舫い
舫い
まだ暗いうちに目が覚めるのは、五十年変わらない。目覚まし時計が鳴るより先に、瞼の裏が海の色を知る。窓の外はまだ藍を溶かしたような色で、けれどその藍のいちばん薄いところに、もう朝が滲みはじめている。
宗次郎は布団を出て、湯を沸かした。台所の火が、青く小さく燃える。三日月を刻んだ藍色のマッチ箱は、もう長いこと使っていなかった。妻が生きていた頃、月光堂という古い店で買ったものだ。あの店がどこにあったのか、宗次郎はいまだに思い出せない。妻はある夜、ふらりと帰ってきてそれを差し出した。「変わった店だったよ。朝には無くなってるような店」。妻はそんなことを言って笑った。マッチ箱の底には、まだ三本ほど残っている。
湯が沸くまでのあいだ、宗次郎は土間に立って、長靴に足を通した。ゴムの内側はひんやりと湿っていて、その冷たさが足の裏から脛へ、膝へと昇ってくる。この冷たさも、五十年変わらない。若い頃はこれが嫌でたまらなかった。今はもう、この冷たさがなければ一日が始まらないような気さえする。
今日で終わる。
そう思っても、体は昨日と同じように動いた。手が勝手に茶碗を出し、飯を炊いた昨夜の残りを湯漬けにした。梅干しをひとつ。沢庵を三切れ。それだけを、宗次郎は立ったまま掻き込んだ。座って食う習慣は、もう何十年も前に失くした。海に出る朝は、いつも急いていた。急く必要などない日も、体は急いた。
妻の三回忌は、去年の春に済ませた。息子が東京から帰ってきて、娘が名古屋から帰ってきて、久しぶりに家が賑やかになった。孫たちが、狭い家の中を走り回った。宗次郎は、その騒がしさを、縁側から眺めていた。妻がいれば、どんなに喜んだだろう、と思った。妻は、子供が好きだった。孫が生まれたとき、妻は、まるで自分が産んだかのように、泣いて喜んだ。
その妻も、もういない。息子も娘も、それぞれの暮らしがある。この家に、宗次郎は、ひとりで住んでいた。ひとりの朝は、静かだった。静かすぎて、時々、耳が痛くなるほどだった。だから、宗次郎は、海に出た。海に出れば、波の音があった。風の音があった。カモメの声があった。海は、宗次郎に、音をくれた。ひとりの男が、生きていくための、音を。
その海と、今日で別れる。
引退を決めたのは、去年の暮れだった。膝が、言うことをきかなくなっていた。網を手繰るとき、踏ん張りがきかない。船の揺れに、体が耐えられなくなってきた。医者は、そろそろ、と言った。無理をすれば、いつか、海の上で倒れる。倒れれば、迷惑をかける。誰かが、宗次郎のために、船を出さねばならなくなる。それだけは、避けたかった。海の男は、生きて帰るのが、務めだ。生きて帰れなくなったら、辞めどきだ。父も、そう言っていた。父は、宗次郎に船を譲ると、その年のうちに、海から離れた。潔いものだった。宗次郎も、父のように、潔く、辞めたかった。
湯漬けを終えると、宗次郎は戸口に立って、空を見上げた。
東の空が、ようやく白みはじめている。けれどまだ星が幾つか残っていて、そのなかにひとつ、尾を引いた光があった。蒼白い、細く長い尾。ミラ彗星だ。ひと月ほど前から、明け方の空に出ていた。海の男たちはそれを「箒星」と呼んで、あれが出ると鰯が湧く、いや時化が来る、と勝手なことを言い合っていた。宗次郎はどちらも信じなかった。星は星だ。海は海だ。それぞれのやり方で、そこにあるだけだ。
彗星はもう、ずいぶん薄れていた。昇りはじめた陽の光に溶けて、あと数日もすればすっかり見えなくなるだろう、と誰かが言っていた。宗次郎は、その薄れかけた光をしばらく見ていた。妻が死んだ年にも、こんな星が出ていた気がする。いや、あれは別の星だったか。記憶というのは、潮のように寄せては引く。確かなものだと思っていたことが、いつの間にか砂に呑まれている。
「行くか」
誰にともなく、宗次郎はそう言った。声は、朝のまだ冷たい空気のなかで、思ったより低く響いた。
港までは、歩いて十分ほどだ。
坂を下りていくと、家々の窓に灯りが点りはじめている。魚を焼く匂い。味噌汁の湯気の匂い。どこかの家で、赤ん坊が泣いていた。その泣き声に混じって、母親が低く歌う声がかすかに聞こえた。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
古い子守唄だった。宗次郎の母も歌った。妻も、二人の子を寝かしつけるとき、それを歌った。星が海をわたるまで。宗次郎は幼い頃、その言葉の意味がわからなかった。星が海をわたるとは、どういうことなのか。大人になっても、わからなかった。ただ、明け方の空にあの彗星を見たとき、ふと思ったのだ。あれはもしかしたら、海をわたっている途中なのかもしれない、と。
その歌声を聞きながら、宗次郎は、ふと、妻のことを思い出した。妻が、あのマッチ箱を買ってきた夜のことだ。妻は、月光堂という店の話を、少しだけ、宗次郎にした。「路地の、いちばん奥にあってね。ふだんは、無い店なんだよ。彗星の夜にだけ、ぽっと灯りが点って、現れるんだって。店の主人が、そう言ってた」。宗次郎は、そんな馬鹿な、と笑った。妻も、笑った。「そうだよねえ。でも、本当に、次の日に見に行ったら、路地の奥には、何も無かったんだよ。板塀があるだけで」。妻は、不思議そうに、そう言った。宗次郎は、妻が、どこか別の店と、勘違いしているのだろう、と思った。今でも、そう思っている。けれど、あのマッチ箱だけは、確かに、家にある。藍色の、三日月を刻んだ、あのマッチ箱だけは。
坂の途中で、宗次郎は立ち止まって、港を見下ろした。
朝の港は、いつも同じように騒がしい。もう何艘かは出ていったあとで、残った船の上では、男たちが忙しく立ち働いていた。エンジンの唸り。氷を砕く音。網を引きずる音。誰かの怒鳴り声。誰かの笑い声。カモメがそれらの音の上を、鳴きながら旋回している。潮の匂いと、油の匂いと、魚の匂いが、坂の上まで昇ってきていた。
この匂いを、あと何回嗅げるだろう。
いや、と宗次郎は思い直した。今日が最後だ。決めたことだ。決めたのだから、もう数えることはない。
坂を下りきると、道端に、小さな地蔵が立っていた。海で死んだ者たちを弔う地蔵だ。誰が供えたのか、その足元に、菊の花が一輪、萎れずに置かれていた。宗次郎は、立ち止まって、手を合わせた。この港からも、幾人もの男が、海に呑まれて、帰らなかった。宗次郎の同輩にも、後輩にも、海に持っていかれた者がいた。海は、恵みをくれる。同時に、命を奪う。海の男は、その両方を、受け入れて生きる。恵みだけを受け取ることは、できない。
宗次郎は、五十年、海に出て、生きて帰ってきた。運が良かった、としか言いようがなかった。腕がいいから、経験があるから、生きて帰れた、というものではない。海は、そんな理屈で、命を選り分けはしない。ただ、たまたま、宗次郎の番が、来なかった。それだけのことだった。だから、宗次郎は、驕らなかった。海を、甘く見なかった。五十年、海を、恐れ続けた。恐れることが、生きて帰る、唯一の道だった。
宗次郎の船は「幸栄丸」といった。父から継いだ船で、その父も祖父から継いだ。もっとも、船そのものは何度も造り替えている。木の船から鉄の船へ。小さな船から少し大きな船へ。今の幸栄丸は、宗次郎が四十の年に新調したもので、それでももう三十年になる。あちこち錆びて、塗り直した跡が幾層にも重なっている。人の顔にできる皺のように。
桟橋を歩いていくと、方々から声がかかった。
「宗さん、今日で仕舞いだってな」
「ご苦労さんだったなあ」
「寂しくなるよ」
宗次郎は、そのひとつひとつに、軽く手を上げて応えた。言葉は返さなかった。返す言葉が見つからなかったのではない。返す言葉など、要らないと思ったからだ。海の男は、言葉で別れをしない。手を上げる。それで足りる。
幸栄丸の舫いを解こうとしたとき、船の陰から若い男が現れた。
「宗次郎さん」
信一だった。宗次郎の弟の孫にあたる。二十四になる。三年前から、宗次郎の船に乗っている。無口な男で、教えても教えても、なかなか物にならなかった。けれどこの三年で、ずいぶん様になってきた。網の畳み方も、潮の読み方も、少しずつ身についてきている。
信一は、もともと、漁師になるつもりはなかった男だった。高校を出て、町の工場に勤めていた。けれど、その工場が潰れて、仕事を失った。しばらく、ぶらぶらしていた。そのとき、宗次郎が、声をかけたのだ。海に、出てみるか、と。信一は、しばらく考えてから、「やってみます」と言った。それだけだった。新造が、宗次郎に「いいぞ」と言ったときと、どこか似ていた。多くを語らず、けれど、腹の底で、何かを決めている。そういう目をしていた。
はじめの一年は、信一は、船酔いに苦しんだ。海に出るたび、吐いた。宗次郎は、それを、黙って見ていた。慣れろ、とだけ言った。慣れる以外に、道はなかった。二年目になると、信一は、吐かなくなった。三年目の今、信一は、宗次郎の隣で、平然と海に立っている。若い体が、海を、覚えたのだ。頭ではなく、体が。それが、宗次郎には、わかった。海を覚えるのは、頭ではない。体だ。新造も、そう言っていた。海は、体で聴くものだ、と。
「乗ってもいいですか。最後だから」
信一は、そう言った。目を合わせずに。
宗次郎は、しばらく信一を見ていた。この男に、幸栄丸を継がせる。それは、もう決めたことだった。宗次郎が引退したら、幸栄丸は信一のものになる。信一もそれを知っている。知っていて、こうして最後の朝に来た。
「乗れ」
宗次郎は、それだけ言った。
網を積むのは、いつも宗次郎の仕事だった。
網は生きものだ、と父はよく言った。畳み方ひとつで、翌朝の獲れ高が変わる。もつれたまま積めば、海に出てから絡む。焦って解こうとすれば、破れる。だから網は、丁寧に、順序よく積まねばならない。
宗次郎は、船尾に立って、網を手繰りはじめた。手が、勝手に動く。長い年月のうちに、指が覚えたやり方だ。網目のひとつひとつを、指先が確かめていく。ここに破れがある。あとで繕おう。ここは結び目が緩んでいる。締め直す。目で見なくても、指がわかる。目を瞑っていても、宗次郎は網を畳めた。
信一が、隣で同じように網を手繰りはじめた。まだぎこちない。手が、時々止まる。網目に指を取られて、小さく舌打ちする。
宗次郎は、何も言わなかった。ただ、自分の手を、信一に見えるように動かした。速すぎず、遅すぎず。信一の目が、宗次郎の手を追っているのがわかった。三年前は、こんなふうに見ることもできなかった。ただ手を動かすだけで、精一杯だった。今は、見ている。人の手を見て、そこから学ぼうとしている。それが、宗次郎には嬉しかった。嬉しい、という言葉は、口には出さなかったけれど。
教える、ということを、宗次郎は、うまくできたことがなかった。言葉で説明するのが、苦手だった。網の畳み方を、どう畳むのか、言葉にしようとすると、途端に、わからなくなった。手は、覚えている。けれど、頭は、覚えていない。だから、宗次郎は、教えなかった。ただ、やって見せた。父も、そうだった。父は、宗次郎に、何も教えなかった。ただ、隣で、網を畳んで見せた。宗次郎は、それを、盗んだ。盗んで、覚えた。海の仕事は、教わるものではなく、盗むものだった。
新造は、それを、盗みの名人だった。宗次郎の父の手を、宗次郎の手を、他所の船の男たちの手を、新造は、じっと見て、盗んだ。そして、盗んだものを、自分のものにした。新造の網の畳み方は、宗次郎の畳み方と、似ていて、少し違った。あちこちから盗んだものを、新造なりに、組み合わせていた。それが、新造の腕だった。
信一も、盗んでいる。宗次郎の手を、見て、盗もうとしている。宗次郎は、それを、盗ませてやりたかった。自分の五十年を、この若い男に、盗ませてやりたかった。盗まれたものは、消えない。信一の手の中で、生き続ける。それが、受け渡し、というものだった。
網を半分ほど積んだところで、宗次郎の手が、船尾の棚に触れた。
そこに、片方だけの手袋があった。
古い、ゴム引きの手袋だ。指の部分がすり減って、白く毛羽立っている。右手のものだった。左手のものは、もうない。
これは、宗次郎の相棒のものだった。
新造の話をすると、必ず出てくる名前がある。
新造。宗次郎はこの男と、三十年、同じ船に乗った。歳は宗次郎の二つ下で、けれど海に出た年は同じだった。二人は、まだ十代の終わりに、この港で出会った。宗次郎は父の船に、新造は他所から流れてきて、誰かの船に雇われていた。
新造は、変わった男だった。無口ではなかった。むしろよく喋った。けれど、その喋ることの半分は、海のことでも魚のことでもなかった。星のこと。雲のこと。渡り鳥のこと。潮の香りが、季節によってどう変わるか。そんなことを、新造は舳先に座って、飽きもせず喋った。
「宗さん、あの雲の形、見てみろ。ありゃあ、明日は南風だ」
「宗さん、今朝の潮は、少し甘い匂いがしたぞ。沖のほうで、雨が降ったんだな」
宗次郎は、はじめのうち、新造のそういう話を聞き流していた。海の男が、星だの雲だの、女子供の言うようなことを、と思っていた。けれど、そのうち気づいた。新造の言うことは、当たるのだ。新造が南風だと言えば、翌日は南風が吹いた。新造が甘い匂いだと言えば、その日の海は、確かに凪いでいた。
新造は、海を、体で聴いていた。目で見るのではなく、耳で聴くのでもなく、体のどこか、宗次郎にはわからない場所で、海の声を聴いていた。
宗次郎は、新造と組むことにした。父が死んで、幸栄丸が宗次郎のものになったとき、宗次郎は真っ先に新造に声をかけた。二人で乗ろう、と。新造は、少し考えてから、「いいぞ」と言った。それだけだった。それから三十年、二人は同じ船に乗った。
二人は、性格が、まるで違った。宗次郎は、無口で、慎重で、石橋を叩いて渡る男だった。新造は、よく喋り、大胆で、時に無茶をした。宗次郎が「やめておけ」と言うところへ、新造は「行ってみようぜ」と言った。宗次郎が引き返そうとするところで、新造は「もう少し先だ」と言った。そして、たいてい、新造の勘は、当たった。新造が「もう少し先だ」と言った場所に、魚が湧いていた。
けれど、無茶が、過ぎることもあった。そういうとき、宗次郎は、頑として、動かなかった。「行かん」と、宗次郎が言えば、新造は、渋々、諦めた。宗次郎の慎重さと、新造の大胆さ。その二つが、絡み合って、幸栄丸を、生かしていた。宗次郎だけなら、獲れ高は、伸びなかっただろう。新造だけなら、とっくに、海に呑まれていただろう。二人で、ひとつだった。片方だけでは、成り立たなかった。片方の手袋のように。片方だけでは、用をなさない。二つ揃って、はじめて、手を守れる。宗次郎と新造は、そういう、二人だった。
妻は、新造のことを、弟のように可愛がった。漁から帰ると、宗次郎は、時々、新造を家に連れて帰った。妻は、二人分の膳を、三人分にして、迎えてくれた。新造は、身寄りがなかったから、宗次郎の家が、新造にとっての、ただひとつの、家のようなものだった。新造は、宗次郎の子供たちにも、慕われていた。「新造おじちゃん」と、子供たちは、新造にまとわりついた。新造は、子供たちを、肩車して、庭を歩き回った。あの頃が、宗次郎の人生で、いちばん、賑やかな時代だった。
三十年のあいだに、いろいろなことがあった。
大漁の日もあった。二人で、海が唸るほどの鰯を引き揚げた日。網が重くて、上がらなくて、二人がかりで、汗みずくになって手繰った。あの日の海は、銀色に沸き立っていた。魚たちが、朝の光を跳ね返して、まるで海そのものが光っているようだった。
不漁の日もあった。何日も、何も獲れない日が続いた。二人は、黙って海を見ていた。話すこともなかった。ただ、海が機嫌を直すのを待った。待つことも、漁のうちだった。新造は、そういうとき、決まって歌を歌った。低い、ゆっくりした声で。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
あの子守唄だった。宗次郎が、なぜそんな歌を、と訊いたことがある。新造は、舳先に座ったまま、海のほうを向いて言った。
「母親が、歌ってくれたんだ。俺が小さいころに。それしか、覚えてねえ。母親の顔も、名前も、もう思い出せねえのに、この歌だけは、体が覚えてる」
新造は、身寄りのない男だった。どこで生まれて、どういう育ちなのか、宗次郎は詳しく知らなかった。訊いても、新造は詳しくは話さなかった。ただ、その子守唄のことだけは、話した。それが、新造にとって、母親という人の、たったひとつの証だった。
「星が、海をわたるまで、って、どういう意味だと思う」
一度、新造が、宗次郎に、そう訊いたことがあった。不漁の、長い一日の、終わりのことだった。海は、暮れかけていた。西の空が、赤く染まっていた。
「さあな」と、宗次郎は答えた。「星が、空を、動いていくってことじゃないのか」
「俺は、違うと思う」と、新造は言った。「星ってのは、死んだ者の魂だ。人が死ぬと、魂が、星になる。そんで、その星が、夜のあいだ、海をわたって、どこかへ、行く。天国か、あの世か、知らねえけど、どこかへ、わたっていく。だから、子供を寝かしつけるときに、母親は、歌うんだ。眠れ、って。魂が、海をわたって、無事に、どこかへ着くまで、眠っていろ、って」
宗次郎は、その解釈を、覚えていた。新造らしい、と思った。星のことを、雲のことを、あれほど喋る男の、行き着く先が、そういう話だった。宗次郎は、その頃は、笑って聞き流した。けれど、新造が死んでから、宗次郎は、時々、その話を、思い出すようになった。新造の魂も、星になって、海をわたっているのだろうか、と。あの、明け方の彗星も、誰かの魂なのだろうか、と。
時化の日もあった。二人で、死にかけたことも、一度や二度ではない。
いちばん酷かったのは、宗次郎が五十を過ぎた年の、秋の時化だった。予報が外れた。凪だと聞いて出た海が、昼過ぎから、急に荒れはじめた。波が、山のように立った。船が、木の葉のように翻弄された。宗次郎は、舵にしがみついているのが精一杯だった。
そのとき、新造が海に落ちた。
大波が、船を横殴りにした。新造の体が、宙に浮いて、そのまま海に消えた。宗次郎は、叫んだ。新造の名を、喉が裂けるほど叫んだ。荒れ狂う海の中に、新造の姿はなかった。
宗次郎は、船を回した。荒れた海で船を回すのは、自殺行為だった。転覆するかもしれなかった。それでも、宗次郎は回した。新造を、置いていけなかった。
波間に、白いものが見えた。新造の手だった。ゴム引きの手袋をした手が、海の上に、伸びていた。
宗次郎は、その手を掴んだ。渾身の力で、引き揚げた。新造の体が、船の上に転がり込んだとき、二人はもう、口をきくこともできなかった。ただ、荒い息をついて、船底に転がっていた。
新造の左手には、手袋がなかった。片方だけ、海に持っていかれたのだ。
「片っぽ、持ってかれた」
新造は、荒い息の合間に、そう言って、笑った。歯を剥き出しにして、子供のように笑った。
「海の奴、俺の手袋、気に入ったんだな」
宗次郎も、笑った。笑いながら、涙が出た。生きている。二人とも、生きている。それが、可笑しくて、有難くて、涙が止まらなかった。
港に戻ってから、二人は、しばらく、口をきかなかった。無事だったことを、喜ぶ言葉も、出なかった。ただ、船を舫って、濡れた体を、拭いた。それから、宗次郎の家に行って、妻が沸かしてくれた風呂に、代わる代わる、入った。風呂から上がると、新造は、湯呑みの酒を、一息に、飲み干した。手が、まだ、震えていた。宗次郎の手も、震えていた。死の淵を、二人で、覗いてきたのだ。震えて、当然だった。
その夜、新造は、宗次郎の家に、泊まった。二人は、遅くまで、飲んだ。あまり、喋らなかった。喋ることは、なかった。ただ、生きている、ということを、酒で、噛み締めた。妻が、二人分の布団を、敷いてくれた。新造は、布団に入ると、すぐに、寝息を立てた。宗次郎は、その寝息を、聞きながら、天井を、見ていた。もし、あの手を、掴み損ねていたら。もし、船を、回さなかったら。今頃、新造は、海の底だった。そう思うと、宗次郎は、眠れなかった。隣で、新造が、生きて、寝息を立てている。その寝息が、宗次郎には、何よりの、音楽に聞こえた。
その日から、新造は、片方だけの手袋を使い続けた。右手だけの手袋。左手は、素手。新しいのを買えばいいのに、と宗次郎が言っても、新造は買わなかった。
「これでいい。左手は、海に預けてあるんだ。いつか、返してもらう」
新造は、そう言って、また笑った。
その手袋を、宗次郎は、何度も見てきた。三十年のうちの、後半の十五年ほど、新造は、その片方だけの手袋を、使い続けた。右手だけ、ゴム引きの手袋。左手は、素手。冬の海は、素手には、こたえた。手が、あかぎれで、割れた。血が、滲んだ。それでも、新造は、左手に手袋をしなかった。海に預けたものを、勝手に、埋め合わせては、いけない、とでもいうように。宗次郎は、新造の、その頑固さを、笑った。笑いながら、少し、羨ましくもあった。新造には、海と交わした、確かな約束があった。片方の手袋という、目に見える、約束が。
新造が死んだのは、七年前だ。
海で死んだのではなかった。畳の上で、静かに死んだ。癌だった。見つかったときには、もう遅かった。
新造は、最後まで、海に出たがった。病院のベッドの上で、宗次郎の手を握って、「もう一度、海に出たい」と言った。宗次郎は、「治ったら、出よう」と言った。嘘だとわかっていた。新造もわかっていた。それでも、二人は、その嘘を、大事に交わした。
新造が死ぬ数日前、宗次郎は見舞いに行った。新造は、痩せ細って、もう起き上がることもできなかった。それでも、宗次郎の顔を見ると、少しだけ笑った。
「宗さん」
新造は、掠れた声で言った。
「あの手袋、船に置いてきた。右のやつ。あれ、海に返しといてくれ。俺が返せなかったから、お前が、返してくれ」
宗次郎は、頷いた。頷いたけれど、返せなかった。新造が死んでからも、宗次郎は、あの手袋を、船に置いたままにした。海に返す、ということが、どうしてもできなかった。あれを海に投げ入れたら、本当に、新造がいなくなってしまう気がした。
だから、手袋は、七年間、船尾の棚に置かれたままだった。潮に晒され、陽に灼かれて、白く毛羽立って。それでも、宗次郎は、それを捨てなかった。海に出るたび、その手袋が、そこにあった。新造の手が、まだ、そこにあるように。
「宗次郎さん」
信一の声で、宗次郎は我に返った。網を手繰る手が、いつの間にか止まっていた。船尾の棚の、片方だけの手袋を、宗次郎はじっと見ていた。
「それ、誰の手袋なんですか」
信一が、訊いた。三年間、乗っていて、はじめて訊いた。宗次郎が、あの手袋のことを誰にも話さなかったから、信一も、訊けなかったのだろう。
宗次郎は、手袋を手に取った。ごわごわと硬く、けれど、どこか懐かしい手触りだった。
「新造の、だ」
宗次郎は、言った。
「俺の、相棒の。三十年、一緒に乗った」
信一は、黙って聞いていた。宗次郎は、それ以上、説明しなかった。説明する必要は、なかった。海の男には、片方だけの手袋の意味が、なんとなくわかる。誰かが、この手袋の片方を、海に預けたのだ。そして、その誰かは、もう、いない。
宗次郎は、手袋を、もとの場所に戻した。
「積むぞ。網が、待ってる」
網を積み終えると、夜はすっかり明けていた。
東の空から、陽が昇っていた。海が、朝の光を受けて、金色に燃えていた。無数の波が、ひとつひとつ、光を返している。まるで、海の底から、たくさんの手が伸びてきて、光を掬い上げているようだった。
宗次郎は、もう一度、空を見上げた。ミラ彗星は、もう、ほとんど見えなかった。陽の光に溶けて、空の一角に、かすかな滲みを残しているだけだった。目を凝らせば、まだ、そこにある。目を離せば、もう、ない。そういう、境目の光だった。
星が海をわたるまで。
ふと、その言葉が、宗次郎の胸に浮かんだ。あの彗星は、今、海をわたっているのだ。夜のあいだ、ゆっくりと空をわたって、朝が来ると、陽の海に沈んでいく。星が、海をわたる。子供の頃わからなかった言葉の意味が、七十の齢になって、ようやく、なんとなく、わかった気がした。
わたっていくものは、消えるのではない。ただ、見えなくなるだけだ。海の向こうに、まだ、ある。
宗次郎は、エンジンをかけた。幸栄丸が、低く唸って、震えた。三十年、聞いてきた音だった。この音を聞かなくなる日が、来る。今日が、その最後だ。
エンジンの音の下から、宗次郎は、幸栄丸の、もっと細かい音を、聴き取っていた。船板の、軋み。舵の、遊び。船腹に当たる、波の、調子。この船の、ひとつひとつの音を、宗次郎は、覚えていた。どこがどう鳴れば、どこに、無理がかかっているか。長年、乗ってきた者にしか、わからない音だった。それも、今日から、信一が、聴いていく。宗次郎が聴き取ってきた、幸栄丸の声を、信一が、これから、少しずつ、覚えていく。船は、乗る者に、声で語りかける。その声を、聴き分けられるようになるまで、信一は、この船と、長い時間を、過ごすことになる。宗次郎が、そうだったように。
「舫い、解け」
宗次郎が言うと、信一が桟橋に飛び降りて、舫い綱を解いた。手際は、悪くなかった。三年前は、この結び目ひとつ、まともに解けなかった。今は、迷いなく手が動く。宗次郎は、それを見て、小さく頷いた。
幸栄丸が、桟橋を離れた。
港を出ると、海が広がった。
朝の海は、いつも新しい。何万回、この海に出ても、宗次郎は、そのたびに、はじめて海を見るような気がした。海は、昨日と同じ海ではない。潮の流れも、波の高さも、風の向きも、毎日変わる。同じ海は、二度とない。だから、飽きなかった。五十年、飽きることが、なかった。
宗次郎は、舵を握った。信一が、隣に立った。
「宗次郎さん」
信一が、言った。
「なんだ」
「俺、うまくやれるでしょうか。この船で」
宗次郎は、答えなかった。すぐには。しばらく海を見てから、言った。
「わからん」
信一が、驚いたように、宗次郎を見た。宗次郎は、続けた。
「海のことは、誰にもわからん。俺だって、五十年やって、まだわからん。うまくやれるかどうか、そんなことは、海が決める。お前が決めるんじゃない」
信一は、黙った。
「ただ」
宗次郎は、言った。
「海に、嘘をつくな。網は、丁寧に積め。潮の声を、聴け。焦るな。待て。生きて、帰れ。それだけだ。それさえ守れば、あとは、海が、なんとかしてくれる」
信一は、深く、頷いた。その頷き方に、宗次郎は、新造を見た気がした。若い頃の新造も、こんなふうに、頷いた。海の言葉を、体で受け取ろうとするときの、あの頷き方だった。
沖に出て、宗次郎は網を入れた。
最後の網だ、とは思わなかった。思わないようにした。思えば、手が狂う。網は、いつもと同じように、丁寧に入れた。潮の流れを読んで、いちばんいい場所に、いちばんいいやり方で。信一が、それを、じっと見ていた。
網を入れながら、宗次郎は、この海の、隅々を、思い出していた。
この沖の岩場では、若い頃、大きな鯛を釣った。あの入り江では、時化を避けて、一晩、明かしたことがある。あの岬の向こうでは、新造が、海豚の群れに、手を振っていた。海豚は、船と並んで、しばらく泳いだ。新造は、子供のように、はしゃいでいた。この海の、どこにも、思い出があった。五十年分の、思い出が。海は、宗次郎の、記憶の器だった。海を見れば、宗次郎の半生が、そこに、映っていた。
その器を、今日、宗次郎は、置いていく。置いていっても、思い出は、消えない。海が、覚えていてくれる。宗次郎が忘れても、海は、覚えている。この沖の岩場を、あの入り江を、あの岬を、宗次郎が通った跡を、海は、いつまでも、覚えている。そう思うと、宗次郎は、少しだけ、救われた気がした。
網を入れてしまうと、あとは、待つだけだ。
宗次郎は、舳先に座った。新造が、いつも座っていた場所だった。三十年、新造がそこに座って、海のことを、星のことを、喋っていた。新造が死んでからは、宗次郎が、そこに座るようになった。座って、海を見る。喋る相手は、もう、いない。それでも、宗次郎は、そこに座った。
海が、凪いでいた。
朝の光が、水面に散っていた。遠くで、カモメが鳴いていた。風は、ほとんどなかった。宗次郎は、目を閉じて、海の音を聴いた。船が、波に揺られて、ぎしぎしと軋む音。網が、海の中で、ゆっくりと沈んでいく気配。潮が、船腹を撫でていく音。
これらの音を、あと何時間か聴いて、宗次郎は、海から上がる。上がったら、もう、この音を聴くことはない。
けれど、と宗次郎は思った。この音は、消えるのではない。信一が、これから、この音を聴く。宗次郎が聴いてきた音を、新造が聴いてきた音を、宗次郎の父が、祖父が聴いてきた音を、信一が、これから、聴いていく。音は、消えない。ただ、聴く者が、変わっていくだけだ。
星が、海をわたるように。
網を上げるとき、宗次郎は、信一に手伝わせた。
「引け」
宗次郎が言うと、信一が、網を掴んだ。二人で、力を合わせて、網を手繰った。網は、重かった。魚が、かかっていた。宗次郎の腕に、久しぶりの、あの重さが伝わってきた。生きものの重さ。海の恵みの重さ。
網が、海の上に姿を現した。銀色の魚たちが、朝の光を跳ね返して、跳ねていた。鯖だった。それに、いくらかの鰺。悪くない獲れ高だった。最後の漁にしては、上出来だった。
宗次郎は、その光る魚たちを見て、思わず、微笑んだ。
海が、餞別をくれたのかもしれない、と思った。五十年、通い続けた男への、最後の贈り物。宗次郎は、そんなことを信じる質ではなかった。海は、ただの海だ。恵みをくれるのは、偶然だ。潮の巡り合わせだ。それでも、この朝ばかりは、そう思いたかった。海が、宗次郎に、別れを告げている。ご苦労だったな、と。
信一が、汗を拭いながら、笑っていた。若い、屈託のない笑いだった。宗次郎も、笑った。二人で、笑いながら、魚を選り分けた。
魚を選り分けながら、宗次郎は、信一に、いくつかのことを、教えた。この鯖は、腹が、こう張っているから、脂が乗っている。この鰺は、目が、澄んでいるから、活きがいい。市場に出すときは、こう並べる。氷は、こう当てる。細々とした、けれど、大切なことだった。信一は、真剣に、聞いていた。頷きながら、一つ一つ、頭に、刻み込んでいた。
これらのことを、宗次郎は、新造から、あるいは、父から、教わった。いや、教わった、というより、盗んだ。長い年月をかけて、少しずつ、盗んで、自分のものにした。それを今、宗次郎は、信一に、渡している。渡す、というより、盗ませている。信一が、それを、盗んで、自分のものにして、いつか、また、誰かに、盗ませる。海の知恵は、そうやって、受け継がれていく。文字にもならず、名前も残らず、ただ、手から手へ、体から体へ。海が、続く限り、それは、続いていく。
漁を終えて、宗次郎は、船を港に向けた。
帰りの海は、行きの海とは、また違う。陽が高くなって、光が、強くなっていた。海の金色が、白銀に変わっていた。宗次郎は、その光の中を、幸栄丸を走らせた。
途中で、宗次郎は、エンジンを止めた。信一が、怪訝そうに、宗次郎を見た。
宗次郎は、船尾の棚に手を伸ばして、片方だけの手袋を、手に取った。
七年前、新造は言った。海に返してくれ、と。宗次郎は、それを、七年間、できずにいた。海に返したら、新造が、本当に、いなくなってしまう気がして。
けれど、今日、宗次郎は、海を去る。宗次郎が海を去れば、この手袋を、誰が海に返すのか。信一に、頼むこともできる。けれど、これは、宗次郎が、返さねばならないものだった。新造との、約束だった。
宗次郎は、手袋を、両手で握った。硬く、ごわごわとした手触り。新造の手の、名残。三十年、同じ船に乗った男の、たったひとつの、形見。
「新造」
宗次郎は、海に向かって、呼びかけた。
「お前の手袋、返しに来たぞ。遅くなって、すまなかった。海が、預かってくれるだろう。左手と、片方ずつ、これで、揃いになる」
宗次郎は、手袋を、海に、投げた。
手袋は、宙を舞って、海の上に、静かに落ちた。しばらく、水面に浮いていた。それから、波に揺られて、ゆっくりと、沈んでいった。
宗次郎は、それを、最後まで、見ていた。手袋が、見えなくなるまで。海の底へ、沈んでいくまで。
信一は、何も言わなかった。ただ、宗次郎の隣で、同じように、海を見ていた。
星が海をわたるように、手袋も、海をわたっていった。海の向こうの、新造のもとへ。新造の左手のもとへ。片方ずつ、海に預けてあった手袋が、これで、揃いになる。
宗次郎の目に、涙が滲んだ。けれど、それは、悲しい涙ではなかった。長い、長い務めを、ようやく果たした者の、静かな涙だった。
港に戻ると、陽は、すっかり高くなっていた。
朝の喧噪は、いくらか収まっていた。早く出た船は、もう帰ってきて、市場に魚を揚げていた。宗次郎の帰りを、何人かが、待っていた。宗次郎が、最後の漁から帰ってくるのを。
幸栄丸が、桟橋に着くと、信一が、飛び降りて、舫い綱を、杭に結んだ。しっかりとした、迷いのない結び目だった。宗次郎は、それを見て、頷いた。もう、教えることは、何もなかった。
宗次郎は、船から降りた。長靴の底が、桟橋の板を踏んだ。この板を踏むのも、漁師としては、最後だった。宗次郎は、しばらく、その場に立って、幸栄丸を見上げた。
三十年、共に海に出た船。父から継ぎ、信一に渡す船。錆びて、塗り直した跡が、幾層にも重なった船。その船が、朝の光の中に、静かに、浮かんでいた。
「宗次郎さん」
信一が、宗次郎の隣に立った。
「ありがとうございました」
信一は、深く、頭を下げた。
宗次郎は、しばらく、信一を見ていた。それから、手を伸ばして、信一の肩を、ぽん、と叩いた。言葉は、なかった。海の男は、言葉で別れをしない。手を、上げる。肩を、叩く。それで、足りる。
信一が、顔を上げた。その目が、少し、赤かった。
「宗次郎さん」と、信一が、言った。「船の名前、変えても、いいですか」
宗次郎は、少し、驚いた。それから、訊いた。
「なんて、するんだ」
「幸栄丸のままです」と、信一は、言った。「ただ、字を、書き直したいんです。新しく、塗り直して。名前は、変えません。ずっと、幸栄丸で、いきます」
宗次郎は、しばらく、信一を見ていた。それから、頷いた。喉の奥が、熱くなった。名前を、変えない。信一は、宗次郎の船を、宗次郎の名を、継いでいく。錆びた字を、塗り直して、けれど、名前は、そのままに。それは、信一なりの、受け継ぎ方だった。宗次郎が、父の船を、名前を変えずに継いだように。
「好きにしろ」と、宗次郎は、言った。声が、少し、掠れた。「お前の、船だ」
宗次郎は、幸栄丸に向かって、軽く、手を上げた。長い付き合いの、船への、別れの挨拶だった。それから、背を向けて、桟橋を、歩きはじめた。
坂を、宗次郎は、ゆっくりと登った。
登りながら、宗次郎は、一度だけ、振り返った。
港では、信一が、幸栄丸の甲板に立って、網を、片づけていた。宗次郎が教えたやり方で。丁寧に、順序よく。網を、生きもののように扱いながら。
その姿を、宗次郎は、しばらく見ていた。
明日から、あの船は、信一のものだ。信一が、あの船で、海に出る。宗次郎が聴いてきた海の音を、新造が聴いてきた潮の声を、信一が、これから、聴いていく。そして、いつか、信一も、誰かに、あの船を渡すのだろう。誰かに、海を、渡すのだろう。
海は、続く。船は、続く。人は、変わっても、海は、続いていく。
宗次郎は、空を見上げた。
陽は、もう高く、空には、雲ひとつなかった。ミラ彗星は、もう、影も形もなかった。すっかり、陽の海に、沈んでしまった。けれど、宗次郎は、知っていた。あれは、消えたのではない。ただ、見えなくなっただけだ。夜が来れば、また、空をわたりはじめる。海の向こうへ、また、旅を続けていく。
見えなくなるものは、消えるのではない。
宗次郎は、そう思いながら、坂を、登っていった。
家に着いたら、湯を沸かそう、と思った。三日月を刻んだ、藍色のマッチ箱で、火を点けよう。妻が、月光堂という、朝には消える店で買った、あのマッチ箱で。残りは、あと、三本。
そして、茶を、一杯、淹れよう。座って、ゆっくりと。急く必要は、もう、ない。
明日の朝も、宗次郎は、暗いうちに、目を覚ますだろう。五十年、染みついた習慣は、そう簡単には、抜けない。目を覚まして、けれど、海には、出ない。窓の外の、藍色を見て、その藍のいちばん薄いところに滲む朝を見て、それから、また、眠るか、あるいは、起きて、茶を淹れるか。どちらにせよ、宗次郎は、もう、長靴を履かない。網を積まない。舫いを解かない。
寂しくない、と言えば、嘘になる。海は、宗次郎の、半生だった。海を失うことは、半生を失うことだった。けれど、宗次郎は、知っていた。海は、失われたのではない。ただ、宗次郎が、海から、上がっただけだ。海は、そこに、ある。明日も、明後日も、宗次郎が死んだあとも、海は、そこに、ある。信一が、その海に、出ていく。信一の子が、あるいは、信一が育てた誰かが、また、その海に、出ていく。海は、続く。宗次郎が、その一部だった海が、宗次郎を離れても、続いていく。
見えなくなるものは、消えるのではない。
宗次郎の背後で、港が、朝の光の中に、輝いていた。潮の匂いが、坂の上まで、昇ってきていた。カモメが、鳴いていた。誰かが、遠くで、歌っていた。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
その歌声を、宗次郎は、背中で聴きながら、家路を、辿った。海を、去りながら、けれど、海に、抱かれながら。半生を捧げた海が、宗次郎の背中を、いつまでも、いつまでも、朝の光で、撫でていた。