、帰ってきた。それから、ぱたりと、来んようになった。連れ合いは、五年ほどやった。だんだんとな、帰ってくる回数が、減っていくんよ。水の底で、いろんなことが、遠うなっていくいうたやろ。しまいには――おまえのことも、遠うなる。忘れる、いうんやない。ただ、遠うなる。おだやかに、とおく、なっていく。ほんで、いつか、帰ってこられんように、なる。――それが、ええことなんや。死んだもんが、ほんとうに、やすらかになる、いうことやからな」
わたしは、その言葉を、胸のなかで、繰り返した。
いつか、母も、帰ってこられなくなる。母のなかで、わたしのことが、だんだんと、遠くなっていく。それは、かなしいことのはずだった。けれど、トメばあは、それが、ええことなんや、と言った。母が、やすらかになる、ということだから。
「けどな」とトメばあは、続けた。「それでええんよ。死んだもんが、遠うなっていくのは、生きとるもんが、前へ、進んでいくためや。いつまでも、死んだもんを、待っとったら、生きとるもんが、前へ、進めん。だから、だんだんと、遠うなる。それが、いっとう、やさしい、別れかたなんよ」
十一
その年の、戻りの刻。
彗星は、また、出た。東の稜線の、そのまた奥から、蒼白い光の筋が、音もなく、夜空を横切った。去年と、おなじように。わたしは、板戸の隙間から、その光を、見つめた。なつかしい、蒼い光。母の子守唄と、どこか似た、その光。
彗星は、夜のいちばん奥に、しばらく、とどまっていた。それから、東の空が、白みはじめると、蒼い尾は、その白さのなかに、ゆっくりと、とけていった。この長い夜の、いちばん最後の光。
彗星が、消えると同時に、山が、息を、吸った。
さく、さく、と、庭で、露を踏む音がした。
わたしは、戸を、開けた。
母が、立っていた。去年と、おなじ、藍の野良着で。けれど、その姿は、去年より、少し、うすいような気が、した。朝の光を、少し、多く、透かしているような気が、した。
「ただいま」と母は言った。
「おかえり」と、わたしは、言った。去年は、言えなかった言葉を、今年は、言えた。
わたしたちは、また、みじかい、明け方の時間を、いっしょに、過ごした。母は、粥を、炊いた。わたしの着物を、繕った。子守唄を、口ずさんだ。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」。去年と、おなじことを、母は、した。けれど、去年とちがって、わたしは、泣かなかった。かなしくて泣くのではなく、かといって、かなしくないわけでもなく、わたしは、ただ、母のそばに、いた。母のあたたかさを、目に、耳に、鼻に、しっかりと、灼きつけた。
「大きゅうなったなあ」と、母は、今年も、言った。今年は、それが、ほんとうだった。わたしは、去年より、たしかに、大きくなっていた。母を、見送り、火を守り、待つことを、覚えた分だけ、わたしは、大きくなっていた。
夜が、明けはじめた。
「もう、行かな、ならん」と母は言った。母の姿は、いよいよ、うすく、なっていた。
「うん」と、わたしは、言った。去年のように、袖を、握らなかった。いやいやと、首を振らなかった。ただ、母の顔を、じっと、見つめた。この顔を、来年まで、覚えていられるように。
「火を、絶やすな」と母は言った。
「絶やさない」と、わたしは、言った。
母は、うれしそうに、笑った。それから、戸口へ、歩いた。露を踏まない足で、光のなかを、音もなく。戸口で、いちど、振り返り、母は、あの一節を、口ずさんだ。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」
日が、出た。母は、朝の光に、とけた。
わたしは、戸口に立って、日の出を、見ていた。稜線から、まぶしい光が、まっすぐに、谷を、射た。露が、いっせいに、きらめいた。世界は、あたらしい一日を、始めた。
母は、いなくなった。けれど、わたしは、知っていた。母は、火のなかに、いる。わたしが、火を守るかぎり、母は、迷わず、帰ってくる。来年も。その次の年も。母が、やすらかに、遠くなっていく、その日まで。
十二
それから、いくつもの、戻りの刻が、めぐった。
わたしは、少しずつ、大きくなった。背が伸び、声が変わり、母の炊いていた粥を、今度は、わたしが、自分で、炊けるようになった。母の繕っていた着物を、わたしは、自分で、繕えるようになった。母のしていたことを、わたしは、ひとつずつ、自分のものにしていった。
そして、母は、少しずつ、うすくなった。
年ごとに、母の姿は、うすくなった。帰ってくるのが、遅くなり、行ってしまうのが、早くなった。母のからだの、あたたかさが、年ごとに、うすれた。母は、粥を炊かなくなり、繕いものをしなくなり、ただ、火のそばに座って、わたしの顔を、見つめる時間が、長くなった。トメばあの言ったとおりだった。母は、だんだんと、遠く、なっていった。かなしみとしてではなく、おだやかな、やわらかいものとして。
わたしは、それを、受けいれた。
母が、遠くなっていくのは、母が、やすらかになるということだった。そして、わたしが、前へ、進んでいくということだった。いつまでも、母を待って、火のそばに、うずくまっているわけには、いかなかった。母が、いちばん、望んでいないのは、それだった。母は、わたしに、生きてほしかった。前へ、進んでほしかった。あたらしい朝で、目を覚まし、あたらしい一日を、始めてほしかった。星が、海をわたったむこうの、あたらしい朝で。
わたしが、村を出て、麓の里で、暮らすようになったのは、母が、七度めに帰ってきた、その年のことだった。
里には、里の暮らしがあり、対になるものが、たくさん、できた。友が、できた。師と、呼べる人も、できた。いつか、母の言ったとおり、家族も、できた。わたしは、片方きりでは、なくなった。けれど、戻りの刻になると、わたしは、かならず、村へ、帰った。トメばあは、もう、いなかった。トメばあも、いつか、戻りの刻に、帰ってくるのかもしれなかった。だれかが、火を、守っていれば。
わたしは、母の家の、囲炉裏の火を、守りつづけた。里に暮らしていても、戻りの刻の前には、村へ帰り、火を、熾した。灰のなかの、種火に、息を吹きかけ、火を、目覚めさせた。それは、母を、待つことだった。そして、母と、つながっていることだった。
母が、最後に帰ってきたのは、いつだったか。
はっきりとは、覚えていない。ある年の、戻りの刻、わたしは、戸を開けた。庭には、露を踏む音が、しなかった。彗星は、たしかに、出た。蒼い尾を引いて、夜空を横切り、白んでゆく空に、とけて消えた。山は、息を、吸った。露は、光った。鳥は、鳴いた。けれど、母は、帰ってこなかった。
わたしは、戸口に、立って、日の出を、待った。稜線から、まぶしい光が、まっすぐに、谷を、射した。露が、いっせいに、きらめいた。世界は、あたらしい一日を、始めた。
母は、来なかった。
わたしは、かなしくは、なかった。
母は、やすらかに、なったのだ。冷たい水の底で、いろいろなことが、みんな、遠くなって、おだやかになって、やすらかに、なったのだ。もう、火のあるほうへ、帰ってくる必要が、なくなったのだ。それは、いいことだった。母が、ほんとうに、安らかになった、ということだったから。
わたしは、囲炉裏の火に、薪を、一本、くべた。火は、ぱちりと音を立てて、少し、大きくなった。火を守ることは、もう、母を待つことでは、なかった。けれど、わたしは、火を、消さなかった。だれかが、火を守っているかぎり、だれかが、迷わず、帰ってこられる。母は、来なくなった。けれど、いつか、ほかのだれかが――わたしの、大切なだれかが――戻りの刻に、火のあるほうへ、帰ってくるかもしれない。そのときのために、わたしは、火を、守りつづける。
十三
いま、わたしは、年寄りになった。
腰が曲がり、目は、白く濁りはじめた。トメばあと、おなじように。囲炉裏のそばに座って、しゃがれた声で、村の子どもたちに、昔の話を、するようになった。母を亡くした、ある子どもに、わたしは、戻りの刻のことを、教えた。トメばあが、わたしに教えてくれたように。
「もうすぐやな」と、わたしは、その子に言った。「戻りの刻や。彗星が、出る。あの、蒼い長い尾の星がな。あれが、夜空を横切って、白んでゆく空に、とけて消えるころ――ちょうどその、明け方や。死んだもんが、いっぺんだけ、帰ってくる。この村は、昔から、そういう土地なんよ」
その子は、わたしが、そうだったように、信じなかった。死んだ者が、帰ってくるなど、あるはずがない、という顔をした。わたしは、笑った。歯の、少なくなった口で。
「信じられんか」と、わたしは言った。「わしも、はじめは、信じんかった。けどな――火を、絶やすな。戸を、細う、開けとくんや。ほんで、その夜は、眠るんやない。眠らずに、待っとれ。露を踏む音が、火のあるほうへ、近づいてくるまでな」
わたしは、その子に、ひとつの唄を、教えた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」
「その続きは」と、その子は、尋ねた。わたしが、母に、尋ねたように。
「続きは、な」と、わたしは言った。「わしの母も、その先を、歌わんかった。けど、母は、こう言うとった。星が、海をわたったら、そのむこうに、また、朝が来る、てな。だから、この唄は、眠らせる唄やのうて、ほんとうは、目覚めさせる唄なんや、てな。眠って、眠って、そのむこうの、あたらしい朝で、また、目を覚ますための、唄なんや、てな」
その子は、わたしの言葉を、胸のなかで、繰り返しているようだった。かつての、わたしのように。
わたしは、知っている。
いつか、わたしも、死ぬ。冷たい水の底へ、沈む。そして、ある年の、戻りの刻に、彗星が、出て、山が、息を吸うたら――わたしも、火のあるほうへ、帰ってくる。だれかが、火を守っていてくれるなら。だれかが、わたしを、待っていてくれるなら。
そのとき、わたしは、あの子に、言うだろう。母が、わたしに、言ったように。
大きゅうなったなあ、と。
そして、わたしも、いつか、遠くなる。年ごとに、うすくなり、帰ってくるのが、遅くなり、行ってしまうのが、早くなる。やがて、帰ってこられなくなる。それでいい。それが、いっとう、やさしい、別れかたなのだから。
戸の、むこうで、空が、白みはじめている。
いちばん深い夜の底から、ほのかな青みが、滲みだしてくる。もうすぐ、彗星が、出る。蒼い尾を引いて、夜空を横切り、そして、白んでゆく空に、とけて消える。この長い夜の、いちばん最後の光として。そうしたら、山が、息を吸う。露が、光る。鳥が、鳴く。世界が、もういちど、始まる。
わたしは、囲炉裏の火に、薪を、一本、くべる。火は、ぱちりと音を立てて、あたたかく、息づく。
戸を、細く、開けておく。眠らずに、待つ。
火を守るということは、待つということだ。そして、待つということは、まだ、つながっているということだ。冷たい水の底からでも、火のあるほうへ、迷わず、帰ってこられるように。
さく、さく、と。
庭で、露を踏む音が、する。