水を汲む刻
水を汲む刻
夜明けの前、砂漠がいちばん青くなる刻がある。
その青のなかで、少年は井戸の縁に腰かけて水音を聞いていた。緑洲(オアシス)の井戸は深く、投げ入れた革の桶が水面に触れるまで、いくつ数を数えたか忘れるほどの間があった。桶が落ちてゆく音、それが水を打つ音、綱がきしみながら巻き上がる音——ハリドはその三つの音を、母の子守唄よりもよく覚えていた。母の顔はもう霞んでいるのに、水の音だけは澄んでいた。
町は井戸を中心に眠っていた。日干し煉瓦の家々が幾重にも身を寄せあい、棗椰子(なつめやし)の梢がまだ黒々と空を刺していた。星はほとんど落ちきって、東の際だけが乳色に滲みはじめている。その滲みのなかに、一筋、青白い光の尾が残っていた。
ミラ、と誰かが呼ぶ星だ。
長い長い尾を引いて、彗星は天の川の縁を渡っていく。夜のあいだはもっと鮮やかに、氷を溶かしたような蒼白い光で砂の海を照らしていたのに、いまはもう昇る陽に喰われかけて、絹の切れ端ほどに薄れていた。ハリドはそれを見あげ、あと幾夜見えるだろうと思った。老人たちは言う——ミラが空を渡るあいだに旅立った隊商は、必ず帰ってくると。ミラが道を教えるからだ、と。
「水はもう汲んだか」
背後で声がした。振り向くと、隊商頭(かしら)のヤクブが立っていた。灯火を持たず、それでいて闇のなかを迷わず歩いてくる。褐色の顔は皺の一本一本に砂が積もったようで、目だけが井戸の底の水のように動いていた。
「はい、頭。二十の革袋、みな満たしました」
「舐めてみたか」
「え」
「舐めてみたか、と訊いた。緑洲の水は井戸ごとに味が違う。舌が味を覚えていれば、砂の海で迷ったとき、どちらへ帰ればいいかがわかる」
ハリドは慌てて掌に水を掬い、口に含んだ。ほのかに鉄と土の味がして、それから、なぜか蜜のような後味が舌の奥に残った。
「甘い」と彼は言った。
ヤクブはかすかに笑った。「そうだ。ここの水は甘い。だから人はここに町を築いた。覚えておけ。おまえの舌が、この甘さを忘れる日が来る。そのときはもう、若くはない」
ハリドが隊商に加わったのは、三日前のことだった。
父はいない。母もいない。彼を育てた叔父は瓦職人で、掌はいつも乾いた粘土の匂いがした。叔父は悪い人間ではなかったが、甥をひとり養うだけの余裕はなかった。だから隊商が緑洲に着いたと聞くと、叔父はハリドを連れて宿営地へ行き、ヤクブの前に立たせた。
「駱駝の扱いを教えれば覚えます。足も速い。水も飲まずに一日歩けます」
叔父はそう言って、まるで駱駝を売るように甥を売り込んだ。ヤクブはハリドの手を取り、掌を裏返し、爪の割れ方を見た。それから目を覗きこんだ。
「怖いか」とヤクブは訊いた。
「何がです」
「砂の海だ。おまえは砂しか知らずに生きてきたが、緑洲の砂と、砂の海の砂は違う。緑洲の砂は人の足あとを覚えている。海の砂は何も覚えない。おまえの足あとも、おまえの死も、風がひと吹きすれば消える。それが怖いか」
ハリドは考えた。正直に答えるべきだと思った。
「怖いです。でも、もっと怖いのは、一生この町の水音だけを聞いて死ぬことです」
ヤクブは長いあいだハリドを見つめ、それから叔父に向かって頷いた。銀貨が二枚、叔父の手に渡った。それでハリドは、隊商のものになった。
隊商は二十七頭の駱駝と、十四人の男と、二人の女で成っていた。積荷は緑洲で仕入れた棗椰子の実と、乾した無花果(いちじく)と、藍で染めた木綿の反物。それを砂の海の向こう、七日の道のりの先にある別の緑洲——サマルカという名の、市の立つ町へ運ぶのだという。帰りには塩と、鉄と、遠い山の琥珀を積んで戻る。
「七日」とハリドは呟いた。それは彼にとって、永遠に等しい長さだった。緑洲の外れの丘まで歩いても半日、生まれてこのかた、彼が町を離れた最も遠い距離がそれだった。その丘の上から見た砂の海は、地平の彼方まで続く、渡ることのできない禁忌の広がりだった。子供のころ、彼はその丘に立って、砂の海の向こうには何があるのかと、幾度も想像した。別の町。別の海。別の空。だが想像は、いつも砂の白さのなかで溶けて消えた。想像するには、砂の海はあまりに広すぎた。
その海を、これから渡る。
叔父が去るとき、ハリドは一度だけ振り返った。叔父は片手を挙げ、それから背を向けて、緑洲の路地へ消えていった。粘土の匂いのする、あの掌。ハリドを育て、そして手放した掌。叔父を責める気持ちは、なかった。叔父もまた、生きるのに精いっぱいだった。この緑洲では、誰もが、生きるのに精いっぱいだった。水を汲み、棗椰子を育て、日干し煉瓦を焼き、そうしてかろうじて、砂に呑まれずにいた。緑洲とは、砂の海のただなかに浮かぶ、小さな筏(いかだ)のようなものだった。その筏の上で、人は身を寄せあって、風の来ない夜を祈って眠った。
だがハリドは、筏を降りることを選んだ。自ら、砂の海へ漕ぎ出すことを。
その夜、彼は宿営地の隅にうずくまって眠ろうとしたが、眠れなかった。駱駝たちの寝息、遠くの犬の吠え声、天幕を叩く夜風。すべてが、これから始まる旅の前触れのように聞こえた。彼は目を閉じ、母の子守唄を思い出そうとした。だが、旋律の途中で、いつも記憶が途切れた。母が死んだのは、彼が六つのときだった。歌の続きは、母と一緒に、砂の底に埋もれてしまったのだ。
出立の支度は、まだ星のあるうちから始まっていた。
宿営地には松明が焚かれ、駱駝たちが不機嫌そうに唸っていた。駱駝は朝が嫌いなのだ、と年嵩の駱駝曳きが教えてくれた。人間と同じでな、と。荷を負わされるのが嫌なのは、人も獣も変わらない。
ハリドに割りあてられたのは、隊列の後尾を歩く三頭だった。いちばん若い牝駱駝と、その母と、荷をいちばん多く負う去勢された牡。若い牝は気が荒く、ハリドが綱を取ろうとするたびに首を振り、唾を吐きかけてきた。
「ザフラだ」と誰かが言った。
見ると、痩せた男が松明のそばに立っていた。歳のころは三十ばかり、片方の目に古い傷があって瞼が半ば閉じている。腰に湾曲した短剣を差し、旅装の胸もとには青い布切れを縫いつけていた。
「その牝の名だ。おれがつけた。ザフラ——花、という意味だ。気は荒いが、いちばん賢い。砂嵐の来る前は、こいつが最初に空を嗅ぐ」
男はイドリースと名乗った。隊商のなかでも古株で、ヤクブに次いで砂の海を知る者だという。
「おまえ、初めての旅か」
「はい」
「ならひとつ教えておく。砂の海では、後尾を歩く者がいちばん多くを見る。前を行く者たちの足あと、落とし物、諍い、隠しごと——みな砂に残る。おまえは後尾だ。だから、見たことをすぐ口にするな。砂に埋めておけ。それが後尾を歩く者の掟だ」
イドリースはそう言うと、片手をハリドの肩に置いた。その手には手袋がはめられていた。だが、片方だけだった。右手には古びた革の手袋、左手は剥き出しのまま。ハリドの視線に気づいて、イドリースは左手を軽く振ってみせた。
「対の片方をなくした。砂の海のどこかにな。もう十年も前のことだ。だが不思議なもので、片方だけになると、かえって捨てられん。なくした片方を、まだ探しているような気がしてな」
彼は笑ったが、その笑いには何か、ハリドにはまだわからない重さがあった。
「駱駝の綱は、こう握れ」とイドリースは話を変えた。ハリドの手を取り、綱の握り方を教えた。「強く握るな。強く握れば、駱駝は反発する。ゆるく、だが離すな。恋人の手を握るように——といっても、おまえはまだ、女の手を握ったこともなかろうが」
イドリースは笑い、ハリドは顔を赤らめた。
「駱駝は、賢い獣だ」とイドリースは続けた。「人が思うより、ずっと賢い。人の心を読む。おまえが怖がっていれば、駱駝も怖がる。おまえが落ち着いていれば、駱駝も落ち着く。だから、砂の海で何が起きても、駱駝の前では、怖がるな。心のなかで震えても、手だけは、震えるな。手が震えれば、綱を伝って、駱駝に伝わる。駱駝が乱れれば、隊列が乱れる。隊列が乱れれば、みなが死ぬ。後尾のおまえの手ひとつが、二十七頭と、十六人の命を、握っているのだ」
ハリドは、綱を握る自分の手を見つめた。細い、まだ子供のような手。この手が、そんなにも重いものを握っているのか。彼は、その重さを、初めて感じた。恐ろしかった。だが、その恐ろしさの底に、かすかな誇らしさが芽生えるのを、彼は感じた。誰かの命を握るということ。それは、緑洲で瓦を運んでいたころには、決して味わえなかった重さだった。
ヤクブが号令をかけたのは、東の空が薔薇色に染まりはじめたときだった。
「発つぞ」
駱駝たちが一斉に立ちあがった。荷が軋み、鈴が鳴り、砂が舞った。ハリドは慌てて三頭の綱をまとめ、隊列の後尾についた。前を行く駱駝たちの尻が、松明の消えた薄明のなかで揺れていた。
緑洲の外れまで来ると、町はもう振り返らなければ見えなかった。棗椰子の梢が、朝陽を受けて金色に燃えていた。井戸の水音は、もう聞こえなかった。
そして、砂の海が始まっていた。
それは海だった。ほかに言いようがなかった。うねる砂の丘が地平の果てまで続き、風が丘の稜線から絶えず砂の穂を吹き飛ばしていた。朝陽はまだ低く、砂丘の東の斜面を橙に染め、西の斜面を紫の影に沈めていた。光と影が交互に走り、それはまるで凍った波のようだった。
「見ろ、あれを」
イドリースが空を指した。ハリドが見あげると、まだ薄れきらぬ空の高みに、あの青白い尾があった。ミラだ。昇る陽のなかに溶けかけて、それでもなお、細く長く、南へ向かって尾を引いていた。
「あれが道だ」とイドリースは言った。「サマルカは、ミラの尾の指す先にある。夜はもっとよく見える。だが夜明けのこの一瞬、陽とミラが同じ空にいる刻——このときの尾の傾きを、頭は毎朝測る。ミラが少しずつ空を移るのに合わせて、おれたちも進む向きを直すのだ。彗星が旅の連れになるのは、一年に一度、この季節だけだ」
「彗星が消えたら、どうやって道を見つけるのですか」
「消える前に、着く。ミラが空を渡りきる前に、おれたちはサマルカに着く。それが隊商の掟だ。ミラより早く、あるいはミラと共に。遅れれば——」
イドリースは言葉を切った。
「遅れれば?」
「砂に埋もれる」
一日目
最初の一日は、ただ歩くことだった。
砂は歩くたびに崩れ、足を取った。駱駝はそれを知っていて、丘の稜線を選んで歩いた。稜線の砂は締まっていて、崩れにくいのだ。ハリドはそれを見て学び、自分も駱駝の足あとを踏んで歩いた。
歩きながら、ハリドは前を行く男たちを観察した。後尾を歩く者はすべてを見る、とイドリースは言った。だから彼は、見た。
隊列の先頭を歩くのは、ヤクブだった。頭は決して駱駝に乗らなかった。徒歩で、隊列より半歩先を歩き、絶えず南の空と、足もとの砂を、交互に見ていた。その次に、荷のいちばん重い駱駝を曳く、無口な男たちが続いた。彼らは兄弟だという。名をカマルとサリム。緑洲の生まれではなく、遠い港町の出だと聞いた。海——本物の、水の海を知る者たちだった。彼らは砂の海を「乾いた海」と呼び、駱駝を「陸の舟」と呼んだ。中ほどには、あの若いマンスールがいた。よく笑う男で、歩きながら鼻歌を歌い、ときおり後尾のハリドを振り返っては、白い歯を見せた。
「初めての旅は、地獄だぞ!」とマンスールは笑って叫んだ。「だが、二度目からは、天国だ! なぜだかわかるか? 一度、地獄を知ったからだ!」
男たちが、どっと笑った。ハリドも、つられて笑った。砂の海は恐ろしかったが、この男たちと歩いていると、恐ろしさが、少しだけ軽くなった。
陽が高くなると、砂の海は白熱した。橙の光は白い光に変わり、影は足もとに縮こまり、やがて消えた。空気そのものが揺れ、遠くの砂丘が水のように揺らめいた。
「蜃気楼だ」とイドリースが言った。「水に見えるだろう。あそこに緑洲があるように見える。だが、あれは嘘だ。砂の海は嘘をつく。喉が渇いた者ほど、嘘がよく見える。だから、革袋の水を飲め。嘘を信じる前に、本当の水を飲め」
ハリドは革袋の水を飲んだ。ぬるく、革の匂いがして、あの井戸の甘さはもうなかった。それでも彼は舌に集中して、井戸の甘さを思い出そうとした。ヤクブの言葉——舌が味を覚えていれば、帰る道がわかる。
昼のいちばん暑い刻、隊商は歩みを止めた。砂丘の影に駱駝を伏せさせ、大きな布を張って日陰を作り、男たちはその下に潜りこんだ。誰も口をきかなかった。喋ることは水を失うことだ、と誰かが呟いた。
ハリドは横になったが、眠れなかった。目を閉じると、緑洲の井戸が見えた。桶が落ちていく音、水を打つ音。そして母の子守唄。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
それは母がよく歌った歌だった。星が海をわたる——子供のころは、意味がわからなかった。星がどうやって海をわたるのか。だがいま、砂の海のただなかで、ハリドは思った。ミラだ。ミラが、この砂の海をわたっていく。母の歌の海とは、この海のことだったのかもしれない。
隣で、イドリースが目を開けていた。
「眠れないのか」
「はい」
「初めての者はみなそうだ。砂が怖い。静けさが怖い。だが、慣れる。慣れたときが、いちばん危ない。砂を怖がらなくなったとき、砂はおまえを喰う」
イドリースは片方だけの手袋をした右手で、砂を一掴みすくいあげ、指の間からこぼした。
「あんたは」とハリドは訊いた。「あんたは、なぜ砂の海を歩くのですか。こんなに危ないのに」
イドリースはしばらく答えなかった。砂がすっかりこぼれ落ちてから、彼は言った。
「探しものがある」
「手袋の、片方ですか」
イドリースは笑った。今度は本当に、可笑しそうに。
「そうかもしれん。そうでないかもしれん。おまえもいつか、砂の海で何かをなくす。そうしたら、なくしたものを探すために、また砂の海へ来る。隊商とは、そういう者たちの集まりだ。みな、砂に何かを埋めて、それを掘り返しに来ている」
二日目
二日目、隊商に加わっている二人の女のことを、ハリドは知った。
一人は老いた女で、名をナディアといった。薬草と傷の手当てを知る者で、隊商のなかで誰かが熱を出せば、彼女が苦い煎じ薬を飲ませた。もう一人は若く、顔を布で隠し、目だけを覗かせていた。名は誰も呼ばなかった。ハリドが尋ねても、男たちは口をつぐんだ。
夜、宿営の火のそばで、ハリドはその若い女が、こっそり隊列を離れて砂丘の陰へ行くのを見た。後尾を歩く者はすべてを見る、とイドリースは言った。ハリドは女のあとを追った。追ってはいけないと思いながら、足が動いた。
砂丘の陰で、女は布を外していた。月光——いや、ミラの光が、女の顔を照らしていた。彼女は若く、美しく、そして頬に、消えない刺青のような紋様があった。ハリドは息を呑んだ。その紋様には見覚えがあった。緑洲の外れ、誰も近づかない一族——「砂に呪われた者」と町の者が呼ぶ、あの一族の印だった。
女はハリドの気配に気づき、振り向いた。逃げようとするハリドを、彼女は静かな声で止めた。
「誰にも言わないで」
「あんたは……」
「そう。あなたが思っている通り。私はあの一族の娘。町では生きていけない。だから隊商に加わった。ヤクブは知っている。イドリースも。みな知っていて、黙っている。それが隊商の掟だから」
女は布を巻き直しながら言った。
「隊商はね、行き場のない者の海なの。町を追われた者、罪を犯した者、名前を捨てた者。砂の海は、そういう者たちだけが渡れる。だって砂は、何も覚えないから。過去を覚えないから。ここでは、みな、生まれ直せる」
ハリドは何も言えなかった。彼はただ頷き、そして、イドリースの言葉を思い出した。見たことをすぐ口にするな。砂に埋めておけ。
「埋めておきます」と彼は言った。「あなたのことは、砂に」
女の目が、布の隙間で、かすかに笑った。
「あなた、いい駱駝曳きになるわ」
戻る途中、ハリドはヤクブに出くわした。頭は砂丘の頂に立ち、南の空を見あげていた。ミラが、その夜はことのほか明るかった。青白い尾が天を斬り、砂の海に淡い影を落としていた。
「頭」とハリドは声をかけた。「訊いてもいいですか」
ヤクブは振り向かなかった。「訊け」
「隊商は……行き場のない者の集まりだと、聞きました。頭も、そうなのですか」
ヤクブは長いあいだ黙っていた。ミラの光が、彼の皺に青い陰影を刻んでいた。
「わしはな」と彼は言った。「若いころ、緑洲の町で人を殺した。相手が悪かった。町の長の息子だった。逃げるしかなかった。それで砂の海へ出た。四十年、わしは砂の海を渡り続けている。町へは、二度と帰れん」
ハリドは言葉を失った。
「だがな」とヤクブは続けた。「砂の海は、わしを裁かなかった。砂は、わしの罪を覚えていない。毎朝、陽が昇るたびに、砂はまっさらになる。人の足あとを消す。わしの罪も消す。だからわしは、生きていられる。ミラが空を渡るのを見るたびに、思うのだ。あの彗星も、きっと何かから逃げているのだと。だからあんなに遠くまで、休みなく駆けているのだと」
彼は懐から何かを取り出した。小さな、藍色の箱だった。三日月の刻印が、月光のなかで銀色に光った。
「火が要る」と彼は言った。「夜番の松明が消えかけている」
彼は箱を振り、蓋を開けた。それは擦り付け式の火口(ほくち)——小さな木の軸の先に、薬を練りつけたもの。ハリドが緑洲でも見たことのない、上等な品だった。ヤクブはその一本を箱の脇で擦った。ぱっ、と青白い炎が咲いた。ミラの光とよく似た、蒼い炎だった。
「月光堂の品だ」とヤクブは言った。「彗星の夜にだけ店を出す、古物商から買った。おかしな店でな。二度目に探しに行ったら、もう影も形もなかった。だが、このマッチだけは、砂の海でも湿気らん。不思議な品だ。一本擦るたびに、青い光が出る。ミラの色とそっくりだ」
彼は炎を、松明の脇に用意した油布に移した。炎が大きくなり、青から橙へと色を変えた。ヤクブは箱の蓋を閉じ、また懐へしまった。
「覚えておけ」と彼は言った。「火は、旅の命だ。水と火。このふたつがあれば、砂の海でも人は人でいられる。片方でも欠ければ、獣になる」
ヤクブは、しばらく火を見つめていた。それから、ハリドに向かって、ぽつりと言った。
「あの月光堂という店な。彗星の夜にだけ、緑洲の裏路地に現れる。青い天幕を張って、古い品ばかりを並べている。マッチ箱、砂時計、割れた鏡、片方だけの手袋、名前の消えた書物——みな、誰かがなくした品だ。店主は、老いた女でな。わしが火口を買ったとき、女はこう言った。『これは、なくさぬように。だが、なくしたときは、探さぬように。なくした品は、いつか、別の誰かの手に渡って、また火を灯す。それが、品の旅というものだから』とな」
ヤクブは、藍色の箱を、懐の上から、そっと押さえた。
「わしには、その言葉の意味が、長いあいだ、わからなかった。だが、砂の海を四十年渡って、ようやく、わかりかけている。品も、人も、旅をする。なくして、拾われて、また旅をする。わしらは、みな、誰かがなくした者だ。そして、隊商というのは、なくした者たちを、拾い集めた店のようなものだ。月光堂と、同じだ。彗星の夜に現れて、朝には、散っていく」
ハリドは、その言葉を、砂に埋めなかった。心のどこかに、留めておいた。
三日目
三日目、砂嵐が来た。
朝のうちは、何の兆しもなかった。陽は昇り、空は青く、隊列は稜線を選んで進んでいた。だが昼過ぎ、ザフラ——あの気の荒い若い牝駱駝が、突然足を止めた。首を高く上げ、鼻をひくつかせ、南の空を嗅いだ。
「来るぞ」とイドリースが叫んだ。「伏せろ! 駱駝を伏せさせろ! 荷を風下に!」
南の地平が、褐色に濁っていた。それは雲ではなかった。砂の壁だった。天と地のあいだを埋め尽くして、砂の壁が押し寄せてくる。ハリドは初めて見た。空が消えるということを。陽が呑まれるということを。
「布で顔を覆え! 目を閉じろ! 駱駝から離れるな! 離れたら、死ぬぞ!」
ハリドは三頭の駱駝のそばにしゃがみこみ、ザフラの脇腹に身を寄せた。駱駝は伏せて、首を砂に押しつけ、長い睫毛で目を守っていた。ハリドは布で顔を覆い、駱駝の温もりにしがみついた。
そして、砂の壁が来た。
それは音だった。まず、音が来た。無数の砂粒が触れあう、乾いた咆哮。次に、風。肌を打つ砂が、針のように痛かった。世界が消えた。陽も、空も、砂丘も、隣の駱駝さえも見えなくなった。ただ褐色の闇と、砂の咆哮だけがあった。
砂は、あらゆる隙間から入りこんできた。布で覆った顔の、わずかな隙間から。閉じた瞼の、睫毛の隙間から。口のなかにも、耳のなかにも、砂は入った。ハリドは息をするたびに、砂を吸った。喉が、砂で、ひりついた。彼は駱駝の脇腹に、いっそう強く身を寄せた。ザフラの体は、砂嵐のなかで、唯一の、確かなものだった。温かく、生きていて、鼓動があった。ハリドは、その鼓動に、自分の鼓動を、重ねようとした。
ハリドは母の歌を思い出した。それしか、しがみつくものがなかった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、夜が朝になるまで。
彼は歌った。声は砂に呑まれて、自分の耳にも届かなかった。それでも歌った。歌っているあいだは、怖くなかった。ザフラの脇腹が、彼の歌に合わせるように、ゆっくりと上下していた。
どれほどの時が経ったか、わからなかった。
やがて、音が遠のいた。風が弱まった。ハリドが恐る恐る布を外すと、砂の壁は北へ去っていくところだった。空が、また現れた。だが、その空はもう夕暮れの色をしていた。半日が、砂嵐のなかで消えていた。
隊列は、めちゃくちゃになっていた。駱駝たちは砂に半ば埋もれ、荷はあちこちに散乱していた。男たちが砂を掘り起こし、互いの名を呼びあっていた。
そして——一頭の駱駝と、一人の男が、いなくなっていた。
いなくなったのは、隊列の中ほどを歩いていた若い男と、その駱駝だった。マンスールという名の、まだ二十歳ほどの男だった。砂嵐のあいだに、駱駝ごと吹き飛ばされたのか、それとも道に迷ったのか、誰にもわからなかった。
ヤクブは砂丘の頂に立ち、四方を見渡した。だが、砂嵐が地形を変えていた。昨日まであった砂丘は消え、なかった砂丘が生まれていた。足あとは、すべて消えていた。砂は、何も覚えていなかった。
「捜しに行きましょう」とハリドは言った。「まだ遠くには行っていないはずです」
ヤクブは首を振った。「捜さない」
「なぜです! 生きているかもしれないのに!」
「掟だ」とヤクブは言った。その声は静かだったが、鉄のようだった。「隊商は、はぐれた者を捜さない。捜せば、捜す者もまた迷う。一人を救おうとして、二十六人が死ぬ。それが砂の海だ。マンスールも、それを知って隊商に加わった。みな、知っている」
ハリドは拳を握りしめた。「そんなの、掟なんて……」
「掟がなければ」とイドリースが割って入った。「隊商は成り立たない。掟は、冷たい。だが、掟があるから、残った者は生きられる。ハリド、おまえもいつか、はぐれる側になるかもしれん。そのとき、おまえは、捜されないことを願え。仲間を巻き添えにしないことを願え。それが、砂の海で生きる者の、最後の優しさだ」
その夜、隊商は火を焚かなかった。マンスールのために、誰も歌わなかった。ただ、砂に半分埋もれた彼の落とし物——片方だけの手袋が、砂丘のうえに残されていた。誰かが拾い、イドリースに渡した。イドリースはそれを、自分の懐へしまった。
「あんた、それを」とハリドは言いかけた。
「ああ」とイドリースは言った。「また、片方だけの手袋が増えた。砂の海は、いつも片方だけを残していく。対の片方は、いつも砂の底だ」
彼は空を見あげた。ミラが、その夜も南の空を渡っていた。青白い尾が、少しだけ、昨日より低くなっていた。彗星は、確実に、空を渡り終えようとしていた。
「急がねばならん」とイドリースは呟いた。「ミラが沈む前に、着かねば」
四日目
マンスールを失った隊列は、静かだった。
ハリドは眠れなかった。掟という言葉が、喉に刺さった魚の骨のように、いつまでも取れなかった。彼は夜明け前、砂丘の頂に登り、東の空が青くなるのを待った。
そして、彼はそこに、あの女——名前のない、砂に呪われた一族の娘を見た。彼女もまた、眠れずに空を見あげていた。
「マンスールは」と彼女は言った。「私と同じだった。町を追われて、隊商に来た。彼は……私に、サマルカに着いたら、一緒に新しい町で暮らそうと言った」
ハリドは、何も言えなかった。
「掟を憎まないで」と彼女は言った。「掟は、マンスールを見殺しにした。でも、掟がなければ、マンスールと私は、そもそも隊商に加われなかった。町では生きられない私たちを、砂の海だけが受け入れてくれた。掟は、冷たくて、優しいの。両方なの。砂の海と、同じ」
東の空が、乳色に滲みはじめた。その滲みのなかに、ミラの尾があった。夜明けに薄れゆく、青白い名残。
「あの彗星ね」と女は言った。「私の一族は、ミラを『渡り星』と呼ぶの。どこにも留まれず、永遠に空を渡り続ける星。私たちの一族の祖先も、そうだったと言い伝えられている。町から町へ、追われて、追われて、けれど、どこかに帰る場所があると信じて。だから私は、あの星を見ると、独りじゃない気がする」
彼女は立ちあがり、布で顔を覆った。
「マンスールも、いまはあの星と一緒にいるといい」と彼女は言った。
彼女が去ったあと、ハリドは空に残るミラを見つめた。昇る陽が、青白い尾を少しずつ溶かしていく。彼は、母の子守唄を、小さく口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
そのとき初めて、彼は歌の続きを思い出した。母は、こう歌っていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
朝が来たなら、星は消え、
けれど、また夜が来たなら、
星は、必ず、帰ってくる。
星は、帰ってくる。
ハリドは、その一行を、砂に埋めなかった。心の、いちばん深いところに、留めておいた。
五日目
五日目、水が尽きかけた。
砂嵐で失った荷のなかに、水袋が三つあった。二十のうち、三つ。それは隊商にとって、致命的ではないが、軽くもない損失だった。ヤクブは水の配給を減らした。一人一日、掌に三杯。それ以上は許されなかった。
喉が渇くと、蜃気楼がよく見えた。ハリドの目の前に、緑洲が現れた。棗椰子の梢、井戸、水音。あまりに鮮やかで、彼は思わず駱駝の綱を離しかけた。
「見るな」とイドリースが叱った。「あれは嘘だ。おまえの喉が見せる嘘だ。井戸を思い出せ。本当の井戸を。おまえの舌が覚えている、甘い水を」
ハリドは目を閉じ、あの井戸の水の味を思い出した。鉄と、土と、蜜のような後味。舌が、その味を覚えていた。ヤクブの言葉——舌が味を覚えていれば、帰る道がわかる。
「思い出せます」とハリドは言った。「甘い水を、思い出せます」
「なら、大丈夫だ」とイドリースは言った。「おまえは、まだ迷っていない」
その日の昼、隊列はひときわ長い休みを取った。水を減らした駱駝たちも、疲れていた。日陰の布の下で、男たちは黙って横たわり、浅い眠りに落ちていった。ハリドは眠れず、布の端から、白熱した砂の海を見ていた。
そのとき、彼は気づいた。喉の渇きが、人を無口にするのではない。渇きは、人を、正直にするのだ。喋る力さえ惜しむとき、人は、嘘をつく力も失う。だから砂の海では、誰も嘘をつかない。マンスールがいなくなったとき、ヤクブは掟を、冷たく告げた。だがそれは、嘘のない冷たさだった。町の人々が、笑顔の裏に隠す、あの温かい嘘とは、正反対のものだった。
ハリドは、緑洲の町を思った。叔父の、粘土の匂いのする掌。銀貨二枚と引き換えに、甥を手放した掌。あれは、裏切りだったのか。それとも、愛だったのか。町にいたころは、裏切りだと思った。だが、砂の海のただなかで、ハリドは思い直した。叔父は、ハリドを砂の海へ送り出すことで、ハリドに、緑洲の筏を降りる勇気を、与えたのかもしれない。自分では決して降りられなかった筏を。叔父は、それを知っていたのかもしれない。ハリドが、いつか、砂の海を渡りたがっていることを。
——舌が味を覚えていれば、帰る道がわかる。
ハリドは、緑洲の甘い水を、舌の記憶のなかで、もう一度飲んだ。そして、思った。いつか帰ったら、叔父に、この旅のことを話そう。砂の海の、白い光のことを。青いマッチの火のことを。ミラという、渡り星のことを。叔父は、粘土の匂いのする掌で、きっと、ハリドの肩を叩くだろう。よく、帰ってきた、と。
その夜、ハリドは眠る前に、駱駝のザフラのそばへ行った。この牝駱駝が、砂嵐を最初に嗅ぎ当てた。この牝が、彼の歌を聞いて、脇腹をゆっくり上下させた。ハリドは、ザフラの首を撫でた。
「おまえは」と彼は駱駝に囁いた。「帰る道が、わかるか」
ザフラは、長い睫毛の目でハリドを見た。そして、南の空を、鼻で示すように、首を向けた。ミラの尾の、指す先を。
「そうか」とハリドは言った。「おまえも、ミラを道しるべにしているのか」
六日目
六日目、遠くに、緑が見えた。
それは蜃気楼ではなかった。ハリドは初め、また嘘だと思い、目をこすった。だが、駱駝たちが騒ぎはじめた。首を高く上げ、足を速め、鼻を鳴らした。駱駝は、嘘には騒がない。本当の水にだけ、騒ぐのだ。
「サマルカだ」とイドリースが言った。その声に、初めて、疲れのなかの喜びが滲んでいた。「見えたぞ。ミラが沈む前に、間に合った」
緑の帯は、地平の果てに、細く長く横たわっていた。棗椰子の林。その向こうに、日干し煉瓦の町。そして、市の喧噪が、まだ聞こえないのに、聞こえるような気がした。
だが、まだ着いたわけではなかった。緑洲は、見えてから着くまでが遠い。砂の海は、最後の一日に、最も多くの旅人を殺す。着いたと思って気を緩めた者を、砂は喰う。ヤクブは配給を緩めなかった。隊列を乱すことも許さなかった。
「最後まで、掟を守れ」と彼は言った。「緑洲は、見えている。だが、見えていることと、着くことは違う。ミラが空にあるうちは、まだ旅の途中だ」
その夜、隊商は最後の宿営を張った。明日の朝には、サマルカに着く。男たちは、久しぶりに口をきいた。誰かが、着いたら何を食うかを語った。誰かが、着いたら誰に会うかを語った。名前のない女は、静かに火を見つめていた。マンスールのことを、思っているのだろう、とハリドは思った。
イドリースが、ハリドの隣に座った。
「明日、着く」と彼は言った。「おまえは、初めての旅を終える。どうだった、砂の海は」
ハリドは、しばらく考えた。
「怖かったです」と彼は言った。「マンスールが……いなくなったとき、掟が憎かった。砂が憎かった。でも」
「でも?」
「砂の海は、嘘つきで、冷たくて、でも……正直でもあった。町では、みんな、掟を破っても、口先でごまかせた。でも砂の海では、掟を破れば、死ぬ。それはたしかに、冷たい。でも、はっきりしている。ごまかしがない。それが……僕は、嫌いじゃないと、思いました」
イドリースは笑った。「おまえは、砂の海に選ばれた者だ。町の者は、砂の海を憎むだけだ。だが、砂の海を嫌いじゃないと言える者は、少ない。おまえは、また砂の海へ戻ってくる。何度も、何度も。そして、いつか、砂に何かをなくす。そのなくしたものを探して、また戻ってくる。そういう者だ、おまえは」
彼は懐から、二つの片方だけの手袋を取り出した。自分の古い手袋と、マンスールの手袋。二つとも、右手のものだった。
「見ろ」と彼は言った。「どちらも右手だ。対にはならん。砂の海が残すのは、いつも片方だけだ。だが、な——」
彼は、その二つの手袋を、並べて砂のうえに置いた。
「片方だけの手袋を、二つ並べると、なくした二つの左手を、思い出す。おれの左手と、マンスールの左手を。おれたちは、なくしたものを、なくしたまま、抱えて生きる。それが、隊商だ。なくしたものの重さが、おれたちを、地に繋ぎとめている。なくしたものがなければ、おれたちは、ミラのように、どこまでも飛んでいってしまう」
彼は空を見あげた。ミラが、南の低い空に、かすかに残っていた。もう、尾は短くなっていた。彗星は、まもなく空を渡り終える。
「あの星には、なくしたものがないのかもしれん」とイドリースは呟いた。「だから、あんなに自由で、あんなに孤独なのだ」
七日目・朝
夜明け前、ハリドは井戸の水を思い出しながら目覚めた。
砂漠がいちばん青くなる刻だった。あの、最初の朝と同じ青。彼は身を起こし、東の空を見た。乳色の滲みが、地平から昇りはじめていた。そしてその滲みのなかに、ミラの尾が、あった。
だが、それはもう、絹の切れ端よりも薄かった。夜明けの光に溶けて、いまにも消えようとしていた。青白い尾は、南の地平——サマルカの方角へ、まっすぐに垂れていた。まるで、最後に、道を指し示すように。
「見ておけ」とヤクブの声がした。頭は、いつのまにか、ハリドの隣に立っていた。「ミラは、今朝、空を渡り終える。この季節が終わる。次にミラが来るのは、一年後だ。その一年のあいだ、隊商は、別の星を頼りに歩く。だが、ミラの季節ほど、確かな旅はない。おまえは、いい季節に、旅を始めた」
昇る陽が、地平を金色に染めた。棗椰子の林が、その金色のなかで、はっきりと姿を現した。市の喧噪が、風に乗って、かすかに届きはじめた。人の声。駱駝の鈴。鍛冶の槌の音。水を汲む音。町が、目覚めていた。
そして、ミラが、消えた。
昇りきった陽のなかに、青白い尾は溶けて、跡形もなくなった。だが、ハリドは、母の歌の続きを覚えていた。
星は、必ず、帰ってくる。
「発つぞ」とヤクブが号令をかけた。「最後の一里だ。緑洲まで、駆けるぞ」
駱駝たちが立ちあがった。荷が軋み、鈴が鳴った。だが、今朝の鈴の音は、出立の朝とは違って聞こえた。あのときは、未知への怖れが鳴っていた。いまは、たどり着く喜びが鳴っていた。
ハリドは、三頭の綱をまとめた。ザフラが、首を振り、だが、もう唾は吐かなかった。彼女もまた、緑洲の匂いを嗅いで、逸っていた。
隊列は、朝陽のなかを、緑洲へ向かって駆けた。砂丘を下り、また登り、下った。棗椰子の林が、近づいてきた。町の輪郭が、はっきりしてきた。市の喧噪が、大きくなった。子供たちが、隊商を見つけて、駆け寄ってきた。水売りが、桶を担いで走ってきた。
そして——ハリドは、緑洲の井戸を見つけた。
サマルカの井戸。緑洲の中心に、深く掘られた井戸。その縁で、女たちが、桶を上げ下げしていた。桶が落ちていく音。水を打つ音。綱がきしむ音。あの、三つの音。ハリドの生まれ育った緑洲と、同じ音。
彼は、駱駝を止め、井戸へ歩み寄った。
「水を、飲んでもいいですか」と彼は、井戸の女に尋ねた。
女は、微笑んで、桶を差し出した。ハリドは、掌で水を掬い、口に含んだ。
鉄と、土の味。そして——蜜のような、後味。
「甘い」とハリドは呟いた。涙が、頬を伝った。理由は、自分でもわからなかった。「ここの水も、甘い」
イドリースが、彼の肩に手を置いた。片方だけ手袋をした、あの手だった。
「そうだ」とイドリースは言った。「緑洲の水は、どこも甘い。人が、甘い水のあるところに、町を築くからだ。おまえは、ひとつの緑洲を発って、別の緑洲に着いた。それが、旅だ。甘い水から、甘い水へ。そのあいだに、砂の海がある。砂の海は、甘くない。だが、砂の海を渡らなければ、次の甘い水には、たどり着けない」
ハリドは、もう一度、水を飲んだ。舌が、二つの緑洲の甘さを、覚えた。生まれた緑洲の甘さと、たどり着いた緑洲の甘さ。彼は、もう、迷わないだろう。舌が、二つの甘さを覚えている限り。
市が、開かれた。棗椰子の実が、無花果が、藍の反物が、次々と荷から下ろされた。人々が集まり、値を交わし、笑い、諍った。名前のない女は、布を巻いたまま、市の雑踏に紛れていった。ここでは、誰も、彼女の顔を知らない。ここでは、彼女は、生まれ直せる。砂の海が、そうしてくれた。
ヤクブは、駱駝の背から荷を下ろしながら、南の空を見あげた。ミラは、もういなかった。だが、頭の目は、まるでまだそこに彗星が見えているかのように、細められていた。
「頭」とハリドは声をかけた。「帰りも、ミラが道を教えてくれますか」
ヤクブは首を振った。「ミラは、渡り終えた。帰りは、別の星を頼る。だが——」
彼は、懐から、あの藍色のマッチ箱を取り出した。三日月の刻印が、朝陽のなかで、鈍く光った。彼は、その箱を、ハリドの掌に載せた。
「持っていけ」と彼は言った。
「え……これは、頭の……」
「火は、旅の命だ。おまえは、もう、隊商の一員だ。次の旅からは、おまえも、火を守る者になる。この月光堂のマッチは、砂の海でも湿気らん。一本擦れば、青い火が咲く。ミラの色の火だ。ミラが空にいないときも、この火が、おまえに、彗星を思い出させてくれる」
ハリドは、マッチ箱を、両手で握りしめた。藍色の箱は、掌のなかで、まだ夜の冷たさを、かすかに留めていた。
「大切にします」と彼は言った。
「大切にするな」とヤクブは笑った。「使え。火は、使うためにある。惜しめば、暗闇のなかで死ぬ。惜しまず擦れ。青い火を、砂の海に灯せ。それが、次の隊商への、道しるべになる」
その日の夕暮れ、市が閉じられたあと、ハリドは一人、緑洲の外れへ出た。
砂の海が、また、夕陽のなかで凍った波のように広がっていた。彼が渡ってきた海。七日をかけて、渡ってきた海。マンスールが、そのどこかに、眠っている海。
ハリドは、懐から、月光堂のマッチ箱を取り出した。藍色の箱。三日月の刻印。彼は、蓋を開け、一本を取り出し、箱の脇で擦った。
ぱっ、と青白い炎が、咲いた。
ミラの色の火だった。夕暮れの薄闇のなかで、その青い炎は、まるで小さな彗星のように、揺らめいた。ハリドは、その炎を、しばらく見つめた。それから、砂の海に向かって、掲げた。
「マンスール」と彼は呼んだ。「はぐれたお前を、隊商は捜さなかった。掟だから。でも、僕は、この火を、灯す。お前が、もし、まだ、砂の海のどこかを、さまよっているなら——この火を、見ろ。この青い火を。ミラの色の火を。道しるべに、しろ」
炎は、風に揺れ、だが、消えなかった。月光堂のマッチは、砂の海の風にも、湿気にも、負けなかった。
ハリドは、母の子守唄を、口ずさんだ。今度は、続きまで、すべて。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、夜が朝になるまで。
朝が来たなら、星は消え、
けれど、また夜が来たなら、
星は、必ず、帰ってくる。
炎が、指を焼きそうになって、ハリドは、それを砂に落とした。青い火は、砂のうえで、しばらく燃え、それから、静かに、消えた。
だが、東の空には、もう、宵の明星が、瞬きはじめていた。夜が、来る。夜が来れば、また、星が、空を渡る。ミラは、いまは沈んだが、一年後には、必ず、帰ってくる。
ハリドは、立ちあがった。掌のなかの、藍色のマッチ箱を、もう一度、握りしめた。それから、緑洲の井戸のほうへ、歩き出した。甘い水の待つ、町のほうへ。
彼は、もう、若い駱駝曳きではなかった。彼は、砂の海を、渡った者だった。そして、また、渡るだろう。何度も、何度も。甘い水から、甘い水へ。片方だけの手袋を増やしながら。青い火を、灯しながら。ミラの、帰りを、待ちながら。
砂の海は、何も覚えない。人の足あとを、罪を、死を、風がひと吹きすれば、消してしまう。だが、渡った者の舌は、覚えている。緑洲の水の、甘さを。そして、渡った者の掌は、覚えている。青いマッチ箱の、夜の冷たさを。
朝が来れば、彗星は消える。だが、水を汲む音は、いつまでも、緑洲に響いている。桶が落ちる音。水を打つ音。綱がきしむ音。人が、生きて、水を汲む、その音が。
——ハリドは、その音に向かって、歩いていった。