最後の朝の重力
起床は午前四時十七分。目覚まし時計より二分早く、身体のほうが起きた。
ここに来て八度目の朝で、まだ一度も目覚ましの音を聞いていない。ヒロミは天井を見た。宿舎の天井は、どこの国のそれでもないような灰白色をしていて、朝が来ても夜が来ても同じ色をしている。窓には遮光の布が引いてあり、その端から、まだ夜と朝の境目の、藍色ともつかぬ光が細く滲んでいた。
きょう、わたしは地球を出る。
その一行を、頭の中で、まるで他人の日記を読むみたいに読んだ。実感というものは、こういうときにはやってこない。実感は、いつも遅れてやってくる。打ち上げの十時間前にやってくるのではなく、たぶん、加速度が背中を押しつぶす、あの瞬間にやってくるのだろう。そしてそのときには、もう引き返せない。
ヒロミは布団の中で、両手を顔の前にかざした。訓練で節くれだった指。爪は短く切りそろえてある。無重力では、剥がれた爪の欠片ひとつが凶器になる。この手が、これから五百日、地球の重力に触れない。そう思うと、指先が少し冷たくなった。
耳を澄ますと、宿舎の外で、鳥が鳴きはじめていた。名前は知らない。砂漠のふちに棲む、小さな鳥。この八日間、毎朝、同じ時刻に鳴いた。ヒロミは、その声で、朝が来たことを知るようになっていた。きょうもまた、鳴いている。この鳥は、ヒロミが地球を離れることなど、知らない。ただ、いつもの朝が来たから、いつものように鳴いている。それが、なぜか、ヒロミの胸を、静かに突いた。世界は、彼女がいなくなっても、こうして、朝ごとに鳴きつづけるのだ。当たり前のことだった。当たり前のことが、この朝は、ひとつひとつ、重かった。
もう少しだけ、ヒロミは、布団の中にいた。あと数時間で、この、地球の重力に沈み込む感覚とも、しばらく別れる。ふとんの重み。身体を、地面に、やさしく繋ぎとめている、この、あたたかな重み。宇宙では、これが無い。眠っているあいだ、身体は、宙にただよう。何にも支えられず、何にも抱かれず、ただ、暗闇の中に、浮かぶ。それに慣れるまでの、最初の数日は、いつも、母の胎から放り出された赤ん坊のような、あのよるべなさを、身体が思い出すのだという。ヒロミは、その話を、先輩飛行士から、聞いていた。
だから、いまのうちに、この重みを、覚えておこう。この、地球が、彼女を、抱いている感触を。
洗面台の鏡に、四十一歳の女が映っていた。
目の下にうっすらと隈がある。昨夜、眠れなかったわけではない。むしろ、訓練で身につけた技術のひとつは、どんな状況でも眠ることだった。眠れたのだ。ただ、眠りの底で、何か長い夢を見た気がする。海の夢だったような気もするし、誰かが歌っていた気もする。目覚めた瞬間に、それは砂のように指のあいだからこぼれ落ちた。
冷たい水で顔を洗う。地球の水は、蛇口をひねればいくらでも出てくる。当たり前すぎて、誰もその贅沢に気づかない。宇宙では、水はすべて記録され、再生され、循環する。自分の吐いた息の水分が、翌日には飲み水になって戻ってくる。それを気持ち悪いと感じる新人もいたが、ヒロミはむしろ、その閉じた円環の潔さが好きだった。無駄がない。地球という星は、あまりにも豊かで、あまりにも多くを無駄にしている。
歯を磨きながら、ふと、鏡の中の自分と目が合った。
「行ってきます」
声に出してみた。誰にともなく。鏡の中の女は、少しだけ困ったような顔をした。
支度は静かに整っていく。
打ち上げ当日の朝には、決められた手順がある。医務班による最終の健康チェック。栄養管理された朝食。それから、加圧服の下に着る肌着の着用。ひとつひとつの動作が、儀式のように定められている。手順が人を落ち着かせる。考える余地を与えないことが、ときに最も優しい配慮になる。
ヒロミは、支給されたグレーのつなぎの上着を羽織りながら、机の上の小さな箱に目をとめた。
私物として持ち込みを許された、わずかな重量の中のひとつ。
藍色のマッチ箱だった。
表には、細い三日月が銀色で刻まれている。〈月光堂〉という古めかしい屋号が、金の箔押しで小さく入っている。振ると、中でマッチ棒がかさりと乾いた音を立てた。宇宙船の中でマッチを擦ることなど、断じて許されない。火は、閉じた空間で最も恐ろしいものだ。だからこれは、火をつけるための道具ではなく、ただの――お守りだった。
娘のソラが、持たせてくれた。
「ママ、これ持ってって」
三日前、最後の面会のときだった。分厚いガラスの向こうから、ソラは小さな手でそれを差し出した。検疫の規定で、直接手渡すことはできない。係員が受け取り、消毒し、機材で中身をあらため、それからようやくヒロミの手に届いた。マッチ棒の一本一本まで検査されて、それでも、ソラの指の温度がまだ残っているような気がした。
「これね、月が出てる夜に、お店で買ったの」
八歳のソラは、得意げに言った。
「ふしぎなお店だったんだよ。パパと歩いてたら、いつもは無いところに、急にあったの。古い本がいっぱいあってね。おじいさんが、これあげるって」
ヒロミは、ガラスに手のひらをあてた。ソラも、同じところに手をあてた。ガラスの厚みのぶんだけ、二人の手のひらは離れていた。
「火はつけちゃだめだよ」と、ソラは真面目な顔で言った。「宇宙で火はあぶないから。でも、持ってて。ママが暗いとき、これがあれば――」
そこで、ソラは少し言葉に詰まった。八歳の子が、自分でもうまく言えないことを言おうとするときの、あの表情だった。
「これがあれば、あかりのことを思い出せるでしょ」
あかり、というのは、火の明かりのことなのか、それとも、ソラの妹の名前――生まれてくるはずだった、けれど生まれてこなかった、あの子の名前なのか。ヒロミには分からなかった。訊けなかった。
面会室の、あの分厚いガラスの前で、ヒロミは、ずいぶん長いあいだ、そのマッチ箱を見つめていた。三日月の刻印。〈月光堂〉の屋号。ソラの話では、その古書店は、月の出た夜に、いつもは駐車場だったはずの場所に、ふいに現れたのだという。夫のほうは、あとで、少し困った顔をして、こう言った。「あの晩、たしかに、変わった店があったんだ。でも、僕は、次の日、同じ道を通ったんだけど、そんな店、どこにも無くてね。ソラが、あんまり嬉しそうにマッチ箱を持ってるもんだから、まあ、いいかと思って」
彗星の夜にだけ現れて、朝には消える古書店。そういう言い伝えを、ヒロミも、子供のころ、祖母から聞いたことがあった気がした。〈月光書房〉。夜どおし本を売り、夜明けとともに、店ごと、跡形もなく消えるのだと。祖母は、それを、ただの昔話として語った。けれど、いま、ヒロミの手のひらの中にある、この、藍色のマッチ箱の、確かな重みは、昔話ではなかった。ソラの、小さな指の温度が、まだ残っている、確かな、現実だった。
「ママ」と、あのとき、ソラは、ガラス越しに言った。「宇宙って、暗い?」
「暗いよ」とヒロミは答えた。「でも、星が、いっぱいある」
「星は、あかりになる?」
ヒロミは、その問いに、うまく答えられなかった。星は、あまりに遠い。宇宙の星は、地球から見上げる星とは、違う。またたかない。冷たく、鋭く、点として、そこにあるだけ。それは、あかり、と呼ぶには、あまりに遠く、あまりに孤独だった。けれど、ヒロミは、ソラの、まっすぐな目を見て、こう答えた。
「なるよ。ママが、あかりだと思えば、あかりになる」
ソラは、それを聞いて、安心したように、笑った。そして、あの言葉を言ったのだ。これがあれば、あかりのことを、思い出せるでしょ、と。
いま、ヒロミはその藍色のマッチ箱を、つなぎの胸ポケットに滑り込ませた。規定重量内。中身は火をつけない。ただのお守り。書類上は、そう記録されている。
胸ポケットのあたりが、少しだけ、重くなった気がした。
一
食堂には、すでに三人が集まっていた。
船長のドミトリ、システム担当のアイシャ、そしてヒロミ。今回のミッションの搭乗員は、この三人だ。地球低軌道の実験ステーションではない。もっと遠い。月の裏側、その先の、深宇宙ゲートウェイの建設を担う、長期滞在ミッション。往復と滞在で、およそ五百日。人類が、火星への足がかりとして、月軌道に恒久的な拠点を築くための、その最初の梁を渡す仕事だった。
「よく眠れたか」
ドミトリが、コーヒーのカップを片手に訊いた。六十を超えた老船長で、宇宙飛行の総時間は誰よりも長い。もう三度、地球を長く離れている。その顔には、宇宙で浴びた放射線の分だけ、深い皺が刻まれているように見えた。
「ええ、船長。よく眠れました」
「嘘だな」
ドミトリは笑った。歯の抜けたところが見える、豪快な笑いだった。
「打ち上げの朝に、ぐっすり眠れる人間なんかいない。眠れたと言う奴と、眠れなかったと言う奴がいるだけだ。私は、いつも眠れなかったと言うことにしている。そのほうが、身体が正直に思える」
アイシャが、静かに笑った。まだ三十そこそこの、聡明な女性だった。今回が初めての長期ミッションで、その緊張は、几帳面に折りたたまれた背筋にあらわれていた。
「わたしは、正直、あまり眠れませんでした」とアイシャは言った。「三時ごろに一度起きて、それから、窓の外を見ていました」
「星でも見たか」
「彗星が」
アイシャは、少しためらってから言った。
「ミラ彗星が、まだ見えていたんです。西の空の低いところに。明け方の、いちばん暗いときに。蒼白い、長い尾を引いて」
食堂の空気が、ふと止まった。
ミラ彗星。数百年ぶりに地球の空に戻ってきた、あの蒼い星。この数ヶ月、夜ごとに人々を空へ振り仰がせていた、あの旅人。訓練施設の夜勤明けに、ヒロミも何度か見た。都市の光の届かないこの砂漠の地では、彗星の尾はことさら長く、ことさら青く、まるで空を裂いた傷口から、冷たい光が滲み出しているように見えた。
「もう、そろそろ見えなくなるな」とドミトリが言った。「陽が昇れば、消える。彗星というのは、そういうものだ。地球のすぐそばまで来て、また何百年も帰ってこない。私たちが次に会うことは、もう無い」
「わたしたちも」とアイシャが言った。「わたしたちも、地球のそばを離れます。きょう」
「だが、私たちは帰ってくる」
ドミトリは、そう言って、コーヒーを飲み干した。
「彗星と違ってな。私たちは、帰ってくる予定になっている」
予定になっている、という言い方に、ヒロミは小さく笑った。この老船長は、決して「必ず帰る」とは言わない。宇宙に長くいた人間ほど、そういう言い方をしなくなる。宇宙は、約束を嫌う。約束を破られたときの痛みを、宇宙に長くいた者は、よく知っている。
朝食は、ほとんど味のしない栄養食だった。
出発前の胃腸への負担を最小限にするため、繊維質と刺激物は避けられている。それでも、テーブルの隅には、小さな透明の容器に入った、地球のいちごが三粒だけ置かれていた。誰かの計らいだった。深宇宙では、二度と味わえない、生のいちごの、あの水っぽくて甘い味。
ヒロミは、一粒を口に含んだ。
種のつぶつぶが、舌の上で弾けた。生きているものの味がした。土から吸い上げた水と、太陽の光と、それを実らせるために働いた誰かの手の味。これから五百日、自分が口にするものはすべて、地球のどこかの工場で作られ、真空パックされ、番号を振られたものになる。この、いちごの、無防備な甘さは、もう無い。
なぜだろう、ヒロミは、このいちごを食べたことを、五百日のあいだ、何度も思い出すことになるだろうと、なぜか確信した。
アイシャも、一粒を、口に運んだ。目を閉じて、ゆっくりと、味わっていた。それから、静かに言った。
「わたしの故郷では、いちごは、とれません。乾いた土地なので。子供のころ、いちごは、絵本の中の食べものでした。赤くて、甘くて、遠い国の、幸せな子供が食べるもの。初めて本物を食べたのは、都会の学校に、奨学金で入ったときです。十六歳でした。あんまり、甘くて、涙が、出ました」
「甘くて、泣いたのか」とドミトリが、面白そうに言った。
「はい。あんな遠くにあると思っていたものが、いま、自分の口の中にある、ということが、なんだか、信じられなくて」
ヒロミは、その話を聞きながら、思った。人はみな、それぞれの、いちごを持っている。手の届かないと思っていたものに、手が届いた瞬間の、あの、信じられないような甘さを。ヒロミにとって、それは、たぶん、宇宙だった。台所で、まな板の前に立ち尽くした、あの夜。手の届かないと思っていた場所へ、いま、手が届こうとしている。そして、それは、いちごと同じで、遠くにあったからこそ、甘い。近づいた分だけ、失うものも、はっきりと、見えてくる。
「船長は」と、アイシャが訊いた。「船長にとっての、いちごは、なんですか」
ドミトリは、しばらく黙っていた。それから、残った最後の一粒を、指でつまんで、しげしげと眺めた。
「私にとっての、いちごはな」と、老船長は言った。「もう、この世に、無い。私のいちごは、地上の、ある一日の、朝だった。もう、二度と、味わえない。だから、私は、こうして、宇宙に来る。いちごの無い場所へ、な。いちごが無ければ、いちごを失う、あの痛みも、無いからだ」
食堂が、静かになった。ドミトリは、その一粒を、口に入れて、ゆっくりと、噛んだ。そして、少しだけ、笑った。
「だが、これは、うまい。認めよう。地球の、いちごは、うまい」
二
医務室での最終チェックを終えると、時刻は午前六時を回っていた。
窓のない検査室を出て、宿舎の廊下を歩く。廊下の突き当たりには、大きな窓がある。ヒロミは、そこで足を止めた。
夜が明けていた。
砂漠の地平線が、金色に燃えていた。まだ陽そのものは見えないが、その予兆で、空の下半分が、熔けた金属のような橙色に染まっている。そしてその上には、まだ夜の名残の、深い群青が残っていた。その群青の底に――ほんの一瞬、ヒロミは、蒼白い一筋を見た気がした。
ミラ彗星。
けれど、瞬きをすると、それはもう見えなかった。昇りつつある陽の光に、彗星の尾は、薄れ、溶け、洗い流されていく。夜だけのものが、朝に呑まれていく。ヒロミは、まだそこに彗星があることを知っていた。空の向こうで、あの蒼い旅人は、まだ長い尾を引いて走っている。ただ、朝の光が強すぎて、人間の目には、もう見えないだけだ。
見えないものは、無いのではない。ただ、見えないだけだ。
ヒロミは、そのことを、これから五百日、繰り返し自分に言い聞かせることになるだろう。地球は、見えなくなる。家族は、見えなくなる。娘の顔も、夫の声も、いちごの味も、蛇口をひねれば出てくる水も。見えなくなる。けれど、無いのではない。ただ、朝の光の向こうに、あるいは五百日の距離の向こうに、まだ、ある。
胸ポケットの、藍色のマッチ箱が、また少し重くなった気がした。
「見えるか、彗星」
背後から、声がした。振り返ると、ドミトリが立っていた。
「もう、見えません」とヒロミは言った。「陽が昇ってきて」
「そうだな」
ドミトリは、窓の外の金色の地平線を、目を細めて見た。
「私が最初に宇宙に行ったとき、ちょうどこんな朝だった。四十年近く前だ。あのときも、明け方に彗星が出ていた。別の彗星だがな。名前は忘れた。当時の私は、若くて、怖いもの知らずで、彗星なんか、ただの綺麗な飾りだと思っていた」
「いまは」
「いまは」
ドミトリは、少し黙った。
「いまは、彗星が、私に似ていると思う。一度、太陽のそばまで行って、燃えて、また暗い遠くへ帰っていく。何度も、何度も。そのたびに、少しずつ、自分を失っていく。彗星は、太陽に近づくたびに、身を削られて、いつか、何も残らなくなる。私も、宇宙に行くたびに、何かを、地球に置いてきた」
「何を、置いてこられたんですか」
ドミトリは、ヒロミを見た。その目は、笑っていなかった。
「妻の、最後の朝をだ」
窓の外で、陽が、地平線から顔を出した。
「私が三度目のミッションに行っているあいだに、妻は逝った。私は、宇宙にいた。三十八万キロの向こうで、彼女の最後の朝を、私は見なかった。帰ってきたときには、もう、墓の前だった」
朝の光が、廊下に射し込んだ。ドミトリの深い皺の一本一本に、光が入り込み、影を作った。
「だから、ヒロミ。私は、若い連中に、いつも同じことを言う。宇宙は、美しい。だが、宇宙は、代わりに、地球の朝を奪う。おまえが行っているあいだ、地球では、五百回の朝が来る。おまえの娘は、五百回、おまえのいない朝に、目を覚ます。それを、忘れるな。忘れないでいることが、おまえの仕事の、いちばん大事な部分だ」
ヒロミは、何も言えなかった。
ただ、胸ポケットの上に、そっと手を置いた。藍色のマッチ箱の、硬い角が、手のひらに触れた。
三
出発の準備が、加速していく。
加圧服の着用は、一人ではできない。二人がかりで、四十分かかる。技術班のスタッフが、ヒロミの身体に、一枚ずつ、宇宙という真空から彼女を守るための層を重ねていく。肌着。生体センサーの網。冷却水を巡らせるチューブの下着。そして、あの、白い加圧服。
服を着せられながら、ヒロミは、七年前のことを思い出していた。
宇宙飛行士に選ばれたと、電話で知らされた日のことだ。ヒロミは、台所で夕飯を作っていた。夫が、電話を取り次いだ。娘のソラは、まだ一歳で、ベビーサークルの中で、積み木を舐めていた。
「おめでとうございます。あなたは、選抜されました」
その声を聞いたとき、ヒロミは、包丁を持ったまま、まな板の前で、立ち尽くした。喜びよりも先に、恐れが来た。この道を選べば、いつか、こうして、地球を離れる日が来る。娘を置いて。夫を置いて。この、油の匂いのする台所を置いて。
夫は、ヒロミが宇宙飛行士になることを、応援してくれた。心から。けれど、あの夜、ベッドの中で、夫が背中を向けて、小さく震えているのに、ヒロミは気づいていた。声を殺して、泣いていた。ヒロミは、その背中に、手を伸ばせなかった。触れたら、自分も泣いてしまうと思ったから。二人は、暗闇の中で、それぞれの怖さを抱えて、眠ったふりをしていた。
「腕を上げてください」
技術班の声で、ヒロミは我に返った。腕を上げる。白い袖が通される。
七年。あの台所から、ここまで、七年かかった。
その七年のあいだに、ソラは八歳になり、言葉を覚え、絵を描くようになり、そして、生まれてくるはずだった妹を、失った。あかり。名前だけが決まっていた、あの子。妊娠六ヶ月で、心臓が止まった。ヒロミが、水中訓練の、いちばん厳しい時期だった。訓練を休むべきだったのかもしれない。休まなかった。休めば、この席は、別の誰かのものになる。ヒロミは、そう考えた。そして、いまも、それが正しかったのか、間違っていたのか、分からない。
あかり。
ソラが持たせてくれた、あの藍色のマッチ箱。あかりのことを思い出せるでしょ、とソラは言った。あれは、火の明かりのことだったのか。それとも、あの、生まれてこなかった妹の――。
着付けが、ほとんど終わりに近づいたころ、技術班の若いスタッフが、ヒロミの左手に、手袋をはめようとして、ふと、手を止めた。
「あの、飛行士。これ――」
彼が指さしたのは、ヒロミの、加圧服の、内ポケットに近いところ。そこに、もう一つ、小さなものが、規定の手続きを経て、収められていた。片方だけの、子供用の、毛糸の手袋。赤い、小さな手袋。もう片方は、無い。
「対に、なっていないようですが」と、若いスタッフは、遠慮がちに言った。「もう片方は――」
「地上に、あります」とヒロミは言った。「娘が、片方を、持っています。わたしが、もう片方を」
若いスタッフは、少しだけ、目を見開いて、それから、静かに、頷いた。何も、言わなかった。ただ、その片方だけの手袋を、傷つけないように、そっと、内側に、戻した。
今朝の面会のあと――いや、三日前の、あの面会のとき、ソラは、マッチ箱と一緒に、その、片方の手袋も、差し出そうとしたのだ。「これも」と。けれど、規定で、持ち込める私物の重量は、限られていた。二つは、無理だった。だから、ソラは、こう言ったのだ。「じゃあ、手袋は、片っぽずつにしよ。ママが、こっち。ソラが、こっち。そしたら、二つで、一組でしょ。はなれてても、一組でしょ」
八歳の子の、その、思いつき。離れていても、一組。ヒロミは、それを聞いて、危うく、面会室で、泣きそうになった。片方だけでは、手袋は、用をなさない。寒さから、手を守ることもできない。けれど、片方だけの手袋には、もう片方が、どこかに在る、という意味が、宿る。この片方が在るかぎり、もう片方も、どこかに、在る。地上に、ある。ソラの、小さな手の中に。
「フェイスプレートを下ろします。息を、ゆっくり」
ヘルメットのプレートが下りた。世界が、一枚のガラス越しになった。
自分の呼吸の音だけが、耳の内側で、大きく響いた。
四
射点までは、専用の車両で運ばれる。
車両に乗り込む前、ヒロミたち三人は、宿舎の玄関で、しばらく立たされた。慣例だった。地球の空気を、最後に、じかに吸うための、わずかな時間。
朝の空気は、冷たく、乾いていた。砂漠の朝の匂い。砂と、遠くの草と、それから、どこか金属的な、冷たい鉱物の匂い。ヒロミは、フェイスプレートを上げて、大きく息を吸った。加圧服の中に、地球の朝が、流れ込んできた。
この匂いを、覚えておこう。
陽は、もう、地平線の上に、完全に昇っていた。金色の光が、砂漠を、まっすぐに照らしていた。長い影が、ヒロミたちの足元から、西へ、西へと伸びていた。その影は、地球が、彼女たちを、まだ地面に繋ぎとめている証のように見えた。あと少しで、この影を、置いていく。宇宙には、影を落とす地面が無い。
見送りの人々が、ロープの向こうに集まっていた。スタッフ、家族、報道陣。フラッシュが焚かれ、旗が振られ、誰かが、何かを叫んでいた。歓声。祈り。名前を呼ぶ声。
その中に、ヒロミは、二つの姿を探した。
いた。
夫と、ソラ。ロープのいちばん前で、二人は立っていた。夫は、ヒロミと目が合うと、ただ、静かに頷いた。何も言わなかった。言わないことが、二人の、七年かけて作り上げた、言葉だった。
そして、ソラが。
八歳のソラが、両手を口にあてて、何かを叫んでいた。声は、ヘルメットの中までは、届かなかった。何を言っているのか、聞こえなかった。
けれど、ヒロミには、分かった。
ソラの唇の動きを、ヒロミは、読んだ。
――ねむれ、ねむれ。
ソラは、歌っていた。
――ねむれ、ねむれ、ほしが、うみを、わたるまで。
あの、子守唄だった。ヒロミが、ソラが赤ん坊のころ、毎晩、歌ってやった、あの歌。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母親であるヒロミが、いつも歌っていた。そして今朝、地球を離れる母に、娘が、それを歌い返していた。
眠れ、眠れ。
まるで、これから五百日、宇宙の暗い海を渡っていく母に、その旅路の子守唄を、贈るように。星が海をわたるまで。星が――彗星が、海を、宇宙という海を、わたるまで。
ヒロミの目の内側で、何かが、熱く滲んだ。無重力ではないから、涙は、まだ、まっすぐに落ちる。ヒロミは、それを、フェイスプレートを下ろすことで、隠した。プレートの向こうに、朝の光が、乱反射した。ソラの顔が、光の中で、滲んで、ゆらいだ。
ヒロミは、右手を上げた。
そして、胸ポケットの上を、手のひらで、そっと押さえた。ここに、ある。あなたがくれた、藍色の、月のマッチが、ここに、ある。持っていく。あなたの温度が残った、この小さな箱を、宇宙の暗い海の底まで、持っていく。暗いときには、これを見る。火はつけない。ただ、あかりのことを、思い出す。
ソラが、それを見て、大きく、頷いた。歌いながら。泣きながら。頷いた。
五
車両が、射点へ向かって、走り出した。
窓の外を、砂漠が、流れていく。朝の光の中で、砂は、金色の粒子となって、輝いていた。ときおり、乾いた低木が、光を受けて、白く光った。遠くの山並みが、朝靄の中に、薄青く、霞んでいた。
ヒロミは、その景色を、目に焼き付けようとした。
これが、地球の、朝だ。
見慣れた、ありふれた、なんということもない朝。何度も見た。何百回も。けれど、いま、その一つ一つの光の粒が、かけがえのないものに見えた。人は、失う直前になって、初めて、そこにあったものの重さに気づく。ずるい仕組みだ、とヒロミは思った。もっと早く、気づけたらよかった。台所で、夕飯を作っていた、あの何気ない夜にも。ソラの寝顔を、覗き込んでいた、あの静かな夜にも。この、金色の光は、いつも、そこにあったのに。
隣で、アイシャが、小さく息を吐いた。
「怖いですか」とヒロミは訊いた。
「怖いです」とアイシャは、正直に言った。「でも、それより、もっと強く、行きたいと思っています。この二つの気持ちが、同じくらいの重さで、心の中にあって。それが、不思議です」
「不思議じゃない」
前の席から、ドミトリが言った。
「怖くない奴は、宇宙に行くべきじゃない。怖さは、命綱だ。怖いから、点検を三度する。怖いから、手順を守る。怖いから、生きて帰る。怖さを失った奴から、宇宙は、順番に、連れて行く」
車両は、なだらかな坂を上っていく。そして、坂の頂上に達したとき、ヒロミは、それを見た。
射点に、それが、立っていた。
ロケット。
朝の光を浴びて、白い機体が、まっすぐに、天を指して立っていた。全長、七十メートル。その巨大な塔の周りから、液体酸素が気化した白い蒸気が、絶え間なく、立ち上っていた。まるで、その巨大な生き物が、寒さに震えて、白い息を吐いているように見えた。機体の側面には、うっすらと霜が降りていた。マイナス百八十三度の液体酸素が、機体を、冷やしているのだ。
生きている、とヒロミは思った。
それは、機械ではなく、生きているように見えた。これから、太陽に向かって、地球の重力を振り切って、飛び立とうとしている、一羽の、白い、巨大な鳥。その体内には、燃やされることを待っている、膨大な力が、静かに、たぎっていた。
このロケットを作るのに、何万人という人間が、関わった。ヒロミは、その一人一人の顔を、知らない。溶接工。設計技師。燃料を精製した化学者。ボルトを一本ずつ締めた、名も知らぬ職人。管制室で、いま、モニターを見つめている、何百人ものスタッフ。彼らはみな、今朝、それぞれの持ち場へ、出かけてきた。それぞれの朝の光を浴びて、それぞれの家を出て、この、一機のロケットのために、集まってきた。ヒロミが乗るのは、たった三人分の座席だが、その座席を、この空の高みまで、押し上げるために、地上には、無数の手が、連なっている。
わたしは、一人で、行くのではない、とヒロミは思った。
見えない、無数の手に、押されて、行く。今朝、地球のあちこちで、それぞれの持ち場に出立していった、その、無数の人々の、営みの、いちばん先端に、いま、わたしは、立っている。パンを焼く人。電車を動かす人。教室で黒板に字を書く人。そして、このロケットを作った人。すべての、朝の出立が、細い糸のように束ねられて、この一点に、集まっている。その糸の、いちばん先の、いちばん細くなったところで、わたしは、地球を、離れる。
その事実は、ヒロミを、孤独から、少しだけ、救った。孤独だった。けれど、一人では、なかった。
六
エレベーターが、機体の横を、ゆっくりと上っていく。
地上が、遠ざかっていく。射点の作業員たちが、小さくなっていく。砂漠が、広がっていく。地平線が、丸みを帯びていくのが、分かる。地球は、丸い。当たり前のことが、高度を上げるにつれて、身体の実感になっていく。
ヒロミは、エレベーターの金網越しに、朝の景色を見た。
陽は、もう、かなり高く昇っていた。午前八時に近い。世界が、活動を始める時刻。この地球の上で、いま、何十億という人間が、それぞれの朝を迎え、それぞれの持ち場へ、出かけていく。パンを焼く人。電車に乗る人。子供の手を引いて、学校へ向かう人。誰も、彼女のことなど、知らない。ほとんどの人は、今朝、この砂漠から一人の女が、地球を離れることを、知りもしない。
それでいい、とヒロミは思った。
英雄になりたくて、ここに来たのではない。名前を残したくて、ここに来たのでもない。ただ、人類が、次の一歩を踏み出すために、その最初の梁を渡す、その仕事を、誰かがしなければならなかった。そして、その誰かに、ヒロミは、なりたかった。あかりが、この世界を見ることが、できなかった。だから、せめて、ヒロミは、あかりが見ることのなかった、その先の世界へ、行きたかった。理屈ではない。それは、母親の、業のようなものだった。
エレベーターが、機体頂部の、乗降ブリッジに着いた。
金網の扉が開く。ブリッジを渡れば、そこが、カプセルの入口だ。ヒロミは、渡る前に、もう一度だけ、振り返った。
地球が、そこにあった。
朝の光に満ちた、青と金の、地球が。まだ、足元にある。まだ、繋がっている。ヒロミは、その景色を、心の、いちばん深いところに、しまった。金庫の扉を閉めるように。この景色を、五百日、抱いていく。暗い宇宙の、無音の底で、この、朝の地球を、抱いていく。
「行こう」
ドミトリが、静かに言った。
ヒロミは、頷いて、ブリッジを、渡った。
七
カプセルの中は、狭かった。
三人分の座席が、ほとんど隙間なく、並んでいる。座席は、身体を包み込むように成形されていて、そこに横たわると、まるで、卵の中の雛のように、身体が、機体と一体になる。頭上には、無数のスイッチと、計器と、モニターが、ひしめいていた。
技術班が、最後の固定作業をする。ハーネスが、身体を、座席に、きつく縛りつける。何本ものチューブとケーブルが、加圧服に、接続される。生命維持。通信。データ。ヒロミの身体は、いま、この機械の、一部になっていく。
「シートベルト、確認」
「確認」
「生体信号、正常」
「通信、クリア」
淡々と、手順が、進んでいく。
ヒロミは、窓の外を見た。カプセルには、小さな窓が、一つだけある。そこから、朝の空が、見えた。青い。地球の空の、青。この青を、あと数分で、突き抜ける。青の向こうには、黒がある。宇宙の、あの、底なしの、黒が。
技術班の最後の一人が、ハッチを閉める前に、ヒロミの、フェイスプレート越しに、目を見て、頷いた。行ってらっしゃい、と、その唇が動いた。ヒロミも、頷き返した。
ハッチが、閉まった。
外の音が、消えた。
いま、ヒロミと、地球のあいだには、この、金属の壁が、一枚、ある。まだ、地上にいる。まだ、重力の中にいる。けれど、もう、外の空気は、吸えない。もう、あの、砂漠の朝の匂いは、届かない。ヒロミは、加圧服の中の、循環する、味のない空気を、吸った。
管制からのカウントが、ヘッドセットに、流れてくる。
「打ち上げ、六十分前。全システム、ノミナル」
六十分。あと、六十分で、この地面を、離れる。
ヒロミは、目を閉じた。
そして、胸ポケットの上に、ハーネスの隙間から、指先を、そっと、差し入れた。加圧服の分厚い生地越しに、あの、藍色のマッチ箱の、硬い角が、かすかに、指先に、触れた。
火は、つけない。
けれど、ヒロミは、心の中で、そのマッチを、一本、擦った。
心の中の、暗闇に、小さな、あかりが、灯った。
その、あかりの中に、いろいろなものが、浮かんでは、消えた。ソラの、寝顔。夫の、背中。台所の、油の匂い。生のいちごの、甘さ。蛇口をひねれば出てくる、水。金色の、砂漠の朝。そして――生まれてこなかった、あかり。あの子の、名前だけの、面影。
眠れ、眠れ、と、ヒロミは、心の中で、歌った。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
それは、ソラに歌った、子守唄だった。そして、いまは、自分自身に歌う、子守唄だった。恐れよ、眠れ。孤独よ、眠れ。この、張りつめた高揚の底にある、あの、幼い怖さよ、眠れ。星が、この暗い宇宙の海を、わたりきるまで。母さんが、この旅を、終えて、帰ってくるまで。
八
「打ち上げ、十分前」
カプセルの中の空気が、変わった。
三人は、もう、言葉を、交わさなかった。それぞれが、それぞれの、最後の、内なる時間の中にいた。ドミトリは、たぶん、亡くなった妻のことを、考えていた。アイシャは、たぶん、初めての宇宙への、怖さと、憧れの、あいだにいた。そしてヒロミは――
ヒロミは、朝のことを、考えていた。
これが、地球で迎える、最後の朝だった。少なくとも、五百日は。運が悪ければ、永遠に。宇宙は、約束を、嫌う。ドミトリの言う通りだ。けれど、この朝を、ヒロミは、生きた。ちゃんと、生きた。いちごを食べた。彗星の名残を、見た。娘の子守唄を、読んだ。夫の頷きを、受け取った。地球の、朝の匂いを、吸った。この一つ一つを、ヒロミは、忘れない。忘れないことが、船長の言葉だ。それが、いちばん大事な、仕事の部分だ。
「五分前」
ヒロミは、窓の外の、青い空を、見た。
その青の、ずっと向こう、昇る陽の、まぶしい光の、さらに向こうに、ヒロミは、まだ、あの蒼白い一筋が、走っているのを、知っていた。ミラ彗星。見えない。けれど、ある。陽の光に、洗い流されて、人間の目には、もう見えない。けれど、あの旅人は、いまも、長い尾を引いて、暗い宇宙を、走り続けている。何百年に一度、太陽のそばまで来て、そして、また、暗い遠くへ、帰っていく。
わたしも、行く、とヒロミは思った。
わたしも、あの彗星のように、いちど、この明るい地球のそばを、離れる。暗い、遠くへ。そして――彗星と違って、わたしは、帰ってくる。予定に、なっている。ドミトリの、あの言い方で。必ず、とは言わない。けれど、帰ってくる。この、朝の地球へ。ソラの、いる、この星へ。
「一分前。最終シーケンス、開始」
機体が、震えはじめた。
深い、腹の底に響く、振動。眠っていた巨大な生き物が、目を覚まし、その全身に、力を、みなぎらせていく。ヒロミの座席が、その振動を、身体に、伝えてきた。歯が、震えた。血が、震えた。
「三十秒」
その、最後の三十秒の中で、ヒロミの脳裏を、一つの朝が、よぎった。
ソラが、生まれた朝だった。九年前。まだ、夜も明けきらぬ、青い時刻に、陣痛が来た。夫が、車を出した。病院までの道で、ヒロミは、窓の外に、白みはじめた空を見た。そして、その空の低いところに、あのときも、明けの明星が、ひとつ、光っていた。長い長い、痛みのあと、朝の光が、分娩室の窓に射し込んだ、ちょうどそのときに、ソラは、生まれた。産声が、あがった。看護師が、「元気な女の子ですよ」と言った。ヒロミは、汗みずくの顔で、窓の外の、昇りはじめた陽を、見た。あれも、出立の朝だった。一つの命が、母の胎という宇宙から、この世界へと、飛び立った、朝。
そして、いま。ヒロミ自身が、この世界という胎から、宇宙へと、飛び立とうとしている。生まれるとは、こういうことなのかもしれない、とヒロミは思った。慣れ親しんだ、あたたかな場所を、離れて、まだ見ぬ、暗い、広い場所へ、放り出されること。怖い。けれど、そうしなければ、命は、次の場所へ、進めない。ソラは、九年前、それをした。そして、いま、母である、ヒロミが、それを、する。
「二十秒」
ヒロミは、目を、開けた。
窓の外の、青い空を、まっすぐに、見た。
「十、九、八――」
ヒロミは、胸ポケットの、藍色のマッチ箱を、心の中で、握りしめた。ソラ。あかり。あなたたちを、連れていく。
「七、六、五――」
眠れ、眠れ。
「四、三――」
星が、海を、わたるまで。
「二、一――」
「点火」
九
世界が、燃えた。
機体の底で、膨大な炎が、噴き上がった。数百トンの推力が、七十メートルの塔を、地面から、引き剝がした。轟音は、もはや音ではなかった。それは、身体そのものを、内側から、揺さぶる、力だった。ヒロミの視界が、白く、震えた。加速度が、背中を、座席に、押しつけた。ゆっくりと、しかし、抗いようもなく、地球が、彼女を、放した。
そして、あの、遅れてやってくる実感が、いま、来た。
きょう、わたしは、地球を、出る。
その一行が、いまや、他人の日記ではなかった。それは、ヒロミの、全身が、加速度と共に、味わっている、まぎれもない、現実だった。恐れは、あった。けれど、恐れの隣に、それと同じ重さの、静かな高揚が、あった。二つは、同じ心の中で、争わなかった。手を、つないでいた。
窓の外で、青い空が、みるみる、色を、失っていく。
青が、薄まり、藍になり、群青になり、そして――黒に、なった。
宇宙の、黒。
加速度が、ふっと、抜けた。エンジンが、燃焼を、終えた。身体が、ハーネスの中で、ふわりと、浮いた。ヒロミの節くれだった指先から、爪のあいだから、髪の一筋一筋まで、重さが、消えた。五百日、地球の重力に、触れない、その最初の、瞬間が、来た。
窓の外を、ヒロミは、見た。
地球が、そこにあった。
丸い、青い、地球が。朝の光を浴びた半球が、まばゆく輝き、その縁を、大気の、薄い、青い膜が、縁取っていた。そして、その膜の向こうに――夜と昼の、境目の線が、走っていた。あの線の、こちら側は、朝。向こう側は、まだ、夜。地球は、いつも、半分が朝で、半分が夜だ。誰かが、目を覚ますとき、別の誰かは、眠りにつく。誰かが、出立するとき、別の誰かは、帰っていく。
ヒロミは、その、朝と夜の、境目の線を、じっと、見た。
あの線の、どこか、朝の側に、ソラがいる。夫がいる。台所がある。いちごがある。蛇口をひねれば出てくる、水がある。そして、あの、砂漠の射点の、白い蒸気が、まだ、立ち上っている。
見えない。ここからは、そんな、小さなものは、見えない。
けれど、ある。
見えないものは、無いのではない。ただ、見えないだけだ。
ヒロミは、加圧服の、フェイスプレートを、上げた。
もう、外の空気は、ここには、無い。カプセルの、循環する、味のない空気。けれど、ヒロミは、大きく、息を、吸った。
そして、胸ポケットに、指を、差し入れた。
藍色のマッチ箱を、取り出す。無重力の中で、それは、ヒロミの手のひらから、そっと、離れ、目の前で、ゆっくりと、回転しながら、浮かんだ。三日月の、銀色の刻印が、窓から射す、地球の光を、受けて、きらりと、光った。〈月光堂〉。彗星の夜にだけ現れて、朝には消えるという、あの、古書店。ソラが、月の出る夜に、いつもは無いはずの場所で、見つけたという、あの、ふしぎな店。
そういう店が、ほんとうに、あるのかもしれない、と、ヒロミは、いま、思った。
見えないだけで、ある。夜にだけ、ある。朝には、消える。けれど、無いのでは、ない。この、藍色のマッチ箱が、その、証拠だ。ソラの手のひらの温度が、まだ、残っているような、この、小さな箱が。
ヒロミは、浮かんでいるマッチ箱を、そっと、両手で、包んだ。
火は、つけない。
けれど、その中に、確かに、あかりが、あった。
ヒロミは、窓の外の、青い地球を、見た。朝の側の、まぶしい光を、見た。そして、その、まぶしさの、ずっと向こう、もう、けっして見えない、暗い宇宙の底を、走っていく、あの、蒼白い旅人のことを、思った。
そして、小さな声で、歌った。無音の宇宙で、たった一人、聞くことのできる、その声で。
眠れ、眠れ。
星が、海を、わたるまで。
地球の、朝の側では、まだ、白い蒸気が、砂漠の空に、立ち上っていた。ロープの向こうで、八歳の娘が、母の消えた空を、いつまでも、見上げていた。彼女の握りしめた、片方だけの、小さな手袋。もう片方は、今朝、母のポケットに、忍ばせた。二つで、一組。片方は、地上に。片方は、空に。
娘は、まだ、歌っていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。
そして、その歌が、電波にも、光にも乗らず、ただ、母と娘の、あいだにだけ通じる、あの、目に見えない糸を、伝って、三十万キロの、朝の海を、わたっていった。