月光書房
辰の刻 ・ 朝 ・ 第 五 話

竈の火

柏木 かなえ
時代・家族 ・ 約26頁

竈の火

その朝、いちばんに目を覚ましたのは、たぶん、わたしだったと思う。

雨戸の節穴から、藍のなかに一筋、糸のように白いものが差しこんでいて、それが、まだ夜のものなのか、もう朝のものなのか、しばらくのあいだ判じがつかなかった。畳の上に、その細い光の帯が、まっすぐに伸びていた。わたしは布団のなかで、その帯の先が、板戸の桟のところで折れ曲がっているのを、じっと見ていた。

十二の齢になったばかりのわたしは、この家で寝起きした最後の朝を、そんなふうにして迎えた。

隣の布団では、下の弟の平吉が、片手を投げ出したまま眠っていた。口をわずかにあけて、寝息が、笛のように細く鳴っていた。その向こうに、いちばん下の、まだ乳離れもすまぬお種が、母の腕にくるまれて丸くなっている。母は、こちらに背を向けて横になっていたけれど、その肩の上下のしかたが、眠っている者のものとは、どこか違っていた。息の継ぎめが、あまりに静かすぎた。母もまた、起きているのだと、わたしにはわかった。

わからないふりをして、わたしは目を閉じた。

もう少しだけ、この暗がりのなかにいたかった。この、平吉の寝息と、お種のかすかな寝言と、母の背中と、雨戸の節穴の光と――そういうものすべてが、まだ手を伸ばせば届くところにある、この一間のなかに。

けれど、ものの数を数えるほどもしないうちに、母がそっと身を起こす気配がした。お種の頭のところに、たたんだ手拭いをあてがい、その寝顔をひとつ覗きこんでから、母は音を立てぬように立ちあがった。裾のさばきの、衣ずれのごく小さな音。それが、この家の朝の、いちばんはじめの音だった。

わたしも起きた。

「起きたのかい」と、母は振り向いて、小さな声で言った。「もう少し寝ていてもよかったに」

「ううん」と、わたしは首を振った。声が、思いのほか掠れた。

母は、ふ、と笑ったようだった。暗くて、よくは見えなかったけれど。

竈のまえに、母はしゃがんでいた。

わたしは、そのうしろに膝をついて、ただ、母の背中を見ていた。母の背中は、あかりの当たらぬところにあって、黒々としていた。けれど、その手もとだけが、火のあかりに照らされて、赤く浮かびあがっていた。

母は、まず、灰のなかから、昨夜の埋み火を掘り起こした。細い竹の火箸で、灰をそっとかき分けると、そのいちばん底のところに、ちいさな、ちいさな橙のかたまりが、まだ息をしていた。ひと晩じゅう、灰にくるまれて、消えもせず燃えもせず、ただ、じっと生きのびていた火。

母は、そこへ、藁の一握りをそっと差し出した。それから、口をすぼめて、ふう、と息を吹きかけた。

火は、すぐには応えなかった。灰がかすかに舞い、藁の先が、じりじりと焦げていく。母は、あわてなかった。もう一度、ふう、と息を送る。その、二度めか三度めの息のあとで、藁の先に、ぽっと小さな焔が立った。

焔は、はじめ、たいそう心もとなかった。すぐにも消え入りそうに、細く、ゆらゆらと揺れた。けれど、母がそこへ、細く割った柴をかけ、また息を送り、辛抱づよく世話をやくうちに、その火は、だんだんと、たしかなものになっていった。柴がぱちりと鳴った。橙は、赤へ、そして黄へと、色を増していった。

わたしは、その一部始終を、母の肩ごしに見ていた。

母は、いつも、こうして火をおこしていたのだ。わたしが生まれるまえから、たぶん、来る日も来る日も。まだ暗いうちに起きて、灰のなかの、消えかかった小さな火を掘り起こして、息を吹きかけて、この家の一日を、そこからはじめていた。わたしは、それを、今朝はじめて、こんなにも近くで、こんなにもじっと、見ているような気がした。

火が、竈の口いっぱいに立ちのぼると、母の顔が、はっきりと見えた。頬に、火のあかりが躍っていた。母の額には、いつのまにか、薄く汗がにじんでいた。

「今日は、いい火だねえ」

と、母が言った。だれに言うともなく。

わたしは、返事のかわりに、こくりと頷いた。頷いたのを、母は見ていなかったかもしれない。

朝餉のしたくが、はじまった。

母は、いつもより、少しばかり手をかけていた。米を、いつもより多めに研いだ。汁の実に、わざわざ床下から、大事にしていた芋を出してきた。そして、竹の皮をひろげて、握り飯を三つ、こしらえはじめた。

その三つを、旅のあいだの弁当にするのだと、わたしにはわかっていた。

母は、塩を、掌にすりつけるようにしてから、熱い飯を握った。握るたびに、はふ、はふ、と、熱そうに息を吐いた。指のさきが、赤くなっていた。ひとつめを握り終えると、それを竹の皮の上にそっと置き、掌をぱんと払ってから、ふたつめにかかった。

「梅は、いちばん大きいのを入れておいたからね」と、母は言った。「腹をこわしちゃいけないから。汽車のなかで、水は、あんまり飲むんじゃないよ。飲むなら、駅で、ちゃんと湯冷ましをもらってからにするんだよ」

「うん」

「ひとに、ものを聞くときは、ちゃんと、おじぎをして聞くんだよ。恥ずかしがっちゃいけない。聞かないで、まちがったところへ行くほうが、よっぽど恥ずかしいんだから」

「うん」

「向こうへ着いたら、まず、旦那さんとおかみさんに、両手をついて、ごあいさつをするんだよ。おまえは、口が重いから――でも、あいさつだけは、はっきりと」

「……うん」

母は、握り飯を握りながら、次から次へと、こまごまとしたことを言った。それは、たぶん、昨夜のうちから、いや、もっとずっとまえから、母の胸のなかに、たまりにたまっていた言葉だったのだと思う。ひとつ言えば、またひとつ、あとから湧いてくる。母は、その言葉を、握り飯のなかに、いっしょに握りこめようとでもするように、ひとつひとつ、わたしに手わたしていった。

わたしは、そのどれにも、うん、うん、と頷いた。

けれど、ほんとうは、その半分も、耳に入っていなかった。わたしはただ、母の指のさきが、飯の熱で赤くなっているのを見ていた。その赤い指が、白い飯を、まるくまるく、包んでいくのを見ていた。

奉公の話が決まったのは、去年の秋のことだった。

うちには、田がなかった。父は、わたしが物心つくまえに、風邪をこじらせてぽっくり逝った。あとには、母と、わたしと、弟と妹が三人残された。母は、他所さまの田の草取りや、蚕の世話や、そういう賃仕事で、どうにか五人の口を養ってきた。けれど、それにも、限りがあった。上の子から順に、外へ出して、口を減らしていくよりほかに、道はなかった。

奉公の口を世話してくれたのは、村の外れに住む、遠縁の伯母だった。町の、大きな呉服屋の、そのまた縁つづきの家で、女中がひとり欲しいのだという。まだ齢が若すぎるようにも思うけれど、そのぶん、素直で、憶えも早かろう、と、伯母は母に言ったそうだ。

「いい話じゃないか」と、伯母は言った。「食べさせてもらえて、着せてもらえて、そのうえ、行儀まで仕込んでもらえるんだ。奉公あがりの娘は、嫁の口もいいっていうよ」

母は、その話を、その場では、うん、とも、いや、とも言わなかったらしい。ただ、家に帰ってから、ずいぶん長いあいだ、竈のまえに、ぼんやりと坐っていた。わたしは、その母の背中を、襖の陰から、そっと見ていた。

けれど、断る道は、はじめから、なかったのだ。

わたしが行けば、口がひとつ減る。母の肩の荷が、そのぶんだけ軽くなる。それに、うまくすれば、盆や暮れには、いくらかのお金が、この家に届くかもしれない。平吉や、その下のふたりが、腹をすかせずにすむかもしれない。

わたしは、行くよ、と、自分から母に言った。あるとき、寝るまえに、暗がりのなかで。

母は、しばらく黙っていた。それから、わたしの頭を、そっと撫でた。撫でる手が、震えているように、わたしには思えた。

「すまないねえ」と、母は言った。

なぜ、母があやまるのか、そのときのわたしには、よくわからなかった。悪いことなど、なにもしていないのに。

いまなら、わかる。母は、まだ幼いわたしを、他所へやらねばならぬ、そのことを、あやまっていたのだ。ほんとうなら、あと二年でも、三年でも、この手もとに置いて、日なたの、あたたかいところで、育ててやりたかった。それが、できなかった。貧しさが、それを、許さなかった。母は、貧しさに、あやまっていたのではない。貧しさのなかへ、わたしを産み落とし、そして、こんなにも早く、手放さねばならぬ、その、母である自分の、力の足らなさに、あやまっていたのだ。

けれど、そのころのわたしには、そんなことは、わからなかった。わたしは、ただ、母が、あやまるのを、ふしぎに思っていた。そして、母の手の、その、震えを。

奉公へ発つ、その前の晩のことも、わたしは、よく憶えている。

夕餉のあと、母は、いつになく、念入りに、わたしの髪を、洗ってくれた。井戸端で、冷たい水を、幾度も汲みあげて、それを、竈で、ぬるく沸かして。母の指が、わたしの髪のあいだを、ゆっくりと、梳いていった。「向こうでは、朝が忙しくて、髪なんか、かまっていられないだろうから」と、母は言った。「今夜のうちに、きれいにしておこうね」

洗い終えた髪を、母は、手ぬぐいで、丁寧に、拭いてくれた。それから、囲炉裏の火のそばで、乾かしてくれた。母の膝のうえに、わたしは、頭を、あずけていた。母の指が、わたしの髪を、ときどき、ふわりと、持ちあげては、火のほうへ、かざした。髪が、ぱちぱちと、乾いていく音が、聞こえるようだった。

弟たちは、もう、隣の間で、眠っていた。囲炉裏の火だけが、赤く、部屋を、照らしていた。母の顔は、その火のあかりのなかで、いつもより、若く、見えた。いや、若く見えたのではなく、疲れた顔の、その奥に、母の、もっと若かったころの面影が、ふっと、透けて見えた、というほうが、近いかもしれない。

「母さん」と、わたしは、髪を乾かしてもらいながら、言った。「向こうの家は、こわいひとかしら」

「さあ、どうだろうねえ」と、母は言った。「でも、伯母さんの話じゃ、おかみさんは、やさしいひとだそうだよ。奉公人にも、よく、気をつかってくれる、いいおかみさんだって」

「そう」

「それに」と、母は言った。「たとえ、こわいひとだって、こわがってばかりいちゃ、いけない。こわいと思う相手ほど、こちらから、心をひらいて、まっすぐに、向かっていくんだよ。そうすれば、たいていの相手は、いつか、おまえのことを、かわいがってくれるようになるものだよ」

わたしは、うん、と頷いた。

母の言葉は、わたしには、まだ、よく、のみこめなかった。けれど、その、低い、しずかな声を、わたしは、いつまでも、聞いていたかった。母の膝の、あたたかさを、いつまでも、感じていたかった。この夜が、明けなければいいのに、と、わたしは、思った。この、囲炉裏の火が、ずっと、消えなければいいのに、と。

朝餉ができあがるころには、平吉も、お種も、目を覚ました。

平吉は、寝ぼけまなこで起きてきて、膳のまえに坐るなり、「姉ちゃん、今日、行っちゃうの」と、いきなり言った。

わたしは、汁の椀に口をつけかけたところで、その手をとめた。

「うん」と、わたしは言った。「行くよ」

「いつ、帰ってくるの」

わたしは、答えに詰まった。

いつ帰ってくるのか、わたし自身、知らなかった。盆には帰れるのだろうか。暮れには。それとも、何年か、帰れないのだろうか。奉公というものが、どれくらいのあいだのものなのか、わたしには、まるで見当がつかなかった。

「……すぐに」と、わたしは言った。「すぐに、帰ってくるよ」

嘘だった。すぐに帰れるあてなど、なにもなかった。けれど、そう言うよりほかに、なんと言えばいいのか、わからなかった。

平吉は、それで得心したのか、しないのか、「ふうん」と言って、飯をかきこみはじめた。子どもというのは、そういうものだ。半年もすれば、姉のいた場所の空きぐあいにも、慣れてしまうのだろう。それでいい、と、わたしは思った。それで、いいのだ。

お種は、母の膝の上で、なにもわからぬ顔をして、指をしゃぶっていた。この子は、たぶん、わたしのことなど、いずれ、すっかり忘れてしまうだろう。次に会うころには、この子は、わたしのことを、知らないおばさん、くらいにしか思わぬかもしれない。

そう思うと、汁の味が、急に、わからなくなった。

支度は、すぐにすんだ。

持っていくものは、そう多くはなかった。着替えの一枚と、母が縫ってくれた新しい足袋と、それに、伯母がくれた小さな守り袋。それらを、風呂敷にくるんで、母が、きちんと角をそろえて、結んでくれた。

「重くないかい」と、母は、その包みを、わたしの背に負わせながら言った。

「うん、平気」

ほんとうは、たいして重くもなかった。十二の齢の娘の、すべての持ちものを包んでも、風呂敷ひとつに、ゆうゆうとおさまってしまうのだった。

母は、わたしの着物の襟もとを直し、帯のむすびめを、ぽんぽんと二度たたいた。それから、少し身を引いて、わたしのぜんたいを、上から下まで、ながめた。

その母の目が、ふいに、うるんだ。

けれど、母は、泣かなかった。まばたきをひとつして、その涙を、まぶたの裏に押し戻したようだった。母は、涙を見せることが、この娘のためにならぬと、たぶん、思っていたのだと思う。行く者の背を、湿った目で送ってはならぬと。

わたしも、泣くまいと思った。

胸の奥のほうから、なにか、熱いかたまりが、ぐうっと、せりあがってくるのを感じた。それが、喉のあたりで、つかえた。わたしは、それを、ぐっと呑みくだした。呑みくだして、呑みくだして、それでも、目のふちが、じんと熱くなった。

わたしは、天井を見あげた。まばたきを、こらえた。

家を出ようとしたとき、母が、「ちょっとお待ち」と言った。

母は、いそいで奥の間へ立って、なにやら、探しものをしていた。行李の蓋をあける音がした。それから、しばらくして、母が戻ってきた。その手に、なにか、小さなものを握っていた。

「これを」と、母は言った。「持っておいき」

母が、わたしの掌の上に、そっと載せたのは、手袋だった。

毛糸で編んだ、赤い手袋。それも、ひとつだけ。片方だけの、右の手の手袋だった。

わたしは、それを、ふしぎに思って、母の顔を見た。

「もう片方はね」と、母は言った。すこし、笑っていた。「もう片方は、母さんが、持っているんだよ」

母は、自分の袂から、もうひとつの手袋を取り出して、わたしに見せた。左の手の、おなじ赤い手袋。編み目の具合まで、そっくりおなじ。ただ、そちらは、右と左が、逆になっていた。

「これはね」と、母は言った。「おまえが、ずうっと小さいころ、母さんが編んだんだよ。憶えていないかい」

わたしは、憶えていなかった。けれど、その赤い色に、なぜだか、胸の奥のほうが、じんとした。ずっと昔の、火のそばの、暖かい記憶のようなものが、その色の底に、埋もれているような気がした。

「両方持たせてやりたいけど」と、母は言った。「片方は、母さんが、持っておくよ。おまえが、向こうで、寒い夜に、この手袋を見たらね――ああ、母さんも、おなじものを、こっちで持っているんだって、そう思っておくれ。そうしたら、片方だけでも、ちゃんと、対になっているんだから」

わたしは、その赤い手袋を、両手で、そっと包んだ。

片方だけの手袋。けれど、それは、片方だけではなかった。もう片方は、この家に、母のもとに、残っている。だから、これは、欠けているのではなく、二つに、分けられているのだった。ちょうど、竈の埋み火が、灰のなかで、消えもせず、夜のあいだじゅう、待っているように。

わたしは、うん、と頷いた。それより、ほかに、言葉が出なかった。

外へ出ると、朝の光が、思いのほか、まぶしかった。

家のなかの、火のあかりに慣れた目には、その外の光は、白く、鋭く、あたりのすべてを、くっきりと縁どっていた。庭の柿の木も、井戸の縁も、垣根の枯れ枝も、みな、朝の光のなかで、影を長く引いていた。露が、まだ、草の葉のさきに残っていて、それが、ひとつひとつ、小さな火のように光っていた。

空は、東のほうが、はやくも金色にひらけていた。その金色のなかに、鳥が、二羽、三羽、けたたましく鳴きながら、横切っていった。

わたしは、ふと、空の、西の高いところを見あげた。

そこには、まだ、夜の名残が、うっすらと残っていた。藍と金の、ちょうど境めのあたりに、細い、細い、蒼白いものが、一筋、かかっていた。

彗星だった。

このところ、幾晩も、あの星は、村じゅうの空に、長い尾を引いてかかっていた。夜には、はっとするほど、蒼く冴えていた。年寄りたちは、あれは、よくないことの前ぶれだと言った。子どもたちは、あの星の尾には、なにが引っかかっているのだろうと、口々に言い合った。

けれど、今朝の彗星は、もう、夜のあの、鋭い蒼さを、失いかけていた。昇る陽の光に、その尾は、だんだんと薄れ、溶けていくところだった。あと、ほんの少し陽が昇れば、あの星は、もう見えなくなってしまうだろう。昼の空のどこかに、姿を隠してしまうだろう。

わたしは、その、消えかかった蒼い一筋を、しばらく、じっと見あげていた。

明け方には、あんなにも、はっきりと見えていたのに。もう、あんなに、薄い。

なぜだか、わたしは、その星を、忘れまいと思った。この朝の、この空の、この一筋の蒼を。

「ほら」と、母が、わたしの背を、そっと押した。「行くよ。汽車に、遅れちゃいけない」

わたしは、彗星から目を離した。そして、一歩、家の敷居の外へ、足を踏み出した。

村はずれまでは、母が、送ってくれることになっていた。

平吉と、その下のふたりは、垣根のところまで出てきて、そこから先へは、来なかった。母が、「ここでお別れだよ。お姉ちゃんに、いってらっしゃいを、お言い」と言うと、平吉は、もじもじしながら、「……いってらっしゃい」と言った。下のふたりも、それをまねて、口のなかで、なにやら、もごもごと言った。

わたしは、その三人のほうを、振り返った。

三人は、垣根のところに、一列にならんで立っていた。朝の光が、その頭のうえから、まっすぐに降りそそいでいた。平吉は、片手をあげて、それを、ゆっくりと振った。下のふたりも、それを見て、ちいさな手を、ぶんぶんと振った。

わたしも、手を振り返した。

もう、いちど、振った。それから、もう振らずに、前を向いて、歩きだした。

うしろで、平吉が、なにか、大きな声で叫んだ。風にまぎれて、はっきりとは、聞きとれなかった。けれど、たぶん、「早く帰ってこいよ」とか、そんなようなことを、言ったのだと思う。

わたしは、振り返らなかった。振り返ったら、こらえていたものが、こぼれてしまいそうだった。

母と、ふたり、田んぼの畦道を歩いた。

畦道の両がわには、刈り入れのすんだ田が、どこまでも、ひろがっていた。稲の切り株が、朝露に濡れて、光っていた。そのうえを、白い霧が、ところどころ、まだ、うすく、たなびいていた。歩くにつれて、その霧は、わたしたちのゆく先で、少しずつ、ちぎれて、消えていった。

母は、わたしの半歩まえを、黙って歩いていた。母の背に負った、わたしの弁当の包みが、歩くたびに、かすかに揺れていた。

しばらく、ふたりとも、なにも言わなかった。

聞こえるのは、わたしたちの足音と、遠くの、どこかの家の、鶏の声と、それから、朝の風が、切り株のあいだを、さやさやと渡っていく音だけだった。

やがて、母が、口を開いた。

「向こうへ着いたらね」と、母は、前を向いたまま、言った。「はじめのうちは、辛いことも、あるだろうよ」

「うん」

「知らないひとばかりのなかで、慣れない仕事をして。夜、ひとりで、泣きたくなる晩も、あるだろうよ」

わたしは、答えなかった。

「そういうときはね」と、母は言った。「あの手袋を、出してごらん。片方だけの、赤い手袋を。それを見たら、思い出しておくれ。母さんも、こっちで、おなじものを、握りしめているって」

「……うん」

「それから」と、母は、少し声を落として、言った。「あの唄を、憶えているかい」

「あの唄?」

「おまえが、ちいさいころ、母さんが、寝かしつけに、いつも唄っていた唄だよ」

わたしは、しばらく、考えた。それから、その旋律が、胸の底のほうから、ゆっくりと、浮かびあがってきた。

「――眠れ、眠れ」と、わたしは、口のなかで、そっと言ってみた。

「そう、それだよ」と、母は、うれしそうに言った。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」

母は、そのさきを、低い声で、口ずさんだ。畦道のうえで。朝の光のなかで。それは、まったく、寝かしつけの唄などにはふさわしくない、明るい朝のことだったけれど、母の声は、あの、遠い夜の暗がりの、暖かさを、ふっと、連れてきた。

わたしは、その旋律を、母といっしょに、口のなかで、たどった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

その唄のことを、わたしは、よく憶えている。

まだ、ずっと小さかったころ。冬の、寒い夜。わたしは、母の腕のなかで、この唄を聞きながら、眠りに落ちていった。囲炉裏の火が、赤くゆらいでいた。母の胸は、あたたかかった。母の声は、その火のように、ゆっくりと、わたしを、暖めた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

星が海をわたるまで――と、母は唄った。星は、海を、わたるのだろうか。あの、空の星が。夜のあいだじゅう、東から西へと、ゆっくり、ゆっくり、大きな海を、わたっていくのだろうか。わたしは、その、星のわたる海のことを、うつらうつらと、思い浮かべながら、いつも、眠りに落ちていった。

いま、思えば、あれは、母が、いちばん疲れていた時分だったのかもしれない。父が逝って、まだ間もなく。幼子を三人、四人と抱えて。それでも、母は、夜ごと、わたしを、その腕のなかで、あの唄で、眠らせてくれた。

母もまた、疲れて、眠りたかっただろうに。

わたしは、そのとき、はじめて、そのことに気がついた。畦道のうえで。母と、ふたりで、その唄を、口ずさみながら。

父のことは、わたしは、ほとんど、憶えていない。

わたしが、四つか、五つのころに、逝ったのだから、無理もない。ただ、ひとつだけ、憶えている光景がある。

夏の、夕方だった。父が、田んぼの畦道を、こちらへ、歩いてくる。手ぬぐいを、首にかけて。鍬を、肩に、担いで。西日が、その父の背を、まっ赤に、照らしていた。父は、わたしを見つけると、「おう」と、片手をあげた。そして、鍬を、畦に立てかけて、両手を、ひろげた。わたしは、その、ひろげられた腕のなかへ、駆けていった。父は、わたしを、たかだかと、抱きあげた。父の胸から、汗と、土と、日なたの、においがした。

それだけの、光景だ。けれど、その、ひとつの光景だけが、わたしの胸の底に、いつまでも、消えずに、残っている。ちょうど、灰のなかの、埋み火のように。

畦道を歩きながら、わたしは、その、父のことを、ふと、思い出した。もう、いない父。その父が、遺していった、この家と、母と、わたしたち。父が生きていたら、わたしは、こんなに早く、奉公になど、出されなかっただろうか。それとも、田のない家では、父がいたって、おなじことだっただろうか。

そんなことを、考えても、詮ないことだった。父は、もう、いない。母が、ひとりで、この重い荷を、負っている。ならば、わたしも、その荷を、すこしでも、軽くしてやりたい。それが、この家の、上の子である、わたしの、つとめなのだ。

わたしは、母の、半歩まえをゆく、その背中を、見た。父を亡くしてから、この背中が、どれほどの重さを、負ってきたことか。田の草取り。蚕の世話。他所さまの賃仕事。そして、四人の子を、育てあげること。この、細い、小さな背中で。

「母さん」と、わたしは、思わず、言った。

「なんだい」と、母が、前を向いたまま、答えた。

わたしは、なにか、言おうとした。けれど、言葉が、出てこなかった。母さん、ありがとう、とも、母さん、ごめんね、とも、うまく、言えなかった。胸のなかに、言いたいことは、いっぱい、あったのに。

「……なんでもない」と、わたしは、言った。

母は、それきり、なにも、聞かなかった。ただ、少し、歩みを、ゆるめて、わたしと、肩を、ならべて、歩いた。母の肩が、わたしの肩に、ときどき、ふれた。それだけで、じゅうぶんだった。言葉なんか、なくても。

村はずれの、大きな榎の木のところで、母は、足をとめた。

そこから先は、道が、ふた手に分かれていた。右へゆけば、隣村を通って、汽車の駅へ。左へゆけば、山のほうへ。母は、ここまで、と言っていた。ここから先は、伯母が、駅まで、いっしょに行ってくれる手はずになっていた。榎の木の下に、伯母が、風呂敷包みを提げて、待っているのが見えた。

母は、わたしの背から、弁当の包みを下ろして、それを、わたしの胸に、抱かせた。

「さあ」と、母は言った。「ここで、お別れだよ」

わたしは、その包みを、両手で、しっかりと抱いた。まだ、母の握った握り飯の、かすかな温もりが、竹の皮ごしに、掌に伝わってくるようだった。

母は、わたしの顔を、じっと見た。

さっき、家を出るときには、こらえた涙を、今度は、母は、こらえきれなかった。目のふちから、ひとすじ、それが、こぼれた。母は、あわてて、袂で、それをぬぐった。ぬぐって、そして、笑おうとした。けれど、その笑いは、うまく、かたちにならなかった。

「泣くまいと、思っていたのにねえ」と、母は、掠れた声で言った。「母さんが、泣いてちゃ、いけないねえ」

わたしは、なにも、言えなかった。

言おうとすれば、こらえていたものが、いちどに、あふれてしまう。だから、わたしは、唇を、きゅっと結んで、ただ、母の顔を、見つめていた。母の、涙に濡れた、笑おうとして笑えない、その顔を。

「達者でね」と、母は言った。「ごはんは、しっかり、おあがり。夜は、湯たんぽがなくても、風邪をひかないように、着物を、よく着込むんだよ。それから――」

母は、そこで、言葉を、切った。

もう、なにを言えばいいのか、わからなくなったように。いや、言いたいことが、あまりに多すぎて、そのどれから言えばいいのか、わからなくなったように。

「――それから」と、母は、もういちど言って、そして、こう言った。

「あの火をね。忘れないでおくれ」

「あの火?」

「今朝の、竈の火だよ」と、母は言った。「母さんが、灰のなかから、掘り起こした、あの、ちいさな火。ひと晩じゅう、消えずに、灰のなかで、待っていた火。おまえが、遠くへ行っても――この家には、いつも、あの火が、燃えているからね。おまえが、いつ帰ってきても、竈には、あの火が、ちゃんと、燃えているからね」

わたしは、その言葉を聞いて、胸の奥で、こらえていたものが、とうとう、ゆるんだ。

涙が、ひとつ、こぼれた。

こぼれると、もう、あとは、とめられなかった。わたしは、包みを抱いたまま、うつむいて、声を殺して、泣いた。肩が、ふるえた。

母は、なにも言わずに、わたしの背を、そっと、さすってくれた。ゆっくり、ゆっくりと。ちょうど、あの、寝かしつけの唄を唄ってくれた、あの晩のように。

どれくらい、そうしていただろう。

榎の木の梢を、朝の風が、さあっと渡っていった。木の葉が、いくつか、はらはらと、わたしたちのうえに、散りかかった。

わたしは、顔をあげた。

袖で、涙をぬぐった。何度も、ぬぐった。それでも、まだ、目のふちが、じんと熱かった。けれど、もう、大丈夫だ、と思った。もう、これ以上は、泣くまい、と。

「ごめんね、母さん」と、わたしは言った。「もう、泣かないよ」

母は、うん、と頷いた。母の目も、まだ、濡れていた。

「行っておいで」と、母は言った。「いってらっしゃい」

「……いってきます」

わたしは、そう言って、頭を、深く、さげた。母に、両手をついて、というわけにはいかなかったけれど、それでも、精いっぱい、丁寧に、頭をさげた。

母は、その、さげたわたしの頭を、もういちど、そっと、撫でた。

それから、わたしは、榎の木の下で待つ伯母のほうへ、歩きだした。歩きながら、いちど、振り返った。母は、まだ、そこに、立っていた。片手をあげて、それを、ゆっくりと、振っていた。わたしも、手を、振り返した。

そして、もう、振り返らずに、歩いた。

けれど、二十歩ほど歩いたところで、わたしは、どうしても、我慢ができなくなって、もういちど、振り返った。

母は、まだ、そこに、いた。

その母の手が――わたしは、それを、遠目に見た。母の右手に、なにか、赤いものが、握られていた。

あの手袋だった。片方だけの、赤い手袋。

母は、その、片方だけの手袋を、右手に握りしめて、それを、胸のあたりに、あてがっていた。

わたしは、思わず、自分の胸のあたりに手をやった。わたしの懐にも、おなじ手袋の、もう片方が、たしかに、入っていた。

片方は、こっちに。片方は、あっちに。

二つに分けられた、対の手袋。

わたしは、それ以上、振り返るのを、やめた。振り返れば、また、あの、榎の木の下まで、駆け戻ってしまいそうだったから。母の胸に、飛びこんでしまいそうだったから。

わたしは、前を向いて、歩いた。伯母のところまで。そして、伯母と、ふたり、隣村への道を、歩きだした。

道は、ゆるやかな坂を、くだっていた。

くだるにつれて、村が、うしろに、遠ざかっていった。わたしの生まれた家の、あの、藁ぶきの屋根も、もう、木立の陰に、隠れてしまった。竈の煙が、その屋根のあたりから、細く、まっすぐに、朝の空へ、立ちのぼっているのが、ちらりと見えた。

あの煙の下で、いまも、あの火が、燃えている。

母が、灰のなかから、掘り起こした、あの、ちいさな火。ひと晩じゅう、消えもせずに、待っていた火。母は、あの火を、絶やさずに、この先も、毎朝、掘り起こしては、息を吹きかけ、育てていくのだろう。わたしのいない、この家の朝を、その火から、はじめていくのだろう。

そして、その火は、いつか、わたしが帰ってくる、その朝までも、燃えつづけているのだろう。

わたしは、坂をくだりながら、もういちど、空を見あげた。

彗星は、もう、見えなかった。

昇りきった陽の光が、空いっぱいに、みなぎっていた。その、あかるい光のなかに、あの、蒼白い一筋は、すっかり、溶けて、消えてしまっていた。夜のあいだ、あんなにも冴えていた星が、朝には、こんなにも、あとかたもなく。

けれど、と、わたしは思った。

消えたのではないのだ。あの星は。昼の空の、どこか高いところを、いまも、ゆっくりと、渡っているのだ。見えないだけで。夜になれば、また、あの蒼い姿を、あらわすのだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

母の唄が、胸の底で、ひとりでに、鳴った。

星は、海を、わたっている。いまも。見えなくても。わたしが、これから向かう、あの遠い町の、その空のうえにも、おなじ星が、渡っていくのだ。そして、夜になれば、その町の空にも、あの蒼い尾が、かかるのだ。母のいる、この村の空と、おなじ星が。

そう思うと、ふしぎと、心が、すこし、軽くなった。

隣村の駅は、思いのほか、大きかった。

赤い煉瓦の建物のまえに、ひとが、たくさん、いた。荷を担いだ行商のひと。子どもを背負ったおかみさん。学生らしい若者。みな、それぞれの、行く先へ、出立してゆく、朝の顔をしていた。

汽車が、来た。

黒い、大きな鉄のかたまりが、白い煙を、もうもうと吐きながら、地響きを立てて、ホームへ、すべりこんできた。わたしは、その大きさに、思わず、身をすくめた。こんなものに乗って、わたしは、遠くへ、行くのだ。もう、いままでの、田んぼの畦道や、榎の木の下や、竈のまえの、あの暮らしとは、ちがう、まったくちがうところへ。

伯母が、わたしの手を引いて、汽車に乗せてくれた。

窓ぎわの席に、わたしは、腰をおろした。膝のうえに、あの、母の握り飯の包みを、しっかりと、抱えて。

汽笛が、鳴った。

汽車が、ゆっくりと、動きだした。窓の外の、駅の建物が、うしろへ、流れていった。ホームが、行商のひとが、子どもを背負ったおかみさんが、みな、うしろへ、流れていった。

わたしは、窓に顔を近づけて、外を、見た。

田んぼが、流れていく。切り株が、朝露に光りながら、流れていく。遠くの山が、ゆっくりと、まわっていく。空は、どこまでも、あかるかった。そのあかるい空の下を、汽車は、白い煙を引きながら、走っていった。

わたしは、懐に手を入れて、あの、片方だけの、赤い手袋を、そっと、握った。

まだ、あたたかいような気がした。母の手の、温もりが、その毛糸に、しみこんでいるような。

いまごろ、母は、あの榎の木の下から、家へ、帰る道を、歩いているだろうか。それとも、もう、家に着いて、竈のまえに、坐っているだろうか。あの、右手に握った、もう片方の手袋を、いまも、握りしめて。

汽車は、どこまでも、走った。

見知らぬ町を、いくつも、通り過ぎた。見知らぬ川を、いくつも、渡った。田んぼが、山が、家々が、つぎつぎと、うしろへ、流れていった。わたしの知っている世界は、もう、とうに、うしろへ、消えてしまっていた。

わたしは、窓の外を見ながら、ときどき、あの唄を、口のなかで、そっと、なぞった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

ひとに聞かれないように、ごくちいさな声で。それは、寝かしつけの唄だったけれど、わたしは、その唄で、目を覚まそうとしていた。泣きたくなる気持ちを、その旋律で、なだめようとしていた。母が、あの唄で、幼いわたしを、なだめてくれたように。

昼を過ぎて、腹がすくと、わたしは、母の握り飯を、ひとつ、竹の皮から、取り出して、食べた。

塩の、きいた握り飯だった。梅は、母の言ったとおり、いちばん大きいのが、まんなかに、入っていた。わたしは、それを、ひとくち、ふたくち、噛みしめた。

すると、また、涙が、こぼれそうになった。

けれど、こんどは、こらえた。ちゃんと、こらえた。だって、母が、握ってくれた握り飯だ。この、まるい飯の、ひとつぶ、ひとつぶに、母の、あの、赤くなった指が、触れているのだ。この飯を、涙で、しょっぱくしては、いけない。

わたしは、握り飯を、しっかりと、噛みしめて、呑みこんだ。

腹の底が、あたたかく、なった。

その、あたたかさは、握り飯の温もりだったのか、それとも、母の手の温もりだったのか、あるいは、あの竈の、埋み火の温もりだったのか、わたしには、わからなかった。ただ、その、あたたかいものが、腹の底から、じんわりと、からだじゅうに、ひろがっていった。

伯母は、汽車のなかで、ずっと、わたしの隣に、坐っていた。

伯母は、母よりも、いくつか、年上だった。がっしりとした、大きなひとで、声も、大きかった。けれど、ふしぎと、こわい感じは、しなかった。伯母は、汽車が動きだすと、しばらくして、風呂敷包みのなかから、干し柿を、ふたつ、取り出して、そのひとつを、わたしに、くれた。

「おあがり」と、伯母は言った。「甘いよ」

わたしは、それを、受け取って、ひとくち、噛んだ。ほんとうに、甘かった。口のなかに、その甘さが、ひろがると、なぜだか、また、ふるさとの、あの、柿の木のことが、思い出された。庭の、あの、大きな柿の木。秋になると、その枝が、たわわに、実をつけた。平吉と、ふたりで、その実を、もいで食べた。渋いのに、あたって、口を、すぼめたこともあった。

「おまえの母さんは」と、伯母が、ふいに、言った。「たいした、しっかり者だよ」

わたしは、伯母の顔を、見あげた。

「亭主を、あんなに早く亡くして、子を、四人も、抱えて。それでも、だれにも、泣きごとひとつ、言わないでねえ。うちの人が、いくらか、援けてやろうかって言っても、いいえ、けっこうです、自分で、なんとかしますからって。ああいうのを、気丈って言うんだろうねえ」

わたしは、なにも、言えなかった。ただ、干し柿を、噛んでいた。

「だからね」と、伯母は、わたしの膝を、ぽん、と、たたいた。「おまえも、しっかり、おやり。おまえが、向こうで、りっぱに、つとめあげれば、いちばん、よろこぶのは、母さんなんだから。母さんの、いちばんの、親孝行になるんだから」

「……はい」と、わたしは、言った。

そう答えながら、わたしは、窓の外を、見た。夕日が、田んぼの、ずっと向こうの、山の端に、かかろうとしていた。空が、あかね色に、染まっていた。その、あかね色のなかを、汽車は、白い煙を引きながら、走っていった。

いまごろ、母は、あの家で、なにを、しているだろう。夕餉の、したくを、はじめているだろうか。平吉たちに、わたしのいない膳を、ととのえているだろうか。竈の火は、また、赤く、燃えているだろうか。

わたしは、干し柿の、最後のひときれを、口に入れた。甘さが、じんと、しみた。それは、なぜだか、すこし、しょっぱい味も、していた。

夕暮れどきに、汽車は、大きな町の駅に、着いた。

伯母に手を引かれて、わたしは、その、初めての町の、初めての通りを、歩いた。人が、たくさん、いた。灯りが、あちこちに、ともりはじめていた。荷車が、行き交い、呼び売りの声が、ひびいていた。わたしの、生まれ育った村とは、なにもかもが、ちがっていた。

呉服屋の、その縁つづきの家は、通りから、少し入った、静かな路地の奥にあった。

その、路地の入口のところに、一軒、小さな、古びた店があるのに、わたしは、ふと、目をとめた。軒に、色のあせた暖簾がかかっていて、そこに、なにやら、字が、書いてあった。まだ、字の、あまり読めなかったわたしには、それが、なんと書いてあるのか、よくは、わからなかった。ただ、店の奥に、うずたかく、古い本が、積まれているのが、ちらりと、見えた。棚の、いちばん上のところに、藍色の、小さな箱が、ひとつ、置かれていた。三日月のような、しるしが、その箱に、刻まれているようだった。

「どうしたね」と、伯母が言った。「よそ見をしていちゃ、いけないよ」

わたしは、あわてて、その店から、目を離した。

あとから思えば、その店のことは、たしかに、その、路地の入口に、あった。けれど、次の朝、わたしが、お使いで、その路地を通ったとき、その店は、もう、なかった。そこには、ただ、なにもない、板塀が、あるばかりだった。夢でも、見たのだろうか、と、わたしは、思った。

奉公の家の、その、竈のまえに、わたしが、はじめて坐ったのは、次の朝のことだった。

まだ、暗いうちに、わたしは、目を覚ました。慣れない、板の間の、隅の、冷たい寝床のなかで。天井の、見知らぬ節目を、しばらく、見あげていた。ここが、どこなのか、一瞬、わからなかった。それから、ああ、そうだ、と、思い出した。わたしは、もう、あの家には、いないのだ。

わたしは、起きて、その、奉公の家の、大きな竈のまえに、坐った。

灰を、そっと、かき分けてみた。

そこには、母の家の竈とおなじように、ちいさな、ちいさな、埋み火が、灰の底で、まだ、息をしていた。ひと晩じゅう、消えもせず、燃えもせず、じっと、待っていた火が。

わたしは、そこへ、藁の一握りを、そっと、差し出した。

そして、口をすぼめて、ふう、と、息を、吹きかけた。

火は、すぐには、応えなかった。灰が、かすかに、舞った。わたしは、あわてなかった。母が、そうしていたように。もういちど、ふう、と、息を送った。

二度めか、三度めの、その息のあとで、藁の先に、ぽっと、ちいさな、橙の焔が、立った。

その焔を、わたしは、じっと、見つめた。

はるか遠い、あの村の、あの家の竈にも、いまごろ、母が、おなじように、火を、おこしているだろう。灰のなかから、埋み火を、掘り起こして。息を、吹きかけて。あの、赤い手袋を、袂に、しのばせて。

おなじ火が、あちらにも、こちらにも、燃えている。

わたしは、窓の、ほうを、見た。まだ、暗い空に、うっすらと、白いものが、差しはじめていた。夜が、明けようとしていた。その、明けそめる空のどこか高くを、あの、蒼い星が、いまも、渡っているのだろう。見えなくても。

眠れ、眠れ、と、わたしは、胸のなかで、そっと、唄った。星が海をわたるまで。

竈の火が、赤く、大きく、立ちのぼった。

その火の、あたたかさが、まだ幼い、わたしの頬を、そっと、照らした。それは、母の、あの手の温もりと、すこしも、ちがわなかった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

← 『出立の物語』目次へ