月光書房
辰の刻 ・ 朝 ・ 第 八 話

手水の音

神谷 巴
静謐・情話 ・ 約27頁

手水の音

夜明けのいちばん薄いところで、水は音を持たない。

宮司の千歳が拝殿の裏戸を開けると、山の縁に張りついた闇がわずかにほどけて、藍が藍でなくなろうとしていた。空はまだ星を三つ四つ抱いていて、そのうちのひとつは尾を引いている。蒼白い、細く長い尾。彼女はしばらくそれを見た。ミラ彗星だ。何日か前から、明け方の東の空にうっすらと残っていた。もうじき陽が昇れば、その名残は光に溶けて見えなくなる。今朝がおそらく見納めだろう、と彼女は思った。見送るというほどのこともない。ただ、昨日そこにあったものが今日はもう薄いというだけの話だ。

千歳は白衣の袖をひとつ払い、下駄をつっかけて外に出た。

朝の冷えは、頬よりも先に手首に来る。袖口から入りこんでくる冷たさを、彼女はもう十年、この社で数えてきた。父が宮司を務めていたころは、彼女はまだ巫女で、掃き掃除と水替えが役目だった。父が逝って、千歳がその白衣を継いだ。継ぐというのは大げさで、実際には誰も継がせてくれる者などいなかったから、置き去りにされた勤めを彼女がただ拾っただけである。それでも、拾ったものは拾ったもので、毎朝それを果たさねばならない。

この社は、町からいくぶん外れた山の中腹にあって、参道の石段は百段を少し超える。数えたことは幾度もあって、そのたびに違う数になった。段を数えているうちに、いつも別のことを考えてしまうからだ。父は、九十九段だと言い張っていた。百に一つ足りない、というのが、いちばん神さまに近い数なのだ、と。満ちてしまったものは、もう昇るところがない。一つ足りないものだけが、まだ昇っていける。そういう理屈だった。理屈と呼べるほどのものでもなかったが、父の言うことには、たいていそういう、数え間違いのような優しさが混じっていた。

正直に言えば、千歳はこの勤めを、心から好んでいるわけではなかった。好むも好まぬもない。ただ、朝がくれば起きて、掃いて、水を替え、祝詞をあげる。それを果たさないでいると、一日がどこにも始まらないような気がする。人はみな、朝のうちに、どこかの持ち場へ出かけていく。彼女の持ち場は、この境内だった。出かけていかなくてよい持ち場を持つ、というのは、幸運なのか、そうでないのか、彼女には未だに分からない。町へ下りていく友人たちを、彼女はいつも石段の上から見送ってきた。見送るほうにも、見送られるほうにも、それぞれの朝があるのだと、近ごろようやく思えるようになった。

石段の下で、鳥のはじめの一声が鳴った。

その声を合図のように、ほかの鳥が次々と鳴きはじめる。鳴きはじめると、もう闇は闇ではいられない。鳥は、夜と朝の境目を、いちばん早く知る者たちだ。彼らは、光がまだ来ないうちから、光の近いことを知っている。千歳は、その一声を聞くたびに、少しだけ胸のあたりがゆるむのを感じる。今朝も、朝が来た。ただそれだけのことが、毎朝、あたらしい。

境内を掃くのに、千歳は決まった道順を持っている。

まず拝殿の正面、賽銭箱の前から始める。それから左へ回って手水舎、社務所の脇を抜けて、いちばん奥の摂社まで。摂社を掃き終えると右へ折り返して、いちばん大きな椎の木の根方を掃き、最後に鳥居の内側の広場を、鳥居に向かって掃いて出る。掃いて出る、というのがこの社の作法だった。塵を外へ、と父は言った。神さまのおられるところから、汚れを門の外へ送り出すのだ、と。

竹箒の穂先が石畳を撫でる音は、掃くというよりも、囁くのに近い。しゃっ、しゃっ、と間を置いて、彼女は落ち葉を寄せていく。この季節、椎はまだ葉を落とすには早いのだが、それでも幾枚かは律儀に落ちている。夜のあいだに落ちたそれを、朝の彼女が引き受ける。落ち葉のほかに、山から吹きおろした細い枝、蜘蛛の巣の切れ端、ときには小さな蛇の抜け殻。掃くというのは、夜が置いていったものを一枚一枚拾い直す仕事だ、と千歳は思っている。

掃くという仕事に、終わりはない。今日きれいにしても、明日にはまた落ち葉が落ちる。塵を払っても、また塵は積もる。若いころ、それが千歳には不思議だった。きれいにしたものが、なぜまた汚れるのか。父に尋ねたことがある。父は箒の手を止めずに、こう言った。汚れるから、掃くんだ。汚れなくなったら、掃くこともなくなる。掃くことがある、というのは、まだ暮らしがある、ということなんだ、と。そのときは意味が分からなかった。今は、少し分かる気がする。終わらないからこそ、毎朝それがある。毎朝それがあるからこそ、朝は、朝でいられる。もし掃除に終わりがあったら、人はきっと、朝を持てなくなる。

彼女は、掃きながら、境内の隅々を目でたどっていく。狛犬の台座の、去年の台風で欠けた角。手水舎の屋根の、苔のむした瓦。摂社の格子の、塗りの剥げたところ。どれも、直したほうがいいのだろうが、直す当てはない。この社に、そんな余裕はない。参拝の人はまばらで、賽銭箱に落ちるのは、たいてい五円か十円だ。それでも社は、まだ立っている。欠けたまま、剥げたまま、それでも立っている。人と同じだ、と千歳は思う。どこかしら欠けて、剥げて、それでも朝がくれば、立って、掃いている。

しゃっ。

穂先が止まった。賽銭箱のちょうど脇、石畳の目地のところに、白いものが落ちている。落ち葉ではない。彼女はかがみこんで、それを拾った。

手袋だった。片方だけの、女ものの、生成りの毛糸の手袋。

指の股が少しほつれていて、手首のところに小さな木の実のような飾りボタンがひとつ縫いつけられている。手に取ると、まだうっすらと温みが残っているような気がして、けれどそれは気のせいだった。夜のあいだじゅう、ここに落ちていたのだ。冷えきっているに決まっている。実際、それは冷えていた。冷えていて、朝露をわずかに含んで、指のところがしっとりと重かった。

昨日、誰か落としていったのだろう。千歳はあたりを見回した。誰もいない。当たり前だ。夜明け前の社に人などいない。彼女はその手袋を、いったん賽銭箱の縁に置いた。落とし主が探しに戻ってくるかもしれない。目につくところに置いておくのが親切というものだ。片方だけの手袋というのは、なんとも所在のないものだ、と彼女は思った。対になっていてこその手袋で、片方だけでは、それはもう手袋ですらないのかもしれない。ただの、手の形をした袋だ。

彼女は掃除に戻った。

手水舎の水を替えるのは、掃除のあとだ。

昨日の水を柄杓ですくって捨て、竜の口から落ちる新しい水を溜める。竜といっても、この社のそれはひどく素朴な作りで、目も鱗もほとんど摩耗して、口だけがかろうじて竜のかたちを保っている。父はこれを「疲れた竜」と呼んでいた。何百年も水を吐きつづけて、もう顔つきまで水になってしまったのだ、と。水は冷たかった。手を浸すと、骨まで届く冷たさで、けれどそれは嫌な冷たさではない。清いものは、たいてい冷たい。冷たいということは、まだ何にも触れていないということだ。

水盤の底に、去年の秋に沈んだままの椎の実がひとつ、いつまでも残っている。何度すくおうとしても、柄杓の縁をすり抜けて、底に戻ってしまう。もう千歳は、それをすくうのをあきらめていた。沈んでいたいものは、沈んでいればいい。水を替えても、その実だけは、いつも底にいる。新しい水に、古い実がひとつ。それはそれで、悪い眺めではなかった。すべてを流してしまうことだけが、清めではない。流せないものと、静かに一緒にいることも、たぶん清めのうちに入る。

竜の口から落ちる水の音が、しだいに変わっていく。空の水盤に落ちるときの、乾いた高い音から、水が溜まってくるにつれて、まろやかな、低い音へ。千歳は、その音の変わり目を、耳で測る。もう半分溜まった。もう八分。あふれる少し手前で、彼女は水路の栓を戻す。あふれさせてはいけない。清い水も、あふれれば、ただの水浸しだ。満ちる少し手前で止めておく。それが水替えの呼吸だった。父から、言葉ではなく、背中で教わった呼吸。

水盤に張った水面が、静かになるのを千歳は待った。波が消えて、鏡のようになるのを。そこに空が映る。まだ薄暗い空が、ゆっくりと明るんでいくのが、足もとの小さな水盤のなかで見える。彼女はこの一瞬が好きだった。空を見上げなくても、うつむいたまま、朝が来るのが分かる。

そのとき、鳥居のほうで、じゃり、と砂利を踏む音がした。

千歳は顔を上げた。

鳥居の下に、人がひとり立っていた。逆光で、まだ顔は見えない。背の高い、痩せた影。コートの襟を立てて、両手をポケットに深く突っこんでいる。男か女かも、その姿勢だけでは分からなかった。ただ、その立ち方に、彼女はどこか見覚えのある種類のものを感じた。参拝に来た者の立ち方ではない。もっと、迷っている立ち方。門をくぐるかくぐるまいか、決めかねている立ち方。

「おはようございます」

千歳のほうから声をかけた。声は朝の空気のなかでよく通って、影がわずかに動いた。

「まだ、社務所は開けておりませんが」と彼女は続けた。「お参りでしたら、どうぞ。手水はいま、替えたばかりですので」

影は、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと鳥居をくぐった。

一礼を、した。鳥居の下で、深く。それは作法を知っている者の礼だった。千歳はそこで少し安堵した。作法を知っている者は、たいてい、そう恐れるものではない。

近づいてくるにつれて、それが若い女だと分かった。二十代の半ばか、あるいはもう少し上か。化粧気のない顔で、目のまわりが少し腫れている。泣いたあとの顔だ、と千歳は思った。泣いて、そのまま眠らずに歩いてきたのだろう。コートの裾に、夜露と土埃が斑になっていた。

「早くに、すみません」と女は言った。声がかすれていた。「まだ、誰もいらっしゃらないと思って」

「誰もいないほうが、よろしかったですか」

女は、はっとしたように千歳を見た。それから、目を伏せた。

「――そうかもしれません」

千歳は、その返事を責めなかった。誰にも会いたくないのに、それでも社の門をくぐる者がいる。神さまのところなら、いても構わない誰か、というものがある。それは人ではなくて、もっと大きな、黙っているもので、だから安心して顔を見せられる。そういう朝が、人にはある。

千歳自身にも、そういう朝があった。父が逝った次の朝のことだ。あのときも、彼女は誰にも会いたくなかった。悔やみを言われるのも、慰められるのも、ただ苦しかった。それで彼女は、いつもより早く起きて、まだ暗いうちに境内へ出た。掃くものなど、ろくになかった。それでも掃いた。しゃっ、しゃっ、と、意味もなく箒を動かした。掃いているあいだだけは、悲しみが、少し後ろへ下がってくれた。手を動かしていると、心が、いっとき手のほうへ移る。あの朝、彼女は掃除に救われた。掃くものがある、というだけのことに。だから、いま門をくぐってきたこの女のことも、千歳には、他人事ではなかった。誰にも会いたくない朝に、それでも足が向く場所がある。その足の向きを、彼女は知っている。

女は手水舎の前に立った。

けれど、手を洗わなかった。柄杓に手を伸ばしかけて、途中でやめた。両手はポケットのなかに戻り、彼女は水盤をただ見下ろした。そこに映る、明けていく空を。

千歳は、その手のことに気がついた。

女の右手には、手袋がはめられていた。生成りの、毛糸の手袋。手首のところに、木の実のような飾りボタンがひとつ。

左手は、素手だった。

千歳はゆっくりと賽銭箱のほうへ歩いた。縁に置いておいた片方の手袋を取って、両手で持って、女のそばへ戻った。

「これは、あなたのものではありませんか」

女は振り向いて、千歳の手のなかのそれを見た。目が、一瞬、大きく見開かれた。それから、くしゃりと歪んだ。泣くのをこらえる顔だった。彼女は自分の右手を見て、それから素手の左手を見て、千歳の差し出したものを見た。

「――どこに」

「賽銭箱のところに、落ちていました。今朝、掃除のときに」

女は手袋を受け取った。受け取って、けれどそれをはめなかった。両手で握りしめて、胸のあたりに引き寄せた。まるで、それが手袋ではなくて、もっと別の、失くしてはならないものであるかのように。

「昨日の夜、ここに来たんです」と女は言った。声はさっきよりも小さかった。「終電のあとで。どこにも行くところがなくて、それで、この社のことを思い出して。子どものころ、祖母に連れられて、よく」

彼女はそこで言葉を切った。

「賽銭箱の前で、ずっと立っていました。何をお願いしたらいいのか、分からなくて。お賽銭を出そうとして、手袋を脱いで――そのまま、忘れて帰ったんだと思います」

「片方だけ」

「片方だけ」と女は繰り返した。「気がついたのは、駅に着いてからでした。もう戻る気力もなくて。片方だけの手袋なんて、と思って。捨てようかとも思って。でも、捨てられなくて」

彼女は右手を、そっと持ち上げた。

「これも、片方だけになってしまうから」

千歳は黙っていた。掃除のときに感じた、あの片方だけの手袋の所在のなさを、彼女はもう一度思い出していた。対になっていてこそのもの。片方では、手袋ですらないもの。この女は、駅で夜を明かしながら、片方だけの手袋を握りしめて、そのことをずっと考えていたのだろう。片方だけになってしまったものについて。

「祖母が、編んでくれたんです」と女は言った。「二十歳の冬に。もう亡くなりましたけど。祖母は、あんまり編み物が上手じゃなくて。ほら、指のところ、ほつれてるでしょう。ここも、目が飛んでる。でも、あったかくて」

「よい手袋です」と千歳は言った。

「よい手袋なんです」

女は、ようやく少し笑った。泣きそうな笑いだった。

「祖母は、なんでも手が遅くて」と、女は手袋を撫でながら続けた。「この手袋も、片方編むのに、ひと冬かかったくらいで。もう片方が編み上がったのは、春になってからでした。だから、そろっているのが当たり前じゃないんです、この手袋は。片方だけの時間が、長かった。わたし、それをすっかり忘れていました。両方あるのが当たり前だと思って、ぞんざいに扱って。片方失くして、はじめて、思い出したんです。もともと、片方から始まったものだったって」

千歳は、そのことばを、静かに受け取った。もともと、片方から始まったもの。そろっているものは、みな、はじめは片方だったのだ。対になる前の時間が、どんなものにもある。それを忘れて、人はそろっていることを当たり前だと思う。そして、片方を失って、はじめて、そろっていたことの重さを知る。

「そろうまでに、ひと冬かかったのなら」と千歳は言った。「また、そろうのにも、少しかかるのかもしれません。急がなくても、よいのでしょう」

女は、千歳を見た。その目のなかで、何かが、ゆっくりとほどけていくのが分かった。

千歳は、女に手水を勧めた。

「お清めを、なさいますか」

女は、柄杓を取った。今度は取った。右手にはめたままの手袋を、片方だけの手袋を、いったん脱いで、彼女は両手を空にした。それから柄杓に水を汲んで、左手を清め、右手を清め、口をすすいで、また左手にかけた。作法は、正しかった。祖母に教わったのだろう、と千歳は思った。冷たい水が女の手を打って、女は小さく息を呑んだ。冷たい、と唇が動いた。

「冷たいでしょう」と千歳は言った。「今朝の水は、とりわけ」

「――生き返るみたいです」

清めを終えて、女は拝殿の前に立った。二礼して、二拍手して、しばらく手を合わせた。何を祈ったのか、千歳は問わなかった。祈りというのは、聞かれないところに祈るから祈りなのだ。父はそう言っていた。人に話せることは、もう祈りではなくて、相談だ、と。

女が手を合わせているあいだ、東の空がひときわ明るくなった。

山の縁の一点が、燃えるように白んで、それから金色の光が、まっすぐに境内へ差しこんできた。鳥居の柱を、石畳を、手水舎の竜の口を、その光が順ぐりに照らしていった。女の背中にも、光が届いた。彼女の握りしめた手袋の、生成りの毛糸が、朝日を受けてほのかに輝いた。

そして、空の東の隅で、あの蒼白い尾が、いよいよ薄くなっていくのが千歳には見えた。ミラ彗星。昇る陽のなかへ、それは静かに溶けていく。もうほとんど、見えなくなっている。あと数呼吸で、消えるだろう。

「あれを」と千歳は思わず声に出していた。

女が、手を合わせたまま、目だけを上げた。

「鳥居の、向こうの空。彗星が、まだ」

女は顔を上げて、東の空を見た。彼女の目が、その薄れかけた尾を探した。それから、見つけた。

「――明け方に、見えていました」と女は言った。「駅のホームから。ずっと、あれを見ていたんです。名前も知らないけれど。夜のあいだじゅう、あれだけが、わたしを見ていてくれたような気がして」

「ミラ彗星、というそうです」と千歳は言った。「何百年に一度、来るのだと。次に来るときには、わたしたちはもう、誰も」

「――そうですね」

女は、しばらくそれを見ていた。彗星が完全に光に溶けて、空がただ青いだけになるまで。それを見届けてから、彼女はもう一度、拝殿に向かって深く頭を下げた。

「祝詞を、あげます」と千歳は言った。「よろしければ、お聞きになっていってください。朝のお勤めですので」

女は、階の下に控えた。

千歳は拝殿に上がり、正座して、笏を手に取った。神饌はまだ供えていなかったが、朝のこの時刻には、まず祝詞を先にあげるのが父の代からの習いだった。彼女は姿勢を正して、大きく息を吸った。

祝詞の言葉は、意味を追って読むものではない。音を、正しく置いていくものだ。ひとつひとつの音を、朝の空気のなかに、石を並べるように置いていく。かけまくもかしこき――と彼女の声が、拝殿の柱に響いて、天井に昇って、外へ流れていった。女は、階の下で頭を垂れていた。片方だけの手袋を、両手で握りしめたまま。

祝詞をあげながら、千歳はふと、まったく別のことを思い出していた。

子守唄だった。祖母が――彼女の祖母もまた、この社にいた――幼い千歳に歌ってくれた子守唄。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。そういう歌い出しだった。星が海をわたる、というのがどういうことなのか、幼い千歳には分からなかった。星は空にあるもので、海をわたるはずがない。けれど祖母は、そう歌った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。眠っているあいだに、星は空という海をゆっくりとわたって、朝にはもう、別のところにいるのだ、と。だから安心して眠りなさい、と。

なぜ今、それを思い出したのか。祝詞の音のどこかに、あの子守唄の抑揚が、忍びこんでいたのかもしれない。祖母から母へ、母から千歳へ。あるいは祖母から、直接に。人が音を継ぐとき、意味よりも先に抑揚が継がれる。祝詞の音の底に、いつのまにか子守唄が沈んでいる。彼女はそのことに、祝詞の途中で、静かに驚いた。

祖母は、この社の、先々代の宮司の妻だった。つまり千歳の父の、母である。編み物が下手だったのは、あの女の祖母のほうだが、歌が上手だったのは、千歳の祖母のほうだった。夜、拝殿の裏の座敷で、祖母は幼い千歳を膝にのせて、あの子守唄を歌った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。低い、少しかすれた声だった。祖母の歌は、いつも同じところで、わずかに音が下がった。星が海をわたる、の「わたる」のところで。まるで、星がほんとうに、ゆっくりと沈んでいくように。その音の下がり方を、千歳は今でも覚えている。覚えているどころか、いま自分の祝詞のなかで、まさにその同じところで、音が下がっていた。かけまくもかしこき、の、どこかで。彼女の意志とは無関係に。血が、あるいは耳が、それを覚えていた。

祖母はもういない。父もいない。母は、千歳が幼いころに社を出て、それきりだ。母のことは、ほとんど覚えていない。ただ、母もまた、この子守唄を知っていたはずだ、と千歳は思う。この社に嫁いだ夜に、祖母が歌ったのを聞いたはずだ。そして、どこか遠くで、母もまた、ときどきこれを口ずさんでいるのかもしれない。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。歌は、人が別れても、別れた人のあいだを、まだ行き来している。片方だけになった歌が、いつか、もう片方の口で、ふたたび鳴る。

祝詞が終わった。

拝殿のなかに、しんとした余韻が残った。女は、しばらく顔を上げなかった。

「ありがとうございました」

女が言った。声は、来たときよりも、いくらか落ち着いていた。

千歳は笏を置いて、階を下りた。二人はしばらく、拝殿の前に並んで立った。境内はもうすっかり明るくなって、椎の木の葉が、朝日を受けて、一枚一枚ちがう緑に光っていた。どこかで、鳥がにぎやかに鳴き交わしていた。夜のあいだ黙っていた町が、いま目を覚まそうとしている気配が、山の下のほうから、うっすらと立ちのぼってくる。

「もう、朝ですね」と女は言った。

「もう、朝です」

「わたし、帰ります」

「どちらへ」

女は、少しためらった。

「――分かりません」と、正直に言った。「帰る家はあるんです。でも、そこに帰っていいのか、まだ分からなくて。昨日、家を出てきたので。もう戻らないつもりで」

千歳は、それ以上は聞かなかった。事情を聞き出すのは、彼女の役目ではない。人はときどき、事情ごと社に来る。事情を置いていく者もいれば、持って帰る者もいる。どちらでもいい。神さまは、事情を裁かない。ただ、来た者を、来たとおりに受ける。

けれど、女のほうが、ぽつりと、続けた。聞かれたからではなく、話すつもりもなかったのに、口から出てしまった、という言い方だった。

「昨日、母と、けんかをして」

千歳は、黙って、次を待った。

「もう長いこと、うまくいっていなかったんです。母とは。何を言っても、通じなくて。昨日、とうとう――言ってはいけないことを、言ってしまいました。母のいちばん、痛いところを。母が、いちばん言われたくなかったことを、わたし、わざと選んで、言ったんです」

女は、うつむいた。

「言ったあとの、母の顔が、忘れられなくて。それで、家を飛び出して。もう、あの家には帰れないと思いました。あんなことを言った口で、どんな顔をして帰ればいいのか、分からなくて」

「言ってしまったことばは」と千歳は、ゆっくりと言った。「もう、戻せません。それは、そうです」

女は、顔を上げた。慰めを、彼女は期待していなかったのだろう。むしろ、その正直なことばに、少し救われたような顔をした。

「でも」と千歳は続けた。「ことばは戻せなくても、次のことばは、まだ言えます。あなたが、お母さまのいちばん痛いところを知っているのは、それだけ長く、そばにいたからでしょう。よく知らない人の、痛いところは、突けません。突けるほど、あなたは、お母さまを知っている。それは、憎んでいるのとは、少しちがう気がします」

女の目に、また水が盛り上がった。

「わたし、母を、憎んでいるんでしょうか」

「それは、わたしには分かりません」と千歳は正直に言った。「でも、憎んでいる相手のために、夜通し歩いて、社の前で手を合わせる人は、あまりいないように思います。あなたは昨日の夜、賽銭箱の前で、何をお願いしたらいいのか分からなかった、とおっしゃった。分からなかったのは、お願いすることが、なかったからではなくて。多すぎたからでは、ないですか」

女は、答えなかった。答えのかわりに、ひとしずく、涙が落ちた。今度は、こらえなかった。落ちるにまかせた。それは、朝の光のなかで、石畳に落ちて、小さな染みをつくり、すぐに乾いた。

「手袋を」と千歳は言った。「はめて、お帰りなさい」

女は、握りしめていた片方の手袋を見た。それから、賽銭箱の脇に落ちていたほうの――今朝、千歳が拾ったほうの――手袋を、右手にはめた。そして、駅で夜通し握りしめていたほうを、左手にはめた。

両手が、そろった。

生成りの毛糸の、少しほつれた、祖母の編んだ手袋。それが、女の両手にそろって収まった。彼女は、その両手を、目の前でそっと合わせた。手袋をはめた両手を。まるで、もう一度、祈るように。あるいは、そのそろったことを、ただ確かめるように。

「そろいました」と、彼女はつぶやいた。

「そろいました」と、千歳も言った。

女の目に、また涙が盛り上がった。けれど今度のそれは、こぼれなかった。彼女は手袋をはめた手の甲で、目のふちを、そっと押さえた。毛糸が、涙を吸った。

女が帰ろうとして、鳥居のほうへ数歩あるいたところで、千歳は彼女を呼び止めた。

「あの」

女が振り返った。

千歳は、白衣の袂から、小さなものを取り出した。藍色の、マッチ箱だった。ごく小さな、三日月がひとつ刻まれた、藍色の紙の箱。彼女はそれを、しばらく手のひらの上でころがした。

「これを、お持ちになりますか」

女は、それを見て、少し首をかしげた。

「マッチ箱、ですか」

「月光堂、というところのものです」と千歳は言った。「もう、ずいぶん前に、いただいたものですが。父が、大切にしていて。神棚の隅に、ずっと置いてありました。なんでも、これで火を灯すと――いえ、これはただの言い伝えですけれど」

「言い伝え」

「困ったことがあったときに、これで一本、火を灯すと。その火が消えるまでのあいだだけは、どんなことでも、決めずにいていい、のだそうです。火が消えるまでは、何も決めなくていい。ただ、火を見ていればいい。決めるのは、火が消えてから」

女は、その小さな藍色の箱を、千歳の手のひらから見つめた。

「決めるのは、火が消えてから」と、彼女は繰り返した。

「マッチ一本の火は、すぐに消えます」と千歳は言った。「ほんの、いっとき。でも、いっときだけでも、何も決めずにいられる時間があるというのは――ときどき、大事なことのように思うのです。あなたはさっき、どこへ帰るか分からない、とおっしゃった。それでいいのだと思います。いま、決めなくていい。火が消えるまでは」

女は、そのマッチ箱を、まだ受け取らずにいた。彼女は、少し首をかしげて、こう尋ねた。

「宮司さんは、灯したことが、あるんですか。その火を」

千歳は、少し驚いた。そんなふうに問い返されたのは、はじめてだった。彼女は、その問いを、しばらく手のなかでころがした。父がマッチ箱をころがしたのと、同じように。

「――一度だけ」と、彼女は言った。「父が逝った夜に」

女は、黙って、次を待った。

「父が逝って、この社を、どうするか、決めなければなりませんでした。継ぐか、たたむか。わたしには、荷が重すぎました。継ぐには、何もかも足りない。たたむには――たたむには、しのびない。どちらも決められないまま、父の神棚から、このマッチ箱を下ろして。それで、一本、灯したんです。夜の、拝殿で」

「火が、消えるまで」

「火が、消えるまで」と千歳はうなずいた。「ほんの、二十を数えるほどの、いっときでした。でも、そのいっときのあいだに、わたしは、何も決めませんでした。ただ、火を見ていました。炎が、揺れて、細くなって、消えていくのを。そして、火が消えたとき――気がついたら、わたしは、もう決めていました。継ぐ、と。決めたのではなくて、気がついたら、決まっていた。火が、そう教えてくれたわけではありません。ただ、決めずにいられる時間を、いっとき、くれただけです。決めずにいるあいだに、答えのほうが、静かに現れてきたんです」

女は、そのはなしを、じっと聞いていた。それから、しばらく黙っていた。それから、手を伸ばして、その藍色のマッチ箱を受け取った。手袋をはめた手で、そっと。

「いただいて、いいんですか。お父さまの、大切なものを」

「父はもう、火を必要としませんから」と千歳は言った。「それに、こういうものは、いちばん必要としている人のところへ行くのが、いちばんよいのです。神棚の隅で埃をかぶっているよりは」

女は、マッチ箱を胸のあたりで握りしめた。片方だけだった手袋と、同じ握り方で。けれど今の手袋は、片方だけではなかった。

「ありがとうございます」

女は、鳥居をくぐる前に、もう一度、拝殿を振り返って一礼した。

それから、鳥居の下で、外に向かって、また一礼した。作法は、はじめから終わりまで、正しかった。祖母が教えたのだろう。編み物は下手だったかもしれないが、礼の教え方は、きっと丁寧だったのだ。

鳥居の外の石段のところで、女は一度だけ立ち止まった。朝日が、彼女の全身を照らしていた。コートの裾の、夜露と土埃の斑も、その光のなかでは、もう汚れには見えなかった。ただ、長い夜をあるいてきた者の、しるしのように見えた。

千歳は、境内の内側から、その後ろ姿を見送った。

女が、ふと、口を開いた。石段を下りながら、小さな声で、何かを口ずさんでいる。千歳の耳に、それは届くか届かないかの音量だったが――たしかに、あの旋律だった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

女は、それを歌っていた。無意識に、だろう。祝詞のあいだに、あの子守唄の抑揚が、千歳の声のどこかに沈んでいたことに、女もまた、気づかぬまま触れていたのかもしれない。人が音を継ぐとき、意味よりも先に抑揚が継がれる。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。祖母から、母へ。母から、娘へ。あるいは、朝の社で、名も知らぬ宮司から、名も知らぬ参拝者へ。

星は、もう海をわたりきっていた。彗星は、陽のなかに消えていた。夜が置いていったものを、朝が、ひとつずつ、引き受けていた。

女の姿が、石段の下の角を曲がって、見えなくなった。

千歳は、竹箒を手に取った。

まだ、掃除の途中だった。女が来る前に、彼女は摂社まで掃いて、折り返したところだった。残っているのは、椎の木の根方と、鳥居の内側の広場だ。彼女は掃除に戻った。しゃっ、しゃっ、と穂先が石畳を撫でる。落ち葉を寄せて、塵を外へ、鳥居の外へ、送り出していく。

賽銭箱の脇を掃くとき、彼女はふと、手を止めた。

そこには、もう手袋は落ちていなかった。当たり前だ。あれは、女の手に、両方ともそろって収まって、鳥居の外へ帰っていった。片方だけだったものが、そろって、帰っていった。それでいい、と千歳は思った。片方だけの手袋が、いつまでも賽銭箱の脇に落ちているよりは、ずっといい。

彼女は掃除を終えた。

朝の勤めには、まだ続きがある。

神饌を供え、朝の御饌をあげ、社務所を開けて、それから一日が始まる。参拝の人がぽつぽつと来はじめる。通勤の途中で立ち寄る者、犬の散歩の帰りに手を合わせていく老人、受験を控えた子を連れた母親。それぞれが、それぞれの持ち場へ出かけていく前に、あるいは持ち場から帰る途中で、この社に寄る。人は、一日のはじまりに、何かに手を合わせずにはいられない生きものなのだ、と千歳は思う。手を合わせるというのは、これから出かけていく、という合図なのかもしれない。合図をしてから、人は出立する。

社務所の戸を開けて、彼女は框に腰を下ろした。

朝日が、いまはもう、境内のすみずみまで届いていた。手水舎の竜が、口から落とす水の筋が、光を受けて、きらきらと切れ切れに輝いていた。あの疲れた竜も、朝の光のなかでは、少しだけ、若やいで見えた。

彼女は、女のことを思った。

どこへ帰るのだろう。帰る家はある、と言った。でも、帰っていいのか分からない、とも言った。マッチ箱を、持たせた。火が消えるまでは、何も決めなくていい。あの言い伝えが本当かどうか、千歳は知らない。父がどこから聞いてきた話なのかも、知らない。ただ、あの藍色の小さな箱には、たしかに何か、人を落ち着かせるものがあった。三日月がひとつ刻まれた、月光堂の青いマッチ箱。父は、それを大切にしていた。困ったことがあると、神棚からそれを下ろして、しばらく手のひらでころがしていた。火を灯すことは、めったになかった。ただ、手のひらのなかで、ころがしていた。それだけで、父はたいてい、落ち着いた。

決めるのは、火が消えてから。

もしかすると、と千歳は思う。もしかすると、あの言い伝えの本当の意味は、火を灯すことにあるのではなくて、火が消えるのを待つ、その待つ時間のなかにあるのかもしれない。人は、待っているあいだに、たいていのことを、もう心のどこかで決めてしまっている。火が消えるころには、答えは、もうそこにある。火は、答えを教えてくれるのではなくて、すでにある答えに、気づくまでの、いっときの猶予をくれるだけなのだ。

あの女は、火を灯すだろうか。

灯しても、灯さなくても、いい、と千歳は思った。どちらでも、彼女はきっと、帰るべきところへ帰る。片方だけだった手袋が、そろって帰っていったように。

昼近くになって、千歳は摂社の奥の、古い記録を仕舞っている棚を片づけていた。

季節ごとの神事の控えや、寄進の帳面や、そういうものが、ほこりをかぶって積まれている。父の字、祖父の字、それより前の、誰のものとも知れない字。彼女はときどき、それらを繰るのが好きだった。もう会うことのない人々の手が、そこに残っている。文字というのは、片方だけの手袋に似ている。書いた人はもういないのに、書かれたものだけが、片方だけ、残っている。

その帳面のあいだから、一枚の紙片が落ちた。

拾い上げると、父の字で、こう書いてあった。走り書きのような、覚え書きのような。

「月光書房、来たる。彗星の夜。買いしは古き子守唄の楽譜一冊。眠れ眠れ星が海をわたるまで。翌朝、店は無し。夢か」

千歳は、その紙片を、しばらく見つめた。

月光書房。聞いたことのない名だった。書店の名だろうか。彗星の夜に来て、翌朝には無い店。父は、そこで子守唄の楽譜を買ったと書いている。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。あの子守唄の。祖母が歌い、父の覚え書きに残り、今朝、名も知らぬ女が石段を下りながら口ずさんでいた、あの歌の。

夢か、と父は書いていた。

夢だったのかもしれない。あるいは、夢ではなかったのかもしれない。彗星の夜にだけ現れて、朝には消える古書店。そんなものが、あってもなくても、父はそこで一冊の楽譜を手に入れて、それを――どうしたのだろう。楽譜は、どこにも見当たらなかった。けれど、その旋律だけは、たしかに残っている。父の覚え書きのなかに。そして、千歳自身の、祝詞の音の底に。

千歳は、その紙片の日付を見た。日付はなかった。ただ、彗星の夜、とだけ書いてある。ミラ彗星が、前に来たのは、いつだったろう。何十年も前のはずだ。父がまだ若かったころ。もしかすると、千歳が生まれる前かもしれない。あるいは、母がまだこの社にいたころか。父は、その夜、ひとりで町へ下りていったのだろうか。それとも、母と、二人で。彗星の夜に現れる古書店で、子守唄の楽譜を買った父。それを、誰かに歌ってやろうとしたのだろうか。生まれてくる子に。あるいは、もう生まれていた、千歳に。

考えても、分からない。分からないことは、分からないままにしておく。それも、掃除に似ている。すべてを掃ききることはできない。掃ききれないものは、隅に、そっと残しておく。水盤の底の椎の実のように。父の覚え書きの、この一枚のように。残しておいたものが、いつか、思いがけないときに、意味を持つことがある。今朝のように。名も知らぬ女が、石段を下りながら、その旋律を口ずさんだ、あの一瞬のように。

彼女は紙片を、そっと帳面のあいだに戻した。

片方だけ残るもの、というのは、案外、この世に多い。手袋も、文字も、旋律も、記憶も。対になっていたはずのものの、片方だけが、いつまでも残る。それは寂しいことのようでいて、けれど――千歳は思う――片方だけでも残っているということは、いつかまた、もう片方が現れるかもしれない、ということでもある。今朝の手袋がそうだったように。片方だけで賽銭箱の脇に落ちていたものが、駅で夜を明かしたもう片方と、朝の社で、めぐりあった。

そろうときは、そろう。

夕方、境内を閉める前に、千歳はもう一度、賽銭箱の前に立った。

一日ぶんの賽銭を集めて、社務所へ運ぶのが、閉めの勤めのひとつだ。彼女は箱の中をのぞいた。何枚かの硬貨と、それから、折りたたまれた小さな紙片が一枚。

紙片を開くと、そこには、細い、けれど落ち着いた字で、こう書いてあった。

「今朝は、ありがとうございました。帰りました。ちゃんと、帰りました。火は、まだ灯していません。灯さなくても、決められました。手袋が、そろっていたから」

署名は、なかった。

千歳は、その紙片を、しばらく手のひらにのせていた。今朝の女が、帰る途中で、あるいは帰り着いてから、もう一度、社の前を通って、これを入れていったのだろう。ちゃんと、帰りました。二度書かれたその「帰りました」に、彼女がどんな一日を過ごしたのか、何を決め、何を許し、何に許されたのか、そのすべてが折りたたまれているような気がした。事情は、聞かなかった。聞かなくて、よかった。

火は、まだ灯していません。灯さなくても、決められました。

千歳は、微笑んだ。

やはり、そうなのだ。火は、答えを教えてくれるのではない。すでにある答えに、気づくまでの猶予をくれるだけ。あの女は、火を灯すまでもなく、答えに気づいた。手袋が、そろっていたから。片方だけだったものが、そろったから。そろったものを、両手にはめて、彼女は帰る場所へ帰っていった。

夜が、また来ようとしていた。

千歳は境内を閉め、拝殿の灯りを消し、最後にもう一度、鳥居のところまで歩いた。東の空を見上げたが、もう彗星はいなかった。今朝、陽のなかに溶けて消えた、あの蒼白い尾は、二度と――少なくとも彼女が生きているあいだには――戻ってこない。次に来るときには、わたしたちはもう、誰も。今朝、女にそう言った自分の声を、彼女は思い出した。

けれど、と千歳は思う。彗星は消えても、それを見た人の記憶は残る。今朝、駅のホームで夜通しそれを見ていた女がいた。父の覚え書きにも、彗星の夜のことが残っている。片方だけの記憶。片方だけの光。それでも、残る。残るものは、いつか、もう片方とめぐりあうかもしれない。

彼女は、白衣の袂から、もう一度、あの――いや、あのマッチ箱は、もう手放したのだった。女に持たせた。彼女の袂には、もう、月光堂の青いマッチ箱はない。けれど、なくても、いい。父がそうであったように、ころがすべきものが手のなかになくても、彼女はもう、落ち着いていられる。ころがしていたのは箱ではなくて、待つ時間のほうだったのだから。

鳥居の下で、千歳は一礼した。外に向かって、深く。

塵を外へ。夜が置いていったものを、朝が引き受け、朝が果たしきれなかったものを、また夜が引き取っていく。そのくりかえしのなかで、片方だけのものが、いつか、そろう。そろわないものも、ある。それでも、掃除は、明日もある。水は、明日も替える。祝詞は、明日もあがる。

彼女は下駄を鳴らして、石段を上った。

翌朝も、千歳は夜明けのいちばん薄いところで、拝殿の裏戸を開けた。

空には、もう彗星はいなかった。ただ、星が三つ四つ、まだ残っていて、それらもじきに、昇る陽のなかへ、ひとつずつ消えていくのだろう。彼女は白衣の袖をひとつ払い、下駄をつっかけて、外に出た。

竹箒を手に取り、賽銭箱の前から、掃除を始めた。

しゃっ、しゃっ、と穂先が石畳を撫でる。夜のあいだに落ちた葉を、細い枝を、蜘蛛の巣の切れ端を、彼女は一枚一枚、拾い直していく。賽銭箱の脇には、今朝は、何も落ちていなかった。手袋も、紙片も、なにも。ただ、掃き寄せた落ち葉のひと山が、朝日を待って、そこにあった。

彼女は掃いて、掃いて、鳥居に向かって掃いていった。塵を外へ。

そのとき、山の縁が白んで、その日いちばんの光が、まっすぐに境内へ差しこんできた。手水舎の竜の口が、光った。竜が吐きつづける水の筋が、きらきらと切れ切れに輝いた。千歳は箒を止めて、しばらく、その光を見た。

朝は、毎日、はじめて来る。

昨日の朝と、今日の朝は、似ているようでいて、決して同じではない。昨日そこにあった彗星は、今日はもういない。昨日ここに来た女は、今日はもう、自分の持ち場へ帰っている。それでも、朝は来る。水は冷たく、清く、竜の口から落ちつづける。祝詞の音の底には、子守唄が沈んでいる。片方だけのものは、いつか、そろうかもしれない。

千歳は、また箒を動かしはじめた。

しゃっ、と穂先が鳴った。それは、掃くというよりも、囁くのに近い音だった。夜明けのいちばん薄いところで音を持たなかった水が、いまは光を受けて、たしかに音を立てて、落ちていた。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

← 『出立の物語』目次へ