鍵の重さ
鍵の重さ
その朝、わたしは自分の掌が、いつもより重いことに気づいた。
鍵束を握っているせいだと、はじめは思った。腰の革帯から下げた真鍮の鍵は、朝の冷えを吸って、いつもよりひやりと重い。けれど廊下を歩くうちに、重いのは鍵ではなく、鍵を握る掌のほうなのだとわかってきた。掌の内側に、なにか見えないものが溜まっている。血が下りきってしまったような、そういう重さだった。
夜明け前の刑務所は、しんとして、けれど眠ってはいない。眠っているふりをしているだけだ。石の壁の奥では、いくつもの寝返りが、いくつもの息が、ひそかに互いを聞きあっている。廊下の突きあたりの高窓が、いちばんに白みはじめていた。まだ蒼い、鉛の縁のような白さだった。
わたしは二十六になったばかりで、この職に就いて三年目だった。三年のあいだに、いろいろな朝を見た。雪の朝も、雨の朝も、点呼の声が霜の上で凍る朝もあった。けれど、こういう朝ははじめてだった。
こういう朝、というのを、わたしはうまく言葉にできない。同僚たちも口にしなかった。前日の夕方、勤務の割りが貼り出されたとき、わたしの名がその欄にあるのを見て、班長は一瞬だけわたしの目を見て、それからすぐに逸らした。おまえも一度は通る、とその目は言っていた。通らねばならない、とも。
立会。
その二文字だけが、割り表の余白に、細い字で書き添えられていた。
支度室で、わたしは制服のボタンをひとつずつ留めた。
冬の名残の朝で、指がかじかんでいた。上着の内ポケットに、母が編んでくれた手袋を入れてあった。灰色の毛糸の、片方だけの手袋だった。対のもう片方は、去年の暮れ、通勤の電車のどこかで落としてしまった。母はもう一度編み直そうと言ったが、わたしは片方だけでいいと言った。片方あれば、右手だけでも温められる。両手が同時にかじかむことは、そう多くない。
なぜ、そんなことをこの朝に思い出したのか、わからない。ポケットの中で、その片方の手袋を、指先でひとなでした。毛糸のけばだった感触が、掌の重さを少しだけ紛らわせた。
先輩の桶谷さんが、隣で顔を洗っていた。四十をいくつか越えた人で、この仕事の古株だった。桶谷さんは水を拭いながら、鏡越しにわたしを見た。
「はじめてか」
はい、とわたしは答えた。声がかすれた。
桶谷さんは、それ以上なにも言わなかった。ただ、自分の制帽をかぶり、庇を指先でまっすぐに直した。その所作が、妙に丁寧だった。まるで、これから誰かの前に出るための、身支度のようだった。
「飯は食ったか」
いいえ、とわたしは言った。喉を通らなかった。
「食っておけ、とは言わん」桶谷さんは言った。「だが、水は飲んでおけ。声が出なくなる」
わたしは洗面台の水を、掌で受けて飲んだ。冷たい水が、胸の底まで落ちていくのがわかった。掌の重さは、消えなかった。
刑場は、本棟から少し離れた、渡り廊下の先にあった。
ふだん、わたしたちがそこへ足を踏み入れることはない。扉には錠が下りていて、その錠を開ける鍵は、限られた者しか持たない。けれどその朝、扉はすでに開いていた。開いた扉の奥から、消毒薬の匂いと、線香に似た、けれど線香ではないなにかの匂いが、細く流れ出していた。
わたしは、その匂いの手前で、一度足を止めた。
止めた自分に、驚いた。足が、勝手に止まったのだった。理屈ではなく、体のどこかが、ここから先へは行きたくないと言っていた。桶谷さんはそれに気づいたのか、気づかぬふりをしてか、わたしの肩を、ひとつ、軽くたたいた。たたいて、先に立って歩いていった。
わたしは、その背を追った。
刑場の中は、思っていたよりも簡素だった。もっと恐ろしいものを想像していた。けれど、そこはただの、白い壁の部屋だった。床に、四角い枠が切ってあった。その枠のことを、わたしは研修で聞いて知っていた。知っていたけれど、実際に見るのは、はじめてだった。その四角は、ただの四角として、床にあった。あまりにもただの四角であることが、かえって、腹の底を冷たくした。
部屋の高いところに、窓がひとつあった。
格子の入った、小さな高窓だった。その窓から、朝の空が見えた。まだ夜の色を引きずった、藍とも紺ともつかぬ空だった。そしてその空の隅に――
わたしは、それを見た。
ひとすじの、蒼白い光。長い尾を引いて、消えかけている光。
彗星だった。
明け方の空に、まだうっすらと残っている、あの星だった。名を、たしかミラ彗星と言った。子どもの頃、祖母が教えてくれた。何十年に一度、空を横切る星なのだと。夜のあいだは冴え冴えと輝いて、朝が来ると、昇る陽に溶けて消えてしまう。いまがちょうど、その消えぎわだった。白みはじめた空の底に、光は最後の尾を引いて、けれどもう、ほとんど見えなかった。まばたきひとつで、見失いそうだった。
こんな朝に、と、わたしは思った。
こんな朝に、あの星が。
刑の執行は、七時と定められていた。
朝の七時。人が働きに出る刻。町の店が戸を開け、子どもたちが学校へ向かい、電車が人を運びはじめる刻。誰もが、それぞれの持ち場へと出立していく、その刻に。
そのことを、誰が決めたのだろう、とわたしは思った。なぜ夜ではなく、朝なのだろう。なぜ、世界がいちばん動きだそうとする、この時刻なのだろう。
あとになって、桶谷さんが教えてくれた。夜に執行することもできた時代があった。けれど、いまは朝と決まっている。理由は、いくつもある。事務のこともある、立会の者の都合もある。けれど桶谷さんが言うには――いちばんの理由は、たぶん、朝だからなのだ、と。
「夜に送るのは、忍びない」桶谷さんは、あとでそう言った。「せめて、明るいうちに送ってやりたい。そういう、誰かの気持ちが、どこかにあったんだろうな」
明るいうちに。
その言葉は、やさしいのか、残酷なのか、わたしにはわからなかった。いまも、わからない。
思えば、わたしは、その人を、少しだけ、知っていた。
配属されて二年目の冬、わたしは、しばらく、あの独房の並ぶ区画を、受け持っていた。夜の見回りである。二時間おきに、廊下を歩き、房のひとつひとつを、覗いていく。眠っているか、無事でいるか、確かめる。それだけの、静かな務めだった。
その区画に、その人は、いた。
その人は、たいてい、眠っていた。けれど、たまに、起きていることが、あった。板の寝台の上に、身を起こして、高窓を、見上げていた。わたしが覗くと、その人は、こちらを向いて、小さく、頭を下げた。ご苦労さまです、と、口の形だけで、言った。声は、出さなかった。夜だったから。ほかの者の、眠りを、妨げないように。
わたしは、その、律義さが、妙に、心に、残った。
一度だけ、言葉を、交わしたことが、あった。深夜の、見回りのときだった。その人が、起きていた。眠れないのですか、と、わたしは、小声で、訊いた。訊いてから、規則に、触れるかもしれない、と、思った。囚人と、私語を交わすことは、勧められていなかった。けれど、その人は、しずかに、首を、横に、振った。
「眠るのが、こわいのです」と、その人は、言った。
なぜですか、と、わたしは、訊けなかった。訊いてはいけない、気がした。その人は、それ以上、なにも、言わなかった。ただ、また、高窓を、見上げた。窓の外には、冬の、澄んだ夜空が、あった。星が、いくつか、瞬いていた。
いま、思えば――あの人は、あの頃から、この朝が、来ることを、知っていたのだ。眠りの、その先に、なにが、待っているかを。だから、眠るのが、こわかったのだ。眠って、目が覚めたら、その朝が、来ているかもしれない、と。
そして、その恐れを、まぎらわすために、あの人は、毎朝、あの子守唄を、歌っていたのだろう。眠れ、眠れ、と。まだ、その時は、来ていない、と。自分に、言い聞かせるように。
わたしは、そのことを、その朝、刑場で、はじめて、ひとつに、つなげた。つなげて、掌が、いっそう、重くなった。
囚人が、連れてこられた。
わたしは、その人の名を知っていた。書類の上で、何度も見た名だった。年は五十を過ぎていた。もう十年近く、この施設にいた。わたしが配属される、ずっと前からだった。
その人が、どんな罪を犯したのか、わたしは知っていた。知っていて、けれどその朝、わたしはそれを思い出さないようにしていた。思い出せば、掌の重さの意味が、変わってしまう気がした。この重さは、断罪の重さではなかった。もっと別の、名づけようのない重さだった。
その人は、両脇を職員に支えられて、ゆっくりと歩いてきた。手錠はされていなかった。もう、逃げることも、抗うこともないと、みなが知っていた。その人の顔は、青白かった。けれど、取り乱してはいなかった。むしろ、ひどく静かだった。何日も前から、この朝を待っていた人の顔だった。
その人は、部屋の中を、一度、ぐるりと見た。
白い壁を見た。床の四角を見た。そして、高い窓を見た。
窓の外の、消えかけた蒼い星を、その人も、見たのだと思う。
一瞬、その人の目が、なにかにとまった。とまって、それから、ほんの少し、和らいだ。責めるのでも、恐れるのでもない、ただ、遠くを見る目だった。子どもが、はじめて見る雪を見るときの目に、少し似ていた。
わたしは、その目を、見てしまった。
見てしまってから、わたしは自分の視線を、床に落とした。看守は、囚人の目を、まっすぐには見ないものだった。それが規則ではなかったけれど、いつのまにか身についた、そういう作法だった。相手を人として見すぎないこと。それが、この仕事を続けるための、ささやかな鎧だった。
けれどその朝、わたしは、その鎧を、うまくまとえなかった。
手続きは、静かに進んだ。
教誨師が、その人の前に立った。低い声で、なにか言葉をかけた。仏の話か、来世の話か、わたしには聞き取れなかった。その人は、うなずいた。何度か、うなずいた。それから、手を合わせた。合わせた手が、少し、震えていた。
最後の言葉はあるか、と、責任者が問うた。
その人は、しばらく、黙っていた。
その沈黙は、長かった。永遠のように、長かった。けれど、実際には、ほんの十秒ほどだったかもしれない。時間というものが、その朝は、伸びたり縮んだりした。掌の重さが、その沈黙のあいだ、どんどん増していった。
やがて、その人は、口を開いた。
「みなさんに、ご迷惑を、おかけしました」
それだけだった。
それだけ言って、その人は、また黙った。責める者への言葉も、赦しを乞う言葉も、なかった。ただ、迷惑をかけた、と、その人は言った。その言葉の慎ましさが、かえって、部屋の空気を、重くした。
わたしは、床の四角を見ていた。見ていることしか、できなかった。
そのとき、その人が、小さく、なにかを、口ずさんだ。
はじめ、それがなんなのか、わからなかった。声というより、息だった。息に、かすかな節がついていた。
わたしは、耳を澄ませた。
眠れ、眠れ――
そう聞こえた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
子守唄だった。
わたしは、その旋律を知っていた。よく知っていた。母が、幼いわたしに歌ってくれた歌だった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。夜の海を、星が渡っていく。渡りきったら、朝が来る。それまで、眠っていなさい。そういう歌だった。
なぜ、その人が、いま、それを歌うのか。
わたしには、わからなかった。けれど、わからないままに、胸のどこかが、締めつけられた。その人にも、母がいたのだ、と、ふいに思った。あたりまえのことだった。あたりまえのことなのに、わたしは、その朝まで、それを、ほんとうには考えたことがなかった。
その人にも、幼い頃があった。誰かに抱かれ、誰かにこの歌を歌われて、眠りに落ちた夜が、あったのだ。星が海を渡るまで、眠っていなさいと、誰かに言われた夜が。
その誰かは、いま、どこにいるのだろう。
その人は、いま、たったひとりで、その歌を、自分に歌っていた。
わたしの掌が、震えた。
震えを、桶谷さんに気づかれまいと、わたしは鍵束を握りしめた。真鍮が、掌に食いこんだ。痛みが、震えを、少しだけ、抑えた。
執行の合図が、下りた。
そこからのことを、わたしは、正確には、覚えていない。
覚えていないというより、覚えていないことにしている、のかもしれない。人の心には、そういう仕組みがあるらしい。あまりに重いものを見たとき、その像を、少しだけ、ぼかしてしまう。ぼかさなければ、生きていけないから。
わたしが覚えているのは、その人の唇が、最後まで、動いていたことだった。
眠れ、眠れ――
その口の形が、そう言っていた。声は、もう、ほとんど出ていなかった。それでも、唇は、動いていた。星が海をわたるまで、と。
そして、部屋が、静かになった。
窓の外の空が、ずいぶん、明るくなっていた。あの蒼い星は、もう、見えなかった。昇りはじめた陽の光に、溶けてしまっていた。名残さえ、なかった。ただ、白々とした朝の空が、格子の向こうに、広がっていた。
わたしは、その朝、泣かなかった。
泣いてはいけない、とわたしは思っていた。看守が、囚人のために泣くのは、規則には触れないけれど、なにか、違う気がした。わたしが泣く資格があるのか、わからなかった。わたしは、その人を送った側の、人間だった。送られた人のために泣く資格が、送った側に、あるのだろうか。
わたしは、涙を、こらえた。
こらえて、けれど、体が、震えていた。震えを止めることが、できなかった。
桶谷さんが、わたしのそばに来た。来て、なにも言わずに、わたしの背中に、掌を当てた。
その掌は、温かかった。
「行くぞ」と、桶谷さんは言った。
わたしは、うなずいた。うなずいて、けれど、足が、動かなかった。床の四角から、目を、離すことが、できなかった。さっきまでそこに人がいたという事実と、いまそこに誰もいないという事実が、うまく、つながらなかった。
「見るな」と、桶谷さんは、低く言った。「もう、見るな」
わたしは、目を閉じた。
閉じた目の裏に、あの蒼い星が、見えた気がした。もう空にはいないはずの、あの星が。
支度室に戻ると、桶谷さんが、湯を沸かしていた。
古い薬缶だった。年季の入った、底の焦げた薬缶で、いつからそこにあるのか、誰も知らなかった。桶谷さんは、その薬缶を火にかけ、二つの湯呑みを、卓に置いた。
火は、なかなかつかなかった。ガスの調子が悪いのだと、桶谷さんは言った。それで、引き出しから、マッチを取り出した。
藍色の、小さなマッチ箱だった。
蓋に、三日月が、刻んであった。
「どこで手に入れたんですか、それ」と、わたしは、思わず訊いた。訊いてから、なぜそんなことを訊いたのか、自分でも、わからなかった。ただ、その青が、あまりに深くて、目を引いたのだった。
桶谷さんは、マッチを擦りながら、少しだけ、笑った。
「さあな」と、桶谷さんは言った。「いつのまにか、鞄の底に入っていた。拾ったのか、もらったのか。もう、忘れちまった」
マッチが、しゅっと、鳴った。
小さな火が、灯った。
その火が、桶谷さんの、疲れた横顔を、ほんの一瞬、照らした。四十年余りの、いろいろな朝を、見てきた顔だった。この朝も、その顔にとっては、いくつめかの、こういう朝だった。何度、こういう朝を、迎えてきたのだろう、と、わたしは思った。そして、この人は、その重さを、どうやって、担いできたのだろう、と。
火は、コンロに移り、青い炎になって、薬缶の底を舐めた。
湯が沸くのを、わたしたちは、黙って待った。
薬缶が、かすかに、鳴きはじめた。細い、笛のような音だった。その音を聞いていると、少しずつ、掌の重さが、抜けていくような気がした。抜けきりはしなかった。けれど、握った拳を、開くことは、できるようになった。
わたしは、内ポケットから、片方だけの手袋を、取り出した。
灰色の、毛糸の手袋だった。右手に、それを、はめた。かじかんでいた指が、少しずつ、温もりを、取り戻した。片方だけの手袋。もう片方は、どこかの、見知らぬ場所に、落ちている。落ちて、誰かが、拾ったかもしれない。拾って、けれど、片方だけでは、使い道がなくて、また、どこかに、置いていったかもしれない。
片方だけのものは、どこか、あの人に、似ていた。
対になるはずの、なにかを、失った、あるいは、失わせた。片方だけで、残されている。片方だけで、温もりを、探している。
わたしは、その手袋をはめた右手で、湯呑みを、包んだ。
桶谷さんが、茶を、注いでくれた。
「あの人はな」と、桶谷さんが、湯気の向こうで、言った。「毎朝、あの子守唄を、歌っていたそうだ」
わたしは、顔を上げた。
「担当していた者から、聞いた」桶谷さんは、茶をすすった。「独房でな。毎朝、目が覚めると、小さな声で、あの歌を歌う。眠れ、眠れ、って。眠るための歌を、目が覚めてから、歌うんだ。おかしな話だろう」
おかしくは、ありませんでした、と、わたしは、言いかけて、やめた。
その代わりに、わたしは、訊いた。「なぜ、朝に、歌うんでしょう」
桶谷さんは、しばらく、黙っていた。
「さあな」と、また、桶谷さんは言った。桶谷さんの答えは、たいてい、さあな、から始まった。「だが、俺は、こう思う。あの人はな、たぶん、毎朝、自分に言い聞かせていたんだ。まだ、眠っていていい、と。まだ、その時は、来ていない、と。夜のあいだじゅう、星が海を渡っていく。渡りきったら、朝が来る。渡りきるまでは、眠っていていい。あの人にとっちゃ、朝が来ないことが、いちばんの、望みだったのかもしれん」
朝が、来ないこと。
わたしは、その言葉を、掌の中で、転がした。
朝が来ることは、ふつう、希望だった。夜が明けること。新しい一日が始まること。人が、それぞれの持ち場へ、出立していくこと。町が動きだし、店が戸を開け、子どもが学校へ向かうこと。朝は、いつも、始まりの、しるしだった。
けれど、あの人にとって、朝は。
いちばん、来てほしくない、ものだった。
そして、来てしまった。
今朝、とうとう、朝が、来てしまった。
わたしは、湯呑みの、茶を、飲んだ。
温かかった。舌が、少し、しびれるほど、熱かった。その熱さが、なぜか、ありがたかった。生きている、と、その熱さが、教えてくれた。わたしは、まだ、生きていて、熱い茶を、飲むことが、できる。その、あたりまえのことが、その朝は、ひどく、重たく、感じられた。
「なあ」と、桶谷さんが、言った。
「はい」
「おまえ、この仕事、続けられそうか」
わたしは、答えられなかった。
続けられます、と、言うことは、できなかった。続けられません、と、言うことも、できなかった。どちらも、嘘のような気が、した。
桶谷さんは、わたしの、その沈黙を、見ていた。責める目では、なかった。ただ、見ていた。
「答えなくて、いい」と、桶谷さんは言った。「俺も、はじめてのときは、答えられなかった。三十年、答えられずに、来た。いまでも、答えられん。だが、来ちまった。ここまで、来ちまった」
桶谷さんは、茶を、飲みほした。
「この仕事はな」と、桶谷さんは言った。「答えを出しちゃ、いけないのかもしれん。答えを出したら、たぶん、続けられなくなる。続けられなくなるか、あるいは――続けられるようになりすぎるか、だ。どっちも、まずい」
続けられるように、なりすぎる。
その言葉が、わたしの、胸に、刺さった。
慣れてしまうこと。あの床の四角を、ただの四角として、見られるようになってしまうこと。あの子守唄を、ただの、囚人の、たわごととして、聞き流せるようになってしまうこと。あの人の目を、まっすぐに見て、なにも感じなくなってしまうこと。
それは、たぶん、いちばん、恐ろしいことだった。
「桶谷さん」と、わたしは、訊いた。「これは、正しいこと、なんでしょうか」
言ってから、しまった、と、思った。訊いてはいけない問いだった。この塀の内側で、その問いを、口にしてはいけなかった。わたしたちは、正しさを、決める者ではなかった。決められたことを、行う者だった。法があり、判決があり、命令があった。その命令に、正しさを、問うことは、許されていなかった。
けれど、桶谷さんは、怒らなかった。
しばらく、湯呑みの底を、見つめて、それから、ゆっくりと、言った。
「俺はな」と、桶谷さんは言った。「正しいかどうかは、考えないことにしている。考えたら、手が、動かなくなる。だが――」
だが、と、桶谷さんは、言葉を、切った。
「だが、正しくないかもしれない、と、思うことは、やめないようにしている。おかしな話だろう。正しいとは、思わない。正しくないかもしれない、とは、思いつづける。その、あいだで、宙ぶらりんのまま、立っている。それが、たぶん、俺たちの、立ち場所なんだ」
宙ぶらりんのまま。
わたしは、その言葉を、噛みしめた。
制度がある。人がいる。そのあいだに、わたしたちは、立っている。制度の側に、寄りきってしまえば、あの床の四角は、ただの四角になる。人の側に、寄りきってしまえば、この手は、二度と、動かなくなる。どちらにも、寄らずに、宙ぶらりんのまま、立ちつづけること。その、居心地の悪さに、耐えつづけること。
それが――たぶん、この重い掌の、ほんとうの、意味だった。掌が軽くなったら、わたしは、どちらかに、寄りきってしまったのだ。だから、この掌は、重いままで、あらねばならなかった。
「あの人はな」と、桶谷さんは、静かに、付け足した。「最後に、迷惑をかけました、と、言っただろう。あれを、聞いたか」
はい、と、わたしは、言った。
「あの言葉が、俺は、ずっと、忘れられん」桶谷さんは言った。「恨みも、言い訳も、なかった。ただ、迷惑をかけた、と。あれを言われると、俺たちは、なにも、言い返せん。断罪しようにも、相手が、もう、頭を、下げている。裁こうにも、相手が、もう、自分を、裁いている。それでも、俺たちは、手を、動かす。動かさねば、ならん。――それが、この仕事の、いちばん、こたえるところだ」
窓の外が、すっかり、明るくなっていた。
支度室の、小さな窓から、朝の光が、差しこんでいた。もう、蒼い星の、名残もない、まっさらな、朝の光だった。その光の中で、埃が、きらきらと、舞っていた。
外では、一日が、始まっていた。
塀の向こうから、遠く、電車の音が、聞こえた。町が、動きだしていた。人々が、それぞれの、持ち場へと、出かけていく、その音だった。会社へ、学校へ、市場へ、工場へ。誰もが、朝の光の中を、歩いていく。今朝も、あたりまえのように、朝が来て、あたりまえのように、みなが、出立していく。
その、あたりまえの朝の中で、ひとつの命が、送られた。
町の人々は、それを、知らない。知らずに、歩いていく。パンを買い、電車に乗り、子どもの手を引いて、歩いていく。それでいいのだ、と、わたしは思った。それで、いいのだ。町は、知らなくていい。町が、あたりまえの朝を、あたりまえに過ごせるように、わたしたちのような者が、この塀の内側で、こういう朝を、担っている。
けれど、と、わたしは思った。
けれど、誰かが、覚えていなければ、ならない。
あの人が、最後に、子守唄を歌ったことを。あの人にも、母がいて、幼い頃があって、この歌を歌われた夜が、あったことを。あの人が、迷惑をかけました、とだけ、言い残したことを。そして、あの人が、朝の来ないことを、いちばんに、望んでいたかもしれないことを。
町が忘れるなら、せめて、わたしが、覚えていよう、と、思った。
覚えていることが、わたしの、この重い掌の、せめてもの、務めだった。
わたしは、立ち上がった。
制帽を、かぶり直した。桶谷さんが、さっき、そうしていたように、庇を、指先で、まっすぐに、直した。
「行きます」と、わたしは言った。
「ああ」と、桶谷さんは言った。「行け」
わたしは、支度室を、出た。
廊下を、歩いた。朝の光が、高窓から、差しこんでいた。石の床に、格子の影が、まっすぐに、落ちていた。その影を、踏みながら、わたしは、歩いた。
いつもの、朝の点呼が、待っていた。生きている者たちの、点呼だった。名を呼べば、はい、と、答える者たちの。今朝も、みな、生きて、そこにいる。今朝も、みな、それぞれの、一日を、始めていく。わたしは、その者たちの名を、呼ばなければならなかった。ひとりずつ、名を呼んで、無事を、確かめなければ、ならなかった。
それが、わたしの、持ち場だった。
わたしも、出立するのだ、と、思った。この重い掌のまま、それでも、わたしは、自分の持ち場へ、出立していく。町の人々と、同じように。あの人が、二度と、出立することのなかった、その朝に。
房の前を、通った。
高窓のある、独房の並ぶ、廊下だった。あの人が、いた房も、その並びの、どこかに、あった。もう、空になった房が。
わたしは、その前で、足を、止めた。
止めるつもりは、なかった。けれど、足が、止まった。今朝、二度目の、そういう、勝手な、足の止まりだった。
空の房の、高窓から、朝の光が、差しこんでいた。誰もいない、板の寝台を、その光が、照らしていた。壁には、なにも、なかった。あの人は、なにも、遺さなかった。ただ、板の寝台と、白い壁と、そして、あの高窓が、あるだけだった。
その高窓を、わたしは、見上げた。
窓の外には、朝の空が、あった。もう、星は、いなかった。蒼い光は、昇る陽に、溶けてしまっていた。
けれど、と、わたしは、思った。
毎朝、あの人は、この窓から、空を見ていたのだろう。そして、いつか、明け方に、あの蒼い星を、見たのだろう。夜のあいだ、冴え冴えと輝いて、朝が来ると、溶けて消える、あの星を。星が海を渡るまで。あの人は、たぶん、この窓から、それを見ながら、あの子守唄を、歌っていたのだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
星は、渡りきってしまった。そして、朝が、来てしまった。
わたしは、右手を、上げた。
灰色の、片方だけの手袋を、はめた、右手だった。
その手で、房の、鉄格子を、そっと、触れた。冷たい、鉄の感触が、毛糸を通して、伝わってきた。ひやりと、けれど、どこか、なつかしいような、感触だった。
なにをしているのか、自分でも、わからなかった。祈っているのでも、なかった。詫びているのでも、なかった。ただ、触れていたかった。あの人が、毎朝、そこから、空を見ていたという、その房の、鉄格子に。
しばらく、そうしていた。
やがて、わたしは、手を、離した。
離した右手を、もう一度、見た。片方だけの、手袋だった。対の、もう片方は、どこか、遠くに、ある。あるいは、もう、ない。それでも、この片方は、ここに、ある。片方だけでも、ここに、ある。片方だけでも、誰かの、右手を、温めている。
わたしは、その手を、握った。
握って、また、開いた。
掌の重さは、まだ、あった。けれど、その重さと、ともに、歩いていくのだと、わたしは、思った。この重さを、忘れないことが、たぶん、わたしにできる、ただひとつの、まっとうな、ことだった。慣れないこと。軽くしないこと。この掌が、いつまでも、重いままで、あること。
点呼の時刻が、迫っていた。
わたしは、廊下を、歩きはじめた。
朝の光が、いよいよ、強くなっていた。高窓から差しこむ光が、石の床に、金色の、四角を、いくつも、落としていた。その四角を、わたしは、ひとつ、ひとつ、踏んで、歩いた。刑場の、あの、床の四角とは、ちがう、四角だった。こちらは、ただの、光の、四角だった。あたたかい、朝の光の、四角だった。
その光を、踏みながら、わたしは、思った。
いつか、この職を、辞める日が、来るかもしれない。あるいは、桶谷さんのように、三十年、この仕事を、続ける日が、来るかもしれない。どちらに、なるのか、わからない。今朝の、この重さが、わたしを、どちらへ、連れていくのか、わからない。
けれど、ひとつだけ、わかることが、あった。
わたしは、これから何度、朝を迎えても、今朝のことを、忘れない。あの、消えかけた、蒼い星を。あの、最後の、子守唄を。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と、消えいる声で、自分に、歌っていた、あの人を。そして、その朝、世界が、あたりまえに、動きだしていたことを。
町は、知らない。町は、忘れる。
けれど、わたしは、覚えている。
覚えていることが、送る側に立った者の、せめてもの、務めだった。
点呼の広間に、出た。
朝の光が、天窓から、まっすぐに、降りていた。整列した男たちが、その光の中に、立っていた。みな、生きて、そこに、いた。今朝も、生きて、そこに、いた。
わたしは、名簿を、開いた。
名を、呼びはじめた。
ひとつ、ひとつ、名を、呼んだ。はい、と、声が、返ってきた。はい、と。生きている者の、声だった。今朝も、生きて、返事をする、声だった。その声のひとつひとつが、ありがたかった。今朝、ひとつの声が、この世から、消えた。だからこそ、いま、返ってくる、ひとつひとつの声が、ありがたかった。
わたしは、名を、呼びつづけた。
声が、かすれないように。桶谷さんが、言ったとおり、朝、水を、飲んでおいて、よかった、と、思った。声は、かすれなかった。まっすぐに、名を、呼ぶことが、できた。
呼びながら、わたしは、右手を、名簿に、添えていた。片方だけの、手袋をはめた、右手だった。その手が、もう、震えて、いなかった。
すべての名を、呼び終えた。
みな、生きて、そこに、いた。ひとりも、欠けて、いなかった。今朝の、欠けは、この広間の、外で、起きた。この広間の、名簿には、載っていなかった。もう、どこの名簿にも、載らない、ひとつの名だった。
わたしは、名簿を、閉じた。
天窓から、光が、降っていた。もう、すっかり、朝だった。蒼い星の、名残さえ、ない、まっさらな、朝だった。その光を、浴びながら、男たちは、それぞれの、一日へと、動きはじめた。作業へ、食事へ、それぞれの、持ち場へと。今日という一日が、この塀の内側でも、あたりまえのように、始まっていた。
わたしも、動きはじめた。
重い掌を、握りしめて。片方だけの、手袋を、はめて。あの子守唄を、耳の奥に、遺したまま。
その日の勤めを終えて、塀の外に出たのは、陽が高くなってからだった。
門を出ると、いつもの町が、いつものように、そこにあった。パン屋の店先に、焼きたての匂いが、漂っていた。子どもたちが、ランドセルを背負って、走っていった。信号が、青に変わり、人々が、いっせいに、横断歩道を、渡りはじめた。誰もが、それぞれの、朝を、生きていた。
わたしは、その、あたりまえの町の、あたりまえの朝の中を、歩いた。
歩きながら、空を、見上げた。
もう、昼に近い空だった。蒼い星は、もちろん、見えなかった。夜が来て、また、明け方が来なければ、あの星は、二度と、姿を、見せない。そして、次に、あの星が、空を横切るのは、何十年も、先のことだった。そのとき、わたしは、まだ、生きているだろうか。生きていて、また、あの星を、見上げるだろうか。見上げて、今朝のことを、思い出すだろうか。
その帰り道、路地の奥に、見慣れない、灯りが、あった。
古い、木の看板が、下がっていた。月光書房、と、書いてあった。
こんなところに、古書店が、あっただろうか、と、わたしは思った。毎日、通る道だった。けれど、こんな店を、見た覚えは、なかった。昨日までは、たしかに、なかった。
わたしは、その灯りに、吸い寄せられるように、路地を、覗きこんだ。
けれど、足は、そちらへは、向かわなかった。今日は、もう、ずいぶん、歩いた。今日は、もう、じゅうぶんに、重いものを、担いだ。あの店は、また、いつか。あの星が、また、空を横切る、そういう夜に。
わたしは、路地に、背を向けて、歩きだした。
背に、その灯りの、温もりを、感じながら。
家に帰って、わたしは、母に、電話を、かけた。
なんとなく、声が、聞きたかった。用件は、なかった。ただ、母の声を、聞きたかった。母は、電話の向こうで、驚いていた。おまえから、電話なんて、珍しい、と。どうかしたのか、と。
なんでもない、と、わたしは言った。ただ、声が、聞きたかっただけ、と。
母は、少し、笑った。それから、手袋は、まだ、片方だけか、と、訊いた。編み直そうか、と。
片方だけで、いい、と、わたしは言った。片方だけで、じゅうぶん、温かいから、と。
そう、と、母は言った。そう。それから、しばらく、二人とも、黙っていた。電話の向こうの、母の、息づかいが、聞こえた。生きている、母の、息だった。
母さん、と、わたしは、言った。
なに、と、母は、言った。
昔、歌ってくれた、あの子守唄、覚えてる、と、わたしは、訊いた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、って、あの歌。
母は、少し、黙って、それから、覚えてる、と、言った。よく、歌ったねえ、あんたが、小さい頃、と。
もう一度、歌ってくれないか、と、わたしは、言いかけて――やめた。
いい歳をした男が、母に、子守唄を、ねだるなんて。けれど、わたしは、ほんとうは、それを、聞きたかった。今朝、あの人が、自分に、歌っていた、あの歌を。今度は、誰かが、わたしのために、歌ってくれる、その声を。
なんでもない、と、わたしは、また、言った。おやすみ、母さん。
まだ、昼だよ、と、母は、笑った。
そうだった。まだ、昼だった。
電話を、切って、わたしは、窓辺に、立った。
昼の、空だった。青く、澄んで、雲が、ゆっくりと、流れていた。星は、どこにも、いなかった。けれど、わたしは、知っていた。この、青い空の、ずっと、奥のほうに、あの星は、いまも、いる。昼の光に、隠れて、見えないだけで、いまも、そこを、渡っている。夜が来れば、また、姿を、見せる。星は、海を、渡りつづけている。
わたしは、右手を、見た。
まだ、手袋を、はめたままだった。灰色の、片方だけの、手袋だった。わたしは、それを、そっと、脱いだ。脱いで、卓の上に、置いた。片方だけの、手袋が、卓の隅で、しずかに、ひとつ、なにかを、待っているように、見えた。対の、もう片方を。あるいは、もう、待っては、いないのかもしれなかった。片方だけで、そこに、あることを、受け入れているのかも、しれなかった。
その、片方だけの、手袋を、見ながら、わたしは、思った。
明日も、朝が、来る。
あの人には、二度と、来ない、朝が。町の人々には、あたりまえに、来る、朝が。わたしにも、来る。重い掌を、握りしめて、それでも、わたしは、また、自分の持ち場へ、出立していくのだ。名を呼び、無事を確かめ、生きている者たちの、点呼を、とる。今朝、ひとつの声が、消えたことを、覚えていながら。
星が海をわたるまで、眠れ、と、その人は、自分に、歌った。
星は、渡りきった。朝が、来た。そして、その人は、眠りに、就いた。
長い、長い、眠りに。もう、目覚めることの、ない、眠りに。
その夜、わたしは、なかなか、眠れなかった。
床に就いても、あの、子守唄が、耳の奥で、鳴りやまなかった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。眠るための歌が、わたしを、眠らせて、くれなかった。
わたしは、目を、閉じた。
閉じた目の裏に、あの、高窓が、見えた。格子の入った、小さな窓が。その窓の外の、明け方の空が。そして、その空の隅に、うっすらと、残っていた、あの、蒼い星が。長い尾を引いて、消えかけていた、あの光が。
その光を、あの人も、見たのだ。
最後の朝に。最後の、空に。子守唄を、歌いながら。
わたしは、その光を、まぶたの裏で、見つめた。
見つめているうちに、いつのまにか、まどろんでいた。まどろみの、いちばん深いところで、わたしは、聞いた。誰かが、遠くで、歌っているのを。眠れ、眠れ、と。星が海をわたるまで、と。それが、母の声なのか、あの人の声なのか、それとも、わたし自身の声なのか、わからなかった。わからないまま、わたしは、その歌に、抱かれて、眠りに、落ちた。
翌朝、目が覚めると、窓の外が、白んでいた。
わたしは、床の中で、しばらく、天井を、見つめていた。それから、ゆっくりと、起き上がった。
新しい、朝だった。
昨日とは、ちがう、けれど、昨日と、同じような、朝だった。町は、また、動きだしていた。電車の音が、遠く、聞こえた。パン屋の匂いが、風に、乗って、届いていた。人々が、また、それぞれの、持ち場へと、出立していく、その、気配が、朝の光の中に、満ちていた。
わたしも、支度を、はじめた。
制服の、ボタンを、ひとつずつ、留めた。内ポケットに、片方だけの、手袋を、入れた。鍵束を、腰に、下げた。真鍮の鍵は、今朝も、冷たく、重かった。けれど、掌は――掌は、昨日より、ほんの少しだけ、軽く、なっていた。ほんの少しだけ。忘れたのでは、なかった。忘れは、しない。ただ、その重さと、ともに、歩くことに、少しだけ、慣れた。慣れた、というより、覚悟した、というほうが、近かった。
わたしは、窓の外を、見た。
明け方の空が、白みはじめていた。その空の隅に、目を、凝らした。
けれど、もう、あの蒼い星は、いなかった。昨日の朝が、あの星の、見おさめだったのだ。次に、あの星が、空を横切るのは、何十年も、先のこと。それまで、あの星は、遠い夜の海を、ひとりで、渡りつづける。誰にも、見られずに。それでも、渡りつづける。
わたしは、家を、出た。
朝の光が、まっすぐに、差していた。その光を、浴びながら、わたしは、歩きはじめた。塀の内側の、わたしの持ち場へと。名を呼び、無事を確かめる、その務めへと。今日も、生きている者たちの、点呼を、とりに。そして、いつか来る、また、こういう朝を、担うために。
歩きながら、わたしは、口の中で、そっと、あの歌を、なぞった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
朝の、澄んだ空気の中に、その旋律は、白い息になって、ほどけていった。ほどけて、朝の光に、溶けて、消えた。ちょうど、あの、蒼い星が、昇る陽に、溶けて、消えたように。
けれど、消えたものは、なくなったのでは、ない。ただ、見えなくなっただけだ。星は、いまも、海を渡っている。歌は、いまも、誰かの胸の、奥で、鳴っている。そして、あの朝のことは、いまも、わたしの、掌の中に、たしかな重さとして、残っている。
わたしは、その重さを、握りしめて、朝の町を、歩いていった。