桜鯛の朝
一
まだ暗いうちに、市場の屋根は目を覚ます。
波形の鉄板を張っただけの大屋根が、ひとつ、またひとつと灯りをともし、その下で氷を割る音がはじまる。長靴が水を跳ね、荷車の車輪が石畳を鳴らし、発泡の函が積み上げられていく。海のにおいと、氷のにおいと、機械油のにおいが、朝の冷えた空気のなかで層になって漂っている。まだ陽は昇っていない。けれど、ここではもう、一日はとっくに動きだしていた。
新之助は、せり場の隅に立っていた。
長靴の底から冷えが這いあがってくる。手には、まだ真新しい前掛けの紐がしっかりと結ばれている。藍染めの布地には、白く「魚新」と染め抜かれている。父の代からの屋号だった。いや、祖父の代から、と言うべきかもしれない。三代つづいた仲買の看板を、今日から新之助が背負う。二十四になったばかりの肩に、その二文字はまだ少し大きい。
「おい、新之助。ぼさっと突っ立ってると、氷詰めにされちまうぞ」
声のほうを見ると、番頭の徳次が、湯気の立つ茶碗を片手に笑っていた。市場のはずれにある魚新の帳場を、四十年、切り盛りしてきた男である。父が倒れてからこっち、この徳次がいなければ、店はとうに畳んでいただろう。
「起きてます」
「起きてるのはわかる。だが、目が起きてても、腹が起きてなきゃ、せりには勝てん」
徳次は茶碗を差し出した。新之助は両手で受け取り、ひとくちすすった。ほうじ茶の香ばしさが、冷えた喉を落ちていく。番屋の帳場で、徳次はいつもこうして茶を淹れる。古い七輪に鉄瓶をかけ、火をおこす。その火をつけるのに、徳次は決まって同じマッチを使った。三日月を刻んだ、藍色の小さな箱。月光堂、と側面に金の文字が入っている。どこで手に入れたものか、新之助は知らない。ただ、物心ついたころから、帳場の隅にはいつもその青いマッチ箱があった。徳次が一本を擦り、火をおこし、鉄瓶が鳴る――それが、魚新の朝のはじまりの音だった。
「今日は、いい日和になるぞ」
徳次が屋根を見上げて言った。
波形の鉄板と鉄板のあいだに、わずかな隙間がある。そこから覗く空は、まだ藍を溶かしたように暗い。だが、その暗さの底のほうが、うっすらと白みはじめていた。夜と朝のさかいめ。新之助もつられて空を見上げた。
そのとき、隙間の空の一角に、細く長い光の筋が見えた。
蒼白い、糸のような尾を引いている。彗星だった。
「――ミラだ」
徳次がぽつりと言った。
「彗星の。あんた、ゆうべ見たか」
「見てないです」
「そうか。ゆうべは、ずいぶん冴えてたぞ。おれは仕入れの下見に来る途中、堤防のところで、しばらく見とれちまった」
新之助は、屋根の隙間の光を見つめた。夜のあいだじゅう空を横切っていた星は、いま、昇ろうとする陽のけはいに押されて、少しずつ薄れていくところだった。もうしばらくもすれば、白みゆく空に溶けて、見えなくなるだろう。今日という日のはじまりに、かろうじて間に合った名残のように、その尾は屋根の隙間で細く光っていた。
「――さ、行くぞ。もうすぐ、鐘が鳴る」
徳次が茶碗を受け取り、帳場のほうへ歩きだした。
新之助は、もう一度だけ空を見上げてから、せり場のほうへ足を向けた。
二
せり場は、市場のいちばん奥にある。
コンクリートの床は水で洗われ、蛍光灯の白い光を照り返している。そこに、夜半から水揚げされた魚が、次々と並べられていく。氷を敷き詰めた木箱に、鰤が、鯛が、鰆が、平目が、いくつも横たわる。函の脇には、産地と重さを記した木札が立てられている。仲買たちは、その列のあいだをゆっくりと歩きながら、魚の一尾一尾に目を凝らしていた。
下見の時間である。
新之助も、列のあいだを歩いた。魚を見る目は、まだ父や徳次には遠くおよばない。それでも、この半年、必死に覚えてきた。目の澄み具合、鰓の色、腹の張り、身のしまり。函の氷に手を差し入れ、魚の背に指を触れる。冷たい。そして、硬い。いい魚は、死んでなお、生きているときのはりを失わない。
「若いの」
背後から、しゃがれた声がした。
振り向くと、白髪の男が立っていた。背は新之助より頭ひとつ低いが、肩幅が広く、腕が太い。前掛けは、藍色の地が長年の使い込みで灰がかり、屋号の文字も擦れて読めなくなっていた。だが、この市場で、その男の名を知らぬ者はいない。
権蔵。
五十年、この市場で仲買を張ってきた男である。せりでは誰よりも高く手をあげ、いちばんいい魚をさらっていく。料亭も、高級旅館も、権蔵の目利きなら間違いないと、こぞって買いつけを頼む。市場の主、と陰で呼ぶ者もいた。
「魚新の、跡取りか」
権蔵の目が、新之助の前掛けの文字を見た。
「はい。新之助と申します。今日から――」
「代替わりか」
権蔵は、新之助の言葉を待たずに言った。声に、労わりのようなものはなかった。ただ、事実を確かめるだけの、乾いた響きだった。
「親父さんは、まだ寝たきりか」
「……はい。おかげさまで、少しは口がきけるようになりましたが」
「そうか」
権蔵は、それだけ言うと、新之助の脇を通りすぎ、函の列のほうへ歩いていった。すれ違いざま、魚のにおいと、煙草のにおいと、それから、汗の染みついた古い前掛けのにおいが、ふっと鼻をかすめた。
新之助は、その背を見送った。
権蔵と父とは、長いあいだ、せり場で火花を散らしてきた仲だと聞いている。同じ魚をめぐって、幾度となく手やりを競い合った。父が勝った日もあれば、権蔵にさらわれた日もある。だが、その勝負のなかで、二人はたがいを認めあってきたのだ、とも聞いた。父が倒れたと知ったとき、権蔵は見舞いにも来なかった。ただ、市場で徳次に会うたび、「まだ死なんか」とだけ訊いたという。
その言い方が、権蔵なりの見舞いなのだと、徳次は言った。
「あの人はな」と徳次は言った。「口はああだが、魚を見る目だけは、この市場でいちばんだ。あの人と競れるようになったら、あんたも一人前だよ」
新之助は、権蔵の広い背を見ながら、拳をにぎった。
一人前。
その言葉が、いまはまだ、どこか遠い岸のように思われた。
新之助は、権蔵の背が、函の列の向こうに消えるまで、その場を動けずにいた。あの背には、五十年ぶんの朝が、しみこんでいた。暗いうちに市場へ来て、氷の函をのぞきこみ、魚の一尾に手をあて、そして、せりの熱のなかで手をあげる。そんな朝を、権蔵は、一万と八千あまり、繰り返してきたのだ。日曜も、正月も、時化の日も。台風で船が出ない日でさえ、権蔵は、この市場の隅に立っていたという。魚を見る目は、そうやって、朝の数だけ、磨かれていく。
自分は、まだ、その朝を、いくつも数えていない。
前掛けの、真新しい紐が、それを、静かに証していた。父の前掛けは、権蔵のそれと同じように、長年の使い込みで、藍が灰がかっていた。屋号の文字も、擦れて、白く霞んでいた。だが、新之助の前掛けは、まだ、藍が濃く、文字も、くっきりと、白い。その濃さと、白さとが、いまは、なんとも心もとなかった。この布が、あの父のもののように、擦れて、霞んでいくまでに、あと何万の朝を、自分は、この市場で迎えるのだろう。
そう思うと、足の裏の冷えが、なぜだか、ありがたく感じられた。
冷えは、確かだった。長靴の底から這いあがってくる、この石畳の冷たさは、嘘をつかなかった。父も、この冷えを、踏んできた。祖父も、踏んできた。そして、いまは、自分が、踏んでいる。魚を見る目は、まだ遠い。だが、この冷えだけは、いま、たしかに、自分のものだった。
新之助は、ひとつ、深く、息を吸った。
冷えた朝の空気が、肺のいちばん奥まで、届いた。
三
下見の列を歩いていた新之助の足が、ふと止まった。
いちばん奥の函に、一尾の鯛が横たわっていた。
大きい。ゆうに三キロは超えているだろう。だが、大きさだけではなかった。その体色である。桜の花びらを溶かしこんだような、澄んだ紅。腹のあたりは銀に光り、背には青の斑が散っている。目は黒く澄み、まるで、いまさっき海から引き上げられたばかりのように、いきいきとしている。氷のうえに横たわってなお、その鯛は、群を抜いて美しかった。
木札には、産地の名と、「3.4kg」とあった。
明石の、鳴門にほど近い瀬戸の鯛だ。潮の速い海で身を締めた、桜鯛。産卵前のこの季節、明石の鯛はもっとも旨いと言われる。
新之助の胸が、とくん、と鳴った。
これだ、と思った。
今日、初めてせりに立つ。徳次と相談して、まずは無理をせず、確実に買える魚から手をあげる、と決めていた。初せりで背伸びをして、高値をつかまされては元も子もない。父が倒れてからの店の台所は、けっして楽ではなかった。堅実に、確実に――それが、この半年、徳次に叩きこまれた商いの心得だった。
だが。
この鯛を見た瞬間、その心得が、胸のなかで大きく揺れた。
魚新の得意先に、一軒の料亭がある。海辺の高台に建つ、古い料亭だった。当代の主人は、新之助の父と同じ歳で、幼なじみのように親しかった。父が倒れたと聞いて、真っ先に店まで見舞いに来てくれたのも、その主人だった。
「新之助くん」と、その主人は言った。「親父さんの魚は、うちの店の背骨だった。あんたが継ぐなら、また、いい魚を持ってきてくれ。待ってるよ」
その言葉が、新之助の耳に、いまも残っている。
来週、その料亭で、大きな祝いの席があると聞いていた。金婚を迎える老夫婦のための、内輪の宴。主人は、その日のために、とびきりの鯛を探している、と言っていた。
この鯛なら――と、新之助は思った。
この鯛なら、あの席を飾るにふさわしい。祝いの尾頭付きとして、これ以上の魚はない。もしこれを持っていけたら、父の得意先を、自分の代でも、しっかりと守っていける。父の魚は、あんたの代でも生きている――そう、あの主人に、言ってもらえるかもしれない。
新之助は、函の氷に手を差し入れ、鯛の背に指を触れた。
硬い。しまっている。文句のない魚だった。
そのとき、隣に、ぬっと影が立った。
権蔵だった。
権蔵もまた、同じ鯛を見つめていた。皺の刻まれた顔に、表情はない。だが、その目だけが、鋭く、魚の一点を射抜いていた。老いた漁師のような、獲物を見定める目だった。
新之助は、指を氷から抜いた。
権蔵は、ちらりと新之助を見た。その視線が、新之助の顔から、氷に触れていた手のほうへ、静かに移った。そして、また鯛のほうへ戻った。
二人は、しばらく、無言でその一尾を見つめていた。
言葉はなかった。だが、たがいの胸のうちは、痛いほどにわかった。
この鯛を、おれは狙う。
――おれもだ。
そういう無言のやりとりが、氷の函のうえで、火花のように散った。
やがて、権蔵は、ふん、と鼻を鳴らして、その場を離れていった。新之助は、その背を見送りながら、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
初せりで、権蔵と競る。
半年前の自分なら、考えもしなかったことだった。
四
帳場に戻ると、徳次が帳面をつけていた。
新之助は、息を切らして言った。
「徳さん。奥の函に、明石の鯛が。三キロ四百の、桜鯛が」
徳次は、帳面から顔をあげた。
「見たのか」
「はい。すごい鯛です。あんな鯛、僕は見たことがない。あれを――あれを、笹川の料亭に持っていきたいんです。来週の、金婚の祝いの席に」
徳次の目が、細くなった。
「いくらまで出すつもりだ」
新之助は、言葉に詰まった。
明石の桜鯛、それも三キロを超えるとなれば、値は張る。料亭むけの祝い鯛として、いくらまでなら採算が合うか。頭のなかで、そろばんが弾かれる。だが、そのそろばんの答えは、けっして楽なものではなかった。
「……高くなると思います」
「だろうな」と徳次は言った。「あの鯛には、権蔵さんが目をつけてる。おれも、さっき見た」
「知ってました」
「知ってて、なお、やるか」
徳次は、じっと新之助を見た。その目には、叱責でも、心配でもない、ただ、問いかけるようなものがあった。
新之助は、うなずいた。
「やります」
「――理由を言え」
新之助は、しばらく黙った。そして、ゆっくりと口を開いた。
「笹川の旦那さんは、親父が倒れたとき、真っ先に見舞いに来てくれました。うちの魚は、店の背骨だと言ってくれました。また、いい魚を持ってきてくれ、と。待ってる、と。……その言葉に、応えたいんです。堅実に、っていうのは、わかってます。でも、あの鯛を、あの席に持っていけたら、笹川の旦那さんに、魚新はまだ生きてるって、示せる。親父の代からの縁を、僕の代でも、つなげる。それは、そろばんじゃ、計れないものだと思うんです」
徳次は、しばらく、何も言わなかった。
七輪の火が、ぱちり、と爆ぜた。
やがて、徳次は、帳面を閉じた。そして、帳場の隅から、あの藍色のマッチ箱を手に取った。三日月の刻まれた、月光堂のマッチ。一本を抜き、側薬で擦る。しゅっ、と小さな音がして、赤い炎が灯った。徳次はその火を、新しい煙草の先に近づけた。煙が、朝の空気のなかに、ゆらりと立ちのぼる。
「あんたの親父もな」と徳次は言った。煙を吐きながら。「若いころ、同じことを言ったよ」
「親父が」
「ああ。まだ跡を継いだばかりのころだ。堅実に、確実に、ってのが、当時の大旦那――あんたの祖父さんの口癖でな。だが、あんたの親父は、あるとき、大旦那の言いつけを破って、とびきりの魚に、ありったけの手をあげた。損得抜きで、これだ、と思った魚にな。祖父さんは、そりゃあ怒った。だが、その魚を持っていった得意先が、それからずっと、魚新の看板を支えてくれた。……商いってのは、そろばんだけじゃ、まわらねえんだ。ときには、そろばんを閉じて、腹で勝負しなきゃならんときがある」
徳次は、煙草を挟んだ手で、せり場のほうを指した。
「あんたが、今日、それをやるってんなら――おれは、止めねえ」
新之助の胸が、熱くなった。
「ただし」と徳次は言った。声を、ふいに引き締めて。「相手は権蔵さんだ。半世紀、この市場でいちばんの魚をさらってきた男だぞ。生半可な覚悟じゃ、勝てん。手やりで負けたら、笑いものになるだけだ。それでも、やるか」
「やります」
「――上限を、決めておけ。ここまで、と。それを超えたら、退く。それが、玄人だ。むきになって、際限なく手をあげるのは、素人のやることだ。いいな」
新之助は、そろばんを弾いた。魚新の台所と、笹川の料亭に納められる値と、そのあいだで採算の合う、ぎりぎりの上限。それを、胸に刻んだ。
「決めました」
「よし」
徳次は、煙草をもみ消した。
「それだけありゃ、じゅうぶんだ。あとは、腹をくくれ。せりってのは、値の勝負に見えて、じつは、度胸の勝負だ。相手より、一瞬でも長く、腹をくくっていられたほうが、勝つ。魚を欲しがる気持ちを、相手に読ませるな。だが、いざってときには、迷うな。――行ってこい」
新之助は、深く頭を下げた。
そして、せり場へと、足を向けた。
五
鐘が鳴った。
かん、かん、かん、と、澄んだ音が三度、市場に響きわたる。せり場に、仲買たちが集まってくる。それぞれの屋号を染めた前掛けが、蛍光灯の白い光のなかで、藍に、鼠に、茶に、色を並べる。人いきれと、氷の冷気とが、混じりあう。
高い台のうえに、せり人が立った。
日に焼けた顔の、恰幅のいい男である。手には鉤棒を握り、腰には帳面を差している。この市場で三十年、せりを仕切ってきた男だった。せり人は、集まった仲買たちを、ぐるりと見わたした。その視線が、新之助のところで、ほんの一瞬、止まった。魚新の跡取りが、初めてせりに立つ。それを、せり人も知っているのだった。
「はじめるぞ!」
せり人の声が、市場に轟いた。
せりが、はじまった。
最初は、鰤の函からだった。せり人が値を呼ぶと、仲買たちの手が、いっせいにあがる。指を折り、掌を返し、それぞれの流儀で値を示す手やり。せり人は、その手やりを、目にもとまらぬ速さで読み取り、値を吊りあげていく。怒号のような掛け声。函から函へと、せりは流れるように進んでいった。
新之助は、はじめの何函かは、手をあげなかった。
ただ、せりの呼吸を、体に叩きこんだ。せり人が値を呼ぶ間合い。仲買たちが手をあげる速さ。値の跳ねあがりかた。落札が決まる、あの一瞬の静けさ。半年、下見だけをつづけてきた新之助にとって、せり場のなかに立つのは、まったく別の世界だった。氷のうえで魚を見るのとは、空気がちがう。ここには、熱があった。数百の魚と、数十の男の、生きた熱が、渦を巻いていた。
やがて、新之助は、はじめて手をあげた。
平目の函だった。堅実に売りさばける、手堅い魚。徳次と決めていた、初せりの一手目である。せり人が値を呼ぶ。新之助は、掌を返し、指を折る。半年、鏡の前で練習した手やりだった。せり人の目が、新之助の手を捉えた。
「魚新!」
せり人が、屋号を呼んだ。
落札だった。
新之助は、平目の函を、確かに、自分のものにした。
胸のなかで、何かが、ぱっと弾けた。手が、わずかに震えていた。だが、それは恐れの震えではなかった。喜びと、昂ぶりの震えだった。おれは、いま、せりに勝った。父の屋号で、市場の函をひとつ、手に入れた。
「いいぞ、新之助!」
どこかから、そんな声が飛んだ。徳次の声だった。帳場から、こちらを見ているのだ。
新之助は、こみあげるものを、ぐっと呑みこんだ。
まだだ。まだ、これからだ。
本当の勝負は、あの鯛だった。
新之助は、落札した平目の函に、木札を立てた。魚新、と屋号を記した、自分の札を。氷のうえに立てたその札を、新之助は、しばらく、見つめていた。父が、何千と立ててきた札。祖父が、立ててきた札。いま、それを、自分の手で、立てている。ちいさな、木の札。だが、そのちいさな一枚に、三代の朝が、こもっていた。
隣の仲買が、鰆の函を落札し、木札を立てた。その向こうでは、料亭むけの買いつけをする老仲買が、鯛の函を、いくつも、さらっていた。手やりの応酬。せり人の怒号。値の跳ねる音。市場の朝は、こうして、無数の勝負の積み重ねで、できていた。誰かが手をあげ、誰かが退き、魚が、それぞれの持ち場へと、わたっていく。料亭へ、旅館へ、仕出し屋へ、行商の荷へ。この市場のせり場は、いわば、朝の海が、街のすみずみへと、枝分かれしていく、その分かれ目だった。
新之助は、そのなかに、いま、立っていた。
半年前まで、下見の列を、ただ歩くだけだった自分が。父の背の後ろから、せりの熱を、遠く眺めているだけだった自分が。いまは、その熱の、まんなかに、立っていた。手をあげ、屋号を呼ばれ、魚を、自分のものにする。その手ごたえが、まだ、掌に、残っていた。
だが、その手ごたえも、あの鯛の前では、まだ、序の口だった。
新之助は、奥の函のほうへ、目をやった。
蛍光灯の光のなかで、あの桜鯛が、しんと、輝いていた。氷のうえで、その紅は、いっそう、あざやかに見えた。まるで、自分を、待っているかのように。あるいは、試しているかのように。――どこまで、来られる。跡取りよ。権蔵の目が、そう言っていたように、いま、あの一尾もまた、そう、問うているようだった。
新之助は、前掛けの帯を、ぎゅっと、締めなおした。
六
せりが、奥の函へと近づいていく。
新之助の心臓が、じわじわと速くなっていった。あの、桜鯛の函が、近づいてくる。
その前に、何函かの鯛が売られた。それぞれ、いい魚だった。だが、あの一尾には、およばなかった。仲買たちの手が、あがっては消え、値が呼ばれては落ちていく。せりは、着実に、あの函へと歩を進めていった。
やがて、せり人の鉤棒が、あの桜鯛の函を、指した。
「明石の桜鯛! 三キロ四百! 極上だぞ!」
せり人の声が、いちだんと張った。
その一言で、せり場の空気が、変わった。仲買たちの視線が、いっせいに、その一尾に集まる。桜の花びらを溶かしたような紅。銀に光る腹。黒く澄んだ目。氷のうえで、その鯛は、蛍光灯の光を照り返して、しんと輝いていた。誰の目にも、それが、今日の市場で群を抜いた一尾であることは、明らかだった。
「さあ、いくらだ!」
せり人が、値を呼んだ。
手が、あがった。
いくつもの手が、あがった。料亭むけの買いつけをする仲買たちが、いっせいに手をあげたのだ。値が、跳ねる。せり人が、それを読み、次の値を呼ぶ。また手があがる。値が、また跳ねる。
新之助は、まだ手をあげなかった。
腹の底で、じっと、機をうかがっていた。徳次の言葉が、耳に残っている。――魚を欲しがる気持ちを、相手に読ませるな。だが、いざってときには、迷うな。
値が、あがっていく。
はじめに手をあげた仲買のいくつかが、値の高さに、手を引いていった。採算の折り合わぬところで、彼らは退いていく。それが、玄人の商いだった。函のうえに残る手が、ひとつ、ふたつと、減っていく。
だが、ひとつだけ、微動だにしない手があった。
権蔵だった。
権蔵は、せり場の中ほどに立ち、太い腕を、悠然とあげていた。皺の刻まれた顔に、表情はない。ただ、じっと、鯛の一点を見つめている。値がいくらあがろうと、その手は、揺らがなかった。まるで、この一尾は、はじめから自分のものだと、決めているかのようだった。
権蔵の手が動くたびに、ほかの仲買たちは、たじろいだ。市場の主が、本気で狙っている。その値には、追いつけない。ひとり、またひとりと、彼らは戦列を離れていった。
やがて、函のうえに残ったのは、権蔵の手、ただひとつになった。
せり人が、権蔵の値を呼んだ。このまま、権蔵が落札する。誰もが、そう思った。せり場に、あの、落札のまえの静けさが、訪れかけた。
そのとき。
新之助が、手をあげた。
七
せり場が、どよめいた。
せり人の目が、新之助を捉えた。日に焼けた顔に、驚きが走った。魚新の跡取りが、初せりで、権蔵に競り値をつけた。そんなことは、誰も予想していなかった。
「魚新!」
せり人が、新之助の値を呼んだ。
権蔵が、ゆっくりと、首をめぐらせた。
その視線が、新之助を射抜いた。半世紀、この市場でいちばんの魚をさらってきた男の目だった。獲物を狙う漁師の目。その目に、ちらりと、光るものが宿った。面白い、とでも言うような光だった。
権蔵は、また、手をあげた。値を、吊りあげた。
新之助も、手をあげた。
権蔵が、あげる。
新之助も、あげる。
せり場の視線が、二人のあいだを、行き来した。老いた市場の主と、初せりの若者。その一騎打ちに、ほかの仲買たちは、固唾を呑んで見入っていた。せり人の声だけが、二人の値を、交互に呼んでいく。値は、みるみる吊りあがっていった。
新之助の掌には、汗がにじんでいた。
心臓が、胸を突き破りそうに鳴っている。値は、もう、当初に見込んだ相場を、はるかに超えていた。だが、決めておいた上限には、まだ、わずかに届いていない。徳次の言葉が、頭のなかで鳴る。――上限を超えたら、退け。それが、玄人だ。
権蔵が、また、手をあげた。
その値は、新之助が胸に刻んだ上限の、すぐ手前だった。
もう、あと一手。あと一手あげれば、上限に届く。そして、それを超えれば、もう、退かねばならない。
新之助は、権蔵を見た。
権蔵は、じっと、新之助を見ていた。その目が、静かに、こう言っているようだった。――どこまで、来られる。跡取りよ。
新之助は、手を、あげた。
上限の、値だった。
せり人が、その値を呼ぶ。せり場が、しん、と静まりかえった。
権蔵の手が、ゆっくりとあがりかけて――
止まった。
権蔵は、あげかけた手を、宙で止めたまま、新之助を見つめていた。皺の刻まれた顔に、何かが、よぎった。
そして。
権蔵は、その手を、静かに、下ろした。
八
「魚新!」
せり人の声が、市場に轟いた。
落札だった。
一瞬、新之助には、何が起きたのか、わからなかった。
権蔵が、退いた。市場の主が、初せりの若者に、あの一尾を、譲った。せり場じゅうの視線が、いっせいに、新之助に集まっていた。誰かが、ほう、と、感嘆の息を漏らした。どこからか、ぱらぱらと、まばらな手拍子が起きた。それが、次第に、大きくなっていった。
新之助は、あの桜鯛の函を、たしかに、自分のものにしていた。
胸の底から、熱いものが、突きあげてきた。膝が、わずかに、震えていた。あげた手を、下ろすことを、しばらく忘れていた。
「――若いの」
すぐそばで、しゃがれた声がした。
権蔵が、いつのまにか、新之助の隣に立っていた。
新之助は、身を硬くした。値を競り勝ったとはいえ、相手は市場の主である。恨まれても、おかしくはない。初せりで、生意気な、と、叱られるかもしれない。
だが。
権蔵の顔に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
かすかな、笑みだった。
「お前さん、上限を、決めてたな」
権蔵は、低い声で言った。
「え」
「手やりを見りゃ、わかる。お前さんは、あの値で、ぴたりと手を止める腹づもりだった。それ以上は、あげねえ。むきになって、際限なくあげる、ってんじゃなかった。……最後の一手、あの値で、迷いなく手をあげたろう。あれで、わかった。この若いのは、そろばんを、ちゃんと弾いてる、とな」
新之助は、言葉を失った。
「おれはな」と権蔵はつづけた。「お前さんが、むきになって、際限なく手をあげるようなら、どこまでも、吊りあげてやるつもりだった。素人の若造が、初せりで思いあがってるなら、痛い目を見せてやろう、とな。……だが、お前さんの手やりには、迷いがなかった。かといって、無鉄砲でもなかった。腹に、ちゃんと、線が引いてあった。あの上限で、手を止める覚悟が、見えた。……そういう相手からは、おれは、退く。それが、この市場の、仁義だ」
権蔵は、氷のうえの桜鯛に、目をやった。
「いい鯛だ。どこへ持っていく」
「……笹川の、料亭です」
「ああ、あの高台の。金婚の祝いか、なにか、あるのか」
「はい。来週、金婚の祝いの席が」
権蔵は、うなずいた。
「なら、この鯛が、いちばんいい。よく、見抜いた」
そして、権蔵は、新之助の顔を、まっすぐに見た。
「お前さんの親父もな」と権蔵は言った。「若いころ、おれから、一尾、さらっていったことがある。ちょうど、こんなふうにな。あのときも、おれは、退いた。あいつの手やりに、迷いがなかったからだ。……あれから、五十年だ。まさか、その息子と、同じせり場で競るとはな」
権蔵の目に、遠いものが、宿った。
「親父さんに、伝えとけ。――権蔵は、まだ、市場に立ってるぞ、とな。そして、あんたの息子は、なかなか、いい手やりをする、とも」
新之助の目に、熱いものが、こみあげた。
権蔵は、それを見て、ふん、と鼻を鳴らした。そして、背を向けた。
「泣くな。せり場で泣く仲買が、どこにいる」
そう言い残して、権蔵は、ゆっくりと、次の函のほうへ、歩いていった。
その背は、朝の光のなかで、大きく、広かった。
九
せりが、すべて終わったのは、陽が屋根の隙間から、まっすぐに射しこむころだった。
新之助は、あの桜鯛を、そっと、木箱に移した。氷を敷き詰め、鯛の姿が崩れぬよう、丁寧に、丁寧に、詰めていく。この一尾を、笹川の料亭まで、無事に届ける。それまでが、仲買の仕事だった。
「よくやった」
背後で、声がした。
徳次だった。帳場から、こちらへ、歩いてきたのだ。
「徳さん」
「見てたよ。全部な。……お前さん、権蔵さんに、競り勝ったな」
「勝った、っていうより」と新之助は言った。「譲ってもらった、っていうか。あの人が、手を止めてくれたんです。上限を、見抜いて」
「それが、勝ちってもんだ」
徳次は、笑った。
「権蔵さんが、手を止めた。それは、お前さんを、認めたってことだ。あの人が、腕を認めた相手には、退く。半世紀、この市場を見てきたおれが言うんだ。間違いねえ。……お前さんは、今日、初せりで、権蔵に、認められたんだ。それ以上の、初せりが、あるか」
新之助は、木箱に詰めた鯛を、見つめた。
桜の花びらを溶かしたような紅。銀の腹。この一尾を、あの席に届ける。父の得意先を、自分の代でも、守っていく。父の魚は、あんたの代でも生きている――そう、笹川の主人に、言ってもらえるかもしれない。
「徳さん」
「ん」
「僕、親父に、報告してきていいですか。今日のこと。全部」
徳次は、うなずいた。
「行ってこい。……ああ、それから」
徳次は、帳場のほうを振り返った。
「帰りに、あそこに寄っていけ」
徳次が指したのは、市場のはずれ、路地の奥だった。ふだんは、何もない、行き止まりの路地である。だが、その奥に、いま、一軒の店が、ぼんやりと灯りをともしていた。古びた木の看板に、かすれた文字が読める。
――月光書房。
「あんな店、あったかな」と新之助は首をかしげた。「昨日まで、なかったような」
「さあな」と徳次は、とぼけたように言った。「彗星の見える晩にだけ、ふらっと出るって話だ。ゆうべ、ミラが冴えてたろう。今朝までは、開いてるかもしれん。……あんたの親父が、若いころ、あの店で、一冊、本を買ったって話を、聞いたことがある。魚の本じゃない。子守唄の、載った本だとよ」
「子守唄」
「ああ。あんたが赤ん坊のころ、あんたの親父が、あんたを寝かしつけるのに、いつも歌ってたやつだ。覚えてるか。――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、ってな」
新之助の胸の奥で、何か、遠い記憶が、かすかに揺れた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
たしかに、その旋律を、どこかで聞いた覚えがあった。夜の匂いと、大きな掌の温もりと、低く、優しい歌声。それは、父の声だったのかもしれない。
「陽が高くなりゃ、あの店は、消えちまう」と徳次は言った。「気が向いたら、覗いてこい。……さあ、鯛が傷むぞ。早いとこ、運んじまえ」
十
新之助は、桜鯛の木箱を、荷車に載せた。
市場を出ると、朝の光が、まっすぐに、目を射た。
夜のあいだ、あんなに暗かった空は、いつのまにか、澄んだ青に変わっていた。屋根の隙間で、細く光っていた彗星の尾は、もう、どこにも見えなかった。昇りきった陽のなかに、蒼白い名残は、すっかり溶けてしまっていた。夜が持ち去ったものと、朝が連れてきたもの。そのさかいめを、新之助は、たしかに、今日、跨いだのだった。
港には、朝の喧噪が、満ちていた。
水揚げを終えた船が、桟橋に並び、漁師たちが網を繕っている。仲買たちの荷車が、行き交う。市場の食堂からは、味噌汁の湯気が、立ちのぼっている。魚を焼く匂い。飯を炊く匂い。誰もが、それぞれの一日の、持ち場へと、向かっていく。朝が、動きだしていた。
新之助は、荷車を引きながら、路地の奥を、振り返った。
月光書房の、ぼんやりとした灯りは、まだ、そこにあった。
寄っていこうか、と思った。
父が、若いころ、あの店で買ったという、子守唄の本。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。父が、赤ん坊の自分に、歌ってくれたという、あの唄。それが載った本を、もし手に入れられたら――退院した父の枕元で、こんどは、自分が、それを歌ってやれるかもしれない。父が、自分にしてくれたように。
だが、いまは、鯛が先だった。
この一尾を、無事に届ける。それが、今日の、仲買の仕事だった。本は、また、いつでも。――いや。あの店は、彗星の晩にしか、出ないのだという。だとすれば、次はいつになるか、わからない。
新之助は、しばらく、迷った。
そして、決めた。
鯛を届けたら、その足で、戻ってこよう。陽が高くなるまでに、間に合えば、あの店を覗く。間に合わなければ、それも、また、縁だ。父が、あの本と出会ったのも、きっと、そういう縁だったのだろう。
新之助は、荷車の柄を、しっかりと握った。
そのとき、ふと、自分の右手に、目がとまった。
軍手を、片方しか、はめていない。
いつのまに、なくしたのか。せりの熱のなかで、片方を、どこかに落としてきたらしい。氷の函のうえか、せり場の床か。もう片方は、前掛けの帯に、挟んだままだった。対のうちの、片方だけ。新之助は、少し笑って、残った片方を、帯から抜き、右手にはめた。
たいしたことではない。軍手など、また、いくらでも買える。
だが、なぜだろう。片方だけになった、その軍手が、今日という日の、ひとつのしるしのように思われた。夜が置いていったものと、朝が連れてきたもの。父の代と、自分の代。失ったものと、受け継いだもの。そのすべてが、この片方だけの軍手のなかに、静かに、こもっているような気がした。
新之助は、両手に軍手をはめ、荷車を、引きだした。
車輪が、朝の石畳を、からから、と鳴らした。
港の向こうから、汽笛が、ひとつ、聞こえた。
十一
料亭への道は、坂だった。
海辺の道を抜け、高台へと、ゆるやかに登っていく。荷車を引く新之助の額に、うっすらと、汗がにじんだ。だが、その汗は、心地よかった。朝の光が、背を押してくれるようだった。
坂の途中で、新之助は、ふと、鼻歌を、口ずさんでいた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
いつのまに、覚えていたのだろう。徳次に、その一節を聞かされてから、その旋律は、ずっと、胸のなかで、鳴っていた。父が、赤ん坊の自分に、歌ってくれたという唄。血の底に、眠っていた記憶が、今朝、目を覚ましたのかもしれなかった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
星が、海をわたる。
それは、ゆうべ、空を横切っていった、あの彗星のことだったのだろうか。蒼白い尾を引いて、夜の海を、わたっていく星。子守唄のなかの星が、今朝、屋根の隙間に、たしかに、光っていた。
新之助は、坂を登りながら、思った。
父も、若いころ、この坂を、荷車を引いて、登ったのだろう。とびきりの鯛を、笹川の料亭へと、届けるために。権蔵と競り、権蔵に認められ、そして、この坂を、登ったのだろう。父の背が、いま、自分の背に、重なるような気がした。同じ坂を、同じ朝の光のなかで、同じ唄を口ずさみながら、登っていく。
代替わり、というのは、こういうことなのかもしれない、と新之助は思った。
看板を継ぐ、というのは、屋号を染めた前掛けを、身につけることだけではない。父が歩いた道を、父が競った相手と競り、父が口ずさんだ唄を口ずさみ、父が登った坂を登っていく。そうやって、少しずつ、父の歩いた道が、自分の道に、なっていく。父の魚を見る目が、少しずつ、自分の目に、なっていく。
坂を登りきると、料亭の門が、見えた。
古い、数寄屋づくりの門である。門のかたわらには、松が、青々と枝を張っていた。その向こうに、朝の海が、きらきらと、光っていた。
門のくぐり戸が、開いた。
なかから、初老の男が、出てきた。笹川の料亭の、当代の主人だった。父と同じ歳の、幼なじみのように親しかった、あの主人。父が倒れたとき、真っ先に見舞いに来てくれた、あの人だった。
「――おや」
主人は、荷車を引く新之助を見て、目を細めた。
「新之助くんか」
「はい」
「どうした、こんな朝早くに」
新之助は、荷車のうえの木箱を、そっと、開けた。
氷のうえに、あの桜鯛が、横たわっていた。桜の花びらを溶かしたような紅。銀に光る腹。黒く澄んだ目。朝の光が射しこむと、その鯛は、いっそう、鮮やかに、輝いた。
主人が、息を、呑んだ。
「これは――」
「明石の、桜鯛です。三キロ四百」と新之助は言った。「今朝の市場で、いちばんの一尾でした。……来週の、金婚の祝いの席に、と思いまして。うちの、いちばんの鯛を、お持ちしました」
主人は、しばらく、言葉を失って、その鯛を、見つめていた。
やがて、主人は、顔をあげた。その目が、うっすらと、潤んでいた。
「……新之助くん」と主人は言った。「親父さんに、そっくりだ」
新之助の胸が、熱くなった。
「あんたの親父も、若いころ、こうやって、とびきりの鯛を、うちに持ってきたものだよ。市場でいちばんの一尾を、な。……その鯛が、うちの店の、背骨になった。何十年も、な。……あんたが、それを、継いでくれるのか」
「はい」
新之助は、深く、頭を下げた。
「魚新は、まだ、生きてます。親父の魚は、僕の代でも、生きてます」
主人は、うなずいた。何度も、うなずいた。そして、桜鯛の木箱に、そっと、手を添えた。
「――たしかに、受け取ったよ。ありがとう」
十二
市場に戻ったのは、陽が、だいぶ高くなってからだった。
新之助は、荷車を置き、路地の奥へと、足を向けた。
月光書房の、灯り。それが、まだ、そこにあるかどうか。
路地を、奥へと進む。曲がりくねった、狭い路地。両側には、古い板塀が、つづいている。その突きあたりに、あの店が――
だが。
路地の奥は、行き止まりだった。
そこには、何もなかった。古い板塀と、苔むした地面があるだけだった。月光書房の看板も、灯りも、店そのものも、どこにも、なかった。まるで、はじめから、そんな店など、なかったかのように。
陽は、もう、高く、昇りきっていた。
彗星の見える晩にだけ、ふらっと出る。陽が高くなりゃ、消えちまう。徳次の言葉が、耳に、よみがえった。
新之助は、しばらく、その行き止まりに、立ちつくしていた。
間に合わなかったのだ。
だが、不思議と、悔いは、なかった。
あの店は、また、いつか、彗星の晩に、現れるのだろう。そのとき、また、この路地を訪ねればいい。父が、あの本と出会ったのが縁だったように、自分が、あの本と出会うのも、また、縁なのだろう。急ぐことは、ない。急いで、失うより、ゆっくりと、待って、出会うほうがいい。魚を見る目も、そうやって、少しずつ、養われていくのだから。
新之助は、行き止まりの地面に、ふと、目をとめた。
そこに、小さなものが、落ちていた。
軍手だった。
片方だけの、軍手。
新之助は、かがんで、それを、拾いあげた。手のなかで、じっと、見つめる。せりの熱のなかで、自分が落とした、あの片方だろうか。それとも、まったく別の、誰かの、片方だろうか。わからなかった。ただ、それは、対のうちの、片方だけ、そこに、残されていた。
新之助は、その片方の軍手を、そっと、前掛けの帯に、挟んだ。
なぜだか、そうしたかった。
対にはならない、片方だけの軍手。だが、それは、失われたものの、しるしであると同時に、いつか、もう片方と、めぐりあうことの、約束のようにも、思われた。父の代と、自分の代。夜と、朝。あの店と、この路地。彗星と、子守唄。すべては、いま、片方だけかもしれない。だが、いつか、めぐりあう。星が、また、空を、わたるように。
新之助は、路地を、引き返した。
市場に戻ると、帳場で、徳次が、茶を淹れていた。七輪の火が、ぱちりと爆ぜる。あの、藍色のマッチ箱が、卓の隅に、置かれていた。三日月を刻んだ、月光堂のマッチ。徳次が、火をおこすたびに、擦る、あの一本。
「どうだった」と徳次が訊いた。「店は、あったか」
「消えてました」と新之助は言った。「間に合いませんでした」
「そうか」と徳次は、笑った。「まあ、そういうもんだ。……鯛は、無事に届けたか」
「はい。笹川の旦那さん、喜んでくれました。……親父にそっくりだ、って」
徳次は、うなずいた。そして、茶碗を、新之助に、差し出した。
「飲め。今日は、いい初せりだった」
新之助は、両手で、茶碗を受け取った。
ほうじ茶の香ばしさが、冷えた喉を、あたたかく、落ちていった。
市場の、大屋根の隙間から、朝の光が、まっすぐに、射しこんでいた。もう、そこに、彗星の名残は、なかった。ただ、澄んだ青空が、覗いているだけだった。夜が、置いていったものと、朝が、連れてきたもの。そのすべてを、新之助は、両手のなかの、あたたかな茶碗と、帯に挟んだ、片方だけの軍手のなかに、たしかに、感じていた。
今日から、この持ち場が、自分の場所だった。
明日も、また、暗いうちに、市場の屋根は、目を覚ますだろう。氷を割る音がはじまり、荷車の車輪が鳴り、鐘が三度、響きわたる。そして、また、せりの朝が、やってくる。怒号と、手やりの、飛び交う朝が。
新之助は、茶をひとくち、すすった。
そして、屋根の隙間の、青い空を、見上げた。
夜が海をわたって、朝がひらく。人は、めいめいの持ち場へと、出立していく。星が、また、空を、わたるまで。