月光書房
卯の刻 ・ 明け方 ・ 第 五 話

雷鳥の朝

高瀬 冬那
冒険・サバイバル ・ 約25頁

凍えて死ぬ者は、みな最後に暖かいと嘘をつかれる。それを知っていたから、麻美はまだ死ねなかった。

風は、稜線をひとつの弦のように鳴らしていた。

雪は横に走っていた。上から降るのではなく、西の谷から吹き上げられ、稜線の岩を舐め、麻美の頬を斜めに切って、そのまま東の闇へ消えていく。粒はもう雪と呼べるほど柔らかくはなかった。凍った砂のように硬く、風に乗って皮膚を打ち、当たったところがちりちりと痺れて、やがて何も感じなくなる。感じなくなるのがいちばん怖いのだと、麻美は自分に言い聞かせていた。痛いうちはまだ生きている。痺れたら、そこはもう死にはじめている。

日が落ちたのは、たぶん十六時すぎだった。たぶん、というのは、時計を見る余裕がなかったからだ。ルートを外したことに気づいたのが十五時。引き返そうとして、しかし来た道はもう吹雪に消えていた。自分の足跡すら、五分で埋まった。稜線の東側、風下にわずかにえぐれた岩の窪みを見つけて、そこに背中を押し込んだのが、光の残っていた最後の記憶だった。

それから、夜が来た。

夜は、想像していたどんな夜とも違っていた。都会の夜には底がある。ビルの明かり、車のヘッドライト、空にうっすら滲む街の残光。けれどここの夜には底がなかった。上も下も、右も左も、ただ黒があり、その黒の中を白い粒が音を立てて流れていく。麻美は、自分が立っているのか横たわっているのかさえ、ときどきわからなくなった。

「起きてろ」と、声に出して言った。

風がその声をさらっていった。二音か三音、口から出たとたんに引きちぎられて、稜線の向こうへ運ばれる。それでも麻美は言いつづけた。起きてろ。起きてろ。眠るな。眠ったら死ぬ。それはこの山に入る前から知っていたことで、しかし知っていることと、実際に眠気が体の奥からせり上がってくることのあいだには、想像していたよりずっと深い溝があった。

眠気は、寒さの顔をしていなかった。

眠気は、暖かさの顔をしていた。

そこが、いちばん恐ろしかった。

麻美は二十九歳で、山を八年やっていた。

単独行を始めたのは三年前だ。理由は、うまく言葉にできない。人と登るのが嫌いになったわけではない。ただ、誰かのペースに合わせているあいだ、自分がどこにいるのかが、少しずつわからなくなっていく感じがあった。稜線に立って、風の音だけを聞いていたい。誰の足音も、誰の呼吸も混じらない場所で、自分の呼吸だけを確かめていたい。そういう欲求が、年々、強くなった。

危険だとは、わかっていた。だから準備はいつも過剰なほどした。天気図を三日前から追い、予備日を二日とり、装備は必要の倍を担いだ。臆病だ、と一緒に登っていた仲間に笑われたこともある。麻美は臆病だから強い、と。褒め言葉なのか嫌味なのか、いまでもわからない。

臆病さは、母から受け継いだものかもしれなかった。母は、麻美が山を始めると言ったとき、いい顔をしなかった。危ないことをするな、と、口では言わなかった。ただ、麻美が出発する前の晩、玄関に、握り飯を包んで、置いていくようになった。何も言わずに。麻美が下山して、玄関の握り飯が、なくなっているのを見ると、母は、それだけで、少し、ほっとした顔をした。言葉にしない心配というものが、この世にはあるのだと、麻美は、母のそういう仕草から、覚えた。準備を過剰にするのは、たぶん、その、言葉にしない心配を、自分の中で、握り飯のかわりに、こしらえているのだった。

その母も、三年前に、亡くなった。麻美が、単独行を始めたのは、その、あとだった。玄関に、握り飯を、置いてくれる人が、いなくなってから。誰にも、心配されずに、山に入るようになってから。誰の心配もない稜線というのは、自由なようでいて、じつは、少し、寒かった。

けれど今回、天気は嘘をついた。

いや、天気は嘘をつかない。読み違えたのは麻美だ。西高東低の気圧配置が、予報より半日早く、そして予報より深く落ち込んだ。稜線に出たとき、空はまだ薄青かった。三十分後、西の空が灰色の壁に変わった。一時間後、その壁が稜線を越えてきた。

判断が遅れたのは、あと少しでピークだったからだ。

あと少し。その四文字が、これまで何人の登山者を殺してきたことか。麻美はそれを知っていた。知っていて、それでも足を止めなかった。ピークまであと標高差にして八十メートル。ここまで来て引き返すのか、という声が、頭のどこかで鳴った。その声に、麻美は勝てなかった。

いま、岩の窪みで膝を抱えながら、麻美はその声を憎んだ。あの声さえなければ。あの「あと少し」さえなければ。

けれど憎んでも、体は温まらない。

風が、また稜線を鳴らした。

装備の点検を、麻美は指の感覚でやった。

もう目は、あまり役に立たなかった。ヘッドランプはある。けれど吹雪の中でランプを点けると、光が雪の粒に乱反射して、白い壁ができるだけだった。視界が開けるどころか、かえって何も見えなくなる。だから麻美は、ランプを消して、手だけで自分の体を確かめた。

ハーネスの上、腹のあたり。ここに、防寒着の一番外側がある。凍って、板のように硬い。叩くと、こつこつと音がする。その内側、フリース。その内側、肌着。三層。悪くない。悪くはないが、この風には足りない。

背中のザック。中に、ツェルトがあるはずだった。簡易テント。これを頭からかぶれば、風はしのげる。麻美は震える手でザックの口を探った。ジッパーの金具が、指の腹に触れた。冷たい。あまりに冷たくて、金属なのに肌に貼りつくようだった。引く。凍りついて、動かない。もう一度、力を込める。爪が割れそうな痛みが走って、ようやく、少しだけ開いた。

その隙間から、指を突っ込んだ。

ツェルトの、あの薄い生地の感触を探した。

――なかった。

いや、あるはずだ。麻美は肘まで突っ込んで、ザックの底をかき回した。予備の手袋。行動食。魔法瓶。ヘッドランプの替え電池。ぜんぶある。ぜんぶ、指が覚えていた。けれど、ツェルトだけがなかった。

思い出した。

昨日、小屋を出るとき。ザックを軽くしようと、迷ったのだ。今日は日帰りの周回。ツェルトは、いらないかもしれない。予報は昼まで晴れ。夕方から崩れるが、それまでには下山している――はずだった。麻美は、ツェルトを小屋の隅に置いてきた。あと少しの荷を、軽くするために。

あと少し。

またしても、あと少しだった。

麻美は、声を出さずに笑った。頬の筋肉が、笑うという動きを半分しか覚えていなかった。凍った顔で、麻美は、自分の周到さを笑った。臆病だから強い、と言われた自分を笑った。周到な人間が、いちばん大事なひとつを、あと少しのために置いてくる。

「馬鹿」

その二文字は、風に運ばれなかった。麻美の口の中で、白い息になって、そのまま睫毛のあたりで凍った。

ツェルトはない。ならば、あるもので生きるしかない。

麻美は、ザックを空にして、それを背中と岩のあいだに挟んだ。少しでも、岩の冷たさを断つために。空になったザックの生地を体に巻きつけ、レインウェアのフードを二重にかぶり、フードの紐を限界まで絞った。顔の前に、握りこぶしひとつぶんの空気の穴だけを残して。

そして、手だった。

問題は、いつも手だった。

左手には、手袋があった。厚手の、防水の、指の一本一本が独立したタイプ。悪くない。冷たいが、まだ動く。指を折り曲げると、こわばりながらも、ちゃんと曲がる。

右手には、手袋がなかった。

いつ失くしたのか、麻美は覚えていなかった。ルートを外して、岩をよじ登ったあのあたりか。あるいは、ザックの口を開けようとして、口で咥えて、風に取られたのか。とにかく、右手の手袋は、対のうちの片方だけが失われて、いま麻美の右手は、素手のまま吹雪にさらされていた。

左手には手袋があり、右手にはない。

その非対称が、麻美をひどく不安にさせた。片方だけの手袋。もう片方は、たぶん、いまごろ稜線のどこかの雪の下で、誰にも見つけられずに、麻美より長くこの山にとどまるのだろう。人間より、手袋のほうが山に強い。そんな馬鹿げた考えが、凍りかけた頭をよぎった。

麻美は、右手をレインウェアの内側、脇の下に突っ込んだ。体の中心のわずかな熱で、右手を温めようとした。けれど、右手の指はもう、脇の下の熱を、熱として感じなかった。指先は、痺れて、遠かった。自分の手なのに、遠い国の話のように遠かった。

指を折り曲げてみた。

曲がった。まだ、曲がる。

けれど、曲げたという感覚だけがあって、曲がった指の温度はなかった。麻美は、右手を左手で握った。手袋をした左手で、素手の右手を包んだ。せめて、片方が片方を守れるように。二つの手が、一つの熱を分け合えるように。

風が鳴った。

稜線が、また、弦のように鳴った。

眠気が、二度目に来たのは、たぶん深夜だった。

一度目は、宵のうちだった。あのときは、まだ抗えた。歯を食いしばり、頬を叩き、指を動かし、追い払った。眠気は、いったん引いた。

けれど二度目は、違った。

二度目の眠気は、扉を叩くのではなく、鍵を持って入ってきた。気づいたら、麻美はもう、まぶたを半分閉じていた。閉じているという自覚さえ、なかった。ふと、体が楽になっていることに気づいて、そのことに――楽になっていることに――恐怖した。

さっきまで、あんなに寒かった。歯が鳴り、体が勝手に震えていた。震えは、体が熱を作ろうとする、必死のあがきだ。その震えが、いつのまにか、止まっていた。

震えが止まった。

それは、悪い兆候だった。ひどく悪い兆候だった。体が、熱を作ることを、諦めはじめている。低体温症の、次の段階。震えが止まり、寒さが消え、かわりに、暖かさが来る。凍えて死ぬ者が、最後に感じるという、あの嘘の暖かさ。

麻美は、自分の頬を、力いっぱい叩いた。

手袋をした左手で。

音は、風に消えた。けれど、衝撃は伝わった。麻美は、まぶたをこじ開けた。開けた先には、あいかわらず、底のない黒があり、白い粒が流れていた。何も見えないその黒が、いまはありがたかった。何も見えないということは、まだ見ようとしているということだ。まだ、目を、開けようとしている。

「歌え」

自分に、そう命じた。

なぜ歌なのか、わからなかった。ただ、口を動かしていれば、眠らずにすむ気がした。息を、規則正しく吐いていれば、心臓が、忘れずに動いてくれる気がした。

麻美は、歌をひとつ、探した。

頭の中は、氷が張っていた。名前も、日付も、なかなか浮かばなかった。けれど、ひとつだけ、するりと出てきた歌があった。理由は、あとになってわかった。それは、子どものころ、祖母がうたってくれた子守唄だった。

眠れ、眠れ。

――いや。

麻美は、口をつぐんだ。

眠れ、はいけない。いまだけは、その歌だけは、いけない。眠れと自分にうたって、そのまま眠ってしまう。それではあべこべだ。この歌は、眠るための歌なのだから。

けれど、不思議なことに、麻美はその歌を、口ずさみはじめていた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

祖母の声が、耳の奥で重なった。あたたかい膝の感触。障子ごしの、夏の夕方の光。線香の匂い。うちわの風。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。祖母は、この歌を最後まで、うたわなかった。麻美が眠る前に、いつも、麻美のほうが先に、祖母より先に、眠ってしまったからだ。だから麻美は、この子守唄の、続きを知らなかった。星が海をわたったあと、どうなるのか。夜が明けるのか。それとも、また夜が来るのか。

祖母の家は、海のそばに、あった。夜、布団に入ると、遠くで、波の音が、聞こえた。寄せては、返し、寄せては、返す、その音を、聞きながら、祖母の、うたう、星が海をわたるまで、という一節を、聞いていると、麻美は、いつも、本物の星が、本物の海を、しずかに、わたっていく、その光景を、まぶたの裏に、見た。見ているうちに、眠くなった。眠くなって、続きを、聞きそびれた。それが、幼い夜の、決まりごとだった。祖母は、麻美が寝入ったのを見はからって、そっと、部屋の灯りを、消したのだろう。麻美は、その、灯りの消える瞬間を、一度も、見たことが、なかった。眠る前に、いつも、麻美のほうが、先だったから。

知らないまま、麻美は、この歳になった。

そして、いま。

麻美は、その続きを、知りたいと思った。

眠るためではなく。

歌の続きを、この耳で聞くために、朝まで、起きていたいと思った。

歌は、麻美を朝まで運ばなかった。

歌える時間は、そう長くは続かなかった。舌が、うまく回らなくなった。唇が、言葉の形をつくれなくなった。それでも麻美は、声にならない声で、頭の中で、その一節を繰り返した。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。眠れ、眠れ――

星。

その言葉で、麻美は、空を見た。

いや、正確には、見上げようとした。フードの隙間から、顔の前の、こぶしひとつぶんの穴から、上を。

雪が、薄くなっていた。

いつのまにか、風が、少しだけ弱まっていた。横殴りだった雪が、いまは斜めに、そしてまばらに、流れていた。稜線を鳴らしていた弦の音が、低く、遠くなっていた。

そして、雲の切れ間に。

黒い空の、破れ目のような一角に。

星が、あった。

麻美は、まばたきをした。睫毛の氷が、ぱりっと割れた。

一つではなかった。二つ、三つ。切れ間の奥に、いくつもの星が、凍った空気の中で、痛いほど鋭く光っていた。都会では決して見えない光。空気の澄んだ、この高さでしか見えない光。それらは、瞬きもせず、ただ、静かに燃えていた。

麻美は、その中に、一つだけ、様子の違う光を見つけた。

ほかの星は、点だった。針で刺したような、一点の光。けれど、その光は、尾を引いていた。蒼白い、細く長い尾が、光の後ろに、ふわりと流れていた。

彗星だ、と麻美は思った。

ミラ彗星。

出発の前に、山小屋のテレビが伝えていた。今夜から数日、明け方近くの空に、蒼白い尾を引く彗星が見えるだろう、と。名前は、ミラ。ラテン語で「不思議」を意味する星の名から採られたのだと、ニュースの声は言っていた。麻美は、そのとき、へえ、と思っただけだった。晴れれば見えるかもしれないな、と。まさか、こんな形で見ることになるとは、思わなかった。

彗星は、稜線の東の、まだ夜の残る空の低いところに、掛かっていた。

蒼白い尾は、光そのものというより、光の記憶のようだった。夜が、去りぎわに、空にひと刷毛だけ残していった、青い跡。麻美は、その尾を、目で追った。追っているあいだは、眠らずにすんだ。

「まだ」と、麻美は思った。声には、もうならなかった。

まだ、夜だ。あの彗星が見えているうちは、まだ夜だ。彗星が見えているということは、まだ空が暗いということで、まだ朝は来ていないということで――けれど。

けれど、あの彗星は。

夜のものだ。

夜のものであるなら。

あれが消えるとき。

あれが、あの蒼白い尾が、空の白さに溶けて見えなくなるとき。

そのときが、夜明けだ。

麻美は、決めた。

あの彗星が消えるまで、起きていよう、と。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

海をわたるまで。あの星が、あの彗星が、夜の海をわたりきって、朝の光の中に消えていくまで。それまで、麻美は、目を閉じないと決めた。

星を見張るというのは、思っていたより、難しい仕事だった。

星は、動かない。少なくとも、見ているあいだは、動いているようには見えない。だから、見張っているつもりでも、視線はすぐにぼやけ、まぶたは重くなり、意識は、氷の張った池の底へ、ゆっくりと沈んでいこうとする。

麻美は、何度も、沈んだ。

沈んで、はっとして、浮かび上がった。浮かび上がるたびに、麻美は、彗星がまだそこにあるかを確かめた。あった。まだ、あった。蒼白い尾は、さっきより、ほんの少しだけ、位置を変えていた。いや、位置を変えたのは、星ではなく、空のほうだった。空が、地球が、回っていた。夜が、確実に、朝のほうへ、傾いていた。

そのことに、麻美は励まされた。

自分は動けない。指も、足も、もう自分の意思では、ほとんど動かなかった。けれど、空は動いていた。地球は回っていた。麻美が何もしなくても、時間は、朝のほうへ、進んでいた。麻美は、ただ、それに、乗っていればよかった。振り落とされずに、この回転に、しがみついてさえいれば。

右手の感覚は、もう、ほとんどなかった。

麻美は、左手で右手を握ったまま、指の付け根のあたりを、ときどき、確かめた。硬い。木の枝のように硬い。爪の色が、暗いのか明るいのか、この闇ではわからない。けれど、握った左手に、右手の存在は、まだ伝わってきた。まだ、そこに、右手はあった。片方だけの手袋の、そのもう片方の、素手の手が。

麻美は、その右手に、心の中で、話しかけた。

もう少しだ、と。

もう少しで、朝が来る。朝が来たら、日が昇る。日が昇ったら、暖かくなる。そうしたら、おまえも、また動くようになる。だから、それまで、そこにいてくれ。落ちるな。おれと一緒に、朝まで、行こう。

右手は、答えなかった。

けれど、麻美は、その沈黙を、いやだと思わなかった。答えないということは、まだ、耐えているということだった。まだ、そこで、凍りながらも、麻美とともにいるということだった。

風が、また、少し、弱まった。

どれくらいの時間が、経ったのか。

麻美には、わからなかった。時計を見る、という考えが、もう浮かばなかった。時間は、彗星の位置と、空の色でしか、測れなくなっていた。

そして、あるとき、麻美は、気づいた。

星の数が、減っていた。

さっきまで、切れ間の奥に、いくつも光っていた星。その、いちばん小さな星から順に、一つ、また一つと、見えなくなっていた。消えたのではない。空が、その星を光らせておくには、明るすぎるように、なりはじめていた。

空の色が、変わっていた。

いつから、と言えるような瞬間は、なかった。黒だった空が、気づけば、黒ではなくなっていた。東の、稜線の向こう。いちばん低いところが、藍色になっていた。ほんの、指一本ぶんの帯。けれど、確かに、藍だった。黒ではなく、藍。夜の、いちばん濃いところが、薄まりはじめた、その色。

麻美は、まばたきをした。

見間違いではなかった。藍色の帯は、さっきより、少しだけ、幅を増していた。そして、その色の中に、ほんのわずか、灰色が、そして、灰色のさらに奥に、青みがかった白が、滲みはじめていた。

夜が、明けようとしていた。

麻美の喉から、音が漏れた。言葉ではなかった。うめきとも、ため息ともつかない、ただの、息の音。けれど、それは、この夜、麻美が発した、いちばん人間らしい音だった。

明ける。

夜が、明ける。

麻美は、彗星を探した。

蒼白い尾を引く、あの、ミラ彗星を。

まだ、あった。けれど。

その尾は、もう、さっきほど、鮮やかではなかった。空が明るみ、藍が薄まるにつれて、彗星の蒼白い光は、背景に、溶けはじめていた。夜の暗さの中で、あれほど鋭く尾を引いていた光が、いま、夜そのものが薄れていくのと一緒に、輪郭を、失っていく。

麻美は、それを、見つめた。

見つめながら、麻美は、奇妙な気持ちになった。彗星が消えていくのは、朝が来る証だった。麻美が、待ちに待った、朝の証。喜ぶべきことだった。けれど、その蒼白い光が、少しずつ薄れていくのを見ていると、麻美は、なぜか、名残惜しかった。

あの彗星は、この夜、ずっと、麻美とともにいた。

雪の壁の向こうで、雲の切れ間で、麻美が沈むたびに、浮かび上がるたびに、あの光は、そこにあった。動かない麻美のかわりに、あの光が、ゆっくりと、夜を、わたってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。あの彗星は、麻美にとっての、その星だった。夜の海を、麻美のかわりに、わたっていく星だった。

そして、いま。

その星が、海を、わたりきろうとしていた。

麻美は、目を、開けていた。

睫毛の氷を、割りながら。乾いて、こわばった目を、痛みをこらえて、開けていた。あの光が、消えるところを、この目で、見届けるために。

彗星が消える、その一瞬を、麻美は、正確には、とらえられなかった。

それは、ろうそくの火が消えるような、はっきりした瞬間ではなかった。蒼白い尾は、だんだんと、だんだんと、薄くなり、あるところで、もう、どこからが尾で、どこからが空か、わからなくなった。麻美が、まだ見えている、と思っているうちに、それは、もう、見えなくなっていた。夜が、朝に、溶けるように。彗星は、朝の空に、溶けた。

跡には、青みがかった、白い空が、残った。

そして、その空を、麻美が見ていたとき。

東の、稜線の向こうから。

光が、来た。

それは、太陽ではなかった。

まだ、太陽そのものは、稜線の下だった。けれど、その手前の空が、燃えていた。藍が、灰に、灰が、桃色に、桃色が、金色に。稜線の縁が、一本の線となって、その線の向こうから、光が、こちら側へ、あふれ出そうとしていた。

麻美は、その光を、待った。

一夜、待った、その光を。

そして、光は、来た。

稜線の縁に、いちばん最初の、金の点が、生まれた。針の先ほどの、けれど、これまでのどんな星より、どんな彗星より、強い光。その点が、みるみる、ふくらんだ。ふくらんで、線になり、線が、面になり、そして――

光が、麻美の顔に、届いた。

暖かい、とは、思わなかった。

光が届いても、麻美の頬は、すぐには、暖まらなかった。凍りついた皮膚は、光を、熱としては、まだ感じなかった。けれど。

けれど、光は、麻美の、閉じかけていたまぶたの、その裏側を、赤く染めた。

麻美は、目を閉じた。

閉じても、赤かった。まぶたごしに、光が、来ていた。暖かくはない。まだ、暖かくはない。けれど、これは、太陽の、光だった。夜を、越えた光だった。麻美が、一夜かけて、待ちつづけた、その光が、いま、麻美の顔に、当たっていた。

麻美は、目を開けた。

世界が、見えた。

一晩じゅう、底のなかった黒が、いま、色を、持っていた。稜線が、見えた。白い、雪の稜線が、朝の光を受けて、桃色に、そして、金色に、光っていた。麻美が、背中を押し込んでいた岩が、見えた。黒い、ごつごつした岩肌に、雪が、こびりついていた。谷が、見えた。麻美のいる稜線から、はるか下へ、白い斜面が、幾重にも、うねりながら、落ちていた。

そして、その白の中に。

麻美は、生きて、いた。

鳥が、鳴いたのは、そのときだった。

麻美は、最初、それを、幻聴だと思った。この、風と雪しかない稜線に、鳥がいるはずがない。夜のあいだ、あれほど、いろいろな音を、幻に聞いた。祖母の声。仲間の声。誰かが名前を呼ぶ声。それらは、みな、麻美の頭が、寒さの中で、作り出した嘘だった。

だから、その鳴き声も、嘘だと、思った。

けれど。

もう一度、鳴いた。

チッ、チッ、と。硬く、小さく、けれど、はっきりと。風の音とは、まったく違う、生き物の音。

麻美は、その音の方を、見た。

いた。

岩の、少し先。麻美から、五、六メートルほど離れた、雪の吹き溜まりの縁に。一羽の、小さな鳥が、いた。

雷鳥だ、と麻美は思った。

冬の雷鳥。全身が、雪と同じ、真っ白な羽毛に、覆われていた。だから、夜のあいだは、見えなかったのだ。雪と、同じ色だから。けれど、朝の光が、その白い羽を、桃色に、染めていた。目のまわりだけが、黒く、そして、赤い肉冠が、額の上に、鮮やかだった。

雷鳥は、麻美を、見ていた。

黒い、小さな目で、じっと。

そして、また、鳴いた。チッ、チッ、と。まるで、麻美に、何か、言っているように。

麻美は、動けなかった。動いたら、鳥が、逃げてしまう気がした。だから、ただ、見ていた。生きている、生き物を。この、死の稜線に、朝とともに、現れた、生き物を。

雷鳥は、二、三歩、雪の上を、歩いた。

そして、麻美のほうを、振り返った。

麻美は、その仕草を、ずっとあとになっても、忘れなかった。あれは、ただの、鳥の動きだった。鳥に、意思など、なかったのかもしれない。麻美を、導こうなどと、思っていなかったのかもしれない。けれど、そのとき、麻美には、そう見えた。振り返った雷鳥が、こう、言っているように、見えた。

――こっちだ。

麻美は、立ち上がろうとした。

立ち上がれなかった。

一夜、同じ姿勢で、凍えていた体は、麻美の意思に、まったく、従わなかった。膝が、伸びなかった。腰が、上がらなかった。麻美は、岩に手をついて、体を、押し上げようとした。けれど、その手が――右手が――言うことを、きかなかった。

麻美は、右手を、見た。

朝の光の中で、初めて、右手を、はっきりと、見た。

赤黒く、腫れていた。指の先が、蝋のように、白かった。凍傷だった。麻美は、それが、どういう意味か、知っていた。この右手の、何本かの指は、たぶん、もう、元には、戻らない。

けれど。

麻美は、その右手を、恨まなかった。

この右手は、一夜、耐えてくれた。手袋を、片方だけ、失って。素手のまま、この吹雪の中で、麻美とともに、朝まで、耐えてくれた。落ちなかった。ちゃんと、そこに、いてくれた。麻美は、左手で、その右手を、もう一度、握った。ありがとう、と、心の中で、言った。よく、耐えた。もう、いい。もう、朝だ。

雷鳥が、また、鳴いた。

急かすように。

麻美は、歯を食いしばった。

そして、まず、指を、動かすことから、始めた。左手の指を。一本ずつ。折り曲げ、伸ばし。血を、めぐらせる。次に、腕。肩。首。ゆっくりと、体の、動く部分から、順に、動かしていった。凍りついた、機械の、油をさすように。一つずつ、一つずつ。

痛みが、戻ってきた。

血のめぐりが戻ると、凍えていた部分が、焼けるように、痛んだ。麻美は、その痛みを、歓迎した。痛いということは、そこが、まだ、生きているということだった。死んでいたら、痛くない。痛いのは、生きている証だった。

麻美は、痛みを、頼りに、体を、起こした。

立ち上がるまでに、どれくらい、かかっただろう。

岩に、何度も、すがった。何度も、崩れた。そのたびに、雷鳥は、待っていてくれた。二、三歩、先へ行っては、振り返り、麻美が、来ないと、また、戻ってくるように、その場で、羽を、繕った。

ようやく、麻美が、両足で、立ったとき。

朝の光は、もう、稜線の、全体に、あふれていた。

太陽は、まだ、低かった。けれど、その光は、稜線の、東側の斜面を、金色に、染めていた。夜のあいだ、麻美を、殺そうとしていた、この、白い斜面が。いまは、朝の光を受けて、目が、痛いほど、美しかった。

麻美は、その美しさに、少しのあいだ、見とれた。

見とれてから、思った。

この美しさを、見るために、おれは、一夜、耐えたのだ、と。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

星は、海を、わたった。ミラ彗星は、朝の空に、溶けて、消えた。夜は、明けた。そして、麻美は、その続きを、いま、知った。祖母が、うたわなかった、この子守唄の、続きを。

星が、海を、わたったあと。

朝が、来る。

ただ、それだけの、続きだった。けれど、その、ただそれだけの続きが、麻美を、この一夜、生かした。

麻美は、ザックを、拾い上げた。

空になった、ザックを。背負う、力は、もう、なかった。だから、片方の肩に、引っかけるだけにした。中身は、なくてもいい。麻美は、生きて、この山を、下りる。それだけが、いま、大事だった。

麻美は、ポケットを、探った。

そこに、何か、硬いものが、あった。指の感覚の、まだ残る、左手で、それを、取り出した。

小さな、箱だった。

藍色の、マッチ箱。

麻美は、それを、しばらく、見た。いつ、ポケットに、入れたのか、覚えていなかった。たぶん、小屋の、土間の、棚に、置いてあったのを、なんとなく、もらってきたのだ。「月光堂」と、箱の側面に、小さく、刷ってあった。そして、蓋の、真ん中に、細い、三日月が、刻まれていた。

麻美は、その、藍色のマッチ箱を、握った。

火を、つけようとは、思わなかった。この風では、どうせ、つかない。それに、もう、火は、いらなかった。麻美には、朝の、この、大きな火が、あった。空いっぱいの、太陽という、火が。

けれど、麻美は、その小さな、藍色の箱を、握って、いたかった。三日月の、刻まれた、その箱を。夜の、名残のような、その色を。捨てられなかった、片方だけの、手袋のように。麻美は、それを、ポケットに、戻した。生きて、下りたら、これで、あたたかいものを、飲もう、と、決めた。

雷鳥が、鳴いた。

麻美は、顔を、上げた。

鳥は、稜線の、風下の斜面を、少し、下ったところに、いた。麻美が、来た、道――夜のあいだ、消えていた、あの道の、ほうへ。朝の光の中で、雪の斜面には、うっすらと、下へ続く、稜線の、線が、見えていた。夜は、道を、消した。朝は、道を、返した。

――こっちだ。

雷鳥が、そう、言っていた。

麻美は、一歩、踏み出した。

その、一歩は、麻美の、これまでの、人生の、どの一歩よりも、重かった。

膝が、笑った。足首が、こわばっていた。凍傷の、右手が、ずきずきと、痛んだ。バランスを、崩しかけて、麻美は、ピッケルを、雪に、突き立てた。左手で。手袋の、ある、左手で。ピッケルの、シャフトが、しなった。麻美は、そこに、体重を、預けて、なんとか、二歩目を、踏み出した。

二歩、三歩。

雪は、深かった。膝まで、ときには、腰まで、埋まった。一歩ごとに、麻美は、雪を、かき分けた。凍えた体には、それは、途方もない、労働だった。十歩、歩いては、立ち止まり、息を、整えた。白い息が、朝の光の中で、金色に、光った。

けれど、麻美は、止まらなかった。

止まったら、また、あの、暖かい眠気が、来る。それを、麻美は、知っていた。だから、歩いた。一歩ずつ。雷鳥の、あとを。

雷鳥は、麻美の、歩みに、合わせて、くれた。麻美が、遅れると、待った。麻美が、追いつくと、また、少し、先へ、進んだ。まるで、麻美の、ペースを、はかっているように。

そして、稜線を、ひとつ、下りきった、そのとき。

風が、ぱたりと、やんだ。

稜線の、風下に、回り込んだのだった。

一夜、麻美を、鳴らしつづけた、あの、弦のような風が、稜線の、岩の、向こうに、遮られて、届かなく、なった。急に、静かに、なった。耳が、痛いほど、静かだった。

その、静けさの中で。

麻美は、初めて、下界を、見た。

雲海が、あった。

麻美の、いる、稜線の、はるか下。谷は、白い、雲の海に、沈んでいた。そして、その雲海の、いちばん向こう、東の、果てから、太陽が、いま、昇りきろうと、していた。雲海の、表面が、朝の光を受けて、金色に、うねっていた。それは、まるで、本物の、海のようだった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

海。

麻美は、その、金色の、雲の海を、見た。

星が、わたった、海。ミラ彗星が、溶けて、消えた、その、朝の、海。それは、こんなにも、広く、こんなにも、金色に、光っていた。麻美は、この一夜、この海を、渡る星の、あとを、追っていたのだ。そして、いま、星は、渡りきり、朝が、来て、麻美は、まだ、生きて、その海を、見ていた。

麻美の、頬に。

初めて、暖かさが、来た。

風が、やんで、光が、直に、当たって。凍りついていた、頬の皮膚が、ようやく、その熱を、熱として、感じた。じん、と。痛みと、区別の、つかない、暖かさ。けれど、それは、嘘の、暖かさでは、なかった。眠気を、連れてくる、あの、死の、暖かさでは、なかった。太陽の、生きた、暖かさだった。

麻美は、その暖かさに、泣きそうに、なった。

けれど、涙は、出なかった。体の、水分は、もう、涙を、作る、ぶんまで、残っては、いなかった。だから、麻美は、涙のかわりに、笑った。凍って、こわばった、頬で。ひび割れた、唇で。麻美は、朝の、光に、向かって、笑った。

雷鳥が、鳴いた。

麻美は、鳥を、探した。

いない。

いつのまにか、雷鳥は、いなく、なっていた。麻美が、雲海に、見とれている、あいだに、どこかへ、飛んで、いって、しまったのか。それとも、麻美を、風のない、この斜面まで、導いて、もう、役目は、終わった、と、去って、いったのか。

麻美には、わからなかった。

けれど、麻美は、その、いなくなった、雷鳥に、向かって、頭を、下げた。誰も、いない、朝の、斜面に、向かって。ありがとう、と。おまえが、いなかったら、おれは、あの岩から、動けなかった。おまえの、あの、一羽の、鳴き声が、なかったら、おれは、朝が来ても、まだ、あそこで、うずくまって、いたかもしれない。

生き物の、声が。

死のうとしていた麻美を、生のほうへ、呼んだ。

そこから、下山までは、長い、長い、道のりだった。

風のない、斜面を、麻美は、下りつづけた。何度も、転んだ。何度も、雪に、埋もれた。そのたびに、起き上がるのに、さっきより、時間が、かかった。体力は、底を、ついていた。凍傷の、右手は、感覚が、戻らないまま、痛みだけが、増していった。

けれど、麻美は、下りた。

太陽が、雲海の上に、完全に、昇り、雲海が、下から、溶けて、谷が、姿を、現しはじめるころ。麻美は、森林限界を、越えて、木々の、あいだに、入った。木があるということは、風が、さらに、弱まるということだった。木があるということは、もう、稜線の、あの、死の、領域を、抜けた、ということだった。

最初の、ダケカンバの、木の、幹に、麻美は、手を、ついた。

左手を。

木の、幹は、冷たかった。けれど、それは、岩や、金具の、あの、命を、奪うような、冷たさとは、違った。木の、冷たさだった。生きて、いるものの、冷たさだった。麻美は、その幹に、額を、押しつけた。しばらく、そうして、いた。

そして、また、歩きだした。

朝の、光が、木々の、あいだから、斜めに、差し込んで、いた。雪の、積もった、枝から、光を受けて、溶けはじめた、雫が、ぽたり、ぽたりと、落ちていた。その音が、麻美には、とても、優しく、聞こえた。稜線を、鳴らしていた、あの、風の、音の、あとでは。

昼近く、麻美は、登山道に、出た。

そこで、下から、登ってきた、二人組の、登山者に、会った。

彼らは、麻美を、見て、ぎょっと、した。無理も、なかった。全身、雪と、氷に、まみれ、顔は、凍傷で、赤黒く、腫れ、右手は、手袋も、なく、蝋のように、白い。まともに、歩けても、いない、その姿は、たぶん、幽霊か、何かのように、見えたのだろう。

「――だ、大丈夫、ですか」

一人が、駆け寄って、きた。

麻美は、口を、開いた。

けれど、声が、出なかった。一夜、風に、さらされ、朝から、歌い、うめいた、喉は、もう、まともな、言葉を、作れなかった。麻美は、代わりに、うなずいた。何度も、うなずいた。そして、生きている、生きている、と、伝えるために、その登山者の、手を、握った。

左手で。手袋の、ある、左手で。

相手の、手は、あたたかかった。

麻美は、その日のうちに、ヘリで、搬送された。

病院で、右手の、指を、二本、失った。凍傷が、深すぎた。医者は、これでも、少ないほうだ、と、言った。あの状況で、一夜を、越えて、指二本、命を、落とさなかったのは、奇跡に、近い、と。

麻美は、そうですか、と、答えた。

奇跡、という、言葉に、麻美は、少し、違和感が、あった。奇跡では、なかった。あれは、麻美が、目を、開けつづけた、結果だった。あの、蒼白い彗星を、見張りつづけた、結果だった。あの、一羽の、鳥に、導かれた、結果だった。奇跡なら、麻美は、何も、しなくても、助かった、はずだ。けれど、麻美は、一夜、抗った。眠気に。暖かさに。死に。

抗ったから、生きた。

それを、奇跡と、呼ぶなら、この世の、朝は、みな、奇跡だった。

夜が、明けて、また、朝が来る。それは、あたりまえのことのようで、じつは、一つ一つが、夜を、越えた、結果だった。夜を、越えたものだけが、朝を、見る。麻美は、あの稜線で、そのことを、体で、覚えた。

それから、麻美は、また、山に、登るように、なった。

失った、右手の、二本の指は、戻らなかった。ピッケルの、握り方を、一から、覚えなおした。手袋を、あつらえる、ときは、右手の、指の、足りない、形に、合わせて、作ってもらった。片方だけ、指の数の、違う、手袋。それは、麻美の、あの一夜の、しるしだった。

麻美は、単独行を、やめなかった。

仲間には、また、呆れられた。あんな目に、あって、まだ、一人で、登るのか、と。けれど、麻美は、やめなかった。あの、稜線で、麻美は、一人だった。一人で、夜を、越えた。一人で、朝を、見た。その、朝を、麻美は、忘れられなかった。

そして、麻美は、山に、登るたびに、探すように、なった。

明け方の、空を。

夜が、明ける、その瞬間を。星が、消え、藍が、薄まり、稜線の、向こうから、最初の、光が、来る、その瞬間を。それを、見るために、麻美は、しばしば、暗いうちから、起きて、稜線に、立った。凍える、手を、こすりながら。片方だけ、指の、少ない、手袋を、はめた、手を。

ある、秋の、明け方。

麻美は、また、稜線に、立って、いた。

夜が、明けようと、していた。東の空が、藍から、桃色へ、変わっていく。星が、一つ、また一つと、消えていく。麻美は、その空を、見上げて、いた。あの一夜の、朝と、同じように。

そして、麓のほうに、目を、落としたとき。

麻美は、谷あいに、ぽつりと、灯る、明かりを、見た。

こんな時間に、こんな、山奥に、明かりが、あるのは、おかしかった。麻美の、記憶では、そこには、何も、なかった。集落も、小屋も、なかった。けれど、その、藍色の、闇の中に、暖かい、黄色い、明かりが、一つ、灯っていた。

古い、店の、明かりの、ようだった。

窓に、本が、並んでいるように、見えた。あんな、山奥に。まさか、書店が。

麻美は、まばたきを、した。

もう一度、見たとき。

明かりは、もう、なかった。

夜明けの、光が、谷を、満たしはじめて、いた。その光の中で、さっきの、明かりは、まるで、夜と一緒に、消えて、しまったように、見あたらなく、なっていた。麻美は、しばらく、そこを、見つめて、いた。見間違い、だったのか、と。あるいは、あれも、あの、彗星や、あの、雷鳥と、同じで、夜が、麻美に、見せて、朝が、連れて、去るものの、一つだったのか、と。

わからなかった。

けれど、麻美は、その、消えた明かりに、向かって、あの一夜、あの雷鳥にしたように、小さく、頭を、下げた。

そして、東の、空を、また、見上げた。

稜線の、向こうから。

その日の、最初の、光が、来た。

麻美は、目を、開けて、いた。両手を――片方だけ、指の、少ない、両手を――胸の前で、握って。夜を、越えた、その光を、迎える、ために。

眠らずに、朝を、待った者だけが、この光を、知っている。夜のいちばん深いところで暖かいと囁かれ、それでも目を開けつづけた者だけが。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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