月光書房
卯の刻 ・ 明け方 ・ 第 四 話

白い呼吸

緒方 澪二
ヒューマン・ミステリ ・ 約31頁

白い呼吸

目を覚ますまえに、匂いのほうが先に届いた。

消毒液と、洗いすぎた布と、それらの奥にかすかにまじる草の匂い。窓のどこかがわずかに開いていて、外の空気が細い糸のように部屋へ流れこんでいた。まだ音のない匂いだった。夜のあいだ地面にたまった露が、これから光をうけて立ちのぼろうとしている、その一歩手前の匂い。

わたしは目をあけた。

天井があった。白い。ひび割れのない、まだあたらしい塗料の白。それをずいぶん長いあいだ見つめてから、わたしはそれが自分の見ている天井であることに気づいた。見ている、というより、見えている。まぶたを動かしたわけでもないのに、世界はすでにそこにあった。

窓のむこうの空が、藍から乳色へ移ろうとしていた。まだ星が二つ三つ残っている。そのなかにひとつ、ほかとちがう光があった。点ではなく、細く尾を引いている。蒼白い、長い線。それはもう消えかけていた。夜が明けるにつれて空じたいに溶けていくように、輪郭を失いつつあった。わたしはなぜか、その光を知っている、と思った。いつか誰かとならんで、この同じ光を見たことがある。けれどそれがいつなのか、誰となのか、手を伸ばしてもとどかない。指のあいだをすり抜けていく水のように、記憶はそこにあって、つかめなかった。

そのとき、廊下のほうで椅子の脚が床をこする音がして、白衣の人が入ってきた。若い看護師だった。彼女はわたしの顔を見て、それから、見ていることに気づいて、手にしていた金属の盆を落としそうになった。

「先生」と彼女は呼んだ。声がうわずっていた。「先生、来てください、目が――目があいています」

わたしは口をひらこうとした。喉の奥で、ずいぶん使っていなかった機械のような音が鳴った。言葉にならなかった。それでも、彼女に伝えたいことがひとつだけあった。窓の外を指したかった。あの光が消えてしまうまえに、あなたも見ておいたほうがいい、と。

けれど腕は動かなかった。動かしかたを忘れていた。

三年、と医者は言った。

正確には三年と二か月と、いくらか。わたしは工事現場のちかくを歩いていて、足場の上から落ちてきた鉄骨に頭を打たれた。そこまでは覚えている。というより、あとから何度もそう聞かされて、覚えているような気がしているだけかもしれない。その日わたしがどこへ向かって歩いていたのか、そのことは誰も知らなかったし、わたしも思い出せなかった。

「奇跡です」と医者は言った。「正直に申しますと、目を覚まされる確率は、年々下がっていました。それが、こんなふうに――」

こんなふうに、というのがどんなふうなのか、医者は最後まで言わなかった。ふつうに、ということだったのだろう。長く眠っていた人が目を覚ますとき、それはたいていゆっくりで、断片的で、意識は霧のなかを行き来する。ところがわたしは、ある明け方に、まるで昼寝から起きるように目をあけた。天井の白がはっきりと見え、外の空の色が変わっていくのがわかった。医者にはそれが不思議だったらしい。

わたし自身は、不思議とは思わなかった。ただ、眠っていたのだ、と思った。長い夜だった。そして夜は明けた。それだけのことのように感じられた。感じられてしまうことが、あとになって、いちばん恐ろしかった。

三年ぶんの時間が、わたしの体からはたしかに失われていた。腕は細くなり、脚は自分の重さを支えられなかった。リハビリの理学療法士は、赤ん坊がはじめて立ちあがるのとおなじですよ、と言った。実際そうだった。手すりをにぎって立ちあがるだけで、額に汗がにじんだ。世界はこんなにも重かったか、とわたしは思った。三年前のわたしは、この重さを平気で持ちあげて歩いていたのだ。

けれど失われたのは、体の力だけではなかった。

妻が来たのは、目を覚ました日の午後だった。

病室の扉があいて、女の人が入ってきた。わたしはその人を見て、妻だ、とすぐにわかった。わかったのに、妻の顔が、記憶のなかの顔と、どこか違っていた。髪が短くなっていた。目のまわりに、以前はなかった細い線があった。三年という時間が、彼女の顔にはきちんと積もっていた。わたしの顔にだけ、それが積もっていなかった。

「あなた」と彼女は言った。それきり、言葉が続かなかった。

彼女はベッドのわきの椅子にすわり、わたしの手をとった。彼女の手はあたたかく、そして、少しだけ迷ってから、わたしの手をにぎった。その迷いを、わたしは感じとった。感じとってしまった。三年のあいだ、彼女はきっと何度もこの手をにぎったのだろう。返事のない手を。そして今日、その手がにぎりかえしてくることに、彼女の体はまだ慣れていなかった。

「みんな、あなたを待っていたのよ」と彼女は言った。

みんな、という言葉に、わたしはひっかかった。

「あかりは」とわたしは訊いた。声はまだかすれていたが、その名前だけははっきりと言えた。「あかりは、来ないのか」

妻の顔が、こわばった。ほんの一瞬だった。彼女はすぐに笑おうとした。けれどその笑みは、うまく形にならなかった。

「あかりは……学校よ。もう、七つになったの。あなたが眠っているあいだに、小学生になったの」

七つ。わたしが眠るまえ、あかりは四つだった。四つの、まるい頬をした、まだ舌足らずな娘だった。わたしの膝の上でしか眠れなかった娘だった。その娘が、七つになって、小学校へ通っている。

「そうか」とわたしは言った。「そうか。大きくなったんだな」

妻はうなずいた。うなずきながら、窓のほうへ目をそらした。

そのそらしかたが、わたしの胸のどこかにひっかかった。けれどそのときのわたしは、それをただ、久しぶりに夫と向きあう妻のぎこちなさだと思った。三年ぶりに目をあけた夫と、どう向きあえばいいのか、わからないのだろう、と。

わたしはそのとき、まだ、いちばん大きな謎に気づいていなかった。

二

退院までには、それから二か月かかった。

その二か月のあいだに、わたしは少しずつ、失われた三年ぶんの世界を教わった。世界のかたちは、思っていたよりも変わっていなかった。けれど、たしかに変わっていた。街には見たことのない店ができ、見なれた店が消えていた。ニュースのなかの出来事は、わたしの知らないところから始まって、わたしの知らないところで終わっていた。人々の手のなかの機械は、ひとまわり薄く、賢くなっていた。

それらはどれも、教われば理解できた。わたしはただ、三年ぶんの新聞をまとめて読まされているようなものだった。追いつくことはできた。時間はかかるが、追いつくことはできる。

けれど、追いつけないものがあった。

それは、家族のなかに流れていた三年ぶんの時間だった。妻とあかりは、わたしのいない三年を、ふたりで生きてきた。その三年に、わたしは一頁も書きこまれていなかった。あかりが熱を出した夜、妻が眠れなかった夜、ふたりで笑った日、ふたりで泣いた日――それらのすべてを、わたしは知らなかった。知らないまま、わたしはそのなかへ帰っていこうとしていた。

家に帰った最初の夜、わたしはあかりに会った。

玄関で、あかりはわたしを見た。七つになった娘は、記憶のなかの娘とは別人のようだった。背が伸び、顔からまるみが消えかけ、そして、その目に、記憶にはなかった何かがあった。警戒でも、よそよそしさでもない。もっと静かな、けれどはっきりとした距離だった。

「ただいま」とわたしは言った。膝を折って、娘と目の高さをあわせようとした。膝がうまく折れなくて、よろけそうになった。

あかりは、少しのあいだわたしを見つめてから、小さな声で「おかえりなさい」と言った。それだけ言うと、彼女は妻の後ろへ半分身を隠した。

その夜、あかりはなかなか寝つけなかった。

わたしは娘の部屋のドアの外に立っていた。中から、妻の声が聞こえた。妻が、子守唄をうたっていた。低い、やわらかな声だった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――

その旋律を、わたしは知っていた。知っている、と体のどこかが反応した。それはわたしがあかりに、いつもうたってやっていた唄だった。四つのあかりを膝にのせて、この唄をうたうと、娘はいつのまにか眠っていた。その唄を、いまは妻がうたっている。当然のことだった。三年のあいだ、妻がうたってきたのだ。けれど、その当然のことが、わたしの胸を静かに刺した。わたしの唄が、いつのまにか、妻の唄になっていた。

ドアの隙間から、部屋のなかがわずかに見えた。妻はあかりのベッドのわきにすわって、うたっていた。あかりは目をつむっていた。眠りに落ちる寸前の、あの無防備な顔をしていた。

そのとき、あかりが寝言のように、小さくつぶやいた。

「……とうさん、かえってこないんでしょう」

妻の唄が、止まった。

わたしは、廊下でうごけなくなった。

かえってこないんでしょう、と娘は言った。

わたしはその夜、そのひとことを、何度も頭のなかでくりかえした。かえってこない。けれど、わたしはかえってきた。いま、ドアの外にいる。娘のすぐそばに。それなのに、なぜ娘はそう言ったのか。

眠っている父親のことを言ったのだ、と最初は思った。三年間かえってこなかった父親。目を覚ますかどうかもわからなかった父親。娘にとって、父親はもう「かえってこないもの」だったのだろう。それは無理もないことだった。四つの子が七つになるまで、待ちつづけられるはずがない。子どもは待つことに疲れる。そして、疲れた子どもは、あきらめることでしか、自分を守れない。

そう思って、わたしは自分を納得させようとした。

けれど、納得しきれない何かが、あった。

娘の言いかたが、過去のことではなかった。かえってこなかった、ではなく、かえってこないんでしょう、と娘は言った。いまも、これからも、かえってこない。まるで、目の前にいるわたしが、父親ではない、とでも言うように。

わたしは首を振った。考えすぎだ、と思った。七つの子の寝言に、そんな意味を読みとろうとするのは、目を覚ましたばかりの、まだ現実にうまく馴染めていない男の、被害妄想のようなものだ。

けれど、その夜からだった。わたしが、家のなかのちいさな謎に、気づきはじめたのは。

三

最初に気づいたのは、書斎のことだった。

わたしには、家のいちばん奥に、小さな書斎があった。三年前まで、わたしはそこで仕事をしていた。設計の仕事だった。図面をひろげ、模型をつくり、夜おそくまで灯りをともしていた部屋。

退院して数日後、わたしはその書斎へ入ろうとした。ドアをあけた。そして、立ちすくんだ。

書斎は、書斎ではなくなっていた。

わたしの机はなく、図面の棚もなく、模型の並んでいた飾り棚もなかった。かわりに、そこには小さな学習机があり、ぬいぐるみがあり、壁には子どもの描いた絵が貼られていた。あかりの部屋だった。もうひとつの、あかりの部屋。

「あかりの勉強部屋にしたの」と、背後で妻の声がした。「あなたが……眠っているあいだに。あの子も大きくなって、自分の部屋がほしがるようになって」

「そうか」とわたしは言った。「そうだよな。三年もあれば、そうなるよな」

それは、理屈のとおったことだった。眠りつづける夫の書斎を、いつまでもそのままにしておくわけにはいかない。三年という時間は、部屋の使い道を変えるのに、じゅうぶんすぎるほど長い。わたしは書斎を失った。それは、わたしが眠っていたことの、当然の代償だった。

けれど、わたしがひっかかったのは、書斎がなくなったことではなかった。

壁に貼られた、あかりの絵だった。

その絵のなかに、家族が描かれていた。子どもの絵によくある、頭でっかちの、棒のような手足の人間たち。三人、描かれていた。真ん中に、大きな女の人。その手をにぎって、小さな女の子。それがあかりと、妻なのだろう。そして、そのふたりの少しはなれたところに、もうひとり。背の高い、男の人が描かれていた。

わたしだ、と思った。

けれど、その男の人には、顔が描かれていなかった。ほかの二人には、目も、口も、笑った顔が描かれているのに、その男の人の顔だけが、白いまま、空白のまま、残されていた。

子どもの絵だ、とわたしは自分に言い聞かせた。描くのに飽きただけだ。顔を描く前に、ほかのことに気をとられただけだ。子どもの絵に、意味を求めてはいけない。

それでも、わたしはその白い顔から、目をそらせなかった。

つぎに気づいたのは、写真のことだった。

居間の棚に、いくつかの写真立てが並んでいた。そこに飾られているのは、どれも、わたしが眠っているあいだの写真だった。あかりの入学式。家族での旅行。誕生日のケーキをかこむ光景。

それらの写真の、どれにも、わたしはいなかった。

当然だった。わたしは眠っていたのだから。写真に写れるはずがない。それなのに、なぜかその写真の並びに、わたしは奇妙な違和感をおぼえた。

写真のなかの妻とあかりは、笑っていた。心から笑っていた。ふたりだけで、じゅうぶんに幸せそうに見えた。そこには、欠けた場所がなかった。父親のいない家族の写真には、ふつう、どこかに欠けた場所があるものだ。父親がいたはずの位置に、空白がある。けれど、この写真たちには、それがなかった。妻とあかりは、二人でひとつの、完結した円のように見えた。

まるで、はじめから、二人だけの家族であったかのように。

わたしは写真立てをひとつ手にとった。あかりの入学式の写真だった。桜の下で、ランドセルを背負ったあかりが、妻と手をつないで立っている。その背景に、ほかの家族連れが写りこんでいた。どの家族も、父親と母親と子どもが、そろっていた。ただわたしの家族だけが、母と娘の二人だった。

写真の裏に、日付が書いてあった。妻の字で。四月八日。

わたしは、その日付を、しばらく見つめていた。何かがひっかかった。けれど、それが何なのか、わからなかった。

四月八日。

その日付を、わたしは、なぜか知っている気がした。あの明け方の、消えかけた蒼い光とおなじように。手を伸ばしても、とどかない場所に、その意味は隠れていた。

四

わたしは、少しずつ、たどりはじめた。

謎、というほど大げさなものではなかった。ただ、家のなかに、小さな綻びがいくつもあった。ほどけた糸の端が、あちこちに垂れていた。わたしはその端を、そっと引いてみたくなった。眠っているあいだに、この家で何が起きていたのか。妻とあかりの三年に、何が書きこまれていたのか。それを知らずに、わたしはこの家に帰ってくることはできない、という気がした。

わたしはまず、妻の様子を、静かに見はじめた。

妻は、やさしかった。献身的だった。三年間、眠りつづけた夫を見捨てなかった。毎日のように病院へ通い、リハビリに付き添い、退院してからは、赤ん坊のように弱ったわたしの世話をした。文句ひとつ言わなかった。それは、疑いようのないことだった。

けれど、その献身のなかに、わたしはときどき、奇妙な間を感じた。

たとえば、夕食のとき。妻はわたしの前に皿を置く。わたしは箸をとる。そのとき、妻がわたしを見る目のなかに、ほんの一瞬、驚きのようなものがよぎることがあった。まるで、そこにわたしがいることを、忘れていたかのように。そして、思い出す。ああ、この人は帰ってきたのだ、と。その驚きを、妻はすぐに隠した。けれど、わたしは見てしまった。何度も。

三年間、この食卓には、二人ぶんの皿しか並ばなかったのだろう。妻とあかりの、二人ぶん。三つめの皿を置くことに、妻の手は、まだ慣れていなかった。それは、理屈でわかることだった。

けれど、あるとき、わたしは気づいた。

妻が、わたしの好物を、ひとつも覚えていないことに。

いや、正確には、覚えていた。妻はわたしのために、わたしの好きだった料理をつくってくれた。魚の煮つけ。ひじきの煮物。三年前とおなじ味だった。妻はわたしの好物を、ちゃんと覚えていた。

わたしが気づいたのは、その逆だった。妻自身の好物が、変わっていたのだ。三年前、妻は甘いものが苦手だった。ケーキも、あんこも、ほとんど口にしなかった。それが、いまの妻は、食後にかならず甘いものを食べた。夜、あかりが眠ったあと、台所で、ひとりで、羊羹をひときれ。あるいは、饅頭をひとつ。

三年のあいだに、人の好みは変わる。それだけのことかもしれなかった。けれど、甘いものが苦手だった人が、毎晩ひとりで甘いものを食べるようになる、というのは、ただの好みの変化にしては、何か、寄る辺のなさのようなものを感じさせた。

わたしは、それが何なのか、まだわからなかった。

そして、手袋のことがあった。

ある日、わたしは玄関のシューズボックスの引き出しを整理していた。退院してから、わたしは家のなかのものを、少しずつ自分の手で確かめていた。三年ぶりに、ものの位置を、体に覚えさせるように。

その引き出しの、いちばん奥に、片方だけの手袋があった。

紺色の、革の手袋だった。右手のもの。上質な、けれど使いこまれた革。指先が少しすり切れていた。わたしはそれを手にとった。とった瞬間、指がそれを覚えていた。これは、わたしの手袋だ。三年前の冬、わたしが使っていた手袋。

けれど、片方しかなかった。左手のものが、どこにもなかった。

わたしは引き出しをぜんぶ探した。シューズボックスの上も、下も探した。左手の手袋は、なかった。片方だけが、引き出しのいちばん奥に、まるで隠されるようにして残されていた。

わたしは、その手袋を、じっと見つめた。

そして、思い出しかけた。

三年前の、冬の朝。まだ暗いうちに、わたしは家を出ようとしていた。玄関で手袋をはめようとして――そう、たしか、片方が見つからなかった。左手の手袋が、どこかへ消えていた。わたしはそれを探して、けれど時間がなくて、右手だけに手袋をはめて、家を出た。

いや、ちがう。

そうではなかった気がする。

あの朝、わたしは、片方の手袋を、誰かに――

そこで、記憶はまた途切れた。あの蒼い光とおなじように。四月八日という日付とおなじように。手を伸ばしても、とどかなかった。

わたしはその手袋を、引き出しに戻さなかった。書斎の――いや、いまはあかりの部屋になってしまった、あの部屋のことを思いながら、わたしはその手袋を、自分の上着のポケットに入れた。片方だけの手袋。それは、なぜか、失われた三年への、たったひとつの手がかりのように思えた。

五

あかりと、二人だけになる機会は、なかなか訪れなかった。

妻がいつもそばにいた。まるで、わたしとあかりを、二人だけにしないようにしているかのように。考えすぎだ、とわたしは思った。妻はただ、心配なのだ。三年ぶりに帰ってきた父親と、七つの娘。そのあいだに、どんな溝があるか、妻はわかっている。だから、その溝が娘を傷つけないように、いつもそばにいるのだ。

それでも、ある朝、機会は訪れた。

妻が、買い物に出た朝だった。まだ早い時間だった。空は白みはじめたばかりで、東の低いところが、わずかに桃色を帯びていた。露のおりた庭の草が、その光をうけて、細かく光っていた。世界が、もう一度目を覚まそうとしている、あの時間だった。

あかりは、居間のテーブルで、絵を描いていた。学校が休みの日だった。

わたしは、あかりのむかいにすわった。娘は顔をあげ、わたしを見て、それから、また絵に目を落とした。距離は、まだそこにあった。けれど、逃げようとはしなかった。

「なにを描いているんだ」とわたしは訊いた。

「うみ」とあかりは言った。「せんせいが、ふゆやすみのおもいでを描いてって」

冬休みの思い出。海。わたしはその絵をのぞきこんだ。青いクレヨンで、大きな海が描かれていた。波が、白い線でいくつも描かれていた。そして、その海のむこう、水平線のあたりに、小さな、けれど丁寧に描かれた光があった。

蒼い、細い、尾を引いた光。

「これは」とわたしは訊いた。声が、少しふるえた。「これは、なんだ」

「ほうきぼし」とあかりは言った。「ふゆに、うみでみたの。おかあさんとふたりで。あさ、はやくおきて、まだくらいときに、うみにいったの。そしたら、そらに、ながいほしがあったの。せんせいが、ミラすいせいっていうんだって、おしえてくれた」

ミラ彗星。

わたしは、あの明け方に、病室の窓から見た光を思い出した。消えかけていた、蒼い光。わたしが、いつか誰かとならんで見た、と思ったあの光。

「おとうさんも」と、わたしは言いかけた。「おとうさんも、その彗星を――」

そこで、言葉が止まった。

あかりが、わたしを見ていた。じっと、わたしを見ていた。その目に、あの静かな距離があった。そして、その距離のむこうから、あかりは、こう言った。

「おとうさん、じゃないよ」

わたしの、心臓が、止まった。

「おとうさんは、うみにこなかったよ。ずっとねてたもん。うみにきたのは……」

あかりは、そこで口をつぐんだ。まるで、言ってはいけないことを言いかけた、というように。彼女は絵に目を落とし、青いクレヨンを、ぎゅっとにぎりしめた。

「だれと、行ったんだ」とわたしは訊いた。できるだけ、静かに訊いた。「海に、だれと行ったんだ、あかり」

あかりは、答えなかった。

けれど、そのかわりに、彼女はちいさな声で、うたいはじめた。海の絵に、白い波を描きたしながら。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――

あの子守唄だった。わたしがうたっていた、そして妻がうたっていた、あの唄。

けれど、あかりのうたいかたは、わたしのものでも、妻のものでもなかった。もっとちがう、誰かのうたいかただった。少し、節がちがった。「星が海をわたるまで」のところで、あかりは、ほんの少し、音を下げてうたった。わたしはそんなふうにうたったことはなかった。妻も、そうはうたわない。

それは、誰か別の人の、うたいかただった。

六

わたしは、その日から、ひとつの疑いを、胸のなかに抱えることになった。

その疑いは、口に出すには、あまりにも重かった。妻に問いただすことは、できなかった。もし、それが真実であったら――そう思うと、わたしは何も言えなくなった。眠っているあいだに、この家に、わたしの知らない誰かがいたのではないか。妻の隣に、あかりのそばに、わたしのいた場所に、別の男が。

けれど、わたしはその疑いを、ただの疑いのままにしておくことも、できなかった。わたしは、たしかめずにはいられなかった。それが、わたしという人間だった。三年前、設計の仕事をしていたころも、わたしは、綻びを見過ごすことができなかった。図面の、ほんの小さなずれを、わたしはいつまでも気にした。それとおなじだった。この家には、綻びがあった。わたしは、その糸の端を、引かずにはいられなかった。

わたしは、ひとつずつ、たしかめていった。

シューズボックスの、片方だけの手袋。あれは、わたしの手袋だった。それは、まちがいなかった。けれど、なぜ、片方だけなのか。左手の手袋は、どこへ行ったのか。

書斎の、顔のない父親の絵。

写真の、二人だけの、完結した家族。

妻の、変わった好み。夜、ひとりで食べる、甘いもの。

あかりが、海で見たという、ミラ彗星。わたしではない、誰かと。

そして、あの、少し節のちがう子守唄。

これらの綻びは、ひとつずつ見れば、どれも、なんでもないことだった。三年という時間が、家族にもたらした、当然の変化だった。けれど、それらをすべて並べてみたとき、わたしの胸に、ひとつの絵が、うかびあがってきた。

わたしが眠っているあいだ、この家には、もうひとりの父親がいたのだ。

わたしは、あかりが学校へ行っているあいだ、家のなかを、もう一度、丁寧に見てまわった。

妻は、その日も、わたしをひとりにしなかった。けれど、洗濯物を干しに、庭へ出た。その、わずかな時間だった。

わたしは、寝室へ行った。妻の、鏡台の引き出しをあけた。それは、してはいけないことだった。けれど、わたしは、たしかめずにはいられなかった。

引き出しのなかは、きちんと整理されていた。化粧品。アクセサリー。そして、いちばん下の引き出しの、奥のほうに、一枚の写真があった。

その写真を、わたしは、手にとった。

写真には、妻と、あかりと、そして、ひとりの男が写っていた。海辺だった。冬の海だった。三人は、笑っていた。あかりは、その男の手をにぎっていた。男は、背が高く、やさしそうな顔をしていた。そして、その男の左手には――

手袋がはめられていた。

紺色の、革の手袋。左手の、手袋。

わたしは、上着のポケットから、あの、片方だけの手袋をとりだした。右手の手袋。すり切れた指先。それを、写真のなかの、男の左手の手袋と、見くらべた。

同じ、手袋だった。

対の、片方ずつ。わたしが右手を、その男が左手を。

わたしは、その場に、立ちつくした。

背後で、庭の戸があく音がした。妻が、洗濯物を干しおえて、戻ってきたのだ。わたしは、写真を引き出しに戻す間もなく、それを手にしたまま、ふりむいた。

妻が、寝室の入り口に、立っていた。

わたしの手のなかの写真を見て、妻の顔から、血の気が引いた。

長い、沈黙があった。

窓の外で、鳥が鳴いた。明け方ではなかった。昼近い時間だった。それでも、その鳥の声は、なぜか、あの明け方の、最初の鳥の声のように、澄んで、遠くまでとどいた。

「これは」とわたしは言った。「この男は、だれだ」

妻は、答えなかった。ただ、目に、涙をためて、わたしを見ていた。

七

「あなたの、弟さんよ」と、妻は言った。

わたしは、その言葉の意味が、すぐには、わからなかった。

弟。わたしには、弟がいた。三つ年下の、弟が。名を、透といった。けれど、透は――

「透は」とわたしは言った。「透は、外国にいるはずだ。もう、十年も帰ってきていない」

「帰ってきたのよ」と妻は言った。声が、ふるえていた。「あなたが、倒れて、すぐに。あなたが、病院で、眠りつづけて――わたしは、ひとりだった。あかりは、まだ四つで、わたしは、どうしていいか、わからなくて。それで、透さんに、連絡したの。あなたのこと、知らせなきゃいけないと思って。そしたら、透さんは、仕事を辞めて、帰ってきてくれた。お義兄さんのそばにいたい、って。あなたのそばに、いたいって」

わたしは、坐りこんだ。ベッドの端に。

「透さんは」と妻は続けた。「この三年、ずっと、わたしたちを、支えてくれたの。病院に、いっしょに通ってくれた。あかりの、面倒を見てくれた。あかりに、絵を教えてくれた。海に、連れていってくれた。子守唄を――」

「子守唄を、うたった」とわたしは言った。

妻は、うなずいた。

「透さんの、うたいかたは、あなたと、少しちがったの。あの子は、それを、覚えてしまって。わたしが、いくら、あなたのうたいかたを教えても、あの子は、透さんのうたいかたで、うたうの」

わたしは、少し節のちがった、あの子守唄を、思い出した。あかりのうたいかた。あれは、透のうたいかただったのだ。

「透は」とわたしは訊いた。「透は、いま、どこにいる」

妻は、目をふせた。

そして、長い沈黙のあと、彼女は言った。

「透さんは、いないの。もう」

透が死んだのは、半年前だった、と妻は言った。

冬の、海だった。あかりが、絵に描いた、あの海だった。

その朝、透は、あかりと妻を、海へ連れていった。まだ暗いうちに。あかりが、彗星を見たがったからだった。その冬、空に、ミラ彗星があらわれることが、ニュースになっていた。あかりは、それを、どうしても、見たがった。透は、あかりの願いを、いつも、かなえてやった。だから、その朝も、まだ暗いうちに、三人で、海へ行った。

彗星は、見えた。明け方の、白みゆく空に、蒼い光が、細く、長く、尾を引いていた。あかりは、喜んだ。透は、あかりを、肩車して、その光を見せた。

海からの帰り道だった。

透の運転する車が、凍った路面で、滑った。ガードレールに、ぶつかった。あかりと妻は、無事だった。かすり傷ひとつ、なかった。透だけが――

透だけが、助からなかった。

「透さんは」と妻は言った。涙が、頬をつたっていた。「あかりを、かばったの。ぶつかる、その瞬間に。自分の体で、あかりを。だから、あかりは、無事だったの。透さんが、あかりを、守ったの」

わたしは、何も言えなかった。

「わたしは」と妻は言った。「あなたに、どう、話せばいいか、わからなかった。あなたが、目を覚まして――こんなに、早く、目を覚ますなんて、思ってもいなかった。目を覚ました、あなたに、弟が死んだことを、どうやって、話せばいいのか。あなたが、眠っているあいだに、弟が、あなたの家族を、支えてくれて、そして、あなたの娘を守って、死んだことを。わたしは、それを、話せなかった。ごめんなさい。ずっと、隠していて、ごめんなさい」

わたしは、手のなかの、片方だけの手袋を、見つめた。

右手の、手袋。

「この手袋は」とわたしは言った。「透のものか」

妻は、首を、横に振った。

「それは、あなたのものよ」と彼女は言った。「あなたが、倒れた日の、朝。あなたは、その手袋を、片方だけ、玄関に忘れていったの。左手のほうだけ、はめて、右手のを、忘れて。わたしは、それを、ずっと、とっておいたの。あなたが、帰ってきたとき、渡そうと思って。でも――」

「でも、透が」とわたしは言った。

「透さんが」と妻は、うなずいた。「あなたの、左手の手袋を、見つけたの。あなたの上着の、ポケットから。倒れた日に、着ていた上着の。透さんは、それを、自分がはめるようになった。あなたの、手袋だから、って。お義兄さんの、かわりに、これをはめて、あかりを守るんだ、って。透さんは、いつも、その左手の手袋を、はめていた。冬のあいだ、ずっと」

対の、手袋だった。

わたしの、右手。透の、左手。

わたしが、玄関に忘れた右手の手袋を、妻がとっておき、わたしが上着に入れていた左手の手袋を、透がはめて、あかりを守った。

二つで、ひとつの、手袋。

兄と、弟の、手袋。

八

わたしは、その日、透の墓へ行った。

妻と、あかりと、三人で。まだ暗いうちに、家を出た。あかりが、そうしたい、と言ったからだった。おじさんに、あさの、ほうきぼしを、見せてあげたい、と。彗星は、もう、ほとんど見えなくなっていた。あの冬の彗星は、空を去りつつあった。それでも、あかりは、まだ見えるかもしれない、と言った。

墓地は、丘の上にあった。東に、ひらけていた。

わたしたちが着いたとき、空は、まだ藍色だった。けれど、東の低いところが、わずかに、白みはじめていた。露が、墓石のうえに、おりていた。それが、これから昇る光を待って、じっと、光の粒をためていた。

あかりは、墓石のまえに、しゃがみこんだ。そして、青いクレヨンで描いた、あの海の絵を、そっと、墓石に、立てかけた。

「おじさん」と、あかりは言った。「ほうきぼし、みえるかな」

わたしは、空を見あげた。

白みゆく空の、まだ藍の残る一角に、それは、あった。ミラ彗星。蒼白い、細い光。長い尾を引いて。けれど、それは、もう、消えかけていた。夜が明けるにつれて、空そのものに、溶けていくように。輪郭を失い、光を薄めて、朝のなかへ、還っていこうとしていた。

これが、この夜の、最後の光だった。

わたしは、その光を、じっと、見つめた。

そして、思い出した。

あの、倒れた日の朝のことを。まだ暗いうちに、わたしは、家を出ようとしていた。玄関で、手袋をはめようとして――片方が、見つからなかった。わたしは、時間がなかった。あの日、わたしは、透に会いにいくところだったのだ。十年ぶりに、帰ってくる、弟に。空港へ、迎えにいくところだった。だから、わたしは、急いでいた。片方だけの手袋をはめて、もう片方を、上着のポケットに突っこんで、わたしは、家を出た。

そして、その途中で、わたしは、鉄骨に打たれた。

弟に会うことなく、わたしは、眠りに落ちた。

透は、空港で、わたしを待っていたのだろう。けれど、わたしは、来なかった。かわりに、知らせが届いた。兄が、倒れた、という知らせが。透は、そのまま、この家に、とどまった。わたしのかわりに。三年間。

わたしが、上着のポケットに入れていた、左手の手袋。それを、透が、はめた。

わたしは、その手袋を、弟に、届けるつもりだったのかもしれない。会いにいく、その朝に、なぜ、片方の手袋を、ポケットに入れていたのか。いま、わたしには、わかる気がした。あれは、届けものだったのだ。十年ぶりに帰る弟に、わたしは、何か、渡したかったのだ。うまく言葉にできない、兄としての、何かを。だから、たまたま、その朝、片方が見つからなかった手袋を、わたしは、ポケットに入れた。まるで、それを、弟に渡すために。

そして、実際に、その手袋は、弟の手に、渡った。

わたしの、知らないところで。わたしが、眠っているあいだに。

弟は、その手袋をはめて、わたしの家族を、守った。

空が、白んでいった。

ミラ彗星は、いよいよ、薄れていった。最後の、蒼い一線が、朝の光のなかに、ほどけていった。もう、それが、そこにあったのかどうかも、わからないほどに。

あかりが、うたいはじめた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――

透の、うたいかたで。「星が海をわたるまで」のところで、少し、音を下げて。

わたしは、その唄を、さえぎらなかった。それは、もう、わたしの唄でも、妻の唄でもなかった。透の唄だった。透が、あかりに、遺した唄だった。わたしは、それを、うばいたくなかった。

わたしは、ポケットから、片方だけの手袋を、とりだした。右手の、手袋。

そして、それを、墓石のまえに、そっと、置いた。

「透」とわたしは言った。「これで、揃ったな」

左手の手袋は、透とともに、あるはずだった。妻が、そうしたのだ、と言った。透を、送るとき、あの左手の手袋を、いっしょに、持たせた、と。だから、いま、透のもとには、左手の手袋がある。そして、わたしは、右手の手袋を、ここに、置いた。

二つで、ひとつ。

兄と、弟の、手袋。

明け方の光が、墓石のうえの、二つの――いや、見えない一つと、見える一つの、手袋のうえに、さしはじめた。露が、光った。草の匂いが、立ちのぼった。世界が、もう一度、始まろうとしていた。

九

家に帰る道で、あかりが、わたしの手を、にぎった。

はじめて、だった。目を覚ましてから、あかりが、自分から、わたしの手をにぎったのは。

わたしは、驚いて、娘を見た。あかりは、前を向いて、歩いていた。けれど、その手は、しっかりと、わたしの手を、にぎっていた。

「おとうさん」と、あかりは言った。

それも、はじめて、だった。目を覚ましてから、あかりが、わたしを「おとうさん」と、呼んだのは。それまで、娘は、わたしを、どう呼べばいいのか、わからずにいた。眠っていた、遠い父親。かえってこないはずだった父親。その人を、なんと呼べばいいのか。

「おとうさん」と、あかりは、もう一度、言った。「ほうきぼし、きえちゃったね」

「ああ」とわたしは言った。「消えたな」

「またくる?」

わたしは、少し、考えた。ミラ彗星が、つぎに、この空にあらわれるのは、いつだろう。何十年も、先かもしれない。あるいは、もっと。わたしは、それを、見ることが、できるだろうか。あかりは、大人になって、それを、見るだろうか。

「くるよ」とわたしは言った。「きっと、また、くる。ずっと、先かもしれないけど。でも、また、くる。彗星は、いなくなるんじゃない。ただ、遠くへ、行っているだけなんだ。ずっと、まわって、まわって、また、帰ってくる。おまえが、大人になったころに、また、この空に、帰ってくる」

あかりは、しばらく、だまっていた。

それから、小さな声で、言った。

「おじさんも、帰ってくる?」

わたしは、答えられなかった。

透は、帰ってこない。それは、たしかなことだった。彗星とは、ちがう。人は、まわって、帰ってはこない。透は、行ったきりだった。

けれど、わたしは、あかりの手を、にぎりかえして、こう言った。

「おじさんは、ここにいるよ」

あかりが、わたしを、見あげた。

「おじさんは、この唄のなかに、いる」とわたしは言った。「おまえが、この唄をうたうたびに、おじさんは、そこにいる。おまえが、海を思い出すたびに、おじさんは、そこにいる。おまえが、彗星を見あげるたびに――おじさんは、そこにいるんだ。だから、おじさんは、いなくなったんじゃない。ただ、見えなくなっただけだ。彗星と、おなじだ」

あかりは、しばらく、わたしの顔を、見つめていた。

そして、うなずいた。ゆっくりと。

「じゃあ」と、あかりは言った。「おとうさんも、いなくなったんじゃなくて、ねてただけ、だね」

わたしは、息を、のんだ。

「そうだ」とわたしは言った。声が、少し、ふるえた。「おとうさんも、いなくなったんじゃない。ただ、長いこと、眠っていただけだ。そして、いま、目を覚ました。帰ってきたんだ」

あかりは、にっこりと、笑った。

七つになった娘の、その笑顔は、四つのころの、あのまるい頬をした娘の笑顔と、まっすぐに、つながっていた。三年の時間は、たしかに、娘の顔を、変えていた。けれど、その奥の、いちばん深いところは、何も、変わっていなかった。

十

家に着いたとき、朝は、すっかり、明けていた。

台所で、妻が、朝食の支度をしていた。わたしは、その背中を、見ていた。妻が、三つの皿を、食卓に並べた。もう、迷いは、なかった。三つの皿を並べる手は、自然だった。

「なにか、手伝おうか」とわたしは言った。

妻が、ふりむいた。そして、少し、驚いたような顔をして、それから、笑った。

「じゃあ、お味噌汁、よそって」と妻は言った。

わたしは、味噌汁を、よそった。三つの、椀に。まだ、手が、うまく動かなかった。少し、こぼした。あかりが、それを見て、笑った。妻も、笑った。わたしも、笑った。

食卓に、湯気が、立ちのぼった。

その湯気のむこうに、わたしは、もうひとつの椀が、あるような気がした。四つめの椀。透の、椀。見えない、けれど、たしかに、そこにある、椀。透は、この食卓で、三年間、あかりと、妻と、朝食を、食べてきたのだ。この椅子に、坐って。この湯気を、見ながら。

わたしは、その、見えない四つめの椀に、心のなかで、味噌汁を、よそった。

透。おまえの、ぶんも。

朝食のあと、わたしは、あかりの部屋へ、行った。

以前は、わたしの書斎だった、部屋。いまは、あかりの、勉強部屋。壁には、あかりの絵が、貼られている。あの、顔のない父親の絵も。

わたしは、その絵を、しばらく、見ていた。

三人の、家族。妻と、あかりと、そして、顔のない、背の高い男。わたしは、それを、わたしだと思っていた。眠っている、わたし。まだ、家族のなかに、顔をもたない、わたし。

けれど、いま、わたしには、わかった。

その、顔のない男は、透だったのかもしれない。あかりにとって、三年間、いちばんそばにいた、父親のような人。けれど、それは、本当の父親では、なかった。だから、あかりは、その顔を、描けなかった。透は、父親であって、父親ではなかった。そのあいだの、名前のない場所に、透は、いた。だから、あかりの絵のなかで、その男は、顔をもたなかった。

あるいは、その男は、わたしと透の、二人が、重なった姿だったのかもしれない。眠っている本当の父と、そばにいた父のような叔父。二人が、ひとつの、顔のない影に、なっていた。

わたしは、机の、引き出しをあけた。あかりの、クレヨンが、入っていた。わたしは、肌色のクレヨンを、とりだした。

そして、その絵の、顔のない男に、顔を、描きたそうとして――

やめた。

わたしが、描くべきでは、なかった。それは、あかりが、いつか、自分で、描くべきものだった。あかりが、この三年を、自分のなかで、整理して、そして、いつか、その男に、顔を、あたえるべきだった。父の顔か、叔父の顔か、あるいは、その両方が、重なった顔か。それは、あかりが、決めることだった。

わたしは、クレヨンを、引き出しに、戻した。

そして、部屋を、出るまえに、もう一度、その絵を、見た。

顔のない男は、妻と、あかりの、少しはなれたところに、立っていた。けれど、その手は――よく見ると、その男の手は、あかりのほうへ、のばされていた。まるで、いつでも、あかりの手を、にぎれるように。まるで、あかりを、守ろうとするように。

透の、手だった。

そして、いまは、わたしの、手でもあった。

十一

その日から、わたしは、少しずつ、家族のなかへ、帰っていった。

失われた三年は、戻らなかった。それは、たしかだった。わたしは、あかりの入学式に、いなかった。あかりが、はじめて、自転車に乗れた日に、いなかった。あかりが、熱を出した夜に、いなかった。それらの日々は、わたしのいない日々として、永遠に、そこにあった。わたしは、それを、埋めることは、できなかった。

けれど、わたしは、これからの日々に、いることが、できた。

あかりが、大人になっていく、これからの日々。妻と、年を重ねていく、これからの日々。その日々に、わたしは、いることが、できた。それだけで、じゅうぶんだ、と思えるようになるまでには、まだ、時間が、かかった。けれど、少しずつ、わたしは、そう思えるように、なっていった。

そして、わたしは、透のことを、忘れなかった。

透が、いなければ、わたしの家族は、この三年を、生きのびることは、できなかっただろう。透が、いなければ、あかりは、あの冬の朝、海で、命を、落としていたかもしれない。透は、わたしのかわりに、家族を、守った。わたしの、手袋を、はめて。

わたしは、透に、ひとことも、礼を言うことが、できなかった。透は、わたしが目を覚ますまえに、逝ってしまった。わたしたちは、十年ぶりの再会を、はたすことが、できなかった。空港で、透は、わたしを待ち、わたしは、行かなかった。そして、透が、この家で、わたしを待っているあいだに、今度は、透が、逝ってしまった。

わたしたち兄弟は、とうとう、会えなかった。

けれど、と、わたしは思う。

わたしたちは、手袋を、交換した。

わたしの、右手と、透の、左手。二つで、ひとつの、手袋。それは、わたしたちが、ことばを交わすかわりに、たがいに、渡しあった、何か、だったのかもしれない。会えなかったかわりに、わたしたちは、手袋を通じて、つながっていた。わたしの右手が、家を出て、鉄骨に打たれて、眠りに落ちるあいだ、透の左手が、わたしのかわりに、あかりの手を、にぎっていた。

わたしたちは、二つで、ひとつの、手で、わたしの家族を、守ったのだ。

ある明け方、わたしは、ひとりで、目を覚ました。

まだ、暗いうちだった。空が、白みはじめる、そのすこし前。わたしは、なぜか、目が覚めて、そして、眠れなくなった。わたしは、そっと、ベッドを出て、居間へ行った。

食卓の、抽斗をあけると、そこに、藍色の、小さなマッチ箱が、あった。三日月の、刻まれた、マッチ箱。「月光堂」と、書いてあった。それは、三年前、わたしが、どこかで、手に入れたものだった。倒れる、まえに。なぜ、それを、買ったのか、覚えていない。けれど、それは、ずっと、この抽斗のなかに、あった。三年間、使われることなく。

わたしは、その、マッチ箱をあけた。

なかには、まだ、マッチが、何本か、残っていた。

わたしは、一本、とりだして、擦った。

小さな、炎が、灯った。

その炎で、わたしは、食卓の、蝋燭に、火を、ともした。三年前の、誕生日か何かの、残りの蝋燭だった。ちいさな、火だった。けれど、それは、明け方の、暗い居間を、ぽつりと、照らした。

わたしは、その火を、見つめた。

そして、透のことを、思った。空港で、わたしを待っていた、弟。会えなかった、弟。手袋を、はめて、あかりを守った、弟。

火は、静かに、燃えていた。

やがて、窓の外が、白みはじめた。露が、光を、待っていた。最初の、鳥が、鳴いた。

わたしは、蝋燭を、吹き消した。

細い、煙が、立ちのぼって、そして、明け方の、光のなかに、溶けて、消えた。

ミラ彗星が、朝の空に、溶けて消えていったように。透が、わたしの、知らないところで、逝ってしまったように。

けれど、消えた、というのは、正しくない、と、わたしは思った。

彗星は、また、帰ってくる。ずっと、まわって、まわって、いつか、また、この空に。透は、あかりの、うたう子守唄のなかに、いる。海の、絵のなかに、いる。彗星を、見あげる、まなざしのなかに、いる。そして、この、二つで、ひとつの手袋のなかに。

消えたのではない。ただ、見えなくなっただけだ。

十二

わたしが、目を覚ましたのは、ある明け方だった。

三年の、長い夜が、明けた、その朝。

わたしは、なぜ、あの明け方に、目を覚ましたのか、いまも、わからない。医者は、奇跡だ、と言った。けれど、わたしは、こう思う。あの朝、空に、ミラ彗星が、あったからではないか、と。三年前の、あの冬にも、彗星は、あった。透と、あかりが、海で見た、あの彗星。それが、めぐって、また、あの明け方に、帰ってきていた。かどうかは、わからない。彗星の、めぐりを、わたしは、知らない。けれど、そう思いたかった。

透が、逝った、その半年後の、明け方に、わたしは、目を覚ました。

まるで、透が、わたしを、起こしてくれたかのように。

お義兄さん、と、透が、言ったかのように。もう、いいですよ。あとは、あなたが、いてください。わたしは、もう、行きます。だから、目を、覚ましてください。あかりのそばに、いてやってください。わたしの、かわりに。

わたしは、目を覚まし、透は、逝った。

わたしたちは、すれちがった。ずっと、すれちがっていた。十年前も、三年前も、半年前も。会おうとして、会えなかった。けれど、いま、わたしは、思う。わたしたちは、すれちがいながら、ひとつのものを、手渡しあっていた。手袋を。子守唄を。あかりを。この、家族を。

透が、守ったものを、いま、わたしが、受けとった。

そして、いつか、わたしが、去るとき、わたしは、それを、また、誰かに、手渡すだろう。あかりに。あかりの、子どもに。まわって、まわって、いつか、また。

いま、わたしは、庭に、立っている。

明け方だ。空が、白みはじめている。露が、草のうえで、光っている。最初の鳥が、鳴きはじめた。世界が、もう一度、始まろうとしている。

あかりが、まだ、眠っている、二階の窓を、わたしは、見あげる。

娘は、いま、どんな夢を、見ているだろう。海の夢か。彗星の夢か。それとも、透の夢か。わたしの夢だろうか。

わたしは、ポケットに、手を、入れる。そこには、もう、手袋は、ない。片方だけの、手袋は、透の墓に、置いてきた。わたしの手は、いま、からっぽだ。けれど、そのからっぽの手を、わたしは、いつでも、あかりのほうへ、のばすことが、できる。透が、そうしたように。

空の隅に、まだ、うっすらと、蒼い光の、名残が、ある。ミラ彗星。もう、ほとんど、見えない。夜の、最後の光。それが、朝の空に、溶けて、消えていく。

わたしは、その光に、むかって、小さく、うなずく。

ありがとう、と。

そして、家のなかへ、戻る。あかりを、起こすために。妻と、朝食を、つくるために。三年ぶんの、失われた朝のかわりに、これからの、数えきれない朝を、生きるために。

長い、夜だった。

そして、夜は、明けた。

わたしは、目を覚ました。今度こそ、本当に。眠っていた、わたしも、行ってしまった、透も、待っていた、家族も――みんな、この、ひとつの明け方のなかで、もう一度、目を覚ました。

露が、光る。鳥が、鳴く。空が、白む。

世界が、はじまる。

もう一度、はじめから。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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