月光書房
辰の刻 ・ 朝 ・ 第 三 話

あかえんぴつの音

穂村 なずな
児童・青春 ・ 約26頁

その朝、空にはまだ、星の消えのこりがひとつあった。

わたしは坂の途中で立ちどまって、それを見あげていた。青い、細い、ながい光。夜のあいだじゅうそこにいて、朝になってもまだ帰りそびれているみたいな、そんな光。おかあさんが「ミラ彗星(すいせい)だよ」と言った。「明け方だけ見えるの。もうすぐ、お日さまに溶けちゃうけど」

わたしはランドセルのひもをぎゅっと握って、その細い光を、消えるまで見ていたかった。けれど、おかあさんが「行こう」と言って、わたしの手をひいた。だから、彗星のことは、坂の上に置いてきた。

きょうは、初めての登校日だった。

わたしの名前は、みなみ、という。南向きの南と書いて、みなみ。

三月のおわりに、わたしたちはこの町へ引っこしてきた。前に住んでいた町は、ここから電車で三時間もかかる、海の近くの町だった。おとうさんの仕事が変わって、それで、みんなでこっちへ来た。おかあさんは「あたらしいおうちよ」とうれしそうに言ったけれど、わたしは、あたらしいおうちなんて、いらなかった。前のおうちがよかった。前の学校がよかった。まりちゃんと、あかねちゃんと、いっしょがよかった。

引っこしの日、まりちゃんが駅まで見おくりに来てくれた。まりちゃんは、泣いていた。わたしも泣いた。あかねちゃんは、来られなかった。かぜをひいていたから。あかねちゃんは、手紙をくれた。「みなみちゃんへ。てんこうしても、ずっとともだちだよ。げんきでね」と、まるっこい字で書いてあった。わたしはその手紙を、机のいちばん上のひきだしに、大事にしまってある。

新しい町の学校は、みどり小学校という。前の学校は「はまべ小学校」だったから、名前も、ぜんぜんちがう。はまべ小学校は、窓をあければ海の音がきこえた。みどり小学校は、なにがきこえるんだろう。わたしは、まだ知らない。

海の音のことを、わたしは、いまでも、はっきり、おぼえている。ざあ、ざあ、と、ひくく、とおくで、なりつづける音。はまべ小学校では、その音が、いつも、教室のうしろのほうから、きこえていた。じゅぎょうちゅうも、休みじかんも、きゅうしょくの、じかんも。だれも、それを、へんに思わなかった。海の音は、あって、あたりまえの、ものだったから。ちょうど、じぶんの、しんぞうの音を、いつも、きいているのに、気がつかないのと、おなじだ。

引っこしの、まえの晩、わたしは、まどをあけて、さいごに、海の音を、きいた。まっくらな、うみのほうから、ざあ、ざあ、と、いつもの、音が、きこえた。わたしは、その音に、「さようなら」と、こころのなかで、言った。海の音は、へんじを、しなかった。ただ、いつものように、ざあ、ざあ、と、なっていた。わたしが、いなくなっても、海の音は、あの町で、これからも、ずっと、なりつづけるんだ、と、思ったら、なんだか、へんな、きもちに、なった。さみしいような、うらやましいような、きもちに。

きょうから、二年生。新しいクラスは、二年一組。担任の先生は、まだ知らない。となりの席の子も、知らない。だれも、知らない。

知らない、ということは、こんなにこわいことなんだと、わたしは初めて知った。

朝ごはんは、あまり食べられなかった。

おかあさんが、目玉やきと、トーストと、あまいミルクをつくってくれた。いつもなら、目玉やきの黄身をトーストにつけて食べるのが好きなのに、きょうは、のどのところで、なにかがつかえて、うまく飲みこめなかった。パンを半分だけ食べて、ミルクを少しだけ飲んだ。

「みなみ、食べないの」と、おかあさんが言った。

「おなか、いっぱい」と、わたしは言った。ほんとうは、いっぱいじゃなかった。むしろ、おなかのなかが、からっぽで、そのからっぽのところが、ひやひやしていた。

おとうさんは、もう会社へ行っていた。おとうさんは、あたらしい会社でも、きっと緊張しているんだろう、とわたしは思った。だって、おとうさんも、あたらしい場所へ「てんこう」したのだから。おとなも、てんこうするんだ、と、わたしはこのごろ気がついた。おとなの「てんこう」は、「てんきん」というらしい。おとうさんは、けさ、いつもより早く起きて、いつもよりていねいにネクタイをしめて、「行ってきます」と言って出ていった。その声が、ちょっとだけ、ふるえているように、わたしにはきこえた。

げんかんで、おとうさんは、くつを、はきながら、わたしのほうを、ふりむいて、こう、言った。

「みなみ。おとうさんも、きょうから、あたらしい会社だ」

「うん」と、わたしは、言った。

「おとうさんも、だれも、しらない。みんな、はじめて、あう人ばっかりだ」と、おとうさんは、言った。「だから、みなみと、いっしょだな」

わたしは、うなずいた。おとうさんは、わらった。でも、そのわらいかたが、ちょっと、こわばっていた。おとうさんも、こわいんだ、と、わたしは、そのとき、思った。おおきな、おとなの、おとうさんでも、あたらしい場所は、こわいんだ。

「いっしょに、がんばろう」と、おとうさんは、言った。「よる、かえってきたら、どっちが、たくさん、ともだち、できたか、きょうそうだ」

「うん」と、わたしは、言った。すこし、わらえた。

おとうさんは、ドアを、あけて、でていった。あさの光が、いっしゅん、げんかんに、さしこんで、また、ドアが、しまった。おとうさんの、あしおとが、かいだんを、おりていく音が、きこえた。だんだん、ちいさく、なっていった。

だから、こわいのは、わたしだけじゃないんだ、と思った。それでも、こわいものは、こわかった。

ランドセルは、あたらしかった。

前のランドセルは、赤だった。今度のは、赤とちょっとちがう、あかむらさきみたいな色。ローズ色というらしい。おばあちゃんが、引っこしのお祝いに買ってくれた。「新しい学校で、がんばりなさい」と、おばあちゃんは電話で言った。おばあちゃんは、うみの町に、まだ住んでいる。

新しいランドセルは、まだ、かたかった。かどのところが、ぴんとしていて、背中にあたる。前のランドセルは、二年間せおって、やわらかくなって、わたしの背中の形をおぼえていた。新しいのは、まだ、わたしの背中を知らない。ランドセルまで、知らない、なのだ。

でも、ランドセルのなかには、ひとつだけ、知っているものが入っていた。

けさ、出かけるまえに、おかあさんが、わたしを呼んだ。

「みなみ、ちょっとおいで」

台所のひきだしから、おかあさんは、小さなものを取りだした。マッチ箱だった。藍色(あいいろ)の、こい青の、小さな箱。ふたのところに、細い三日月が、きんいろで刻んであった。

「これ、なあに」と、わたしはきいた。

「マッチよ。おかあさんが、子どものときから持ってるの」と、おかあさんは言った。「月光堂っていう、古いお店のマッチ。もう、そのお店はないんだけどね」

おかあさんは、その青い箱を、そっと、わたしのてのひらにのせた。ひんやりと、つめたかった。ふると、なかで、かちかち、と、かるい音がした。

「おまもりに、持っていきなさい」と、おかあさんは言った。「火をつけちゃだめよ。ただ、持ってるだけ。こわくなったら、これがある、って思うの」

「どうして、マッチなの」

おかあさんは、少しわらった。

「マッチはね、こすると、火がつくでしょう。ちいさな火。まっくらな夜でも、マッチが一本あれば、そこだけ、あかるくなるの。おかあさん、子どものころ、こわい夜には、いつもこのマッチを握ってねてたのよ。ほんとうに火をつけたわけじゃないの。ただ、握ってるだけ。そうすると、いつでも、あかりをつけられるって思えて、それで、あんしんできたの」

わたしは、その青いマッチ箱を、じっと見た。三日月が、きんいろに光っていた。

「みなみが、こわくなったら、これを握るの。そうしたら、いつでも、あかりをつけられる。おかあさんが、そばにいなくても、みなみは、ひとりで、あかりをつけられるのよ」

わたしは、そのマッチ箱を、ランドセルのいちばん前のポケットに、そっとしまった。ファスナーを、しめた。ランドセルのなかで、たったひとつ、そのマッチ箱だけが、わたしの知っているものだった。

「月光堂って、どんなお店だったの」と、わたしは、きいた。

おかあさんは、まどのそとを、見ながら、思い出すみたいに、言った。

「ふしぎな、お店だったのよ」と、おかあさんは、言った。「おかあさんが、子どものころ、いちど、いっただけ。よるの、おそくにね。ほそい、ろじの、いちばん、おくにあったの。ふるい本を、うっている、お店だった。それでね、なぜだか、マッチも、おいてあったの。このマッチ。三日月の、青いマッチ」

「本やさんなのに、マッチ」

「そう。へんでしょう」と、おかあさんは、わらった。「あくるあさ、もういちど、いってみたら、お店は、なかったの。ろじは、あったのよ。でも、お店だけ、きえてた。ゆめだったのかな、って、おもったけど、このマッチだけ、てもとに、のこってた。だから、ゆめじゃ、なかったの」

わたしは、その青いマッチ箱の入った、まえのポケットを、ランドセルごしに、そっと、おさえた。きえてしまう、お店。のこる、マッチ。それは、なんだか、けさ、坂の上で見た、あの、青い彗星に、にていた。きえてしまうけれど、なくならない、あの光に。

学校までの道は、おかあさんといっしょに歩いた。

坂を下りて、川ぞいの道を行って、大きな交差点をわたる。前の日に、おかあさんと二回、練習した道だ。でも、二回だけでは、まだ、じぶんの道になっていない。どこかで曲がるところをまちがえそうで、わたしは、いっしょうけんめい、家々の目じるしをおぼえた。青い屋根のおうち。犬のいるおうち。ポストのある角。

川のところで、彗星のことを、もういちど、思い出した。もう、空には、なにも見えなかった。お日さまが、もう、だいぶ高くのぼっていて、青い光は、そのなかに、すっかり溶けてしまっていた。夜のあいだ、あんなにはっきり見えていたのに。朝になると、消えてしまう。

消えてしまうものと、のこるもの。

そんなことを、わたしは、なんとなく考えていた。前の学校は、消えてしまった。まりちゃんも、あかねちゃんも、遠くなってしまった。でも、あかねちゃんの手紙は、のこっている。ランドセルのなかの、マッチ箱も、のこっている。

「みなみ」と、おかあさんが言った。「大丈夫よ。みんな、初めての日は、こわいの。でも、お昼になれば、きっと、なれてる。夕方になれば、もっと、なれてる。あしたになれば、もっと、もっとよ」

わたしは、うなずいた。うなずいたけれど、こわいものは、こわかった。

校門のところで、おかあさんは、立ちどまった。

「ここまでね」と、おかあさんは言った。「おかあさんは、ここで待ってる、っていうわけには、いかないの。みなみは、ひとりで、行くのよ」

わたしは、おかあさんの手を、ぎゅっと握った。ちょっとだけ、握った。それから、はなした。

「行ってきます」と、わたしは言った。声が、小さかった。

「行ってらっしゃい」と、おかあさんは言った。「みなみ。ランドセルの、まえのポケット」

わたしは、うなずいた。まえのポケットには、マッチがある。三日月の、青い箱。

校門をくぐるとき、わたしは、いちど、ふりかえった。おかあさんは、まだ、そこに立っていた。手をふっていた。わたしも、手をふった。それから、前を向いて、歩いた。ふりかえらないように、した。ふりかえったら、きっと、走って、もどってしまうから。

校門をくぐると、そこは、知らない場所だった。

知らない校舎。知らない校庭。知らない子どもたちが、いっぱいいた。みんな、笑って、走って、しゃべっていた。だれも、わたしのことを、見ていなかった。それが、へんな感じだった。前の学校では、みんな、わたしを知っていた。ここでは、だれも、わたしを知らない。

わたしは、げんかんのところで、じぶんの下ぐつばこを、さがした。二年一組の、下ぐつばこ。「みなみ」という名前の、ふだのついたところ。それは、いちばんはしっこの、下のほうにあった。あたらしい、白い名ふだ。わたしの名前だけが、まだ、まっさらだった。ほかの子の名ふだは、みんな、ちょっと古びていた。一年生のときから、使っているからだ。わたしのだけ、あたらしい。それが、わたしが「あとから来た子」だっていうことを、はっきりと、しめしていた。

うわぐつに、はきかえた。うわぐつも、あたらしかった。まだ、まっしろだった。ほかの子のうわぐつは、みんな、少し、よごれていた。

二階の、二年一組。かいだんをのぼって、ろうかを歩いて、その教室の、まえに立った。

「2年1組」と、ドアの上に、書いてあった。

なかから、たくさんの、こえがきこえた。わらいごえ。おしゃべり。いすを引く音。だれかが走る音。にぎやかな、あさの音。

わたしは、ドアの前で、立ちどまった。

なかに、入りたくなかった。ドアを開けたら、みんなが、いっせいに、わたしを見るだろう。「だれ」という顔で。「知らない子」という顔で。それが、こわかった。

わたしは、ランドセルのひもの、まえのポケットに、そっと手をやった。ファスナーごしに、四角い、かたいものが、ふれた。マッチ箱だ。

――こわくなったら、これを握るの。

わたしは、ファスナーを、少しだけ、あけた。指を入れて、青いマッチ箱に、ふれた。ひんやりと、つめたかった。かちかち、と、なかで、かるい音がした。

こわくなったら、これがある。いつでも、あかりをつけられる。

わたしは、大きく、いきをすった。そして、ドアに、手をかけた。

ドアを開けると、やっぱり、みんなが、わたしを見た。

いっせいに、ではなかった。でも、ちかくにいた何人かが、わらうのをやめて、わたしを見た。それから、そのとなりの子も、そのとなりの子も。しゃべるのをやめて、わたしを、見た。

しん、とは、ならなかった。でも、教室のなかの音が、すこし、ちいさくなった。

わたしは、その音のちいさくなったところに、ひとりで、立っていた。ランドセルをせおって、まっしろなうわぐつをはいて、まっさらな名ふだをつけて、たったひとりで。

顔が、あつくなった。耳のところまで、あつくなった。なにか、言わなくちゃ、と思ったけれど、なにも、こえが、でなかった。

そのとき、教室のうしろのほうから、先生が、やってきた。

「あ、来たね」と、先生は言った。「みなみさんでしょう。おはよう」

先生は、わかい、女の先生だった。かみを、うしろで、ひとつにむすんでいた。めがねをかけていた。わらうと、めがねのおくの目が、ほそくなった。

「みんなー」と、先生は、教室じゅうに、こえをかけた。「きょうから、あたらしいおともだちが、くるって、いってたでしょう。この子です。南(みなみ)さん。海の近くの町から、ひっこしてきたんだよ」

みんなが、また、わたしを見た。こんどは、さっきより、たくさんの目が。

「じゃあ、みなみさん、まえに来て、じこしょうかい、してくれる」と、先生が言った。

わたしは、教室のいちばん前まで、歩いた。みんなの目のあいだを、とおって。歩くのが、こんなにこわいなんて、思わなかった。じぶんのあしおとだけが、やけに、大きく、きこえた。

くろばんの前に立って、みんなのほうを、むいた。たくさんの顔が、わたしを見ていた。ぜんぶ、知らない顔だった。ひとりも、知らなかった。

「え、えっと」と、わたしは言った。こえが、ふるえた。「みなみ、です。南(みなみ)、みなみ。……はまべ小学校から、来ました。……よろしく、おねがいします」

ぺこり、と、おじぎをした。

だれかが、「ちいさいこえー」と言った。だれかが、くすっと、わらった。わたしの顔は、もっと、あつくなった。

「はい、みなみさん、ありがとう」と、先生が言った。「みなみさんの席は……」

先生は、教室を、見わたした。それから、まどぎわの、うしろから二番目の席を、ゆびさした。

「あそこ。あの、あいてる席。りくとくんの、となりね」

わたしは、そのゆびさされた席まで、歩いた。まどぎわの、うしろから二番目。そのとなりには、男の子が、すわっていた。

その男の子は、わたしのほうを、見なかった。まどのそとを、見ていた。ほおづえを、ついて。まるで、わたしなんか、そこにいないみたいに。

わたしは、その席に、すわった。

一時間目は、こくご、だった。

でも、わたしは、なにも、あたまに入らなかった。

先生が、なにか、はなしていた。あたらしい学年の、めあて、とか、そういうことを。みんなが、ノートに、なにか、書いていた。わたしも、ノートを、ひらいた。まっしろな、あたらしいノート。えんぴつを、にぎった。

でも、なにを書けばいいのか、わからなかった。みんなが、なにを書いているのか、わからなかった。前の学校とは、やりかたが、ちがった。前の学校では、日づけを、右のはしに書いた。ここでは、みんな、左のはしに、書いているみたいだった。そんなちいさなことでも、わたしは、まちがえるのが、こわかった。

わたしは、こっそり、となりの、りくとくんの、ノートを見た。

りくとくんは、字が、じょうずだった。ていねいに、日づけを、左のはしに書いて、その下に、「めあて」と書いていた。わたしは、そのとおりに、まねをして、書いた。

そのとき、気がついた。

わたしの、ふでばこのなかに、あかえんぴつが、なかった。

前の日の夜、おかあさんと、ふでばこの中みを、そろえたはずだった。えんぴつ、けしゴム、じょうぎ、あかえんぴつ。ぜんぶ、そろえたはずだった。でも、けさ、いそいで、ふでばこを、べつのカバンから、うつしたときに――そうだ、あかえんぴつだけ、机のうえに、おいてきてしまったんだ。

「ここ、あかで、せんを引きます」と、先生が言った。

みんなが、あかえんぴつを、とりだした。かちゃかちゃ、と、ふでばこの音がした。

わたしだけ、あかえんぴつが、なかった。

わたしは、ふでばこのなかを、なんども、さがした。ないものは、なんど、さがしても、ない。むねが、どきどきした。どうしよう。あかで、せんを、引けない。せんを引けなかったら、先生に、しかられる。しかられたら、みんなが、また、わたしを見る。「あの、あたらしい子、わすれものした」って。

わたしは、うつむいた。かおが、あつくなった。なみだが、でそうになった。初めての日に、わすれものをして、みんなの前で、しかられて――そんなの、いやだった。ぜったいに、いやだった。

そのとき。

わたしの、机の、はしっこに、ことん、と、なにかが、おかれた。

見ると、あかえんぴつだった。ちょっと、みじかくなった、あかえんぴつ。けずりたてで、しんが、とがっていた。

わたしは、はっとして、となりを見た。

りくとくんが、まどのそとを、見たままで、ちいさなこえで、言った。

「かして、やる」

まどのそとを、見たままだった。わたしのほうは、見なかった。でも、そのあかえんぴつを、わたしの机に、そっと、おしやってくれたのは、りくとくんの、手だった。

「……ありがとう」と、わたしは、言った。ちいさなこえで。

りくとくんは、なにも言わなかった。ただ、ちょっとだけ、うなずいた。まどのそとを、見たままで。

わたしは、その、みじかいあかえんぴつで、せんを引いた。とがったしんで、まっすぐな、あかいせんを。上手には、引けなかった。ちょっと、まがった。でも、せんは、引けた。あかいせんが、わたしのノートに、のこった。

わすれものを、しなかった子みたいに、わたしは、あかいせんを、引くことが、できた。

りくとくんの、あかえんぴつで。

そのあかえんぴつは、ちょっと、かわった、におい、がした。えんぴつを、けずったときの、木の、におい。それから、なにか、あまいような、におい。わたしは、そのにおいを、かいで、なぜだか、ほっと、した。まえの学校の、ふでばこの、においと、すこし、にていた。えんぴつの、においは、どこの学校でも、おなじなのかもしれない、と、わたしは、思った。海の音とは、ちがって。えんぴつは、ここでも、まえの学校でも、おなじ、においが、した。それが、うれしかった。

くろばんの、字を、うつしながら、わたしは、こっそり、りくとくんの、よこがおを、見た。りくとくんは、まっすぐ、まえを、むいて、ノートに、字を、書いていた。ていねいな、字だった。せなかが、まっすぐだった。りくとくんは、ひとりでも、へいきな子みたいに、見えた。わたしとは、ちがって。

でも、と、わたしは、思った。ほんとうに、へいきなのかな。まどのそとを、いつも、見ているのは、ほんとうは、さみしいから、じゃ、ないのかな。わたしにも、まどのそとを、見ていたい、きもちが、あるから、なんとなく、そう、思った。

二時間目のあと、休みじかんになった。

みんなが、いっせいに、立ちあがって、しゃべりだした。あそびに、いく子。トイレに、いく子。あつまって、なにか、はなしている子たち。教室のなかが、いっぺんに、にぎやかになった。

わたしは、じぶんの席に、すわったままだった。どこに、いけばいいのか、わからなかった。だれと、しゃべればいいのか、わからなかった。

まわりの子たちは、みんな、なかよしどうしで、あつまっていた。一年生のときから、いっしょだった子たち。わたしだけが、その、わのそとに、いた。

わたしは、また、まえのポケットに、手をやりたくなった。マッチ箱に、ふれたくなった。でも、ここで、ランドセルをあけたら、へんに思われるかもしれない。だから、わたしは、じぶんの手を、じぶんで、ぎゅっと、にぎった。てのひらのなかに、青いマッチ箱があるつもりで。三日月の、青い箱。

「ねえ」

こえがして、わたしは、顔をあげた。

女の子が、ふたり、わたしの机の、まえに、立っていた。ひとりは、かみを、ふたつに、むすんでいた。もうひとりは、めがねを、かけていた。

「あなた、みなみちゃん、っていうの」と、かみをふたつにむすんだ子が、きいた。

「うん」と、わたしは、言った。

「あたし、ひまり。こっちは、さきちゃん」

「よろしく」と、めがねの子――さきちゃんが、言った。

「海の町から、来たんでしょ。海、ちかいの。まいにち、見えるの」と、ひまりちゃんが、きいた。

「うん。まえのおうちは、まどから、見えた」と、わたしは、言った。「海の音も、きこえたよ」

「ええー、いいなあ」と、ひまりちゃんが、言った。「うみ、あたし、いちどしか、いったことない。おきなわ、いったとき」

「あたし、うみ、こわい」と、さきちゃんが、言った。「なみが、大きくて」

「へいきだよ」と、わたしは、言った。「なれると、へいき。なみも、ずっと見てると、おなじなみは、ふたつと、ないんだよ。ぜんぶ、ちがうかたち」

「ええー、そうなの」と、ひまりちゃんが、言った。目を、まるくして。

わたしは、はなしながら、じぶんのこえが、だんだん、大きくなっていくのに、気がついた。さっき、じこしょうかいのときは、あんなに、ちいさなこえしか、でなかったのに。

海のはなしなら、できた。海のことは、知っていた。わたしの、知っているものだった。

三時間目は、さんすうだった。

さんすうは、まえの学校でも、やっていたところと、おなじだった。たしざんと、ひきざん。だから、わたしにも、わかった。先生が、「この、こたえ、わかる人」ときいたとき、わたしは、手を、あげたくなった。でも、あげられなかった。まだ、はじめての日に、手をあげるのは、はずかしかった。

かわりに、となりの、りくとくんが、手をあげた。

「はい、りくとくん」と、先生が言った。

りくとくんは、立って、こたえを、言った。ちゃんとした、こたえだった。せいかいだった。

りくとくんは、あたまが、いいんだ、と、わたしは、思った。それに、さっき、あかえんぴつを、かしてくれた。まどのそとを、見たままだったけど、かしてくれた。

わたしは、りくとくんのことを、もっと、知りたくなった。でも、りくとくんは、あんまり、しゃべらない子みたいだった。休みじかんも、ひとりで、まどのそとを、見ていた。ひまりちゃんと、さきちゃんに、りくとくんのことを、きいてみた。

「りくとくん。あー、りくとくんはね」と、ひまりちゃんが、こえをひそめて、言った。「あんまり、しゃべらないの。いっつも、ひとり」

「でも、いじわるじゃ、ないよ」と、さきちゃんが、言った。「ただ、しずかなの」

わたしは、うなずいた。いじわるじゃ、ない。しずかなだけ。それは、なんとなく、わかる気がした。

お昼の、きゅうしょくの、じかんになった。

きゅうしょくの、じゅんびの、しかたも、前の学校とは、ちがった。エプロンを、つけて、はいぜんを、する。わたしは、まだ、じぶんの、とうばんの、しごとが、わからなかった。おろおろしていると、ひまりちゃんが、「みなみちゃんは、きょうは、見てるだけで、いいよ」と、おしえてくれた。

きゅうしょくは、カレーだった。カレーは、まえの学校でも、いちばん、すきだった。おなじカレーだ、と、わたしは、うれしくなった。ちがう学校でも、カレーは、カレーなんだ。あじは、ちょっと、ちがったけれど。まえの学校のカレーより、ちょっと、あまかった。でも、おいしかった。

けさ、あんなに、のどが、つかえて、朝ごはんが、食べられなかったのに、きゅうしょくは、ぜんぶ、食べられた。おかわりも、した。

つくえを、くっつけて、はんごとに、たべる。わたしのはんには、ひまりちゃんも、いた。それから、りくとくんも、いた。

りくとくんは、しずかに、カレーを、食べていた。あんまり、しゃべらなかった。でも、わたしが、「このカレー、まえの学校のより、あまいね」と言うと、りくとくんは、ちょっとだけ、顔をあげて、

「うん」と、言った。

それから、また、しずかに、食べた。でも、その「うん」は、あかえんぴつを、かしてくれたときの「かして、やる」と、おなじような、こえだった。ぶっきらぼうだけど、いじわるじゃ、ない、こえ。

わたしは、その「うん」が、なんだか、うれしかった。

きゅうしょくの、あとかたづけを、しているとき、先生が、わたしのところに、やってきた。

「みなみさん」と、先生は、こえを、ひそめて、言った。「どう。だいじょうぶ。こまってること、ない」

わたしは、ちょっと、かんがえた。あかえんぴつを、わすれたことは、もう、だいじょうぶだった。りくとくんが、かして、くれたから。

「だいじょうぶ、です」と、わたしは、言った。

「そう」と、先生は、わらった。「先生もね、この学校、きょねん、きたばっかりなの。だから、みなみさんと、いっしょ。あたらしい、なかまだね」

わたしは、おどろいて、先生を、見た。先生も、きょねん、きたばかり。りくとくんも、てんこうしてきた子。みんな、どこかで、はじめての日を、すごしてきたんだ。わたしだけじゃ、なかったんだ。

「はじめの日はね、だれでも、こわいの」と、先生は、言った。「でも、それは、これから、たくさんの、いいことが、はじまる、しるしなんだよ。あたらしいことは、みんな、こわいところから、はじまるの」

先生は、わたしの、あたまを、そっと、なでて、いってしまった。

わたしは、その、ことばを、こころのなかで、くりかえした。あたらしいことは、みんな、こわいところから、はじまる。けさ、おとうさんが、げんかんで、こわばった顔で、わらっていたのも、そういうことなのかもしれない、と、思った。

お昼やすみ、わたしは、ひまりちゃんと、さきちゃんと、校庭に、でた。

校庭は、ひろかった。まえの学校の校庭より、ひろい気がした。すみっこに、大きな木が、あった。さくらの木だった。もう、はなは、だいぶ、ちってしまっていたけれど、まだ、すこし、のこっていた。ちった花びらが、じめんに、ピンクの、じゅうたんみたいに、ひろがっていた。

「この木、みどり小学校で、いちばん、ふるい木なんだって」と、ひまりちゃんが、おしえてくれた。「校長せんせいより、ふるいんだって」

「ええー」と、わたしは、わらった。

さくらの木の、したで、わたしたちは、はなしをした。ひまりちゃんは、いぬを、かっていること。さきちゃんは、ピアノを、ならっていること。わたしは、まえの町の、海のこと。まえの学校の、まりちゃんと、あかねちゃんのこと。

「ともだち、いっぱい、いたんだね」と、さきちゃんが、言った。

「うん」と、わたしは、言った。それから、ちょっと、しずかになった。

「さみしい」と、わたしは、言った。「まりちゃんと、あかねちゃんに、あいたい」

言ってから、なみだが、でそうになった。ずっと、がまんしていたものが、さくらの木のしたで、いっきに、こみあげてきた。けさ、彗星が消えたときみたいに。前のおうちも、前の学校も、みんな、遠くに、いってしまった。

ひまりちゃんが、わたしの手を、にぎった。

「でも」と、ひまりちゃんが、言った。「いまは、あたしたちが、いるよ」

さきちゃんも、うなずいた。

「あたらしい、ともだち」

わたしは、なみだを、ぐっと、こらえた。それから、うなずいた。

さくらの、のこった花びらが、ひらひらと、ちってきて、わたしたちの、あたまの上に、ふった。

そのとき、さきちゃんが、ちいさなこえで、うたを、うたいだした。ふるい、子もりうたみたいな、うただった。

「ねむれ、ねむれ、ほしが、うみを、わたるまで……」

「なあに、それ」と、ひまりちゃんが、きいた。

「おばあちゃんが、うたってくれたの」と、さきちゃんが、言った。「ふるい、うた。ほしが、うみを、わたるまで、ねむれ、って」

わたしは、はっとした。そのうたを、わたしも、知っていたからだ。

「わたしも、しってる、それ」と、わたしは、言った。「おかあさんが、うたってくれた。おなじ、うた」

「ええー、ほんと」と、さきちゃんが、目を、まるくした。

「うん。ほんと。ねむれ、ねむれ、ほしが、うみを、わたるまで……でしょう」

わたしは、さきちゃんと、いっしょに、その、つづきを、うたった。ちいさなこえで。まえの町でも、この町でも、おなじ、うただった。海の音は、ちがった。学校の名前も、ちがった。でも、この、子もりうただけは、おなじだった。とおくの町の、さきちゃんの、おばあちゃんと、わたしの、おかあさんが、おなじうたを、うたっていた、なんて。

わたしは、なんだか、うれしくなった。おなじ、そらの下で、みんな、おなじうたを、うたっているのかもしれない、と、思ったら。海の音の、とどかない、この町でも、この、うただけは、とどいていた。

五時間目が、おわって、かえりの、しかくが、やってきた。

先生が、あした、もってくるものを、くろばんに、書いた。わたしは、それを、れんらくちょうに、うつした。りくとくんの、あかえんぴつは、まだ、わたしの机の上に、あった。

わたしは、そのあかえんぴつを、りくとくんに、かえした。

「ありがとう。きょう、たすかった」と、わたしは、言った。「あした、じぶんのを、もってくる」

りくとくんは、そのあかえんぴつを、うけとって、ふでばこに、しまった。それから、ちょっとだけ、わたしのほうを、見た。きょう、はじめて、まっすぐ、わたしのほうを、見た。

「べつに」と、りくとくんは、言った。

でも、その「べつに」のあとで、りくとくんは、ちいさなこえで、こう、つけたした。

「おれも、てんこうしてきた、から」

わたしは、おどろいて、りくとくんを、見た。

「え」

「一年の、おわりに。ここ、きた」と、りくとくんは、言った。まどのそとを、また、見ながら。「はじめの日、あかえんぴつ、わすれた。だれも、かして、くれなかった」

わたしは、なにも、言えなかった。

りくとくんは、それだけ、言って、また、しずかになった。ランドセルを、せおって、立ちあがった。

「じゃあ」と、りくとくんは、言った。

「うん。……あした、ね」と、わたしは、言った。

りくとくんは、ちょっとだけ、うなずいて、教室を、でていった。

わたしは、りくとくんが、あかえんぴつを、かしてくれた、わけが、わかった気がした。りくとくんは、じぶんが、はじめての日に、だれにも、あかえんぴつを、かしてもらえなかった。そのさみしさを、おぼえていたんだ。だから、わたしには、かして、くれた。

まどのそとを、見たまま、ぶっきらぼうに。でも、けずりたての、とがった、あかえんぴつを。

かえりみち、わたしは、ひとりで、歩いた。

いきは、おかあさんと、いっしょだったけれど、かえりは、ひとりだった。でも、おかあさんが、「かえりは、ひとりで、かえっておいで。できるでしょう」と、いっていた。だから、わたしは、ひとりで、かえった。

大きな交差点を、わたって、川ぞいの道を、あるいて、坂を、のぼる。いきに、おぼえた、目じるしを、たどっていく。青い屋根のおうち。犬のいるおうち。ポストのある角。ちゃんと、おぼえていた。まちがえなかった。ひとりで、かえれた。

坂の、とちゅうで、わたしは、いちど、立ちどまって、空を、見あげた。

もう、彗星は、いなかった。とうぜんだ。あれは、明け方だけ、見えるものだから。もう、お昼を、すぎて、夕方に、なりかけていた。空は、あかるい、水色だった。うすい雲が、いくつか、ながれていた。

彗星は、消えてしまった。でも、消えてしまったからって、なくなったわけじゃ、ない、と、わたしは、思った。あれは、きっと、どこかの、そらを、まだ、とんでいる。わたしに、見えないだけで。あした、また、明け方に、見えるかもしれない。

まりちゃんと、あかねちゃんも、そうだ。遠くに、いってしまったけれど、なくなったわけじゃ、ない。あかねちゃんの手紙は、まだ、ひきだしのなかに、ある。まりちゃんと、あかねちゃんは、いまも、あの海の町で、げんきに、しているはずだ。わたしに、見えないだけで。

そして、ここには、ひまりちゃんと、さきちゃんが、いる。りくとくんが、いる。あたらしい、ともだちが。

消えてしまうものと、のこるもの。あたらしく、ふえるもの。

わたしは、ランドセルの、まえのポケットに、手をやった。ファスナーを、あけて、指を、いれて、青いマッチ箱に、ふれた。まだ、そこに、あった。三日月の、青い箱。かちかち、と、なかで、音がした。

けっきょく、わたしは、きょう、いちども、マッチ箱を、にぎりしめる、ということは、しなかった。ドアの前で、いちど、ふれただけ。あとは、にぎらなくても、へいきだった。

でも、そこに、あってくれた。まえのポケットのなかに、ずっと。こわくなったら、これがある、って、思えるだけで、よかった。おかあさんの、いっていた、とおりだった。ほんとうに、火をつけなくても、いい。ただ、いつでも、あかりを、つけられる、って、思えるだけで。

わたしは、マッチ箱を、そっと、もとに、もどして、ファスナーを、しめた。

そして、また、坂を、のぼった。あたらしいおうちに、むかって。あたらしいおうちは、坂の、いちばん上に、あった。

おうちに、つくと、おかあさんが、げんかんで、まっていた。

「おかえり、みなみ」と、おかあさんは、言った。「どうだった。学校」

わたしは、くつを、ぬぎながら、かんがえた。どうだった、って、きかれると、いろんなことが、あって、うまく、言えなかった。こわかったことも、うれしかったことも、さみしかったことも、ぜんぶ、いっしょくたに、あったから。

でも、わたしは、こう、言った。

「あのね」と、わたしは、言った。「あかえんぴつ、わすれちゃった」

「あら」と、おかあさんは、言った。「だいじょうぶだった」

「うん」と、わたしは、言った。「となりの、りくとくんが、かして、くれた」

「そう」と、おかあさんは、わらった。「よかったね」

「りくとくん、もね」と、わたしは、言った。「てんこうしてきた子、なんだって。だから、かして、くれたの」

わたしは、ランドセルを、せなかから、おろした。あたらしい、ローズ色の、ランドセル。まだ、かたかったけれど、いきと、かえりの、ぶんだけ、ちょっと、やわらかくなった気が、した。わたしの、せなかの形を、ちょっとだけ、おぼえはじめた気が、した。

「おかあさん」と、わたしは、言った。「マッチ、ありがとう」

わたしは、まえのポケットから、青いマッチ箱を、とりだして、おかあさんに、見せた。三日月が、きんいろに、光っていた。

「にぎらなくても、へいきだった。でも、あってくれて、よかった」

おかあさんは、その青いマッチ箱を、見て、それから、わたしを、見た。ちょっと、めがしらを、おさえるみたいな、顔をした。

「そう」と、おかあさんは、言った。「じゃあ、あしたも、もっていく」

「うん。もっていく。おまもりに」

わたしは、その青いマッチ箱を、また、まえのポケットに、しまった。あしたも、もっていく。あさっても、もっていく。すこしずつ、あたらしいおうちも、あたらしい学校も、わたしの、知っているものに、なっていくだろう。ランドセルが、わたしのせなかの形を、おぼえるみたいに。

その夜、わたしは、あかねちゃんに、へんじの手紙を、書いた。

「あかねちゃんへ。てんこうした、みなみです。きょう、はじめて、学校に、いきました。とても、こわかったです。でも、あかえんぴつを、かしてくれた、りくとくんという子が、いました。それから、ひまりちゃんと、さきちゃんという、あたらしい、ともだちも、できました。まだ、さみしいです。まりちゃんと、あかねちゃんに、あいたいです。でも、だいじょうぶそうです。ずっと、ともだちだよ。げんきでね。みなみより」

わたしは、その手紙を、ふうとうに、いれた。あした、ポストに、いれよう、と、思った。ポストのある角は、もう、おぼえた。

それから、わたしは、まどのそとを、見た。

まだ、星は、でていなかった。でも、あしたの、明け方には、また、あの、青い彗星が、みえるかもしれない。夜のあいだじゅう、そらを、とんで、朝になると、消える、あの、細い、青い光が。

わたしは、あした、また、はやく、おきて、あれを、見よう、と、思った。坂の、とちゅうで、消えるまで。

そして、あの、青いマッチ箱を、まえのポケットに、いれて、また、学校へ、いこう。ふたつめの日へ。みっつめの日へ。

つぎの朝も、わたしは、坂を、下りた。

空には、まだ、青い彗星の、名残が、ほんの、すこしだけ、のこっていた。きのうより、うすかった。でも、たしかに、そこに、あった。わたしは、それを、見あげながら、歩いた。きょうは、ひとりで、あるいた。おかあさんは、いなかった。でも、まえのポケットには、青いマッチ箱が、あった。

校門を、くぐるとき、わたしは、もう、ふりかえらなかった。

教室の、ドアの前で、わたしは、いちど、いきを、すった。それから、ドアを、あけた。

なかから、ひまりちゃんが、手を、ふった。「みなみちゃん、おはよう」と。さきちゃんも、わらった。

まどぎわの、うしろから二番目の席に、りくとくんが、すわっていた。まどのそとを、見ていた。でも、わたしが、となりに、すわると、りくとくんは、ちょっとだけ、こっちを、見て、「おはよ」と、言った。

わたしは、じぶんの席に、すわった。まどぎわの、うしろから二番目。もう、知らない席では、なかった。わたしの、席だった。

ふでばこを、あけた。きょうは、あかえんぴつが、ちゃんと、あった。けさ、いちばんに、いれた。とがった、あたらしい、あかえんぴつ。

一時間目が、はじまった。

まどのそとで、朝の、光が、きらきらしていた。青い彗星は、もう、そのなかに、溶けて、見えなくなっていた。でも、わたしは、知っていた。見えなくても、彗星は、そこに、ある。どこかの、そらを、まだ、とんでいる。あした、また、明け方に、会える。

わたしは、あかえんぴつで、ノートに、あかいせんを、引いた。きのうより、まっすぐな、あかいせんを。まがらなかった。ちゃんと、まっすぐ、引けた。

きのう、りくとくんが、かしてくれた、あの、みじかい、あかえんぴつのことを、わたしは、ずっと、わすれないだろう、と、思った。世界が、すこし、やわらかくなった、あの、ことん、という、音のことを。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ

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