月光書房
辰の刻 ・ 朝 ・ 第 一 話

七時四十二分の手

三雲 怜子
現代・群像 ・ 約28頁

朝の電車は、知らない人ばかりを乗せて、それでもひとつの生きもののように呼吸していた。

七時四十二分、各駅停車。三両目の、進行方向に向かって右側のいちばん端。ドアが閉まると、車内は一度だけ大きく息を吸い込むように詰まり、それからゆっくりと吐き出すように、人と人のあいだの隙間を均していった。誰も誰にも触れたくはないのに、触れないでいることは、もう不可能だった。肩と肩、鞄と背中、コートの袖と誰かの手の甲。そういうものが、ぴったりと重なり、けれど決して交わらないまま、レールの継ぎ目のたびに、いっせいに同じ方向へ揺れた。

窓の外を、朝の光が斜めに切りつけていた。

まだ低いところにある陽だった。ビルとビルのあいだから、細く長く差し込んで、車内の吊り革を、金色に一列、点々と光らせていた。線路沿いの家々の屋根が、白く焼けて見えた。その屋根の向こう、東の空のいちばん高いところに、うっすらと――ほとんど気のせいのように――蒼白い、細い筋が残っていた。夜のあいだ、はっきりと尾を引いていたはずのそれは、昇ってくる陽の光にもう半ば溶けて、消えかけていた。ミラ彗星。明け方まで見えていた、その名残だった。

誰も、それを見ていなかった。

みな、俯いていた。手のなかの小さな光る板を見るか、あるいは何も見ずに、ただ前の人の後頭部のあたりに視線を漂わせていた。この車両のなかに、いま、四十いくつの朝があった。四十いくつの、それぞれの持ち場へ向かう出立があった。けれど、それらは決して混ざらなかった。一人ひとりが、透明な殻のなかにいた。満員の、どこにも隙間のない車両のなかで、人はいちばん深く、ひとりだった。

これは、その殻に、ほんの一瞬だけ、ひびが入った朝の話である。

立っている人々

ドアのすぐそばに、佐伯という男が立っていた。

四十六歳。営業。灰色のスーツの肩に、うっすらと今朝の雨の名残が残っていた。傘は持ってこなかった。天気予報は晴れと言っていたし、実際、家を出るころには雨はやんでいた。けれど駅までの短い道で、ビルの軒からしたたる残りの雨が、ちょうど肩のあたりに落ちてきた。それだけのことだった。それだけのことなのに、佐伯は朝からずっと、その冷たい染みのことが気になっていた。

気になっていたのは、本当は、雨のことではなかった。

昨夜、妻と、少し言い争った。いや、言い争いというほどのものでもない。娘の進学のことで、意見が食い違って、それきり互いに黙り込んだ。今朝、佐伯が家を出るとき、妻はまだ台所にいて、背中を向けたまま「いってらっしゃい」と言った。振り返らなかった。佐伯も、いつものように玄関でひとこと返しただけで、それ以上は言わなかった。言えなかった。二十年、そうやって朝を送り出し、送り出されてきた。振り返らないことが、いつのまにか、二人のあいだの当たり前になっていた。

佐伯は吊り革を握り、俯いて、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。ニュースの見出しが並んでいたが、一つも頭に入ってこなかった。

その隣、同じ吊り革の列に、若い女がいた。

美咲、二十三歳。今日が、正式に社員になって初めての出社日だった。研修は先月終わっていたが、配属先の部署に一人で向かうのは今日が初めてだった。紺色の、まだ折り目のしっかりついたスーツ。買ったばかりの、少しヒールの高い靴。その靴が、さっきから痛かった。踵のあたりが、すでにじくじくと熱を持ちはじめていた。

美咲は、鞄の持ち手をきつく握っていた。

昨夜、母から電話があった。「明日から本番だね」と、母は言った。「がんばりすぎないのよ」。それだけの電話だった。けれど、電話を切ったあと、美咲は少し泣いた。なぜ泣いたのか、自分でもよくわからなかった。うれしいのでも、こわいのでもなかった。ただ、これから始まる長い長い日々のことを思うと、胸の奥のほうが、じんと熱くなった。

母は、遠い町にいた。今朝、美咲がこの電車に乗っていることを、母は知らない。けれど、きっと同じ時刻に、母も台所に立っているだろう、と美咲は思った。同じ朝の光のなかで。

美咲のさらに向こう、ドアに背をあずけるようにして、ひとりの老人が立っていた。

石橋、七十一歳。定年退職して、もう十年になる。今朝、彼がこの通勤電車に乗っているのは、めずらしいことだった。ふだんはこんな時刻に出かけたりしない。けれど今日は、月に一度の、病院の予約日だった。混んだ電車は好きではなかったが、予約の時間に間に合うには、この電車しかなかった。

石橋は、右手にステッキを、左手には、小さな紙袋をさげていた。

紙袋のなかには、和菓子が入っていた。病院の帰りに、昔なじみの店に寄って、妻の好きだった栗蒸し羊羹を買っていくつもりだった。妻は、去年の秋に亡くなった。だから正確には、「妻の好きだった」ではなく、「妻が好きだった」だ。石橋はそのことを、今でもときどき、言い間違えそうになる。買っていく相手は、もういないのに。それでも彼は、病院の帰りには、栗蒸し羊羹を買った。仏壇に供えるためだった。妻のいない食卓で、彼は一人でそれを食べた。二切れずつ。一切れは自分の、もう一切れは、妻の分だった。

電車が、ゆっくりと駅に近づいて、減速した。

みなの体が、いっせいに前へ傾いだ。

座っている人々

座席に座っている者たちにも、それぞれの朝があった。

窓際に、ひとりの女子高生が座って、眠っていた。あるいは、眠ったふりをしていた。名前を、詩織といった。十七歳。制服のスカートのうえに、通学鞄をのせ、その鞄を抱くようにして、窓に頭をもたせかけていた。

詩織は、学校へ行きたくなかった。

いじめ、というほどのことでもない、と彼女は自分に言い聞かせていた。ただ、教室に入ると、空気が少しだけ変わる。声のトーンが変わる。誰も、あからさまなことはしない。けれど、詩織のまわりだけ、いつもほんの少し、透明な膜のようなものがあった。その膜のなかで、彼女は毎日、息をひそめていた。

今朝、家を出るとき、詩織はほんの一瞬、このまま電車に乗って、どこか遠くまで行ってしまおうか、と思った。終点まで。終点の、さらに向こうまで。そうすれば、教室の膜のなかへ、戻らなくてすむ。けれど、彼女はいつもの駅で降りる自分を、もう知っていた。降りて、いつもの道を歩いて、いつもの校門をくぐる自分を。だから彼女は目を閉じて、眠ったふりをした。眠っているあいだだけは、どこへも行かなくてよかった。

詩織の隣に、一人の男が座って、しきりに腕時計を見ていた。

野崎、三十四歳。今朝、彼はひどく焦っていた。九時に、大事な打ち合わせがあった。準備してきた資料を、最終確認しなければならない。膝のうえで、彼はタブレットを開き、指で忙しく画面をスワイプしていた。眉間に皺が寄っていた。時々、小さく舌打ちをした。

野崎の頭のなかは、これから始まる一日のことでいっぱいだった。打ち合わせのこと。そのあとの外回りのこと。夕方の会議のこと。彼にとって、この電車のなかの二十分は、ただの移動時間ではなかった。仕事の続きだった。彼は、目的地に着く前から、もうそこで働いていた。窓の外の朝空も、隣で眠る少女も、彼の視界には、まったく入っていなかった。

その向かいの席に、母親と、小さな子どもが座っていた。

母親の名は、ゆかり。三十歳。膝のうえに、二歳になる息子を抱いていた。今日、彼女は息子を連れて、遠くの町の実家へ帰るところだった。ではなかった。正確には、実家へ、息子をあずけに行くところだった。今日から、彼女は働きに出る。事情があって、一人で子を育てることになった。保育園はまだ決まらず、しばらくのあいだ、母に息子をあずけることにした。

ゆかりは、息子の柔らかな髪を、そっと撫でていた。

息子は、母の腕のなかで、機嫌よく、あたりをきょろきょろと見回していた。まだ、何も知らなかった。今日から、母と長く離れることを。母が毎朝、知らない場所へ「出立」していくことを。ゆかりは、その無邪気な横顔を見ながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。彼女は、小さな声で、何かを口ずさみはじめた。息子を寝かしつけるときに、いつも歌う唄だった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

それは、子守唄だった。ゆかりの母が、幼いゆかりに歌ってくれた唄。そのまた母が、歌ってくれたのだという唄。星が海をわたるまで――どこの海だろう、と、幼いころのゆかりは思ったものだった。星は、海をわたるのだろうか。わたって、どこへ行くのだろう。

息子は、その唄を聞くと、少しだけおとなしくなった。母の胸に、頭をあずけた。ゆかりは、歌いつづけた。誰にも聞こえないほどの、小さな声で。満員の車内のざわめきに、その旋律は、すぐに溶けて消えていった。

それぞれの持ち場へ

電車が、次の駅に着いた。

ドアが開き、幾人かが降り、それより多くの人が乗り込んできた。車内は、さらに密度を増した。もう、身動きひとつとれないほどだった。新しく乗ってきた人々が、それぞれ、わずかな隙間を見つけて、そこに自分の体を収めていった。

そのなかに、一人の外国人の青年がいた。

名を、トマといった。二十五歳。この国に来て、まだ半年だった。今日から、新しい職場だった。前の仕事がうまくいかず、辞めて、ようやく見つけた次の仕事。初日の朝。彼は、慣れない満員電車のなかで、緊張して、体を硬くしていた。手には、乗り換え案内を印刷した紙を握りしめていた。何度も確認した道順だったが、それでも不安だった。降りる駅を、間違えたらどうしよう。乗り換えを、間違えたらどうしよう。

トマの隣に、白い杖を持った女性が立った。

名を、真弓といった。三十八歳。目が、ほとんど見えなかった。生まれつきではない。三十を過ぎてから、少しずつ、視界が狭まっていった。今は、明るさと、ぼんやりとした輪郭くらいしか、わからない。それでも彼女は、毎朝、この電車に乗って、仕事へ通っていた。マッサージ師の仕事だった。彼女の指は、目の代わりに、人の体のこわばりを、こりを、疲れを、正確に読みとった。

真弓は、白い杖の先で、そっと足元を探りながら、手すりに掴まった。

満員電車は、彼女にとって、いつも小さな冒険だった。人の流れが、どちらに動くのか。どこに手すりがあるのか。次の駅で、誰が降り、誰が乗ってくるのか。それらを、彼女は音と、気配と、空気の動きで読みとった。今朝も、彼女はいつものように、耳を澄ませていた。車内の、無数のざわめきのなかから、必要な情報だけを、選びとろうとしていた。

そのとき、彼女の耳が、ひとつの、かすかな旋律をとらえた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

真弓は、はっとした。それは、彼女の母が、幼い彼女に歌ってくれた唄だった。目が見えなくなりはじめたころ、不安で眠れない夜に、電話の向こうで、母が歌ってくれた唄でもあった。こんなところで、それを聞くとは思わなかった。彼女は、その旋律の聞こえてくるほうへ、ほんの少しだけ、顔を向けた。誰かが、子どもを、あやしているのだろう。真弓には、その光景は見えなかった。けれど、見えるような気がした。母親の膝のうえの、小さな子ども。撫でられる、柔らかな髪。そういうものが、旋律のなかに、たしかにあった。

真弓は、目を閉じた。閉じても、開けても、彼女の見る風景は、そう変わらなかった。けれど、目を閉じると、その旋律が、いっそう近く聞こえた。

揺れる

電車が、大きくカーブにさしかかった。

車体が、ぐらりと傾いだ。立っている人々の体が、いっせいに、外側へ引っぱられた。みな、慣れたもので、吊り革や手すりに掴まり、体を支えた。膝を柔らかく使って、揺れを吸収した。この揺れも、彼らの朝の一部だった。毎日繰り返される、体が覚えてしまった揺れ。

けれど、その朝の揺れは、いつもより、少し大きかった。

前の駅で、ダイヤが少し乱れていた。運転手が、遅れを取り戻そうとしていたのかもしれない。カーブを抜けるときの速度が、いつもより、わずかに速かった。車体が、二度、三度と、続けて揺れた。

そのとき。

「あ――」

短い声がした。

立っていた石橋老人の体が、ぐらりと、大きく傾いだ。

ステッキを持つ手が、揺れに掴まりそこねた。彼の体は、支えを失って、ゆっくりと、けれど確実に、床のほうへ崩れていった。七十一歳の体は、思うようにならなかった。踏ん張ろうとした足が、うまく力を受け止めきれなかった。紙袋が、手から離れた。

その瞬間、いくつものことが、同時に起こった。

いちばん近くにいた美咲が、とっさに手を伸ばした。新入社員の、まだ何者でもない、けれど何かをしようとする手だった。彼女は、崩れかけた老人の腕を、下から掴んだ。けれど、二十三歳の細い腕では、老人の体重を、一人で支えきることはできなかった。二人とも、傾いだ。

「――っ」

美咲の顔が、こわばった。

そのとき、もう一つの手が、伸びた。

佐伯だった。スマートフォンを、彼はいつのまにかポケットに突っ込んでいた。肩の雨の染みのことも、妻とのことも、その瞬間、彼の頭からきれいに消えていた。彼はただ、目の前で崩れかけている老人と、それを支えようとして自分も傾いている若い女を見て、体が勝手に動いた。四十六歳の、まだ十分に力の残っている腕が、老人の背に回った。

「大丈夫ですか」

佐伯の声は、自分でも思いがけないほど、はっきりと出た。

三人の体が、なんとか、その場に踏みとどまった。

けれど、まだ完全ではなかった。老人の足は、まだ床をしっかりと捉えていなかった。三人は、狭い空間のなかで、危うい均衡を保っていた。あと少し、電車がもう一度揺れれば、また崩れそうだった。

そのとき、四人目の手が、伸びた。

野崎だった。座っていた彼は、タブレットを膝から滑り落とすのもかまわず、立ち上がっていた。九時の打ち合わせも、資料の最終確認も、その瞬間、彼の頭から吹き飛んでいた。彼は、目の前の座席を、老人に譲ろうとしていた。

「こちらへ。座ってください」

野崎は、そう言って、老人の腕を取り、自分の空けた席へと導いた。

美咲と佐伯が、老人を支えながら、その席へと、そっと下ろした。石橋老人は、座席に体を沈めると、大きく、息を吐いた。

「……ありがとう。ありがとうございます」

老人の声は、震えていた。

「面目ない。年をとると、いけませんな。踏ん張りがきかん」

「いえ」と、美咲が言った。まだ、心臓がどきどきしていた。「お怪我は、ありませんか」

「ないない。おかげさまで。ありがとう、お嬢さん」

老人は、そう言って、笑った。皺だらけの顔に、その笑みは、朝の光のように広がった。

拾う手

その騒ぎのあいだに、床に、いくつかのものが散らばっていた。

老人の紙袋。そのなかから転がり出た、栗蒸し羊羹の箱。老人のステッキ。それから――誰のものか、片方だけの手袋が、ひとつ。

灰色の、毛糸の手袋だった。誰かが、いつか、この車両のどこかで落としていったものかもしれなかった。あるいは、今朝、誰かのポケットから、揺れのはずみで滑り落ちたものかもしれなかった。それは、床のうえに、片方だけ、ぽつんと落ちていた。もう片方は、どこにもなかった。ずっと昔に、その相棒とはぐれたまま、片方だけで、この朝の車両を旅してきたかのようだった。

それを、拾ったのは、詩織だった。

眠ったふりをしていた女子高生。彼女は、隣で起きた騒ぎに、目を覚ましていた。あるいは、はじめから、眠ってなどいなかったのかもしれない。彼女は、床に散らばったものを見て、体をかがめた。ステッキを拾い、紙袋を拾い、そして最後に、その片方だけの手袋を、拾い上げた。

「あの」と、詩織は言った。

久しぶりに出す声のようだった。学校では、もう何日も、まともに声を出していなかった。その声が、思いがけず、まっすぐに出た。

「これ、どなたのですか」

車内が、少し、ざわめいた。

誰も、名乗り出なかった。片方だけの手袋。それは、誰のものでもないようだった。あるいは、誰かのものであったのに、その誰かは、もう、失くしたことにさえ気づいていないのかもしれなかった。

詩織は、その手袋を、しばらく手のなかで見つめていた。

灰色の、毛糸の手袋。片方だけ。彼女は、なぜか、それをそのまま床に置き去りにする気になれなかった。彼女は、その手袋を、そっと、近くの網棚の端にのせた。誰かが、探しに来るかもしれない。片割れを、まだ、待っているかもしれない。網棚のうえで、その片方だけの手袋は、朝の光を受けて、少しだけ、あたたかそうに見えた。

老人が、詩織のほうを見て、言った。

「ありがとう。優しいお嬢さんだ」

詩織は、少し、うつむいた。優しい、と言われたのは、久しぶりだった。学校では、彼女は、いないもののように扱われていた。優しいも、優しくないも、なかった。ただ、透明だった。その透明な彼女が、今、この見知らぬ老人に、優しい、と言われていた。

胸の奥が、じん、と、あたたかくなった。

名前のない連帯

車内の空気が、変わっていた。

さっきまで、一人ひとりが、透明な殻のなかにいた。俯いて、互いを見ないようにして、それぞれの朝のなかに閉じこもっていた。けれど、今、その殻に、ひびが入っていた。人々は、顔を上げていた。互いを、見ていた。

「大丈夫でしたか」と、誰かが言った。

「びっくりしましたね」と、別の誰かが答えた。

「最近、揺れが大きいですよね、この電車」

「ダイヤが乱れてたみたいですよ」

言葉が、行き交いはじめた。見知らぬ者どうしの、なんでもない言葉。けれど、その言葉のひとつひとつが、さっきまでの沈黙を、少しずつ、溶かしていった。

トマは、その様子を、目を丸くして見ていた。

この半年、彼は、この国の人々を、どこか冷たいと感じていた。電車のなかで、誰も、目を合わせない。話しかけない。まるで、互いが存在しないかのように振る舞う。彼の国では、電車のなかで、見知らぬ者どうしが、よく話をした。天気のこと、昨日の試合のこと、なんでもないこと。ここでは、それがなかった。彼は、その静けさに、いつも、少し、寂しさを感じていた。

けれど、今、彼は見ていた。

一人の老人が倒れかけたとき、いくつもの手が、いっせいに伸びたのを。若い女が、初老の男が、忙しそうにしていた男が、眠っていた少女が――みな、自分のことを、一瞬、忘れて、他人のために、手を伸ばしたのを。

冷たいのではなかった、と、トマは思った。ただ、しまってあるだけだった。ふだんは、殻のなかに、そっとしまってある。けれど、必要なときには、それは、こんなふうに、いっせいに、出てくる。

トマは、握りしめていた乗り換え案内の紙を、少し、緩めた。

その様子を見ていたのか、隣の真弓が、静かに言った。

「初めてですか、この路線」

トマは、驚いて、真弓のほうを見た。白い杖を持った、目の見えない女性。その人が、どうして、自分が初めてだとわかったのだろう。

「えっと……はい。今日、初めてです。仕事、初日で……」

トマの、たどたどしい言葉を、真弓は、ゆっくりと聞いた。

「そうですか。緊張、していますね。息の音で、わかります」

真弓は、微笑んだ。

「大丈夫ですよ。降りる駅、教えてくれたら、私、この路線は長いので、わかります。どちらまで」

トマは、握っていた紙を見せようとして、相手が見えないことを思い出し、あわてて、駅の名を、口で告げた。

「ああ、それなら、次の次です。降りたら、右へ進んで、階段を上がると、乗り換えの案内があります。急がなくて、大丈夫。あわてると、かえって、迷いますから」

「ありがとう……ございます」

トマの声は、少し、震えていた。半年で初めて、この国の電車のなかで、見知らぬ誰かに、道を教えてもらった。目の見えない人に、道を、教えてもらった。彼は、そのことの不思議さと、あたたかさに、うまく、言葉が出なかった。

それぞれの、続き

電車が、次の駅に着いた。

ドアが開いた。

真弓が、白い杖で足元を探りながら、降りていった。彼女は、ドアの手前で、一度、振り返るように、トマのほうへ、顔を向けた。

「よい一日を」

そう言って、彼女は、朝の光のなかへ、降りていった。人の流れに乗って、その白い杖の先が、ホームの点字ブロックを、たしかに捉えるのを、トマは、見送った。

ゆかりも、この駅で降りた。

膝のうえで、いつのまにか、息子は眠っていた。子守唄が、効いたのかもしれない。彼女は、眠る息子を、そっと抱き上げた。これから、遠い実家へ向かう。息子をあずけて、そして、明日から、新しい仕事へ「出立」する。しばらくは、毎朝、この子と離れることになる。それを思うと、胸が痛んだ。けれど、彼女は、歩き出さなければならなかった。この子のために。この子と、自分の、これからの日々のために。

ドアを出るとき、ゆかりは、車内のほうを、一度、振り返った。

さっきの騒ぎのことを、彼女も見ていた。倒れかけた老人。伸びた、いくつもの手。片方だけの手袋を、そっと網棚にのせた、少女。名前も知らない人々の、一瞬の、あたたかさ。

そういうものが、まだ、車内の空気のなかに、残っているような気がした。

ゆかりは、眠る息子の耳元で、もう一度、小さく、子守唄を口ずさんだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

その旋律が、ドアの閉まる音とともに、車内から、切り離された。けれど、それは、消えたのではなかった。旋律は、まだ、車内に残った誰かの、記憶のなかへ、そっと、移っていった。真弓の記憶のなかへは、もう、移っていた。彼女は、その旋律を、母の声とともに、これから一日、胸のなかで反芻するだろう。

老人の駅

石橋老人が降りるのは、まだ、二つ先の駅だった。

彼は、譲ってもらった席に座って、窓の外を眺めていた。朝の光が、まぶしかった。ビルとビルのあいだから差し込む、その低い、金色の光。彼は、目を細めた。

この光を、と、彼は思った。

この光を、妻も、毎朝、見ていたのだろうか。妻が生きていたころ、石橋は、この時刻の電車に乗ることなど、なかった。定年まで、車で通っていた。だから、妻が、どんな朝を送っていたのか、彼は、よく知らなかった。妻は、朝、彼を送り出したあと、どんなふうに、一日を始めていたのだろう。どんな光のなかで、洗濯物を干し、どんな光のなかで、庭の花に水をやっていたのだろう。

石橋は、膝のうえの紙袋を、そっと撫でた。

栗蒸し羊羹。妻が好きだった。今日も、病院の帰りではなく、行く途中で、それを、もう、持っている。買ってきたのだった。今朝、家を出る前に。仏壇に、供えるために。二切れ。一切れは、自分の。もう一切れは、妻の。

「危ないところだった」と、石橋は、心のなかで、妻に語りかけた。

倒れそうになってな。若い人たちが、助けてくれた。優しい人たちだった。お前がいたら、きっと、あの人たちに、お礼を言いたがっただろうな。お前は、そういう人だった。見知らぬ人にも、すぐ、話しかける人だった。私は、それが、少し、恥ずかしくてな。いつも、お前の後ろで、黙っていた。

でも、と、石橋は思った。

今日は、私も、お礼を言えた。ありがとう、と。ちゃんと、言えたよ。

窓の外の空を、石橋は、見上げた。

朝の空は、もう、すっかり明るくなっていた。けれど、東のいちばん高いところに、まだ、うっすらと、蒼白い筋が、残っていた。彼は、それに、気づいた。

「おや」と、石橋は、小さく声を出した。

彗星だ。

明け方に、見たのだった。今朝、家を出るとき。まだ暗い空に、蒼白い、長い尾を引いて、それは、たしかに、そこにあった。妻が生きていたら、二人で、それを見ただろう。妻は、星が好きだった。「きれいねえ」と、きっと言っただろう。石橋は、一人で、それを見た。しばらく、玄関の前に立って、それを、見上げていた。

そして今、昇る陽のなかに、その名残が、まだ、消えずに、残っていた。

昨夜、はっきりと尾を引いていたはずのそれは、今、朝の光に溶けて、ほとんど見えなくなっていた。それでも、たしかに、そこにあった。夜のものが、朝のなかへ、わずかに、持ち越されていた。消えゆくものが、まだ、消えきらずに、朝の空に、痕を残していた。

石橋は、それを、しばらく見上げていた。

亡くなったものと、生きているもの。夜と、朝。過ぎたことと、これから始まること。そういうものが、あの、消えかけた蒼い筋のなかで、ひとつに、なっているような気がした。

「見えるかい」と、彼は、また、妻に語りかけた。

彗星だよ。まだ、見えている。

佐伯の朝

佐伯は、老人を席に下ろしたあと、また、もとの吊り革の位置に、戻っていた。

けれど、彼の朝は、さっきまでとは、少し、変わっていた。

肩の雨の染みのことは、もう、気にならなかった。妻とのことは――それは、まだ、胸の奥に、しこりのように残っていた。けれど、そのしこりの、輪郭が、少し、変わっていた。

さっき、老人を支えたとき、彼は、思ったのだった。

もし、これが、自分の父だったら。あるいは、いつか、年老いた自分だったら。誰かが、こうして、手を伸ばしてくれるだろうか。見知らぬ誰かが。今朝の、あの若い女や、あの忙しそうな男のように。

そして、彼は、思い出したのだった。

妻のことを。二十年、連れ添った妻のことを。振り返らずに「いってらっしゃい」と言った、あの背中のことを。あの背中は、冷たかったのだろうか。本当に。それとも、私が、勝手に、冷たいと決めつけていただけなのだろうか。

見知らぬ老人には、手を伸ばせた。「大丈夫ですか」と、はっきり、声が出た。

なのに、なぜ、いちばん近くにいるはずの妻には、その、たったひとことが、言えなくなってしまったのだろう。

佐伯は、ポケットから、スマートフォンを取り出した。

そして、少し、迷ってから、妻に、短いメッセージを打った。

「今朝は、悪かった。帰りに、何か、買っていく。食べたいもの、ある?」

送信ボタンを押すのに、少し、勇気がいった。二十年、そんなメッセージを、送ったことがなかった。指が、少し、震えた。けれど、彼は、押した。

送信された、という表示が出た。

返事は、すぐには、来なかった。妻は、まだ、台所にいるのかもしれない。あるいは、これから、パートに出かける支度をしているのかもしれない。彼は、返事を、待った。窓の外を、朝の光が、流れていった。

電車が、次の駅で、止まった。

ドアが開き、また、人が入れ替わった。佐伯は、スマートフォンを、握りしめていた。

ドアが閉まる直前、画面が、光った。

妻からだった。

「びっくりした。どうしたの。……プリン、かな。あなたも、たまには、甘いもの、いいでしょ」

佐伯は、その短い返事を、何度も、読み返した。

プリン。妻の、好きなもの。二十年、知っていたはずのこと。けれど、それを、今朝、あらためて、教えてもらったような気がした。彼は、口元が、ゆるむのを、感じた。満員電車のなかで、一人、俯いて、彼は、少しだけ、笑った。

帰りに、プリンを、買っていこう。

そう思うと、今日という一日が、少しだけ、やわらかいものに、変わった気がした。

美咲の出立

美咲が降りる駅は、もうすぐだった。

彼女は、老人を助けたあと、まだ、心臓が、少し、どきどきしていた。とっさに、体が動いた。あんなふうに、見知らぬ人のために、手を伸ばしたのは、初めてだった。自分が、そんなことをできるとは、思っていなかった。

母の言葉が、耳の奥で、よみがえった。

「がんばりすぎないのよ」。

美咲は、ずっと、自分は、頼りない、と思っていた。何もできない、と。今日から始まる仕事のことを思うと、こわくて、たまらなかった。ちゃんと、やっていけるだろうか。役に立てるだろうか。誰かの、迷惑にならずに、すむだろうか。

けれど、さっき、彼女の体は、勝手に、動いたのだった。

考える前に、手が、伸びた。倒れかけた老人を、支えようとして。一人では、支えきれなかった。けれど、そこへ、別の手が、伸びてきた。そして、また別の手が。一人では、できないことも、いくつかの手が、集まれば、できた。

これから始まる仕事も、と、美咲は思った。

きっと、そうなのかもしれない。一人で、すべてを、抱え込まなくても、いいのかもしれない。困ったときには、誰かが、手を伸ばしてくれるかもしれない。そして、いつか、自分も、誰かのために、手を伸ばせるかもしれない。今朝の、あの、とっさの手のように。

美咲は、鞄の持ち手を握る力を、少し、緩めた。

靴は、まだ、痛かった。踵の、じくじくとした熱は、まだ、そこにあった。けれど、彼女は、その痛みを、なぜか、少しだけ、いとおしく感じた。新しい靴。新しいスーツ。新しい、一日。すべてが、まだ、彼女の足に、なじんでいなかった。けれど、なじむまで、歩いていくのだ。一日、一日。

ドアが開いた。

美咲の駅だった。

彼女は、深く、息を吸った。そして、朝の光のなかへ、一歩、踏み出した。ヒールの高い靴が、ホームの地面を、たしかに、捉えた。少し、よろけた。けれど、転ばなかった。彼女は、まっすぐに、前を向いて、人の流れのなかへ、歩き出した。

その背中を、車内から、詩織が、見ていた。

詩織の選択

詩織は、まだ、電車のなかにいた。

彼女の学校の最寄り駅は、まだ、三つ先だった。あるいは、彼女は、その駅で、降りないかもしれなかった。今朝、家を出るとき、彼女は、思ったのだった。このまま、どこか遠くまで、行ってしまおうか、と。

けれど、今、彼女の胸のなかは、少し、変わっていた。

さっき、彼女は、声を出した。「これ、どなたのですか」と。何日も、まともに出していなかった声。それが、思いがけず、まっすぐに、出た。そして、老人に、「優しいお嬢さんだ」と、言われた。

優しい。

その言葉が、まだ、胸のなかで、あたたかく、灯っていた。

網棚のうえの、片方だけの手袋を、詩織は、見上げた。

灰色の、毛糸の手袋。片方だけ。もう片方を、どこかで、失くしてしまったもの。あるいは、待っているもの。片割れが、いつか、戻ってくるのを。

私も、と、詩織は思った。

私も、あの手袋みたいだ。片方だけ。教室のなかで、透明な膜の内側で、片割れとはぐれたまま、一人でいる。誰も、探しに来ない。誰も、気づかない。

けれど、と、彼女は思い直した。

あの手袋は、今、網棚のうえで、朝の光を受けて、あたたかそうに、見えた。片方だけでも。片割れとはぐれていても。私が、拾って、そこに、のせた。そのことに、意味が、あるのかどうか、わからない。けれど、少なくとも、あの手袋は、もう、床のうえで、踏まれてはいない。誰かの目にとまる場所に、ある。片方だけでも、そこに、ある。

詩織は、窓の外を、見た。

朝の光。低い、金色の光。ビルとビルのあいだから、差し込む光。その光のなかを、たくさんの人が、それぞれの持ち場へ、歩いていくのが、見えた。ホームを、階段を、改札を。みな、どこかへ、向かっていた。それぞれの、朝のなかを。

私も、と、詩織は思った。

私も、私の持ち場へ、行こう。学校。あの、透明な膜のある、教室。こわい。行きたくない。それでも――今日は、行ってみよう。もし、また、息が、苦しくなったら、思い出そう。今朝の、この電車のことを。倒れかけた老人と、伸びた、いくつもの手のことを。声を出した、自分のことを。「優しいお嬢さん」と、言われた、自分のことを。

一人では、ないのかもしれない。

透明な膜のなかにいるのは、私だけでは、ないのかもしれない。この車両のなかの、誰もが、それぞれの、透明な膜のなかにいた。俯いて、互いを見ないようにして。けれど、さっき、その膜に、ひびが、入った。いっせいに、手が、伸びた。膜は、破れるのだ。必要なときには。

詩織は、自分の駅で、降りることに、決めた。

野崎の、遅れた朝

野崎は、席を譲ったあと、ドアの近くに、立っていた。

膝から滑り落ちたタブレットは、拾って、鞄に、しまっていた。九時の打ち合わせのことは、まだ、頭の隅に、あった。資料の最終確認も、まだ、できていなかった。彼は、少し、焦っていた。

けれど、その焦りは、さっきまでとは、少し、質が、違っていた。

さっき、老人が倒れかけたとき、彼は、考える前に、立ち上がっていた。席を、譲っていた。それは、彼にとって、めずらしいことだった。ふだんの彼なら、たぶん、動かなかった。誰か、他の人が、やるだろう、と思って。自分は、忙しいのだから、と思って。

けれど、今朝は、体が、勝手に、動いた。

そして、今、彼は、思っていた。

自分は、いつから、こんなに、余裕がなくなってしまったのだろう、と。電車のなかの、二十分。それさえ、仕事の続きに、してしまっていた。目的地に着く前から、もう、そこで、働いていた。窓の外の空も、見なかった。隣で眠る、少女のことも、気づかなかった。自分の、すぐ前で、老人が倒れかけていることさえ、もう少しで、気づかないところだった。

野崎は、窓の外を、見た。

久しぶりに、見る、朝の空だった。低い陽が、まぶしかった。彼は、目を細めた。そして、東の空の、高いところに、うっすらと、蒼白い筋が、残っているのに、気づいた。

彗星の、名残だった。

そういえば、と、野崎は思い出した。昨夜、遅くまで、資料を作っていた。深夜に、コンビニへ、コーヒーを買いに出た。そのとき、ふと、空を見上げたのだった。蒼白い、長い尾を引く星が、そこに、あった。きれいだ、と、一瞬、思った。けれど、すぐに、部屋へ戻って、また、仕事を、続けた。星のことなど、それきり、忘れていた。

その、彗星が、まだ、朝の空に、残っていた。

野崎は、鞄のなかから、タブレットを、取り出そうとして――やめた。

資料の確認は、着いてからでも、できる。今は――今は、この、朝の空を、見よう。彼は、そう思った。久しぶりに、何もせずに、ただ、窓の外を、見た。流れていく、街並みを。低い陽に、光る、屋根を。消えかけた、蒼い星の、名残を。

打ち合わせは、なんとかなるだろう、と、彼は思った。

なんとか、ならなかったとしても――それは、それで、いいのかもしれない。今朝、自分は、席を、譲った。それは、資料の出来よりも、たぶん、大事なことだった。

野崎は、鞄の、ポケットに手を入れた。

指先が、何か、小さな、四角いものに、触れた。取り出してみると、それは、藍色の、小さなマッチ箱だった。三日月が、刻んであった。いつ、どこで、手に入れたのか、覚えていなかった。たぶん、いつか、どこかの店で、もらったのだろう。それが、鞄の底に、ずっと、眠っていた。

野崎は、そのマッチ箱を、しばらく、手のなかで、見つめた。

三日月の、刻まれた、藍色。彼は、なぜか、それを、捨てられずに、鞄の底に、しまいこんでいた自分のことを、少し、いとおしく感じた。忙しさのなかで、こんな小さなものを、握りしめていた自分のことを。

彼は、そのマッチ箱を、また、そっと、ポケットに、戻した。

通り過ぎていく朝

電車は、走りつづけた。

駅に着くたびに、人が、降り、人が、乗った。さっきの騒ぎを見ていた人々は、一人、また一人と、降りていった。そして、そのことを知らない人々が、新しく、乗り込んできた。

新しく乗ってきた人々は、車内の空気が、いつもと少し違うことに、たぶん、気づかなかった。彼らの目には、それは、ただの、いつもの、満員電車だった。俯いた人々。光る板を見る人々。互いを、見ないようにしている人々。透明な殻のなかの、いくつもの朝。

けれど、その車両には、まだ、さっきの、あたたかさの、名残が、残っていた。

夜のあいだ尾を引いた彗星が、朝の空に、その名残を、わずかに残すように。誰かが倒れかけたとき、いっせいに伸びた、いくつもの手の、あたたかさが、まだ、そこに、あった。それは、目には、見えなかった。けれど、たしかに、そこに、あった。

そして、網棚のうえには、まだ、片方だけの手袋が、のっていた。

灰色の、毛糸の手袋。誰も、探しに来なかった。片割れは、どこにも、なかった。それでも、それは、そこに、あった。詩織が、床から拾い上げて、そっと、のせた場所に。朝の光を、受けて。

いつか、誰かが、それを、見つけるだろう。

もしかしたら、もう片方を、失くした、その人が。あるいは、まったく別の、誰かが。そして、その人も、迷うかもしれない。そのまま、置いておこうか、それとも、駅員に、届けようか、と。片方だけの手袋を、どうしたものか、と。

けれど、それは、そこに、あった。

失くされたのではなく、置いていかれたのでもなく――待っている、もののように。片割れとはぐれても、なお、そこに、ありつづけるもののように。

降りる

やがて、詩織の駅が、近づいた。

彼女は、鞄を、抱え直した。窓の外に、見慣れた、学校の最寄り駅の、ホームが、見えてきた。彼女の、持ち場だった。こわい、あの教室のある、街だった。

電車が、減速した。

詩織は、立ち上がった。網棚のうえの、片方だけの手袋を、もう一度、見上げた。それから、彼女は、思いついたように、鞄のなかから、小さな、メモ用紙と、ペンを取り出した。そして、そこに、何か書いて、その紙を、手袋のそばに、そっと、置いた。

紙には、こう書いてあった。

「もう片方、まだ、待ってます」

なぜ、そんなことを書いたのか、詩織自身にも、よくわからなかった。けれど、書かずには、いられなかった。片方だけの、その手袋のために。そして、たぶん、自分自身のために。

ドアが、開いた。

朝の光が、車内に、まっすぐ、差し込んできた。まぶしいほどの、金色の光。詩織は、その光のなかへ、一歩、踏み出した。

ホームに降りて、彼女は、一度、立ち止まった。そして、振り返って、閉まっていく電車のドアを、見た。ガラスの向こう、網棚のうえの、片方だけの手袋が、まだ、そこに、あるのが、見えた。その手袋は、これから、どこまで、行くのだろう。終点まで。終点の、さらに向こうまで。誰かに、見つけられるまで。あるいは、片割れと、再会するまで。

ドアが、閉まった。

電車は、また、動きはじめた。詩織を、ホームに残して。手袋を、乗せたまま。それぞれの朝を、抱えた、たくさんの人々を、乗せて。次の駅へ、その次の駅へと、走っていった。

詩織は、しばらく、その電車を、見送っていた。

そして、くるりと、向きを変えた。改札のほうへ。校門のほうへ。あの、透明な膜のある、教室のほうへ。

歩き出すとき、彼女は、小さく、口ずさんだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

いつ、どこで、覚えたのだろう。その子守唄を。たぶん、幼いころ、母が、歌ってくれたのだ。あるいは、もっと前、生まれる前から、どこかで、聞いていたのかもしれない。星が、海をわたるまで。その旋律は、彼女の足取りを、少しだけ、軽くした。

朝の光が、彼女の背中を、押した。

陽が昇る

電車は、走りつづけた。

窓の外の、朝の空は、もう、すっかり、明るくなっていた。低かった陽は、少しずつ、高く、昇っていった。ビルとビルのあいだから差し込んでいた、斜めの光は、やがて、まっすぐに、上から、降りそそぐようになるだろう。

東の空の、高いところに残っていた、蒼白い彗星の名残は、その、昇っていく陽の光に、少しずつ、溶けて、消えていった。

夜のものが、朝のなかへ、持ち越されて。そして、朝の光のなかで、静かに、その姿を、消していった。けれど、それは、失われたのではなかった。ただ、見えなくなっただけだった。彗星は、まだ、そこに、あった。昼の空の、青の向こうに。夜が来れば、また、その蒼い尾を、引くだろう。

車内では、人々が、次々と、それぞれの駅で、降りていった。

佐伯が、降りた。ポケットのなかのスマートフォンには、妻からのメッセージが、残っていた。帰りに、プリンを買っていく。そのことを思うと、彼の一日は、少しだけ、やわらかかった。

野崎が、降りた。九時の打ち合わせへ。彼は、今日は、電車の窓の外を、久しぶりに、見た。そのことを、たぶん、彼は、忘れないだろう。忙しさのなかで、ふと、空を見上げることの、大切さを。鞄の底の、藍色のマッチ箱を、握りしめていた自分のことを。

石橋老人も、やがて、降りた。病院へ。そして、その帰りには――いや、彼は、もう、栗蒸し羊羹を、持っていた。今朝、家を出る前に、買ったのだった。行きに、買っておいたのだ。仏壇に供える、妻の分を。二切れの、羊羹を。一切れは、自分の。もう一切れは、亡くなった妻の。片割れの、いない食卓で、彼は、それでも、二切れを、並べる。片方だけでも、そこに、あるように。

みな、それぞれの朝を、抱えて、それぞれの持ち場へ、出立していった。

彼らは、もう、二度と、会わないかもしれなかった。今朝の、あの、一瞬の連帯のことを、やがて、忘れてしまうかもしれなかった。明日の朝には、また、それぞれの、透明な殻のなかに、戻っているかもしれなかった。俯いて。互いを、見ないようにして。

けれど、それでも、と、思う。

今朝、たしかに、殻に、ひびが、入った。いっせいに、手が、伸びた。名前も知らない者どうしが、一瞬、互いのために、動いた。子守唄が、聞こえた。彗星の名残が、空にあった。片方だけの手袋が、網棚のうえで、朝の光を、受けていた。

そういうことが、あった。

それは、小さなことだった。すぐに、忘れられてしまう、なんでもない、朝のひとこまだった。けれど、なんでもないことこそが、と、思う。なんでもない、朝の、なんでもない、あたたかさこそが、人を、その日一日、生かすのだ。それぞれの持ち場で、それぞれの、見えない苦労のなかで。

電車は、走りつづけた。

新しい人々を、乗せて。それぞれの、まだ知らない、一日へと。

網棚のうえには、まだ、片方だけの手袋が、のっていた。そのそばには、小さな紙が、あった。「もう片方、まだ、待ってます」。誰かが、それを、いつか、読むだろう。そして、その誰かの、朝も、ほんの少し、変わるかもしれなかった。

朝の光が、車内を、金色に、満たしていた。

知らない人ばかりを乗せて、それでも、電車は、ひとつの生きもののように、呼吸していた。吸って、吐いて。詰まって、ゆるんで。揺れて、また、まっすぐになって。そのなかで、いくつもの朝が、それぞれの、行き先へ、運ばれていった。

陽が、昇っていく。

誰もが、まだ会わぬ夜明けのためではなく、いま、この朝のために、それぞれの持ち場へと、出立していく。振り返らずに。あるいは、一度だけ、振り返って。それでも、前へ。朝の光の、差すほうへ。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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